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家内がデパートで可愛いお菓子を買ってきました。桂華堂のお菓子です。以前買っていて、よく知っているお店でした。(笑)京乃ぴょんうさぎの形に焼いた可愛いお饅頭です。中には栗と小豆が入っています。日本茶だけでなく、紅茶にもあいそうです。うさぎ好き方へのお土産におすすめです。しあわせショコラやわらかいお餅の中に生クリームたっぷりのチョコレートが入っています。これは私には甘すぎました。(笑)
October 29, 2005
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お饅頭のように見えますが、お餅です。しっとり、もっちりとした餅生地と丹波大納言の粒餡がよくあいます。阿闍梨餅は比叡山の阿闍梨が厳しい修業中に、餅を食べて飢えをしのいだことに因んでいるそうです。このかたちは阿闍梨がかぶる網代笠を模っています。半生で袋に入って、日持ちしますので、お遣い物に最適です。でも出来たての阿闍梨餅も最高です。これも二つはいけます。(笑)最近何を思ったのか熱帯魚を飼い始めました。(笑)こちらのブログを書いていない時は、熱帯魚のブログを書いている思いますので、宜しかったら、お立寄り下さい。
October 26, 2005
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妙満寺にあります。 雪の庭は、松永貞徳の造営です。貞徳は清水・北野にも同時に庭園を造ったとされています。清水寺に「月の庭」、北野に「花の庭」、妙満寺に「雪の庭」を作りました。それぞれが成就院という坊にあったことから成就院 雪月花の三名園と呼ばれていました。真白に覆われた雪景色を想像してください。現在は「月の庭」と「雪の庭」しかありません。松永貞徳は江戸時代初期の京都生まれの俳人で和歌を細川幽斎に、連歌を里村紹巴に学びます。連歌から俳諧を文芸として独立させ、松尾芭蕉にも大きな影響を与えました。1629年(寛永6)俳諧大興行 雪の会 が行われ始めて俳諧が公式の場に登場しました。
October 24, 2005
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深泥池の北にあります。日什上人が1389年(康応元年)に六条坊門室町に妙塔山妙満寺を建立したのがはじまりです。応仁の乱など幾度の兵火で移り1583年(天正11)秀吉により寺町の二条に、そして昭和43年に現在地に移りました。こちらには娘道成寺の「鐘に恨みは数々ござる」で知られる安珍・清姫の鐘があります。紀州道成寺の霊話が歌舞伎などの芸能に取り入れられました。熊野詣での修験者の安珍が一晩の宿に泊まった庄屋の娘清姫と恋におちます。再会を約束して旅立った安珍は、清姫を裏切って逃ます。清姫は燃える恋の情から蛇になり、紀州道成寺まで安珍を追い、鐘の中に隠れた安珍を見つけた清姫は、炎を吐いて安珍を殺すと、自らも日高川に身を投じました。後に1359年(正平14)道成寺では安珍・清姫の伝説以来失われていた鐘を再鋳し、鐘供養を営みました。白拍子が舞いが終わると呪力で鐘を落とし、蛇に変わり日高川へと姿を消しました。その後近郊では災難が続いたため、清姫のたたりと恐れ、竹林に鐘を埋めましたが、秀吉の根来攻めのとき、掘り起こされ京の妙満寺に納められたといわれます。こちらに来た目的のひとつの仏舎利大塔は改修のため白いテントに覆われていました。残念でした。インドの聖地 ブッダガヤの大塔を模した仏舎利大塔です。釈迦牟尼仏の精神に帰れ という妙満寺の教えを象徴しているそうです。一階の内部には釈迦牟尼仏坐像が安置して有ります。
October 22, 2005
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上賀茂神社の境外摂社で、約500m東にあり、静かな林の中に建っています。祭神には天鈿女命を祀ります。参道の東側の 大田の沢 には平安時代より野生のカキツバタが群生し国の天然記念物に指定されています。神山や大田の沢のかきつばたふかきたのみは 色にみゆらむ (藤原俊成)と詠われています。5月ころになりますと約1500平方メートルの沼に、濃紫の花が咲き乱れます。ふだんは静かで小さな神社です。
October 20, 2005
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上賀茂神社の門前にあり人気のやき餅のお店です。葵祭にちなんで葵餅とも呼ばれています。つぶ餡をつき立ての餅で包みほんのりと焼き色をつけた、やき餅です。滋賀県産の餅米と岡山産の小豆を使ってるそうです。手作りですので形が整っていません。香ばしく、甘すぎず、美味しいです。ふたつはいけます。(笑)
October 19, 2005
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上賀茂神社の境内を出た、なら小川の水の流れは明神川と名を変えます。藤ノ木通りに沿って白く高い土塀の家が続きます。ここが社家の道です。社家とは上賀茂神社の神官の屋敷です。明神川をまたぐ小橋がかけられ、水をそれぞれ屋敷内に取り込み、庭を巡らせて、また川へ戻す仕組みになっていました。江戸時代には275軒もの社家が建ち並んでいたそうです。なり田社家の道の東側の一軒で1804年(文化元年)創業のすぐきで有名なお漬物やさんです。すぐきは上賀茂特産のすぐき菜を岩塩だけで自然に乳酸発酵させた京漬物です。ほどよい酸味と、ほのかな甘い香りで美味しいです。日本酒によく合います。すぐきは寒くならないと美味しくなりませんので、待ち遠しいです。
October 18, 2005
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上賀茂神社は正式には「賀茂別雷神社」といい、下鴨神社の祭神・玉依姫命の子、賀茂別雷神が祀られております。京都でも最も古い神社の一つです。この賀茂の地は、古くから豪族賀茂氏の勢力のつよいところでした。賀茂氏の氏神を祀ったのが起こりで、7世紀後半の天武天皇の時代に社殿の基が造営されました。朝延から重んじられ、5月15日の葵祭りには天皇の勅使がおもむきます。一ノ鳥居から参道の両側には芝生が植えられ広々としてます。二ノ鳥居を入ると細殿の前には祭神の降臨地と伝わる神山をかたどった円錐形の立砂が目につきます。厳かな雰囲気が漂う境内には朱塗りの楼門、高倉殿、本殿、権殿、などの社殿が建ちます。広い境内の社殿や木々の間を流れる「ならの小川」は、風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける(藤原家隆)と詠まれています。
October 17, 2005
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仙太郎の代表的な菓子です。面白いネーミングですね。2枚の皮の間にこぼれんばかりの餡を挟んだ最中です。ボリュームたっぷりの上に、控えめな甘さのため美味しく頂けます。最中は江戸時代半ば頃に生まれたわが国特有のお菓子で,自社で栽培した丹波大納言を氷室の純水で炊いているそうです。最近は甘党に変わりつつあります(笑)
October 14, 2005
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智恵光院通今出川上ルにあります。奥州の黄金商人金売吉次の屋敷であったといわれ、この地で義経ははじめて音次と会いました。1174年(承安4)鞍馬山から屋敷近くの内野八幡宮に参詣し旅の安全と武勇の上達を願い、金売吉次に伴われ奥州平泉の藤原秀衡のもとへ旅立ったといわれています。首途 とは出発の意味から、首途八幡宮と呼ばれるようになりました。寿永年間(1185年)の頃、源九郎義経が平家追討の折に首途に際して九州宇佐八幡宮よりを勧請して祈願したと伝わります。誉田別尊(応神天皇)・比賣大神・息長帯姫命(神功皇后)を祀ります。社伝によりますと、この地は古く平安京御所の北東の隅に位置し、当時より皇城鎮護の社として重んぜられ、皇后方の尊崇も厚く、桃薗親王の旧跡としても知られていました。
October 13, 2005
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庫裡この地は大徳寺家の別荘だったのを1450年(宝徳2)細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承を開山として龍安寺としました。応仁の乱で焼失後、勝元の子・政元が再興しましたが、1797年(寛政9)再び焼失しました。現在の方丈は西源院の方丈を移築したものです。山門をくぐるとキンモクセイのいい香で迎えてくれました。鏡容池まず山門を入ると鏡容池が広がります。かってはオシドリの姿が多く、おしどり池の愛称もあります。石庭三方を油土塀で囲まれ、白砂を敷きつめたなかに大小15個の石が配されています。石の配置から「虎の子渡しの庭」とも呼ばれ、禅の思想の影響を端的にあらわした名園として有名です。つくばい徳川光圀が寄進したと伝わる有名な銭形つくばいが方丈の北側にあります。中心の口を共用すれば吾、唯、足、知、(ワレタダタルヲシル)となり禅の格言が刻まれています。これは複製です。方丈横の苔庭
October 11, 2005
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先日雨で行けなかった龍安寺にいき、石庭を拝見してきました。、時間をわすれ禅の心を堪能して、ゆったりとした気分になり、お土産は秋の和菓子にしました。仙太郎のきんとん、栗巾着、芋かわ です。きんとんたぶん、ゆずが入っていて好き嫌いが分かれるところです。芋かわは表現が難しいですが、やわらかく、みずみずしい芋羊羹のようです。芋かわと栗の小さな粒がアクセントに入っています。少し甘みが強いですが、美味しく頂けました。栗巾着栗の小さな粒がはいって抹茶にあいそうな味でした。今日は久しぶりに、落ち着いた気分にさせてもらいました。
October 10, 2005
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足利尊氏生誕七百年を記念して特別宝物展が開かれています。尊氏、義詮、義満ら歴代将軍の直筆の所蔵品を展示しています。尊氏が新田義貞との決戦直前に決意をつづった直筆の請文が天竜寺から特別出品されていますが、達筆すぎて分かりません(笑)足利尊氏が夢窓国師を招いて開いた北等持寺がはじまりで、尊氏の死後その墓所となりのちに足利家の菩提寺になりました。霊光殿尊氏の念持仏だった地蔵菩薩と達磨大師、夢窓国師像、尊氏から15代義昭までの歴代将軍と徳川家康の木像が、安置されています。(5代義量、14代義栄を除く)庭園夢窓国師作として伝えられる庭園です。方丈の北庭には苑池、心字池西庭は古い木立で区切られ、背景には衣笠山がのぞめます。茶室清漣亭は村田珠光や相阿弥らと茶道を興した義政好みと言われています。書院から見た池、方丈池と清漣亭尊氏の墓
October 8, 2005
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1221年(承久3)義空上人がこの地に小堂を建て一仏十弟子像を安置したのがおこりです。当初は倶舎、天台、真言の三宗の霊場として壮麗を極めましたが、応仁の乱などで焼失しました。現在残る本堂は鎌倉初期に建てられた京都最古の建物です。堂内には行快作の本尊釈迦如来坐像を安置します。千本釈迦堂を建てる時、大工の棟梁が誤って柱を短く切り、困り果てているとき、妻のおかめが「短い一本に合せれば」と助言をしました。その後、夫の失敗を人に知られまいと、本堂の完成を待たずに自殺してしまいました。人々は憐れみ、おかめの供養塔を本堂の前に立てました。北野経王堂山名氏清が足利義満に兵を上げた明徳の乱で倒れた敵味方の兵士が供養され、江戸時代になって解体された遺溝の木材で復元されました。毎年2月にはおかめ福節分会、7月には陶器供養、8月には六道参り、12月には大根焚きなどの行事が行われます。
October 7, 2005
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上京区上立売通智恵光院西入にあります。北向山と号する古義真言宗の寺院です。小さなお寺ですが、境内をお堂がかこみ、木々が生い茂り、独特な雰囲気をかもしだしています。嵯峨天皇の病を弘法大師が祈頑で退散させたことから、弘法大師が同地をもらい受けて821年(弘仁12)に建立したと伝わります。弘法大師が大聖歓喜天像を安置した大聖歓喜寺が始まりです。境内は千本五辻まであったとされています。「時雨の松」と呼ばれる赤松があります。久邇宮親王が参詣のおりに、わか雨を樹の下で凌がれたといわれています。境内では御室の桜と同種の八重桜の「歓喜桜」や珍しい黄緑色の花をつける「御衣光」という品種の桜があります。桜の季節にはまた来てみたいお寺です。「染殿井」糸がよく染まるといわれ、明治時代まで染め物業者が水を汲みに来ていたという井戸です。
October 5, 2005
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光悦寺の近くにあります。本阿弥光悦が寄進した土地に子光瑳の発願により、1627年(寛永4)日乾上人が壇林(学問所)として創建された日蓮宗のお寺です。二代目吉野太夫のゆかりのお寺でもあります。吉野太夫は7歳から六条三筋町の林家に入り、14歳で太夫となり吉野と称しました。その美貌と教養で天下随一希代の名妓と言われ、和歌、連歌、俳諧、琴、琵琶、、書、茶湯、花、、囲碁、に至るまで諸芸はすべに秀でていました。井原西鶴が「なき跡まで名を残せし太夫、前代未聞の遊女也」と絶賛しました。参道にある朱塗りの山門は吉野太夫の寄進の吉野門です。本堂の裏手には太夫と夫の灰屋紹益の墓があります。太夫を偲んで植えられた吉野桜が満開のころの4月の第三日曜には吉野太夫花供養が催され光悦寺から太夫の墓前まで太夫道中が行われ、境内には野点茶席が設けられます。
October 4, 2005
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北区鷹峯光悦町にあります。本阿弥光悦は江戸時代の文化人、芸術家で、徳川家康から鷹峰の地を拝領しました。法華宗を強く信奉した光悦は草庵のそばに芸術家、工芸職人を呼び芸術村にしました。養子の光瑳、孫の光甫、弟の宗和ら一族をはじめ、茶屋四郎次郎や尾形宗柏、また文化人の筆屋妙喜、紙師宗二など芸術・職人衆と工芸集落を営みました。当初は55軒あったといわれています。草庵は光悦の没後本法寺12世日慈を開山として寺に改め光悦寺とし、1656年(明暦2)には本堂が建立されました。境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒など七つの茶室があります。お寺というよりも風雅な山荘の雰囲気があります。大虚庵前の竹を斜めに組んだ光悦垣が有名です。紅葉が色づくころにもう一度きたいと思っています。鷹ヶ峯三山鷹ヶ峰 鷲ヶ峰 天ヶ峰光悦墓
October 3, 2005
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大将軍八神社は北野天満宮の南、一条通りにあります。平安遷都のおり桓武天皇の勅願により方位守護の神として内裏の北西角に造営されたのが初まりで、当初は大将軍堂と言われていましたが、江戸時代初期になって大将軍社と改められ、さらに大将軍八神社となって現在に至っています。大将軍とは陰陽道でいう方位の吉凶を司る八神の一つで、東西南北の四方を三年ごとに移り、その宿る方位を犯すと災いがおこるといわれ、古来より畏れ、また信仰されてきました。平安時代末期から鎌倉時代にかけて奉納されたと思われる百体以上の将軍像(神像)が所蔵されています。現在でも建築、引越し、旅行など方位の災厄から守ってくれる神様として、親しまれています。
October 1, 2005
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