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元朝日記者(植村隆)の拙い当時の記事が在りもしなかった所謂、慰安婦強制連行をさも在ったかの誤解を広めておきながら、さらに今も反省無く、逆に「名誉毀損」などど自己保身ばかり。まずは日本国民に謝罪をするべきではないのか・・。【記事】2019年06月26日16時05分元朝日新聞記者の植村隆氏が、自身の従軍慰安婦に関する記事について「内容は捏造(ねつぞう)」などと書かれ、名誉を毀損(きそん)されたとして、西岡力・麗澤大客員教授と文芸春秋に計2750万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が26日、東京地裁であり、原克也裁判長(大浜寿美裁判長代読)は請求を棄却した。・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成30年北海道胆振東部地震災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成30年7月豪雨災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2019/06/26

歴史を例にして間違った捉え方をする原因を鋭く解説していますが歴史に限らず、昨今の報道においても同じことがいえます。(とくに朝日には誤解させて煽る内容が見られる。)【146回 嘘をつかなくとも人を騙すことはできる ~インドネシア独立戦争~】【日本赤十字社 平成30年北海道胆振東部地震災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成30年7月豪雨災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2019/06/21

日本軍による所謂、慰安婦の【強制連行】は捏造で、当時、ピー(売春婦とか娼婦の意味の別称)と呼ばれていた所謂慰安婦は民間運営によるもので合法でしたが、ベトナム戦争での韓国軍兵によるライダイハン(性暴力で生まれた混血児たち)の問題は歴史上の事実。韓国政府は謝罪と責任をとれ~!!!【記事】2019.6.12ベトナム戦争に派兵された韓国軍兵士による現地女性への性的暴行などで生まれた「ライダイハン」と呼ばれる混血児の悲劇が、国際問題となってきた。英国の民間団体「ライダイハンのための正義」が11日、ロンドンで開く集会で「ライダイハン像」を披露するうえ、混血児たちが韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領に対し、国連人権委員会の調査と親子関係を確定するDNA型鑑定に応じ、公式謝罪を求める公開書簡を出したのだ・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成30年北海道胆振東部地震災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成30年7月豪雨災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2019/06/12

トランプ大統領の後ろ盾がある内は中共は台湾に何もできまい。台湾には本当の意味で独立してほしいわ。ただ複雑で・・(台湾が中国から独立と言う事は台湾が中国領であることを認めることになるからできない。)それが叶わないなら、モナコのように「保護国」って手もある。台湾人なら歓迎するわ。韓国は恩を仇で返すが台湾人の素養の高さは日本人と同等、或いは日本以上でないだろうか。優柔不断な韓国なんてお話になりませんわ。こっち見るな韓国(笑 アッカンベー(爆【記事】2019.6.8ドナルド・トランプ米政権が、中国の「台湾統一」を断固阻止する姿勢を明確にした。主力戦車108両や、地対空ミサイル250発など、総額20億ドル(約2167億円)以上を売却する見通しと報じられたのだ。米中新冷戦が顕在化するなか、共産党独裁の中国・習近平政権は、台湾に「一国二制度」を呼びかける一方、軍事的圧力を強めている。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成30年北海道胆振東部地震災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成30年7月豪雨災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2019/06/09

この岩屋毅防衛相は駄々っ子(韓国)に結果的に折れてしまった。これは「韓国の駄々は日本に通用する」と認めたようなものです。未来志向は結構だが時期尚早過ぎる。もっと韓国側を後悔、反省させてからの方が長い目で日韓関係を考えた場合によかったのではないか? これでは今後も甘やかすだけで何にもならんわ。・・・【記事】2019.6.7韓国への融和姿勢で批判を浴びている岩屋毅防衛相が、開き直った。韓国海軍駆逐艦による海上自衛隊哨戒機へのレーダー照射事件の決着を付けないまま、韓国の鄭景斗(チョン・ギョンドゥ)国防相と非公式会談を行い、笑顔で握手を交わしたことを「正当化」するような発言を行ったのだ。国民の怒りを全く理解していないようだ。「会うときも別れるときも、気持ち良くというのが私のモットーなので、全く問題はなかった」岩屋氏は7日の記者会見で、こう述べた。レーダー照射事件で・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成30年北海道胆振東部地震災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成30年7月豪雨災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2019/06/08

山尾志桜里(立憲民主党)が米国へ無断渡航していた問題で山尾と同行した不倫の噂があった倉持弁護士が「プライベート」で渡航したと洩らしていたと言うのだ! 山尾の「経済視察(政治活動)」と倉持弁護士の「プライベート」では話に食い違いがあり。 ガソリーヌこと山尾志桜里(立憲民主党)に綻びがまた出たかな?【記事】2019.6.3立憲民主党の山尾志桜里衆院議員(44)が大型連休中、国会で定められた手続きを経ずに「無断で米国渡航」していた問題をめぐり、爆弾証言が得られた。元自民党衆院議員の宮崎謙介氏が、山尾氏の米国行きに同行した弁護士の倉持麟太郎氏(36)とテレビ番組で共演した際、倉持氏から「プライベートで米国に行っていた」と直接聞いたというのだ。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成30年北海道胆振東部地震災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成30年7月豪雨災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2019/06/03

普段から思うことがある。 韓国人はプライドは高いが韓国人に欠けている物は誇りではないだろうか・・。 プライドも誇りも同じようだが何か違うような気がする。 プライドは面子と言うか自尊心に近い物ではないだろうか・・。時に自尊心は傷つき・折れたり・失ったりするけど、誇りは培った物として残る。 今回、またまた誇りから縁遠い馬鹿チョン丸出しで素養の低さが露呈した内容の記事です。【記事】5/31(金) 12:38配信中国『新浪体育』が優勝トロフィーを踏みつけるなどの行為を行ったU-18韓国代表を批判するとともに、日本との比較についても言及している。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成30年北海道胆振東部地震災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成30年7月豪雨災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、苦労の甲斐あって採決で、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とオランダとアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜け、ブロック経済政策の影響もあって、三国同盟(日独伊)を結びます。 しかし、それを脅威としたアメリカが、さらに日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしました。 資源が少ない日本には大変な死活問題です。 さらに最後通牒(ハルノート)で日本を絞めつけて話し合いに応じません。やむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していくのです。1941年12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始。 欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■大東亜戦争はブロック経済政策や連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でもありました。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2019/06/01
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