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表参道駅の近くから始まる「高樹町通り」。「骨董通り」とも呼ばれているこの通りを歩いた。路面電車(都電)が1967年(昭和42年)まで走っていたそうで、道幅は割と広い。表参道駅側からこの通りに入り西麻布側まで歩くと、突き当りの交差点の名前も「高樹町」となっていた。今の南青山6丁目あたりが昔の「赤坂青山高樹町」だったようだ。ここからは、母から聞いた話になる。裏取りは後回しにして取りあえず聞いたことを書き残そうと思う。母いわく…高樹町は、この町が「高木さま」というお殿様の町だったことの名残り。母の父(僕の祖父)は戦中、徴兵されるまで高木家のお屋敷で執事として働いていた。祖父の家は先祖代々、高木家にお仕えしていたらしい。高木邸は、三笠宮妃百合子様のご実家で、百合子様のお父様は高木正得(まさなり)子爵。高木家の敷地は広く、祖父がお仕えしていた頃は、そこから得る家賃収入も経済的な支えになっていたと聞いたことがある。祖父の家は高木邸に近い笄町(こうがいちょう。今の港区西麻布)にあり、母はそこで生まれた。母の話は概ねこのような内容だった。今回、この話をたどるつもりで「高樹町通り(骨董通り)」を歩いてみたが、通りの雰囲気は「南青山」以外の何物でもなく、母の話を思わせるものは見つからなかった。ただ、通りを一本入った根津美術館周辺には少し谷のように下がっているエリアがあって、そこには当時の面影と言っても良いような雰囲気が漂っていた。都内を歩いていると、幹線道路から1本横に入っただけで、懐かしい空気感に溢れる場所に入り込むことがかなり頻繁にある。東京という都市の奥深さを感じた気分になれて、いつもながら心地良かった。
July 13, 2024
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夏の夜、仙台のユアテックスタジアムでJ2の試合を観た。座席はSS席の5列目。たまには良い席で、と奮発してみたら、選手の細かい動きや表情も見えて、ボールを蹴る音やピッチ内の声も聞こえて、期待通りの良い席だった。ひとつだけ、ピッチに近い前列は風向きによっては雨が当たるかも…と少し天気の心配があり、実際この日は試合開始2時間くらい前に突然のスコールがあった。程なくして雨は上がったものの、スタジアムに着いた時5列目のシートは濡れていて、雨に当たる可能性があることがわかった。基本的に観客席にはすべて屋根がかかっているけど、確実に雨を避けるなら10列目より上が良いように感じた。やがて試合が始まり、ピッチ上の選手との近い距離感を楽しみつつ、選手よりもさらに近く、ベンチ前にいつもいる監督の一挙手一投足にも興味を引かれた。野球なら、三塁コーチが打者に送るサインも、ベンチから大きなジェスチャーで出される守備位置の指示も、どれもプレーの合間なので選手にはしっかり届いている。一方でベガルタ仙台の森山佳郎監督は、試合中ずっと大声で選手たちに指示を出し続けていたのだけど、その間、選手は激しく動き続けているし、観客席からのサポーターの大声援はスタジアム中に響いている。監督の声は誰かに聞こえているのだろうか?そもそも誰か一人でも監督を見てるのか?聞こえているとすればその声は相手チームにも聞こえてるけど構わないのか?などと考えてしまった。そしてこのジェスチャーも誰が見ているのだろう…。監督が意味もなく動いているとは思えないので、ベンチの指示を全員に伝える役目を、ピッチ上の誰かが担っているのだろうか…。むしろそういうことではなくて、監督が試合の間ずっと熱く見守っている姿が選手たちを鼓舞している、ということだろうか。そんなことも考えながら観ていた。試合前にも、森山監督は選手たちのアップをひたすら見守っていた。こんなにジッと見続けられたら選手たちは手が抜けないに違いない。激闘の後は選手たちと一緒に満面の笑み。みんないい顔。チーム一丸となって戦った、気迫あふれる良い試合だった。
September 13, 2025
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本郷三丁目駅で丸ノ内線を降り、ご先祖さまの足跡を辿ってみた。ご先祖、と言ってもそんなに昔のことではなくて祖父母の頃の話だけど…。母は時折、小学生の頃に東大の赤門近くに住んでいたことをちょっと誇らしげに話す。麻布笄町(あざぶこうがいちょう。今の港区西麻布あたり)で生まれた母が本郷で暮らしたのは終戦前、学童疎開で那須塩原に行くまでの短い間だったようだが、それでもずいぶんと懐かしい場所のように話している。「赤門を下がっていくとウチがあってね…」という言い方を良くするので、まずは「下がる」の意味を現地で確認してみたかった。そこでスタートは東大赤門前。赤門前の大通から横道に入り、母たちが暮らした家のあった本郷四丁目(今の本郷五丁目)に向かうと、たしかに道は下っていた。写真ではわかりにくいけど…祖父母家族の家を含めて、この一帯は昭和20年の大空襲ですっかり焼けてしまったが、今でもこの界隈には車1台がやっと通れるくらいの道が多い。道筋は戦前とあまり変わっていないように思えた。公園に行くと昔ながらの井戸のポンプが災害用に残されていて、本郷の町はあちらこちらに懐かしい風景があった。菊坂通りという商店街からわりと急な坂道を南に上ると、本郷小学校に着いた。母も、母の兄弟もこの学校に通い、当時は「真砂(まさご)小学校」という校名だったそうだ。小学生だった母兄弟が暮らした家があったのは、「真砂小学校」を再び下って菊坂通りの向こう側。東大赤門までゆっくり歩いても5分かからないくらいの静かなところにその場所はあって、本郷5丁目と書かれた住居表示板が貼られていた。文豪もたくさん暮らしていたこの町の空気が、短い期間とはいえ祖父母の家族には心地良く、戦中の苦しい時期でありながらも懐かしい記憶として刻まれたのではなかろうか。静かな住宅街をゆっくり歩きながら、そう思った。
August 24, 2024
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宮町(みやまち)仙台東照宮の石段に立って南の方向を眺めてみると、宮町の通りが鳥居の向こうにまっすぐ延びていた。かつての町名「宮町」は、仙台東照宮の門前町として拓かれた。昭和45年2月1日の住居表示によって、今は宮町ニ〜四丁目になっている。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕東照宮から2〜3分歩いた交差点に建つ辻標86番「宝蔵院/宮町」は、宮町を次のとおり説明している。・東照宮の門前町で、北六番丁から東六番丁北端までの南北の町。・承応3年(1654)玉手崎の天神社跡地に東照宮が造営された際に町割りがなされた。・全戸に五百文の田畑が与えられ、年貢や町の諸役が免除されたほか、仙台祭の日には絹布着用の特権が与えられていた。・御宮町・権現町ともいわれた。(JR仙山線の踏切近くに建つ「《宮町》通り」の標柱)仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」では、《宮町》をこう説明している。・権現町・御宮町ともいい東照宮の門前町であることによった地名。・上御宮町・下御宮町の2区から成る。・「仙台鹿の子」によれば、門前町百五軒、1軒につき五百文ずつの御用捨田畑がが付けられ、無年貢であったという。・また酒類・塩・たばこ以外の店売については諸役を免除されたが、その代わり東照宮への奉仕が義務付けられていた。わからない言葉がいくつかあるので調べてみた。「玉手崎」は今の東照宮がある場所。天正19年に徳川家康公が葛西大崎一揆の視察を終えた帰り道に、この地で伊達政宗公と休憩したとの故事により、東照宮造営の地に選ばれたとのこと。(参考:宮城県神社庁HP)(かつて「玉手崎」と呼ばれていた東照宮の境内)「天神社」は、今は宮城野区榴ケ岡にある榴岡天満宮。平安時代の天延2年(974)に今の京都府に創建された後、天文20年(1551)から東照宮の場所にあったとのこと。(参考:榴岡天満宮HP)「仙台祭」は、東照宮造営の翌年、1655年に始まった東照宮例祭。江戸時代を通じて行われ、2代藩主伊達忠宗以降13代まで全ての歴代藩主が仙台祭に合わせて東照宮に参拝したとのこと。(参考:仙台東照宮HP)宮町の南端と思われる場所に、個人の建立と思われる石碑が建っていた。「北 是より御宮町」「この地 昭和四拾五年まで宮町壱番地」と書かれていた。東照宮の門前町の誇りのようなものを感じさせてくれた。
February 16, 2025
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東北新幹線から、札幌へ向かう特急北斗に、新函館北斗駅で乗り換えた。新幹線到着から特急出発までの乗換時間は12分。乗り換えてみての感想は…現役世代ならゆっくり歩いても余裕で乗り換えられる。子供連れやお年寄りでも普通に歩けば大丈夫。とはいえ、新幹線から全員降りるので、混んでいると結構時間がかかる。できるだけ早く新幹線を降りた方がより安心、と思いました。乗り換えの流れは…①新幹線を降りる。②エスカレーターに乗って2階へ上る。③2階に着いたら、札幌方面に行く人も、函館方面に行く人も、次に乗る列車の切符を持っている人は全員「のりかえ」のサインのある改札に向かう。④乗ってきた新幹線のチケット、これから乗る特急のチケットと乗車券を一緒に改札に入れる。⑤特急のチケットと乗車券が手元に戻る。⑥特急北斗が停車しているホームに階段またはエレベーターで降りる。⑦特急北斗に乗車。注意点は…・10両編成の新幹線から降りた乗客が一斉にエスカレーターに向かうので、新幹線をゆっくり降りると、長い列の後ろに並ぶことになる。今回、新幹線を降りるのが遅かったので、ホームに降りてからエスカレーターに乗るまで、本来30秒もかからないところ、数分かかった気がする。10分程度の乗換時間でこの数分は結構焦る。・エスカレーターで2階に上ると、「出口」と「のりかえ口」が見える。大半の人が「のりかえ口」に向かうので、流れに乗って進む。・改札を抜けてホームに向かう階段に着くと、大半の人は函館方面のホームに降りていく。札幌方面のホームに行く人は少ないので間違わないように進む。・特急北斗は函館始発なので、新函館北斗駅の停車時間は短い。今回は、のりかえ口を過ぎたあたりから発車のベルと乗車を促すアナウンスが聞こえてきて、焦った。高齢の親には「急がなくて大丈夫」とか言いながらもできるだけ急いで階段を降り、列車に乗り込んだ。・とは言っても、乗り遅れが出ないように駅員さんが人の流れを後ろの方まで確認していた様子。あまり慌てる必要はなかったかもしれない。と特急に乗ってから思った。新幹線は満席。乗り換えた特急は、密にならないように指定席が割り当てられていて快適でした。
July 22, 2022
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かつての笄町 (こうがいちょう。今は港区西麻布の一部) を訪ねた折に、かつての宮代町 (今の渋谷区広尾) にも行ってみた。今は「広尾北公園」になっているこの辺りが、かつては宮代町だったと思われる。周囲にはいわゆる広尾っぽい高級そうなマンションがいくつも建っていた。そして、公園から坂を下ると日本赤十字社医療センターがあった。すごく大きな病院。母は時々「宮代町の日赤病院で産まれた」と言うので、きっと戦後になって坂の上からここに移転したのだろうな、とその時は思っていた。だけど、病院のウェブサイトを見てみると、1891年(明治24年)に飯田町から現在地に移転して以降、移転はしていない。どういうことだろう…と思いながらウェブサイトを読み進んでみると、「1972年(昭和47年)11月には日本赤十字社産院と統合」と書いてあった。この「産院」が宮代町にあった、ということか…プチ発見を喜びながら更にネット検索をすると、次のような文章を見つけた。「日赤産院は渋谷区宮代町にあって、白亜の高層建築日赤中央病院と隣り合わせであるから同病院の一病棟でもあるかのように見られるが、産院と病院とはそれぞれ特異な性格を持っていて産院はもちろん独立して存在しているのである。」「大正10年4月、日赤本社は直営の産院を設立。」(以上、医学書院1952年2月発行「助産婦雑誌1巻2号」より)「独立して存在しているのである」のくだりから、病院と一緒にされたくない産院側の強い気持ちが伺われるが、母のような一般人から見れば、当時から病院も産院も「病院」だったのだろうと思う。自分のルーツをまた一つたどることができた。
November 1, 2024
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昔の町名、南町(みなみまち)は、昭和45年2月1日の住居表示で、仙台市青葉区一番町一〜三丁目と大町一丁目のそれぞれ一部になっている。昔も今も「芭蕉の辻」と呼ばれている交差点が、南町の北側の端にあたる。城下町から仙台城に向かう東西方向のメインストリートと、江戸に向かって南北方向に延びる奥州街道が交わる、仙台城下の中で最も活気のある交差点だったらしい。南町は伊達政宗公と共に仙台に移ってきた由緒ある「御譜代町」の一つで、城下中心の奥州街道沿いに立つ格式高い町だったそうだ。芭蕉の辻から南に向かうかつての旧奥州街道は、今は「国分町通」と呼ばれ、オフィスビルやビジネスホテル、ショップなどが立ち並んでいる。国分町通に立つ辻標「電話横丁/南町」は、南町を次のように説明している。・仙台の真中、国分町、芭蕉の辻、南町と続く奥州街道の繁華街で、藩祖についてきた譜代町である。・野菜、穀物、荒物を業としていた。・明治初年に郵便局、警察署、旅館、やがて銀行ができ、市電も辻まで通ったこともあった。・空襲で全焼し、戦後町は面目を一新した。かつての南町を少し東(仙台駅方向)に入ると、ビルとビルの間に小さな神社があった。「野中神社」そして、境内のポスターにはこんな記述があった。・伊達政宗公が城下建設の中心地として野中神社のあたりに定めたと言われています。・町割りの"縄張"(なわばり)に使った縄を地中に埋め、その上に野中神社を祀ったと言い伝えられています。仙台の城下町建設にも由来する野中神社。今は「縄で結ぶ」ということだろうか、縁結びの神様になっている。
May 17, 2025
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皇居の大手門のすぐ近くに建つ大手町パークビルディング(千代田区大手町1丁目1-1)脇の舗道に「旧内務省跡」と書かれた千代田区の案内板があリました。内務省とは、ざっくり言って、今の総務省だと思います。江戸時代には譜代大名、播磨姫路藩主 酒井家の屋敷があったこの場所に、明治6年(1873)から昭和8年(1933)まで内務省が置かれていたとのこと。大手町のすぐ隣、丸の内一帯が三菱社に払い下げられたのが明治23年(1890)。それ以前の丸の内は、陸軍が所有する事実上の荒地だったそうなので、三菱社が丸の内の開発に着手するまでの約20年間、内務省の人たちは広大な荒地を横目に仕事をしていたものと思われます。案内板の地図を見ると、まだまだ空き地が目立つ中にも、洋風の建物が建ち始めた明治30年代の丸の内の様子が描かれていました。(赤い丸が旧内務省跡)〔明治30年代の大手町周辺「東京一目新図」武部瀧三郎、1897年、千代田区教育委員会蔵〕(部分)今はビジネス街として一体感のある丸の内と大手町。当時は堀を挟んで大手町が官庁街、丸の内は空き地。それが官庁街と洋風のオフィス街の対比に変わったのはもう少し後。全体がビジネス街に変わったのは更にずっと後のことのようです。
March 23, 2024
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楽天イーグルスのホームゲームを1塁側のフィールドシートで観戦した。試合が始まると、このシートからは一塁ランナーとピッチャーのジリジリとする駆け引きが一直線。真後ろから見ることができたので、かなり興奮した。学生野球をしていた頃、僕は塁に出てからの動きがかなり下手で、牽制球でアウトにならないだけで精一杯。投手にプレッシャーをかけるなんてギャンブル過ぎてできなかった。だから、強豪校の試合や社会人野球があると、だいたいこんな感じの場所に座って、塁上の選手の動きをじっと見つめていた。野球はもうやっていないので学習する必要はないのだけど、何と言っても目の前にいるのはプロ野球選手。気持ちだけ昔に戻って最高レベルの離塁技術を堪能させていただいた。なかでも凄まじかったのは7回に代走で登場した楽天の小深田選手。二塁に向けてスタートを切るかのような仕草を何度もチラつかせては牽制球を呼び込み、投手の集中力を確実に削いでいった。それでいて、投手の警戒をものともせず二塁への盗塁を敢行。その後、やや平常心を失った投手の暴投で三塁へ進塁。併殺崩れの間に決勝点となるホームを踏んだ。試合後半から雨が強めに降ってきたのでカメラに残せなかったことが残念だったけど、投手を翻弄しまくった小深田選手の走塁は、この日の勝因と言っても良いくらい見事だった。(帰塁する楽天の岡島選手と西武のボー・タカハシ投手。一塁手は山村選手)どの走者もぎりぎりアウトにならない自分なりの離塁幅を持っていて、しかもその「ぎりぎりアウトにならない」タイミングは、毎回本当にぎりぎりで、それでいて慌てて帰塁する場面には試合を通して出会わなかった。プロって凄いなぁ…と改めて思い、現役の頃にこれを見ていたら僕ももう少し上手になれたかも…とも、今さらながら少し思った。
July 6, 2024
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仙台の昔の町名「本材木町(もとざいもくちょう)」は、昭和45年2月1日の住居表示で「立町」の一部になっている。そして、かつての本材木町の道筋は、今の立町の真ん中を南北に貫いている。本材木町と本櫓丁が交差していた場所には辻標50番「本材木町/本櫓丁」が立っていた。辻標のパンフレットは、町の読み方を《もとざいもくまち》としたうえで、この町を次のように解説している。・建築用材を集荷供給するため仙台開府当初に割り出され、材木町とも木町とも称した。・その後木材需要の拡大に伴い、北・南材木町ができたので本材木町と呼ばれた。・一部は侍屋敷となったが、なお、材木商・大工衆・指物師が多く住んだ。・明治以降は国道西裏の商店街として栄えてきた。この通りには、辻標だけではなく「《本材木町》通り」と記した標柱も建っていた。仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」は、この町を次のように説明している。・慶長年間(1596−1615)に成立し、程なく北材木町を分出。・城下町建設のための材木市がおかれ、材木商人が居住したことに由来する。今の町割りに当てはめると、立町のど真ん中、赤線の通りがかつての本材木町にあたる。この通りを歩いてみると、残念ながら材木町の名残りらしきものは見つけられなかったけど、町人の町らしい、間口が狭くて奥行きのある土地の形は目にすることができた。こんな風に通りに面する部分は狭くて、奥に長い民家。藩政時代は土地の面積ではなく、通りに面する土地の幅で税金の多寡が決まっていた、と聞いたことがあり、だから町人や商人の町には、間口の狭い家が多かったらしい。広瀬通と定禅寺通の間にあるかつての本材木町には今、たくさんのマンションが立ち並んでいて、その中にポツポツと古い民家があり、おしゃれな雰囲気のベーカリーなど新しいお店もいくつかある、そんな通りだった。
October 4, 2024
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2025年の3月半ば、雪の残る「いろは坂」を上って中禅寺湖を目指した。スタッドレスを着けているとは言え、勾配とカーブがきついワインディングロードは未体験。雪が積もっていませんように、路面が凍っていませんように、と何日も前から祈りつつ、結果、この日はまったく問題なく走ることができた。上りの終点に近い明智平に、休憩用兼展望用と思しき駐車スペースがあったので、一度車を停めた。この日は坂の下、日光東照宮あたりにもまだ残雪がたくさんあったけど、いろは坂の除雪は全線で行き届いていた。路面も乾いていて、走っていて怖さは感じなかった。ただ、道路脇には除雪で寄せられた雪があるので、通常は2車線のところ、多くの場所で道幅は1車線程度になっていた。つまり追い越しはできない。前が詰まっても流れに身をまかせ、後ろの車がグイグイ来たら広いところで先に行ってもらう。そんな感じだった。ちなみに、明智平の駐車場にあるトイレは冬場は使用禁止になっていた。あと5分も走れば中禅寺湖畔の街に着くので大きな問題はなさそうに思えた。参考まで、この駐車場のすぐ近くにはロープウェイの乗り場もあった。ロープウェイに乗るか乗り場の有料駐車場を使う人ならそちらのトイレを使うこともできる。これが明智平ロープウェイ。往復1,000円。奥に見えるのが男体山。5分くらいで到着する上の駅には展望台があって、中禅寺湖や華厳の滝、男体山などが一望にできた。
March 23, 2025
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