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2005年07月08日
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新宿の悪ガキ~BAD CHILDRENはあちこちのディスコに出没しては、目立ち放題目だって名前を売って歩きました。
この頃はエンバシーにもよく通いました。
ダンサーズもちょっとした流行のように、あちこちでチームが結成されました。
最も有名なのはもちろん全日本ディスコ協会の全日本ソウルトレイン・ダンサーズでした。特に地方のイベントには必ず出演していましたから、中味はともかく知名度だけはありましたね。でもアフロ小僧がみな疑問に思っていたことがありました。
メンバーは協会の会長勝本さん自らリーダーとなり、全員アフロヘアのマニアックなダンサーズだったのですが、彼らが登場するイベントは必ずしもマニアっぽいものではなかったのです。
ソウルが好きでFUNKYな踊りを目指すアフロ小僧はみな、勝本会長、ディスコ協会を目標にしていたのですが、その協会がセクシー・バスストップとかの講習会などを手がけていることへの疑問は少なからずありました。
アフロヘアのSOUL MANとセクシー・バスストップがイコールで結ばれないのです。
あたりまえですよね。
だってエンバシーじゃセクシー・バスストップなんかかからないし、そんな踊りするヤツは誰もいませんからね。

ダンサー目指してエンバシーに就職したヤツだっていましたからね。
この大矛盾は、後々大きな渦巻きとなって業界全体を巻き込んでいくことになるのですが、この時はまだまだ皆純粋でした。本当に黒人音楽と踊りが好きで、本気でBLACK MANになりたいと思っていたヤツらばかりだったからこそ、皆いつか自分がその先頭を走ることに夢を見ていたのです。
委員長ももちろんジョニーとダンサーズを作るつもりで、一生懸命振り付けなどを考えておりました。

そんな頃、新宿のジュリーこと鈴木昇二が、キングレコードの洋楽宣伝でアルバイトを始めて、あちこちのレコード会社へ出入りするようになりました。
この頃のジュリーは、「ひとやすみ」の鎌田事件ですっかり評判を落としてしまっていて、仲間内であまり人気がありませんでした。
まあ、当人のせいではないんですけど、引っ張り込んだ張本人だった割にはダメージが少なかったことと、着実の自分の道を築いていたことが皆の反感を買ったようなものでした。マチャアキにしてみれば、少なくとも自分の責任として皆の就職先は確保したし、ワタナベ主任あたりからはかなりキツーイ恨み言なども言われ、それなりにツケは処理したという思いが強く、反面ジュリーは何一つ責任らしきものは取らずにマイペースといった感じだったので、両者の人間性みたいなものが現れたわけです。
たった数ヶ月の関係ではありましたが、大変に良い勉強をさせて頂きました。
その割にはこの経験を全く生かさず、更なる道楽に身を投じていく委員長でありました。
そんな状況ですから、このころ一番毒にもクスリにもならんような委員長がジュリーのお友達だったわけです。
ジュリーはジュリーなりに何かしてやろうという気持ちがあったのでしょう。
委員長はアチコチのレコード会社に引っ張りまわされ、なんやかやと試聴盤を沢山貰って帰って来ました。

それでも当時はディスコDJなんてのは、あまりプロモーションの対象として重要な位置を占めていませんでしたから、もらえるレコードも限られていました。
もちろん、ビクターレコードなんてのは、当時からほっといても売れるってなアーティストを沢山抱えてましたからかなり敷居が高かったですね。
行っても、
「あーそう、Q&B? どこ? 新宿、へえ歌舞伎町ね」
こんな感じでしたね。

ポリドールもキツかったですね。(ここには恨みがあるから後年の部で一杯書きますね)
当時はジェームスブラウン御大がおりましたが、試聴盤なんてのは枚数が少ないし、配るところも限られていますから、有名音楽評論家とか糸井五郎さんとか有名DJとかにしか回しませんね。ほっといても売れるから。新しいレーベルもないし、「えー?ディスコ?どこの?」みたいな感じでした。
あとは東芝も結構偉かったですね。洋楽だけでも十分成り立つ会社ですから。
なんつってもビートルズがいたし、しかもこの時代のディスコヒット・レーベルも相当持ってましたから、小さな箱のDJあたりじゃ、新人アーティストのシングル盤がよいとこでした。せっかく来たんだから、かわいそうだからね、これでも持ってって、みたいな。
場所も霞ヶ関だったしね。メージャーって感じでした。
キングレコードなんて護国寺でしたからね。ちょっとマイナーな感じでしたね。
渋谷はRCAレコード。ここは上品な感じだったな。アキバさん、今でも覚えてますね。
KC&サンシャインバンドで大ブレイク、マイアミサウンドが結構当たったんで、洋楽にもディスコプロモーションの動きが出てきたころでした。
ちなみに、ここで浅野ゆう子さん(セクシーバスストップ)とエレベータでお会いしました。
背の高い大柄な少女って感じで、明るくて素直な人でした。
日本フォノグラムは六本木俳優座下のメビウス近く、フィリップスの看板が目立ちました。
後年随分とお世話になるのですが、この頃はあまりヒットもなく暗い感じでした。
でもこのころから気前は良くて、なんでもかんでも袋に詰めてくれて、持ってけ持ってけって感じで沢山お土産くれました。こういうところでDJの選曲変わりますよね。
実際、営業活動ですから。
ワーナーパイオニア、CBSソニーはやっぱり敷居が高かったですね。
メージャーってハンコ押してあるみたいで、ディスコ?、なんかかける曲あったかなぁ、みたいな感じです。後年は積極的にプロモ入りましたが、この頃はまだディスコものあんまり扱ってなかったですからね。
当時の洋楽宣伝(洋宣)って、まだディスコでプロモするっていう認識薄かったし、担当者があんまりディスコなんて行ってなかったと思います。
どっちかつーとROCK系みたいな、ラジオとか専門誌関係にお願いするってのがパターンで、まさかディスコヒットで売上がガンガン上がっていくとは思っていなかったんですね。
ただ、オフィスにアフロ頭のギンギラ野郎が現れると、それだけで興味あってか、結構皆さんよくしてくれました。
おーーっと、もうひとつ、テイチクレコードを忘れてました。
凄いですね、テイチク、演歌バリバリ、何故かディスコに進出、って変なレーベルありましたね、この時代よりちょっと後になりますが、ソウルドラキュラ、大ブレイクして、いきなり洋宣できたんですね。今まで細々やってたのが、一発当たって大乗りでした。
誠ちゃん、後にBAD CHILDRENのマネージャーやってくれた人です。
やさしい人だったなあ。南こうせつさんみたいな感じの人でした。

ということで、こうやって振り返ってみると、やっぱビクターレコードのハッスル・ホンダさんて先見の目があった、というか営業マンだったんですね。
それに上手く乗ったディスコ協会も、時代を引っ張った立役者でもあったわけです。
ちょい遅れを取って、ジュリーとロニーのコンビが似たようなことをやろうとしたわけですが、お互いまだまだプロに徹し切れなかった青い時代でした。
ことの発端はキングレコードが「シャイ・ライツ」のレーベルを獲得したところから始まります。このお話はまた明日。。。。。





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最終更新日  2005年09月22日 12時19分54秒
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