祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

May 29, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険

 16

 その犬瀬がその時、「俺は死ぬのは怖くない」と言ったのだった。
 学生の頃、犬瀬は戦場で活躍するジャーナリストに憧れていた。確かに小学校の頃の落書き帳は戦場を駆け回る兵士の絵や、戦車、対空砲、機関銃、爆撃機、軍艦、廃墟になった街並みで溢れていたし、校庭の端にほんの少しの盛り土でも見つけると、銃に撃たれて転がり落ちる兵士の真似をせずには気が済まないような少年だった。ノルマンディー上陸作戦の話や、ベルリン陥落の話を放課後に飽きるほど聞かされたり、彼の家ですり切れたビデオテープに録画された「地獄の黙示録」や「史上最大の作戦」、「ディア・アメリカ」といった戦争物の映画やドキュメンタリーを無理矢理見せられたりしたものだった。一緒に名古屋から上京してきてからも、街の映画館で「ディア・ハンター」が上映されることがあると、彼は必ず見に行ったし、そのせいで僕も「ディア・ハンター」だけは今までに五回くらい付き合わされて見ていた。彼はロシアン・ルーレットや動乱のサイゴン市街など、の場面がお気に入りだったけれど、僕も僕なりにこの映画を気に入っていた。例えば僕は結婚式のシーンが最高だと思うし、ロバート・デ・ニーロがメリル・ストリープにふざけてキスをしようとするところや、帰還パーティーで彼を待っている取り巻きがいなくなって、メリル一人きりになるのを立て看板の後ろから伺っているシーンなどは、否応なしに胸を打たれる。メリルはデ・ニーロの親友の恋人なのだ。その親友はサイゴンで死んだ。そして、ペンシルヴェニア州クレアトンというひなびた鉄鋼の街を見るたびに、僕は郷愁に駆られ、訳もなく懐かしさに胸が満たされるのだった。

 いつだったかこの映画を、丸山慶子と犬瀬と三人で見にいったこともある。慶子は「どこがいいのか全然わかんないわよ、暗いし、残酷だし、ねえ、ちょっとどこがいいんだか私に説明してくれない?」と言った。「私だって馬鹿じゃないのよ。風景も人物もものすごく丁寧に念入りに描かれてるのは解るわよ。お金だってすごい掛かってるでしょうし、こういう映画が毎年毎年ぽんぽん作られるもんじゃないことだって知ってる。でもなんであんな風に人が死ぬ映画を観てあんたたちは楽しいの?」
「これは男の友情の物語なんだ」とすぐに犬瀬が答えた。
「あァ?」と慶子は突っぱねるような声を出してから言った。「そういうことね、女の私には判らないってわけね、ああそう」
「いや、そうじゃない、そうじゃなくて、これは俺に関係のある物語なんだ」
 映画を見終わった後、我々は大学通りにある小さなバーで食事をしながら酒を飲んでいた。薄暗く、黒い壁に黒いソファー、小さなテーブルの上の蝋燭の明かりがぽつぽつと仄白く燃えていた。大学の近くにありながら、学生よりも、教授連やインテリ風のサラリーマンなどでいつも店は繁盛していた。壁には古い外国映画のポスターや、ポストカードが所狭しと貼ってあったが、どれも薄汚れ、煙草の煙で黄ばんでいた。単館上映の通好みの映画の広告や前衛演劇のチラシなどが入り口脇にぶら下がっていた。入り口の扉に貼ってあるのは「オブローモフの生涯より」というロシア映画のポスターだった(僕はこれを森田と二人で見たことがある)。安っぽいラジカセからはシャンソンやジャスやカントリーミュージック、大時代的なゆっくりとしたバラードや、聞き覚えのある古いロックが無節操な気まぐれで選曲されていた。けれども僕はこの店が好きだった。いつまでも奇妙なよそよそしさが抜けきらなかったが大体においてリラックスすることができた。犬瀬も口に出しては言わないがその店を気に入っているようだった。犬瀬は青島ビールを飲み、慶子はカルーアミルクを飲んでいた。僕はそのとき親知らずが痛み始め、酒が飲めなかったのでコーヒーを飲んでいた。テーブルの上には椎茸のバターソテーとサラダスティック、梅唐辛子のパスタとポップコーンが並んでいた。


 犬瀬は少し酔いが回っているようだった。(――ふん、と慶子が鼻から息を出した)そこで一端話を切ると、青島ビールの空き瓶を振り上げて新しいものを注文した。僕が覚えている限りでも五本以上を彼は飲んでいた。(どうしてこんなに細かいことを僕は覚えているのだろう?)そして向き直ると話を続けた。
「いいかい?慶子、それから準」
「父親みたいな言い方しないでよ!」不潔なものを振り払うように慶子が言った。でも、犬瀬はそれには取り合わなかった。
「こんな時代に生まれた俺たちにはね、自分の存在とか魂とか、(タマシイ、と慶子がゆっくり繰り返した)そういうものと本当に関わりのある何かなんてこれっぽっちもないんだよ。いや、いつの時代でも大半の人間には本当に関わるべき切実な問題なんてないんだ。俺たちは人生の傍らを通り過ぎていく風みたいなもんだ。すっと通過しちゃうんだ。そして俺たちの次には新しい連中がいくらでも控えている。わかるかい?俺は別に悲観的な考え方をしてるわけじゃない。お前らがそう思わないのは端的に言って、眼を背けてるだけだ」犬瀬はそこまで一気に話すと蝋燭の火をじっと見つめた。興奮しすぎた自分をテーブルの上に置いてじっくり観察でもしているようだった。そしてふっと小さく笑った。そしてこう言った。
「でもそんな人生は嫌だ」

 慶子はグラスを握りしめて何も言わなかった。「可哀想な人ね」といういつもの口癖も言わなかった。僕も黙ってコーヒーをすすり、しばらくしてから「話題を変えようか」と言ってみた。しかし誰も反応しなかった。更にひとしきり沈黙が続いた後に慶子が口を開いた。「だからあんたは戦争を見に行きたいのね?」
「ああ、それが小学生の頃からの夢だよ。そういえば、準の小学生の頃の夢は映画監督だったよな?」
「そうだったかも知れない」と僕は言った。それはごまかしではなかった。本当に自分の記憶に自信が持てなかったのだ。誰かの言ったことや、料理の献立などはよく覚えているのに、自分のことになるといろいろなことがぼやけてしまっていた。
「犬瀬と一緒にたくさん戦争映画を見て、入り口は同じなのに出口を出てみたら全然違う場所にいたんだよ、いろんなことがあったんだ、多分。でも僕は戦争映画は撮らないだろうね」

 慶子が初めてくすくすと笑った。
「もういいわ、映画のことは森田に任せておけばいいのよ。昔から犬瀬は『戦争の人』ってクラスで呼ばれてたわ。そして準は『記憶の人』。森田はそもそもの始まりから『映画マニア』だったし。ねえ、どうして私東京まで来てこんな変人たちに囲まれて暮らしているのかしら?」

「無理だよ、あいつは対人恐怖症だから」と犬瀬が言った。(ウッソー?慶子が叫んだ)「――でも、俺が『戦争の人』と呼ばれるのはわかる。森田も確かに変人だ。でもなんで準が『記憶の人』なんだ?」
「さあね、玉がそう呼んでたのよ確か、どうしてかなんて知らないわ」



                   つづく





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Last updated  May 29, 2005 02:29:56 AM
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