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この3日間は、まさに「感動」「感謝」「発見」「快感」の連続でした。新たな出会いや再会に心から感謝し、数え切れないほどの学びを得た時間でした。振り返ると、まだ荒削りな自分が感じたすべてが、刺激的であり、「感動」の源となりました。そして、自分が少しずつ磨かれていく感覚が、まるで「快感」のように心に響きました。父に言わせると、やっと自分の水準が父が18歳だった頃に達したようだと言われました。これまでの自分と比べると、確実に成長を感じられる瞬間でした。今回得たたくさんの「発見」や、私が持っている知識やアイディアを、どう活かしていくか。父から教わったこと、それは「点をどう線にし、線をどう面に、面をどう立体にしていくか」ということでした。何気ない小さなアイディアや知識を、いかにして大きな構想に繋げていくのか。それが大切だということを改めて認識しました。この3日間の中で、「点」から「線」、「面」、「立体」へと進んでいく過程のヒントを得た気がします。明日はその記憶が鮮明なうちに、今思い描いている数々のアイディアを「線」「面」にしていく作業を進めていきたいと思います。そして、何よりも早く授業がしたくてたまらない。自分が成長した分、次はそれを授業を通じて学生たちに還元し、さらに多くの学びを共にしていきたいと心から感じています。
2008.10.31
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今日の出来事を一言で表現するなら、まさに「うれしさの連続」でした。出会い、雰囲気、おもてなし、挨拶…すべてが私にとって「嬉しい」と感じる瞬間でした。それらの瞬間を通して、改めて私は人との繋がりが生み出す温かさを実感しました。この場を借りて、聡明舎の先生方に心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。また、生徒たちにも、どうか私の感謝の気持ちをお伝えください。授業の雰囲気は、まさに元気そのものでした。先生と生徒たちが一緒になって、力強く挨拶を交わし、教室に笑い声が溢れる様子を見て、私はただニコニコと見守ることができました。その場にいた時間が、どれだけ心温まるものであったか、今でも思い出すたびにほのぼのとした気持ちになります。そんな素晴らしい経験をさせていただいたことに感謝し、今後はその恩返しができるようにと、11月1日の夜に、総合ディレクターでいらっしゃる森末先生に、改めてメールでご挨拶をしようと思っています。本日は本当にありがとうございました。P.S.今日は、思い切って携帯からこの更新をしてみました。興奮のあまり、少し眠れそうにない気分です。でも、この気持ちを伝えずにはいられなかったので、こうして文字にしています。いただいた本や通信、冊子をゆっくりと読もうと思います。それから、今日、またひとつ宝物が増えました。喜多川先生からいただいた色紙です。早く生徒たちに見せたくて仕方ありません。本当に、貴重な時間を割いていただき、ありがとうございました。
2008.10.29
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ビル・ゲイツ氏が提唱した『創造的資本主義』という考え方を、あなたはご存知でしょうか。これは、簡単にいえば「企業が利益を追求するだけでなく、社会全体の課題解決にも積極的に貢献していこう」という発想です。聞こえは良い。でも実際のところ、これは果たして理想論なのか、現実的な進化なのか――賛否が大きく分かれるテーマでもあります。この議論の「否」の側に立つ代表的な考え方として、2つの重要な思想があります。まず一つ目は、近代資本主義の父とされるアダム・スミスの名著『国富論』。200年以上も前に書かれたにもかかわらず、今なお資本主義社会の根幹を支えているこの書物の中で、彼はこう述べています。「(企業人は)自分の利益を追求することで、社会の利益そのものを追求しようとするより効果的に、社会の利益を実現できる場合が多い。公共の利益のために交易を行うふりをする人物が、素晴らしい成果を上げたという例を私は知らない」この言葉が200年以上前に書かれたということに、私は思わずため息をつきました。見抜いていたのです。「善意のふり」よりも、「自分の利益をまっすぐに追いかける姿勢」のほうが、結果として社会全体をうまく回す――そんな皮肉にも似た現実を。そして二つ目は、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者、ミルトン・フリードマン氏の見解です。彼は、あるエッセイの中でこう言い切っています。「企業の社会的責任は、企業の利益を増やすこと」そしてこの考えをさらに発展させ、「社会的責任」を求める動き自体を、「社会主義的である」とも断じています。こうした主張には、確かに“資本主義の筋”としての一貫性があります。「企業は営利を追求する機関である」――その原則を崩してしまっては、資本主義というシステム自体の信頼性が揺らぎかねない。そうした懸念も理解できます。けれど、それでも私は、“向かうべき人類の目的”は、たったひとつだと信じたいのです。「すべての人間が、幸せに生きられる世界をつくること」それが、私たちが“発展”や“創造”といった言葉のもとに目指すべき、本当のゴールなのではないでしょうか。そしてそのためにこそ、資本主義というシステムも、もう一度“何のために存在するのか”という問いに立ち返る必要があるのではないか。私はそう感じています。もっと言えば、社会制度や経済構造というものは、ほんの少しの視点の変化や価値観の転換で、まったく新しい姿を見せてくれるはずです。「世界一幸せな人とは、世界一他人を幸せにした人である」これは、誰か有名な哲学者の言葉ではありません。でも、私はこの考え方に、とても惹かれます。利益を追いかけるのが悪いわけではない。けれど、利益とともに、“他者の幸せ”も追いかける。そんな資本主義が、あってもいいじゃないかと私は思うのです。こういう話を、生徒たちと語り合うことがあります。経済の話、制度の話、歴史の話――一見、難しそうに聞こえるかもしれません。けれど、本質はとてもシンプルな問いに集約されていきます。「どうしたら、人は幸せになれるのか」「何のために、働くのか」「お金って、誰のために、どう使われるべきなのか」そんな根本的な問いを、10代の若者がまっすぐに見つめ、語り合うことは、とても尊いことだと私は思います。“教育”とは、知識を与えることではなく、問いを共にすることなのかもしれません。『創造的資本主義』というビル・ゲイツの問いかけは、経済の話を超えて、私たち一人ひとりの「あり方」にもつながっているように思えるのです。その問いを、子どもたちと一緒に考えていく。未来を創っていく彼らにとって、それは“受験勉強”以上に大切な学びなのかもしれません。
2008.10.28
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ヘーゲル哲学における英雄の定義を考えるとき、その理解は単なる「偉大な人物」という枠を超えた、深い洞察に満ちたものだと言えるでしょう。英雄は、歴史を創る存在として、その活動の中で、伝統的精神を受け継ぎ(即自)、次にそれを根底から打破し(対自)、そして新たな精神を生み出す(即対自)という、継承・破壊・創造の三段階を踏むことが求められるのです。これがヘーゲルの言うところの英雄の行為であり、歴史的な進展を促す原動力となるものです。英雄の「偉大なエゴイスト」としての姿しかし、ヘーゲルの哲学における英雄像は、単に理想的な人物像ではありません。彼が「偉大なエゴイスト」と呼ぶように、英雄もまた自分自身の目的を追い求める存在に過ぎないという点が重要です。英雄は情熱的に自分の欲望を満たすために行動し、その過程で、自分でも意識していないうちに、継承・破壊・創造の三段階を踏み、結果として普遍的な目的を実現してしまうのです。英雄は、世界精神の目的を知ることなく、ただ自らの目的に従い、その結果として歴史を動かしていきます。その行動の中で英雄は、自らのエゴを満たしながらも、最終的には自らの役割を終えて、歴史の舞台から消えていくのです。英雄の役割とその限界ヘーゲルが描く英雄像は、自己中心的でありながらも、その行為が歴史を形作るという逆説的な真実を含んでいます。英雄は自己の欲望を追い求め、その結果として新しい世界を作り出すのですが、その過程で彼自身は歴史の目的を知らないという矛盾があるのです。これは、理性が自己を超越する形で歴史を進展させるというヘーゲルの哲学的観点を反映しています。英雄の「偉大なエゴイスト」としての側面は、その行動の動機を解き明かす鍵であり、またその限界を示しています。英雄は、他者や社会に影響を与えつつも、最終的には自身の目的を果たすことで歴史の一章を終えるという無情さが、ヘーゲルの哲学には表現されています。まとめヘーゲル哲学における英雄の定義は、単なる英雄的な人物像にとどまらず、その行動がいかにして歴史を創り出すか、そしてその背後にある「自己中心的な目的」によって、歴史の進展が実現されるのかを示しています。英雄は「偉大なエゴイスト」として、自己の欲望を追求しながらも、その結果として普遍的な目的を果たす存在であり、その役割を終えた後には、静かに歴史の舞台から消えていくのです。このような英雄像は、単に歴史の作り手としてだけでなく、人間の根源的なエゴと理性の関係を深く洞察するヘーゲルの哲学的視点を表していると言えるでしょう。
2008.10.24
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授業というのは、ただ教科書をなぞって知識を伝える時間ではありません。それは、先生と生徒が“心で出会う”特別な瞬間でもあるのだと思います。授業の準備にたっぷりと時間をかける。調べて、悩んで、言葉を選んで、時には何度も構成を練り直す。そんなふうにして迎える授業は、まるで待ち遠しい約束のように、胸が高鳴る時間になります。「早くみんなに伝えたい」「この問いかけで、生徒はどんな顔をするだろう」「どうすれば、興味を持ってもらえるかな」先生の心がそうして動いているとき、その熱は、静かに、でも確かに、生徒にも伝わっていくものです。たとえそれが、授業づくりの“正攻法”ではなかったとしても。たとえ教科書通りではなく、ちょっと寄り道の多い方法だったとしても。「先生も、私たちのために本気で向き合ってくれている」そんな思いを生徒が感じとったとき、学びの場は一気に“教室”を超えた場所になります。人は、自分のために努力してくれている人に、心を開きます。どれだけ準備に時間をかけたのか、なんて口で言わなくても、その想いは黒板越しに伝わるのです。教育とは、教えることではなく、響き合うこと。先生の“授業が楽しみでたまらない”という気持ちが、そのまま生徒の「学びたい」という心を育てていくのだと思います。「準備に時間をかけるのは、遠回りかもしれない」そう不安に感じる日もあるでしょう。でも、その一歩一歩が確かに未来の誰かの記憶に残っていく。そんなふうに信じて、今日も黒板に向かう先生の姿は、きっと誰よりも、尊く、美しいのです。
2008.10.21
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今日は朝から実力テストでした。緊張感のある時間を乗り越え、結果が出るのを待つ間、心がざわつく子もいるでしょう。そのあとに続くのが、テストの解説授業です。この時間は、ただの復習ではありません。実はここからが、本当の意味での「勉強」のスタートなのです。■テストは「作業」、解説授業は「確認」の時間テストを受けるということは、ある意味で「作業」をこなすようなもの。限られた時間のなかで、自分の力を試す瞬間です。そして解説授業は、その「作業」が正しかったのか、間違いがどこにあったのかをしっかり確認する時間。間違いを恐れず、素直に自分の弱点と向き合うことが大切です。■帰宅後の自主復習こそが、真の学びでも、そこで終わってはいけません。実は、家に帰ってからの「復習」と「類題演習」こそが、本当の勉強の核となる部分なのです。テストで間違えた問題をもう一度解いてみたり、似たような問題にチャレンジしてみたり。これが、自分の力を本当に伸ばすカギになります。■自主性が育つからこそ、任せることの意味この「家での勉強」だけは、私たち教師も完全に生徒の自主性に任せています。なぜなら、学びは自分から動くことでしか深まらないから。自分のペースで、しっかり時間をかけて、納得いくまで取り組む。それができる力が、これからの長い人生で大きな支えになると信じています。■まとめテストは「できた・できなかった」の結果ではなく、自分の今の状態を知るための大切な機会。そして、解説授業で「確認」をして、帰ってからの「復習」と「類題演習」で、初めて「理解」が自分のものになるのです。だからこそ、私は生徒たちに言います。「ここからが本当の勉強だよ」と。あなたも、ぜひ自分のペースで、納得のいく勉強を続けてみてくださいね。
2008.10.19
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「子どもを未来に適応できるように育てることが教育の本質である」──この思想に触れたとき、私はハッとさせられました。この言葉は、18世紀の哲学者イマヌエル・カントが残した有名な一節です。教育術の原理は、子供たちが人類の現在の状態に適応するようにではなく、将来可能なよりよき状態に適応できるように、すなわち人間性の理念とその全き本分とにふさわしいように教育されるべきだ。なんと深く、希望に満ちた言葉でしょうか。「将来可能なよりよき状態に適応できるように」──この一文には、ただの知識の詰め込みではなく、より良い未来を切り拓いていくための、人間としての在り方を育む視点が宿っています。現代の教育は、時に「今の社会にどれだけ適応できるか」「いかに効率よく成果を上げるか」といった短期的な視点に陥りがちです。もちろん、それが必要な場面もあるでしょう。でも、カントの言葉にあるように、教育はもっと長いスパンで、もっと深い理想を見据えたものであるべきなのではないでしょうか。私は、このような理念や思想を持ちながら教育に向き合うことが必要だと思っています。そして同時に、その理念自体も、時代とともに問い直し、育てていくものであるはずです。たとえば、自由とは何か、幸福とは何か──そんな人間の根源的な問いに対して、古代ギリシャの哲学者たちは数千年前から考え続けてきました。では、私たちはその問いにどこまで近づけているでしょうか。それとも、科学技術が進歩した分、人間の思索はむしろ後退してしまってはいないでしょうか。手のひらの中に世界中の情報が収まるこの時代にこそ、「なぜそれを学ぶのか」「何のために教育があるのか」を、もう一度深く考え直す必要があると感じます。教育とは、単なる知識の移植ではありません。人と人との出会いのなかで、言葉を交わし、価値観を揺さぶりながら、未来への種を育てていく営みです。私は、今日も問い続けたいと思います。「教育とは何か?」「どう教育するべきなのか?」それは答えの出ない問いかもしれません。けれど、問い続けることにこそ、教育の原点があるのではないでしょうか。教育学は、哲学から派生した学問です。「どう生きるか」という人間の問いの延長に、「どう育てるか」があるのです。だからこそ、教育学には人間の営みそのものを見つめる奥深さと面白さがあるのだと思います。これからも私は、誰かに何かを教えるという行為を通して、自分自身の問いも育てていきたい。人間として、そして教育の一端を担う存在として──未来という、まだ誰も知らない場所に向かって。
2008.10.15
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授業のあと、私はいつも生徒たちに「STUDENT REPORT」を書いてもらっています。授業の感想や評価、そして“今の気持ち”を自由に綴ってもらう、いわば心の交換日記のようなものです。堅苦しいルールはありません。「こう書かなくちゃ」という決まりごともありません。だからこそ、書かれる言葉にはその子の“本音”が詰まっていて、読むたびに、胸がじんわりと温かくなります。■ある生徒の感想──モヤモヤが吹き飛びました!先日、こんなコメントをもらいました。「今日の授業で、たくさん笑って、最近のモヤモヤが吹っ飛びました。なんか楽になったし、やる気が倍増しました。」この言葉を読んで、私は心から嬉しくなりました。「勉強しに来た」のに、「笑って」「気が晴れて」「やる気まで増した」なんて、これ以上のことはないなぁ、と。■別の生徒の感想──笑いをこらえて疲れました(笑)一方で、こんなユニークなコメントも。「“道徳”ならぬ“どう解く?”には、感心させられました!授業では、笑いをこらえるのに、疲れました(笑)」うーん…それって、「笑わせすぎてしまった」ってこと!?ちょっぴり反省。もしかしたら、授業中に「笑いをこらえる」という、新しい苦行を生徒に与えていたのかもしれません(笑)。■「笑い」は、学びのスパイスになる私がいつも大切にしているのは、「笑いのある授業は、心をひらく」ということです。普段は物静かで、表情に出にくい子が、授業中にふっと口元を緩め、やがて「プッ」と吹き出し、気づけば教室が笑い声で包まれている──。そんな瞬間は、まさに“心が動いている”サインだと思うのです。笑いには、不思議な力があります。心の緊張をほぐし、思考の壁を取り払い、「勉強って、こんなに面白かったんだ」と、気づかせてくれるきっかけになることだってあるのです。■我慢はいらない。ありのままでいい。「授業中に笑うなんて…」と思う人もいるかもしれません。でも私は、こう思っています。授業は我慢する場ではなく、心が動く場。無理に笑いをこらえる必要なんて、どこにもないのです。楽しいときは思いっきり笑えばいいし、驚いたときは「えーっ!?」と声に出していい。そんな空気が教室に流れていることこそ、本当の意味で“学びのある場所”だと思っています。■笑顔の奥にある、成長の兆しこれからも私は、生徒たちとの「交換日記」を通して、ひとつひとつの声に耳を傾け、授業をよりよくしていきたいと思います。「楽しかった」だけで終わらせない。「また受けたい」と思ってもらえるように。そして何より、「自分はもっとできるかも」と前向きな気持ちになれる授業を目指して。今日もまた、笑い声が響く教室で、生徒たちと学び合っています。
2008.10.15
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「民主主義は、決して人を幸福にする魔法の制度ではない」そう語った著者の言葉が、私の心に深く残っています。民主主義とは、理想を追い求めるシステムではなく、むしろ「より悪いものを避けるための選択」である。そう言われると、どこか現実的で、少し寂しさも感じます。それでも最後に著者は、制度の選択は突き詰めれば「信念の問題」だと述べ、「あなたは人間が好きですか? 仲間を信じられますか?」という問いを私たちに投げかけてきました。私はこの問いに対して、迷いなく「はい」と答えることができます。なぜなら、私の周りには、人間の優しさを信じさせてくれる仲間たちがいるからです。人間関係が希薄になりつつあると言われる現代において、信頼や連帯感を持てる人々と出会えたことは、何よりの幸福です。けれど、すべての人がこの問いに同じように「はい」と答えられるわけではありません。「人間が嫌いだ」「仲間なんて信じられない」と思ってしまう人もいる。むしろ、そう思わざるをえない経験をしてきた人が、確かに存在しているのです。そう考えると、民主主義社会とは決して完璧ではなく、多数決や自由な言論があっても、孤立する人や救われない声が生まれてしまうこともある。この現実を、私たちは直視しなければなりません。民主主義は、理想ではなく、信頼に根ざした「問いかけの場」なのかもしれません。「あなたは、人間を信じられますか?」という問いに、一人ひとりがどう答えるか──それによって、この制度が温かくも冷たくもなりうる。私が思うに、人間が生きる目的とは、「世のため、人のため」にあるのではないでしょうか。誰かのために、自分ができることを見つけて行動する。それは小さなことでもいい。声をかけること、手を差し伸べること、寄り添うこと──そうした積み重ねが、人と人との信頼を生み、社会の土台となっていく。この「世のため、人のため」の精神が社会全体を貫いていれば、民主主義であろうと、あるいは他の制度であろうと、人々はきっと幸福に近づくはずです。制度が人を救うのではなく、人が人を救う社会こそが、私たちが目指すべき場所なのかもしれません。そうであればこそ、あの問い──「あなたは人間が好きですか? 仲間を信じられますか?」──には、多くの人が「はい」と答えられる社会が、ほんの少しずつでも、広がっていくと信じたいのです。信頼と連帯の芽を育てること。民主主義という制度の中で、そうした心の在り方こそが、未来を形づくる礎になるのではないでしょうか。
2008.10.09
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目で語る。目で会話する。そんなふうに、言葉ではない「やりとり」が、人と人との関係をより深く、温かいものにしてくれることがあります。コミュニケーションと聞くと、まず思い浮かぶのは「話すこと」や「聞くこと」かもしれません。でも、本当に大切なのは、その前後にある“無言の瞬間”だったりもするのです。たとえば、誰かが話しているときに、相手の目を見てうなずくだけで、「ちゃんと聞いているよ」「共感しているよ」という気持ちが伝わります。逆に、どんなに丁寧な言葉を使っていても、目がどこか泳いでいたり、相手から目をそらしていたりすると、どこか本心が伝わってこない、そんな印象を与えてしまうこともあります。だからこそ、私はこう呼びたくなるのです。アイ(eye)コンタクト=愛コンタクト。「eye(目)」と「愛」が、たまたま同じ音であることに、少しだけ運命めいたものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。目と目が合うだけで、言葉よりも深く心が通じ合うことがあります。たとえば、大切な人とのふとした視線の交差に、照れくささと温かさが混じる瞬間。あるいは、子どもが不安そうに見上げたときに、そっと目で「大丈夫」と伝える親のまなざし。その一瞬に込められる想いは、何千もの言葉に勝ることがあるのです。「ヒトの目は、嘘をつかない」とよく言われます。実際、嬉しいとき、悲しいとき、怒っているとき――感情は、言葉よりも早く、目に現れます。喜びは輝きとなって、悲しみは潤みとなって、そのまま映し出される。だからこそ、人の“目の表情”に敏感になることは、相手の心を受け取る第一歩なのかもしれません。そして、それはきっと「思いやり」や「やさしさ」といった、目には見えないけれど確かに存在する“人のあたたかさ”を育ててくれるのだと思うのです。もし今日、誰かと目が合ったら、ほんの少し、いつもより丁寧にその視線を受け止めてみてください。あなたの目が、言葉以上の想いを誰かに届けるかもしれません。そして、誰かの目が、あなたにそっと寄り添ってくれるかもしれません。コミュニケーションの醍醐味とは、「言葉を交わすこと」ではなく「心を通わせること」。その入り口にあるのが、目を見て、目で伝え合うことなのだと思います。
2008.10.02
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