温故知新

2005.07.29
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テーマ: たわごと(26937)
カテゴリ: 政治・社会
午後、広島へ到着。
すぐに市電に飛び乗った。
限られた午後の時間。
可能な限り、ヒロシマを感じたかった。

原爆ドーム前で大量に降りる人や、平和記念公園に群がる人を横目に次の駅、
本山で降車。
原爆ドームが見える川から一本、通りを隔てると、
そこにはどこにでもある工場やガソリンスタンドがある町並みが現れ、
当たり前のような規模の当たり前の見た目の小学校が現れる。


そこの門をくぐって、事務局らしき場所を訪れると、
当たり前の小学校にはない、記帳をする帳面の横に、訪問者用の名札が多数置かれていた。

一声かけ、記帳をし、名札をつけ、案内の通り、体育館の裏の資料館へ。
その資料館は、原爆投下当時、まだ珍しい鉄骨造りで辛うじて建物の枠組みが残った小学校の建物の一部を、
父母会の想いもあって資料館として残している物だった。

夏休み中の小学校の片隅。
セミの声だけが激しく鳴り響く中。
ひっそりと、その建物が顔をのぞかせた。

辺りには誰もなく、私一人。

私はそっと足を進めた。

どこかで見た拡大した写真や、やはりどこかで見た説明、

順路を淡々とこなしていた私の足が、どうしても動かなくなった。

それは地下へと続く階段だった。

階段の側面も、その奥も、明らかに原爆投下当時の建物に少し手を加えただけの代物で、
足元を照らすための明かりだけが赤く、現代の色を放っていた。

目を閉ざしても、私には見えた。


耳を塞いでも私には聞こえた。
戦時中、次第に減っていく授業らしき授業の中、それでも絶えなかった笑い声の数々が。

ベトナム、沖縄。
これまでもこういった資料館は数々見てきたが、こんな経験は初めてだった。
それはもしかしたら、小学校の原爆投下痕を、小学校に保管しているからなのかもしれない。

体中、ガタガタ震える中、
『私は物見遊山じゃないんだ』と心に繰り返し、必死な思いで歩を進めた。

明かりをくぐり、地下が広がって、
そこには原爆投下時のヒロシマの街を再現したミニチュアなど、
現代を匂わす物が数多くあるにも関わらず、
そこが現代だと思えず、原爆投下直後の本山小学校に迷いこんでしまったような錯覚に襲われた。

私はそれを振り切るように、カメラのシャッターを切った。

フラッシュが当たりを照らす。
その光が、死者の原爆投下当時の『ピカ』を思い出させてしまったのだろうか。
もう一回、シャッターを押したのだが、シャッターは全く動かなかった。
『死者を惑わせ驚かせる女』と拒否された気配を感じ、
私は必死で、その場から走り逃れた。
その後も辛うじて順路通りには走ったが、何が展示してあったのか、どうなっていたのか、
全く覚えていない。

気がつくと私は建物の外にいて、
しゃがみこみ、頭を両膝の間に入れて、手だけ高く合わせていた。
猛烈に気持ちが悪くなっていた。

繰り返して言うが、私がこんな状況になったのは初めてだし、
こんなことを期待して戦地を廻っている訳ではない。
それだけに、子供たちに訪れた突然の、かつ壮絶な死を、夥しい死の群団を思いやらずにはいられなかった。


そのまま、原爆投下時には川面が見えない程、死体で埋めつくされた、という川を渡り、
【原爆ドーム】に向かった。

様々な人に注目され、写真に残してもらっているこの建物は、
どこかで見たよりも現物はもっともっともっともっと荒れて、やせ細っていた。

横をたゆとう川と、こちらをさえぎる柵は、何故かものすごく低くて、
娘がもし、ここにいたら、容易く越えて向こうに渡ってしまえる程、低くて。
橋の柵も小学生の腰ほどに低くて。

その意図の真意は私などには分からないのだけれど、
もしかしたらそれは、広島の人と川の距離感みたいなもので、
ずっと古から、広島の『人』と『川』は、
こうやってお互いの危険を分かち合いながら暮らしてきたのかもしれない、と思った。
だとしたら、
この川を埋めつくし、潮の満ち干きの度にギシギシと川面を動いていた死体に対する、
広島の人の怒り、やるせなさ、悲しさというのは、
私が考えているよりも、もっと重いのではないのかな、と勝手に推察していた。

そのまま記念公園を横切って、【平和記念資料館(原爆資料館)】へ。

そこには、主なき声をあげる遺品、原爆のすさまじさを証言する物品たちが、
声を限りに叫んでいた。

私は、その声に耳を傾け、時に涙を流しながらも悔しくてたまらなかった。
何故、誰かがその惨状を写真に残しておかなかったんだろう、と。

広島に原爆が投下された直後の写真は、実はほとんど残されていない。

たまに我々が目にする写真も、現地の新聞社のカメラマンが、当日、たった5枚だけシャッターを押したものであった。

彼は、あまりにもすさまじい惨状で、シャッターを押せなかった、と証言するが、
私はそれが悔しくて悲しい。
プロならば、シャッターを切るべきであった。

証言は、その立場、それぞれの気持ちで行き交ってしまう。
でも、写真は、少なくても切り取られた一場面だけであっても、
そこで語ってくれるものは、言った言わないの水掛け論とは一味も二味も違うものになるはずだ。

戦時下、学徒動員されて街の解体作業にかりだされていた、恥らう年頃のうら若き乙女たちが、
服も裂け、髪は怒髪天を抜き、哀れな、露なほとんど全裸の格好で逃げまどい、
死にたえ曝されていた姿を。
黒こげで炭化した木工から、それがかつて人間であったことを主張するかのように、
穴という穴からピンク色の内臓が飛び出していった姿を。
眼球が飛び出し、下が天を打ち抜くように伸びきった、かつて人間であった我々の同士の姿を。
写真に残すべきであった、と。

平和記念資料館には、想像以上に多くの外国人でひしめきあっていた。
それは、日本人の半分近くに、私には見えた。
笑いあったり、
団体行動の中、トコロテンのように押し出されている日本人の中、
神妙な顔つきで足を止めている人は、外国人に多かった。

それはそうだ。

原爆投下当事国、アメリカでさえも、
原爆で戦争が早期に終結された、という自国の武勇伝以外、
原爆に対しての勉強はなされておらず、
原爆資料館では、日本の資料館にあるような原爆の被害を伝える写真などは鍵付きの部屋に閉じ込めておき、
人目に触れないようにされている現状。
こういった展示は、唯一、被爆国たる日本にしかない、展示なのである。
外国人が、目を白黒させて見入るのは道理なのである。

原爆資料館の中、とある展示のとある片隅に、こんな一展示があった。

『外国の教科書に学ぶ』

多くの外国の教科書も展示されていたが、その説明に、
『日本は原子爆弾で多くの被害を出したが、周辺諸国でも日本から多くの被害をこうむっている国がいて、
その痛みを伝える教科書がある。
日本はその国々のことを学んで、相互に正しい歴史認識の元、
国際化にはお互いの痛みを分かちあうことが重要である』と。

私はそれを読んで、冷や水をぶっかけられたように涙が引っ込んでしまった。

何が相互に歴史認識だ。

確かにそれは道理だ。
正論だ。

でも、その前に我々は、自分たちの痛みを知っているか。
少なくても、このヒロシマの痛みを知っているか。

非戦闘員を、つまり、母親だったり、子供だったり、年寄りだったり、を、
自分たちの手を汚したり、葛藤することもないまま、
十何万人の人生を一瞬で終わらせてしまえる狂気の凶器を浴びた、
ヒロシマの人たちの怒りを、無念を知っているか。

それは我々が、戦争をはじめなかったら。
それは、もし当時の鈴木首相が黙殺などという表現を使用しなかったら。
我々だって多くのアジアの民を殺してきたのだし。
この原爆投下で戦争終結を早めることが出来たのだし。

それはそうだ。

でも、そのことと、唯一の被爆国であることと、どうして同じ計りで測れよう。
自分たちの痛みも認識し、怒ることも出来ないで、どうして他の国の人々の痛みを分かり、忘れないでいることができよう。
自分たちが謝って欲しいと思っていないことを、どうして他の人に謝ることが出来ようか。
日本がこんなことをした、あんなことをした、と、授業のほとんどを対日本戦争史に割いている、
中国、南北朝鮮国程とは言わないまでも、
どうして、戦争に対する情報を、偏っていてもいいから、教えてくれないのだろう。

これを読んで、嫌なことを書いているな、と読まなくなった人は多かろう。
私だって書いているのが嫌だ。何故か、すごく抵抗がある。

『唯一の被爆国であることを主張し、つまり被害者である自分たちの一面を押しだし、
アメリカに謝罪を要求し、非核を主張し、平和を訴える。』

唯一の被爆国として、こんなに当たり前のことが、どうしてこんなに恥ずかしいと思ってしまうのだろう。
これが流行りの自虐史感というのか、
アメリカの戦後民主主義の洗脳効果なのか、
などと思ってみたりもする、が、
そんな大袈裟なことではなく、
ただ単に、奥ゆかしく恥じらい深い日本人気質なのではないかしら、などと思ったりもする。

とまれ。
将来。

娘をはじめ、誰か子供とここを訪れたとき、
その子が「怖い、気持ち悪い」と言ったとき、
「そうだね、怖いね、気持ち悪いね、だから平和がいいよね。」
では、なんの説得力もない、ただ恐怖心をあおる、お化けのような存在でしかない。
そこで、どうして怖くも気持ち悪くもない人たちが、こうなったのか。
どうやったらこうならないのか。
という基本を、胸を張って外国人と討論出来るだけの知識を教えてあげたいと思う。

最後、【袋町小学校の資料館】へ。

ここも小学校だが、資料館は人通りが多い一般通りに面していて、
本山小学校とは違う雰囲気だった。
建物は、被爆当時、救護所として使われていた小学校の建物を残していたもので、
家族の安否を知りたい人々の書き込みで当時、壁が埋められていて、
その一部が今も現存して残っていて、それを見ることが出来る。

改築して使っていた小学校を解体するとき、
その書き込みを発掘するドキュメンタリーが残っていて、
ビデオをその場で見ることが出来た。

原爆で肉親を亡くした人たちは、遺骨が残っていないことが多く、
行方不明、とされている人も多い。
発掘された肉親の名前を手でなぞり、
「確かに姉は生きていたんですね…」とつぶやく姿に、
原爆という、一瞬で大量の命を吹き消す殺戮兵器の罪の深さを見たような気がした。


私が経験できたヒロシマはここまで、で、
後は、地元の人に人気があるという店で広島焼を食べた後(この時は『鉄板』と言わなければいけないことを知らなかった…悔しい)、
広島市民球場で横浜戦を見て(あまりの小ささに、入場ゲートをくぐってすぐに、グランドに出てしまうかと思った程だった。)、
私なりに今の広島を満喫できた。





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Last updated  2005.08.05 22:42:10
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Re:ヒロシマに想い、ヒロシマで感じる(07/29)  
記者達は足を踏み入れるのも、大変だったと聞いたことがある。
フイルムを取り上げられたり・・
それだけアメリカはその状況が世界に知れ渡るのをおそれたと・・
あまりのむごさに・・
アメリカが決断したこと・・
世界に知れ渡ってはいけなかった・・
戦争を終結させたアメリカだけでそれ以上の事は封印したかったのだと・・
外国の記者らは広島に入ることすら許されなかったらしい・・

昨日、投下されずにすんだかも・・その分かれ道・・のようなテレビで特集を放送していた・・・

戦争なんて愚かな行為・・
人間はなんておろかなんだろう・・

必ず8月6日学校の登校日があった。
原爆を戦争を忘れないよう・・
平和を願って・・
そしてこの日は必ず気分が悪くなって・・・
飛行機の音さえ恐怖の音に聞こえた。




(2005.08.06 06:48:53)

Re:ヒロシマに想い、ヒロシマで感じる(07/29)  
お久しぶりです。
私書をもらって以来でしょうか^^;
PCの調子が悪くて書き込みとか出来なかったんですが、やっと新しいのに引越ししてネット開始です。
昨日も遊びにきたんだけど、くんちゃんの調子が悪くてすぐに退散。
今日改めてじっくり読ませていただきました。

広島のお話。
実は私、広島行ったことないんです。
沖縄で生まれ育ち、小さい時から戦争という言葉を身近に感じてきたと思っています。
私、PMSさんがそのようなテーマで日記をつづってくれて本当に嬉しいです。
正直言って、私は、沖縄の人と、内地の人との、戦争に対する温度差を小さい時から感じていて、真剣に感じて考えてくれる人って少ない。と思ってました。
だけど、少なからず感じ取ってくれてる人がいる、という事実も分かっていたけど、漠然としていて。
TVでキャスターとかがそれらしい事を話しても納得できませんでした。
だけどPMSさんの日記を読んで、素直に嬉しいと思いました。
安心しました。
子育てや考え方を、以前から拝見していたせいもあってか、素直に受け止められました。
感謝の気持ちです。
うまく書けませんが、この日記をたくさんの人が読んでくれたらな。と思います。
そして私も広島に行かなくては、と思いました。
(2005.08.06 11:35:19)

自分の意見を持つ難しさ  
ゆばあば さん
はじめまして。いつも読んでましたが、書き込みは初めてです。子供がいませんので、かげながら応援しつつ、遠慮してました。思い切って参加させてもらいます。どきどきですが、よろしくお願いします。
実は、私の大学時代からの友人の話を、どうしてもしたかったのです。
彼女は、大学1年の夏、アメリカの田舎町に住む親戚の家に遊びに行きました。地名は聞いてませんが、日本人が観光で訪れるような土地ではないようです。
ある日、バスに乗りました。田舎のバスの運転手だからか非常に陽気で、乗客に大声で話しかけたりするそうです。私の友達が乗ってきたのを見て、まず「日本人か?」と聞いたそうです。彼女が頷くと、彼は陽気に何かをまくし立てました。すると乗客たちもそれに呼応するように拍手したり、陽気に声をあげたりしてきたようです。
その日は、8月6日でした。
彼女の語学力でやっと理解できたところによると、どうやら原子爆弾が落ちて、日本との戦争が早く終結することができた。記念すべきめでたい日だ。よかったね。という祝福ムードだったようです。私の友達は、日本人特有の曖昧な笑いを浮かべてバスの中で黙って座っていることしかできなかったそうです。
この話を友達が教えてくれたのは、数年前。私たちが30歳になったときでした。そして聞きました。
「あのとき、私はどんな態度をとって何を言えばよかったの?」
私にはわかりませんでした。私たちはその日、朝まで議論しましたが、答えが出ませんでした。
エノラ・ゲイの搭乗員がことあるごとに声明を出したり、インタビュー記事が出たりしますよね。私は彼らの言っていること間違えていると思いません。
だけど、彼らにたいしt (2005.08.06 23:33:39)

↑ すみません…  
ゆばあば さん
モバイルでアクセスしてるので、手がすべりました。すみません。
彼らのような意見をもつ人たちに対して、日本人として主張すべきことがあるはずだと、言いたかったんです。
でも、それは本当に難しいですよね… (2005.08.06 23:48:20)

Re:ヒロシマに想い、ヒロシマで感じる(07/29)  
マルゴー92  さん
6日の朝、アメリカABCテレビでヒロシマについて放送していました。原爆の日に広島に集まる人々や当時の映像を交え、必要悪だったというような解説もなく、忘れてはいけない日とコメントして、なんというか素直な放送のしかたでよかったと思いました。

靖国問題に絡んで無宗教の国立慰霊施設設置が議論されています。外交上の装置として必要なら作ってもいいのかもしれない。でも、私はそこに慰霊にも、子供の教育のために行くことも決してないでしょう。戦争を知るなら広島、長崎、沖縄、そして靖国からも多くを学び、祈ることができます。上から見ても横から見ても”正しい“平和への願いというものに真実の力が宿る日が来ることがあるとは思えないんです。
(2005.08.07 23:53:06)

お気楽ママ36さん へ>Re[1]:ヒロシマに想い、ヒロシマで感じる(07/29)  
pms  さん
お気楽ママ36さん

>記者達は足を踏み入れるのも、大変だったと聞いたことがある。
>フイルムを取り上げられたり・・
>それだけアメリカはその状況が世界に知れ渡るのをおそれたと・・
>あまりのむごさに・・
>アメリカが決断したこと・・
>世界に知れ渡ってはいけなかった・・
>戦争を終結させたアメリカだけでそれ以上の事は封印したかったのだと・・
>外国の記者らは広島に入ることすら許されなかったらしい・・

>昨日、投下されずにすんだかも・・その分かれ道・・のようなテレビで特集を放送していた・・・

>戦争なんて愚かな行為・・
>人間はなんておろかなんだろう・・

>必ず8月6日学校の登校日があった。
>原爆を戦争を忘れないよう・・
>平和を願って・・
>そしてこの日は必ず気分が悪くなって・・・
>飛行機の音さえ恐怖の音に聞こえた。
-----

原爆投下後の広島では、相当の報道規制をしいたそうですね。
きっと、それでも、この惨状を世界に伝えなければ、と、記録に残し続けたものを闇に葬られたカメラマンたちも多いでしょう。
だからこそ、
報道規制どころか、赤十字の医師さえも入れなかった投下直後。
そこに居合わせたカメラマンがシャッターを切る指に力を入れられなかったことが、残念でしかたありません。

8月6日。
私の実妹が前日の5日に出産しました。
その新しい命が愛しければ愛しいほど、
そんな魂を一瞬に失わせた原爆を憎いと思い過ごしました。
(2005.08.18 14:50:02)

はな5050さん へ>Re[1]:ヒロシマに想い、ヒロシマで感じる(07/29)  
pms  さん
はな5050さん

>正直言って、私は、沖縄の人と、内地の人との、戦争に対する温度差を小さい時から感じていて、真剣に感じて考えてくれる人って少ない。と思ってました。
>だけど、少なからず感じ取ってくれてる人がいる、という事実も分かっていたけど、漠然としていて。
>TVでキャスターとかがそれらしい事を話しても納得できませんでした。
>だけどPMSさんの日記を読んで、素直に嬉しいと思いました。
>安心しました。
>子育てや考え方を、以前から拝見していたせいもあってか、素直に受け止められました。
>感謝の気持ちです。
>うまく書けませんが、この日記をたくさんの人が読んでくれたらな。と思います。
>そして私も広島に行かなくては、と思いました。
-----

はな5050さんにそう言っていただけて恐縮です。

実は、沖縄へ行くときも、はな5050さんのお話を伺おうかな、と思ったことは思ったんです。
でも、何か、失礼なような気がして、
興味本位で足をつっこもうとしていると思われないだけの何かを私が持ち得ている実感がなくて、
遠慮しました。
でも、沖縄、広島の地を踏んだ今、ようやく語ろうと思いました。
それは、娘を授かったことと、何か繋がりがあるような気もするんですよね、不思議なんですけど。

戦争と障害児。

想いは同じ心のような気がするんですよ。
(2005.08.18 14:58:30)

ゆばあばさん へ>Re:自分の意見を持つ難しさ(07/29)  
pms  さん
ゆばあばさん

はじめまして。
お返事、遅くなってごめんなさいね。
呆れられたのではないかと心配です。。

大変、興味深いお話を書き込んでくださってありがとうございます。
こういったお話を伺うとき、私は、このブログを続けていて、自分の考えを恥ずかしながら垂れ流してきて、心から良かった、と、思える瞬間です。

真に公平な『史観』というものは存在しないと思うんです。
たとえ、第三者が作成したとしても、第三者だからこそ見えないこと、というものが、その戦争史に入ってきてしまいます。

だからこそ大切なのは、当事者の声、だと思うんです。
敗戦国の声。
勝利国の声。
武器を開発した者の声。
戦争を推進した権力者の声。

それぞれがそれぞれの声をもってして、それぞれの想いを主張する、それでいいと思います。
誰も、悪かろう、と思って行動する人はいないと思います。
何かしら良かれ、と思って行動するのですから。

私が問題だと思うのは、その『声』を我々日本人が忘れてしまっていることです。
もしくは、奪われてしまっていることです。

たどたどしい英語でも、
「no more hiroshima!no more nagasaki!
it's only my belief」
こう叫んだ後、議論をふっかけられても、英語が分からなくていいと思うんです。
もちろん、私がその場にいたら…言えません…。
でも、次の世代には、胸を張って言って欲しいと思っています。
だって、それが私たち日本人の真実ですから。

(2005.08.18 15:12:07)

マルゴー92さん へ>Re[1]:ヒロシマに想い、ヒロシマで感じる(07/29)  
pms  さん
マルゴー92さん

>6日の朝、アメリカABCテレビでヒロシマについて放送していました。原爆の日に広島に集まる人々や当時の映像を交え、必要悪だったというような解説もなく、忘れてはいけない日とコメントして、なんというか素直な放送のしかたでよかったと思いました。

>靖国問題に絡んで無宗教の国立慰霊施設設置が議論されています。外交上の装置として必要なら作ってもいいのかもしれない。でも、私はそこに慰霊にも、子供の教育のために行くことも決してないでしょう。戦争を知るなら広島、長崎、沖縄、そして靖国からも多くを学び、祈ることができます。上から見ても横から見ても”正しい“平和への願いというものに真実の力が宿る日が来ることがあるとは思えないんです。
-----

おっしゃる通りですよね。

アメリカにはアメリカの主張があって、
アジアにはアジアの主張があって、しかるべきだと思います。
そして、日本には日本の主張があってしかるべきなのです。
それが、アメリカや他アジア国の主張や平和と違っていても、当たり前だと思うんです。

問題なのは、私たちが私たちの主張をしない、ということですよね。
我々日本人が、
日本の国の将来のために、良かれと思って戦った先人たちを、その戦いの中、生きてきた人たちを、
私たちが忘れないで、誰が忘れないでいてあげることができるのでしょう。

それを、戦争賛成派、日本軍の行ってきたことへの擁護派、と受け止められるのは、心外なのですが。。

(2005.08.18 15:24:12)

Re:ゆばあばさん へ>Re:自分の意見を持つ難しさ(07/29)  
ゆばあば さん
pmsさん
>ゆばあばさん

>はじめまして。
>お返事、遅くなってごめんなさいね。
>呆れられたのではないかと心配です。。

お返事ありがとうございます。
呆れるなんてとんでもないです。
私はかつてHPありましたけど、管理と更新の大変さにさっさと閉鎖してしまった人間ですから、むしろお子さん育てられながらブログ更新し続けていらっしゃる根気に、尊敬の念すら抱いてます。


>私が問題だと思うのは、その『声』を我々日本人が忘れてしまっていることです。
>もしくは、奪われてしまっていることです。

>たどたどしい英語でも、
>「no more hiroshima!no more nagasaki!
>it's only my belief」
>こう叫んだ後、議論をふっかけられても、英語が分からなくていいと思うんです。
>もちろん、私がその場にいたら…言えません…。
>でも、次の世代には、胸を張って言って欲しいと思っています。
>だって、それが私たち日本人の真実ですから。
-----
クリアなご意見を即答してくださったこともすごいと思いました。少なくとも二十歳のときはそれでよかったんですよね。主張のうちにも入らないような声でもいいから、あげれば何かが始まったかもしれない。それこそ若いうちから外国へ出て行くことの意義なのかも。
ただ、現実には私も友人も行動が伴わないまま頭ばかり大人になってしまったみたいで、朝まで生テレビなみに、議論が迷走しちゃいました。国際人としてどこか幼稚で無神経な人が多いのも事実。論点を整理して議論するということが本当に苦手な国民性だなぁ・・・などなど、自省もこめて痛感する場面が多いのも事実なんですもの。

なんて…。また友人と議論した夜の思考に陥りそうになってしまいました(汗)。pmsさんの日記は、私にいろんなことを考えさせてくれます。これからもちょこちょこ覘きますのでよろしくお願いします! (2005.08.19 05:18:38)

ゆばあばさん へ>Re[1]:ゆばあばさん へ>Re:自分の意見を持つ難しさ(07/29)  
pms  さん
ゆばあばさん

>クリアなご意見を即答してくださったこともすごいと思いました。少なくとも二十歳のときはそれでよかったんですよね。主張のうちにも入らないような声でもいいから、あげれば何かが始まったかもしれない。それこそ若いうちから外国へ出て行くことの意義なのかも。
>ただ、現実には私も友人も行動が伴わないまま頭ばかり大人になってしまったみたいで、朝まで生テレビなみに、議論が迷走しちゃいました。国際人としてどこか幼稚で無神経な人が多いのも事実。論点を整理して議論するということが本当に苦手な国民性だなぁ・・・などなど、自省もこめて痛感する場面が多いのも事実なんですもの。

>なんて…。また友人と議論した夜の思考に陥りそうになってしまいました(汗)。pmsさんの日記は、私にいろんなことを考えさせてくれます。これからもちょこちょこ覘きますのでよろしくお願いします!
-----

とんでもないです。
こちらこそ、良い勉強の機会をありがとうございました。

朝まで生テレビのような議論、私も好きです。
学生時代は、友達と屋上で議論していて、学校に取り残されたままカギを閉められてしまい、院生に窓から吊り上げてもらった経験もあります(笑)

そんな出口のない議論が、今の私たちの糧となって、次第に思考がクリアになって収斂されて次の世代に受け継いでいってもらう、
そんな夢のようなことを考えています。
これからも一緒に考えていただけたら嬉しいです。
こちらこそ、よろしくお願いします。

(2005.08.19 10:41:39)

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