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【杉田 水脈・田北 真樹子・櫻井 よしこ】 テレ朝女性記者の上司の亭主も朝日新聞テレ朝女性記者が取材に無断で隠し録音した財務次官のセクハラ問題で、そのセクハラされたとする女性記者の上司が女性で松原文枝氏とのこと。 そして、女性上司の亭主が朝日新聞政治部との内容です。 これまでにも朝日新聞が手段を選ばないことから考えた場合、倒閣を意図的に企てた可能性は払拭できません。 朝日だからな・・・。 セクハラがわかっていながら女性上司が交代させなかったのには理由があるのか? 録音していることを知らせたらセクハラ発言を防げたのでないか? 朝日が手を汚さずに新潮にリークして・・ありえる話。【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/29

マニラにフィリピンの華人団体が建てた『慰安婦を象徴する女性像』をフィリピン政府が撤去した記事です。【記事】2018.4.28 10:53 フィリピンの華人団体などが首都マニラに昨年12月に設置した、日本軍占領下(1942~45年)の慰安婦を象徴するという女性像が、台座ごと撤去されたことが28日、分かった。 マニラの日本大使館によると、フィリピン政府が27日、女性像を撤去すると同大使館に連絡した・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/28

左派系野党と左派系マスゴミが印象操作ばかりに明け暮れて、保守系政治家以外はオサボリか・・。 怠け者の税金泥棒は【政治家ではない 『政治屋』と呼ぶんです。】 真に国益を損ねているのは怠け者の野党の政治屋たちです。 どんな方々が投票したんや? 情報弱者や或いは、ご都合主義の者達って処でしょうかね。【記事】2018.4.27 野党6党の「職場放棄」が続いている。衆院予算委員会は26日午前、安倍晋三首相が出席し、外交などをテーマに集中審議を開催したが、日本維新の会以外の野党は、一連の不祥事への安倍政権の対応に反発して、欠席したのだ。一般国民が・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/27

トランプ政権が『日本海』に韓国人が請願する『東海』公式併記を却下! 、、、チョッパリ(日本人)よく聞け〜! ウリらは諦めないニダ〜ってか? 【ココからは、ちょっと話は脱線します。】日本人は姿形こそ『中国・朝鮮・韓国』と似ているけど、ちょっと違うらしい。 人類が誕生して割と古いハプログループ(A〜Tの内)で、日本人はDとのこと。 このハプログループDは縄文人の歯から解読済。 中国人や朝鮮・韓国人は人類誕生後から比較的新しいハプログループOとのこと。九州では縄文遺跡から炭化米も発見されている。 イスラエル(古代ユダヤの民)はハプログループEとのことで、男子だけが父親から受け継がれるY染色体に、YAP(ヤップ)遺伝子が、DE分岐でDとEの双方に組み込まれていて、現在、日本人の40%程存在らしい。 さらに日本に古代ユダヤ人が存在した痕跡が数多くあるのだ。 天皇家に伝わる三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ) の裏にヘブライ語が記されているらしいのだが、真実なのか見てみたいな? お祭りの「ワッショイ」もヘブライ語で『運ぶ』の意味とか。 さて、かなり話が脱線したけど〜♪ 【記事】2018.4.26 07:12 米国の韓国系住民らが米政府の公式文書や地図で「日本海」表記に加え韓国側表記「東海」を併記するよう求める請願をホワイトハウスに出していた問題でトランプ政権が請願を却下していたことが分かった・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/26

燃え尽きるまで安倍晋三首相は『今できることを後悔しないようにやっておかねば』と、そんな心情で天命とわかっているだろう。 安倍晋三の姓名は必ずしも良いとは言えないが、歴代の天下筋が持つアイウエオの五行音が入っている。 三日天下では終わらないのだ。 安倍政権が続く理由がこれ。 それと安倍晋三に与えられた天命だってことです。 副運格は9画で苦を暗示しているが苦は神に通じる。 イケイケドンドンこいけや〜ポテトチップス♪【記事】2018.4.25 安倍晋三首相は24日、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と電話で会談し、27日の南北首脳会談で北朝鮮による日本人拉致問題を取り上げるよう要請した。文氏は・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/25

テレ朝の所謂、セクハラ被害者とされている女性記者は『進 優子』と判明した動画です。 無断で隠し録音する卑劣な手法はいかがなものか? 最初から録音して取材していることを知らせていれば防げたと思われます。 こんな卑劣なハニートラップ的取材方法は、週刊新潮にリークしたことで陥れる目的があったと疑われても当然です。 (これがテレ朝の筋書きだったのか?)所謂、セクハラ被害者の女性記者が『進 優子』と判明した瞬間の動画です。セクハラ疑惑の経緯の動画。【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/20

テレ朝の所謂、セクハラ被害者とされている女性記者は『進 優子』と判明した動画です。 無断で隠し録音する卑劣な手法はいかがなものか? 最初から録音して取材していることを知らせていれば防げたと思われます。 こんな卑劣なハニートラップ的取材方法は、週刊新潮にリークしたことで陥れる目的があったと疑われても当然です。 (テレ朝の筋書きだったのか?)所謂、セクハラ被害者の女性記者が『進 優子』と判明した瞬間の動画です。セクハラ疑惑の経緯の動画。【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/20

財務次官のセクハラ疑惑の件で被害者側とされる音声が編集で切り貼りした理由が判明。 テレ朝女性記者が、1年半前から財務次官には無断で隠して録音していたとのことです。 でもね? これってよく考えるとハニートラップとかでないのか? 録音していることを知らせて取材できないものなのか? 女性記者の音声を加工してもいいから会話のやりとりを出さないと判断できません。 それと1年半前前後から上司が知っているなら、担当記者を換えれば済むのにおかしいよ? テレ朝(女性記者)が意図的に仕組んだとも考えられるし、、。【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/19

財務次官のセクハラ疑惑の件で被害者側とされる音声が編集で切り貼りした理由が判明。 テレ朝女性記者が、1年半前から財務次官には無断で隠して録音していたとのことです。 でもね? これってよく考えるとハニートラップとかでないのか? 録音していることを知らせて取材できないものなのか? 女性記者の音声を加工してもいいから会話のやりとりを出さないと判断できません。 それと1年半前前後から上司が知っているなら、担当記者を換えれば済むのにおかしいよ? テレ朝(女性記者)が意図的に仕組んだとも考えられるし、、、。【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/19

民衆個々の欲望を満たす完璧な政策や政権を期待する方が我儘ってもので妥協することも必要です。 仮に10の内の何割かでも国益に繋げていくことができて、さらに国益を生み、積み上げていくことができるのは現在、自民党を筆頭にした保守政党しかできないこと。 売国野党は国益を損ねることしか考えず、それ以前に政権運営もできないだろうし、最近の印象操作ばかりで政権批判に明け暮れるだけの野党では国内を混乱に貶めるだけです。 賢い国民ならそれを知っています。 では本題ですが拉致問題で安倍首相が動きました。【記事】2018.4.18 安倍晋三首相と、ドナルド・トランプ米大統領による日米首脳会談が17日(日本時間18日未明)に行われた。トランプ氏は、6月初めまでに開催予定の米朝首脳会談で、日本人拉致問題を取り上げる意向を明確に示した。開催場所は現在、5カ所が検討されているという・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/18

【本日19日補足します。】被害者とされるのはテレ朝の女性記者と判明。 1年半前から無断で隠し録音したとのことです。それって、卑劣な取材方法でハニートラップにならないのかな? 詳しくは19日のブログに更新して動画も貼ってあります。-----以下18日の動画----------以下は昨日の日記-----今かじりかけで日記にしてよいのか迷ったけど。 財務次官のセクハラ疑惑で女性の音声部分がテロップ?、、って何故? だって音声なんか変えられるのに、、。 テロップなら編集でどうにでも捏造が可能だろう〜。 例えば、、酒の席で店の女性にスケベ心から口説いた時のを意図的に録音されたってこともありうるし。 それと、その女性が記者だっていうことだから、何故自分で記事にしないんだ? 何故に週刊新潮? なにか変だよ、おっかさん〜(爆【記事】 麻生太郎財務相は17日午前の記者会見で、「週刊新潮」で女性記者へのセクハラ疑惑が報じられた福田淳一事務次官について「相手(被害を受けた女性記者)の声が出てこなければ、どうしようもない」と述べ、女性記者が名乗り出ない限りセクハラの事実は証明できないとの認識を示した。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/18

【補足】【本日19日補足します。】被害者とされるのはテレ朝の女性記者と判明。 1年半前から無断で隠し録音したとのことです。それって、卑劣な取材方法でハニートラップにならないのかな? 詳しくは19日のブログに更新して動画も貼ってあります。-----以下18日の動画----------以下は昨日の日記-----今かじりかけで日記にしてよいのか迷ったけど。 財務次官のセクハラ疑惑で女性の音声部分がテロップ?、、って何故? だって音声なんか変えられるのに、、。 テロップなら編集でどうにでも捏造が可能だろう〜。 例えば、、酒の席で店の女性にスケベ心から口説いた時のを意図的に録音されたってこともありうるし。 それと、その女性が記者だっていうことだから、何故自分で記事にしないんだ? 何故に週刊新潮? なにか変だよ、おっかさん〜(爆【記事】 麻生太郎財務相は17日午前の記者会見で、「週刊新潮」で女性記者へのセクハラ疑惑が報じられた福田淳一事務次官について「相手(被害を受けた女性記者)の声が出てこなければ、どうしようもない」と述べ、女性記者が名乗り出ない限りセクハラの事実は証明できないとの認識を示した。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/18

今かじりかけで日記にしてよいのか迷ったけど。 財務次官のセクハラ疑惑で女性の音声部分がテロップ?、、って何故? だって音声なんか変えられるのに、、。 テロップなら編集でどうにでも捏造が可能だろう〜。 例えば、、酒の席で店の女性にスケベ心から口説いた時のを意図的に録音されたってこともありうるし。 それと、その女性が記者だっていうことだから、何故自分で記事にしないんだ? 何故に週刊新潮? なにか変だよ、おっかさん〜(爆【記事】 麻生太郎財務相は17日午前の記者会見で、「週刊新潮」で女性記者へのセクハラ疑惑が報じられた福田淳一事務次官について「相手(被害を受けた女性記者)の声が出てこなければ、どうしようもない」と述べ、女性記者が名乗り出ない限りセクハラの事実は証明できないとの認識を示した。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/17

テロ紙の朝日新聞が証拠を出せなかったわけです。 本来の性格が気が小さく我儘な佐川氏が正確性を欠いた自分の国会答弁が後に近畿財務局の文書では誤解を受けると考えて保身から独断で文書を書き換え指示したと思われますが、文書の趣旨が変わっていないため、特捜部は虚偽公文書作成などの容疑で刑事責任を問うことは困難との見方を強めているという。 8億円値引きに関する背任容疑での立件も困難な状況とされている。・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/17

テロ紙の朝日新聞が証拠を出せなかったわけです。 本来の性格が気が小さく我儘な佐川氏が正確性を欠いた自分の国会答弁が後に近畿財務局の文書では誤解を受けると考えて保身から独断で文書を書き換え指示したと思われますが、文書の趣旨が変わっていないため、特捜部は虚偽公文書作成などの容疑で刑事責任を問うことは困難との見方を強めているという。 8億円値引きに関する背任容疑での立件も困難な状況とされている。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/17

「『バカバカしい』の一言だ。 愛媛県が作成したメモ(備忘録)が本当だとしても、『それが何なの?』と思う。(『反安倍』勢力などによる)『最後のあがき』ではないか」国家戦略特区での獣医学部新設を「ゆがめられた行政がただされた」と評価してきた加戸氏は、左派メディアによる加計問題報道の過熱ぶりに不快感をあらわにした・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/12

大阪地検の女性特捜部長か、、 この話が本当なら、リークがバレたら済むわけないだろうし、そこが女性か? そして江田憲司、、人運格は21画で統領運だけど外格が12画▲(サンズイは4画で一人よがりで孤立の暗示)他にも小池百合子も外格が12画で同じ。 【記事】2018.4.11 学校法人「森友学園」と「加計学園」の問題が再燃してきた。森友学園では、国有地売却をめぐり、8億円値引きの根拠となったゴミ撤去費用に関し、財務省が学園側に口裏合わせを依頼していたことが発覚。加計学園では、愛媛県が「ない」としていた獣医学部新設に関連する文書を残していたことが分かった。野党や一部メディアの追及激化は必至だ。こうしたなか、市民や市民団体などが、森友問題のキーマンらを刑事告発している。佐川宣寿(のぶひさ)前国税庁長官だけでなく、何と「違法なリーク」に関わった疑いがあるとして、大阪地検の女性特捜部長や、民進党前代表代行の江田憲司衆院議員まで対象になった。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/11

立憲民主党の山尾志桜里はガソリーヌやパコリーヌの代名詞だけでは終わりそうにない。 歓楽街での駐車場代が、2012年の1年間に440件超もあることを夕刊フジが領収書を入手して分析した。 この山尾志桜里は半端ない地球5周分のガソリン疑惑や不倫疑惑に、今回の2012年の440件超えの駐車場代と叩けば埃が次から次へと出てくる。 絞り上げて説明させにゃ〜いけんのと違うか? 【記事】2018.4.5 立憲民主党の山尾志桜里衆院議員が代表を務めた民主党愛知県第7区総支部に、政治資金の「駐車場代疑惑」が浮上した。山尾氏の選挙区(尾張旭市など)から離れた、日本有数の歓楽街、名古屋「錦」や「栄」などの駐車場を、夜間から未明にかけて使用した領収書が多数計上されていたのだ。同支部では以前、ガソリン代をめぐる問題が取り沙汰されたが、ネオン輝く盛り場で、どんな政治活動をしていたのか・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/07

【追記】 陸自研究本部(現教育訓練研究本部)が昨年3月に発見していたにもかかわらず、当時の稲田朋美防衛相や政務三役、統合幕僚監部、内部部局などに報告していなかったことが明らかになった。つまり、、陸自研究本部(現教育訓練研究本部)が意図的に隠蔽?当時の稲田失脚や倒閣が目的とか、衝突か戦闘だとかの問題か?日報は陸自研究本部(現教育訓練研究本部)に「教訓業務各種資料」という行政文書名で、外付けハードディスクに電子データとして保存していた。 防衛省は「イラクと結び付かなかった」ため発見できず、隠蔽ではないと主張する。 安倍首相は検索で簡単に見つかるようにシステム改善を下命した。【記事】2018.4.4 安倍晋三政権が、またも「逆風」にさらされそうだ。政府が過去の国会答弁で「存在しない」と回答してきた、陸上自衛隊のイラク派遣部隊の日報が見つかったのだ。防衛省が2日、公表した。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/04

民主党政権時に辻元清美が関わった疑惑があると噂される森友学園の隣の土地(野田中央公園)は、14億2千万円の内、14億円もの補助金などで、差し引き2000万円のタダ同然で豊中市に利益供与した疑いが広まっている。 森友の土地より優遇されているのか?他にも辻元清美が森友学園に3日間だけ送り込んだ作業員(工作員・スパイ)がテレビでのインタビューに応じたり、その作業員? 社長?(関西生コン)が謎の変死もしているとか・・気持ち悪い話だ。(詳細情報を収集中)辻元清美と関西生コンで検索すると情報が得られと思います。【動画】辻元清美がマスメディアによって報道されない理由【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 日本を絞めつけても話し合いに応じません。そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2018/04/03
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