高校3年の秋、にわか受験勉強でどうにか大学入試にパスした私は、大学に入ったら真面目に勉強しようと決意して上京しました。しかも昼間は大学で経営学を、夜間はオヤジが教鞭をとったことがある西新宿の紳士服専門学校、ダブルスクールでしっかり学ぶつもりでした。
ところが、入学して数日授業に出たら明治大学和泉校舎は突然学校封鎖に。キャンパスを封鎖占拠する首謀者は上級生なのか、それとも外部の過激派なのかわかりませんが、校門には「当分の間休講」の告知、一般学生はキャンパスに入ることさえ許されませんでした。現在のようにスマホやメールはなく、いつ授業が再開されるのかさっぱりわかりません。たまに出かけては「まだロックアウトか」とあきらめて帰ってくる日々の繰り返し、なんとも空虚な時間を過ごしました。
ロックアウトは1年間続き、学年末まで授業はなく、進級はレポート審査。講義を受けずとも単位がとれ、翌々年も完全ロックアウト、「授業料返せ」と言いたくなる状況でした。勉強するつもりで上京したのに学校に足を踏み入れることも許されない、やる気はなくなります。
そこで学校の枠を超えて学生ファッション研究会設立、マーケティング調査をして原稿を書いたり、企業の広報担当と共に記者会見でデータ分析を発表、私の心は完全に大学から離れていきました。2年間のロックアウト、結局大学時代に講義を受けたトータル日数は60日くらい、大学数え歌にもある「何も勉強せず卒業して世に出て恥かく〇〇生」そのものです。
その代わり独学でマーケティングを勉強、学生時代にたくさん原稿を書いてファッション流通業界に発信しました。学校には来ないでマスコミにはたびたび登場、卒業時には大学教務課の職員さんに嫌味を言われました。そんなわけで明治大学OBと言われるととても恥ずかしい、後輩学生に講義する場面では本当に申し訳ないと思ったものです。
が、幸運にもファッション流通業界で活躍する大学OBの先輩方にはかわいがってもらいました。この交友録第1回目VAN創業者の石津謙介さんをはじめ、紳士服業界の重鎮だった中右茂三郎さんには「私の最後のかばん持ちになるかね」と誘ってもらい、ファッションコーディネイターのはしりだった髙島屋の今井啓子さんにも親切にしてもらいました。ここでは、今井啓子さんについて触れます。
今井啓子さんとは、私が大学卒業してニューヨークに渡った直後ボストンで初めてお会いしました。明治大学卒業後今井さんは文化出版局に就職してファッション雑誌編集の仕事に携わり、そののちに早くから男女均等雇用に熱心だった高島屋に転職、正社員のファッションコーディネイターとして活躍しました。確か今井さんが課長職の頃だったでしょうか、ボストンの老舗百貨店ファイリーンに短期研修の機会を得ます。渡米したばかりの私はボストンに飛び、ハーバード大学の真ん前にあったホテルに長期滞在する今井さんを訪ねました。
彼女の部屋で長く話し込み、深夜に今井さんが日本から持参したインスタントラーメンを作ってくれたのを覚えています。そのとき、「ハーバード大学に通っている学生たちは特別優秀という感じがしないのよ。私だってハーバードで勉強できるような気がする」、近い将来留学で戻って来たいとおっしゃる。流通業界でもうかなりキャリアを積んだのに留学構想、米国に戻ったときすぐ普通に生活できるよう現地銀行アカウントをそのままにして帰国されました。
数年後高島屋を退職し、あの頃は新分野だった「ウェルネス」を学ぶために再渡米、ハーバードではなくその分野を学ぶためニューヨーク大学に留学。それなりの大人年齢なのに初心に帰って新分野を勉強するなんて私には到底真似のできないこと、凄いです。
そして、ウェルネスの勉強を終えて帰国した今井さんは、資生堂の新しいウェルネス事業部に迎えられます。当時資生堂福原義春社長と今井さんのつながりもあったのでしょう。
そのつながりとは、 1977
年資生堂が開催した「6人のパリ」というファッション業界に大きなインパクトを与えたファッションイベント。当時パリでデビューして間もなかったクロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレー、ジャン=シャルル・ド・カステルバジャックらフランスの若手デザイナー6人を招聘、日本各地で合同ショーを開きました。このとき資生堂の担当部署責任者が福原さん、デザイナーの人選や参加交渉を頼まれたのが今井さんと彼女の元同僚だった文化出版局パリ支局編集者たちでした。
髙島屋が当時絶大な人気を誇っていたソニア・リキエルとの導入交渉で西武百貨店と激しく戦ったのも、ティエリー・ミュグレーと自社ブランド提携を結んだのも、早くからアズディン・アライアのインポートを始めたのも、文化出版局パリ支局の仲間から現地情報が今井さん周辺に届いていたからでしょう。
こんなことがありました。天才イラストレーターだったアントニオ・ロペスとの面会直後(ロペスと今井さんのつながりも文化出版局ルートのはず)、今井さんとマンハッタン東 59
丁目を歩いていたら、ディズニーアニメ映画に登場する魔女のような風貌の赤毛女性がこちらに向かってきました。パリのソニア・リキエルご本人でした。すると今井さんは私の背中に隠れたのです。パリで提携交渉を進め、帰国したらすぐに上司の了解を取って連絡すると約束したものの社内コンセンサスに手間取ってすぐには連絡できず、結局西武百貨店が独占導入の契約を結びました。今井さんは「ソニアに合わせる顔がないの」と隠れたのです。
ニューヨーク大学から戻って資生堂のウェルネス事業部で新しい仕事を始めた今井さんでしたが、資生堂ザ・ギンザを設立時から仕切ってきた殖栗昭子さんが退任したため、福原さんからザ・ギンザのケアを頼まれ、再びファッションの世界に復帰しました。ファッションショーなどで今井さんと顔を合わすたび、「在庫を整理するのでしばらく新しいことができないの。何やってるんだと思わないでね」と何度も言われました。
ザ・ギンザはパリ、ミラノのトップデザイナーブランドをたくさん扱う高級セレクトショップ、ブランドのラインナップは素晴らしいけれど高価な商品だけにどうしても在高は増えます。体制が代わり、今井さんたちはまず方向転換の前に在庫の整理に追われ、数シーズンは我慢のときでした。「ザ・ギンザで何やってるんだ」と言われたくなかったのでしょうね。
ようやく在庫の整理も終わり、これから攻めに転じるというタイミングで銀座7丁目本店の改装計画があり、「改装後の MD
方向性を一緒に考えてくれない」と頼まれました。私は近隣のザ・ギンザ既存店をいくつかまわり、これからの時代どういう路線でいくべきなのかをレポートにまとめて今井さんに提出しました。
それから数ヶ月後私は松屋銀座に転職。銀座中央通り松屋の斜め前にはデザイナーブランドを集めたザ・ギンザの支店がありました。近隣 OL
に受けそうな価格のこなれたインポートブランドを集めていましたから、松屋もファッションを軸に大きな改革をしてザ・ギンザ4丁目支店の顧客層にも来店してもらえる MD
プランを考えよう、と婦人服バイヤーやファッションコーディネイターたちに呼びかけました。今井さんに頼まれてレポートした自分が今度はザ・ギンザ支店と張り合うようになるとは想像していませんでした。
その後今井さんはザ・ギンザを退職、ユニバーサルデザイン協会の会長に就任してウェルネス分野での活動を再開しました。最後の仕事として華やかなデザイナーファッションの世界ではなく、地道なユニバーサルデザインの啓蒙を通じて社会貢献をしたかったのでしょう。いかにも学究肌で真面目な今井さんらしい選択ではなかったかと思います。こういう生き方は私には真似できませんが、大先輩にはただただ敬意しかありません。
ラグジュアリーブランドは必須です 2024.11.16
もっと日本のいい素材を 2024.11.09
有力コンテンツなのに 2024.09.21