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2005年06月02日
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1974年頃のディスコバンド
この時代はロックバンドからディスコバンドへと、流れが変わって行った時代でもあります。
それ以前は新宿アシベなどに代表される、ゴーゴー喫茶(喫茶っていうところがスゲー)とか、アングラ・パブとか言われる、実態のつかみにくい店が主な踊り場でした。
といっても、この頃の委員長は小学生高学年から中学生くらいの歳だったので、実際に体験したことはありません。
従兄弟の姉ちゃんとか兄ちゃんの話を聞いて想像をめぐらせたものです。
俗に言う耳年増そのまんまですね。

アシベはグループサウンズ時代の名門でしたから、昔から黄色い声(昔はよくこーゆー表現してましたね)を上げて失神しちゃうような女子高生とか、俗に言う不良の溜まり場でした。委員長も一度、タイガース見たさに従兄弟の兄ちゃんに連れてってもらったことがありますが、道路までとぐろを巻いた異常な列に、結局入場できず、新宿コマボウルでボーリングやって帰ってきました。

そんな委員長が怪しい踊り場に出入りを始めたのは、高校生になってからのことでした。
新宿で特に今でも印象が強いのはなんと言っても「サンダーバード」ですね。

当時の委員長はカッコこそツッパリでしたが、内面はグランドファンクとかツェッペリンとか長髪のROCKERに憧れていたので、結構お気に入りの店でした。
客層も革ジャンにボンタンやコンポラ等の、いわゆるヤンキー兄ちゃんに混じって、長髪キタナ系ヒッピー姉ちゃん、兄ちゃんがいたりして、危ない雰囲気は最高でした。それにこの当時、店内であんぱん(シンナー)吸ってたのは、ツッパリ小僧じゃなくてフーテン系ヒッピーでした。
ダンスフロアはレコードはジェームスブラウンやサム&ディブのR&B系で、生バンドはうって変わってハードロックってな感じで色分けされてました。
さすがにロックじゃステップは踊れませんが、そこはそれなりにゴーゴーダンスばりのテキトー踊りや、プラウドメアリーみたいな曲はステップで踊ったりとか、適当に客がそれなりにバリエーションを楽しんでおりました。
中には長髪のラリパッパ姉ちゃんみたいなのが、JBLのスピーカーに頭突っ込んで髪振り乱して首振ってたりして、結構わけわかんない店でもありました。

当時を振り返って印象に残っているのは、「太陽に吠えろ」のテーマをかなりスローダウンして、けだるいビートにディストーションの深いギターを載せたバンドの演奏が、まさに新宿って感じで思春期真っ只中の委員長を興奮させました。
早速家に帰ってからギターの練習、よく真似して弾きました。
もちろんのこと、この頃のバンドはすべて日本人でした。
あとは新宿歌舞伎町のど真ん中、ジョイパックビルの7階(だったと思います)にあったプレイハウスが結構渋かったですね。

記憶にあるのは双子のディオシンガー・キューピッツ。彼女たちは後年マキシマムって名前で、チャーリーズ・エンジェルスのサブテーマでデビューしました。
英語で歌ったテーマ「NOTHING」は結局売れなかったですね。(無念)

当時のレパートリーで記憶に残っているのは、マンドリルのフェンスウォーク、ホットチョコレートのブラザールイ、ドゥビーのロングトレインランニング、ウォーのミーアンドブラザー、CCRのプラウドメアリー、カーティスメイフィールドのフレディの死、スティービーの迷信、サンタナは結構演ってましたね。
ブラックマジックウーマン、エビルウェイズ、僕のリズムを聞いてくれ、サンバパティ、皆定番って感じだったですね。
あとは、スライのサンキュー、テイクユーハイヤーとか、ファンキーというよりはブラックロックみたいな呼ばれ方してましたね。
かなり昔のことなので、時代がちょっとズレているのもあるかも知れませんが、コピーの宿命というか、管楽器の少ない曲が多かったです。
時々ツイスト系なんかも混ざってました。

ご存知のように、JBはじめ一流どころが過去にステージを踏んでます。

そしてこの後、この流れを塗り替えた一発が登場します。

KOOL &ザ・ギャングのファンキースタッフです。
よく、ディスコの流れを変えたのはコモドアーズのバンプだったと言われてますが、正直言って委員長が当時遊んでいたディスコではあまり踊った記憶がありません。どちらかと言えば、ファンキースタッフの大ヒットというか爆ヒットの方が印象が強いです。
とにかくどこもかしこもこれがかかると大騒ぎでした。
一度、横須賀どぶ板通りの刺繍屋の息子に誘われて、横須賀ニューサンタナへ行った時などは、夜中にブラザーが酔っ払ってホイッスルをピーピー鳴らしながら歩いてたし、CAN GET ENOUGH!ってトコでRIGHT ONとか合いの手が入ったりと、そりゃもう凄い勢いでした。
このアルバム、ワイルド&ピースフルは最高傑作だと思うし、これほどディスコDJに重宝されたアルバムは無いのではないでしょうか。

委員長もバンドマンに憧れ、弁当代をちょろまかしながら丸井の月賦で買ったグレコのテレキャスターが、ついに日の目を見ることになったこの当時のことはしっかりと覚えています。
当時のギタリストの憧れはレスポールかSG、ちょっと渋めでストラト、テレキャスはいまいちメインの座からは外れておりました。
だから丸井でも一番安かった。二万九千円、月々二千九百円の10回払い。
仕方なくキャロルなんかをコピーしていた委員長は、このテレキャスの凄さを知らぬまだガキンチョでした。

やたらとデカイ音にして歪ませるギターしか知らなかった委員長は、ギターも打楽器の一種なのだと気づいたのがファンキースタッフでした。
このリフ、カッティングはまさに目から鱗状態。
ギターの使い道は奥深いことに気づいた委員長でした。

更に新宿ビバヤングでフィリッピンバンドとお友達になった委員長は、彼らの演奏するエリッククラプトンのアイ・ショット・ザ・シェリフでレゲエ、ロック、ソウル、音楽にジャンルはないのだ、ということを身を持って知ったのでした。
踊っても、聞いても、気持ち良ければ、それがすべてだということを悟ったのでした。
ちなみにこのとき、彼らからロングトレインランニングのリフや、JBのセックスマシーンのカッティングなどを伝授され、いよいよ道楽者の泥沼にハマっていってしまった委員長でした。

ちょっと話が道楽者過ぎたかなぁ?
わかりづらかった人は、また明日のバカ話をご期待下さい。





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最終更新日  2005年06月02日 09時15分21秒
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