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昨日も雀の一群の中に目白がいた。一本の樹に、目白、雀、鵯が留まっていた。鵯は決まって下部の枝に留まる。目白は囀りを忘れ、鵯はちっとも吠えない。*目白は雀と交われば囀りを忘れ、鵯は小鳥の可愛さを真似て声帯模写の勉強をする。雀の鳴き声だけが聞こえて雀の家族が来たようだ。朱に交われば赤くなるーー。野鳥の世界もおんなじか。
2011年12月12日
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ロウバイの花を昨日やっと見つけた。まだ黄色になりかけた葉っぱの奥に、隠れるように咲いていた。毎年12月1日には咲いているが、今年は若干遅いようだ。地球温暖化の影響かも知れない。*ロウバイは、年の瀬を告げ、春を呼ぶ花として欠かせなくなった。花は、芳香をなくしても3月過ぎまで咲いて野鳥を勇気づけ、春の新芽はことのほか威勢がいい。夏は、西日を遮って躑躅類を保護し、冬は、他の木々が紅葉を落とした後も葉を残していて、木枯らしを防いでくれる。
2011年12月12日
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梅園を散策していると昆虫の葛藤図が展開されていた。女郎蜘蛛は他の命を与り、赤蜻蛉は余命幾ばくもない命を天に捧げたと見るべきなのだろうか。明日は我が身にとっては冷厳な事実と受け止めたい。
2011年12月07日
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冬至梅が色づいてきた。葉っぱを完全に落とし切れずにいる。その命運をただ風に任せている。*敷き詰められた落ち葉のみを撮っているカメラマンが居た。紅葉は真っ赤に染まる木々の葉を撮るものと思っていた。プロの技は、先ずその格好を盗むのが先決と悟った次第。
2011年12月05日
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鳥海石はいろいろな植物を呼び寄せる。乾季には疲れた様相でも、気付かないうちに見ごとに花を蓄え、一見、深山幽谷のコーナーに変身させる。人工的に活着させるよりも、胞子が自らの意思で巌に付着して自力で活動する姿に頼もしさを感ずる。*5年前にモッコクが岩の割れ目に2本生えて、今では高さ50センチ、サインペンの太さになり、今年の猛暑でも葉を落としながら生きながらえている。手を加えると巌よりも大きくなって他の植生に支障をきたすので、モッコクのなすがままに任せている。が、腐葉土を抱かせてその間から根を張らせ、地下に届くようにした方がいいかと悩んでいる。
2011年11月21日
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冬の田圃は殺伐としている。稲の切り株は、バインダーで毟り取られるように刈られるため切り口が荒々しい。かつては、鋭利な鎌で手際よく刈られていて切り口が綺麗に揃い高さも同じであった。そこから出るひこばえは、田植えをしたように清々しく見えた。野鳥も来ず、ドジョウの姿も想像することはできず、隣は休耕地であったりして荒れ果てている。*ただ、田圃道には、仏の座などいろいろな雑草が青々と茂り、その中で、イヌノフグリが一輪咲いていた。返り咲きで無理して咲いているとすれば小振りになるのに、春の花よりも大きめに見える。多分、温暖化で常態的に咲くようになったのではないかなぁ。地球は花を咲かせドジョウを育むなど優しいが、一旦荒れだすと液状化など手のつけられない仕返しをする。地神を崇めることが為政の基本であった平安時代、京の移転は水害等の天災地変が原因だったことから、その祈りは怒りのもとを断つ方策を講ずるまでに昇華されず、ただ、その恵みを頂戴するだけの浅ましい気持ちしかなかった。そして、現代に至るまで、大なり小なりその歴史の繰り返しであったことが反省させられる。
2011年11月20日
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先日訪問した精米所の近くの農道にオオバコが群生していた。住宅地には滅多に見られず、郷愁を感じながら見入った。オオバコは、戦時中食糧不足を補うため都会の人たちの食料にと摘まされたが、自分たちでは食する習慣はなかった。なのに、当地では、「カエルッパ」といわれて子供にも親しまれていた。「蛙の葉」と考えられて親しみを味わったのかと考えたが、葉を火にあぶるとふくれあがり、葉が剥がれやすくなるというので命名されたらしいから蛙とのつながりがないようだ。*オオバコは、人間が生息するところには必ず繁殖するらしい。人の靴、車に固着して移動する強かな植生だ。だから、道端のような踏み固められたところにだけ生えるという性格がある。この農道は、耕作拒否の傾向があり、既に半数あたりは放置されたり売却されたりしていて、人も車も滅多に通らない。そのため葉っぱばかりが大きくなり花実を沢山拵えて、人や車が当てにできなければ、風に乗って移動したいとでも思っているのかも知れない。カエルッパはカエルッパなりに人を恋しがっているようだ。
2011年11月19日
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昨日、買置きの籾を精米するため精米所へ行き、作業が完了するまで近くの農道を散歩した。稲が刈り取られた田圃に、籾が異常に散乱しているのに気付いた。作業中に袋が破れるなどして籾を散乱させてしまったのであろうが、雀などの啄む様子が全く見られなかった。普通だったら、刈り取られた田圃にはいろいろな野鳥が戯れているはずである。雀が少なくなり餌が過剰で飽食状態なのだろうか。それならば、雀の個体は増えても良いはずだがーー。自然界に生態系に異常をきたす何かが起こっている。*かつては、米一粒でももったいないと教えられ、「落ち穂拾い」が洋の東西を問わず農村の風物詩であったが、実は、土地へ緊縛された者の格差社会に生きるためのささやかな知恵に過ぎなかった。今は、土地への緊縛は姿を消し、落ち穂拾いは全く姿を消した。反面、付近は、灌漑施設が完備されているが、実際に耕作可能な農地は約半分で、他はフェンスが張られ雑草がはびこって他に転用済み。国の農地制度は破綻し、灌漑施設の投下資本も回収されぬ間に頓挫した現実が目の前に広がっている。更に、TPPの動きで新たな農業のあり方が模索され、同時に、農地の所有形態、格差社会、支配隷従関係が再構築されようとしている。土地の所有形態の変遷は、中世に始まりそれは格差社会、封建制度を決定的に構築する基礎になったが、その解放が実現して半世紀を経過し、いま、新たな変転の兆しを迎え、農村風景は根底から変転しようとしている。田圃に捨てられた籾たちは静かに天を仰いでいる。
2011年11月17日
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この写真は、四十雀の一群を連写したときの一枚に入っていた。四十雀、目白の群れの中にこのような鳥が混じっていたとは不思議と思っていたが、よく見ると雀であろう。身近な雀も角度によっては、変わった面が見えて面白い。かつては、雀は、害鳥であるといわれ、山椒大夫の中に登場する鳥追いも雀が対象になっていたほど、遠い昔からの付き合いだ。その後、胃袋を調べられて木の実、虫も食するとされて益鳥の仲間入りをした。*住宅地では、雀が害を及ぼすのは屋根瓦程度であるが、1,2番では障害がなく、害虫を退治してくれる貴重な野鳥である。当方では、寒に入らなければ撒き餌をしないから余所余所しく、近づけ直ぐに飛び立ってしまう。大自然は、それぞれの生き物が一定の棲み分けをして、互いにつかず離れずに生息していた方がいいと感じてあえて関心がないように装っている。でも、俺の幼児期の雀は大きかったような気がし、最近の雀は小振りになったと哀れを催して、穀物類の撒き餌もしてはどうかと思うときもある。
2011年11月16日
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酔芙蓉は花が終わり種を設えている。八重咲きでも、雄蕊が僅かに残っていて果を創る。花弁が朽ちても果実に付着し落ちないでいるのを撮った。拡大すると見ようによっては、獣面そっくりである。目が窪み、赤鼻、大きな口とグロテスクでもある。*綺麗な花には棘があるといわれたが、芙蓉の異名とされた富士の霊峰も、毎年幾多の生き血を吸い続けている。もし、噴火したら多大の被害が想定され、場合によっては、国際的に債務国になり下がり日本沈没の導火線ともなる。花は、昆虫等を集めるための方便であって人に讃えられるために咲くものでもないし、人の心を癒そうとして咲いているわけでもない。特に、芙蓉の正体は、独占力が旺盛で他の植生を枯らし、獣のように獰猛な性格を隠している。
2011年11月15日
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昨日、四十雀の一群に混じって目白がやってきた。山茶花が咲き、椿がちらほらし始めて開花前線を作るため家庭訪問をしているのであろう。柿も蜜柑も完熟寸前であると囁きあい、次回訪問予定日を決めているのかも知れない。目白たちは昆虫も好み、目下、冬籠もりしていない小昆虫を狙って肉食による体作りに勤しんでいるようだ。*梅や桜の葉が疎らになって、小鳥の表情を良く捉えることができる。食料事情が良好のようで骨格がしっかりし、太っているように見え、目の白いリングが鮮明で健康的である。ところが、寒に入るとスリムになり個体も少なくなって、自然環境の厳しさを小さな体でひたすら受け止める。何処に潜んでいるか知れない天敵に対する警戒心を怠らず、また、永居は禁物と飛び立てっていった。
2011年11月13日
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早朝、路面に落ちた柿の葉を掃いた。箒は買ったばかりのおニュー。道行く人も声を掛けてくれる。昨日の富岡製糸場を見学したとき、「索緒体」という機械の操作について興味深く説明してくれたのを思い出した。*稲か草の先端を束ねた箒状の道具で、器械が繭をこすり繭糸の先端を探すのだという。熟練した女工さんが繭糸をチェックする姿が眼前に映るようだ。俺の使っている竹箒も、同じ植物性でできた道具。箒は実に先人の知恵の産物なのだとあらためて思った。
2011年11月09日
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完熟した烏瓜を見つけた。枯れ葉に隠れるようにして、朱赤色の太っちょの果実が目を引く。下の長い部分は臍というのであろうか、異常に長く木漏れ日がはっきりと捉えている。*幼児の頃、烏瓜で遊んだ記憶はないが、飢饉時には根が澱粉質で遠祖の貴重な食料だったらしい。財政破綻に喘ぎ暴動化しつつあるギリシャでは、オリーブ畑を連想する限りこのような飢饉は経験したとも思えない。否、日本の財政の逼迫を世界が固唾をのんでいるのに、他国のことをとやかく詮索する場合じゃぁない。烏瓜にお世話になるときだってある。
2011年11月06日
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庭へ来る野鳥を撮りたいと思っているが、なかなかうまくいかない。四十雀は毎日のように来ては直ぐ飛び立ってしまう。昨日は、カタカタと音を立てるような音をしていたからヒタキが来たに違いないが、カメラを準備するまでに飛び立った。でも、忘れずに当地へ帰ってきたことに安堵した。*鵯は、此処で生まれ、毎日のように水浴びをしているのにカメラに付き合ってくれない。あまり独特の鳴き声を発せずお淑やかである。人と共生するためには、無駄吠えをせず、一線を画して行動すべしと親に躾られたのかも知れない。偶々、アンテナに留まったが、この程度しか撮れなかった。
2011年11月04日
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見たこともない蝶か蛾がやってきた。後4日も経てば立冬。産卵は済み、どの辺りが居心地が良いか探索に来たのであろうか。*胴体が、羽毛で覆われており、羽が分厚いところから見ると成虫のまま冬を越すのであろう。蝶や蛾に関心を持つようになったのは最近であるが、大自然には豊富な種の生き物が棲んでいると今更ながらに驚く。仮に、被爆で絶滅する種が在ったとしても、地球を席巻する種に不足がないようにできており、うっかりすると絶滅は、図体が大きい順のようでもある。
2011年11月03日
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ウォーキング中、茶の花に出会った。当地では、かつては何処の家庭でも自生している茶を摘んで、精製し自給自足をした。今では、茶の木は垣根などに使われている程度で、その垣根も減少の一途を辿っている。その茶の木も、手入れをしていないと伸びが早く暴れた状態になるが、花にとってはのびのびと咲いて幸せなことなのかも知れない。*俺は、久慈の大子の山中で自生していたという葉の小振りな茶の木を露地植えしている。40センチの背丈になったので、直幹型に作って花が葉に隠れないように咲かせようとしている。福島被爆で関東一円の茶が疑いの目で見られている。俺は、コーヒー党であるから特に差し障りはないが、若い人でも、朝晩茶をたしなむ人がいるから、茶の品不足が一般化し高騰すると困った問題になりそうだ。
2011年11月01日
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櫻川の浅瀬で烏が行水していた。一般的に、鳥は水に潜るときに貌を下にして潜るが、烏は、嘴を上にしている。要するに、行水するときも目は上空を向いて、常に天敵を警戒している素振りである。*行水も短時間ですませ、正に、烏の行水である。無防備な状態の中に我が身をおくことを極度に嫌う性質から、短時間ですませようとしているのであろう。考えてみるに、美容院で洗髪をするときは上を向いて居るというのは、女性の方が本能的に危機管理能力が優れている事の現れかも知れない。
2011年10月30日
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偕楽園の石塀の脇の南天が、今年も見事に色付いてきた。殆どの南天は、梅雨時の雨に当たると腐りが入って結実しないのに、この南天だけは毎年枝もたわわに実る。そのような質なのかと考えたが、あるいは、石塀の脇にあるからなのかとも考えた。木枯らしに当たれば当たるほど色鮮やかになる風情で、此処を通るのが楽しみである。*自宅の南天には、梅雨時に傘を差したり袋を被せたりして結実させている。木陰を作れば良いかと思って実験してみると効果がなく、やはり雨を当てず、風通しを良くしなければならないようだ。昔の農家の庇は深く、その中で南天が紅、白、黄に結実している姿が印象的である。それを見習い、工夫して屋根を付ければいいかなとも思案している。
2011年10月30日
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昨日、桜川の土手をウォーキングした。土手の下、一寸水嵩が上がれば流れにさらわれてしまうようなところに「ヒメムカシヨモギ」が咲いていた。タイの大洪水の映像が焼き付いていてなんとも意味深長に見えた。ヒメムカシヨモギは、当地では「貧乏草」と言われているが、「ゴイッシン草」とも言うらしい。*明治の御維新からきた異名であろうが、名前は日々刻々変化する。明治維新といっても、民衆の生活は大変なものであり、維新前の日々よりも生死の境をさまよう不安いっぱいの時代であった。今でも、大地震、被爆、政変と、変化に付きものの不安、危機は一般大衆が身をもって味わう。その変化を「ご御一新」と言われる時代が来ることを祈りながら、今日のブログを更新した。
2011年10月29日
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庭の片隅で丁字車が咲いていた。既に花びらが散り、露地に紅いものが混じって華やいでいた。こんなに早く咲くのかと驚き、枝を切って妻に渡した。*丁字車は、雄蘂が変形して花弁状になり、花粉が殆どない。男を用なしにして女の天国を築いたものであり、女の命でもある。この大鏡が輝く家庭は、波風立たず平和であると言って妻を担いだ。
2011年10月27日
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秋雨の中、息子が訪問した。妻は、「また来た。」と俺に愚痴っている。が、いろいろな馳走を作り土産も持たせて、満更でもなさそうだ。彼は、会社でも何処でも、注意がましいことを言ってもらえないので、小言を聞きに来るのだという。*近所の犬が吠えるときに、良い加減にしなさいと小言を言うと泣き止む。泣き止んだので帰ろうとすると「ワン」と小さく吠えるので、言うことを聞かないのかと最初は思ったが、「分かったぜ」と言っているのだと知った。誰も彼も、小言を言って貰いたがって居る。俺だって、妻の小言をひねもす念仏のように聞いている。
2011年10月26日
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もみじ谷を歩いていると、大木の木陰に枯葉が蜘蛛の糸にかかって宙釣りになっていた。さながら、仮面がゆらゆら揺れている感じ。地震以降此処をねぐらにしている烏の大群がいたが、今日は静かだ。*夕方のもみじ谷は、トラツグミがいたという情報もあって不気味である。しかも、最近、1キロ下流で学生が襲われ河へ捨てられたというニュースもあった。仮面よりも烏よりも怖いのは人間。ウォーキングも安閑としていられない。
2011年10月24日
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棗の実が色づいて野鳥に啄ばまれ始めた。野鳥でも、美味しくないらしく寒に入ってまでも残っている。でも、幼児期、学校帰りの空腹の幼時にとって高根の花の大層なご馳走に見えた。*今は、水分補給が騒がれているが、5キロの道のりを徒歩で帰ったもので、今考えると喉の渇きは並大抵ではなかったはずだ。その道のりに、ただ1軒の農家にしか棗は実っていなかった。でも、誰も盗ろうとする者もなかった。
2011年10月24日
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夜来の雨で前日の庭の箒目がすっかり消えていた。砂敷きの部分は平らになり、小粒の石が現れて表面が固くなったように見える。悪戯半分に踏むと靴跡が残った。この土壌で悩んでいる多くの人たちが居ることを想いながら朝刊を手にした。*福島原発から200キロ以上離れているのに、高濃度の放射線量が検出された地域のニュースが掲載されていた。また、現地訪問中の大臣が東海原発廃炉に向けてのコメントが掲載され、東海村長の積極的な政治活動が功を奏したと安堵した。東海村長の言動こそ本来の政治活動であり、知事に相応しい政治理念であり実行力であると敬服した。
2011年10月23日
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この桜は偕楽園創設時、好文亭の近くに植えられて3代目かの四季桜。この一帯、地震被災の爪痕を来春の観梅時期までに復興すべく工事中である。ところが、此の15キロ先に東海村の原発があり再稼動するかどうかで揉めている。まさに30キロの避難区域の真っ直中。民を想い、日本国土の将来を案じていた創園者、徳川斉昭公も、あの世で「想定外」と嘆いているだろう。*東海村村長は、この原発施設は、30年以上も経過して老朽化している。30キロ圏内には100万人以上が居住して避難だけでも大問題が発生する。地域住民の命を護るためにも、原発再稼動に反対する、廃炉にすべしと声たがだかに叫んでいる。しかし、村議の一人は、村の財政の三分の一を原発マネーでお世話になっているから、脱原発は同意できないと吹聴する。知事も、国の方針が決まっていない時点では何ともいえないと尻込みしている。むしろ、何かが発生すれば国の責任にして自分だけは逃げようとしている。東海村の人工は3万7千人程度、その27倍もの人達が古里を追われ、子供の将来を危惧しているというのに、自分だけが原発マネーで温々として他を顧みない。こんな道理が分からない村議に誰が育てた。こんな無責任知事を誰が選んだと怒り心頭に発し、同時に自己嫌悪に苛まれている。
2011年10月22日
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薄紫の花が咲いている。約20年前から岩を肘掛けにして同じ場所に咲いている。が、名前も分からないし、どんな経緯で此処に来たかも忘れてしまった。*木の根本は腐食して幹の半分しか残っていない。いつ枯れても不思議でないが、毎年、幽玄な花が俺に語らいでくれる。
2011年10月21日
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プチレモンの枝に蓑虫がぶら下がっていた。プチレモンの葉を資材として新居を作ったものではなく、隣の楓などの枯葉を集めて作ったものである。カエデの葉の刻みがはっきりしているとか、全体的に薄茶色であるところから若干生乾きである。*枯れ葉を1.5メートル下の地面からも持ち上げる作業は容易ならざるものがある。蓑虫のぶら下がっている木は落葉樹に多いような気がするが、常緑樹に居を構えた方が葉で強風をガードしてくれるし、何時でも食にありつけるから得策かなぁ。新居を建てる前には、立地条件、安全性を十分吟味して着工してほしい。人間界、今年の天災、人災で痛いほど諭された。
2011年10月19日
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山茶花が咲き始めた。奇態に山茶花は北側から咲き始める。通路側の南に面した部分ばかりを見ていたから咲いているのを見失っていたようだ。多分、1週間前に咲いていたのだろう。*散った花弁もあり、花弁や落葉を箒で掃いた。竹箒は、アスファルト路面を掃くと指先にゴツゴツと響くので、草箒で静かにソフトに掃いた。箒を持つのが毎朝の日課になりそうだ。いろいろな箒を用意して、その日の気分にあった掃き方で清掃を楽しみたい。
2011年10月18日
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椿が咲き始めた。毎年、蕾のうちに穂先を虫に食われて咲く様は、可哀想になるほど痛ましい。しかし、この椿は、冬支度で忙しい虫の役に立っていると満足した顔つきである。だから、殺虫剤は無用だと知った。*この花を見ていると、雄蕊が退化して花弁になったその過程が読み取れる。結局、花弁が増えた代償に実をつける能力を奪われた。しかも、斑入りとなってホルモン異常の病と闘う宿命を背負い続けている。ハンデを与えられても、病が発生しても、それらと仲良く付き合いながら天命を全うしている姿に頭が下がる。寒くなって虫が冬の眠りに就けば、今年も、でっかい花を咲かせるに違いない。
2011年10月18日
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黄蝶がカメラの中に入っていた。アップすると目玉まで黄色い。世の中全部を黄色で見て黄色で判断しているのだろうか。コスモスが色とりどり、鮮やかに咲いてもすべて黄色に塗り潰すのか。*黄色の大地(イェローランド)の映画を思い出す。黄砂の乾いた大地をイメージしたのかも知れないが、その大地に今でも青山、自由、愛、恋も満ちている。今、黒土を放射線除去のため削り葬ろうとしているが、この一部始終を映画としてではなく実録として、後世が大犯罪を裁くための録取調書として永久に保存しなければならない。
2011年10月17日
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八重咲きのシュウメイギクも咲いた。今年は、例年にない猛暑のため花数が少ない。あるいは、嫌地の性格も多少あるのかもしれない。でも、庭のどこかに咲くから放っておけばいい。安心して見ていられる花だ。*シュウメイギクは、花弁がないという。花弁のように見えるのは、萼であるというが、萼が20枚も30枚もあるなんて不思議な気がする。人間だったら、他と違う点があると考え過ぎちゃうが、植物は、他と比較しないで自分流を護り誇りにしている。
2011年10月14日
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オオスカシバ蛾がチェリーセージに首ったけ。チェリーセージも、夏の疲れで項垂れていたが、蛾の活で背筋をピーンとした。
2011年10月12日
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水辺を散策中、赤とんぼが前方の石の上に飛んできた。この色具合をとくと観てほしいと留まったのではないかと、勝手に考えながら撮った。が、公園周辺の昆虫たちは、人間の気持ちを洞察していると言わんばかりに、人懐こく語りかけてくるようだ。*赤とんぼも場所により、色とりどりの赤である。紅ければ紅いほど快適環境に生きているのかと感じるが、事実は違うのかも知れない。でも、健康そうな目や羽を見せつけて、今いる此の場所が最も快適なのだと告げているかのようだ。
2011年10月11日
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花木センターの駐車場に曙杉が聳え、ピンポン玉より一寸小粒の果実をたわわにつけていた。メタセコイヤの一種で2億5000万年前から500万年前に日本にも生息していたという。一時は絶滅したと思われていたが、生きた化石として中国で発見されて以来、あちこちで増えている。落葉高木で成長が早く30メートルの高さになり、恐竜もこの樹木に体当たりしたり、果実を蹴って遊んだりしたのではないかなぁ。*津波は30メートルの高さに上がるのは、滅多に観測されないから、曙杉の森は、津波のエネルギーを緩衝化するのに役立つのではないかと感じた。大自然の脅威は大自然の事物のエネルギーを味方にしなければ、セーブすることができない。人間が、膨大な資金と長い歳月を掛けて構築した建造物が、何の役にも立たなかった事の見直し策として曙杉が登場しても可笑しくない。文明は森を食い物にしてきた歴史。その森を再生する事が巨大地震の反省、教訓でもある。
2011年10月10日
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錦木が甘露だというのに真っ赤に色付いている。果実も爆ぜもせずにしっかりと枝にしがみついている。紅葉するということは、離層ホルモンの作用で光合成を中止して木との断絶の現れ。それならば、果実もさっさと親離れして無収入の親の重荷にならないようにすべきだ。*これと似た現象が、人間界にも伝播しつつある。年収300万円時代となり、住居費を節約するためとして親と同居の二世帯暮らしが流行っている。親の年金を狙う若所帯も出てきた。結果、親にとっては、孫の面倒、二世帯の家計のやりくりが重荷になりつつある。親は、後期高齢保険料で苦しみ、早く同保険料を撤廃してほしいと紅潮している。
2011年10月08日
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瑠璃タテハ蝶が庭先に来たので暫くカメラで追っていると、突然、姿を消した。よく見ると羽の裏側を返して保護色となって変身したのである。褐色の樹皮模様の唯の蝶となり、一見グロテスクでもある。*羽の表は、黒い背面に外縁に並行の青い帯があり、秋の陽光に照らされると瑠璃色に輝く。瑠璃タテハ蝶は、ホトトギスを食草とするらしいが、庭の片隅に5、6株あるから以前からこの辺りに生息していたのであろう。ホトトギスは、蕾を膨らませていてまだ開花しないが、花が終わったら株を増やして瑠璃タテハの楽園にしようかと、今、瑠璃色に魅せられっぱなしである。
2011年10月08日
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茗荷を採って来ると衣服にイノコズチが付いてきた。家に入りたい素振りであったので、そうはいかないと撫でたら直ぐ離れた。化繊の衣類は、イノコズチの棘が十分に刺さらないから簡単に拭えたわけだ。かつては、木綿の衣服が主力であったので容易に付着したが、想定外と悄げていた。*イノコズチの花を拡大するとなかなか面白い。淡い緑色の五弁花、穂状花序を為している。緑の花は元々珍しくなかったのだと知った。果実は苞に棘があり動物の体に付着させて種の拡散を計ろうとしていた。しかし、野原には、ペット以外の動物は殆どおらず、そのペットも、飼い主に従順で藪に入らないから、イノコズチの種の保存は先が思いやられそうだ。
2011年10月06日
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酔芙蓉が庭先を華やいでいる。一日花で夕刻には閉じてしまうとばかり思っていたが、翌朝になっても開いている。前日開いた花は、花弁の広がりは衰えても、色で勝負と日を改めて咲いた花に挑戦している。*写真の左は前日の花、右が当日の朝の花。老若が隣り合わせに写る映像は美しい。若は必ず老に成り、老は若を経ずにはその地位に昇れない。俺は、子育て時代、早くこの子達と酒を酌み交わしたいと思っていたが、最近は息子の方が寄ってきて付き合ってくれ望みが叶った格好になっている。
2011年10月04日
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自宅は、水場に遠いため赤とんぼが滅多にやってこない。来たとしても高い梢に止まっていて、本来の色を写すことができない。とある溜め池を散策中、赤とんぼが目の前で留まった。*遠くからシャッターを切りながら近づき、警戒心を解くと1メートル以内に近づいても飛び立とうとせずカメラの相手をしてくれる。程なくして飛び立っていったが、蜻蛉は、野原にいるときの方が人懐こく見える。蜻蛉は、人間も自分と同じような唯の生き物、図体ばかりでかくて羽がないから不自由しているなぁと哀れんでいるのかもしれない。
2011年10月04日
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此処は「玉龍泉」という噴水設備の小さな溜め池である。訪ねる人もない泉で、手入れもされず台風で落とされた木々の枝葉が、水の流れや風で自然に片づいてきた様子がうかがえる。1840年代、徳川斉昭公が偕楽園創設時に、当時の科学技術の粋を駆使して5メートルも吹き揚げる噴水を完成させたもの。*アメンボーが芥藻屑を片づけて、なお残るゴミと戯れるようにゆったりと遊んでいる。水の温度も、急に低くなってアメンボーたちも脚を持ち上げている。その足のなんと長いことかと驚きながら、季節の移ろいと歴史の流れを実感するひとときであった。
2011年10月03日
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蹲の足下の、岩がごつごつしているところに小さな花が咲いていた。地縛りである。かつての農作業の敵で雑草の最たるものであった。周囲の姫龍を取り除いたときに、そこに寄生していた雑草をことごとく退治したが、危機感を感じた地縛りが、戻り花のように咲いて実をつけようとしている。*露地上の多年草の花が少なくなった時期は、雑草の一輪でも貴重な花である。特に、岩の間から細い花茎を延ばして咲く姿にいじらしさを感じる。今は、雑草だって、「山野草」と言われて扱い方が変わってきた。地縛りだってミニ鉢に植えれば立派な盆栽である。雑草とは、名前を知らないから言う言葉。森羅万象、どんなものにも立派な名前があるのにと地縛りは嘆いている。
2011年10月01日
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今年初めての秋冥菊。正真正銘今朝咲いたばかり。花も半開き、俺も寝ぼけ眼。
2011年10月01日
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枝の梢に蜻蛉が留まった。大きな羽で風に乗って飛び、暫くするとまた元の場所へやってくるから不思議である。その習性を知悉した小鳥は蜻蛉を攻撃すると思うが、油断大敵である。*気温の差が時間差で大きくなり、油断しているとくしゃみの連発となる。それを無視していると鼻風邪の症状になるが、扇風機の風の向きが気に掛かる頃となった。蜻蛉の大きな羽で、家族別々に風の向きを調節してくれないか。
2011年10月01日
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女郎蜘蛛が虫を捉えた。残酷で目障りな映像であろうが、これが現実であり眼をそむけてばかりもいられない。人間だって女郎蜘蛛のように日々生き物を待ち伏せして殺戮し、それを趣味にしている人だっている。*考えようによっては、ウマオイは女郎蜘蛛の体の一部となり冬越えして生きながらえようとしているのかもしれない。また、女郎蜘蛛は、人間の編みだした理屈のように「他の命を頂く」という気持ちで有難く頂戴しているに違いない。肢を反対側に伸ばした姿は十字を切っている姿に似ており、蜘蛛にも5分の魂があるとすれば、そのように理解してあげたいものである。
2011年09月30日
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今日の晩酌のツマミは枝豆であった。枝豆は夏バテに効果的で、大豆にないビタミンCが豊富にあり肌が美しくなると喧伝されて妻も好んで食べるようになった。萩も、マメ科であることの証を誇張するかのように莢果を膨ませはじめた。唯、無駄花がないほどたわわに結実しても、かつてのようにそれを食む生き物が皆無である。*萩は家畜の飼料として栽培していたものが野生化したと言われる。事実、葉にも莢果にも蛋白質が多く、飼料として最適であったのであろう。かつての農家では、牛、馬は家族の一員であり、労働の担い手として大切にされていたが、今は、全く姿を消し、萩も花を愛でる対象だけになった。それなら、豆が晩酌のツマミになるよう改良できないものだろうか。味も、栄養価も枝豆を凌駕するのではなかろうか。
2011年09月29日
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息子の庭のコニファーが、台風で2本倒木したというので片づけに行った。チェンソーで枝を払い、幹をカットして市収集のゴミとして排出した。約10年の間に枝が伸び、根張りだけでは幹全体を支えられなくなってしまった模様である。*毎年、新芽をカットしていれば、スリムな立木となり、主木として扱われたであろう。が、狭い庭に支柱もせずに植えっぱなしでは、倒木は時間の問題であった。夕刻、近所の夫婦が遊びに来たので倒木、処分、庭木の有り様などの話題で酒宴に花が咲き、処分したコニファーの霊を慰めた。
2011年09月28日
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無花果の芳香に誘われて土蜂が羽を休めている。土蜂は休むことを知らずに飛び回っているのに、カメラを近づけても飛び立たず、その芳香に酔いしれているというほかない。事実、無花果の葉の下にいると、他の木々の下では味わえない甘い香りがして心が休まる。土蜂は、黄金虫に寄生して孵化し、成長すると宿主を食するという強かな生き物で、戦闘に明け暮れる中での暫しの平穏を味わっているのかも知れない。*それもそのはず、土蜂を画像にするとなんと精悍な面構えかと驚く。その上、肢には剛毛が密生し、尾には針を蓄えて全身武装の姿である。中国の太古では、戦乱に明け暮れて「蜂準長目」が鋭敏かつ思慮に富む人相といわれたらしいが、このような面構えでなければ、かの大陸では生きていけなかった。そのような強国が、西欧列強に蹂躙された歴史を秘めているが、それは、近代化し更なる強大国に向かう発展の一過程であった。今の日本。草食化しつつあり、国策もそれを反映した脆弱な面ばかりが目立つ。対外的にこのような事で良いのかと不安になる。
2011年09月26日
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去年生まれた橙の実が台風に落とされずにしがみついている。見ようによっては、雲の中の月のようだ。傍らにススキがあって月見のお膳立てができている。*橙は、回青橙というらしい。が、これは一旦黄色になると時期が来ても青くならない。今日は、小枝を剪定してやろうかなぁ。
2011年09月25日
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彼岸花が躑躅叢生の日陰に咲き始めた、彼岸花が咲いたよと言うと、妻が、「岡田さんに貰ったのょ。」と故人の名前をすかさず言った。事ほど左様に庭は正に交友録である。木々には何らかの関係で人の名が関連づけられ、そのときその場の情景が目に浮かぶ。*彼岸花は、爆発的に増えもしないし他所に伝播しようともしない。しかし、忘れていても、その時期になれば必ず花をつけ葉を茂らせる強かな植生だ。忌地の性格はなく几帳面に一定の場所に鎮座する。狭苦しかろうとどこかに分家を設けようと考えているが、毒、墓、彼岸、捨子などなど、いろいろな因縁をイメージ化された花なので場所選定が難問である。
2011年09月24日
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台風15号は前触れが長かった。早めに帰ってきてもやることがなく、直ぐ晩酌タイムとなった。酔えば寝る癖が付いていて、目覚めたのが午後9時過ぎ。台風は何処へ行ったと聞くと、雨戸がガタピシして今にも壊されそうになっていたのに気づかなかったのかと言われた。仮に雨戸が壊されても外へ出るものではなく、出たいという衝動に駆られないよう神経を矯めていた方が楽だと言い訳した。*翌朝、5時頃、懐中電灯片手に真っ暗な庭に出た。芙蓉が倒れることもなくすっくと立っていたのに驚いた。今日の花は順番を違えずきちんと咲き始めている。八重咲きはやはり雄蘂が花弁に変形したのであろうが、八重のヤマブキと違って実を付けるから立派である。俺のように酔いつぶれ、赤く固まった昨日の花は、花心をしっかりと花弁で包んでいる。昆虫などを頼らずとも結実するのだという決意が滲んでいるように感じられた。
2011年09月22日
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