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あきなくて、好きな和菓子のひとつです。美玉屋さんは左京区下鴨にある おまん屋さんです。きな粉をかけすぎて、黒蜜を隠してしまいましたが、きな粉の下にたっぷり黒蜜がついています。想像してください。少しやわらかいめのだんごに、黒蜜ときな粉がかかっています。黒蜜ときな粉の取合せは良くあいます。夏は冷蔵庫で冷やすと、黒蜜が少し固まり、ひんやりとして美味しいです。
July 30, 2005
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おらがむらは志葉漬風味のお漬物です。胡瓜、茄子、生姜、茗荷、紫蘇の葉と色々な味が楽しめます。京都の暑い夏にはあっさりとした志葉漬は欠かせません。酸味としその香りが胃を刺激して箸がすすみます。紫蘇は免疫力を高め、解毒薬、咳止めにも使われほどですので、健康にもよいたべものです。またお茶漬けだけでなく、炒めご飯、おにぎり、お酒の肴、お茶請けなどに重宝します。
July 29, 2005
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広隆寺のから東映太秦映画村にいく途中にあります。祭神は、秦の始皇帝と弓月君(ゆづきのきみ)秦酒君(はたのさけのきみ)です。功満王の子で一万八千六百七十余人を引き連れて渡来したとされる弓月君。弓月君の孫酒君は、宮中に織物をうず高く積んで献上したところから、うずまさの姓を与えられたとされる人物でその子孫が、広隆寺を建てた渡来人秦河勝です。元の名は大辟神社と言いました。辟は開墾を意味する言われていますので、土木技術に卓越し,治水整備に大きく貢献したことから来ていると思われます。広隆寺建立後、桂宮院境内に鎮守の社として祀られていましたが、明治の神仏分離で社はこの地に移されました。毎年10月12日の夜に、広隆寺の境内で行われる京都三大奇祭のひとつ 牛祭りは、 牛に乗る摩多羅神が白面をかぶり、赤鬼青鬼を従えて練り歩き、五穀豊穣を祈る奇祭だそうです。最近は行われていないと聞きましたが、一度見てみたいものです。
July 28, 2005
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京福電鉄 嵐山駅から北に向かい、天竜寺を少しこえた所にあります。道明寺糒を用い、2枚の塩漬けした伊豆の大島桜の葉に包まれています。餅は色づけしていない白色です。桜餅の魅力はあの桜の葉の香り、そして餅の食感を楽しむそうですが、私はさくらの葉の塩味と餅のあんの甘みとを一緒に楽しむ方が好きです。少し小ぶりなので二つは頂きます。
July 27, 2005
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嵐電 車折駅を降りれば目の前にあります。車折神社(くるまざき)は儒者 清原頼業を祀ります。神社の名前のいわれは後嵯峨天皇が社前を通りかかった際、石に乗り上げ、御車の轅(かなえ)が折れたことから名づけられたと言われています。芸能の神様、、商売繁盛、、神石祈願の社としても知られています。芸能神社の玉垣には、タレントや歌舞伎役者、日本舞踊、宝塚歌劇などの人の名が記されており、朱塗りの鳥居には芸能関係者シールがいたるところに貼ってあります。細川たかしのシールが妙に目立っていました。本殿の前には小石が積まれています。これは神社から授かった祈念神石を自宅に持ち帰り、願い事がかなえば、御礼を書いた石を添えて奉納するという習わしによるものです。ほとんどが家内安全、学校の合格御礼ですが、売掛金の回収もありました。時間がなく大物有名人の玉垣は見つけることが出来ず残念でした。こんどゆっくり時間を取ってきたいと思います。
July 26, 2005
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交通量の多い交差点の一角にあります。北西に向かえば高雄、東と南に向かえば京都市内、西に向かえば嵐山と分かれ道になっています。車のけん騒と木々に囲まれた静寂とが妙にマッチしています。この神社は光孝天皇の皇后班子女王を祭神としています。班子皇后は宇多天皇の母君です。福王子神社は仁和寺の守護神として、徳川家光と仁和寺法主覚深親王により1644年(寛永21)に仁和寺大伽藍と共に新たに造営されました。前身は深川神社でありましたが、残念ながら応仁の乱で焼失しました。またこの地は班子皇后のお墓とも言い伝えられています。境内にある夫荒社は平安時代洛北氷室より御所に氷を運ぶ風習があり、氷を運ぶ役夫がこの辺りで、力尽きて亡くなり、その霊をまつり、人々の安全を祈願したそうです。暑い中、山を超えて氷を御所まで運ぶのは大変な苦労があったと思われます。
July 25, 2005
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子供神輿を先頭に花傘巡行は始まりました。1996年から後祭のかわりに花傘をはじめ花街の踊、祇園万燈会の踊、鷺舞、久世六斎念仏踊、祇園太鼓、子供神輿、馬長、祇園囃子など16団体約1000人が巡行します。山鉾巡行と違い、たいへん華やかで、芸能的色彩がつよく出ています。それにあまり肩苦しくありません。巡行コースは八坂神社・石段下を10時に出発し-四条通-河原町通-御池通-寺町通-四条御旅所- 四条通-石段下-神幸通-八坂神社に12時帰着四条大橋で見ましたが、狭い寺町通で見るのも良いかもしれません。八坂神社では午後から獅子舞、さぎ舞、田楽、六斎、小町踊などが奉納されました。
July 24, 2005
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新町通松原を少し下ったところです。今は民家に囲まれてひっそりと建っています。しかし昔は境内はひろく西洞院の五条天神とつながっていたそうです。御祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)・天鈿女命(あめうずめのみこと)を祀り、道の神、旅を守る神、、夫婦円満、縁結びの神として信仰されています。古文書等は天明の火災などで残念ながら、ことごとく焼失したそうでが、794年(延暦13)の平安遷都より前からこの地にあり、古い歴史を持つ神社です。今昔物語集や宇治拾遺物語にも登場しています。歴史を重ねるほど小さくなって、少し悲しく思います。
July 23, 2005
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仏光寺通猪熊角のあります。境内には高さ約20mの大きな くすのき があり、 小さな神社を覆っています。794年(延暦12)桓武天皇が平安遷都されたとき 国家安寧子孫長久万民豊穣を祈願して長岡京より当時の三条坊門東洞院(東洞院通り御池上)に移され、その後たびたびの兵火にあい1574年(天正2)織田信長により五条坊門猪熊の現在地に建てられました。天照大神を主神として祀り、八幡大神と春日大神が左右に祀られております。悪疫消除、子孫長久、開運の神と崇められ、毎年11月3日に天道神社例大祭をおこないます。今年から夏越の大祓い(なごしのおおはらい)の 茅の輪くぐりに明治期の神仏分離で中断していた茅の輪くぐりの際のお札授与を約130年ぶりに復活させました。江戸時代の木版を使って、すり上げて当時の文様を復元しました。 この天道神社は、江戸時代から茅の輪くぐりの際にお札を渡していましたが、絵に仏教と関わりの深いハスの花が描かれていたことから、お札を使用しなくなっていました。
July 22, 2005
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壬生寺の向かいにあります。残念ながらお参りはできません。昔六角櫛笥のあたりに小さな嗣があり、近くの貧しい筆売りの老女が、熱心にこの地蔵を拝んでいました。強風で家の屋根が壊れ、嘆き悲しんでいると、若い法師がやってきて屋根を修理してくれたといいます。その法師は日ごろ参拝していたお地蔵さんの化身だったということです。その地蔵は屋根葺地蔵と言われるようになりました。東京国立博物館に収蔵されている土佐光信筆 星光寺縁起絵巻 に描かれているそうです。現在は新徳寺の本堂に安置されています。また新徳寺は新撰組とも関係があります。新撰組の前身浪士隊の本営が置かれた場所です。1863年(文久3)2月23日の夜、山岡鉄太郎や清河八郎、近藤勇ら234名はここの本堂に集結しました。ここで清河八郎は尊攘を訴えましたが、意見は分かれ、また幕府は不穏な動きに警戒し、横浜警護を名目に浪士隊の江戸への帰還を命じます。あくまで将軍の警護を主張し京都に残留した一派がありました。これが芹沢鴨、近藤勇達で、やがて新選組が結成されます。
July 21, 2005
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末富の両判を頂きました。京菓子司 末富 は 明治26年に 老舗亀末廣 から暖簾分けされたお店です。京都では有名な京菓子店で、場所は松原通室町東入るにあります。祇園祭の山鉾巡行も終わりましたが、今年のお稚児さんはこちらのお孫さんでした。両判とは大判2つの意味だそうです。この両判は黒砂糖としょうゆの2種類の麩焼き煎餅です。片面に味付けがしてあり、すこしかために焼いてあります。表現するのは難しいですが、ふわっとしたところに、少し歯ごたえがあり、ほんのり甘い上品な味です。抹茶にあうかもしれません。こちらの野菜煎餅も美味しいです。野菜煎餅は玉子煎餅に、れんこんやごぼうや木の芽などを薄く切ったものを上にのせて、厚からず、かたからず焼いてあります。
July 20, 2005
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菊水鉾町にあります。武野紹鴎当初は三条西実隆に、和歌や連歌の指導を受けておりましたが、藤原定家著の歌学入門書である 詠歌大概之序 に茶道の極意を見出したといわれています。武野紹鴎は佗び茶を確立した村田珠光の門人 藤田宗理 や伝統的な書院の茶を伝える 十四屋宗倍 などから茶を学び、村田珠光 が理想とした侘び茶を完成させました。そして千利休に受け継がれていきます。足らざることに満足し、貴族趣味の書院茶をさけ、藁屋根の四畳半に炉を切って茶室とし、唐物の茶器のかわりに信楽、瀬戸などの日常雑器を茶の湯に取り入れました。室町時代ここに夷を祀る社の隅に名水 菊水の井 が有り、武野紹鴎はこの井をこよなく愛し庵を建てました。夷と大黒は対のものとして大黒庵と名付けられたそうです。また菊水鉾は菊水の井に因んで名付けられました。
July 19, 2005
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昨日八坂神社で神輿を見てきました。祇園祭の神幸祭で三基の御輿が揃い踏みし、差し上げを行ないます。八坂神社前の交差点は三つ神輿会のかつぎ手で埋め尽くされて圧倒されます。挨拶のあと威勢よく何回も差し上げられます。一基2トン近くあるそうです。どの神輿も大きく綺麗で威厳がありました。そして祇園会の古事に習い三基の神輿はそれぞれに四条お旅所まで巡行します。中御座の神輿屋根に鳳凰をのせ、その口に稲をくわえ六角形の形をし、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)がのられます。災厄を克服する強力な神威の神三若神輿会この神輿には上久世の駒形稚児が騎馬にて供奉することが慣わしになっています。東御座の神輿屋根に宝珠をのせ、四角形をして素戔嗚尊の后神 櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)がのられます。恵方の神四若神輿会西御座の神輿屋根に鳳凰をのせ、八角形をし、素戔嗚尊と后神の櫛稲田姫命の子の八柱御神(ヤハシラノミコガミ)がのられます。方角の守護神錦神輿会あらためて祇園祭のスケール大きさに感心しています。
July 18, 2005
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祇園祭の最大のイベントです。四条堺町に設けられた関所で籤改めがあります。江戸時代には京都所司代の役でしたが、現在は京都市長がつとめています。稚児が馬に乗ってやってきて、人の肩の上に乗りうつり、そのまま正面に掛けられたはしごで鉾上にのぼります。これは稚児の神聖な力が地面に降りると失われてしまうからといわれています。巡行は注連(しめ)縄切りから始まります。斎竹(いみたけ)という竹細工が建てられており、四条通りをはさんでそこから注連縄が吊るされています。これは神域との境であるわけで、稚児が太刀で斬ることにより、結界を解き放ち、各山鉾は先にすすむことができるようになるのです。上の右の写真は注連縄を切る寸前です。一番籤の蟷螂山函谷鉾車輪の下に竹や木の枝を敷いて水を掛け、横向きに網を引いて車輪を滑らせ、一気に方向転します。このときは音頭取りも四人になり、囃子も急テンポになり迫力満点です。この辻回しが、巡行のクライマックスといえるかもしれません。辻回しは四条河原町、そして河原町御池、御池新町の交差点で行われます。御池通を進む長刀鉾新町通に入った長刀鉾家に当たらない様にゆっくり進みます。新町通は狭いので目の前を鉾が通り迫力があります。そして各山鉾町へ帰って行きます。これから神幸祭がありますので神輿を見に行ってきます。
July 17, 2005
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長刀鉾の近くに用事がありましたので、朝の様子を撮ってきました。9時頃でしたがそこそこの人出です。ビニール外されていたので直に見ることが出来ました。長刀鉾の前懸及び胴懸は色鮮やかでとても綺麗でした。船の形をしています。祭のあと(もう一日あります)明日はいよいよ山鉾巡行です。天気は大丈夫そうですね。張切って行ってきます。
July 16, 2005
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昨夜久しぶりに夜の祇園祭に行ってきました。子供に綿菓子を頼まれたのはいいのですが、どこを探してもありません。2時間ほど歩いて占出山の近くでやっと見つけました。人気がないというか、売れなくなたのでしょうか。パイナップルやマンゴーやいちごを使ったものが増え、屋台の菓子にも時代の流れがありまね。なにしにきてるやら。癒してもらったのが、浴衣を着た山鉾町の粽などを売る声です。数人の子供たちが声をそろえて粽どうですか 扇子どうですか 手ぬぐいどうですか うちわどうですかと連呼します。可愛いこと。帰りに四条傘鉾の前で、くじ改めのリハーサルをしていました。山鉾巡行の一つの見せ場です。
July 16, 2005
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今日は宵々々山 天気も良く夜は沢山の人出でしょう。祇園祭りのもう一つのお楽しみです。山鉾町の旧家では表の格子をはずして、秘蔵の屏風などを飾り付けた座敷を解放する屏風飾りが行われます。これを屏風祭を言われています。江戸時代、蔵で保管した屏風を虫干しを兼ねて室内に飾ったのが始まりです。祇園祭礼図屏風 海北友雪筆江戸時代の彫刻の名人の左甚五郎の作屏風と陣羽織と鎧兜お宝を沢山拝見できて、まるで美術館に来たように錯覚するほどです。目の保養になりました。
July 14, 2005
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長刀鉾から八坂神社まで、お稚児さんの追っかけをして参りました。本当に可愛いです。今日は長刀鉾稚児社参が行われました。長刀鉾稚児が、立烏帽子水干姿で従者を従え、騎馬(白馬)に乗り、八坂神社に詣で、俗に言う お位貰い の神事です。八坂神社へ参り五位少将の位を授かり、神使いとなります。稚児は精進潔斎の身となり、稚児屋と呼ばれる家の養子という形となり、男手により身の回り、食事の世話などが行なわれます。今はきゅうり以外は食事はうるさくないようです。行列風景四条大橋を渡ったところ八坂神社境内には入ったところ清めこの後、本殿で五位の位を授かります。雅楽が奏でられ厳かな気分になります。暑い中、立派にこなし、ご苦労様でした。
July 13, 2005
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鉾建ては 3日たち、飾り付けされています。本日から鉾の組立が完了すると、鉾は祇園囃子を奏でながら、町内の試し曳きが始まります。長刀鉾鉾先に疫病邪悪をはらう長刀をつけています。この鉾は古来くじ取らずで必ず巡行の先頭を行き、生稚児の乗るのも現在この鉾のみです。前懸及び胴懸は、インドや中国近辺の絨毯であり、古くて、とてもおもむきがあります。函谷鉾鉾の名は、中国戦国時代斉の孟嘗君が家来の鶏の鳴き声によって函谷関を開けさせ脱出できたという故事によります。前懸は旧約聖書創世紀の場面を描いた十六世紀の毛綴で重要文化財です。柱の一部が新調されたようで檜のいい香がしていました。菊水鉾町内にあった菊水井戸にちなんで名付けられ鉾頭には金色の菊花をつけています。昭和27年に 88年ぶりに再興され、以来年々装飾が充実している昭和の鉾です。
July 12, 2005
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菊水鉾が少し遅れてやぐらを組み立てています。車輪を始めてまじかで見ました。直径2m位でしょうか。 函谷鉾長刀鉾、函谷鉾は鉾の屋根の部分を組み込まれ、ほぼ土台は出来上がっていました。月鉾の底面鶏鉾の屋根部分の組み込み作業月鉾と鶏鉾は鉾が横倒しにされ、鉾の屋根の部分を組み込むところでした。全て手作業のようです。起こすのはクレーンを使うと思っていましたが、おそらく長い木が2本差してあったので、てこの原理で起こすのだと思います。あと1時間くらい待っていれば見られたでしょう。
July 11, 2005
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今朝7時より長刀鉾、函谷鉾、8時より鶏鉾、月鉾の鉾建てが始まりました。菊水鉾は少し遅れているようでした。左の写真は長刀鉾です。建て方と呼ばれる職人の人たちが、釘を1本も使わず、荒縄だけで柱を固定する 縄がらみ という昔ながらの手法で、やぐらを組み立てていきます。縄がらみは12トンの鉾を柔軟で強靱なものとしてささえます。写真すべては午後1時頃のものです。 函谷鉾やぐらが完成すれば、横倒しにし、鉾の屋根の部分を組み込みす。そして起して車輪を支える石持をはめ込み、上部の屋台部分を組み立てていきます。年配の方が若い人に教えながら組み立てていくさまは、伝統を感じさせます。準備も本格化し祇園祭のムードも高まっていきます。
July 10, 2005
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源経基を祭神とするこの社は、武運の神として知られています。源経基は清和天皇の第六王子(貞純親王)の長男。清和天皇には孫にあたることから六孫王と呼ばれ、平将門の乱の平定などに活躍しました。源氏の姓を与えられ清和源氏の祖となります。神社は963年(応和3)経基の死を悼み、その邸宅跡に子の満仲が建立したのに始まります。清和源氏の流れをくむ源頼朝や足利氏らに保護されましたが、応仁の乱などで衰退していきます。境内中央に深い緑の神竜池があります。満仲が誕生したとき、産湯に使った井戸に、子の健やかな成長を祈り弁才天が祀られました。そのため井戸の水は安産の水として親しまれています。この井戸水は龍の口から出ており、これは経基の遺言に 八条亭の池に龍神となって魂を留め子孫の繁栄を守護する と書かれたことからきています。敷地の北側には新幹線がはしっています。新幹線建設のため広大な庭園もあった境内は三分の一になったそうです。
July 9, 2005
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今日の夕食は夏の京料理の主役鱧の ハモの落としです。ハモの小骨を切り湯引きして冷やしたものです。京都では、祇園祭の時にハモを食べることが多く、祇園祭を鱧祭りと言われるぐらいで、懐石料理には欠かせない食材です。また大阪の天神祭にもハモは欠かせません。小骨は多いですが、生命力の強いのが特徴で、味は淡白で上品です。ハモ皮にはコンドロイチンが多く含まれていて、コンドロイチンは、人の皮膚の老化防止に役立つ言われていますので、特に女性の方に食べていただきたい料理です。今日のハモの落としは、梅肉たれ、からし酢みそ、わさび醤油でいただきます。自分の場合は梅肉たれ、からし酢みそで酒の肴にし、最後にわさび醤油で御飯を食べます。祇園祭はこれが無いと始まりません。京都新聞によりますと、この15年で生けハモの入荷が倍増し、しめたハモを逆転しました。生けハモは、しめたハモの三倍するそうですが、京都のグルメブームのお陰で増えてるようです。ピークはやはり宵山前後で一日に2万匹入荷するそうです。
July 8, 2005
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豊臣秀次のお墓の右手に小さなお堂があります。このお堂の中央に安置された地蔵菩薩像は、秀次一族の処刑の際、大雲院の貞安上人が刑場の片隅にその木像を持ち込み、次々と打たれる子女たちに引導を授けたと伝えられています。極楽浄土へ死者を導く 引導地蔵 といわれて崇敬されています。この像は平安の名仏師定朝の作といわれています。お堂の前に立つとお堂内がライトアップします。角倉了以が瑞泉寺を建てたのはお寺の説明書きによりますと、秀次事件に対する角倉家の強い思いがあったと思われます。それは事件の16年後、塚は荒れほうだいでありましたが、やがて秀吉の十三回忌を前にして大仏殿方広寺の再建が決まり、その建築資材を運搬するための安定した水運が必要となり、角倉了以に高瀬川開削工事の許可が下ります。また角倉了以の実弟で本家 吉田家を継ぐ吉田宗恂は、後陽成天皇の脈を取るほどの医師でしたが、豊臣秀次の家臣でありました。事件の連座をまぬがれた宗恂は、やがて慶長15年に亡くなります。角倉了以が瑞泉寺を創建する慶長16年は、宗恂の一周忌にあたりました。その様なことから秀次一族と弟宗恂への弔いの意味があったのでしょう。
July 7, 2005
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木屋町通三条を少しさがったところにあり、門前には 従一位前関白豊臣秀次公之墓所 の石碑があります。1611年(慶長16)に角倉了以によって建てられました。寺伝によれば瑞泉寺の寺名は創建時に、京極の誓願寺の法主教山上人が豊臣秀次公におくられた法名 瑞泉寺殿高巌一峰道意 に由来しているそうです。豊臣秀次は豊臣秀吉の実姉の子で、秀吉の甥にあたります。秀吉に大名として取り立てられ、そして養子となり、秀吉から関白職を譲られました。ところが1593年(文禄2)に秀吉に実子秀頼が誕生すると、両者の関係は悪化し反逆の汚名をきせられ、1595年(文禄4)7月15日に高野山で切腹させられます。しかしそれだけではすまず、8月2日には秀次の子女と妻妾の一族三十余名が三条河原の処刑場で惨殺されました。処刑場には大穴が掘られ、死骸が次々と放り込まれていきました。そのあとには塚が築かれて頂上には秀次の首を納めた「石びつ」が据えられて、秀次悪逆塚 文禄四年七月十四日と彫られ、人々への見せしめにしました。これが「悪逆塚」「畜生塚」と呼ばれました。「見守る群集念仏称え四辺すすりむせび泣く声満ちみち、目も当てられぬご成敗」(武功夜話)「二十余人切り重ねければ、河水も色を変じたり」 (甫菴太閤記)と書かれています。角倉了以は彼らの菩提を弔うことを思い、帰依していた立空桂寂と相談して、新たに塚を造って遺骨を改葬し、悪逆 の二字を削って、六角の石塔をたてました。ここに佇むと手を合わせずにはいられません
July 6, 2005
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新京極通と錦市場の接点にあります。平安時代に道真の父、参議是善卿の屋敷 菅原院に祀られたのが始まりです。後に嵯峨天皇の皇子、源融の旧邸六条河原院に移され、さらに、天正年間に行われた豊臣秀吉による都市整備でここに移されました。入ってまず目に付くのが牛の像です。触った部分がよくなるいわれており、頭や腰、腹の部分が触られて色が変わっています。境内には京の名水 錦の水 が湧き出ています。この水は水質検査されており、お茶やコーヒーに美味しく、地元の人や料亭の人が錦の水を持って帰るそうです。ペットボトル持って行けばいいですよ。たくさんの人がここに立寄り、名水を飲んだり手を洗ったりして、休息されています。私もこの近くに来たときは必ずより名水にふれます。
July 5, 2005
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太鼓楼は西本願寺の北東の角にあります。1865年(慶応元年)3月、池田屋騒動以後壬生屯所が手狭になってきたので西本願寺に移されます。西本願寺は市中取り締まりに便利な所で、また本願寺が勤王の志士とかかわりが強く、監視の意味もあって、ここに移されたと思われます。山南敬介は反対していましが、切腹後、移転されたということです。太鼓楼は、新選組の副長助勤以上の幹部が寝泊りしていたそうです。北集会所は姫路市の本徳寺本堂として移され現存しています。新選組は境内で実弾を使った軍事訓練をしたり、豚を飼ったりして、寺側に大変迷惑をかけたといいます。西本願寺の我慢も限界にきて、1867年(慶応3)6月に不動堂村に新しい建物を建てて、移転費用をすべて出し、屯所を移してもらいました。移転してもらって、ほっとしたことでしょう。
July 4, 2005
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四条通はちょうちんが吊るされ祇園祭の雰囲気が出てきました。山鉾のある町内は少しずつ準備が始まっています。祇園祭の最大の見せ場である山鉾巡行の順番を決めるくじとり式が昨日(2日)京都市役所で行われました。先頭は毎年くじ取らずの長刀鉾です。続いて山一番は、蟷螂山が引き当てました。くじ取り式は、山鉾巡行の先陣争いが絶えなかったことから、応仁の乱後に巡行が再興された1500年(明応9)から始まったといわれています。江戸時代には六角堂の前で京都所司代の役人列席の上、くじが引かれたそうです。巡行の順番は以下の通りです。 (1)長刀鉾(2)蟷螂山(3)孟宗山(4)山伏山 (5)函谷鉾(6)占出山(7)綾傘鉾(8)伯牙山(9)鶏鉾 (10)保昌山(11)木賊山(12)油天神山(13)菊水鉾 (14)郭巨山(15)四条傘鉾(16)霰天神山(17)月鉾 (18)白楽天山(19)芦刈山(20)太子山(21)放下鉾 (22)岩戸山(23)船鉾 (24)北観音山(25)橋弁慶山(26)浄妙山(27)鈴鹿山 (28)八幡山(29)鯉山(30)役行者山(31)黒主山(32)南観音山 (1)(5)(21)(22)(23)(24)(25)(32)はくじ取らず です。
July 3, 2005
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場所は新京極通三条を下ったところにあります。寺の前は若者や修学旅行生で賑わっています。落語の始祖とされる安楽庵策伝上人は、説教を聞く人々を引きつけるため、教訓、風刺を交えたこつけいな落とし話を用いました。説話用の笑い話を集めた 醍睡笑(せいすいしょう)は、長く落語の教本として使われたそうです。毎年10月初旬の日曜日に策伝忌が営まれ、奉納落語会が開催されます。誓願寺は、天智天皇の勅願により奈良に創建され、後に平安遷都にともない伏見深草に移されたといわれています。10回もの火災に遭い、移転は再々行われ、ここに落ち着いたのは1585年(天正13)といいます。本堂内正面には本尊の阿弥陀如来が祀られています。
July 2, 2005
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場所は下立売通御前西入る、だるま寺で有名な法輪寺の向かい側です。門が朱色に塗られているため目立ちます。ここには幕末、六角獄舎の斬首で犠牲になった討幕派の志士三十七人が眠っています。門を入って右手に六角牢獄で殺された氏名を刻んだ慰霊碑が建てられています。「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」と刻まれています。池田屋事件,生野の変,大和で蜂起した天誅組などにかかわった志士で,古高俊太郎、平野国臣、長尾郁三郎らが犠牲者となりました。1864年(元治元年)年7月20日蛤御門の戦火は市中に広がり、六角獄舎にも迫り、火災での脱獄を恐れた幕府役人により全員が未決のまま斬首されました。しかし火の手は六角獄舎までこなかったそうです。さぞかし無念だったでしょう。明治10年になって西ノ京円町付近の西刑場址から姓名を朱書した瓦片とともに白骨が発見されました。平野国臣らの遺骨と確認され、この寺に葬られて,明治43年に墓碑が建立されたそうです。現在の立派な慰霊碑が建立されたのは昭和44年のことです。
July 1, 2005
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