温故知新

2005.07.29
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テーマ: たわごと(26937)
カテゴリ: 政治・社会
午後、広島へ到着。

限られた午後の時間。
可能な限り、ヒロシマを感じたかった。

原爆ドーム前で大量に降りる人や、平和記念公園に群がる人を横目に次の駅、
本山で降車。
原爆ドームが見える川から一本、通りを隔てると、
そこにはどこにでもある工場やガソリンスタンドがある町並みが現れ、
当たり前のような規模の当たり前の見た目の小学校が現れる。


そこの門をくぐって、事務局らしき場所を訪れると、
当たり前の小学校にはない、記帳をする帳面の横に、訪問者用の名札が多数置かれていた。

一声かけ、記帳をし、名札をつけ、案内の通り、体育館の裏の資料館へ。
その資料館は、原爆投下当時、まだ珍しい鉄骨造りで辛うじて建物の枠組みが残った小学校の建物の一部を、
父母会の想いもあって資料館として残している物だった。

夏休み中の小学校の片隅。
セミの声だけが激しく鳴り響く中。
ひっそりと、その建物が顔をのぞかせた。

辺りには誰もなく、私一人。

私はそっと足を進めた。

どこかで見た拡大した写真や、やはりどこかで見た説明、

順路を淡々とこなしていた私の足が、どうしても動かなくなった。

それは地下へと続く階段だった。

階段の側面も、その奥も、明らかに原爆投下当時の建物に少し手を加えただけの代物で、
足元を照らすための明かりだけが赤く、現代の色を放っていた。

目を閉ざしても、私には見えた。


耳を塞いでも私には聞こえた。
戦時中、次第に減っていく授業らしき授業の中、それでも絶えなかった笑い声の数々が。

ベトナム、沖縄。
これまでもこういった資料館は数々見てきたが、こんな経験は初めてだった。
それはもしかしたら、小学校の原爆投下痕を、小学校に保管しているからなのかもしれない。

体中、ガタガタ震える中、
『私は物見遊山じゃないんだ』と心に繰り返し、必死な思いで歩を進めた。

明かりをくぐり、地下が広がって、
そこには原爆投下時のヒロシマの街を再現したミニチュアなど、
現代を匂わす物が数多くあるにも関わらず、
そこが現代だと思えず、原爆投下直後の本山小学校に迷いこんでしまったような錯覚に襲われた。

私はそれを振り切るように、カメラのシャッターを切った。

フラッシュが当たりを照らす。
その光が、死者の原爆投下当時の『ピカ』を思い出させてしまったのだろうか。
もう一回、シャッターを押したのだが、シャッターは全く動かなかった。
『死者を惑わせ驚かせる女』と拒否された気配を感じ、
私は必死で、その場から走り逃れた。
その後も辛うじて順路通りには走ったが、何が展示してあったのか、どうなっていたのか、
全く覚えていない。

気がつくと私は建物の外にいて、
しゃがみこみ、頭を両膝の間に入れて、手だけ高く合わせていた。
猛烈に気持ちが悪くなっていた。

繰り返して言うが、私がこんな状況になったのは初めてだし、
こんなことを期待して戦地を廻っている訳ではない。
それだけに、子供たちに訪れた突然の、かつ壮絶な死を、夥しい死の群団を思いやらずにはいられなかった。


そのまま、原爆投下時には川面が見えない程、死体で埋めつくされた、という川を渡り、
【原爆ドーム】に向かった。

様々な人に注目され、写真に残してもらっているこの建物は、
どこかで見たよりも現物はもっともっともっともっと荒れて、やせ細っていた。

横をたゆとう川と、こちらをさえぎる柵は、何故かものすごく低くて、
娘がもし、ここにいたら、容易く越えて向こうに渡ってしまえる程、低くて。
橋の柵も小学生の腰ほどに低くて。

その意図の真意は私などには分からないのだけれど、
もしかしたらそれは、広島の人と川の距離感みたいなもので、
ずっと古から、広島の『人』と『川』は、
こうやってお互いの危険を分かち合いながら暮らしてきたのかもしれない、と思った。
だとしたら、
この川を埋めつくし、潮の満ち干きの度にギシギシと川面を動いていた死体に対する、
広島の人の怒り、やるせなさ、悲しさというのは、
私が考えているよりも、もっと重いのではないのかな、と勝手に推察していた。

そのまま記念公園を横切って、【平和記念資料館(原爆資料館)】へ。

そこには、主なき声をあげる遺品、原爆のすさまじさを証言する物品たちが、
声を限りに叫んでいた。

私は、その声に耳を傾け、時に涙を流しながらも悔しくてたまらなかった。
何故、誰かがその惨状を写真に残しておかなかったんだろう、と。

広島に原爆が投下された直後の写真は、実はほとんど残されていない。

たまに我々が目にする写真も、現地の新聞社のカメラマンが、当日、たった5枚だけシャッターを押したものであった。

彼は、あまりにもすさまじい惨状で、シャッターを押せなかった、と証言するが、
私はそれが悔しくて悲しい。
プロならば、シャッターを切るべきであった。

証言は、その立場、それぞれの気持ちで行き交ってしまう。
でも、写真は、少なくても切り取られた一場面だけであっても、
そこで語ってくれるものは、言った言わないの水掛け論とは一味も二味も違うものになるはずだ。

戦時下、学徒動員されて街の解体作業にかりだされていた、恥らう年頃のうら若き乙女たちが、
服も裂け、髪は怒髪天を抜き、哀れな、露なほとんど全裸の格好で逃げまどい、
死にたえ曝されていた姿を。
黒こげで炭化した木工から、それがかつて人間であったことを主張するかのように、
穴という穴からピンク色の内臓が飛び出していった姿を。
眼球が飛び出し、下が天を打ち抜くように伸びきった、かつて人間であった我々の同士の姿を。
写真に残すべきであった、と。

平和記念資料館には、想像以上に多くの外国人でひしめきあっていた。
それは、日本人の半分近くに、私には見えた。
笑いあったり、
団体行動の中、トコロテンのように押し出されている日本人の中、
神妙な顔つきで足を止めている人は、外国人に多かった。

それはそうだ。

原爆投下当事国、アメリカでさえも、
原爆で戦争が早期に終結された、という自国の武勇伝以外、
原爆に対しての勉強はなされておらず、
原爆資料館では、日本の資料館にあるような原爆の被害を伝える写真などは鍵付きの部屋に閉じ込めておき、
人目に触れないようにされている現状。
こういった展示は、唯一、被爆国たる日本にしかない、展示なのである。
外国人が、目を白黒させて見入るのは道理なのである。

原爆資料館の中、とある展示のとある片隅に、こんな一展示があった。

『外国の教科書に学ぶ』

多くの外国の教科書も展示されていたが、その説明に、
『日本は原子爆弾で多くの被害を出したが、周辺諸国でも日本から多くの被害をこうむっている国がいて、
その痛みを伝える教科書がある。
日本はその国々のことを学んで、相互に正しい歴史認識の元、
国際化にはお互いの痛みを分かちあうことが重要である』と。

私はそれを読んで、冷や水をぶっかけられたように涙が引っ込んでしまった。

何が相互に歴史認識だ。

確かにそれは道理だ。
正論だ。

でも、その前に我々は、自分たちの痛みを知っているか。
少なくても、このヒロシマの痛みを知っているか。

非戦闘員を、つまり、母親だったり、子供だったり、年寄りだったり、を、
自分たちの手を汚したり、葛藤することもないまま、
十何万人の人生を一瞬で終わらせてしまえる狂気の凶器を浴びた、
ヒロシマの人たちの怒りを、無念を知っているか。

それは我々が、戦争をはじめなかったら。
それは、もし当時の鈴木首相が黙殺などという表現を使用しなかったら。
我々だって多くのアジアの民を殺してきたのだし。
この原爆投下で戦争終結を早めることが出来たのだし。

それはそうだ。

でも、そのことと、唯一の被爆国であることと、どうして同じ計りで測れよう。
自分たちの痛みも認識し、怒ることも出来ないで、どうして他の国の人々の痛みを分かり、忘れないでいることができよう。
自分たちが謝って欲しいと思っていないことを、どうして他の人に謝ることが出来ようか。
日本がこんなことをした、あんなことをした、と、授業のほとんどを対日本戦争史に割いている、
中国、南北朝鮮国程とは言わないまでも、
どうして、戦争に対する情報を、偏っていてもいいから、教えてくれないのだろう。

これを読んで、嫌なことを書いているな、と読まなくなった人は多かろう。
私だって書いているのが嫌だ。何故か、すごく抵抗がある。

『唯一の被爆国であることを主張し、つまり被害者である自分たちの一面を押しだし、
アメリカに謝罪を要求し、非核を主張し、平和を訴える。』

唯一の被爆国として、こんなに当たり前のことが、どうしてこんなに恥ずかしいと思ってしまうのだろう。
これが流行りの自虐史感というのか、
アメリカの戦後民主主義の洗脳効果なのか、
などと思ってみたりもする、が、
そんな大袈裟なことではなく、
ただ単に、奥ゆかしく恥じらい深い日本人気質なのではないかしら、などと思ったりもする。

とまれ。
将来。

娘をはじめ、誰か子供とここを訪れたとき、
その子が「怖い、気持ち悪い」と言ったとき、
「そうだね、怖いね、気持ち悪いね、だから平和がいいよね。」
では、なんの説得力もない、ただ恐怖心をあおる、お化けのような存在でしかない。
そこで、どうして怖くも気持ち悪くもない人たちが、こうなったのか。
どうやったらこうならないのか。
という基本を、胸を張って外国人と討論出来るだけの知識を教えてあげたいと思う。

最後、【袋町小学校の資料館】へ。

ここも小学校だが、資料館は人通りが多い一般通りに面していて、
本山小学校とは違う雰囲気だった。
建物は、被爆当時、救護所として使われていた小学校の建物を残していたもので、
家族の安否を知りたい人々の書き込みで当時、壁が埋められていて、
その一部が今も現存して残っていて、それを見ることが出来る。

改築して使っていた小学校を解体するとき、
その書き込みを発掘するドキュメンタリーが残っていて、
ビデオをその場で見ることが出来た。

原爆で肉親を亡くした人たちは、遺骨が残っていないことが多く、
行方不明、とされている人も多い。
発掘された肉親の名前を手でなぞり、
「確かに姉は生きていたんですね…」とつぶやく姿に、
原爆という、一瞬で大量の命を吹き消す殺戮兵器の罪の深さを見たような気がした。


私が経験できたヒロシマはここまで、で、
後は、地元の人に人気があるという店で広島焼を食べた後(この時は『鉄板』と言わなければいけないことを知らなかった…悔しい)、
広島市民球場で横浜戦を見て(あまりの小ささに、入場ゲートをくぐってすぐに、グランドに出てしまうかと思った程だった。)、
私なりに今の広島を満喫できた。





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Last updated  2005.08.05 22:42:10
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