聖セラフィムの証拠「聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは、主の元に来ることができる」

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熾天使4444

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2011.10.30
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今回の妹とのすれ違い、私の甘さでした。

仕事の関係から、事務長に4枚のチケットを渡されました。ノルマではないと言われ、最初はそのまま置いておきました。
ノルマではないと言われましたが、今回は美味しそうな中華だしと思い、Y美ちゃんとM下さんを誘いました。
チケットは職員価格で2500円でしたが、食事内容から2500円ではお得感がありました。Y美ちゃんに美味しいと思うからと誘いました。M下さんにはE後さんが来て改めてM下さんが支えてくれていたと思う感謝の気持と、今回は2回目のセミナーで、E後さんは前回職場の友人から誘われ参加していました。M下さんを馬鹿にしたように見えることがあったので、病院で行われている行事の内容のことを知らないままいると又E後さんに馬鹿にされそうで、M下さんにも行事の内容を知っていて欲しいと言う気持もあり誘いました。
でも、2人を誘いながら、自分の分を含め4枚中3枚のチケットを売ることができたことになります。
ノルマではないと言われていたけど、自分のノルマを少しこなしたことになりました。

自分の都合と感謝の気持ちという相反する気持ちが券の中にありました。

妹には当日仕事だと話していませんでした。隠すつもりではありませんでしたが、自分では休みではないとわかっていたので、誘うことに気を取られキチンと説明してありませんでした。
私は自分の都合だけが頭にあり、妹のことをきちんと考えていなかったのだと思います。



仕事に関係する行事は神殿の外のことになります。
そんな場所に妹を誘った私がいけなかったんだと思いました。

Y美ちゃん、ごめんなさい。
まだ仕事の世界にいる私がY美ちゃんの足を引っ張るようなことをしたと思いました。
Y美ちゃんが違和感を感じ、気が重くなるのは当然だと思います。

自分の甘さと上から目線があることに気付きました。
本当にごめんなさい。

K子









 K子さん自身の分析はこれでいいとして、

 それでも人の中には愛があります。

 たとえ相手にどんな理由や思惑があり、今いる世界が自分と違おうが同じであろうが、そんなことは関係ありません。



 『愛(神)を見失わない』『神(愛)を受け入れる』というのはそういうことです。

 目に見える世界、五感で感じる世界に惑わされてはいけません。

 その先に確かに必ずある神(光、愛、豊かさ、可能性)の世界を見て、到達しなければならないのです。

 私達は自分を甘やかしてはいけません。



 今回のK子さんとY美ちゃんのやり取りは、上記のことを教えてくれています。


 それはK子さんが謝ることでもなんでもなく、Y美ちゃんの未熟さゆえです。

 また、K子さんは今自分がいる世界をY美ちゃんを通して改めて見せつけられたのです。
 それもK子さんのため、K子さんに染み付いた癖を矯正しなければならないことを教えてくれています。



 みなさん対話をして下さいね。

 神との対話は特に大事です。

 何度も行っているように、神とは愛でもあります。
 相手の愛を受け取ろうと思ったら、その愛に到達するまで対話を欠かさずして下さい。
 せっかくの愛なのに、対話が足りなくて愛を確認できず、誤解したまま受け取りを拒否してしまったのでは神様に対して申し訳が立ちません。

 人の中にある愛は、神様だと思って下さい。
 ということはつまり、神様の使いが人であるということです。michael





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Last updated  2011.10.30 14:41:59


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