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フィリピンで仕事していて、教師やスタッフが空き時間に皆夢中で携帯をいじっているのを毎日見ている。昔、携帯がなかったころはどうやって空き時間を過ごしていたのか想像がつかなくなっている。僅か数年で、人間の行動様式がここまで変化するとは。それでも、この国はおしゃべりが大好きで陽気な人が多いから救いはある。いつも笑いが絶えない。どんなに貧しくてもそれを気にしないで明るくやっていく人が本当にたくさんだ。日本はどうなのだろうか。他人と面と向かってのコミュニケーションができないか、非常に難しい人が増えてきている。特に若い人にそういう人が多くなってきているらしい。コンピューターゲームなどでには集中するエネルギーはあるのに。オランダ系の連れ合いがTARGET Global English Academyに来てから2週間がたった。この私たちがやっているセブの英語学校には、毎週のように新しい学生さんが入ってこられる。短い人は、会社の休みを利用して来られるからほんの1、2週間の学習となる。そんな中、全くといっていいほど笑顔が出てこない人がいる。いつも真顔だ。ジョークを言っても真顔だ。そんな人を見ると、連れ合いは大きな声で「Smile !!!!」と叫んでいる。私が言っても始らないが、オーストラリア人の連れ合いが言うと非常に効果がある。もっとも、連れ合い自身が笑顔全開の人だからということもある。オーストラリア人でも真顔が多い人も当然いる。この連れ合いがいるだけで、学校の雰囲気が変わってくる。できるなら、こちらにずっといて欲しいと願ったりもしている。もっとも、24時間一緒だと、ついつい自分のスペースが欲しくもなってくるが、、、。人生は、何事もいろいろなバランスだ。調整を取りながらやっていくのがいいようだ。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年09月24日
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私の62年の人生の中で、絶対に物を捨てない人に2人出会ってきた。1人は、3年前に88歳で他界した元警察官の父。何でも捨てずにため込んでおく。他界してから、残された物の処理が大変だった。因みに、中学生の頃だったか拾ってきたエロ写真本をゴミ箱に捨ててしまったことがあった。父にえらく怒られた。しばらくして様子をみていると、父が風呂焚きに一枚一枚検閲しながらくべているのが見えた。さすが警察官、律義な性格だったことを覚えている。もう一人は、今私が滞在しているセブに間もなくやってくるオランダ系の連れ合いだ。薄汚れた服、壊れた電気製品でも私が捨てようとすると止められる。お蔭で、物置はこれらでいっぱいだ。オーストラリア、メルボルンには28年住んでいるが、半年に1度粗大ごみの収拾がある。先日、連れ合いから写真が送られてきて愕然とした。私が、今まで捨てられずにとっておいた物が、見事に外に陳列されているではないか。「あなたがやったら絶対にダメだというわ。だから、私がやったのよ。」連れ合いの心境に大きな変化が起きたようだ。何かあったのだろうか。それとも私も一緒の運命にある、ということの暗示だろうか。来週、1か月の予定で連れ合いがセブにやって来る。何か言い渡されるのかと戦々恐々としている毎日である、、、、、毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年09月04日
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瞬間湯沸かし器と揶揄されるほど短気で生きてきている。年を取れば少しはよくなるのかと思っていたが、期待外れに終わっている。家系だからなのだろうが、決して良しとはしてない。いろいろと改善策を実施している。笑いながらは怒れない、ということを聞いてやってみたが、これは結構あたっている。だが、いつも笑っている必要がある。何か、嫌な物事に直面したときまず笑わないとならない。結構な技術が必要だろう。また、いつも笑っていると何かと勘違いされることもある。恋してるんでしょう、なんて言われてドキッとしてしまうこともある。「スキップするといいですよ。スキップしながらは怒れません。」早朝ウォーキングで時々スキップする。確かに楽しい気分になれる。幼稚園の頃、一緒にスキップしていた真理子ちゃんなんかも思い出す。但し、これは会社などでは、社長気がふれた?状態になってしまって二の足を踏みそうだ。実は、メルボルン、東村山、セブでの早朝ウォーキングにスキップを入れるのはやや勇気もいるがやっている。あまり想像しないでほしいが。8月1日から今年3度目の長期出張でセブ入りしている。この国の人は笑顔がいい。裕福な人より貧しい人たちの方がよく笑っているようにも見える。いつも通る道で、いつ行っても小さな子供をだっこしてあやしている30歳くらいのお父さんがいる。朝でも夕方でもそうやってあやしている。親子のスキンシップ度はこの国は世界のトップレベルではないだろうか。そしていつもこのお父さん笑顔だ。小さな子供が多い環境では、自然と子供と一緒に笑顔になれるのかもしれない。何しろ、子供の数が半端じゃない。そう思ってセブで回りを見まわしてみると、職場では圧倒的に20代の女性が多く、一歩外へ出ると子供たちの明るい笑い声がいたる所から聞こえてくる。私は子がない、というとあるフィリピン人のスタッフが、自分たちを皆子供のように思えばいい、と言ってきた。いきなり80人の子供ができてしまった。大いに笑える環境に身を置いているようではある。とすると、私はこれから、壊れた瞬間湯沸かし器とか言われる日がくるのかもしれないと期待できそうだ。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学
2014年08月06日
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垂れてよくないものは、洟でも長い口上でも、はたまたヒップでも、枚挙に暇がない。日本で一番垂れているのはと思って見回してみると、どうやら口角のようだ。特に中高年男性の口角は大きく「へ」の字に垂れている。簡単に言えば、日本では怖い顔をして歩いている人がとても多いということ。ヒップの垂れなどは、まあまあ我慢ができるとしてこの口角はなんとかならんものだろうか。ところが、重力の法則だろうか放っておくと口角もどんどん垂れてくるようだ。無理をしてあげる筋肉運動をしないとならない。一番いいのは常に笑っていることだが、街中で続けていると勘違いされること間違いない。「このやろう!」と思わず言ってしまいたくなった。池袋駅の地下街で、思いっきり私の前を横切ってバックをあてて歩き去った中年の女性がいた。地下街はストレス満載の活気のある所。これじゃ、笑ってなどいられない。それでも、「口角」「口角」と独り言ちしながら歩いた。笑顔ではなく、モナリザの微笑み程度で。これもこれで、ちと薄気味悪いかもしれないが、、、、。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年06月29日
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朝のテレビのワイドショーをよく母と一緒に見た。33歳でオーストラリアに永住権を求めて1985年6月に両親の住む東村山を後にした。1年以上オーストラリアのメルボルンに滞在し、やっとのこと永住権を申請することができ、日本に帰って結果を待っている半年間の間のことだった。宮尾すすむさんの「ああ日本の社長」という番組は二人の好きな番組でもあった。ビックカメラの社長の話しなど、今も覚えている。「大学まで出て、そこそこの会社に入って、辞めてお母さんと朝からテレビ見てるって、どっかおかしいと思わないかね。」可なり応えた母の一言だった。この社長シリーズでは、若いころにいろいろ苦労して社長になった方々の話が多かったように思う。宮尾さんの語り可笑しくて二人で笑い転げながらも、私は、この時は心から笑うことはできないでいた。「悔しかったら、お前もああなってお母さんを安心させてよ。」オーストラリアに行って、まずカフェで皿洗いをした。そして、日本食レストランでも皿洗いをした。テレビで見た、皿洗いから始めて社長になった人たちのことを思い出した。しかし、皿洗いをしていて皆が社長になれるなら、それこそ世の中社長だらけになる。日本食レストランでは粉にまみれて天ぷらも揚げていたが、どうにもカラッと揚がらない。180度の温度調節が難しい。ベテランのシェフに、目の前で私が揚げた天ぷらを全部捨てられたこともあった。慣れない包丁で指を切った。料理なんか小学校の家庭科の授業以来ほとんどしたことがなかった私が、日本食レストランで働いている。だが、こうしたすったもんだの甲斐あって、なんとか永住権を取得して1987年3月に再びオーストラリア入りした。永住してから、すぐ金髪女性と結婚して数年で別れた。その別れた妻の母親に、「あんた、日本に帰った方がいいよ。」と静かに言い切られ、顔から血がすっと引いて上げられなかった。脛は傷だらけで、人の脛も借りないとならない人生だった。しかし、この時日本に帰るわけには絶対にいかなかった。私は、基本的には飽きっぽい人間だが、その中でしつこく追い求めてきたものがいくつかあって、それらに関しては絶対に諦めないで今に至っている。今月の23日に、88歳になる母が1人で住む日本の東村山に一時帰国する。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年06月09日
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ギリシャの大富豪、オナシスが言ったという。「どんなに小さくて貧弱な家でも、名の知れた有名な地域に住め。」どちらかというと富豪に弱い私、メルボルンの田園調布と言われているトゥーラックに住むことにした。ある日、歩いていたら30分間に5台のロールスロイスを見た。人が金持ちなのを自慢しても何も始まらないが。家具付きの一部屋のスタジオタイプで、当時週75ドルだった。隣の部屋には、日本人のワーホリの男女4人が済んでいた。さすがに、そこまではできなかった。1985年10月のことだった。ある朝カーテンを開けると、大きな窓ガラスに黄色い卵の線が太く何本も流れている。小さな殻なんかもひっついていて、朝日に当たって綺麗だ、なんて思ったわけではないが、一瞬、何があったのか飲みこめなかった。投げられて間も無かったら、ちょっときれいに取って、朝食の生卵ぶっかけご飯とかに利用できたのだが、残念ながら固まっていた。拭き取るのが大変だった。トマトなんかにしてくれれば、どんなによかったことか。友人を呼んで夜中に騒いだのが原因だったのだろうか。それから少しして外出から帰ると、住人用の小さな郵便ポストに貼り紙がしてあった。住人の多くが目にしていたことは想像に難くない。「8号室のこの男、次から次へと女を連れ込んでいる酷い奴だ。」褒められているのではないことは分かった。確かに、火のない所になんとやらではあろう。お付き合いさせていただいていた方もいて、部屋ですき焼きなどをご馳走したこともある。しかし、ここまで来ると逆恨みといってもいい。そうこうしている内に、今度は泥棒に入られた。小銭と、大切な方からいただいた腕時計をやられた。私服の警官が1人で来て5分ほどいて帰っていった。その潔さを、実家の東村山に住んでいた、警察官の父に報告したいくらいだった。殺人でも犯さないと、まともに扱ってもらえないのだろうか。富豪のいう事なんか聞いてろくな事はない。このアパートから、毎日歩いて片道30分ある日本食レストランまで通っていた。そこで、あるアルバイトをしていた。トラムと呼ばれる路面電車に乗って行くこともあった。ある日、その停留所で待っていたら、車が止まって日本語で乗らないかと言われた。小柄で細面の中年日本人女性だった。「ワーホリ?大変ね、日本人だと思うとすぐ載せたくなっちゃうの。頑張ってね。」10分ほどのドライブだったが、不思議と胸が熱くなった。昔、いろいろ苦労して長く住んでいる方だったのだろうか。あれから28年になるが、卵による被害はあのときだけだった。もっとも、あのアパートの上の住人、人種差別とかではなく唯単に嫌がらせが好きな方だったのだろうが。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年03月28日
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フィリピンという国に関わるようになって2年以上になる。フィリピン人が少し分かってきたような気もしている。この国も、義理と人情の親分子分の情で動く、などと物の本で読むと、なるほどそうなのかとも思えてくる。しかし、この国は300年以上スペインの植民地化にあり、その後アメリカ、そして日本に占領されていた国だ。そんなに長い年月、言いようのない抑圧の下にあった国の国民が、そう簡単に分かるなんて思う方がおかしい。分かり易いようで、その実複雑な心を持った人々のようだ。日本人が分かったなどというご仁にろくな人がいないことも多い。この国の国民だってそうだろう。表面的な理解では足元が覚束なくなる。今、若い人の起業ブームが東南アジアでセンセーショナルに取り上げられ、私も大いに鼓舞したい気持ちでいるし、そうしている。今、海外に目が向いているのは、日本という国に閉塞感が渦巻いていることもその一つの理由だろう。しかし、その国をそしてその国の人々をしっかりと理解する、少なくともそういう姿勢を持った形で進出しないと、とんでもない結果にもなりかねない、と私自身にも言い聞かせている。今回、不可解なことに多く遭遇している。決してネガティブな気持ちはなく、必ず解決していけると確信はしているが。事業自体は本当にいい調子に展開しているので、誰もが通る道という立ち位置で向かっている。昔、サラリーマン時代にオーストラリアに出張したことがあった。担当のパプアニューギニアに行く前に立ち寄ったのだ。因みに、パプアニューギニアでは、ポートモレスビーから小型セスナで3時間飛んで鉱山のある山奥へ行き、鼻に骨を刺してペニスサックをしている原住民の方に挨拶され、お土産にそのサックを頂きたいと思ったが、使用に自信がないので止めたという想い出がある。「君ね、その国を知ろうと思ったらね、まずその国の女性と付き合ってみることだよ。そんなこともしないで、でかいこと抜かしている奴は信用できないね。」支店長に言われた。唖然とする発言、その時は聞き流している術しかなかったが、、、、フィリピン、あまりに遅れてきた還暦過ぎ男、という身分をわきまえて心してやっていきたい。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年03月23日
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まずこの国、オーストラリアをみてやろうと思った。バスの一カ月乗り放題パスを購入、メルボルン、アデレード、エアーズロック、ダーウィン、ケアンズ、ゴールドコースト、ブリスベンそしてシドニーと回った。ちょうど、地図でいうとオーストラリアの右半分だった。都合、バス中5泊となり、最後には揺れてないと眠れぬほどになっていた。まず、デカイ国だと体全体で感じることができた。1985年の7月のことだった。「私も、こんなサングラスが欲しいわ。」豊満な体に黒い小さなビキニで泳いでいた白人金髪女性とこうして会話が始まった。ダーウィンで投宿していたユースには、小さいけどきれいなひょうたん型のプールがあった。7月のダーウィンは、どこにも遠慮せずに最高の気候だといえる。オーストラリアは真冬だが、北のダーウィンではカラッとした夏の天気で十分泳げる。私は昔から顔が広いというよりデカイと言われて育った。来る前に赤坂で買った度でかいサングラスが役に立った。「日本から来て、今、旅をしているんです。」私は、ややぎこちなく言った。「私、ジェニーっていうの、ゴールドコーストから出稼ぎに来てるのよ。」会話はジェニーの屈託ない性格に助けられるように進んでいった。幸い、プールには他に人がいなく、余計なことに気を回さなくていい環境があった。彼女の声はやや太く低くプールの中に響いた。「どう、今夜カジノに行かない?」そうか、ダーウィンにはカジノがあるんだ。ちょっとした会話の後彼女が言い出した。当時は、メルボルンにはカジノがなく、行くとしたら初めての経験になる。賭け事はというと、日本でのパチンコ以来という地味な人生を歩んできていたから、カジノ行きには興味がそそられた。旅行中にちょっと気取った所に行かないとも限らないということで、バックパックに紺のジャケット を綺麗にたたんで入れていた。いよいよその出番だ。綺麗にたたんでいても、やはりバックパック、皺伸ばしに十分苦労した。カジノには歩いて出かけた。ジェニーは黒く体にフィットした水泳選手のような一体式のワンピース姿で身を包んで、ピンク色の薄手のカーディガンを羽織っていた。どっから見てもものすごく目立つ!そして隣にはジャケット姿のでかい元相撲取りのような東洋人。見るなといっても無理にでも見てしまいたくなるカップルだ。歩いていて視線が気になる。カジノの中に入ってみて驚いた。ジャケットなんか着けている人は1人もいなかった。みんな、半ズボンにスニーカーみたいな人ばかりで、まるで成金のアジア人のようで、私はすぐにジャケットを脱いで肩にかけて中を歩いた。まったく何から何までカジュアルなダーウィンだった。というより、オーストラリアが基本的にカジュアルな国なのだ。金もないので賭けごとはせずにバーで飲み始めた。「昔、私はストリッパーだったの。」もったいなくて、聞き直したりしない。しっかり聞こえた。酔いが一気に回りそうな目まいを感じた。こういう時は、絶対に顔以外を見たりしてはいけない。そういう機転だけは昔からよくきく。ジェニーはハイボールのグラスを回しながら話を続けた。「でも、今はこう見えても、いっぱしの写真家なのよ。結構厳しい競争社会だし、出遅れているので大変だけど頑張ってるわ。」ジェニーは、写真で生計を立てていて、その仕事でダーウィンに出稼ぎに来ていたのだ。若作りだけど、おそらく40歳に手が届きそうな年なのだろう。きっとストリッパーでは食べていけなくなったのだろう、などと余計なことまで推し量ろうとした。それにしても、いつまで見ていても見飽きない人だ。美人は3日で飽きるという言葉を返上したくなる。私は、オーストラリア入りしてから、毎日家計簿を付けて節約していた。カジノにいても人が賭けているのを見ているだけだった。ジェニーも、お金はなさそうだった。しばらくブラブラして、真っ暗な道を歩いて帰ることにした。彼女は、途中から黒いサンダルを脱いで裸足になってその両方のサンダルを肩からかけるようにして気だるく歩いていた。昔、こういうシーンを映画で見たような気がした。仕草が絵になる人だ。ジェニーと私は、あまり会話はないが、生温かい夜の空気に吹かれながら私の気持ちは浮きっぱなしだった。やっとユースに戻った。午後泳いだプールが、誘うように月の明かりを受けながらも黒く小刻みに揺れていた。「良かったら部屋でいっぱい飲む?ビールくらいしかないけど。」「OK」平静を装った。酔ってない筈なのに、のぼせて胸がドキドキする。二階の奥の彼女の部屋までの距離がやけに長く感じた。部屋に明かりが付いている。ドアを開けるとTVの音がした。中に入った。「これスティーブ。」はち切れるような白いショートパンツ姿で上半身裸の50絡みの男が、ラッパ飲みしていたビールを置いて席も立たずに真顔で私に握手の手を伸ばして、手がひん曲がるほどの力を込めて私に握手した、、、、毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年02月26日
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「日本では、だいたい長男が両親の面倒をみることになっています。でも今は次男とかでもよくなっています。」高校生の頃だったか、アメリカ人にそうやや自慢気に日本の親子関係の深さを説明をしたことがあった。アメリカは、両親が年をとると老人ホームに入るのが普通だときいて、なんと冷めた親子関係なんだろうと思った。子供が親の面倒をみるのは当たり前だと考えていた。「えっ?88歳のお母さん、一人で住んでいるんですか。」先日、今仕事をしているフィリピンで、フィリピン人の人がビックリして大声をダ出した。私の母が、東京の東村山で一人で住んでいると言ったときのことだった。フィリピンは大家族制だ。子供が親や親戚の面倒をみるのは当たり前の社会で、むしろ積極的に面倒をみているようにみえる。貧しいながらも皆家族のために働いている。日本も昔はそうだったんだと言おうとして止めた。これが人類の歴史の流れなのかも知れない。富が増え、核家族が主流となって、親が子供と住まなくなる。そんな社会がフィリピンにもやがて来るのだろうか。日本では、親の方から別々に住みたいという選択もあるだろう。親が長生きになり、面倒をみる年月が長期化して難しくなっていることもある。先日母に電話した。「すごい大雪でね、買い物に行けないのよ、、、、、」毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年02月24日
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日本に里帰りしている。1月の帰国は久しぶりだ。今、オーストラリア、日本、フィリピンの三カ国で生きている。いろいろ観察していると面白いことが多い。知らない人と道で会ったときの対応。1. フィリピンでは見つめ合ったり挨拶したりすることが多い。2. オーストラリアでは、目が合ったら一瞬でそらすか、そのまま挨拶したりする。知らない金髪女性にニコッと挨拶されたりでもしたら、発情したりはしないがその日一日がほのぼのとした気持ちになる。3. 日本は、目も顔も会わさないし、知らない人に挨拶することはほとんどない。田舎に行くと別かもしれないが。日本には、眼をつけるとかいう言葉もあるし、平民は大名行列中頭を上げてはいけない時代もあった。そういう文化の中で育った習慣だ。しかし、見ていない訳ではなく、しっかりと見てはいる。ところで、日本人は進化しているようだ。ありとあらゆる人がスマホを使いながら歩いているが、顔を上げずにその反対方向から来た人同士が、そのままお互いをよけながら歩き去ったのを目撃した。素晴らしい技術だ。やはり日本人の技術適応能力はすごいものがある。そして益々、face to face のコミュニケーションを図らずに「下を向いて歩こう」人間が増殖している。私たちがネアンデルタール人だとしたら、クロマニヨン人にはアッという間に撲滅されてしまうのは間違いない。そういう時代がやってくるような気がする。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年01月16日
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「タコさん、自分でもまだそんなに元気があったんだと驚いているんですよ。」上海で中国人の奥さんと暮らす細川さんがメールでそう言って寄越した。細川さんは,サラリーマン時代の会社の3年先輩で、この奥さんとは再婚にあたる。10歳になる娘さんと3人で暮らしていた。「実は、先月二人目の子供ができたんですよ。」奥さんは44歳というから高齢出産であったようだが、細川さんは64歳だ。生まれたばかりの目のクリクリした可愛い二人目の娘さんの写真が添えてあった。自慢じゃないが、私はまだこの年になっても子供がない。サラリーマン時代の部長が、「結婚していないで、子供がいない奴はまだ半人前なんだよね。」と言っていたのをよく思い出す。こういう言葉って、その賛否は別としても体に刺さった刺のようにいつまでも残るもの。だからといって、今になってじゃこれから子供を、と血迷ったりしている訳ではないが、中国から届いた嬉しいニュースに、正月早々やや上気していまいそうにもなる。今年は、東京オリンピックから50年、初めての海外旅行のアメリカ行きから40年、サラリーマンを自ら下りて30年、日本語教師の職から次のステップを模索し始めてから20年、ブリスベンに支店を出してから10年などの年にあたる。どんな、ビックリするようなことが起きるのか本当にポジティブに期待したい。まっ、子供ということは間違いなくない、と言い切れはするが。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2014年01月02日
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「海岸線の絶壁で景色のいいところがあるの。行ってみない?」ドナが私を誘った。顔全体の三分の一もあるような大きな目をしたおとなしいドナと知り合った。まだ18歳だが既に怪しい色気を漂わせている。1974年6月から8月にかけて、私は生れて初めての海外旅行でアメリカに来ていた。私は22歳になっていた。縁あって、帰国するまでの数日をカリフォルニアのサンタバーバラにあるドナの家族の家に投宿することになっていた。 免許取りたての彼女の運転でドライブとなった。前年のオイルショックで、ホンダの小型車がアメリカで売れていた。ドナの車は、日本ではあっち系の人しか乗らないようなバカでかいフォードで、高速道路でホンダの車に出会うとその余りの小ささにビックリして、思わず二人で笑ってしまった。それにしてもすごい馬力だった。 崖の淵に二人で座りながら太平洋を見つめていた。この海の向こうには、50代前半の東村山の両親が待つ日本がある、なんてことはこういう時には絶対に思わない。ドナが私のスニーカーの紐と戯れている。何かのサインだろうか、単なる癖なのだろうか。明後日はもう帰国しなくてはならない中で、今二人でここにいることが世界からまったく隔離されたように大きく浮いていた。何も起こらないような、しかしなんでも可能なように思える時が流れる。胸は高鳴るばかりで、その動悸が周りの人にも聞こえそうで抑えようがない。下を向いているドナにゆっくりと近づいた。 ドナのうっすらとピンク色の頬に触れようとする瞬間だった。良く見ると、彼女の顔中の金髪の小さいウブ毛が太陽に照らされて燦々と輝いている。やはり金髪は光に映えて夏に相応しい。こういうときにはスペイン娘の濃いめのウブ毛は似合わない。金髪は得だな、という思いが過る。一体なんでこんな時に、、、。このウブ毛がしっかりと成長したとしても、よほど接近しないと目立たない。足でもどこでもそうなのだ。こういう発見は思いもしなかったときにやってくるもので抗しがたい。こうして紺碧の海に輝きたなびくドナの金髪のウブ毛を、ただただ厭きることなく眺め続けていたいと思ったのだが、、、毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年12月30日
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セブからメルボルンに戻った。「私の誕生日1月なの、香水お願いね。」「2月はバレンタインデーね。」「チョコレート沢山、忘れないでね。」フィリピンセブで良く行く近所のBBQ屋の店員、オバサン、日本レストランのウエートレス、高級イタリアンレストランのウエートレス、、、、どこへ行ってもちょっと会話があると、お土産の話になる。初めて行った店でよく知らない人にでもおねだりされる。オーストラリアや日本の店では経験したことがない。何なのだろう、これは挨拶代りか、100人に言えばそのうち1人くらいは買ってきてくれる、といった類の常套句か。私が、日本人のバカでかい女性だったとしたら、男性スタッフからそう言われるのだろうか。いろいろと思いめぐらしてしまう。「中国人のビジネスーパートナーとインテリアデザインの仕事をしているの。ほとんどの高級ホテルのクリスマスデコレーションは私がやったのよ。」ゲイのフィリピン人男性が誇らしげにそう言う。何人かでホテルで会食した時の話。彼は、フィリピン人の30代の大成功者。自分の話しかしないのが気にはなったが。会食が終わって会計になると、この人全く支払おうとしない。その素振りさえ見せない。あれだけ大きなことを自慢していた人だったが。別れ際に、「Thank you my friend !」だと。You aren’t my friend. と言い返したかったが。「日本人は、限度のないATMマシーンと思われています。」長いことセブにお住いの日本人の方が依然言われていた。たまたま、私が出会った人がそうだったのかも知れない。到底、一般化はできない話なのだろうが。どうこう言いながらも、私は次回のセブ入りには香水はさて置き、チョコレートは山ほど買っていくことにはなるだろう。サラリーマン時代、銀座のバーのホステスさんに「タコさん、香港行ったらお土産ね。」何て言われて鼻の下を長くした経験とはちょっと違ったものであろうが。ホステスさんたちは、間違いなく私より金持ちだったろうし。全てはご愛嬌の内であれば、オランダ系の連れ合いにもそれほど怒られることもないとは思っている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年12月20日
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建設機械メーカー海外営業部に所属していたサラリーマン時代、担当はインドとパプアニューギニアだった。どうして、金髪大柄の多いアメリカとか、美人の多いことで知られているポーランドとかじゃいのだろう、と文句の一つもいいたいところだったが、仕事も覚束ない新米社員の頃で口答えできない。もっとも自分の行きたい所には行かせないのが会社というもの。仕事はそこそこ面白かったのだが、あるときインドの大プロジェクトで直属の部長と課長の板ばさみになり、課長が死ぬの生きるのといっているような状態のなか、正直仕事に冷めていってしまった。「脱サラして、オーストラリアで日本語教師になろう。」と自分で自分に辞表を出し、ついでに辞令も出した。これからは自分の人生の進路は自分で決めようと格好よく言ったりしていたが、実のところは会社の組織から完全に脱落した負け犬の遠吠えだったのだろう。やり直し人生をオーストラリアに賭けた。まず、体の悪い所を直そうと考えた。命には別状ないがあっても邪魔なものは、前も後ろもきれいにさようならした。脱サラして規則的な生活をし出したら、体重が10キロ減った。飲んでから最後にラーメン、餃子、ゆで卵なんかが定番だったサラリーマン時代。それが終わっただけで痩せた。これには驚いた。それにしても、当然ながらオーストラリアにはビザがないと観光には行けても住めない。日本語教師だけでは弱い。何か、日本人ならではの技術を、俄か作りで習得しようとした。「そうだ、指圧をやってみよう。」熱しやすいことは天下一品、特に異性に関しては、池の鯉にでも恋してしまう性格。決めたら即実行。シャネルの5番だけのマリリン・モンローを隈なく指圧しまくったという伝説の指圧師が日本にいた。彼女は、私の金髪憧れの元祖原点の方だ。因みに、秋田生まれの母とモンローは同じ年、彼女が生きていれば今年87歳か。更には、エリザベス女王が秋田で生まれていたら同級生。母の場合は、シャネルとかじゃなく桃の花とか、もっと身近なものだったような気がするが。この伝説の指圧師、浪越徳治郎さんが立川の朝日カルチャーセンターで家庭指圧教室をやられていたので、失業保険を取りに行くついでに資料をもらい即断で入会した。こうして、いろいろ準備して1985年6月にオーストラリア入りした。贅肉も無くなったが金も無く、あるのはどデカイ夢だけの33歳。結局、永住権は指圧でも日本語でも取れず、すったもんだのあげく、日本食レストランのマネージャーとして奇跡的に取得できた。今は、セブで時々一時間500円でマッサージに行くことがある。まかり間違えれば、自分がやっていたのかも知れないなどと思うとパンツ一丁で思わず苦笑いしてしまう。ご希望の方にはやって差し上げたい気持ちもなきにしもあらずだが、気持ちはあっても指がついていかないので話だけに留めておく。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年12月09日
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「タコ、悪いんだけど20万円貸してくれない?」六本木交差点近くにあったバーニーインでステーキを食べているときに、まともに見たらおこられそうな名前のミルナが切りだした。「フィリピンにいる父親が病気でね、末の妹も学校に行かないとならないので、私が仕送りしているんだけど、なかなか生活も楽じゃなくてね。」彼女は私が初めてであったフィリピン人だった。当時、会社の金を湯水のように使いまくって飲みに行っていた。今はなきクラブ「マキシム」は、北京飯店のすぐそばにあった。入口は見過ごしてしまうほど小さいく、赤く豪華な絨毯の階段を地下に降りていく。入るとすぐ左側に男女兼用のトイレがあり、そこを進むと下界とは別世界が開けてくる。各種高級香水や酒やおつまみ、そしてトイレなどが織りなす饐えた匂いが妖しく漂っている。ミルナは、ここの歌手で小柄で華奢な体からは想像もできないほどのボリューム感豊かな声で、「ニューヨーク、ニューヨーク」などを歌い、我々サラリーマンを魅了する。私は、何度か外で食事をしたことがあった。「20万ね、おれも安月給のサラリーマンだから。」そう言いながら、何だこれ彼女たちの常套句じゃないか、と疑った。しかし、疑いながらもずるずると引き込まれてしまう。次に会ったときに用立ててしまった。「ありがとう、必ず3カ月以内に必ず返すから。」ミルナは、大きな黒い瞳でチャーミングに笑いながら、背中を丸めて顔を皿につけるようにして、細切れにしたステーキを口に入れた。30歳にもなって、なんでこんな子ども染みた芝居に自ら引っかかるのだろう。座るだけで2万円も取られるクラブに通っているのは自分の力じゃなく会社の力。なのに、こんなことで見栄を張ってどうするのだろう。ミルナは、この一件があってから3カ月になる前に突然クラブを辞めてどこかへ行ってしまった。恐らく、多くの人にお金を借りていたのだろう。30年前の20万円は当然返ってこなかった。彼女が悪意のある「練炭毒婦」だったりしたとしても、私はいとも簡単に騙されて新聞沙汰になっていたことだろう。隙だらけの人生。「男をその気にさせるなんてことは、本当は簡単な事なのよ。」以前、お付き合いさせていただいていた金髪女性がある時そう静かに言った。ちょっとだけ、背筋が凍りついたように感じた。あれから30年、基本的には自分はあまり変わっていないような気がする。変わったことがあったとするなら、それは、今私はあのミルナの生まれ故郷フィリピンで仕事をしていることだろうか。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年11月30日
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会社1年先輩の加山さんと六本木に繰り出した。馴染みのクラブマキシムを出たときは1時近くになっていた。「タコ君、もう一軒行こう。」大学時代、レスリングをやっていた加山さんは酒豪で、トイレで吐きながら出てきても飲み続けるのを特技としていた人で、飲み始めると帰ると絶対に言わない人だった。所帯をもっていたが、独身のように付き合いがいい。2人で六本木を歩いていると、「おお。」といって加山さんが、ちょっと粋な女性を呼び止めてなにやら話している。「タコ君、今晩、この人の家に泊めてもらいな。俺は帰るから。」別なクラブで働いているという40がらみの艶っぽい女性、店がはねて青山のアパートに帰るところだった。そう言って加山さんはさっさと行ってしまった。「加山さんも困ったもんね。仕方ないわね、あんたいくつ。」「29です。」私は可なり酔っていたのでこの女性の好意に甘えさせていただくことにした。アパートに着くやいなや、彼女の隣の部屋で布団を敷いてもらいもぐりこんだ。まったく知らない人のアパート。しかも、女性一人のアパートだ。なんだか、甘ったるい匂いのする部屋だった。すごく、いい気持ちで布団に包まった。彼女はお風呂に入っているようだった。胸騒ぎがしだしてなんだか寝むれない。こんなことは、人生の中でもそう滅多にあるものじゃない。「もう、寝た?」ドキッとした。しばらくして隣の部屋から声がした。目がパッチリと開いてしまった。3時間くらい先まですべてが見えるような気もする。ドキドキする。「あのね、もしかしたら、私の彼氏が来るかもしれないのよね。ただ、泊めてあげるんだから、変なこと考えちゃだめよ。もし、来たら、ちゃんと説明するんだからね。本当に、加山さんったら仕方ないわね。」えっ!もしや彼氏とは、あっち系の人だったりしないか、などと考え始めたらもう寝られなくなった。戦慄が走り、酔いも急激に冷める。何なんだこれは!こういう期待と全く逆行するようなことはどうも昔から得意じゃない。とんでもないことまで想像してしまい上気していた体が急に縮みあがった。ほとんど、一睡もできないで、私は朝5時半頃そのアパートを出た。アパートを一歩出た時の開放感は尋常なものではなく、また部屋に戻りたくさえ思ってしまったほどだ。どうして加山さんが、彼女の家に泊まれと言ったのかは未だに謎だ。しかし、こんなに恐ろしい夜を過ごしたのは初めてで、それからは、たとえ相手が金髪であっても、知らない人の家には絶対に泊まらないことにしている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年11月29日
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昨年の5月にフィリピンで英語学校を経営する、などということは夢にも思っていなかった。いや、まったく思わなかったといえば大嘘になる。20代の頃から、いつか学校をやりたいという漠然とした思いはあったのは確かだ。去年、最初に手掛けた学校が大失敗して、どん底の気持ちから這い上がるのには時間がかかった。すべては私の蒔いた種、と自覚がありながらも自分の中で合点できないものが尾を引いた。そして、今年になり新たにゼロから学校を立ち上げる勇気を、日本人、フィリピン人のチームが大きく後押ししてくれた。1960年、ハーバード大学にフルブライト留学生として学んだ小田実は留学が終わってから世界旅行に出た。しかし、あるときどこにも責任がないよう日々は早く終えた方がいいと思うようになったようだ。人は、ある所に自分が決めて責任を持つ、という生き方が必要だ、みたいなことを言っている。今、私には責任を持つべき所が複数ある。東京の実家東村山、27年住んでいて家も連れ合いもいるメルボルン、そして、学校を立ち上げたフィリピンのセブだ。他に、認知されていない白かったり黒かったりする子供が突然現れてでもしたら、更に場所が増える可能性もあるが。年を取ってくれば、生活や仕事はシンプルになったほうがいい、などと悠長なことが言える人生とは真逆な生き方になってきている。でも、すべて自分で選んできた道。問題は、どこにも責任を持つ、などと恰好のいいことを公言しておきながら、その実、どこにも責任のないような生き方にならないか、ということだ。すべての人生は中途半端で終わることは分かっているが、そういう所が3つもあったら、地獄で閻魔さんにも申し訳が立たない。デラシネだから、だらしねーとか言われそうで、そんな冗談を言われている内に舌でも抜かれてしまうかもしれない。しかし、考えてみれば私の年には、もう場がない人も結構いるだろうし、ある意味では贅沢な悩みではあるような気もする。昔から、タバコと香水の匂いにはごく弱い体質だから、そういうものには気を付けながらやっていけば、極楽から地獄へ蜘蛛の糸でも垂れてこないとも限らず、この世では精進してやっていくのがいいのだろう。ということで、11月24日からセブに行ってまいります。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年11月20日
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高校3年の2学期のある日、私は全く同じクラスになったこともなければ話したこともない同学年の真理という学生に、「付き合って欲しい」と突然手紙を書いて友人に頼んで渡してもらった。後にも先にもこれ一回のことだった。屋上で話した。小柄で色黒、目が大きくてチャーミング、髪も長めの目立つ学生だった。どうして、あんな大胆なことができたのか、火事場のバカ力ともやや違うような気もするが、思い切ったものだ。今だったら、面と向かってガンガンと誘える臆面のなさが自慢ではあるが。しかし、会ってすぐ手紙なんか出さなきゃよかったと感じてしまった。心弾むような気持ちがどこかに吹っ飛んでしまった。相手の仕草、表情、歩き方などで一瞬にしてその気持ちが読めてしまった。いつものパターンだ。案の定、良かったら付き合ってあげてもいい、みたいなことを言われて別れた。この屈辱感がたまらない、などと思った訳ではないがもうこの先はないと感じた。そして、実際に何も起こらなかった。私には高校2年間、しつこく片思いしていた同級生のMがいた。しかし、Mには学生運動の闘士の彼氏がいて、私の思いは絶対に通じなかった。どうやっても壊れない壁に何度も頭を打ち続けているような生活から抜け出したかった。真理に手紙を書いたのも、そんな気持ちからだったのだろうか。その手紙から一月くらいしたある日、学校からの帰りにMと二人で歩いて帰った日があった。学校は国立にあった。一橋大学のある大学通りは、両側の桜並木が名所となっているくらい素敵で広く、高校から中央線国立駅までは歩いて15分くらいかかる。だらだらと、Mと歩いていると反対側からあの真里が1人で歩いて来るではないか。ゆっくりとスローモーションのようにすれ違った。軽く挨拶はしたが、何も話さずに離れていった。後ろを振り返って真理の後を目で追うなってことはまったく必要ないと心が躍った。「タコ君、真里さんにラブレター出したんだって?どうなの?あなたには、あんな感じの可愛い子が似合うよ。ああいう子が絶対いいよ。タコ君には可愛い子がいいよ。」Mは、2度そう繰り返した。彼女は、私が少なからず自分に思いを寄せていることを知っていた。私は、顔がかあっと熱くなって言葉に詰まった。どうして手紙を出したことを、彼女は知っていたのだろうか。Mは一生懸命私を突き放そうとしているようだった。その晩のことだった。真理から初めて電話があった。やけに明るい元気な声だった。「タコ君 ! 明日、会わない ?!」毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年11月08日
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「すぐセブに行きなさい!」秋田出身で87歳になる東村山の母が電話でそう言った。翌日が日本行になっていた10月18日に、日本行をキャンセルして急きょ英語学校をやっているセブに行くことにした。10月15日に近くのボホールという所でマグニチュード7.2の地震があり、今まで経験したことのないような大きな地震で学校の教師、スタッフが怯えていると聞き、学生さんのサポート、建屋のチェックのためなどに行くことにした。日夜寝ずにサポートしている日本人スタッフのことも心配だった。母は、年に2回の私の帰国を楽しみにしている。私の方がもっと楽しみしている。河口湖の温泉もキャンセルした。移住の身だから、母とあと何度会えるのかと思うと、、、、。 セブで一週間が過ぎた。余震も落ち着いてきているがまだある。若いセブの教師にとっては私は、父親のような祖父のような年代で私がいるだけでも落ち着くようだ。来てよかった。壁の修復などもしている。日本人の学生さんは地震なれしている人も多く、先生スタッフを励ましてくれている。嬉しい限りだ。「お前にやってもらうと思ったこと沢山あったんだけどね。仕方ないね。」母は、いつも私が帰国するときに仕事リストを作って待っている。来年の1月に日本帰国を延期することにした。ということで、日本でお会いしたかった皆さま、1月に是非。母の仕事リスト、楽しみにしてる。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年10月27日
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サラリーマン時代、東京で接待に使ったのは赤坂にあった「ニュー・ラテン・クォーター」で、京都では、三条大橋にあった「京都ベラミ」だった。そして、自分達だけの社内接待に頻繁に行ったのが、六本木にあって男女のトイレが一緒だった「クラブマキシム」だった。因みに、このトイレで小用を足しているとき、「あ~らタコさん、お久しぶりね。」とミハルさんから背中を叩かれて立ち往生してしまったことがある。昼には全く元気のないサラリーマンの私、日が暮れると俄然守備範囲がぐーんと広まった。1978年の8月から1984年の9月まで、ある建設機械メーカーの海外営業部に籍を置いていた。その前の別の部署での2年半を加えると9年弱のサラリーマン生活だった。当時、赤坂には、「コパカバーナ」「花馬車」「ゴールデン月世界」「ミカド」そして、「ニュー・ラテン・クォーター」という大型ナイトクラブ、またはグランドキャバレーがあって、接待の場所には事欠かなかった。大型ナイトクラブ、キャバレーの全盛期が続いていた。その中でも、「ニュー・ラテン・クォーター」は、結構頻繁にお邪魔していた。英語の分るホステスも多く、外国人の接待にはもってこいだった。そしてあの、誰もが一度は乗ってみたかった「はとバス」夜の東京観光の中に、「ミカド」が入っていた。中国人のクライアントを「ミカド」で接待している時に、二階席にどやどやと「はとバス」の一行が入ってきてビックリしたことがあった。因みにこのクライアント、ホステスが膝に手を置くと震えていた。悪いことをしてしまった。私は、膝に手がないと震える方だったが。「ニュー・ラテン・クォーター」は何しろ店に入るときに下りる真っ赤な絨毯の階段が豪華にできていて、上品さは天下一品だった。トイレに専用のお世話の方がいて用が済むとサッとタオルをだす。そのたびに100円のチップを払っていて、オシッコなどと言ってはもったいない雰囲気さえあった。「タコさん、いいんだよ、すべて諸岡さんに任せておけば。」部長がそういった諸岡さん、ここの主のようなマネージャーで、すべては彼に話せばことがスムースに進んだ。どんな女性をテーブルに呼ぶとかは、担当の女性がいてその女性が仕切ってくれた。ここは、昭和38年に力道山が刺された所だった。力道山は、その一週間後になくなっている。あの時、39歳だったと知って若かったんだなと驚く。当時は雲の上のスーパーヒーローだった。幼稚園の頃、歩いて10分くらいの所にあったタバコ屋さんで、生まれて初めて多くの人と一緒にプロレスを見た時、怖くて怖くて震えて歯が鳴った。白黒テレビで小さな画面だったが、黒いタイツ姿の力道山が大きく見えた。「おい、この子震えてるよ。」っとどこかのオジサンに笑われて警察官の子供らしくない振る舞いを恥じた。「ニュー・ラテン・クォーター」のトイレに入るたびに、力道山のことが過ぎった。子どもの時のヒーローだったからだろう。小用の震えと、子供の時の震えが入り混じる。力道山が使った便器かと思うと拝みたい気にもなったものだが拝みはしなかった。ロサンゼルスから来いて「ニュー・ラテン・クォーター」で踊っていたダンサージョイを浅草に連れて行ったときは、180センチはあろうかというジョイの美貌と体型に俄然視線が集中してうるさいくらいだった。そして、どんな男が連れているのかと私を見る視線が「何だこの程度の男か!」的なものが圧倒的で、マゾ度100%の一日となった。分不相応、という言葉を肝に銘じた。1984年9月、私はサラリーマンを自ら辞めてオーストラリア移住を夢見、日本語教師になる勉強を始めた。当然、クラブ活動は終了、退職前に溜まりに溜まったクラブ請求書は潔く後輩に譲ることにした。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年10月14日
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「京都ベラミ」。広島で戦後生まれた有名人二人のうちの一人、かの山口組三代目田岡組長が1978年に狙撃されたクラブだった。因みに、もう一人の有名人とはあのダイエーの創始者中内功氏だ。私は、田岡組長がピストルで撃たれたその一年後にこの「京都ベラミ」を訪れて、面白い思いをさせていただいた。ここには同僚の社内接待で行った。父親が神戸大学の経済学部の教授だというKさんと、奥さんが元全日空のスチュアーデスのMさんと、母親が秋田の農家出身の私の3人だった。入り口でスーツ姿じゃない人は、スーツを貸してくれる。我々3人は、ずらっと並んだスーツから体に合った物を選び中に入った。さすが、カラーコンビネーションまでは儘ならず、一見田舎者集団風になってしまった。Kさんは、ほぼ丸坊主に近い髪型に太目のメガネをかけていて、声がだみ声でよく響く。体格は元プロレスラーのようだ。Mさんはちょっと品のあるお抱え弁護士然とした感じを出していた。20代の私は、使い走りだ。当時私は、建設機械メーカーの海外営業マンでインドを担当していたサラリーマンだった。だからKさんも、レスラーとかじゃなく同じ会社の先輩サラリーマンではあった。テーブルについた3人の女性のうちの一人にダンスに誘われた。ダンスといっても、今のようにロックンロールを踊れるわけでもなく、ただくっついているだけのあのてのダンスではあったが。踊った女性はあっちこっちがぶち当たる肉付きのいい、艶っぽい人で自分を抑えながら躍らせていただいた。「ねえ、あんた。ちょっと頼み聞いて欲しいんだけど。」こういうところで頼みごとをきいたことがないので、私は、金の無心とかじゃないかと思ってやや身構えた。「ちょっとね、ある人をやって欲しいの。」初めて会った者に頼むことだろうか。通常は三回くらい会ってからとかが似合う依頼ではないだろうかなどと思ったわけではないが、せっかく踊っていて張ってきた体が萎えていくのがわかった。「あのメガネの人、これでしょう?」と言いながら彼女は人差し指で頬を上から下になぞった。なんと、この女性はKさんをあっち系の方と思ったようで、そのKさんに殺人を依頼しているのだ。この女性、どんなにそうじゃないと言っても信用してもらえなかった。前の年に、山口組の田岡組長が狙撃された「京都ベラミ」のダンスフロアーでの出来事だった。そう思って、周りをみたらどの人もあっち系の人に見えてきてしまって急に怖くなってしまった。席について、彼女がトイレで外しているときに、Kさんにこの話を伝えると、ものすごい声を出して大笑いした。「タコ君もウブだね。そうだって言って騙せばよかったじゃないか。」Kさんはそう言って、尚も笑い続けたが、まるっきり冗談とも思えなかった。この人も怖かった。体だけはデカイ駆け出しサラリーマンだったころの話だが、ドロドロとした世界の洗礼はまだ受けておらず、物事を実直にしか捉えられない不器用さを引きずって一生懸命人真似しようとあがいていた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年10月04日
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細い階段を上ると、だだっ広いクラブのような部屋があった。もう営業していないこの部屋は薄暗いアンバー色の電球に照らされて、意味もなくただそこにあるような部屋だった。古いソファーのかびたような匂いがする。以前は営業で使っていたのだろう。私はここで、いつも独りで白いYシャツと高校時代の黒のズボンに履き替え、蝶ネクタイをしてスタンバイする。部屋の隅には、ジュークボックスがあり只で掛けられる。来る日も来る日も、アメリカの「名前のない馬」とカリー・サイモンの「うつろな愛」を聴いていた。You're so vainYou probably think this song is about youYou're so vainI'll bet you think this song is about youDon't you? Don't you?あなたは、自意識過剰でうぬぼれ屋 ♪「お早うございます!」階段を下りて元気な声で皆に挨拶する。池袋西口「ロサ会館」の横にあったエロ映画館の前の喫茶店「ニューサカエ」での仕事のスタートだ。1974年1月、大学1年の冬休みに毎日ここで夕方からバイトをしていた。やっと、チョコレートパフェ、クリームあんみつなんかが手早く作れるようになっていた。8人ほど座れるカウンターを1人で任されることもあった。ある日、化粧のやや濃い30代半ばの肉感的な女性が1人でカウンターに座った。髪を茶色に染めてパーマを大きくかけている。口紅は真っ赤だ。薄茶色のパンタロンに白のブラウスで、何とも艶めかしい。カウンターの高い位置から、何度もこの女性を見てしまった。すると、パンタロンの色と同じでよく見ないと分からなかったが、パンタロンのジッパーが空いていて下着が見えているのだ。女性は上目づかいに私を見ながら、薄く微笑んでいる。私にはそう見えた。パフェを作りながら手が定まらない。「誘われているのだろうか?そんな訳はない。」21歳の世間知らずの心が、空気を抜いた風船のように暴れる。「新しい顔ね。」「はい、2週間目です。」会話はそれだけで、続かなかった。あらぬ先のことまで想像してしまって、心臓の鼓動が痛い。すると女性は、下を向いたかと思うと、ものすごい勢いでジッパーを上げ、急に怖い形相になり私を睨みつけて勘定を済ませ出て行ってしまった。その後ろ姿をガラス張りから追いかけ、エロ映画館の金髪女性の姿態を見つめながら思った。「そんな訳、ないだろう!」状況判断を遠慮なく間違え、物事を正確に捉えられない特性は今に続いている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年09月27日
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オランダ系の連れ合いが学校の春休みなので、明日から3泊で義母と三人でLakes Entrance の先のLake Tyersに行ってくる。義父が一年前に亡くなっているので、いつもは4人だったが、今回からは3人の旅となる。因みに、連れ合いはこちらの公立の専門学校で英語の教師をしている。中国人やベトナム人が非常に多くなっており、日本人は昔に比べ少なくなってきている。帰ってすぐCebuに行く。セブで経営している英語学校で仕事。現場を任せられる日本人とフィリピン人のスタッフがいる。日本人は今、フィリピンで英語を学ぶ人が増えてきている。一日最低5時間はマンツーマン、寮三食、洗濯、掃除付きで経済的に、しかも効率よく英語が学べる。Cebuから帰ると今度は日本行となる。毎年、2回帰国して母と過ごすことにしている。また二人で河口湖温泉に行く予定だ。本当は草津に行きたいのだが、放射能など心配してしまう。秋の富士山も楽しみだ。日本から帰ると、またCebuとなる。クリスマスをセブのスタッフとお祝いすることになっている。還暦過ぎて、体が3つくらいは要るような生活になっているが、楽しい気持ちでやっている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年09月23日
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フィリピン滞在中に体を壊し、この2、3か月体調不良が続いていた。大腸内視鏡、胃カメラ、CTスキャン、バクテリア検査、などすべての検査を終えクリアーはできた。因みに、大腸CTスキャンはもう二度とやりたくないスキャン。あんなに不快な検査もないもんだと悶絶してしまいそうだった。ここではあまり詳しくはご説明できないが。ただ、どうやら過敏症腸症候群、Irritable Bowel Syndrome らしいということで食事などに気を付けないとならないことになった。今まで、健康にいいと言われる野菜などすべてが対象になる、あまりに理不尽な現実。拍子抜けが三回転半くらいしてしまいそうだ。しかし、例の安倍首相が患っているものでもあり、なんだか格が高くなったような誤解を与えられる。考え方、行動含めあの首相と唯一共有できるものはこれだけのようだが。あと、甲状腺刺激ホルモン低下が起きているということ。もしかしたら、フィリピンでイソジンでうがいしまくっていたので、それが原因かもしれないが様子をみることになった。もうイソジンは捨てることにした。ホルモンには結構自身があったのだが、こういうものは自分ではどうしようもないことで、もう天に任せるしかない。心配した大きな問題はなかったので一応安心したが、いろいろと共存していかないとならないことも増えてきているようで, 100歳まで生きられるかどうかちょっと不確かになってきた。もっとも、寝たきり100歳では意味がないので、ウォーキングと毎日の50回の腕立て伏せは続けていきたい。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年09月16日
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「今、何時ですか。」英語のクラスじゃないんだから、もう少し気のきいたことを聞けなかったのかと思う。場所は、池袋の丸物デパート(今のパルコ)、高校一年の私は学生服に身を包みならが平静を装ってベンチに腰掛けている女性にそうきいた。丸顔、おかっぱでお人形さんのような顔をして、緑色のセーターが体に必要以上にフィットしたおとなしそうな人だった。彼女は、階段の踊り場のベンチに腰掛けて休んでいた。あんなことが自分にもできたんだ、と今なら褒めてやりたい。覚えていないだけなのかもしれないが、後にも先にもなかった経験に思える。時間を聞いただけでは終わらなかった。住所と電話番号も聞けた。人生、何だか急にバラ色に思えた瞬間だった。その後、何度か会う機会があった。私より2つ年上のKさんは、栃木の中学を卒業して東京の洋裁学校に通う、少々北関東ナマリのある人だった。「私、知らない人と話したの、初めてなの。貴方、学生服着ていたし、真面目そうだったからなの。誤解しないでね。」学生服って案外役に立つものだと思って感心したりして、Kさんが何を言いたかったのかまで気が回らなかった。Kさんは、真面目さを代表して栃木から上京しているような人で、いつまでたっても出会ったときのような関係が続いた。結局、私の気持ちと期待が先行し過ぎて、そのぎこちなさを大いに突かれ最後となった。Kさんからの最後の手紙に、「肉を食べると体にも悪いしどう猛になりますよ。あなたは、菜食主義者になった方がいいと思います。」とあった。じゃ、坊主はどう猛じゃないのか、などと怒ってみても始まらない。Kさんは、当時信奉していたある菜食主義者の先生が書いた本の名前と出版社を教えてくれた。私は、今つくづく思う。あの時菜食主義者になっていたら、人生だいぶ変わっていただろうと。ただ、この10年くらいのことを思うと、随分と菜食主義に近い食生活になっているとは言える。健康上のいろいろなことにも出会ってきている。そんなこともあって、最近はどうも、どう猛ではなくなってきているような気がしてならない。枯れ始めているのだろうか。そんな折、「年寄ほど肉を食べろ!」という人が増えてきているのが気になっている。週三回くらいはステーキとか食べている人の方が健康で長生きしているというのだ。Kさんに会ったら言ってあげたいくらいだ。ということで、肉食が中心のフィリピンには定期的に出向いていろいろな刺激を受けると健康で長生きできる、ということなのかもしれない。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年09月10日
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国立競技場でサッカーの試合を見た。あいにくの雨模様だった。予選の試合で、観覧席は空きが多かった。1964年、東京オリンピックの年私は東京は練馬区の小学校6年生。東京都の招待枠で観戦できた。選手が小粒に見える試合のことは全く覚えていないが、一つ後ろの列の右側にいた隣のクラスの睦さんが気になってちょこちょこ後ろを見ていたことだけは覚えている。12歳とは思えない色気を醸し出す睦さん、ほとんど言葉を交わすこともなく卒業してしまった。雨に濡れた薄茶色の髪が広い額に張り付くように垂れていた。今日、2020年の夏のオリンピックに東京が選ばれた。生きているうちにもう一度東京であるとは思っていなかった。それにしても、7月の末から2週間ってとんでもない天候の中でのオリンピック。しかし、あの無邪気に喜べた1964年のオリンピックの時のように喜べない。7年後の日本がどうなっているのか心配だからだ。福島第一の原発の事故が収束していない。というより、ますます問題が大きくなってきている。地下水の汚染が始まっているという。すべて、杞憂に終わればそれにこしたことはないが。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年09月08日
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「今、晩御飯の後片付けしながら歌うたってたんだよ。」87歳になる、東村山で一人でやっている母が電話でそういった。「毎週木曜にさ、介護ホームのデーケアに行ってるでしょ。そこで、一月に一回カラオケやるのよ。今日は、『星影のワルツ』だったんで、お母さんが一番好きで、よく昔歌ってたでしょ。」そういえば母は、ドーナツ盤のレコードを買って歌っていた。あまり歌など歌わない母の数少ない一曲だ。「そうか、今年は来られないのか。そうだね、フィリピンの仕事、しっかりやんなさいよ。仕事が一番だからね。」そういいながらも、母の声のトーンが落ちているのが分かった。短期でも、今年、もう一度東村山に戻りたい。ネットでダウンロードして「星影のワルツ」を聴かせてあげたい、とそう思った。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年09月02日
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とにかく早い。私は昔は手が早かった、などという話ではない。メルボルンの人が歩く速さのことだ。フィリピンのセブで3か月過ごしている内に、歩く速さがだんだんと遅くなってきた。メルボルンに戻ると、セブでは絶対にあり得なかったことだが、私をどんどんと追い抜いて歩く人が多い。男女を問わずだ。この感覚は、ある意味では小気味よく、抜かれる喜びを思い出させてくれる。日本でも、人は結構早く歩く。特に朝の通勤。ところが人が多過ぎるのでぶつかることがある。でも、ほとんどの人は何も言わない。オーストラリアだったらえらいことだ。言ったとしても、蚊の鳴くような声で、「失礼。」とか言われる「失礼じゃないだろう。済みませんだろう!」と言い返したくなる。ゆっくり歩くフィリピン人は、更に歩くのが嫌いなようだ。短い距離でも、トライスクルという自転車かオートバイの後ろや横に客席のある乗り物に乗る。せいぜい、日本円で20円くらい。私はいつも歩くから、私をこのトライスクルに乗ったフィリピン人が追い越していく。この日本人は貧乏人なのか?みたいに思われているのかと思うと、なんだかちょっと嬉しくなるから不思議だ。これからも歩くことにする。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月30日
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14歳まで、東京は練馬大根が匂ってくるような豊島園の近くにあった警察官住宅に住んでいた。ここは大工なんかが住んでいたら怒られそうな住宅で、住人はほぼ警察官に若干消防士といった具合だった。別に大工に恨みなどは全くないが。間取りは、四畳半と六畳の二間で本当に小さい。これが隣と二軒長屋になっていて、この二軒が6つあってワンブロックを成していた。即ち、ワンブロックが12軒。そして、このブロックが8つあって一集団。この集団が更に3つあった。近づく泥棒がいたら褒めてやりたいくらいの環境だった。どの家も実に貧しかった。ある家は家族8人で住んでいた。給料の額が押し並べてわかってしまう同業者だから、一体どうやって生活していたのかと思う。裏の石井さんの家に行ったら昼ごはんだったのだろうか、ご飯にお醤油だけをかけて食べていた。私の好物は、母が作る少し大きめの塩おにぎりと味噌おにぎり。中には何も入っていなかったが、塩や味噌が暖かいご飯によく混ざって本当に美味しかった。母と一緒によく西武線の中村橋という駅そばの肉屋さんに行った。その肉屋さんの横の狭い路地で、買ってもらったばかりの湯気の出ている5円のコロッケをホーホー言いながら食べる。こんなに美味しいものは世の中に二つとない、そう言える味だった。今、縁あってフィリピンのセブで英語学校を経営している。業後や週末に、ゴム草履を履いて妖しい路地裏を歩くのが好きだ。草履は思い切り音を立てて歩く。現地の人のようにゆっくり歩く。時々Tシャツをまくって腹を出して歩く。現地の人たちがやっているようにこんな風にして歩いている。子供の頃に戻ったような感覚に晒される。不思議な感覚だ。そのままどこまでも行ってみたくなる衝動に駆られる。練馬のこの警察官住宅には、いろいろな人がいろいろな物を売りに来た。豆腐、納豆、おでん、焼き芋、アイスキャンディー、爆弾(米を出すと爆発させてお菓子にしてくれる)。そして、御用聞きさんでは、乾物屋、八百屋、米屋(ヤミ米屋と呼ばれていた)、クリーニング屋、漬物の行商、呉服屋、などなど。ゴムひもなどの押し売りもあった。「豆腐屋のおにいちゃんったら本当に失礼しちゃうわ。隣の若い広瀬さんの奥さんには『奥さん』っていうくせに私には『おばさん』だってさ。もう買わないわ。」まだ、30代だった母が怒っていた。でも、それからも同じおにいちゃんから買ってはいた。ある冬の午後、おでん屋さんに言われた。「坊や、体の中で『お』のつく所を5つ言ってごらん。できたら、何でも好きなおでんを5つ食べていいよ。でも、『お』を抜かしても言えるのは駄目だ。たとえば、「お尻」とかね。いいかい?」私は、それからず~とそのおでん屋さんについて行って夕暮れになってしまったが5つ出なかった。気が長いのだろうか、今も時々数えたりしている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月26日
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子どものとき、「子どもが行ってもトシマエン」と今はオヤジギャクを飛ばす豊島園の近くに住んでいた。毎月「1の日」に練馬駅前通りに「縁日」が出る。バナナの叩き売り、金魚すくい、駄菓子屋、オモチャ屋なんかが私の好きな定番だった。「お兄ちゃんが小学校の遠足のとき、バナナを1本買って持たせたのよ。でも、タコには絶対に内緒にしてね。皮はちゃんと捨ててくるんだよっていってね。あの頃、バナナが高くて家も貧乏だったから1本しか買えなくて、お前には買えなかったのよ。」帰国時に母が話してくれた。私には3学年上に兄がいる。縁日では、大きな房のバナナが新聞紙にくるまれて売れていく。私は、ただそれを見ていた。どんな大尽の家が買うのだろうかと口を開けていた。「坊や、メスだよ、メス!」ひよ子を売っている店のおじさんが、私の弱みに付け込んだような言い方で言う。だから、買ってしまう。父親に怒られる。二羽買えば、どちらかはメスだと思うから二羽買う。でも、実際は100%オス。そして、母親に怒られる。だいたいは、数日で死ぬ。湯たんぽを入れたりして一生懸命面倒みるが死ぬ。ところが、あるとき、二羽買った内の一羽が産毛も抜けて大きくなった。狭い家の中を駆け回る。父が、にわか作りの小屋を作ってくれた。この鶏、一日中時間にかまわず「コケコッコー」。ぎっしりと詰まる長屋で、いつ苦情が出てもおかしくない。因みに、今多くの時間を過ごしているフィリピンでは鶏がそこら中にいる。食用と、闘鶏の為に育てている鶏だが、一日中鳴いている。こちらに来る方には耳栓を持って来られるように言っている。ある日、この大きくなった鶏が逃げて父が追いかけまわし、薄くなった頭から湯気を出していた。父を初め、家族中がこの鶏を持て余すようになっていた。父は三日に一度泊まりがある警察官。翌日は朝帰って来て寝る非番の日。そんなある非番の日、学校から帰ると鶏の小屋が無くなっていた。「今日は久しぶりに鶏鍋だよ。」母が、いつになく明るくそう言った。ひよ子の時は本当に可愛かったが、大きくなってそれが無くなり、目つきも怖くなっていたし、うるさくて正直のところ私もこの鶏から気持ちが離れていっていた。その夕方、四人の食卓は鶏鍋だった。私は、箸が進まない。一口食べた。すごくまずかった。いつもの鶏の美味しさはなかった。私は、ほとんど食べずに夕食を終えた。そんな時には父にちゃんと食べないと駄目だと叱られる。でもその夕方は誰からも何も言われなかった。その晩ずっと口の中がまずかった。それからは、縁日に行ってもひよ子は絶対に買わないことにした。生きものは金魚とか、食べなくてもいいものにすることにした。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月22日
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「もしもし、マーラをお願いします。」大学3年の時アメリカのシアトルで2ヶ月過ごした。お世話になったピターソンさんの姪のマーラに性懲りもなくデートを申し込もうとして、1時間くらい受話器のそばを行ったりきたり。思い切って掛けた。お母さんが出た。こういう時に本人以外、それもお母さんが出る確率が高いように思える。お母さんがマーラを呼んでいる。彼女が受話器にゆっくり近づいてくる足音まで聞こえてきた。どうやらこうやら、彼女が夏休み中にバイトをしているファーストフードの店の仕事の後会う約束ができた。私は、22歳でマーラは18歳だった。 「店長が、いやらしい人で、話すときに肩や腰に手を回してきたりするの。」私は、基本的にはこういう店長みたいな方々はあまり好ましいとは思わない。しかし、当時はそんな悠長な気持ちでは収まらなく、とんでもない男だと激昂してしまった。年を重ねてくると、男女間の営みにやや寛容になってくる。「でもね、時給は安いけどチップがいいから我慢してやってるの。」やさしい英語でゆっくりとマーラ話してくれた。私は、輝くばかりの笑顔を時々見せながら、腰まで素直に伸びた金髪の長い髪を揺らすマーラに魅せられて、思わず手を伸ばそうとして店長の話しを思い出し躊躇した。「日本じゃどうか知らないけど、アメリカでは最初のデートはたいした意味がないの。だって、好きかどうかなんて、付き合ってみないと分かんないじゃない?だからデートするのよ。」デートしただけで、結婚なんかがストレートに想像されてしまうような当時の私には、いかにも新鮮な考え方で、大きな感動さえおぼえた。と同時に、今会っていることは、彼女の側からするとそんなに大したことではないのだとやや興ざめした。そうだったんだ。じゃあんなに緊張して電話しなくてもよかったんだ。アメリカ人とは、なんと合理的な考え方をする人種なんだろう。何も考えずにやたらめったら異性をデートに誘う私の習慣の原点は、どうやら前の大戦で敗れたこのアメリカにあったようだ。「タコ、もう一つ言っておくわ。ヤンキー娘はみんなワイルドと思っているかもしれないけどそれは絶対に誤解よ。気をつけてね。」私は、この言葉のあと体全体が金縛りにあってしまった。幸いにして、次回のデートがあった。マーラの通っている高校のキャンパスツアーだった。「タコ、私ね、高校のチアリーダーやってるのよ。見てみたい?」私は間髪を入れずに素直に言った「はい。」。ところがどうだ、マーラはブルーマとかいった格好ではなかったが、普段着でいきなり芝生の上で大きくチアリーダーの振り付けをやりだした。あっけに取られながらも,笑顔で見ていた私だが、それがいつまでたってもまったく終わりそうにないのだ。その内、自分の顔がこわばってくるのがわかった。笑顔じゃなくなってきている。マーラ一人をそこに置いて、立ち去りたくなった。マーラとのデートはこれ以降はなかったが、異文化交流の勉強にはなったと思うし、変な度胸も少しはついたとは思う。アメリカ人というのは、本当に臆面がない方々の総体的名称なのだということは肝に銘じさせてもらえた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月19日
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「甲状腺ホルモンが出過ぎですね。」メルボルンに戻り、いろいろな検査をしたが、バクテリアとか胃腸の問題はないようだったが、今まで言われてことのない甲状腺の話がでてきた。再検査をすることになった。実は、健康診断をする度に必ず何か一つ言われるようになってから久しい。加齢だろうか。コレステロール値が上がったり、血糖値があがったり、前立腺の検査が異常だったり。その都度、改善はされてきてはいるのだが。無鉛ガソリンではないセブの排気ガスの問題は結構大きい。粉じんとまざって、空気があまりよくなく、ハンカチで口を押えている女性を結構みる。私は、日本の放射能汚染よりはずっとましだとは思ってはいるが、喉を傷め風邪など引かないようにうがいはよくする。日本の食料品店で、うがい薬の「イソジン」を手にいれて、朝起きたら、昼も、そして夜寝るときもうがいをしつこくやっていた。外出して部屋に戻るときも必ずやっていた。おかげ様で風邪は引かなかった。「イソジンにはヨウ素が含まれているので、甲状腺機能を乱す可能性がある。」ネットでいろいろ調べていたら出会って驚いた。今回、急に甲状腺ホルモン分泌が多くなったことに、このイソジンが関わっているのだろうか。私は、しつこい性格だ。昼、同じものを何か月も食べることがある。振られた女性への未練は30年くらいは続く。イソジン、確かにやり過ぎた。今は止めている。次の健康診断では、今度は別の何を言われるのだろうかと今から楽しみだ。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月18日
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「オーストラリアにもエンコがあるんですよね。」フィリピンセブでTARGET Global English Academyという英語学校をやっていて、そこにいらしたオーストラリアに興味のあるという学生さんに訊かれた。「縁故ですか?」いや、オーストラリアの仕事も縁故で決まることも結構あると思うのだが。しかし、どうも初めて会う人にいきなり訊くことでもないだろう。話がかみ合わない。実は、塩湖のことだった。車のエンコとかの話に振らないでよかった。「君、縁故?」昭和51年7月1日、3か月の研修後、私は建設機械メーカーの運輸部船積み二課に配属となった。文系同期28人の中で本社配属になったのは私だけだった。船積み二課長の江口課長とトイレが一緒になった際、隣の私をのぞき込むように課長が訊いたのだ。そんなことを訊く場所じゃないだろう、などと思ったりもしたが。エンコじゃないよ、チ○コだよ、なんて冗談も言えるほどサラリーマンずれもしていなかった頃の話だ。「うちさ、女子社員はほとんど縁故だし、君、たいして仕事もできそうもないのでさ、、、」こういうことを、新入社員の部下にいつもトイレで訊いているのだろうか、この江口課長。年が結構いっていて、萬年課長のような人だったが、こんなことで憂さ晴らしをしてもらってもこちらの身が縮むだけだ。二年後、私は海外営業第三部インド大洋州課に転属になった。「こいつ、あんまり仕事できないけどよろしくお願いします。」営業第三部副部長に一緒に行って江口課長、そう挨拶した。シツコイ課長だ。それから数か月して、江口課長、どこかの会社に出向になったと知った。気が付いたらいなくなっていたという感じだった。だから、もうトイレで会うこともなくなって安心してりようできるようになった。そして6年半後、私もこの会社を自主退社してオーストラリア移住を目指して日本語教師になる勉強を始めた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月16日
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「カフェがなければ恋は生まれない。」私が言っているわけではない。フランスのあのボーボワールが言ったとか。そういえば、水着喫茶、テニスウエアー喫茶、同伴喫茶などすべて含めて、喫茶店がなければ恋は始まらないと言えなくもない。私の若かりし頃の話ではあるが。今は、喫茶店という言葉は廃れてきているのだろうか。ちょっと寂しい。「お客さん、寝ないでください。」池袋発最終電車を逃して、深夜喫茶で夜を明かすことになり、コックリしていたらボーイに注意された。寝てはいけないのだ、深夜喫茶では。しかし、3時を過ぎたころには、むさくるしい男客たちほとんどが寝始めていた。ボーイも何も言わなくなっていた。こういう状況では、コイコイとかはあっても恋は芽生えないだろう。男同士だし。恋が始まるのも喫茶店なら、終わるのも喫茶店だった。大学時代付き合っていた女性を、これまた池袋の喫茶店で2時間待った。「まだ、いたの?」この年になると、日本に帰って、若い女性、若くない女性と二人っきりで、例えば吉祥寺あたりの喫茶店、カフェに入ったとしても、何も始まらないし、そして何も終わらない。なかなか、落ち着いた座りのいい人生になってきている。このまま、収束してしまうのだろうか。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月15日
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東京は池袋の西口の、落語で有名な池袋演芸場をもう少し行くと何とも妖しげな店が立ち並ぶ路地がある。大人になりかけのある青年が、好奇心に燃え尽きそうになりながらそこに立っていたとしよう。そこで、「1000円」という文字のある看板にしっかり惹き付けられ、ストリップ小屋に入ってしまったとしてみる。昭和50年代前半とかにしてみよう。出てきた小太りな中年女性は、ほんの5分くらいクルクルしたりして厚手の上着を脱いだだけで、「はい、これ以上は別料金よ。どうする?」とくる。安い香水の匂いが充満する部屋でのできごと。全く、何も見せてはいない。想像にしても、私はこういうことがどうも嫌いで苦手だ。看板に偽りあり。どうしてこれを称してストリップなのだ。辞書の説明と違う。子供の頃、千葉辺りの潮干狩りに来ていたシュミーズのオバサン達の方が、よっぽど色っぽかった、なんて思ったりする。「お兄ちゃんね、こういう所に来るときにはもっとお金持って来なね。」女性が服をつけながらそんなことを言ったりする。なかなか入れないで店の前を行ったり来たりして、勇気を奮ってやっとの思いで入ったところ、なんていう設定である筈だ。未来ある青年に対してあまりに酷い。東北辺りから集団就職で出てきた無垢な青年なんて設定ではないが、まだ人を疑わない気持ちの方が強いころのことで、これはないだろうと憤ってしまう。こういうのが大人の裏の世界というのなら、これから一生185センチ82キロの子供でいたい、などと思ってもしまう。たとえば、この青年の父親が警察官だったりしたら、官憲に言いつけてやりたい衝動にも駆られたりするかも知れない。「お兄ちゃんね、出るときにちゃんと見てね。看板に『1000円から』って書いてあるからね。私に文句言ってもダメよ。」もう、そういう親切心も通じない。あれだけエネルギーを使って入ってきて、このザマはなんだ。相手に不戦勝の至福を大いに与えてただ帰るなんて。そういう憤りが襲ってくるに違いない。仕方なく出るときにその看板とやら確認すると、老眼になったら絶対に書いていないと言い張って再び中に戻れるくらい小さな字で、「から」が書かれていたりする。人間は、こういう経験を積みながら、だんだんと大人になっていくのだろうか。とはいえ、この方々も仕事、商売である。ギリギリのところでルールを守りつつ、高い利益率をキープしながらしっかりと利益を上げる。フーテンの寅さんも言っている。「見上げたもんだよ 屋根家のフンドシ。田へしたもんだよ カエルのションベン」そう叫びたくなってしまうような経験になるのではないだろうか。恐らく、こういう経験をした小屋にはもう二度と行かないことだろう。そういう意味では、こういう店はリピーターを作れない訳で、商売としての本当のウマミを完全に逃している。もし、私がこの小屋のタコオヤジだったら、こういうウブなお客さんにはもう少しだけ見せて恩を着せ、リピーターにならせるように社員教育を徹底するだろう。こんな話で威張ってみても始まらないが、架空の一期一会の話からも学ぶことはあるもんだと感心してしまう。いろんな一期一会があるもんだ。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月14日
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母は、私が物心ついたときからずっといろいろな内職をしていた。その姿を見て、私はすくすくと平均を大きく上回って育ってしまった。父は警察官だったが、自慢したいくらいの安月給で、母が内職をして働かないと大食いの私と兄を食わせられなかったのだろう。そんな苦労をよそに、弁当のおかずに文句を言ったりして、今本当に母と父に申し訳ないと思っている。因みに父は、あの震災の一月後に88歳で他界している。母は、私が大学生のときその内職を辞めて、近くのプラスチック成型会社に「パートのオバサン」として働きに出た。この3年後に高血圧で倒れるまで、母はここで働いていた。当時、母は身長が154センチ、73キロという体格で、「肝っ玉かあさん」とか言われていたようだ。その後、何回か病気をしたので、今は55キロ位になっている。「八ちゃんがね、オバサンとこの息子、すごく仕事するよって言ってたよ。一番だってさ。」私は大学の1年生のとき母が働いてるこのプラスチック成型会社で夏休み中バイトをしていた。そこに、やや知恵遅れの17歳の八ちゃんという子が働いていて、その子が母にそういったという。1972年、7月から8月にかけて約一ヶ月間半、生まれて初めて母と一緒の職場で仕事ができた。後にも先にもこれ一回だったが、今思うと私にとっては掛け替えのない毎日だった。私は、母の手前もあり一生懸命真面目に働いた。でも、昼は一緒に食べなかった。そんなある日、8月16日のことだった。その年の6月8日に忽然と私の前から消えた、ジーンズの似合う早苗から電話があった。昨日の日付とかは忘れるのに、こんなことだけは鮮明に覚えている。この日、父は泊まりでいなく、兄は留守で母と二人だった。「電話だよ。」母が夕食のときにかっかってきた電話を取り次いだ。「私、早苗。」私は一瞬、呼吸が止まるほど驚いた。6月13日の私の誕生日に、一生の思い出を作ろうといっていた早苗が、その5日前に忽然と姿を消した。僅か一ヶ月半の交際だったが、一つ年上で、その時婚約者もいて、それでいながらすべてから逃げていた彼女と知り合った。私は、結婚まで考えた最初の人だった。「ごめんね、あんな形でいなくなって。」「今、どこにいるの。」「金沢の友達のところにいるわ。探さないでね。」母は彼女のことをほとんど知らない。というよりも、誰も彼女のことは知らない。誰にも会わす機会さえなかった。そんな関係だった。食卓に母を一人にしているのが気になったが、私は早苗と電話を続けた。「家出の翌日にお兄さんに会ったよ。早苗の机の中から僕の住所を見つけたらしい。」「そう。」彼女は低くそう言ったっきり何も言わなかった。気まずい沈黙が続いた。「元気でね。じゃ、切るわ。さようなら。探さないでね。」しばらくして彼女がそういった。初めて、死ぬほど好きになった女性、早苗と私の最後の会話は「探さないでね。」という言葉で切れた。食卓に戻り、母には電話のことをほとんど話さずに食事を終えた。母も、何も聞かなかった。翌日も会社で何もなかったように母と一緒に仕事をした。19歳の夏休み、私は小さな心が切りもまれるような日々だったが、笑顔で毎日プラスチックの加工の仕事をして過ごした。母とは、それ以降も一切早苗の話をしたことはない。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月11日
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「綺麗ですね。」というと、はい、私綺麗ですよね、と答える人が多いフィリピン。実に分かり易い。腹にもないことは言わない国なのだろう。そして、言われたら素直に受ける。「綺麗ですね。」というと、いえいえ、とんでもありません、と答える人が多い日本。実際はそう思っている人も多いだろうが。腹芸の国、ニッポン。謙譲の美徳、とかはあまりない代わりに、素直に思っていることが言えるストレートな物言いができる国フィリピン。そして、見た目を大いに気にし、自意識の強い人が結構いる。確かに、言葉の差は大きいが、そういうことより、人の考え方、物言い、立ち居振る舞いの差などをしっかりと理解しないと、心地よく過ごすことができない。プライドが高いことは、両国民とも同じだがそれを如実に表わすかどうかといくことも問題になることがある。私たちはフィリピンでビジネスをしているのだから、この国の流れを理解して私たちから踏み込んでいかないと壁にぶち当たる。「タコさんは、ポギーですね。但し、ロロポギーさん。」訊くと、ポギーとはハンサムということ。思わず頬が緩む。ロロは、というとお爺さんとのこと。ハンサム爺さん、ということらしい。嬉しいやら嬉しくないやら。「はい、私ロロポギーです。」とフィリピンでは答えることがいいのだろう。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月10日
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その少女はラビンといった。少なくとも私にはそう聞こえた。もしかしたらロビンだったのかも知れない。東京は大根で有名だった練馬区にグラントハイツという、バカでかい米軍の家族が住む住宅地があった。周りのウサギ小屋と違い、大きい緑色やピンク、そして黄色などのカラフルな家が広い敷地の中にポツンポツンと建っている。野球ができるくらいに広がる芝生は、春の風に鼻をくすぐられるように陽炎を立てる。二間の長屋から滑り出てきた私には、その芝生のにおいを嗅ぐだけで外国をしっかり味わうことができた。小学校3年の時、私はそのロビンに恋をした。初恋だった。言葉は通じない。2つ年下だと一緒に行った中学生の重ちゃんが教えてくれた。私達はそのラビンの弟ポールとよくキャッチボールをした。ある夏の日、ポールの母親がキャッチボールをしている私たちに家の中に入るように言った。外国人の家の中に入るのは生まれた初めてだった。今までに、嗅いだことのないような上品な甘い匂いがする。びっくりしたのは、外からはガラス越しにも中が全く見えないのに、家の中から映画の画面を見るように外がはっきりと見えることだ。自分が住んでいた家は外から中が恥ずかしいくらい丸見えだった。これがアメリカの家なのか。お母さんがアイスキャンディーを出してくれた。英語が書いてある原色の派手な色紙に包まれている。紙を破ると溶けかけたアイスキャンディーが濃い赤い糸を引いて垂れた。ラビンが自分の写真を持ってきて見せてくれた。正装していて思いっきり笑顔の同じような写真が何枚もある。いつも窓越しにしか見ることのなかったラビンが目の前にいて写真を広げている。そして、何か話かけてくる。英語だ。恥かしそうに首を傾けて話すその言葉が全然分からない。英語が勉強したい、、、、。お父さんが帰ってきた。太く低い声が台所の方からする。姿は見えない。もう帰らねば。傾いたラビンの首が横から前に倒れて目が隠れた。お父さんは最後まで姿を現さなかった。砂埃の中を自転車で急いで帰った。私の胸のポケットには、ラビンが微笑みながら私にくれた一枚の写真が入っていた。しばらく行けずに夏休みなって浮いた気持ちで遊びにいったらラビンの家族はいなくなっていた。他の家族が住んでいた。一人で行って、一人でずっと芝生に座って遠くからラビンが住んでいた家をただ見つめていた。グラントハイツは、今は光ヶ丘団地という大きな団地に変わっていて、米軍住宅地は跡形もなくなっている。そして、私が育った六畳と四畳半二間の警察官住宅の家は、今は砂利がひかれた小さな駐車場になっている。変わっていないものがあるとしたら、それは私の金髪好きくらいのものだろうか。自慢にはならないが。そして、海外志向だろうか。オーストラリア移住、メルボルンに27年住、そして今はメルボルンとフィリピンのセブを行ったり来たりしている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月09日
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張りのある体、中学時代の話だ。73キロだった。慎重は中学2年で180センチを超えて、いつになったら止まるのかと心配したこともあった。身体検査が待ち遠しかった頃の話ではあるが。「あの、新しい教師は誰ですかって先生に聞いたらタコ君だったんですよ。」母は、父母会で同じクラスのあるお母さんから言われたといって馬鹿デカイ私を見ながら笑っていた。77キロだった。今日、フィリピンのセブからメルボルンに戻って体重計に乗ってみた。3か月で5キロ痩せたようだ。高校生いらいの重さ。胃腸を病んでいるようなので、早速近所の医者に行って看てもらった。張りのない77キロはやや寂しい。因みに10年前は95キロ近かった。「タンパク質と乳製品、それとお酒はダメです。」インド系のちょっと魅力的な先生に言われた。吸わないタバコとか言われたらいいのだが、三度の飯より好きな赤ワインが、、、、。次は、あの病みつきになりそうな大腸内視鏡だろうか。使い古したゴム手袋を裏返しにして洗うように、私の体の内側をきれいにしてまたすぐセブに戻れるなるように願っている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月07日
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「私、シングルマザーです。息子はね、ケンジっていうの。」セブでよく行くインダインの露店BBQ屋で、細身でわりとすっきりした顔立ちのジュリーが言った。26歳だという。彼女は露出度の高い白と黄色の縞模様の普段着のワンピース姿で笑みを作った。「韓国人、日本人の友達がけっこういたんだけど、今は子供もできて遊びには行けないわ。彼がやきもち焼きだし、第一お金もないしね。」ケンジという2歳の男の子があたりを走り回る。この名前はどうもひっかかる。「結婚しないのはね、旦那が浮気性かどうかみないといけないから。未婚で子供を産む子は沢山いるわ。」「ニュージェネレーションっていうんだねこういう子は。」インダインが口をはさんだ。「昔は、結婚してから子供を作ったんだけど、今はね。」「彼は、ショッピングセンターで夜の11時まで仕事。それから帰ってくる。ケンジはそれまで寝ないで待ってるわ。でも、稼ぎのいいマニラに移ろうと思っているのよ。」「あの子はね、昔ビキニバーで働いていたの。お腹には二人目もいるのよ。」ジュリーがちょっと席を外したときインダインがそう言い捨てた。ビキニバーとは、説明しなくても分かる場所。因みに、私が学生時代、東京には水着喫茶というのがあった。ここは、鑑賞だけの喫茶店。普通の喫茶店が120円くらいのとき、500円だった。と、聞いたことがある。同じビキニでも違いは大きい。「明日は彼が休みの日だから、きっと会えないわ。タコ、またねー。」そう流し目で言って、ジュリーはケンジを抱えてゆっくり揺れながら暗い路地を帰っていった。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月06日
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高校は、昭和55年に都立高校としては史上初の甲子園出場を果たした都立国立高校だった。近くい、後に憧れた同年代の天地真理が卒業して国立音楽高校がある。「吸いなよ!」国立南口のロータリーを越えて右側の狭い路地を入った所にあった「邪宗門」という喫茶店で、Mがショートホープを私に勧めた。高校3年の春、前年の学園紛争の結果、制服が廃止になり、Mは細長く白い足がしっかり見えるミニスカート姿だった。私は、勧められたままタバコに火をつけた。皆で「ジャモン」と読んでいたこの喫茶店は、中が狭く入り組んでいてアンバー色の光が鈍く漂う隠れ屋のような空間を与えてくれていた。因みに、このジャモン、マスターが亡くなって閉店した数年前まで営業していたという。因みついでに、私は19歳でタバコを止めた。これは、いい判断だったと今も思っている。Mは、1年の学園祭でそれまでの腰まで届くほどのおさげ髪を思いっきりボーイッシュにカットしてギターを抱え、「いいじゃないの幸せならば」を歌っていた。私も幸せにあやかりたくなった。2年のクラス替えの発表があり、同じクラスの中にMの名前があったときは、思わず一人で微笑んでしまった。国立の並木道は有名だ。春は桜並木が見事だ。駅から高校に向かって右側はカップルが、そして左側は団体で歩くように自然になっていた。私は左側が専門だった。2年の2学期頃からMは右側を歩くようになっていた。相手は反体制活動を始めていた前田という同学年の学生だった。長髪でやや猫背気味に歩く、翳のあるニキビ顔の男だった。そして、Mが学園紛争を引っ張るような集団の一人になっていった。私は細いガラスの花瓶のような彼女が、その内脆く壊れてしまうのではないかと心配した。「私ね、昔は東大に行きたかったのよ。」「それで?」「馬鹿ね、ヘルメットかぶって昼間からこんな所でタバコ吸ってたりして行ける訳ないじゃん。」Mと二人っきりになったのは、この邪宗門の時が初めてだった。彼氏とは続いていた。「タコ君、高橋和巳、読んでる?」「えっ、巨人の高橋和巳、本書いたの?」「相変わらず馬鹿言ってるね。『悲の器』『わがこころは石にあらず』いいよ。読んでみて。」私はおどけて見せたが、高橋の作品を読んでみようと思った。「どんどん、逃げて逃げて、逃げまくってね、そこできっと何か見つかるんだよ。きっと。」Mは、私の目を見ずに自分に言い聞かすように言って鼻からタバコの煙を吐いた。結局私は、強烈に彼女に2年間片思いをしいているだけで彼女との関係は終わった。学生運動にのめり込んでいったMは、それでも現役で学芸大に入り大学生活を初めていた。私は、予備校生活の中でもMのことが心から離れなかった。これじゃいけないと、7月のある日、思い切って会えないかとMを誘って会うことになった。国分寺の薄汚いそば屋で会った。私は、うどんのカレー南蛮を食べながら、久しぶりに彼女を見つめていた。ところが、学生運動は続けていると言っていたが、紺の半袖のTシャツを着て底抜けに明るく話続けるMを見て、それまで募っていた思いがスーッと霧散していった。あの薄暗い邪宗門で、涙を見せながら独り言を言っていたMは、私の心の中にしか残っていないのを知った。大学で新しい彼氏ができたとも言っていた。Mは大学卒業後、都内の小学校の教師になった。その後、三多摩地区の小学校の校長になったと聞いた。今、日本に一時帰国するたびにクラス会をやるが、彼女はこの30年近く出てきていない。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月05日
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1.ゆっくり、本当にゆっくり歩く人が非常に多い。速さを二倍にすると、国の医療費負担に大いに貢献するのではと期待したい。2.町内会などでどぶ掃除をする習慣がないようだ。3.生きているのか死んでいるのか、休んでいるのか寝ているのかわからない犬がいる。4.男も女も子供もつばを吐く。5.貧しい家では、15、6歳で母親になる子供が多い。そして、未婚の母が増えているという。6.乳の比較的大きな人が多い。私見として、この嬉しい原因にバナナがあげられる。バナナには乳を大きくするサポニンが多く含まれている。台湾、中南米、フィリピンなどがバナナの産地。ただし、何歳頃食べれば一番効果があるのかは定かではないので、ある程度年がいった人は無駄な努力になるのではと思われる。7.立ちションのご仁を一日に3人は見る8.足のふくらはぎが日本人のように太い人が多い。9.人前で鼻くそをほじくることに躊躇がない人がいる10.デパートなどで買い物をするとき。売り子さん同士で話をしていることが多い、というよりほとんど。しかし、客が行っても話を続ける律義さがあり、買う人の顔も見ないで品物を渡す売り子さんもいたりする。11.こちらから知らない人に挨拶したり笑ったりすると必ず返してくれる。無視されることはほとんどない。陽気で明るい人が多い。苦虫を食いつぶしたような顔をしている人が多い日本の都会などでやったら変人扱いされる。12.歌いながら歩いたり、仕事をしている人が多い。13.大笑いするときの音量と態度が非常に派手。14.セブも24時間寝ない街。15.一番人気のスポーツはバスケットボール。至る所に簡易リンクがあり、ゴム草履をはいてプレーしている人が多い。16.恋愛に関しては、年齢の差がほとんど問題にならないようだ。年の差を論うと、なんで年の差なんか気にするの、と言われたりして危ない世界に入り込んでしまいたくなるような錯覚を覚えることがある。17.自殺が非常に少ない国。先進国の日本に自殺者が多いことが分からないと言い切るフィリピン人がいる。幸せ度を比較したら今の日本より間違いなくフィリピンの方が上。18.日本人男性の細い小さな目が好きと発言するフィリピン人女性を複数人知っている。フィリピン人男性は皆目がクリクリ大きいのでと。隣の芝生現象か?毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月03日
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東京は山手の手線の池袋の隣、大塚駅にあった「武蔵予備校」で浪人時代の1年を過ごした。自慢じゃないが、受験したすべての大学をすべった。文系の午後のクラスは無試験で入れたが、午前の2クラスは試験に受からないと入れない。これにも1度落ちて2度目にやっとのことで入れていただいた。予備校の試験に落ちることほどマゾッけをそそられるものもない。因みに、2年前の大震災際、私はこの大塚駅にいた。母に頼まれて、年寄の原宿、巣鴨地蔵通りでイナゴの佃煮と塩大福を勝っての帰りのことだった、、、、。カフカを愛読し、ショートホープに手を出し、ついでに予備校同級の女子学生にも出そうと試みた。紀子さんといった。予備校の三人掛けベンチはお尻に冷たく硬かい。座高が高かったので後ろの人たちに迷惑をかけながらも、毎日前の方に座っていた。カフカの「城」を、西武池袋線の車内で毎日立って読みながら、自分をいつまでも城に辿り着けない測量士に見立てて納得していた。私は一生浪人から抜け出せないかも知れないと。都立白鳳高校卒の紀子さんと、東京中央区にある隅田川に架かる勝鬨橋を歩きながら、私の熱しやすく冷めやすい恋心が勝手に一人歩きをしているのを体が感じた。佃煮の匂いが恋を助長してくれている。「男と女、好きとか嫌いとかとは別な世界で、きれいな花を見たら『きれいね』とへらへらと笑っているような仲でもいいのでは?私はそんな関係が好き。」と別れの手紙に紀子さんは書いて寄越した。受験が間近に迫った正月明けのことだ。これ以上、悪い時期はない。人をその気にさせておきながら、こんな訳のわからない手紙をもらっても持って生き場がない。まして、栃木県出身の警察官の父に相談なんかするわけにいかない。はっきりと、「あなたは、顔が大きいし、私の趣味じゃありません。」とか言われた方がどんなに嬉しかったことか。今は、物事をはっきりとストレートに言い過ぎる人たちの世界、オーストラリアに身を置いていて、ときどき、日本人の曖昧な物言い、思わせ振りな態度、察する文化が懐かしいと思わないでもないが。10年ほど前にこの予備校を探して大塚駅で電車を降りたことがあった。一杯60円のコーヒーを出す喫茶店もあった界隈を歩いてみたが、この小さな予備校は姿を消していた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年08月01日
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移住を求めてメルボルン入りした頃、一人でよく公園でフィッシュアンドチップスを食べた。永住権が取れるあてもないのに、必ず取れると自分に言い聞かせるように信じていた。メルボルンは、至る所に売るほど公園がある。そして、どの公園も平日はあまり人がいないので、誰にも邪魔されずに勝手な夢をみていることができた。「妻はニューヨークで看護婦をしています。」セブで話をしたフィリピン人の役人が、日本食レストランの豪華な弁当に箸をつけながらそう言った。奥さんが、単身赴任で息子さんとニューヨーク暮らしなのだそうだ。フィリピンは、旦那さんだけでなく奥さんたちも海外出稼ぎをしている。その数は半端じゃない。「ニューヨークは公園があって、息子も安心して遊べるんです。セブには、そんな公園はありません。」そういえば、こちらにはちょっと憩える公園がない。しかしその代わりに、多くの巨大ショッピングセンターがある。多くの警備員に守られて、ショッピングセンターは安心して憩える場になっているのだろう。寝転んでフィッシュアンドチップスなんぞを食べることはできないが、私はよくいろいろなショッピングセンターに出向いて、30年近く前にメルボルンでしていたように、誰にも邪魔されずに見果てぬ夢を反芻している、、、、、。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年07月31日
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不思議に思うことがある。学校には視聴覚教室とかがあって、どうして臭覚教室とか触覚教室とかがなかったのだろうかと。味覚に関しては、家庭科である程度 はやってはいたが、この二つに関してはなかった。五感といわれて平等に扱われているようだが、実際にはこうして差別されていたようだ。 「お母さん、今日、臭覚の授業で秋田の漬物と、京都の漬物を嗅ぐ授業があったんだけど、やっぱり京都の漬物って上品に匂うんだよね。」「そうかい、いい授業だったね。でも、お母さんはやっぱり東北人だから。」臭覚教室とかがあったら、こんな会話が納豆などをかき回しながら、夕げの食卓で行き交っていた筈だ。 母愛用の「桃の花」と、母と同じ年のマリリン・モンローご愛用の「シャネルの五番」とかの臭覚教室では、部屋中がむせかえるくらい楽しそうだ。因みに、日本人は香水の匂いとタバコの匂いに晒されると思考能力が落ちるというデータがあるらしい。全く他意はないのだが、私の場合は香水は六本木あたりの現場検証でこのデータの正しさが証明されている。 触覚教室、なんてものがあったらどうだっただろう。「今日は、電気を暗くして、触覚だけで45分授業です。みなさん、想像力をたくましく磨きましょう。」とか先生が言い出す。私なんか、このためだけに学校に通ってもいいように思えて来てしまう授業になっていたことだろう。コンニャクとクラゲの触感の違いとか面白そうだ。因みに私は、自慢じゃないが高校1年の夏休みに近くの珍味工場で、来る日も来る日もクラゲを洗っていたことがある。アポロ11号が月面着陸したときにもクラゲを洗っていた。こんな授業があったら、もしかしたら、ヒキコモリなんていう現象も起こらなかったかもしれない。 臭覚教室と触覚教室があったら、きっと世の中変少しは変わっていただろうと思う。この二つが磨かれていたら、人生それ自体ももっと豊かになっていたのではないだろうか。今晩は、ジャワカレーにキムチ、デザートは小豆寒天とかを思い浮かべたいような気にもなってくる。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年07月31日
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「タコさん、オーストラリアから日本に帰らずそのままタイに行くことに決めました。」60半ばになる石川さんが挨拶に来られた。オーストラリアに都合7年いて、そのうち5年は英語を学ぶ学生生活をされていた。ご兄弟がこちらにいるということで、日本を出てオーストラリアで学生生活をしていたが、それに終止符を打って、学生仲間で知り合ったタイ人に話しを聞いて タイ行くことにしたという。「どうせ日本に帰っても家族もいないし。帰ってもしかたないんですよ私は。」そう笑顔でいう石川さんは独身だ。今まで身の上話も聞いたことがないので、どういう生活をしてこられてのかは分からない。「いつまでタイにおられるつもりですか?」私は聞いてみた。「これから一生いるつもりです。年金で生活できますからね。」近年、タイや今私が英語学校をやっているフィリピンに永住する人が多いが、目の前で話している石川さんもその一人になるという。因みに、私の友人でご夫婦でマレーシアに定期的に生活しに行っている方もいる。中高年、アジアが生活の場になってきているのだろうか。「オーストラリア、物価が高くなりましたよね。生活も厳しいです。その点、タイでは心配しないで生活ができます。」小柄な石川さんがメガネの奥で笑顔をつくった。東京、大阪、シドニーそしてメルボルンが世界で最も物価の高い都市、という調査もある。オランダ系の連れ合いに追い出されたら私にもタイやフィリピンがあるのか、なんて思った訳ではないが、なんだか心の支えにはなってくれそうにも思えた。しかし問題は、私には年金がないということ。日本では9年弱しかかけていなかったから、もしタイにいったらヤミでココナツジュースなんかを売ったりして生計を立てていかないとならないかも知れない。「バンコクは大変だから、少し涼しいといわれているチェンマイにそのまま行きます。」「ああ、あの玉本さんで有名になった。」石川さん、苦笑いしていた。今の若い方々には何の話か分からないだろうが。石川さんは、別れのエレベーターの中から満面の笑みを浮かべて、その童顔丸顔を深々と下げて挨拶をされて帰っていかれた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年07月29日
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「タミーさんです。」マネージャーの山崎さんが、私達の席に紹介してくれた。今はなき六本木クラブマキシムの新人アメリカ人のタミーは、顔の造作が全て派手で化粧も目一杯。もう少し言わせてもらえるなら体全体も、もうどこもかしこも隠せないくらい立派な金髪娘。「タミーちゃんはね、アメリカに彼氏がいるんだから口説いちゃだめよタコさん。」私のテーブル担当のみはるさんに釘をさされた。そんな甲斐性は新人サラリーマンのわたしにはないことを、みはるさんは見越してそう言った。因みに、みはるさんとは週末に赤坂で偶然すれ違って、すっぴんでまったく本人だと気づかない失態を演じてしまった経験がある。それ以来、何が怖いって女性のすっぴん程怖いものはない、と思うようになっている。「そうよ、独身で金髪好きって、まったく本当に隅に置けないんだから。」いつも豪華なドレスで甲高い声のみどりさんも言う。因みに、みどりさん、どうしていつもふわっと広がったドレスに身を包んでいるのかと思っていたが、踊ったときにそのあまりな華奢な体型に ビックリしたことがあった。服でカバーしていたのだろうか。体型を隠す服も怖いと思うようになった。怖いものが増えていく。この店では、ビックリすることが多かった。特に、勘定とかにも。座るだけで2万円は請求される クラブだから、座るだけじゃもったいない、なんて思ったわけではないが、若気の大至りとでもいうのだろうか、下界では全くもてないのに、この六本木の赤い絨毯で下りる洞窟のようなマキシムでは私は大いにはしゃいでしまっていた。田舎から出て来た青年が、会社の金で有頂天の勘違い。それでも、9歳からの筋金入りの金髪好き、嫌がるタミーを連れて映画にも行ったし、鎌倉へも行った。どちらも女友達をしっかり連れてくる彼女がいじらしかった。「あらいやだ、知らなかったの?タミーちゃん、先週であがってもうアメリカに帰ったわよ。お金沢山貯めて。ウブねタコさん、残念でした。」みはるさんが、パーラメントに火を点けて私に寄こしながら言った。水商売のつれなさなんてそんなものなのだろう。「ミルナさんです。」マネージャーの山崎さん、今度は小柄だけど目鼻立ちのしっかりしたアジア系の女性を紹介してくれた。見たら怒られそうな名前のフィリピン人と言った彼女からは、とんでもない被害を受けるハメになってしまったのだが、、、。常軌を逸した業後の「サカリ」は、行きつく港の見えないナンパ船。勘違いが地球を3周り半くらいして沈没。しかし、そのお陰でサラリーマンを自ら下りた時には、しっかりと身の丈に生きる勉強もさせていただき一応、更生。あの頃があったので、今このままあの世に行ったとしても、極楽の蓮の池に居並ぶ人たちの衣の洗濯をするくらいの職にはありつけそうな気がしないでもないが甘いだろうか、、、。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年07月26日
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「済みません、そのサンダル、どこで買ったんですか?」フィリピンのSMという大きなショッピングセンターでフィリピン人の中年の女性に声をかけられた。「明日、弟の誕生日なんで、そんなサンダルをプレゼントしたいと思ってるんです。でも、あまり見かけないやつですね。」「これは、シンガポールで買ったやつなんですが。」そんな調子で会話が始まった。その筋の女性からは何度か声をかけられたことのあるセブだが、そういう女性は一目見て分かる厚化粧の女性か、または孫ほどの年齢の女性で普通なら見向きもされない感じの女性なので身構える。ただ、このサンダル女性は器量は10人並以下で、人の良さそうな感じで何の警戒も必要なく、自然に会話が始まった。昨年の10月のことだった。「そうですか、英語学校をやるんですか、私こちらの学校の非常勤講師だったんで興味ありますよ。実は、私の母は日本人なんです。私、愛子っていうんです。」まともな話が弾んで、お茶しながら話しが続いた。「母の手料理をごちそうしますから、今度家に来てください。友達がインターネットカフェをやっているんで、今、その仕事を手伝っているんです。いろいろ、ビジネスの話もできますよ。」メルアドを交換して別れた。日系人だということで、親近感も感じられた。「こちらで家を買うときは、女性を紹介しますよ。ちゃんとビジネスですから大丈夫です。」フィリピン人でないと一戸建てが買えないということで、私に偽装結婚を手配するというのだ。2度目のメールでこんなことを言い出したので、私はそれを最後にこの愛子という女性との連絡を絶った。うさん臭さが全開だった。やっぱり、向こうから声をかけてくる女性に当たりはない、ということなのだろう。日本人のお母さんがダシに使われているようで悲しくもなった。否、この話自体怪しいかもしれない。韓国人には韓国人の母がいるとか言っているのかもしれない。先日、日本人相手にいかさまトランプ詐欺などを働いているグループがいると警告がセブの日本人社会に出回った。フィリピン人女性から「そのジャケットすてきね。どこで買ったの?」と声をかけられる。自称 Aiko:中年女性、カタコトの日本語を話す、母は日本人でハーフだという。明日弟(Hiro)の誕生日パーティーがあるからと家に誘われ、連絡先を交換、翌日会う約束をしてその日は別れる。私は、開いた口が更に大きく開いてしまい、思わず苦笑いしてしまった。私の話、そのままだ。あまりに芸がない。メールのうさん臭さで私は大丈夫だったが、会ったときはそのまますべて信じてしまったのだから、コロッと騙されてしまったのには変わりない。若い人を中心に多くの犠牲者が出ているようだ。あの愛子は、毎日カモの日本人を探してショッピングセンターを徘徊しているのだろう。これからは、声をかけてくる人は、美人とか目立つ人以外も気を付けないといけない、とか思ったわけではないが、自分にもまだある隙をしっかり埋めてやっていかないと、と念じさせてはいただいた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年07月25日
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「あなただけを」今、日本に帰国の際のカラオケで、いきなり歌い出すあおい輝彦の歌。http://www.youtube.com/watch?v=hwOaI7i-ZKQ「タコちゃん、運輸部の中山さんとデートしたんだって?本当なの?私、そういうの嫌なの。どうして私に黙ってたの。」サラリーマン1年目で、付き合い始めた静岡出身の亜由美が、同期の中山さんと私がお茶したのを彼女から聞いたといって憤慨していた。お茶飲んだだけで、別に後ろめたいことなど9割は無かったので、私も反発しそうになったが、これからは気を付けるようにすると言った。目移力が結構強かった頃のことだ。「社内恋愛って、周りからあらぬ噂とか立てられたりしてダメになることが多くあるから、私たちは絶対に荻窪の私のアパートから近い所以外でデートしないことにしようね。」ということで、亜由美とは3年半付き合ったけれど誰にも知られずにいた。「お世話になりました。今月一杯で退職することになりました。」寿退社で、亜由美が私の部に挨拶にきた。その時の笑顔は、半年前に別れるまで毎日見ていたあの笑顔だった。「お幸せに。」私は、それ以上何も言えなかった。お互い、2秒くらい見つめ合ったが、それが最後となった。家族以外、誰にも知られずに始まった恋が、こうして誰にも知られずに終わった。「連れて来る女性、連れて来る女性、どうしてダメになるの。お母さん、一生懸命面倒みてあげて、バカみたいだね。もう連れて来ないでね。」母も、いい加減にして欲しいと思ったのだろう、ある日真顔で私にそう言った。もっともな話だが、私も、好きで振られているわけでもなく、限られた経験だったが呪われたように理不尽に終わる恋の儚さに、もう二度と人を好きにならないようにしよう、などと2週間くらいは落ち込んでいた。「タコちゃん、あおい輝彦の『あなただけを』って歌、はやってるでしょう。タコちゃんもしっかり聴いてね。私だけを見ていて欲しいの。」亜由美がそう言った。昭和51年の秋、ラジオから流れるこの曲をカセットテープに撮って何度も何度も聴いていた。因みに、同時に聴いていたのは、「山口さんちのツトム君」と山口百恵の「横須賀ストーリー」だった。この歌に指導され、あなただけをと彼女の方を一途に向いていたら、三年半後には彼女は私から離れて行ってしまった。「これっきり、これっきりもう、これっきりーですか ♪ 」http://www.youtube.com/watch?v=vbmPQRsqJw8恋愛から受けた肩透し、恋愛への勘違いの後遺症はしつこく続いている、、、、毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年07月24日
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「パチンコ屋さんに入ったことなんかありません。」ちょっと前の話だが、無理にお茶させていただいた、27歳のグラフィックデザインを学んでいる留学生の女性の方がそういう。私は何も、ストリップ小屋とか、競輪、競艇、競馬、花札賭博、などの話しをしているのではない。たかだか、パチンコ屋の話しだ。ちょっと嫌な顔をされた。私は、嫌な顔をされるのが本当に不得意だ。これは一生治らないかもしれない。「バカねタコさん、パチンコってれっきとした賭け事よ。行ったことのない女性の方が圧倒的に多いのよ。世間知らずね。第一、あのタバコがだめ。私も行ったことないわよ。あんたがマイノリティーなのよ。バカじゃないの!」最近、親しくさせていただいている中高年女性からそう揶揄された。自己中とは本当に恐ろしい。子どもの時、邑山の叔父さんが遊びに来るのが楽しみだった。叔父さんは、来る前に必ずパチンコ屋に寄って来る。そして、沢山の景品をお土産に持ってきてくれ る。牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけて、寡黙だけど人を笑わせる邑山の叔父さん、戦争中は憲兵隊でソ連の捕虜になってシベリアで抑留生活をしている。そんな過去の陰を感じさせない優しい叔父さんだった。叔父さんは、母の出身地秋田から冬の間出稼ぎで来ることが多かった。叔父さんに連れられて、パチンコ屋に何度か行ったことがあった。落ちているパチンコ玉を拾って遊んだりしていた。結構、玉って落ちているもんだった。しかし、そんな日に限って、叔父さんは不調だった。「今日はダメだな。」なんて言いながらタバコのヤニで黄ばんだ歯を出して笑った。― ああ、今日も500円すってしまった。東京は大塚にあった「武蔵予備校」に通っていた19歳の夏、大学合格の自信が全くなく荒んだ気持ちを、そのままパチンコ屋に持ち込んでいた。親の脛かじりの予備校生が、親の金でパチンコに狂った。行くたびに500円すっていた。探せば、コーヒー60円の純喫茶もあった頃のこと。しかし、ある 日スパッと止めた。熱し易く冷め易い性格に感謝したい有り難い家系。但し恋愛に関しては、先方の方が先に冷めるのが常で、そんな時の私のしつこさは半端じゃなく、自分でも褒めてあげたいくらいだ。邑山の叔父さんは、私が高校1年の1968年12月に、出稼ぎ先の千葉県木更津の病院で42歳の若さで亡くなった。盲腸の手術から腹膜炎を併発した、という本当に残念な死だった。思い出す叔父さんは、やや体を斜めにして立って、左手に沢山のパチンコ玉を握って、素早く穴に入れて右手で連発する真剣な姿だ。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年07月22日
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