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宋書から導かれた倭国王の居住地は大宰府を指していた。
これまでの論理の行き着いた先です。
その大宰府に不思議なことがあって、
その一つが昨日書いた、万葉集に出てくる 「遠のミカド」 でした。
そしてもう一つは「字地名」です。
古代史の研究において地名は絶好の手がかりになるんですが、
慎重に調べなくては痛い目に合うことがあります。
でもこいつばっかりは興奮しました。
その地名は 「紫宸殿」 (シシンデン)
聞き慣れない名前ですが、その意味は 「天子の住む処」・・・・
大宰府にこんな字地名が今でも残っているんです。
どう思いますか?
おいらトリムは最初違和感を感じました。
なぜなら、倭の王者は当然倭国の第一権力者ですが、
果たして「天子」を自称していたか?
この疑問です。
当時の東アジアの常識では、
「天子」とはあくまで中国の最高権力者であって、
倭国王はその臣下なんです。
だから宋書でも将軍号を欲したんです。
それなのに倭国王が住む処を「紫宸殿」とするわけがない!
この思惟は次の仮説を生むことになりました。
倭国王は中国と別離して、自ら「天子」を名乗ったと・
実はこの可能性は大いにあると思います。
以前触れた隋書に出てくる「タリシヒコ」は、
その国書にこう書いたと言います。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」
と。
倭国王タリシヒコは自らを天子と称していた。
これは文献的に誰も否定しようのないことですね。
問題は中国となぜ縁を切ったか、です。
次回はこの問題を扱っていきます。
SEE YOU NEXT TIME