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2003年01月07日
70年前の写真
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写っているのは、私がちょっとしたきっかけで出入りするようになった、駒場の定食屋さんのおよそ70年前と推測される姿。営業許可証だかなんだかの免状が写り込んでいて、虫眼鏡で拡大してみると「昭和五年」と読めたのだった。
「定食 朝、拾参銭、昼夜、拾五銭」なんていう短冊も下がっている。その上の天井近くにずらりと並んだ単品メニューの短冊は、残念ながらぼやけて読めない。一番目立っていたのは、オススメの飲み物だったらしい「井之頭甘酒、カルシーム入り」の謳い文句で、何ともほほえましい。
短冊が掛かっているのは、調理場と客席を仕切っているらしい棚で、料理の皿をやりとりする取出し口が下のほうに開いている。棚には、黒光りするビールやラムネのビンがずらり。キリンのイラストは昔も今もおんなじだ。ラムネのビンは、業務用サイズはビール瓶と同じぐらい大きかったそうだ。
棚を背にして、3人の男女が背筋をぴんと伸ばして立っている。直立不動、真剣そのものの表情だ。
左端は、折り目正しい長袖の白いコック服に身を包んだ丸眼鏡の男性……二十代ぐらいだろうか。その隣は、彼の母親のような年恰好で和服に割烹着を着た女性と、コックの妻にしては年齢がやや上に見える縦じまのワンピースにエプロンをかけた女性。
右端にひとりだけ、客とおぼしき男性が腰掛けている。よく日焼けした顔に、くっきりとした眼差しでなかなかの二枚目。半袖の丸首シャツから盛り上がった胸の筋肉が見える。肩肘をテーブルにのせ、下にぶら下げたもう片方の手には麦藁帽をさりげなく握っている。
なんだか偉そうな客だが、実はこれ、当時二十歳そこそこだったと思われる私の祖父だ。天秤棒をかついでこの界隈で魚を売り歩く途中、店に立ち寄るうち、いっぱしの常連客になったらしい。
暑い夏の盛りだったのだろう。祖父の背後には、手回しの「かき氷製造機」が写っている。しゃり、しゃりと氷を削る音が今にも聞こえてきそう。祖父の肌には汗がにじんでいたことだろう。息づかいや肌のぬくもりも、感じられるような気がする。
70年の月日が流れ、いまでは丸眼鏡の人物の息子にあたる「おやじさん」と娘夫婦の3人で店をきりもりしている。スポーツクラブの友人に誘われ、私がこの定食屋さんへ通うようになったと父に話したところ、「おじいちゃんが若いころ、ひとりでよく通っていたんだよ」と教えてくれ、古いアルバムの中からこの1枚の写真を取り出してくれたというわけだ。父が生まれる前の写真なのに、よく覚えていたものだ。
「うちに置いておくよりいいから、気に入ってもらえたら、あげてきて」と言われ、仕事初めの昨夜、さっそく店へ持って行った。せっかくだから、額に入れて。新品じゃないけれど、勘弁ね。ウィリアム・モリスの絵葉書を入れて本棚に飾っておいたものなので古びているけれど、写真とちょうどいいバランスかも。
定食屋さんは満員御礼の大賑わいだった。料理に忙しい店主は、「あれ、うちのおやじだぁ」と言い、笑顔を浮かべてくれてほっとした。
家族には色んな事情や愛憎がある。見せたとたん、写真を破かれてしまうんじゃないかと、私のたくましすぎる想像力が働いて、実は少し心配だった。そんなこともあって、額に入れようと思ったのだ。
私の予感は見当外れだったけれど、少しだけ当たっていた。写真の二人の女性と丸眼鏡の男性は、実は「あかの他人」の関係で、もともと女性二人で営んでいたこの店に、「男手なしでは大変だろうから」と働くことになり、その人柄からいたく気に入られ、彼の妻とそろって養子に入って店を引き継いだそうだ。
写真は、同席した友人たちに大ウケだった。
「これほど貴重な写真はないよ」
「よく色あせずに残っていたものだね」
「このマジメな表情がいいね。当時、写真といえば、正装して晴れ舞台に立つような気持で撮ったものだったろうね」
「これはラムネ瓶に違いないだろうけれど、どうしてこんなに大きいのだろうね」
「定食の値段がリアルだなあ」
「キリンの瓶は今も同じだね」
「その前に並べられているのは、蟹缶みたいに見えるぞ」
「ビール瓶がまるでボトルキープのウィスキーみたいに仰々しく陳列されているね。当時はビールも贅沢な飲み物だったんだろうか」
それにしてもこの写真、誰が、どんなきっかけで撮ったのだろう。当時のカメラは貴重品だったに違いないし、ストロボだって、マグネシウムだかなんだかをボンと燃やしたりして、大がかりな仕掛けだったはず。
そんなこんなを今朝、朝ごはんを食べながら父に報告したら、「さあね、おじいちゃんに聞いてみな」だって。
実はもう聞いたんだ。酔っ払って家へ帰る道々、天国で仲良さそうに笑っている4人の姿が目に浮かんできた。
「いやあ、うちのトモはよく食うし、よく飲むだろう。あんまり飲ませ過ぎないように、おたくの孫によく言っといてくれや」
「あんたの孫だから、そりゃあ、うまいもん好きだろう。血は争えネエ」
「おいおい、おらぁ、飲まないぞ」
「ま、家族の前ではそういうことになっていたらしいね」
祖父は農家の四男坊。十代で上京して魚屋に奉公し、のれん分けで世田谷の一等地に店を築き上げた。きつい労働の合い間にふっと心を解放できるこの定食屋さんは、かけがえのない「ヒミツの隠れ家」みたいな存在だったのだろう。
ひさびさにあの優しい笑顔を身近に感じて、涙がにじんできた。
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最終更新日 2003年01月07日 11時32分45秒
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