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2005年06月04日
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横浜チャイナタウンの戦いは、仏のフジさんの期待を大きく裏切り、結局は深夜のチャン街をブラブラしただけで終わりました。
その後、アホ一行は元町のディスコ・アストロに行きましたが、ここらは閉店が皆早くて、商店街はすでに静かに眠っておりました。
仕方なく本牧の「リンディ」で踊って、再びチャン街の屋台のラーメンをすすって新宿に戻った道楽者たちでした。

委員長の新宿ビバヤングのバイトもかれこれ3ヶ月が過ぎようとする1月中ごろには、バカ友・酒屋の息子も第一次補欠入学の負い目を持つ身、そろそろ学校に真面目に行かざるをえなくなり、後ろ髪引かれながらも楽しいバイト生活に終止符を打ちました。
同様にバイト大学生古株二人も辞め、更に栃木のヤンキーにーちゃん、キャバレー上がりの揉み手あんちゃんなど、バイト組が続々と辞めていきました。
残されたバイトウェイターは委員長だけ。
更におさるのボーイ長までもが、無断欠勤をして店長の逆鱗に触れクビとなりました。
さあ、こうなると委員長の天下です。
相変わらず忙しい毎日でしたが、黒服連中や支配人などにも結構可愛がられて益々調子に乗る委員長は、バイトのくせしてすっかりホールを独り占めする存在にまでなりました。


ここで出会った数々の人の中でも取り分け面白かったのが、照明係のおっちゃんでした。
ブルー系のサングラス(当時はこんなスケベっぽいサングラスはあまりしている人が少なかった)にぼさぼさ髪、不精ひげにヨレヨレのジーンズ、年の頃は30代半ばといったところでしょうか。ステージを正面にして店の最後部、細長い調光卓が置かれた縦長四畳くらいの照明室の主、それがこのおっちゃんでした。
劇団四季だかどこかに所属する照明のプロでしたが、委員長が徹夜麻雀明けの日などはここの入り口のドアの間に隠れて、よく居眠りをさせてくれました。
普段は無口でとっつきにくいおっちゃんですが、元々職人気質の人ですから、芸人には優しく、委員長のアフロを見て芸人志望の一人とでも思ってくれたのか、委員長にはとても優しくしてくれました。

そして、委員長がこの照明室に出入りした理由は、他にも理由がありました。
出番待ちの休憩時間に委員長のお気に入り、リンダがここに出入りするのです。
照明室の裏に同じくらいの奥行きで、照明室よりはやや広い楽屋があったのですが、男ばかりの部屋に居るのもイヤなのでしょう、優しいおっちゃんのところに来ては調光卓などを悪戯する彼女でした。
委員長より更に一回りくらい大きなアフロに、ピシッと体にフィットしたジーンズなどをまとった彼女は、そりゃなんともセクシーでした。
顔は委員長好みのモロ南方系、鼻はぺちゃんこ目はパッチリ、そうだなぁ、ドゥーリーシルバースプーンのバンプミーベイビーのシングルジャケットにあるアフロ娘みたいな感じでした。(んなこと言っても、わかんねーだろうなぁ)
また、声がハスキーで、片言の日本語が可愛かったですね。
姉さんの方はちょっと小金持ち風の日本人のオッサンに見初められて、その後結婚して辞めていってしまうのですが、とにかくこの二人の姉妹は非常にストイックで、営業終了後はバスに乗ってまっすぐ寮に帰り、浮いた噂のひとつもありませんでした。


ある日、徹マン開けのひしゃげたアフロで出勤した時、控え室の鏡の前に座っている長髪の痩せこけた貧乏臭いおねーちゃんに驚いた委員長は、その鏡の前のテーブルに置かれたアフロのかつらが、今委員長の目の前にいる貧乏臭いおねーちゃんのモノだと理解し、さらにそれが憧れのリンダ嬢であると悟ったのでした。
リンダ嬢は冷ややかな視線で委員長を見下すように一言、「パゲッ」と言い捨てたのでした。
そりゃ徹マン帰りでアフロはひしゃげてっかもしんないケド、ハゲはねーだろ、ハゲはー、とブーたれる委員長。
後に知ったことですが、この「パゲッ」っていうのはタガログ語で「ブス」とか「不細工」の意味で、確かに「ハゲ」ではなかったのですが、どちらにせよ、けなされたことには変わりなく、また、委員長憧れのアフロも地毛じゃなくて、更にそのかつらを取ったら単なるフィリッピーナだったことに気づいた委員長は、この日を境に淡い恋から目覚めたのでした。
(めでたし、めでたし)


おっちゃんは調子が出てくると必ず、「お~れぇは~、かわらの~、枯ぁれスス~キ~」などと唄い出します。一体いくつなんだろ、この爺、などとも思いましたが、満員の店内でバンドのスポットをビシッと当てる時のおっちゃんは、さすが職人だなぁ、と感心させられることが多く、未だバンドマンの夢を捨てきれぬ道楽者委員長は、ステージアップの技術などを、ここで自然に学んでいたのでした。

あと、もーひとりおっちゃんの休みの日に代わりで来る、ちょっと毛色の変わったにーちゃんもおりました。小柄なフォーク青年みたいな人で、結局、委員長とは一度か二度口を利いただけで消えていってしまいました。生きてるのかなぁ~。
この人との会話第一声は、「君、僕と一緒にレバノンに行かない? 人民解放軍へ入って一緒に戦わないか」でした。
この一発はかなり強烈でした。
とにかく委員長の頭の中にあるどのカテゴリーにも入らない人物でした。
もちょっと人の頭見てからモノ言えよって感じでしたが、明るく好青年と言う感じで、厭味なところはありませんでした。
本当に2度ほどおっちゃんの変わりに来ただけでしたが、ちょっと不思議な人でした。
本当にレバノンに行ったのでしょうか?

こんな変な奴らばかりの舞台裏でしたが、やっぱりお友達として面白かったのはバンドのメンバー達でした。
彼らは委員長のことを、アフロと呼び(タガログ訛りでは、アプロって発音します)、小僧のように使われたこともありましたが、彼らから学んだ音楽知識は、後の委員長の音楽活動に多大な影響を与えてくれました。これはマジで本当です。
楽曲のコピーの仕方や、コーラス、ボイスコントロール、エンターティメントとしてのショーアップ、チームワーク等など、バンドにこだわらず芸人としてのプロ意識みたいなものを自然に学んでいた委員長でした。
その代わりといっちゃなんですが、よーく軟派のお手伝いもさせられました。
とにかくバンドマンは皆スケベーです。
と言いながらも、一緒につるんだ委員長も結構スケベーなヤツだったのでしょう。
しかし当時のバンドマンはモテましたね。何はともあれモテました。
こんな不細工なヤツなのに、なんでモテるのかなぁ、などという素朴な疑問もありました。
19歳の委員長にはまだ女性を見る目も、遊び方も、そりゃまだまだ子供でしたから、彼らとつるむようになって、こんな世界もあるんだ、というような好奇心丸出しの世界でした。
まあ、言い寄ってくる女が、みぃ~んな良い女とは限りませんが、手当たり次第に手をつけてしまう節操のなさと言うか、腰の入ったスケベーというか、フィリッピン人特有の感性だとばかり思っていた委員長でしたが、後年、バンドマンのスケベー根性はボーダーレスなのだということを体感するのでありました。





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最終更新日  2005年09月22日 08時14分40秒
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