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東京ディズニーシーでの休日。ここに最後に来たのは10年以上前のこと。その時は僕がいろいろ作戦を立てて回っていたけど、今回はすべて子どもにお任せ。チケットをアプリに入れたり、入場ゲートを過ぎたらすぐにアプリからアトラクションの抽選を申し込んだり…。東京ディズニーリゾートのシステムは以前と大きく変わっていた。自分でやれと言われても難しかったかもしれない。JR舞浜駅からパークに行く途中、この日泊まるアンバサダーホテルに手荷物を預け、ディズニーシーの入場ゲート前には朝の7時過ぎに着いた。横に広がる開演待ちの列には、ざっと見ても千人を余裕で超えるゲストたちが並んでいて、僕たちの後ろにも列がどんどん伸びていった。繁忙日にはチケット代がついに一万円を超え、若い世代にはディズニーリゾートは遠い存在になってしまった…。そんな感じのネガティブな報道も近頃目にしていたし、それとは別な理由でオリエンタルランドの株価も一時期より下がっている。だから、パークの混雑は以前ほどではないのかも、と思う気持ちも(期待も込めて)あったけど、少なくともこの日はとても賑やかだった。入場ゲートは予定の9時よりも早く開いた。手荷物検査と金属探知機とチケットゲートを通って園内に入ると、辺りは一面の人・人・人。だけど、そこはさすが夢の国。どんなに混んでいても園内で行き交うどの顔も楽しそうだったし嬉しそうだった。ディズニーリゾートに来てはしゃぎ回るような世代からは外れてしまった僕にとっても、パーク内を歩いているだけでも楽しかった。ドリンクを飲みながらの休憩時間も心地良かったし、アトラクションにも思ったよりたくさん乗れたし、今年オープンしたばかりのファンタジー・スプリングスにも入れたし…。体の中が浄化されるような1日を過ごすことができた。何よりも子どもとまたここに来られたことが嬉しかった。天気も良くて、幸せな一日だった。パークの雰囲気はクリスマス。凝っている、と言うか、こだわっている、と言うべきか、デコレーションはどれもすごい質感でなかなか圧倒された。
November 23, 2024
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東京駅を出てからしばらく地下を走るJR京葉線。それがポンッと海上に浮上するあたりに潮見地区がある。車窓からは海に浮かぶ島のようにも見える潮見エリアを、今回少しだけ歩いてみた。この日、一番印象的だったのは夕方の風景。見えているのが川なのか運河なのか、それとも海なのか…良くわからないけど、沈んでいく夕陽とビル群の影が水面に映し出されて、なかなかの美しさだった。JR潮見駅は小さな駅で、平日の午後の時間帯、乗り降りする人はそれほど多くはなかった。背後にはAPAホテルなどのホテルが何棟か建っていて、駅の周りには飲食店やコンビニがちらほら。大きめのスーパー「マルエツ」も見つけた。潮見地区は一つの区画がとても大きい。そして交差点の間に横断歩道がないので、道路の反対側に渡るのは少し大変。配送センターやオフィスビル、製造業、研究所などが工業団地のような雰囲気で立地していて、まとまった空き地もまだ残っていた。潮見地区は埋め立て地だから地盤が弱いのではなかろうか…。歩きながらこんなことが頭をよぎったけど、例えば、この広い空き地の奥には大きなマンションが見えるし、他にもタワーマンションのような公団住宅があったり、一軒家もたくさんあって、思っていたよりたくさんの人たちが潮見地区で暮らしていた。今は建築物の基準も厳しくなっているはず。このマンションも基礎がしっかり岩盤まで届いていて耐震の問題はないのだろう。さらに言えば、江戸は元々湿地帯だったし、今の東京には江戸時代になってから埋め立てられた土地がたくさんある。余計な心配は無用かもしれない。夜になると潮見駅にはディズニーリゾート帰りの幸せそうに疲れ切った人たちが続々と到着し、駅近くのホテルに向かって歩いていった。
November 18, 2024
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長く書棚に眠っていた「7つの習慣」に目が止まり、久しぶりにページをめくり始めた。そこそこ分厚い本の巻末を見ると「1996年12月25日初版第1刷発行。2007年10月25日初版第56刷発行」と書いてあるから、おそらく15年振りくらいの再読になる。オレンジ色の帯に「永遠の人間学」とあるこの本を、当時の僕は何を思って手に取り、買ったのだろうか…。きっと何かに悩んでいてこの本にすがりたかった、そんな気はするけどまったく覚えていない。ただ僕の残念な性格から察するに、当時は自分にとって都合の良いところだけを拾い読みし、「大丈夫、俺はできてる」とか呟きながら満足して、この本を読み終えたつもりになっていた可能性が高い。だから今回は、著者の意図を時間がかかってもきちんと理解してみたいと思った。目次を見ると、“極めて有能な人たち”の「7つの習慣」とは…①主体性を発揮する②目的を持って始める③重要事項を優先する④Win Winを考える⑤理解してから理解される⑥相乗効果を発揮する⑦刃を研ぐとなっている。なんのことやら…。一度読んでいるはずなのにどの項目も言わんとすることがわからない。ちゃんと読み通せるかな…と少し弱気になりつつも、まずは「第一の習慣」を読んだ。【第一の習慣「主体性を発揮する」】(以下、勝手な要約)・例えば、大バカ野郎のせいでどうしようもない事態に陥ったとする。この時、僕はどうすべきか。・①大バカ野郎に復讐する。②大バカ野郎にバカを自覚させ少しでもバカを治してやる。③大バカ野郎には構わず、この事態を自分で何とかする。④ひたすら神に祈る。・さて、どれか正解だろうか。・①〜④を同時並行でやって事態をなんとか乗り切らないといけないのではないか。少なくとも張本人には何か言ってやらないと気が収まらない…と僕なら考えるが、著者は「大バカ野郎のせいでどうしようもない事態に陥った」との認識がそもそも間違っている、と言う。・自分にはどうしようもない事態に陥っているかどうかは自分が主体的に決めていることだ。「AのせいでBになった」のではなく「AのせいでBになったと自分が感じている」に過ぎず、自分の考え方次第でBはCにもDにもなる。つまり「B」は「A」の結果ではなく、「A」と「B」の間に「自分の主体性」がある。・だから大バカ野郎に腹を立てても解決にはならないし、そもそも他人を変えようとしてもそれはムリ。変えるべきは自分の認識。「どうしようもない…」と感じる状況に置かれても、そこで自分が主体的に取り組めることは何かある。それを見つけてその部分にエネルギーを集中すべき。・自分がコントロールが及ぶ範囲を少しずつでも広げていくことで、自分の力で「B」を「C」に変えていくことができる。・その一方で、他人を自分の思い通りに変えようとすることを含めて、自分のコントロールが及ばないことは諦めて受け入れた方が良い。淡々と受け入れることで心の平安を守れるのであれば、その選択は正解だ。自分のフィルターを通すとこんなサマリーになってしまうけど、このくらいまで崩してみても【第一の習慣】を自分のものにすることはものすごく難しい、ハードルが高い、僕はそこまで立派な人ではない、と感じてしまう。一方で、こんな人になれたらそれはそれで良いことに違いない、と思っていることも確か。まずは今の気持ちを頭の片隅に置きながら【第二の習慣】に読み進んでみようと思う。
November 13, 2024
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僕が生まれた時、本籍は「札幌市北区北二十四条…」にあった。だから僕はずっと北二十四条…で生まれたと思っていた。だけど今年、札幌市内で働く働くいとこが「東区北十三条東一丁目」の近頃の様子を割と詳しく知らせてくれた。「なぜその話を僕に…?」と思いながら聞いていると、どうやら僕が産まれた場所はそこだったらしい、ということがわかってきた。早速、母に聞いてみると「あんたが生まれた時は、そこに住んでたね」とサラッと言われた。「北二十四条は?」と聞くと「おとう(僕の父)の実家さ」とあっさり言われた。知らなかった…。そして、せっかくなので行ってみた。地下鉄東豊線の北13条東駅を降りると、駅の近くに札幌諏訪神社があり、お祭りなのだろうか、境内の入口にシャボン玉が舞っていた。この神社は明治15年からこの地にあるそうだ。神社から少し歩くと天使病院が見えてきた。ここが僕の産まれた病院だということは小さな頃から知っていたけど、病院と当時の自宅がこんなにご近所だったとは知らなかった。そして、僕がこの病院で生まれた理由を今更ながら理解した。この辺りは札幌駅から地下鉄でたったひと駅。しかも駅近でありながら空地が目立ち、比較的古い建物も残されていた。石狩街道沿いに百地商店という名の酒屋さんを見つけた。おそらく今は営業していない。サントリーの文字とウイスキー(サントリーオールド)の絵に歴史と懐かしさを感じた。札幌諏訪神社の裏手に回ると、ここにも築何十年だろう…という建物があった。僕が産まれた頃は、こういう建物が並ぶ街だったのかも、と思った。ここが僕が産まれた時に住んでいた街か…。と呟いてはみたものの、住んでいたのは2歳くらいまでなので、当時の記憶は全然ない。歩き回ってもピンとくる風景には出会わなかった。それでも今回、天使病院の今の姿が見られたのは良かったし、余談ながら病院の隣には天使大学があって目がくぎ付けになった。「天使大学」アニメに出てきそうな学校の名前。看護大学なのかな…とか思いながら校門の前を通り過ぎた。
November 9, 2024
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元鍛冶町(もとかじまち)仙台三越の南側の道路を西(仙台城址方向)に少し歩くと、かつての元鍛冶町がある。昭和45年2月1日の住居表示前の町名は「元鍛冶町」(もとかじまち)となっているが、地元では「元鍛冶丁」(もとかじちょう)と呼ばれていたようで、公園の名前も元鍛冶丁公園になっていた。かつての「元鍛冶町」は今、青葉区国分町二丁目と立町のそれぞれ一部になっている。町名の由来は…伊達政宗が仙台に城下町を建設する際、この場所に鍛冶職衆を配置し「鍛冶町」とした。しかし程なく、鍛冶職衆は南鍛冶町と北鍛冶町に移され、鍛冶町は侍屋敷の町に変わった、ということらしい。(参考:仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」)鍛冶職衆がいなくなった鍛冶町は「元」鍛治町となり、その際「町」の文字も、武士の町を示す「丁」になったのではないか、と勝手に推察してみた。だから、一般に使われている「元鍛冶丁」が藩政時代の町名としては正しいのだろうと個人的には思っているが、そうなると住居表示前の町名が「元鍛冶町」だった理由がわからなくなる。もしかすると「町」と「丁」の区別は、ある時期から余り意識されなくなっていたのかもしれない。ドン・キホーテの北東角に《元鍛冶丁》通りの標柱が建っていた。元鍛冶町は今の町割りでは赤線で示したこの辺り。
November 5, 2024
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かつての笄町 (こうがいちょう。今は港区西麻布の一部) を訪ねた折に、かつての宮代町 (今の渋谷区広尾) にも行ってみた。今は「広尾北公園」になっているこの辺りが、かつては宮代町だったと思われる。周囲にはいわゆる広尾っぽい高級そうなマンションがいくつも建っていた。そして、公園から坂を下ると日本赤十字社医療センターがあった。すごく大きな病院。母は時々「宮代町の日赤病院で産まれた」と言うので、きっと戦後になって坂の上からここに移転したのだろうな、とその時は思っていた。だけど、病院のウェブサイトを見てみると、1891年(明治24年)に飯田町から現在地に移転して以降、移転はしていない。どういうことだろう…と思いながらウェブサイトを読み進んでみると、「1972年(昭和47年)11月には日本赤十字社産院と統合」と書いてあった。この「産院」が宮代町にあった、ということか…プチ発見を喜びながら更にネット検索をすると、次のような文章を見つけた。「日赤産院は渋谷区宮代町にあって、白亜の高層建築日赤中央病院と隣り合わせであるから同病院の一病棟でもあるかのように見られるが、産院と病院とはそれぞれ特異な性格を持っていて産院はもちろん独立して存在しているのである。」「大正10年4月、日赤本社は直営の産院を設立。」(以上、医学書院1952年2月発行「助産婦雑誌1巻2号」より)「独立して存在しているのである」のくだりから、病院と一緒にされたくない産院側の強い気持ちが伺われるが、母のような一般人から見れば、当時から病院も産院も「病院」だったのだろうと思う。自分のルーツをまた一つたどることができた。
November 1, 2024
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札幌で飲み会。会場は大通公園周辺になることが多い。今は内地に暮らす僕でも迷わないように、と親戚が店を決めてくれるから。だけど、僕はこれまで地下鉄の大通駅から地上の狙った場所に出られたことがない。大げさではなく、本当に一度もない。(大通駅から地上に出たあたり。さて、ここはどこ…と思いながら撮影)まず、地下鉄のホームから改札口に出る時点で、あらかじめ頭に入れた改札口には出られない。さらに、地下街から地上への出口の番号が探せない。駅構内と地下道と地下街に、それぞれ1,2,3という出口番号があると思われ、例えば出口4で出ても、その4は、僕が出たかった4ではなかったりする。とにかく毎回僕は札幌の地下をさまよっている。(これは地上の商店街。狸小路)ただ、気になるのは、地下道や地下街で道に迷っている人を余り見かけないこと。海外からの観光客も含めて、皆さんスイスイと歩いているから、何か基本的な法則を僕は見落としているのかもしれない、といつも思っている。生まれ故郷の札幌でいつまでも道に迷っている僕ではいたくないので、もう少し頑張ってみる。(大通公園)
October 28, 2024
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週末の上野駅。時刻は午前10時頃。駅の中から公園口改札の向こうを見ると、正面奥に上野動物園の入口が見えた。列車を降りた家族連れやカップルさんたちがあちこちのホームから途切れることなく改札口に向かって歩いてきて、上野公園方面へと抜けていった。写真手前の男の子もそのひとり。この日のお目当ては上野動物園らしい。改札の向こうに動物園を見つけた途端、家族を置き去りにして駆け出した。きっとこの日が来るのが待ち遠しくてたまらなかったのだろう。かわいい…今日一日、迷子にならずに楽しく過ごせますように…この改札を通るみんなが楽しい週末を過ごせますように…
October 24, 2024
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この日観戦した楽天✕西武はパ・リーグの2024年レギュラーシーズン最終戦だった。シートは一塁側の内野席。選手との距離が近くて、防球ネットも視界を妨げるほどではない。シートの幅が少し窮屈、という点を補って余りあるほど見やすい席だった。一塁ランナーを軽く牽制。マウンド上は楽天先発の岸孝之投手。一塁には伊藤裕季也選手と西武の西川愛也選手岸投手はこの日も終始落ち着いたマウンドさばきで、いつものことながらセンスの良さが溢れ出ていた。出塁して塁審に挨拶。辰己涼介選手は今年ヒットを量産した。中堅手としても俊足を生かして守備機会の記録を作り、攻守ともに大活躍の1年だった。一塁コーチは渡辺直人さん。一塁手は野村大樹(だいじゅ)選手。浅村選手に代わって試合途中から四番サードに入った入江大樹(だいき)選手。攻守ともにキレがあって、初めて一軍に上がったばかりとは思えない落ち着きと力強さを感じた。来季の活躍を期待せずにはいられない。小深田大翔二塁手の守備はいつもながら絶品。捕球した瞬間ボールが一塁に向かって飛んでいるとしか見えないボールさばき。この日も、ボテボテ過ぎて間に合わない…と、内野安打を確信した打球を素早く処理してアウトにしていた。楽天も西武も今年はクライマックスシリーズへの進出はならず、この日が今年の最終戦。試合は引き分けで終了した。選手も観客も、皆さんお疲れさま。暑かった夏を忘れるような、涼しい夜。空気が澄んでいて球場の照明はいつも以上にきれいだった。
October 20, 2024
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以前少しだけ暮らしていた千駄木(文京区)から、上野や浅草はそれほど遠くなかったので、時間帯は夜が多かったと思うけど、良くぶらついていた。昔から大好きな浅草あたりを、今回は朝、散歩した。早い時間なので人通りも車通りも少なくて、それでも大きなスーツケースを押しながら歩く外国人観光客の姿を思っていたよりたくさん見かけた。浅草にもすっかり活気が戻っているな、と思った。大きな通りから少し裏に入ってみると、外国のお客さんがターゲットと思われるホテルがあった。コロナ禍後にオープンしたのだろうか、全体的に新しい感じ。和風がギュッと詰まっている雰囲気で、日本らしさを濃厚に、ストレスなく体験したい旅行者にはすごくありがたいホテルと思われた。日本人が泊まっても十分に楽しめそうだ。そして、隅田川の河川敷。遊歩道まで降りていくと、空がぐっと広くなって、この時はおそらく満潮時。流れていないようにも見える隅田川からは海の香りがした。田原町方面を歩いていたら相撲部屋を見かけた。あまり意識したこともなかったけど、浅草から国技館のある両国まで、それほどの距離はない。部屋の名前は西岩部屋。スマホで調べてみると、西岩親方は元関脇の若の里関。部屋には8人の力士が所属していると書いてあった。朝稽古の音が聞こえたらいいな、と思って建物に近寄ってみたが、この時は静まり返っていた。そのうち稽古を見学をしてみたいし、国技館にも行って本場所を観戦してみたい。用事がなくてもつい足が向く浅草。そして歩いてみるたびに、以前と比べて衛生的、というか清潔な町になったな、と感じる。これもインバウンド効果なのだろうか。小一時間の浅草散歩、今回も気持ちよかった。
October 16, 2024
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ロッテの先発が佐々木朗希!初めての佐々木朗希生観戦!この日は朗希投手初観戦にワクワクしながら楽天モバイルパーク宮城の外野席に滑り込んだ。座席はバックスクリーン近くの、前から3列目。座ってみると目の前に頑丈なフェンスがあった。このフェンスは何のためにあるのだろう…?観客がグラウンドに飛び降りないようにするためかな…?昔は乱入してたようだけど今もやる人いるのかな…?とかむにゃむにゃ考えたけど、きっと何か理由はあるのだろう。だけどとにかく観づらかったので、次回の外野席は真ん中より上にしようと思った。それでも金網越しに試合を見ていると、この日のお目当てはロッテ先発の佐々木朗希投手だったはずなのに、いつの間にか楽天先発の岸孝之投手のマウンド捌きに魅了されていた。岸投手は投球間隔が短く、キャッチャーからボールを受けるとすぐに投球姿勢に入る。コントロールも良くてポンポンとカウントを稼いでいく。スピードガンの表示は速くても145キロ前後なのに、例え130キロ台でもボールがしなやかに伸びているように見えて、ホームベース近くで球速が上がっているようにすら見えた。野手とすればものすごく守りやすそうなピッチング。一度で良いから岸投手の後ろで守ってみたかった、と思いながら彼の投球に見惚れていた。外野席からでは配球の細かいところは見えなかったけど、佐々木朗希投手はまず、打ち気をそらすような130キロ台でワンストライク。次に150キロ台の豪球でファールを打たせてツーストライク。最後はストレートと変わらない速さのフォークボールで空振り三振。という投球パターンを繰り返し、それがことごとく成功しているように見えた。楽天打線からするとツーストライクを取られた時点で勝負あり。カウントが若いうちに何とかしなければ話にならない…。それがわかっていながらロッテバッテリーの思惑にズルズルとはまっているような展開だった。一方、岸投手の投球には決まった投球パターンは見られず、なおかつ力で抑え込んでいるようにも見えない。朗希投手とは対照的な感じがした。けれどロッテ打線は岸投手を打ちあぐね、内外野に高々とフライを打ち上げ続けた。ロッテの脅威の四番打者、ボランコ選手もこの日はまったく仕事ができていなかった。打てそうで打てない。これが熟練の投球術なのだろうか。その秘訣のようなものを少しでも見抜いてみたいと思い、金網越しに食い入るように観ていたけど、僕には何もわからず終いだった。途中、内野の後ろにフラフラと上がった打球で一挙に2点を失うという不運に見舞われてからも、岸投手は黙々と投げ続け、結局9回の途中までマウンドを守った。派手なパフォーマンスは一切ないのに、岸投手の存在感はグラウンドの空気を支配しているように思えた。比較的経験の浅い楽天野手陣を背中で静かに鼓舞し、引っ張っているようにも見えた。まだまだやれる。来年もまた岸投手の投球術をスタジアムで観たい。彼の投球術を、その一端でも理解してみたい。そう思いながら帰途についた。この日は試合が終わってもまだ8時過ぎ。テンポの良い、見応えのある投手戦だった。
October 12, 2024
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札幌の隣、江別市で暮らす従兄弟(いとこ)に、彼の畑に連れて行ってもらった。会社勤めをしている従兄弟が知り合いに農地を借りたのは10年くらい前。「酒のツマミくらい自分で作ってみよう」と思ったのがきっかけらしいが、程なく野菜作りにすっかりハマり、今では採れた野菜に生産者(彼の名前)のラベルを貼って市内のスーパーに並べているくらい、かなり本格的な兼業農家さんになっている。彼の畑自体はそんなに広くない。だけど隣の農地との境目がパッと見良く分からないので、ここにいると北海道の大平原の真ん中に佇んでいる気分になれた。アウトドア用のイスを持ってきて、ずっとここにいたい…と、本気で思った。彼が休日のほとんどをここで過ごしている理由も、その半分くらいはこの風景にあるのだろうと思う。間違いなく。帰りがけ、大きなキューカンバと甘いトマトをお土産にもらって、翌朝のご飯に加えた。美味しかったぁ。ありがとう、従兄弟。
October 8, 2024
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仙台の昔の町名「本材木町(もとざいもくちょう)」は、昭和45年2月1日の住居表示で「立町」の一部になっている。そして、かつての本材木町の道筋は、今の立町の真ん中を南北に貫いている。本材木町と本櫓丁が交差していた場所には辻標50番「本材木町/本櫓丁」が立っていた。辻標のパンフレットは、町の読み方を《もとざいもくまち》としたうえで、この町を次のように解説している。・建築用材を集荷供給するため仙台開府当初に割り出され、材木町とも木町とも称した。・その後木材需要の拡大に伴い、北・南材木町ができたので本材木町と呼ばれた。・一部は侍屋敷となったが、なお、材木商・大工衆・指物師が多く住んだ。・明治以降は国道西裏の商店街として栄えてきた。この通りには、辻標だけではなく「《本材木町》通り」と記した標柱も建っていた。仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」は、この町を次のように説明している。・慶長年間(1596−1615)に成立し、程なく北材木町を分出。・城下町建設のための材木市がおかれ、材木商人が居住したことに由来する。今の町割りに当てはめると、立町のど真ん中、赤線の通りがかつての本材木町にあたる。この通りを歩いてみると、残念ながら材木町の名残りらしきものは見つけられなかったけど、町人の町らしい、間口が狭くて奥行きのある土地の形は目にすることができた。こんな風に通りに面する部分は狭くて、奥に長い民家。藩政時代は土地の面積ではなく、通りに面する土地の幅で税金の多寡が決まっていた、と聞いたことがあり、だから町人や商人の町には、間口の狭い家が多かったらしい。広瀬通と定禅寺通の間にあるかつての本材木町には今、たくさんのマンションが立ち並んでいて、その中にポツポツと古い民家があり、おしゃれな雰囲気のベーカリーなど新しいお店もいくつかある、そんな通りだった。
October 4, 2024
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楽天モバイルパーク宮城の三塁側、内野席の上段に「カウンターシート」という席があることに気付いた。今ごろ…。今年新設されたシートだろうか。座席の前に長テーブルのようなカウンターがあるらしい。で、今回はここで楽天✕オリックス戦を観戦した。球場のレフト側にある入口「L8番ゲート」から幅広の階段を上ったところに並んでいる食べ物屋さんで、冷たい烏龍茶を買ってから、小さな階段を座席まで少し上った。ドリンクをカウンターに置いて、「どんな感じだろ…」とシートに腰を下ろしてみると、グラウンドが思いのほか近く見えたので嬉しかった。少し広角で撮るとこんな感じ。実際はもっと近く見える。球場全体が見渡せて、内野手や走者の動きも細かく見ることができた。シートには座面にも背中にもクッションが効いていて、肘掛けは隣との共有ではなく自分専用。しかもカウンターのおかげで前後のシートとも距離があった。快適な座り心地だった。試合開始前、空を見上げると雲が不思議な広がり方をしていた。おそらく台風の影響。ちょっと幻想的な景色だった。この日は雨の予報もあったけど、幸い雨に当たることはなく、少し強めの夜風を感じながら試合終了まで心地良く過ごすことができた。僕にとってのこの日のHEROは、セカンドの小深田選手とセンターの辰巳選手。二人とも打撃も守備も素晴らしかった。特に守備。これもアウトにしちゃうんだぁ…と溜め息が出るようなシーンが幾度もあった。間違いなくヒット、と思ったらアウト。しかもそれがファインプレーに見えないところが凄かった。2人に加えて、石原捕手の強い打球と強肩もすごく魅力的で、球場まで観に来る価値のある面白い選手たと思った。カウンターシートにゆったりと座ってプロ野球を堪能した夏の夜。楽しかった。
September 28, 2024
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この女、何者?脚本・監督 三谷幸喜主演 長澤まさみ9月13日公開の映画「スオミの話をしよう」を観た。雨の週末、映画館は賑わっていた。映画を観るといつも、それがどんな映画であっても、監督さんが映画に込めた思いや、映画を通じて伝えたいメッセージを僕は探ろうとしてしまう。だけど、この映画「スオミの話をしよう」の場合、おそらく何か深いメッセージが込められているわけではなくて、三谷幸喜監督はただひたすら僕たち観客を楽しませようとこの映画を作ったに違いない、と、観終わった時に思った。言い換えると「思い切り楽しませること」がこの映画のメッセージ。そもそも、三谷さんは何かを真剣に探るような映画の見方を僕たち観客に求めているわけでもなくて、2時間たっぷり、日常のあれやこれやを忘れて楽しみまくって欲しい、そう思っているに違いない。そんなことを出演しているビッグな役者の皆さんの姿からも感じた。その昔、チャップリンは彼の映画に鋭い風刺や政治的メッセージを思い切り込めていたけど、コメディ映画は本来、三谷幸喜流でも全然良いのだろうと思った。この映画、屋外のシーンはほとんどなくて、劇場で演劇を鑑賞しているような気分にもなった。以前、小劇場に入った時の記憶を手繰ると、それは監督さんの頭の中が無秩序に舞台で表現されているような作品で、初っ端からまったくストーリーが追えず、終始理解が追い付かなかった。なのに終演時、周囲の観客たちがこぞって感激してる風に拍手喝采をしていたのが不思議で仕方がなかった。幸い、「スオミの話をしよう」はストーリーに置き去りにされる心配をまったくせずに楽しめた。それでありながら、まさに三谷幸喜監督の頭の中を覗いているような時を過ごした。三谷幸喜ワールド全開。週末にふさわしい、楽しい映画だった。
September 21, 2024
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夏、週末の夜。Jリーグの試合を観に行った。試合開始は午後7時。空が暗くなっていくに連れてLED照明に照らし出されたスタジアムは美しさを増していった…のだけど、なんと、メガネを持っていくのを忘れてしまい、やや近眼の僕にはピッチを走り回る選手の姿がボンヤリとしか見えなかった…間抜けな自分に今さらながらガッカリ…それでも、清水エスパルスのフォワードの足がめちゃくちゃ速いことと、ベガルタ仙台の14番が後半から登場してすぐに試合を支配し始めたことと、どちらのチームもピッチの両サイドまで幅広く使って攻め上がろうとしていることは、ぼやけた僕の目にもしっかり見えた。気迫と気迫がぶつかり合う良い試合だと思った。僕はコアなサポーターのように熱い声援を送るわけでもなく、選手を良く知っているわけでもなく、サッカーに詳しいわけでもないのだけど、サッカー観戦はすごく楽しい、といつも思いながら観客席に座っている。観戦歴だけは長い。夕涼みを兼ねて…と言うには蒸し暑かったこの夜も、すご…!、とか、ほぉ~、とか、え…?、とか呟きながら、試合開始前からボルテージの高いスタジアムの雰囲気を、スタンドの一角で楽しんでいた。
September 14, 2024
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大通公園で、名物の焼きとうきびを食べてみたい…。子どもの頃からの願いが、この日ようやくかなった。土曜日の午前中、500円玉を握りしめて「とうきびワゴン」の前に立ち、「焼きとうきびを一つください」と言った。思いがけず子供じみた言い方になったけど、お店の人は「はいどうぞ」とビニール袋に入った熱々の焼きとうきびを手渡してくれた。朝9時に開店したばかりの「とうきびワゴン」に行列はなく、だけど既に美味しそうな香りが漂っていた。昔と変わらない香りだった…。ワゴンの近くのベンチに腰を下ろし、まだ静かな公園を眺めながら、香ばしいタレが塗られた焼きとうきびを一列ずつ食べていった。小学校に入る前の僕は、親に連れられて大通公園を通る時、いつもこのタレの香りにガマンができず「ねぇねぇトウキビ食べようよっ!」と騒いでいた。だけど僕の親は「帰ればあるから!」と言うばかりで、買ってもらったことは一度もなかった。確かに家の庭にはとうきびが植えられていたし、茹でたとうきびをおやつで良く食べていた。それに、当時の値段はわからないけど、今「とうきびワゴン」で買うと一本500円。豊かとは言えない子育て中のわが家には、それは限りなくムダで不必要な出費だったのだろうと思う。その「ムダな出費」をこの日やった。小さい頃の僕へのプレゼント。大げさだけど、ようやく固い殻を破れたような気分になってゾクゾクした。そのあと、良く分からないけど少ししんみりとした気持ちにもなった。実のところ、タレが着ている服にこぼれ落ちないように、少し前かがみで食べなければならず、ゆったり公園を眺めながら…という感じでもなかったのだけど、とうきびは期待通り美味しかった。傍から見れば、公園のベンチに座ったおじさんが独りで黙々とトウキビを食べているだけ。でもその時、僕の頭の中には子供の頃のいろんな情景やいろんな人たちが浮かんでいた。とても懐かしくて愛おしいひとときだった。
September 7, 2024
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元茶畑(もとちゃばたけ)仙台市若林区にあるこの町は、戦後の住居表示の嵐をくぐり抜けて、今も「元茶畑」が正式な住所となっている。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)〕現地に立つと、元茶畑の町はおそらくその半分以上が仙台一高の敷地になっていた。正しくは宮城県仙台第一高等学校。多くの卒業生がここの出身であることを誇らしげに語る、そういう高校らしい。「元茶畑」について、地下鉄東西線連坊駅の近く、そして仙台一高のグラウンドの外に立つ「表柴田町/元茶畑」と書かれた辻標には、次のように書かれていた。元茶畑「長泉寺横丁から南鍛冶町に至る通り及びその周辺を指した。寛文十一年(一六七一)から元禄八年(一六九五)までの二十五年間は藩の御茶畑で、その後侍屋敷となった。明治四十一年宮城県仙台第一中学校(現仙台第一高等学校)が置かれた。」また、仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」では元茶畑は次のとおり解説されている。「連坊小路の南側、柴田町の西側、東南向きの斜面に沿った陽当りのいい場所で、寛文11年(1671)頃から茶の木が植えられていて、元禄8年(1695)まで藩の茶畑として使われ、畑の中を孫兵衛堀が流れていた。茶畑廃止後は侍屋敷となって元茶畑という地名となった。茶畑だったところは東半分のほとんどが仙台一高となり、西半分のJRアパートだったところが道路の拡幅で姿を変えつつある。」この「西半分」にはもう誰も住んでいないJRアパートが2棟建っていた。まだ残っていて良かったけど、取り壊しの準備は始まっていた。(2024年4月末時点)辻標にもウェブサイトにも、この辺りが茶畑になったのは1671年頃から、と書かれているので、「元茶畑」の茶畑化は政宗公より後の時代、ということになる。一方、仙台城下ではここが茶畑になる前から、武家屋敷の敷地の中でお茶の栽培が広く行われ、仙台はお茶どころとして名を馳せていたらしい。そのことが「せんだい市史通信」に「お茶どころ仙台」というタイトルで次のように書かれている。(第31号。仙台市博物館市史編さん室。平成25年9月13日発行)・(前略)かつては日本有数の産地だったのに現在では大きく生産量を落としているものもあります。宮城県では茶がその代表格です。・(中略)仙台における茶の生産の相当部分は実は街の中にあったのです。・仙台城下の7割以上を占めた武家屋敷がその場所でした。・仙台藩は藩士たちに広い屋敷を仙台城下に与えました。・その面積は、100石どりで420坪、500石で900坪が基準とされていました。・その広大な屋敷の中には菜園が作られ、また、たくさんの樹木が植えられて「杜の都」の原風景を作り出していたのです。・そうした武家屋敷では、門から玄関に続く通路に沿って、あるいは庭の一角に、茶の生垣を作るのが一般的でした。・(中略)しかし明治以降、武家屋敷がだんだんと少なくなり、また静岡などで大規模に茶の生産が行われるようになると、もともと茶の生産地としては北限に近かった宮城の茶の生産は急速に衰えてしまいました。(後略)元茶畑は現在の道路で示すと赤線の通りになるのでは、と推測している。辻標は高校の敷地脇の道路に立っているので間違っている可能性はあるが、元茶畑の町の真ん中を通っているのはこの赤線の通りなのでそう考えてみた。大きなお寺(東漸寺)の下にある静かな通りだった。
August 31, 2024
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本郷三丁目駅で丸ノ内線を降り、ご先祖さまの足跡を辿ってみた。ご先祖、と言ってもそんなに昔のことではなくて祖父母の頃の話だけど…。母は時折、小学生の頃に東大の赤門近くに住んでいたことをちょっと誇らしげに話す。麻布笄町(あざぶこうがいちょう。今の港区西麻布あたり)で生まれた母が本郷で暮らしたのは終戦前、学童疎開で那須塩原に行くまでの短い間だったようだが、それでもずいぶんと懐かしい場所のように話している。「赤門を下がっていくとウチがあってね…」という言い方を良くするので、まずは「下がる」の意味を現地で確認してみたかった。そこでスタートは東大赤門前。赤門前の大通から横道に入り、母たちが暮らした家のあった本郷四丁目(今の本郷五丁目)に向かうと、たしかに道は下っていた。写真ではわかりにくいけど…祖父母家族の家を含めて、この一帯は昭和20年の大空襲ですっかり焼けてしまったが、今でもこの界隈には車1台がやっと通れるくらいの道が多い。道筋は戦前とあまり変わっていないように思えた。公園に行くと昔ながらの井戸のポンプが災害用に残されていて、本郷の町はあちらこちらに懐かしい風景があった。菊坂通りという商店街からわりと急な坂道を南に上ると、本郷小学校に着いた。母も、母の兄弟もこの学校に通い、当時は「真砂(まさご)小学校」という校名だったそうだ。小学生だった母兄弟が暮らした家があったのは、「真砂小学校」を再び下って菊坂通りの向こう側。東大赤門までゆっくり歩いても5分かからないくらいの静かなところにその場所はあって、本郷5丁目と書かれた住居表示板が貼られていた。文豪もたくさん暮らしていたこの町の空気が、短い期間とはいえ祖父母の家族には心地良く、戦中の苦しい時期でありながらも懐かしい記憶として刻まれたのではなかろうか。静かな住宅街をゆっくり歩きながら、そう思った。
August 24, 2024
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南カリフォルニアのサン・クレメンテ(San Clemente)。太平洋に面した小さな美しい町だった。この日は隣町のDana Pointに連れて行ってもらい、小さなヨットハーバーが見えるシーフードレストランでクラムチャウダーを食べた。これぞカリフォルニア、という時間を過ごせて嬉しかった。そしてその後、海岸沿いをしばらく走っていた時にこの風景が現れ、目を疑った。崖の上には太平洋を一望できる高級な邸宅や別荘が立ち並んでいて、相当な資産家たちが日々眺望を満喫したり、あるいはオーナーとしてこの絶景を所有している。この辺りはそういうエリアだそうだ。それが、近年、南カリフォルニアにもしばしば雨が降るようになり、時にそれが豪雨だったりするものだから、各地で地滑りが起こっている。結果、建物の基礎近くまで敷地が削られた邸宅が多数発生し、住めなくなってしまった家もあれば、資産価値が暴落した家もあり、大変な問題になっているとのこと。この写真はサン・クレメンテの別の場所だけど、車社会のカリフォルニアでは、高台に高級な邸宅や別荘が並んでいる風景をしばしば見かける。思い起こせば、僕が南カリフォルニアで暮らしていた30年くらい前には、雨というものをほとんど経験しなかった。たまに雨が降ろうものなら、高速道路に染み込んでいる車のオイルが浮き出してスリップ事故が多発していた。そのくらい雨は珍しかった。そして、近所の人たちは「湿度でお肌が喜んでいる」みたいなことを口々に言いながら、わざわざ雨に当たりに玄関先に出てきたりもしていた。だけど今の南カリフォルニアの気候はそうではないらしい。日本にいても気象が年々荒っぽくなっていると感じているけれど、年月を経て再び訪れた地に立って、気候の激変ぶりには恐怖にも近いものすら感じた。地球温暖化対策、脱炭素、カーボンニュートラル…言葉は何でも良いのだけど、とにかく何とかしなければ。何かできることをやらなければ…その「何か」は難しいけど、焦る気持ちは確実に募った。
August 17, 2024
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札幌の白石区と豊平区の境目辺りにある「白石こころーど」。この場所に来るといつも少しの時間立ち止まる。今年(2024年)の夏に通った時は木漏れ日がきれいだった。そしてこれは去年(2023年)の冬。雪と青空のコントラストが美しかった。どちらもほぼ同じ場所。ここには昭和48年まで国鉄(JR北海道)の千歳線が通っていて、廃線跡に自転車・歩行者専用道路が作られたのだそうだ。千歳線が以前はここを走っていたことを僕は知らなかった。道幅から察するに、当時の千歳線は単線だったのだろうと思う。冬には「寒いけど、美しい」と思い、春には「爽やかで、きれい」と思いながら横切っていた白石こころーど。今回、夏に来て、「きれいだけど…蒸し暑い」と思った。いつから札幌の夏はこんなに蒸し暑くなったのだろう。数年前まで道内に暮らす親戚たちは「札幌の暑さは精々1週間だから」と言っていて、どの家にもエアコンはなかった。だけど最近訪ねた時には、リビングにしっかりエアコンが付いていたり、取り付け工事の準備をしていた。今、子どもが住んでいる札幌の集合住宅も、新築時にはエアコンを付ける想定がなかったようで、室外機と本体をつなぐ壁の穴もエアコン用の電源もない。だけど今年、大家さんの決断で配管用の穴が開くことになった。「冬があんなに寒いのに、夏がこんなに暑かったら取り柄がないよね、札幌…」と内地育ちのわが子はボヤいている。取り柄がない、とは全然思わないし、札幌は今も素敵な街だと思う。だけど、地球温暖化はあちこちで怖さを増しているな、とは改めて思った。僕たちはこれから何をどうすれば良いのだろう…。何をしてもあまりにも微力な気がしてしまうのだけど、きっと何かできることがあるに違いないと思い続けていたい、とは思っている。
August 10, 2024
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祖父と祖母の家、そして僕の母とその兄弟たちが生まれた家は笄町(こうがいちょう)という町にあった。当時の住所は麻布笄町。今の住所では、東京都港区西麻布四丁目のあたりになる。ある雨の日、かつての笄町に行ってみた。その家があったと思われる場所には高層マンションのような大きなビルが建っていて、昭和初期の名残りらしきものは何もなかった。だけどすぐ近くに「笄軒-AZABU KOUGAI KEN-」という名のレストランがあった。そして日比谷線が地下を走る広い道路の反対側には笄公園と笄小学校があった。「笄」という見慣れない文字をいくつか目にして、ここが僕の親たちが過ごした地なのだな…と思った。すぐ近くには古地図にも載っている、渋谷区と港区の境界にあたる独特な三角形もあった。V字の道路の外側が港区西麻布で、道路の内側が渋谷区広尾。渋谷区部分はかつて宮代町と呼ばれ、堀田坂(赤い方の道路)を登ったところに日本赤十字社の産院があり、母も、母の兄弟もそこで生まれた。母いわく、祖父は笄町の家から職場のある高樹町に通っていて、祖母は札幌からこの家に嫁いできた。その後、一家は笄町から文京区の本郷に引っ越した。戦況の悪化に伴って、当時小学生だった兄弟(母と母の兄弟)は栃木県の那須塩原に学童疎開。昭和20年に入り、空襲のため本郷には住めなくなり、一旦、笄町に住まいを戻した後、程なくして本郷の家は焼失。この時祖父母は、祖母の実家がある札幌に一家で身を寄せることを決め、初めに祖母が幼児を含む親子3人で、続いて祖父が那須塩原に疎開していた子どもたち2人を引き取りながら札幌に向かった。札幌に着いた後、祖父は徴兵されたものの敗戦後に帰還。戦後、子どもたちは札幌の学校に通い、札幌で就職し、札幌で結婚し、札幌で子どもを産んだ。ということらしい。「東京は空襲が酷くなったからね、札幌に移ったのさ」と母は簡単にまとめてしまうけど、子どもたちを連れて東京から札幌の実家まで旅をした祖父母の苦労は想像すらできない。そして戦後、土地勘のない札幌で職を探し、家族の暮らしを何とか支えた祖父もさぞかし大変だったに違いない。戦争がなかったら、せめてもっと早く終わっていたなら、こんな思いはしなくても良かったのに…。考えても仕方がないとはわかっていても、どうしてもそう思わずにはいられない。今の国際情勢もかなり酷い状態だと思うけど、これからは、国際政治の舞台を戦争を賢く避けながら渡り歩ける、駆け引き上手な賢いリーダーたちが世界中のあちこちに現れてほしい。優秀な政治家たちが、日々丁々発止のせめぎ合いをしながらも地球を戦禍から守ってくれますように。未来永劫、戦争を回避し続けてくれますように。この日はそんなことばかり願っていた。
August 3, 2024
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元寺小路(もとてらこうじ)元寺小路と聞くと、仙台駅の近くに昔からあるカトリック元寺小路教会が思い浮かぶ。今の建物は比較的新しいけど、1877年(明治10年)に開設された歴史のある教会だ。この教会が建っているかつての元寺小路は、市街地のかなり中心部を東西に延びていて、その中程を南北に走るJR線が分断している。このうちJR線の西側にあった元寺小路は、昭和45年2月1日の住居表示で、仙台市青葉区花京院一丁目、中央一〜二丁目、本町一〜二丁目という住所に変わっている。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕ここはいわゆる「本町家具の街」と呼ばれている仙台駅西側の「元寺小路」。突き当りにカトリック元寺小路教会の白い建物が見える。一方、線路の東側にある元寺小路は、平成27年の区画整理の町名地番変更を経て、今も住所として使われている。仙台駅東側の「元寺小路」。手前の公園には「X橋車町通元寺小路公園」という名前がついている。辻標「茂市ケ坂/元寺小路」には、町名の由来が次のように書いてあった。「元寺小路」・県庁や錦町公園、白百合学園(※)などがある段丘は、仙台城の鬼門(※)にあるので、定禅寺や満願寺などの寺が並んでいた。・この段丘下に沿った東三番丁から車町までが寺小路で、仙台八小路のひとつ。・寛永14年(※)頃、寺の一部が移され侍丁となると元寺小路と呼ばれた。・小路の名は寺町や侍丁につけられた。※白百合学園は移転し、跡地には東北電力本社ビルが建っている。※鬼門とは、北東の方角とのこと。※寛永14年は1637年。藩祖伊達政宗が没した翌年にあたる。かつての元寺小路あたりを歩いていたら、広瀬通と家具の街の間の公開空地のようなスペースに、案内板「元寺小路周辺地域の歴史」という案内板があり、とても詳しい解説があった。(以下抜粋)「寺小路はこの時代に城下北東段丘面の辺縁部、仙台城鬼門の守りとして伊達由来の社寺を配置し設けられた町である。開府時は西側の段丘辺縁には社寺及び中級藩士・同心等の侍町、東側には主に職人町が配置された。その後、寛永5年(1628年)に政宗晩年の居館若林城(古城=現宮城刑務所)が築かれ、これに伴い市街の東方への拡大(荒町、柳町の移転)が行われた。その後、寺小路東側にあった寺院が八ツ塚(新寺小路)に移転、市街東縁の守りとした。このため旧来の寺小路を元寺小路と呼ぶようになった。(以下略) 本町二丁目街づくり協議会 水野達夫」もともとは仙台城に災いが入ってこないようにお寺を並べた通りだから「寺小路」。後に若林城造営による城下町の拡大でお寺が移転したので「元寺小路」になった、ということらしい。今の道筋に当てはめると「元寺小路」は赤のラインになると思われる。
July 27, 2024
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ロサンゼルス国際空港(LAX)を午後5時に出発する羽田行きの飛行機(全日空NH125便)に乗った。以前はもっぱらロサンゼルスを昼頃出発し、翌日の夕方に成田に着く便に乗っていた。成田に夕方着けば、その日のうちに自宅に戻ってゆっくり眠れる。時差に弱い僕にはとてもありがたい時間設定だとずっと思っていたし、そもそもこれ以外の便があることを知らなかった。だけど今回、ロサンゼルスを夕方出て、次の日の夜9時頃に羽田に着く便があることを知り、乗ってみた。理由は、これならアメリカを発つ日の朝をゆっくり過ごせるかも…と思ったから。出発の日、僕は少し早起きしてスーツケースをざっくりまとめた後、今回お世話になったご夫婦に、家の近くの「IHOP」という名のパンケーキのお店に連れて行ってもらった。ご夫婦行きつけのお店らしく、中南米出身の陽気なスタッフとのジョークの応酬を、おそらく半分くらい理解しながら、ソーセージ&エッグのコンボ、そしてコーヒーという朝食を楽しんだ。色合い的にあんまり美味しそうに見えないかもしれないけど、これは僕の大好きな組み合わせ。とても美味しかった。そして昼頃、ご夫婦との別れを惜しみつつ、予約した時間ぴったりに迎えに来てくれたエアポートシャトルに乗り込み、ロサンゼルス国際空港に向かった。期待した通り、早朝からバタバタしなくて良かったし、空港に向かうフリーウェイの朝の渋滞に巻き込まれることもなかった。さらにありがたかったのは、機内で眠る努力をしなくても良かったこと。この日は羽田空港の近くに泊まることにしていたので、日本に着いたら“あとは寝るだけ”。だから残った体力を機内で使い果たしても全然平気。飛行中はむしろ「寝てしまったらもったいない」くらいの気持ちで10時間ずっと映画を観ていた。余談だが、4〜5本映画を観た中で、僕自身意外だったけど子供向けのミュージカル映画「アニー」が一番心に残った。(羽田への着陸に向けて降下を始めた頃の機内)日本の航空会社は機内に入った瞬間から日本に帰った感覚になれるので気分的に楽だった。ANAを選んで良かったと思った。円安のせいで日本の航空会社が割安になっているのだろう。行きも帰りも乗客の2/3くらいが外国人旅行者のように見えたけど、CAさんは日本語と英語を見事に使い分けながら落ち着いた接客をしていて、機内の空気は終始「日本」だった。飛行機は順調に飛び続け、羽田には予定よりも早く到着した。入国手続をさらっと終えた後、ホテル近くのコンビニでペットボトルのカフェオレを買って、チェックイン。朝までぐっすり眠った。
July 20, 2024
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表参道駅の近くから始まる「高樹町通り」。「骨董通り」とも呼ばれているこの通りを歩いた。路面電車(都電)が1967年(昭和42年)まで走っていたそうで、道幅は割と広い。表参道駅側からこの通りに入り西麻布側まで歩くと、突き当りの交差点の名前も「高樹町」となっていた。今の南青山6丁目あたりが昔の「赤坂青山高樹町」だったようだ。ここからは、母から聞いた話になる。裏取りは後回しにして取りあえず聞いたことを書き残そうと思う。母いわく…高樹町は、この町が「高木さま」というお殿様の町だったことの名残り。母の父(僕の祖父)は戦中、徴兵されるまで高木家のお屋敷で執事として働いていた。祖父の家は先祖代々、高木家にお仕えしていたらしい。高木邸は、三笠宮妃百合子様のご実家で、百合子様のお父様は高木正得(まさなり)子爵。高木家の敷地は広く、祖父がお仕えしていた頃は、そこから得る家賃収入も経済的な支えになっていたと聞いたことがある。祖父の家は高木邸に近い笄町(こうがいちょう。今の港区西麻布)にあり、母はそこで生まれた。母の話は概ねこのような内容だった。今回、この話をたどるつもりで「高樹町通り(骨董通り)」を歩いてみたが、通りの雰囲気は「南青山」以外の何物でもなく、母の話を思わせるものは見つからなかった。ただ、通りを一本入った根津美術館周辺には少し谷のように下がっているエリアがあって、そこには当時の面影と言っても良いような雰囲気が漂っていた。都内を歩いていると、幹線道路から1本横に入っただけで、懐かしい空気感に溢れる場所に入り込むことがかなり頻繁にある。東京という都市の奥深さを感じた気分になれて、いつもながら心地良かった。
July 13, 2024
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楽天イーグルスのホームゲームを1塁側のフィールドシートで観戦した。試合が始まると、このシートからは一塁ランナーとピッチャーのジリジリとする駆け引きが一直線。真後ろから見ることができたので、かなり興奮した。学生野球をしていた頃、僕は塁に出てからの動きがかなり下手で、牽制球でアウトにならないだけで精一杯。投手にプレッシャーをかけるなんてギャンブル過ぎてできなかった。だから、強豪校の試合や社会人野球があると、だいたいこんな感じの場所に座って、塁上の選手の動きをじっと見つめていた。野球はもうやっていないので学習する必要はないのだけど、何と言っても目の前にいるのはプロ野球選手。気持ちだけ昔に戻って最高レベルの離塁技術を堪能させていただいた。なかでも凄まじかったのは7回に代走で登場した楽天の小深田選手。二塁に向けてスタートを切るかのような仕草を何度もチラつかせては牽制球を呼び込み、投手の集中力を確実に削いでいった。それでいて、投手の警戒をものともせず二塁への盗塁を敢行。その後、やや平常心を失った投手の暴投で三塁へ進塁。併殺崩れの間に決勝点となるホームを踏んだ。試合後半から雨が強めに降ってきたのでカメラに残せなかったことが残念だったけど、投手を翻弄しまくった小深田選手の走塁は、この日の勝因と言っても良いくらい見事だった。(帰塁する楽天の岡島選手と西武のボー・タカハシ投手。一塁手は山村選手)どの走者もぎりぎりアウトにならない自分なりの離塁幅を持っていて、しかもその「ぎりぎりアウトにならない」タイミングは、毎回本当にぎりぎりで、それでいて慌てて帰塁する場面には試合を通して出会わなかった。プロって凄いなぁ…と改めて思い、現役の頃にこれを見ていたら僕ももう少し上手になれたかも…とも、今さらながら少し思った。
July 6, 2024
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本櫓丁(もとやぐらちょう)昭和45年の住居表示で消えた町名「本櫓丁」は、晩翠通(細横丁)を境に、西側(立町)と東側(国分町)に分かれている。ざっくり言うと、東側には仙台の歓楽街「国分町」があり、西側にはラブホテル街の雰囲気が漂う。「《本櫓丁》通り」の標柱は晩翠通の西側(立町側)に建っていた。標柱の近くにデリヘルの送迎と思しき車が何台か停まっていたので、車のナンバーとかドライバーさんが写り込まないように写真を撮るのがちょっと大変だったけど、声をかけられたりすることもなく無事終了。とはいえ、今はラブホテルが目立つ立町側も、かつては料亭の街だったようで、歩いてみると確かにその雰囲気は感じられた。「割烹 天ぷら 三太郎」「割烹大多安」仙台市のHPには、このあたりが料亭の多い町になったのは明治以降、と書かれている。「藩政時代に国分町との角に火見櫓があったので櫓町と呼んだが、その後定禅寺通(北櫓丁)、元鍛冶丁(中櫓丁)にも櫓が建ったので本櫓丁と称した。(中略)この櫓は元文三年(1738)勾当台に移った。元は侍丁であったが、一部には職人も住み、明治以降は料亭の多い町となった。」(仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」より)本櫓丁は、昭和45年2月1日の住居表示で、国分町二丁目と立町のそれぞれ一部になっている。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕夜の飲食店が並ぶ東側(国分町側)にも、芭蕉園という歴史を感じさせるお茶屋さんがあった。元禄元年(1688)の創業とのこと。本櫓丁の歴史を誇りに思う心が、どの店構えからも伝わってきた。かつての本櫓丁は赤いラインのあたり
June 29, 2024
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日曜日の朝、映画館に出かけて「ディア・ファミリー」を観た。主演は大泉洋さん。観ようと思ったきっかけも大泉洋さん。だけど、出演者全員がまるごと主演のような、平たく言うと「ワンチーム」。スクリーン上の一人ひとりから作品への強烈な思い入れがビシビシと伝わってくる映画だった。とにかく最初から最後まで、ただひたすら胸を打たれ続けて、何度も何度も涙腺が緩くなった。なかでも特筆したいのは、幼少期を演じた子役の皆さん。名前がわかるのは坪井佳美(よしみ)ちゃんを演じた鈴木結和(ゆうわ)ちゃんだけだけど、坪井三姉妹も、病院で佳美ちゃんと同室になった女の子も、誰もが一所懸命で、可愛くて、愛おしくて、素敵だった。結和ちゃんの静かでしっかり者の雰囲気は、福本莉子さんに丸ごと引き継がれていて、映画の中の坪井佳美さんは、ちっちゃい頃から最期まで、しっかりとひとりの佳美さんだった。大泉洋が演じた坪井宣政のモデルとなった社長さんは、きっとものすごく真っすぐで、相当強引で、強気な人だったのだろうな、と思った。世の中の役に立つものは、それを切実に、そして愚直に追い求め続けている人からしか生まれてこない。いくら頭が良くても、アドバイザーとかコンサルタントとか、そういう立ち位置からはリスクを取らない耳障りが良いだけの言葉しか出てこない。わかりきってることだけど、そんなことも改めて感じた。私事ながら、街なかで急に心臓が止まって救急車で運ばれた6年前の記憶が、映画を観ながらリアルに蘇った。搬送先で受けた手術は「経皮的冠動脈ステント留置術」。手首から入れたカテーテルで胸の冠動脈までステントを運び、そのステントをバルーンで膨らませて、詰まった血管を広げる手術だった。映画に出てくるカテーテルには鼓動があったので別ものだと思うけど、スクリーンから「心臓」、「カテーテル」、「バルーン」など、そういう言葉が聞こえる度に、当時、全力で僕の命を救ってくれた、たくさんの皆さんの姿が浮かんできた。その姿がまた、劇中の人たちの真摯な姿と重なって、さらに胸が熱くなった。封切り3日目の日曜の朝。通常料金の日だったせいか、映画館はそれほど混んでいなかった。ゆったり観られたのは良かったけれど、この映画はもっともっとたくさんの人に観てほしい。ものすごくそう思う映画だった。
June 22, 2024
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南カリフォルニアにあるサン・クレメンテ(San Clemente)という海沿いの小さな町に、3日間滞在した。青い空、青い海、スペインを思わせる白い壁と赤い屋根の家並み。旅行パンフで目にするカリフォルニアのイメージ写真そのままの景色に360°囲まれながら、穏やかな時間を過ごした。サン・クレメンテはロサンゼルスとサンディエゴの間にあって、どちらからもすごく遠いわけではない。だけど、毎日の通勤となると結構遠い。という立地なので、サン・クレメンテは退職後に暮らす町としてとても人気があるらしい。確かに、海岸や住宅地を散歩している人も、カフェやレストランで食事や会話を楽しんでいる人たちも、比較的年齢層が高めに見えた。そして白人の割合がかなり高い印象も受けた。さて…とここで思った。リタイヤ後に住みたい町、と言っても、今まで暮らしたことのない土地で暮らすことにアメリカの高齢者は不安を感じないのだろうか…?知ってる人のいない土地で暮らすことに抵抗はないのだろうか…?滞在中、この疑問を直接誰かにぶつけたりはしなかったけど、何気ない会話の中から一つの答えらしきものは見えてきた。それは、教会の存在。初めての土地に行っても、教会に行けば「仲間」がいて笑顔で迎え入れてくれる。日曜礼拝や聖書の勉強会など、教会の活動に顔を出していれば、次第に知り合いも増えてくる。だからアメリカの多くの人たちは、新しい土地に移り住むことにそれほど不安を感じないのではないか。ざっくりとそんな推測をしてみた。宗教は、人を孤立や孤独から守るためにはありがたいシステムなのかもしれない、という推測もしてみた。僕は教会には通っていない。でも、いろいろな町で暮らしてみたい願望はある。さて、どうしよう。。。
June 15, 2024
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2024年5月31日、東京国際フォーラムで「中島みゆきコンサート 歌会 Vol.1」を聴いた。(開演前のホワイエ。軽い飲食とか、みゆきさんへの「お便り」書きとか、皆さんそんな感じで過ごしていた)3月8日に中島みゆきさんの公式HPから5/8と5/31のコンサートに応募して、3月23日に「5/31公演に当選!」のメールが届いた。最終日の公演に当選…!!信じられなくてメールを何回か読み返したあと、じわじわと感激した。5月22日にチケット発券開始のメールが届き、ファミリーマートでチケットを受け取った。チケットに書かれていた僕の座席は、5千人収容の東京国際フォーラムホールAの2階席の最後列だった。2階席の最後列…!!!微妙に信じたくなくて、チケットを何回か見返したあとスポーツ観戦用の双眼鏡を探し出し、チケットと一緒の場所に置いた。だけど、東京国際フォーラムの2階席最後列は決して悪い席ではなかった。オペラグラスがあるに越したことはないが、強めの傾斜のある2階席からはステージが良く見渡せて、音もきれいに聴こえたし、ステージとの一体感もしっかりと感じられた。(コンサート会場「東京国際フォーラム ホールA」)この日、みゆきさんは、アンコール2曲を含め、19曲を歌ってくれた。長いツアーの最終日だったためだろうか、冒頭の2〜3曲、声が少し荒れていたが、本人もトークの中で冗談交じりに声の調子に触れたあと、すっかり復活。迫力の演奏とともに中島みゆきさんの力強い歌声が満席のホールに響いた。付け加えると、少し荒れ気味のみゆきさんの歌声にはソウルシンガーのような迫力があって、僕は痺れながら聴いていた。ステージの終盤、「先患い」(さきわずらい)という言い方を、みゆきさんはしたと思う。「先のことを心配して、今、この瞬間を疎かにしてしまうところが私(みゆきさん)にはあるけれど、明日何が起きるかなんて誰にもわからない。こうして皆さんの前に立って、歌っている《今》に心から感謝したい。」めちゃくちゃな超訳で申し訳ないけど、そんな趣旨のことを、みゆきさんは最後に話してくれた。コロナ禍の時、「音楽は不要不急」と決めつけられ、長い間ステージで歌うことができず、その間に長年頼りにしていたバンドマスターが亡くなってしまい、悩んだ末に4年ぶりのステージに立ったみゆきさん。力強い歌声も、歌詞も、そして相変わらず軽妙なトークも、どれもこれもググッと心に響いてきた。僕の人生、これまでその都度頑張ってきたつもりだけど、結果として平凡の一語に尽きる。それでも、みゆきさんはステージの上から暖かくて柔らかい光を当ててくれているように思えた。ほんわかと嬉しくて、有楽町駅前のでっかいホールの片隅で、中島みゆきさんから一生分のご褒美をもらえた気持ちになった。「みゆきさん最高。ありがとう」そう思いながら、ほぼ外国語しか聞こえてこないコロナ禍後の夜の銀座を、地下鉄駅までゆっくり歩いた。【当日のセットリスト】1.はじめまして2.歌うことが許されなければ3.倶に(ともに)4.病院童5.銀の龍の背に乗って6.店の名はライフ7.LADY JANE8.愛だけを残せ9.ミラージュ・ホテル10.百九番目の除夜の鐘11.紅い河12.命のリレー13.リトル・トーキョー14.慕情15.体温16.ひまわり“SUNWARD”17.心音18.野うさぎのように19.地上の星(終演後のエントランス)
June 8, 2024
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祖母の母校、北海道庁立札幌高校女学校の跡地に行ってみた。所在地は札幌市中央区北2条西11丁目。今は札幌市立大通高校になっていて、その敷地の一角に「北海道庁立札幌高等女学校」の碑があった。母によれば、祖母は南1条西2丁目、今の丸井今井大通館の場所にあった自宅から女学校まで、人力車に乗って通っていたらしい。「歩いてもすぐなのに」と母が言う通り、道のりにして1.7キロ。「すぐ」ではないにしても歩いて通える範囲ではある。『僕のおばあちゃんは、もしかすると良いところのお嬢さんだったのかな』と思った。そして、碑の隣に建つ説明板には次のように書かれていた。(抜粋)・北海道庁立札幌高等女学校は明治三十五年本道女子中等教育の嚆矢としてこの地に創設された・高潔・清楚・温雅・堅忍の校風に育てられた有為の人材は校庭の楡の大樹を母校の象徴・心の故郷としつつ家庭に社会に多大な貢献をなした(※嚆矢はコウシと読み、「ものごとの始まり」の意だそうです。)「家庭に社会に多大な貢献をなした」という書きっぷりに、戦前の教育思想っぽい雰囲気が感じられて面白い。おそらく明治時代に作られた北海道唯一の女学校には、全道から優秀な女学生が集まってきて、良妻賢母になるための教育を受けていたのだろうと思う。『いつもニコニコしていた優しいおばあちゃんは、もしかすると勉強がよくできる女の子だったのかな』とも思った。母に聞いても、おじさんに聞いても、祖母は自分のことを余り話さなかったそうで、実際のところはわからない。碑の建つ大通高校の敷地の東側には北海道大学の植物園が広がり、南側には国の合同庁舎や裁判所が並んでいる。昔から大通公園の北側は、賑やかな「すすきの」がある南側に比べると静かなエリアだったようだ。
June 1, 2024
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元柳町(もとやなぎまち)仙台の城下町が開かれた当初は、伊達政宗公に付き従ってきた商人や職人が置かれた御譜代町のひとつ「柳町」。その後、武士が増えたため、武家屋敷が並ぶ町となり、町名も「元柳町」となったとのこと。昭和3年に市電が開通し、線路を敷くために元柳町は道幅が広がりました。(市電は昭和51(1976)年3月末に廃止されています。)この写真では、通りの右側に西公園。西公園の奥が広瀬川。広瀬川を渡った先が仙台城内(青葉山)になります。広瀬川を見下ろす西公園の中に「立町/元柳町」と記された辻󠄀標が建っていました。今の広瀬通が立町、旧市電通りが元柳町ということになります。辻󠄀標は元柳町を次のように解説しています。「御譜代町で仙台開府当時大町以北片平丁の東裏におかれ、茶の税を免ぜられた。侍が多くなると寛永初年柳町は移され元柳町と改名、侍屋敷となった。のちには元櫓丁の西端も元柳町とよばれた。電車開設で道幅が広げられた。」(仙台市文化財パンフレット第23集「辻󠄀標のしおり」より)仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」も元柳町を次のように書いています。「仙台開府当時、柳町が置かれた西公園の東側の地を指す。寛永四・五年(1627-28)頃、荒町の移転と共に移された。」かつての元柳町は、今は青葉区大町二丁目、桜ヶ岡公園、立町の各一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)そして、「元柳町」という町名について、「地番入仙台市全図大正15年度最新版」という地図には「本柳町」と書かれているそうです。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕元柳町の範囲はだいたい赤いラインのあたりだと思います。T字路になっているのが不自然ですけど、Tの縦棒にあたる通りに、ここも元柳町であったことを示すサインが立っています。ちなみに西公園の説明板によると、明治8年(1875)に公園になる前は、仙台藩重臣 伊達藤五郎、古内左近介、大内縫殿(ぬい)のお屋敷だったそうです。西公園の広瀬川沿いには「常盤木学園発祥の地」という碑もありました。公園の中のこの場所は、当時「元柳町68番地」という住所だったそうです。昭和3年に設立された後、昭和20年7月10日の空襲で消失し、戦後、小田原金剛院丁に移転。今も私立の女子高としてこの地にあります。(高校女子サッカーの強豪校です。)
May 25, 2024
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「おばあちゃんの実家は大通公園のすぐ前にあってさ。三越から南1条を丸井の方に行ったところにね…」この話を、僕は母から度々聞いていた。母は少し自慢げにこの話をするのだけど、ファミリーヒストリーには特に興味を覚えることもなく、ずっと聞き流していた。だけど、先日、①その実家が「市村染物店」という名前であったこと。②場所は丸井本館の隣であったこと。③祖母はそこから庁立札幌高等女学校まで人力車で通っていたこと。と、話が少し具体的になったので、今度札幌に行ったらそこに行ってみようかな、と思った。そしてこの度、行ってみた。事前に札幌市中央図書館デジタルライブラリーのウェブサイトで古地図(明治43年9月10日発行「札幌区商工新地図」)を眺めてみると、母が話した場所に「市村染舗」の名前を見つけた。そして隣には今井洋物店と今井呉服店(今の丸井今井)があった。ここに違いない、と思い、現地に向かった。その場所は大通公園のテレビ塔に近く、今は丸井今井の大通館が建っていた。古地図によれば、大通館の東側の通りに面した場所が「市村染舗」だった。何か昔の名残はないだろうか…と、大通館をぐるっと回ってみたら、大通公園側にこんなサインを見つけた。「小説家・竹林無想庵生誕地」を示す説明板。あまり期待はしていなかったけど、市村染舗がかつてここにあったことを示すものは、やはりどこにも見当たらなかった。だけど今回、札幌に暮らすおじさん(母の弟)からも、母の話と同じ内容を聞けた。だから、この場所に祖母の実家があったことは間違いないのだろうと思う。そしてこれが、明治43年9月10日に発行された「札幌区商工新地図」の一部。市村染舗の字の上に屋号も書いてある。(札幌市中央図書館デジタルライブラリーより)今のところ、この地図と、母とおじさんの話以外に、市村染舗、あるいは市村染物店があったことを示すものは見つかっていない。だけど、いつもと違う目線で大通を歩くことができた。楽しかった。
May 18, 2024
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(写真:ロサンゼルス国際空港Bターミナルの2階)小さな失敗を書き残しておくことにした…LAX(ロサンゼルス国際空港)に着いて、手荷物検査を通過すると、搭乗口に向かう途中にお土産やさんやブランドショップが並んでいた。今回は滞在中、お土産を一つも買っていなかったので、ありきたりのもので申し訳ないとは思いつつ、チョコレートなどをいくつか買った。支払いにはいつものようにクレジットカードを使った。だけどこの時は、端末操作の最後に「ドルと円、どちらで支払いますか?」という選択があり、店員さんが円払いを勧めているように感じたので「円」での決済を選んだ。支払いが完了し、レシートと商品を受け取り、買い物は無事終了。。。。。だったのだけど、「円」の選択は失敗だったと後で気がついた。次の店でドル払いした時のレートが154.766円/ドルこの店で円払いした時のレートが162.081円/ドル1ドル154円という円安ぶりにも正直びっくりだけど、免税店でドルを円に替えるレートよりは全然有利だった。知らなかったとは言え、そもそもドル払いに何の不都合もないことをわかっていながら、「円払い」にタッチした自分にじわじわとがっかりした。次回はちゃんと「ドル払い」にタッチしようと思った。
May 11, 2024
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浜田マハさんの小説集「黒い絵」の帯にはこんな言葉が…・禁断の書・アートの世界の闇にうごめく秘め事とは?・衝撃の小説集・禁じられた遊び、爛れたエロス、閃く殺意…。・アートの暗部を炙り出す、禁断の小説集帯を読んだだけでも怪しさが伝わってくるこの小説集には6篇の短編が綴られていて、その1番目に「深海魚 Secret Sanctuary」が収録されている。巻末を見ると、「深海魚」の初出は小説現代2008年5月号と記されているから、2006年に作家としてデビューした浜田マハさんの初期の作品、ということになる。「深海魚」の主人公は、学校でイジメにあって、ほぼ引きこもりになっている女子高生、真央。年齢を重ねた僕がこの女子高生と重なる部分など何もないはずなのだけど、読み始めてほどなく、どうしようもないくらいに僕の気持ちは真央に入り込んでしまった。そのあと、おそらく一週間くらい、僕の心はずっと落ち着きを失っていた。僕自身、それなりに長く人間の群れの中で生きてきて、その群れの中で少なからず嫌な思いもしてきた。だから、小中学生だった頃に経験した嫌な出来事など思い出すこともなくなっていたけれど、「深海魚」を読みながら、子どもの頃の一時期、クラスでイジメのターゲットになっていた記憶が脳みその奥底から引きずり出されてきた。当たり前だけど、イジメの標的になるというのは、ひどく不快で憂鬱な体験だった。だけど、その時の僕は、親や教師を含めて誰にも被害を伝えようとは思わず、相手への抗議もせず、周りに助けを求めもせず、ただ僕の頭の中に、僕だけしか入れない秘密基地を作っていた。「秘密基地」には、僕にしか見えない"お友達"もいて、その"お友達"はいつでも僕と仲良く遊んでくれた。「僕の本当の気持ちは僕だけのもの、誰にも教えてあげない。」そんなことも思いながら、周りに何かを期待することもしなかった。僕がターゲットになった理由は今も良くわからないけど、雰囲気的に僕はイジメやすい存在だったのかもしれない。あるいは、反応が薄い僕の態度を見て、あいつらはムキになったのかもしれない。真央にとって、真央の心の置き場所は「深海」のような場所だった。「深海」は、忘れたと思っていたけど本当は忘れたつもりになっていただけだった僕の記憶を蘇らせてくれた。僕の中にあった「秘密基地」のことを、ある意味愛おしいような懐かしいような、そんな気持ちと共に思い出させてくれた。短くて、だけど強烈に印象的な小説だった。
May 4, 2024
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ロサンゼルス国際空港(LAX)では、アメリカの航空会社以外はほぼターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)から発着している。そのうえ、発着便が集中する時間帯もあるようなので、余裕をみて早めに滞在先を出発し、空港に向かった。幸いフリーウェイの渋滞はほとんどなく、搭乗時間の4時間くらい前に空港に着いた。ターミナルBに入り、まずはスーツケースを預けてしまおうと、航空会社(ANA)のカウンターに行ってみると「出発の3時間前に窓口は開きます」との表示があって、スタッフの姿はなかった。「あと1時間か…」と、つぶやきながら少しぶらついてみたが、搭乗手続きのフロアには飲食する場所やトラベルグッズのお店くらいしかない。ここで何もせずに時間を潰すのももったいないので、帰国便もスーツケースを機内に持ち込むことにした。小さなスーツケースでの旅は、こういう時に楽だ。だけど、預けるつもりだったスーツケースにペットボトルの水を入れていたことを忘れていたので手荷物検査で引っ掛かり、ペットボトルは未開封のまま没収された。反省…。出国手続きを終えて搭乗口のあるフロアに入ると、ブランドショップやお土産のお店などが並んでいた。とはいえ、どのお店も品揃えは豊富とは言えない。気の利いたお土産が買いたいなら、空港に来る前に買うのが正解だと思った。ここで僕は、免税店でお土産のチョコレートをいくつか買った。それから搭乗口に向かう途中で、蒸しパンのような大きなパンと、野菜ジュースのようなソフトドリンクも買った。搭乗口の近くに座って、パンを食べたり荷物の入れ替えをしながら搭乗までの時間を過ごした。不慣れなアメリカひとり旅も、あとは飛行機に乗るだけ。しかも飛行機は日本のANA。そう思うと、僕の心は一気にゆるゆるになり、至福の時間になった。意外なことに、アメリカからの出国に際して、LAX空港に着いてから飛行機に搭乗するまでパスポートを一度も使わなかった。特に搭乗口では、チケットも使わず、顔認証でゲートが開いた。(念のためパスポートとチケットを手に持っているようには促されたものの、使うことはなかった。)こんなに簡素化しても乗客の誤進入や悪意のある侵入を防げているのだからすごい、とひたすら感心しながら機内に向かった。
April 27, 2024
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柳町(やなぎまち)仙台藩祖・伊達政宗公と共に仙台に移り住み、代々伊達家に仕えてきた商人や職人の町。いわゆる政宗公お抱えの、由緒ある商人や職人が住む町は「御譜代町」と呼ばれ、柳町は、仙台城下に6つある御譜代町のひとつでした。かつて柳町だったエリアは、今、仙台市青葉区一番町一丁目、片平二丁目のそれぞれ一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕柳町の東端には大日如来があり、境内に辻󠄀標「柳町/教楽院丁」が建っていました。辻󠄀標では「柳町」を次のように解説しています。「伊達氏の御譜代町で茶の税が免除され、裏には茶畑があったという。初めは元柳町に置かれ、寛永初年南町と北目町の間に移され奥州街道筋となった。商人と御職人の町で田善銅壺屋は最も古い店の例である。」(辻󠄀標10番。昭和53年設置。設置場所:大日如来境内)そして、辻󠄀標が建つ大日如来の説明板には、御譜代町の説明がありました。「仙台の大町、立町、肴町、南町、柳町、荒町の6ケ町は伊達政宗公に従って、米沢から岩出山、仙台と移ってきた町人町で、昔は御譜代町と称した。柳町は初め元柳町の地に置かれ、寛永の初めころここに移って今柳町と称した。」辻󠄀標に記されている「田善銅壺屋」は今も「タゼン」として柳町にありました。「タゼンの初代善蔵は、慶長元年、伊達政宗公により御飾職(銅の彫金工)として大阪は田中の在から召し抱えられました。仙台の町づくり、仙臺城築城に際しての功労により柳町(現一番町一丁目)に住まいを賜りました。それ以降当社は〝昔からの銅屋〟としてこの地にて創業を続けております。」(タゼンHP「会社概要」より)かつての柳町は、広い道路(五ッ橋通)で分断され、仙台駅側の柳町には今も商人の町の雰囲気が漂い、一方、広瀬川に近い側を歩くと、学都っぽい静かな雰囲気が漂っていました。横切っている広い道路が五ッ橋通。奥には再び柳町があり、突き当りには広瀬川が流れています。かつての柳町は、概ね赤いラインの範囲。地図上で「片平二丁目」とある一角には東北大学の研究施設が並んでいます。
April 20, 2024
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ロサンゼルスは車社会。だからロサンゼルス国際空港からはレンタカーで移動するのが一番便利、と言われている。だけど、自分がアメリカで車を運転していたのは20年以上も昔のこと。この国の交通ルールにすぐには順応できないことも自覚しているし、道路を逆走しない自信もない。なのでレンタカーは諦めよう、と決めた。かと言って、今回は現地の知り合いに送迎を頼めない。一方でUberのような身元が良くわからない人の車に乗るのも不安。ということで、今回は現地の知人の勧めでカーメル・シャトル・サービス(Karmel Shuttle Service)という会社に、空港から目的地までの往復を頼んでみた。使ってみて感じたメリットは、①空港から乗り場までの移動が不要で、ターミナルを出てすぐに車に乗れたこと。(ターミナルに車を直付けするライセンスを持っているらしい)。②乗り合いではないので、どこにも寄らずに目的地まで運んでくれたこと。③予約時にチップを込みでカード払いしていたので、ドライバーさんとのお金のやり取りが一切なかったこと。④ドライバーさんの身なりも振る舞いもしっかりしていて、到着まで不安を感じずに乗っていられたこと。予約にあたり少し迷ったことは、費用。今回はフリーウェイを1時間以上走る遠い場所が目的地だったこともあり、チップを入れて運賃が片道だいたい300ドル。円安なので日本円で約45,000円。日本の旅行会社で送迎を手配するよりは安いとは思ったが、正直、少し高いかなと思い、迷った。結局、「安全をお金で買おう」と割り切って予約を入れた。次回に向けて対策が必要、と思ったのが、空港に着いてから車に乗るまでのドライバーさんとのやり取り。本来であれは、飛行機の到着と同時に会社からショートメールが届き、そのリンク先に出発準備が整ったことを入力すると、ドライバーさんからショートメールで合流場所が知らされる、という簡単な仕組み。だけど、アメリカ以外のスマホにはこのリンク先が届かないらしい…ということに、LAXに着いてから気がついた。事前のメールに「リンク先が届かない時は、この電話番号にショートメールを送るか、電話を」とあったので、今度はショートメールを送ってみたが、アメリカの電話番号への送り方が良くわからず、送信は失敗した。仕方がないので勇気を出してシャトルの会社に電話をかけて「空港にいるがリンクが届かない」旨を懸命に話したら、「あなたの電話番号はわかっているから、ドライバーから電話します」と言われて終了。しかし、5分くらい待っても電話は鳴らず、「このまま空港に放置されてしまうのでは」と、勝手に不安に陥った。今にして思えば、電話で言われた通りドライバーさんからの電話をおとなしく待っていれば良かったのだけど、この時の僕は目の前の不安に勝てず、空港のインフォメーションデスクのおじさまに状況を伝え助けを求めていたところ、待望の電話がかかってきた。「ターミナルの出口(B6)に車が行く」と告げられ、僕の服装の色を聞かれた。B6と書かれた柱の下に立っていたら、無事、僕を目指して1台の車がやってきた。ドライバーさんと予約名と目的地を確認した後、全身の力が抜けるほどホッとした。十分な語学力があれば何の問題もなかったと思うが、そうではない僕には電話での会話は厳しかった。武勇伝をみやげ話にするために海外に行ったわけではないし、テンパってる僕の姿はかなり傍目に見ても滑稽だったに違いないので、次回はもっと爽やかに送迎の車に乗り込める人になりたい、と思った。
April 13, 2024
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1945年に広島と長崎に投下された原子爆弾を開発した、理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの物語。ユダヤ人への虐殺を続けるナチス・ドイツを倒すために原爆の開発を急いだオッペンハイマー。だけど、実用化に向けた最終段階で、ドイツは降伏。日の目を見ることはなくなった、と思われた原爆はアメリカの政権によって目標が変えられ、未だ敗北を受け入れずに抵抗を続けていた日本の地方都市に落とされた。原爆の投下は、広島と長崎に暮らすたくさんの市民に、余りにも悲惨な事態をもたらした。原爆が完成した時には、仲間と共に喜びに浸っていたオッペンハイマーの心は、原爆が実際に大量殺戮兵器として使われて以降、勝利に酔いしれるアメリカの民衆から離れ、孤立を深め、病んでいった…。…という映画を観ながら、「国家が敗北を認めるきっかけ」について考えていた。この映画を観ても、日本がドイツより早く降伏していれば広島と長崎に原爆が落ちることはなかったのに、と残念に思わずにはいられなかった。自分の知識が正しければ、ドイツが降伏するよりずっと前から日本の敗北は決定的だったのだからなおさら…。だけど、当時の日本は、今のロシアがおそらくそうであるように、「国民は国のためにある」と政権中枢が考えている国家だったから、国民が何万人、何十万人、何百万人殺されようと、戦争の首謀者たちが降伏を考えるきっかけにはならなかったのだろうと思う。もしも「国民のために国がある」と考える人たちだったなら、戦争を辞める理由はいくらでも見つかったに違いないけれど、当時の日本には、一億総玉砕をスローガンに掲げるような軍事政権が居座っていた。アメリカの人たちはおそらく今でも、原爆の投下が戦争の終結を早めた、と思っていて、それは当時の日本を覆っていた狂気に鑑みると、間違いとは言えないと思う。ただそれは、どうしても原爆でなければならなかったのか。たまたまそこにあった原爆を使っただけなのか…。繰り返しになるが、戦争を終わらせる方法は本当に原爆しかなかったのか。このことについては、やはり今の世界の状況も見ながらしっかりと考えなければいけない。今、ストーカーのようにウクライナに復縁を迫るロシアの大統領に、何をどうすれば行動を改めさせることができるのか。攻撃の手を休めると国が消滅すると、強迫観念に支配されているイスラエルの政権に、何をどうすればガザでの争いを終わらせることができるのか。それがわからないからみんな苦しんでいるんだよ、ということなのだけど、やっぱりちゃんと考えなければいけない、とこの映画を観て強く思った。
April 6, 2024
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成田空港を午後5時に出発した飛行機は、日付変更線を越えて、当日の午前10時50分頃、ロサンゼルス国際空港(LAX)に着いた。手荷物を持って、乗客の流れに乗ってしばらく歩いたら、入国審査のエリアに入り、ここで、アメリカ国籍を持つ人たちと、外国人の流れが分かれた。ターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)にはアメリカ以外の航空会社が発着しているので、外国人の乗客が圧倒的に多く、外国人用窓口の列は長かった。ちなみに空港のスタッフが「Visa! ESTA!」と大きな声で繰り返しながら、僕たち外国人を「Non US Citizen」の列に誘導していたので、間違って進むことはなかった。長い審査待ちの列に立っていると「ロサンゼルスへようこそ!入国管理エリアは撮影禁止なので気をつけてね!」という趣旨のアナウンスが何度も流れた。列の長さを写真に残しておきたいな、と幾度か思ったけど、見つかって入国できなくなったら大変なので我慢した。おそらく1時間くらいゆるゆると列が進んだ後、ようやく列の先頭までたどり着き、審査の窓口に呼ばれた。審査に必要な書類はパスポートだけ。ただ、事前にネットで調べたら、外国人の入国管理が近年厳しくなっている、との記載もあったので、①事前に申請していたESTAのコピー、②滞在先の住所、③帰りの飛行機のeチケットのコピーをパスポートと一緒に持って係員の前に立った。(結局使わなかったけど…)係員にパスポートを渡した後、顔写真を撮影。次に両手の指紋を機械で確認。どちらも指示される通りにやれば良く、ここまでは何もしゃべる必要はなかった。(ちなみにここで撮った写真が出国時の顔認証で使われたと思う。帰国便への搭乗が"顔パス"だったのでびっくりした。)その後、係員から4つの質問があった。①どこに行くの?②そこで何をするの?③何日いるの?④帰りのチケットは持ってる?どれも想定内だったので手短に答えたら、「はい、入国していいですよ」と言われ、パスポートが戻された。久しぶりのアメリカだったので前回の記憶があまりないけど、今回はとてもシンプルに終わったように思う。ESTAが導入されたおかげかもしれない、と思いながら預入手荷物を受け取る場所を通り、外に向かった。入国審査のエリアが薄暗かったこともあり、一瞬眼の前が真っ白になるくらい南カリフォルニアの景色は眩しかった。
March 30, 2024
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皇居の大手門のすぐ近くに建つ大手町パークビルディング(千代田区大手町1丁目1-1)脇の舗道に「旧内務省跡」と書かれた千代田区の案内板があリました。内務省とは、ざっくり言って、今の総務省だと思います。江戸時代には譜代大名、播磨姫路藩主 酒井家の屋敷があったこの場所に、明治6年(1873)から昭和8年(1933)まで内務省が置かれていたとのこと。大手町のすぐ隣、丸の内一帯が三菱社に払い下げられたのが明治23年(1890)。それ以前の丸の内は、陸軍が所有する事実上の荒地だったそうなので、三菱社が丸の内の開発に着手するまでの約20年間、内務省の人たちは広大な荒地を横目に仕事をしていたものと思われます。案内板の地図を見ると、まだまだ空き地が目立つ中にも、洋風の建物が建ち始めた明治30年代の丸の内の様子が描かれていました。(赤い丸が旧内務省跡)〔明治30年代の大手町周辺「東京一目新図」武部瀧三郎、1897年、千代田区教育委員会蔵〕(部分)今はビジネス街として一体感のある丸の内と大手町。当時は堀を挟んで大手町が官庁街、丸の内は空き地。それが官庁街と洋風のオフィス街の対比に変わったのはもう少し後。全体がビジネス街に変わったのは更にずっと後のことのようです。
March 23, 2024
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柳町通(やなぎまちどおり)「柳町通」というかつての町名は、今、仙台市青葉区一番町一丁目、中央一・四丁目の各一部(昭和45年2月1日住居表示)、宮城野区榴岡一丁目の一部(昭和63年7月4日住居表示)になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕仙台藩の由緒ある商人の町だった「柳町」に向かう通りだから「柳町通」。仙台駅の西側にある柳町の東端を起点に、仙台駅の反対側(東側)まで続く長い町だったようです。「東七番丁/柳町通」と書かれた辻󠄀標は、柳町から東に歩いて、JR仙台駅の建物とか線路を越えた先、仙台駅東口のヨドバシカメラ東南角に建っていました。(辻󠄀標52番。昭和61年設置。設置場所:仙台鉄道郵便局前)※「仙台鉄道郵便局」は今のヨドバシカメラの場所にあったのだろうと思います。「辻󠄀標のしおり」では「柳町通」を次の通り解説しています。「柳町に通ずる通りで、藩政時代初期は柳町東端からここまでで、寛文期までに東の孝勝寺前へ延び、孝勝寺通とも別称した。明治二十年の鉄道開通で東五、七番丁間がほぼ失われて東西に分断、西部は宮城学院や東北学院、病院、官庁などがつくられ、東部は昭和四十八年以降の再開発で商業地区となった。」※「ここ」とは、辻󠄀標の場所(ヨドバシカメラ南東角)。※「東北学院」の跡地には今、ウエスティンホテルが建っています。※「宮城学院」の跡地には仙台国際ホテルが建っています。もう一つ、仙台市のウェブサイトには柳町通についてのこんな説明も。「柳町大日堂前から、六道の辻󠄀を過ぎ、八塚孝勝寺下馬先まで通っていた通を称す。別に孝勝寺通とも呼ばれた。」(仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」より)ちなみに、孝勝寺まで歩いて、山門をくぐってから振り返ると、柳町通がヨドバシカメラに突き当たって、そこで終わっているように見えました。近づいてみると、交差点で道筋が折れていました。これが通りがここで終わっているように見えた理由。仙台城を起点とする町割りと、若林城を起点とする町割りの角度が一致していないことが、この角度の原因のようです。交差点から先(仙台駅方向)が仙台城下の町割り、手前(孝勝寺方面)が若林城下の町割りになっています。地図で見ると、柳町通はだいたい赤いラインの範囲。明治20年の鉄道開通によって、通りが分断されたことがこの地図から良くわかる…。ということは、戦後の区画整理は藩政時代の町割りをある程度残しているのだと思います。
March 16, 2024
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東京駅と皇居の間に位置するオフィス街、丸の内。今も昔も大企業だらけのビジネス街ですけど、今のような雰囲気になったのは、明治維新からしばらく経った、大正時代以降のことだそうです。そのきっかけは、資金捻出に苦心していた政府に協力するため、明治23年に三菱社が一帯の土地を高値で買い取り、荒れ地の開発に着手したこと。大正3年に東京駅ができ、第一次世界大戦の好景気を追い風に、日本を代表するオフィス街へと成長した、という経過らしいです。千代田区町名由来板「丸の内」には次のような解説がありました。「江戸時代のこの界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。 明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周囲は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。(中略) この丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以降、三菱は大規模な開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。(中略)さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。(後略)」それでは、なぜ陸軍は三菱社にこの土地を払い下げたのか。。。三菱グループのHPでは次のように説明しています。「(岩崎)久彌が米国留学を終えて三菱社の副社長になる前年、彌之助は丸の内の兵営跡地など10万余坪を陸軍省から購入した。1890(明治23)年のことである。この土地払い下げは、財源に苦しむ政府が、麻布に新兵舎を建設するための費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格は相場の数倍だった。当然買い手がつかない。困り果てた松方正義蔵相が自ら彌之助を訪ねてきて、政府を救うと思って買い取るよう懇請した。国家に尽くすことは三菱の社是である。彌之助は苦慮した末に、高値購入を決断した。契約名義は「岩崎久彌総理代人岩崎彌之助」。(後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取った)。代金は128万円。当時の東京市の予算の3倍というから大変な買い物だった。(中略)東海道線はまだ新橋まで、中央線は御茶ノ水までで、丸の内はまことに不便な地域だった。唯一、日比谷・大手町間に路面電車が走っていた。(中略)東京駅が完成し丸の内が交通の要所になったのは、ずっと後の大正3年である。(中略)ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれるようになった。(中略)煉瓦造りではない現在のようなアメリカ型のビルは、大正7年の東京海上ビルが嚆矢(こうし)である。丸ビルは同12年だった。(後略)」「丸の内」は、そこにオフィスを構える企業にとっても、そこで働く人たちにとっても、おそらく大きなステータス。長年にわたって万人にそう思わせる圧倒的なビジネス街の基礎を築いた岩崎家の財力と、その姿を常に新しく維持し続けている三菱地所の想像力と創造力に、改めて感服しました。
March 9, 2024
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2年前、「52ヘルツのクジラたち」を本で読んだ時の感動を、僕はこんな感じで書いていた。本の感想(2021年5月に書いたもの)はコチラ今日は映画を観てきた。他人の心の痛みがわかる人は、自分も傷ついた(傷つけられた)過去を持つ人。100パーセントそうではないかもしれないけど、同じ傷を持つ人にしかわからないこと、同じ傷を持つ人だけが気づけることは、間違いなくあると思う。52ヘルツの音で鳴くクジラがいて、そのクジラの鳴き声は、周波数が高すぎてほかのクジラには聞こえない。どんなに叫んでも、大半のクジラたちにその声は届かない。でも、同じ周波数で鳴くクジラにだけはその声が届く。見方によっては、肩を寄せて傷を舐め合っている52ヘルツのクジラたち。連勝街道まっしぐらの人ならば、情けない奴ら、とあざ笑いながら、あるいは見向きもせずに通り過ぎるに違いない。だけど、一生負けなしで連勝街道まっしぐらの人は、きっといない。そして、いわゆる普通でノーマルな人にだって、誰にも理解されなくて苦しんでいたり、理解してもらうことを諦めていたりする部分はきっとある。そんなことを考えながらスクリーンを見つめていた。良い映画でした。観て良かった。杉咲花さん、志尊淳さん、桑名桃李くん、そのほかの皆さんも、みんな素晴らしい演技で、しみじみと感動しました。
March 3, 2024
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弓ノ町(ゆみのまち)仙台の中心部から江戸方面に向かうこのあたりは、仙台空襲(昭和20年)の被害を逃れ、道筋も、町の形も、昔のまま残っています。戦後、全国的に行われた住居表示も、この町では行われていないので、今も「仙台市若林区弓ノ町」として、地番が住所として使われています。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕この道の両側が弓ノ町。懐かしい店構えの八百屋さんもあって、突き当りには泰心院の山門が見えました。泰心院と弓ノ町の間には奥州街道が横切っています。弓職人の町だったから「弓ノ町」なのかな…と思ったら、違いました。「寛永10年(1633)頃までに割り出され、弓足軽組の屋敷があった。慶長10年(1605)創建された大安寺には、弓足軽たちの信仰を集めた御弓八幡大菩薩の碑が残っている」〔仙台市HP「町名に見る城下町」より〕弓を使う足軽が住んでいた町だから弓ノ町、なのだそうです。仙台の城下町では、武家の町を「丁」、町人の町を「町」としていると聞いていたので、おやっ?と思ったけど、足軽の町にも「町」が使われていたようです。〔参考:仙台市文化財パンフレット第23集(1990年)「辻󠄀標のしおり」〕勉強になりました。大安寺は、小さな弓ノ町の中にあって、かなり大きなお寺でした。(しかし、御弓八幡大菩薩は見つけられず…)弓ノ町の通りの突き当りに見える泰心院の山門。泰心院は、隣町(南鍛冶町)に建つお寺だし、寺と弓ノ町の間には奥州街道が横切ってるし、そういう意味では縁は薄いのかもしれないけど、この見え方には門前町の雰囲気もあって、もしかすると、大安寺と泰心院のどちらにも、弓ノ町は御縁を持っていたのではないか、と感じる風景でした。
March 2, 2024
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澱町(よどみまち)広瀬川に架かる澱橋の向こう側が、かつての澱町。澱橋が架かる町なので、「澱町」と呼ばれたようです。かつての澱町は今、仙台市青葉区角五郎一丁目(昭和42年11月1日住居表示)と、広瀬町(昭和45年2月1日住居表示)という町の、それぞれ一部になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕澱橋を渡った先の左側が角五郎一丁目、右側が広瀬町。全国的に住居表示がほぼ街区方式で行われたので、ここでも道路を境に町名が分かれています。角五郎一丁目側には、澱橋の下に回り込むように、交通量の割にかなり広いT字路がありました。この道について、こんな趣旨の記載を見つけました。"広いT字路交差点。旧澱橋があった頃は橋とつながる十字路だった。昔の澱橋は明治22年の洪水で流失。川内の軍関係施設と市街地を結ぶ強固な橋を築造することになり、明治25年、鉄橋(旧澱橋)に架け替えられ、この交差点も幅広に。昭和36年にやや東側に架け替えが行われ(今の澱橋)、やがて鉄橋は姿を消し、十字路はT字路に変わった。"〔せんだい市史通信第28号(仙台市博物館市史編さん室・平成24年7月31日発行)より〕なるほど…T字路のガードレール(写真の右端)の先に鉄橋(旧澱橋)があって、元々は広い十字路だったのですね。明治25年から昭和36年まで使われた旧澱橋の跡は、今もこのT字路の先、澱橋の隣に残っています。(対岸にも同じような痕跡があります。この画像では見えにくいですけど…)広瀬川沿いの旧澱町。正面奥で澱橋をくぐっています。旧澱町の通り沿いに建つ「澱不動尊」澱町はだいたいこの赤いラインの範囲だと思います。先ほどのT字路には「中島丁/角五郎丁」の辻󠄀標が建っていたので、角五郎一丁目側の澱町は橋の西側のほんのわずか。このT字路までだったのだろうと思います。
February 17, 2024
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良覚院丁(りょうがくいんちょう)かつて良覚院というお寺があったから「良覚院丁」。今は仙台市青葉区一番町二丁目、大町一・二丁目、片平一丁目の一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕この公園は良覚院の庭園を残すために作られたそうです。公園の東隣は「緑水庵」という茶室。ここにも良覚院の庭園が残されています。公園から少し離れた青葉通の晩翠草堂前には「良覚院丁/元荒町」と記された辻󠄀標が建っていました。(辻󠄀標19番。昭和54年設置)良覚院丁は広い町だったようです。辻󠄀標の資料には、良覚院丁について次のように書いてあります。「本山修験東北一の大先達良覚院の北と西をT字に囲む通りであった。良覚院は政宗以来仙台以北を霞としたが、明治初年修験宗は禁止され実業家佐助が保存して市に寄附した庭園(良覚院丁公園)に名残をとどめている。北側の通りは青葉通に吸収された。」※「霞とした」とは、仏教の修験道で、山伏たちの支配地域のことのようです。そして、公園の説明板にはこのように書いてありました。「良覚院丁は、昔、京都の聖護院の末寺で良覚院という修験の寺があったことに始まる。良覚院の始祖、日林は修験者であって、伊達家の祖、朝宗(正治元年、1199年没)に従って常陸国中村(茨城県)から伊達郡(福島県)に移り、以来、世々伊達家に仕え祈祷の事をつかさどってきた。その後、政宗が岩出山から仙台に居を移した慶長7年(1602年)一緒に従ってきた良覚院の修験者がこの地を賜ったのである。この修験寺は、藩政時代藩内の修験の元締めとして、政治や軍事、事業あるいは日常の吉凶運勢について祈祷をした場所であり、代々伊達家の信頼が厚く一門格の待遇を与えられ、領内山伏の総触れ(連絡や伝達を図る役)として当時は威勢をふるっていたという。明治5年修験道の廃止で廃業」「仙台市の復興事業により、この由緒ある庭園が南北に分断される形で区画街路が計画されたが、地主と市民の間から名園であるので残して欲しい旨の申し入れがあり、計画が変更され公園として残されることになった」伊達家の信頼が厚かったと…。なるほど。良覚院が仙台城にかなり近い場所に置かれた理由がわかったような気がします。そして、地図を見ると「五ッ橋通」が良覚院丁公園を避けるように、ちょっと不自然に曲がっている。これがおそらく、戦災復興事業の時の保存活動の成果なのでしょう。山伏のお寺がここに…勉強になりました。
February 11, 2024
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地下鉄南北線五橋駅から仙台一高や薬師堂に向かって東に延びるこの通りが、かつての連坊小路(れんぼうこうじ)。通りの左側(南側)は戦災を免れたのでしょうか、住所は今も「連坊小路○番地」となっていて、住居表示は行われていません。とはいえ、通り沿いの多くでは昭和50年代に住居表示が行われ、今は仙台市若林区五橋三丁目、新寺三・四丁目、連坊一・二丁目、二軒茶屋(以上昭和57年7月5日住居表示)、木ノ下一丁目(昭和50年5月1日住居表示)という住所になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕地下鉄連坊駅と仙台一高の近くに「連坊小路/長泉寺横丁」と書かれた辻󠄀標もありました。(辻󠄀標35番。昭和58年設置。設置場所:かつてのモリヤ洋菓子店前)今の住所は連坊二丁目、ですね。辻󠄀標の資料には、連坊小路についてこんな記載が…「陸奥国分寺二十四坊のあった木ノ下に通ずるため、この名を持つ。開府の後、足軽町とされ、背後に寺院が置かれた。明治二十年、鉄道が町を横切り、その後、一高・二女高が建った。表通りの商店街も戦災を逃れて活気を増し、近年は道路拡幅が進められて、次第に様相を変えつつある。」〔仙台市文化財パンフレット第23集(1990年)より〕確かに、鉄道(JR東北本線と東北新幹線)が東西に延びる通りを南北に横切っていました。東北本線を跨ぎ、新幹線を潜っているのは「連坊小路跨線橋」そして、仙台市のウェブサイト「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」には連坊小路についてこんな記載が…「東七番丁角から木ノ下薬師堂方面に下る道及び道沿いの町を指す。陸奥国分寺隆盛の頃、門前からこの小路に沿って塔頭24坊が連なっていたことによるという…(中略)。仙台八小路のひとつ。寛永年間に割り出され、足軽や小人が配置されていた。」同じく仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」にはこんな記載が…「(前略)連坊小路から六十人町にかけて住んだ足軽たちは禄(ろく、藩から支給される手当て)が少なく貧しかったため、自宅の庭で野菜をつくり、河原町の青物市場で売りさばいたりした。(中略)内職のためここでつくられる筆は特産品で、町内のほとんどの家が筆づくりをしていたらしい。明治時代には玉光軒という大きな筆問屋が連坊小路と長泉寺横丁角にあり、奈良から職人を講師として迎え、筆づくりの学校を開いていた。今も三百人町などに残る筆屋はここの出身者が始めたという。明治時代以降は連坊小路小学校や第一中学(いまの仙台一高)、東華中学校(宮城二女高を経て現在の仙台二華中・高等学校)ができて文教地区となった。また、東北線が通りを横断したため、町が陸橋で東西にわかれ、五橋寄りの西部を上連坊、東部を下連坊と呼んだ。現在は道路が拡張され車の往来が激しい通りになっている。」比較的新しい案内板にも「連坊小路」の表示があって、学校の名前にも「連坊小路」の名前が使われてました。
February 3, 2024
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六軒丁(ろくけんちょう)今は仙台市青葉区錦町二丁目の一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕かつての六軒丁あたり。「錦町二丁目3」と書かれた住居表示板が通り沿いにありました。六軒丁について「仙台地名考」(菊地勝之助・著 宝文社 1971年)には次の記載があります。「延宝六・八年(一六七八-八〇)製作の絵図では、真中に横丁が通り、幾軒かの小屋敷に割られている。この地を六軒丁といったようである。(中略)現在六軒丁と呼んでいる通りは、北一番丁の南裏、二本杉通の南端、空堀丁の北端から新小路に通じている横丁である。寛文八・九年(一六六八-六九)の絵図によれば、既にこの頃大小数軒の侍屋敷に割られている。(中略)北六軒丁と称している。」六軒丁には幾軒かのお屋敷があったとのこと。察するに、幾軒とは六軒だったのでしょうか。そうすると一軒一軒がかなり大きなお屋敷だったように思います。今も広い区画に大きめの住宅が並んでいるように感じました。JR仙台駅から徒歩圏内なのに、とても閑静な住宅地でした。
January 27, 2024
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六十人町(ろくじゅうにんまち。仙台市若林区)第二次世界大戦中、六十人町周辺は仙台空襲の被害にあわなかったので、藩政時代からの道筋が変わることなく残っています。そして、戦後、全国的に実施された住居表示もここでは行われず、今もこの道筋の両側の町名は、藩政時代のまま「六十人町」になっています。六十人町の通り沿いに城取神社という小さな神社がありました。神社には、おそらく地元の町内会の方々が置いてくれた、六十人町の解説がありました。「六十人町由来」五十人町から百米南に六十人町がある。畳屋町の東端から東に延びている通りである。足軽が六十人居る故に名付けられた。世臣録によれば総数六十人内十九石二十四石各一人他は十六石宛とある。旧東街道から東へ約八十米のところに城取神社がある。城下と旧南小泉村境に祀ったもので寛永三年(一六二六)町割りの綱張りの縄を埋めたので城取明神と称したといわれる。この足軽たちは微禄な生活を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た。身分は士分であったので腰には一刀を差し編笠で面部を押し隠して天秤棒を担いで野菜を運んだという。これら足軽を檀方といい足軽町は檀方町と読んだという。〈郷土史研究家 三原良吉先生講演抜粋〉斎藤悌二 記そして仙台市のウェブサイトには六十人町についてこんな記載があります。畳屋丁※から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645-1646)では「中間(ちゅうげん。武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり60人住んでいた。町の鎮守として城取神社が祀られている。(仙台市HP 町名に見る城下町)※畳屋丁は「地番入仙台市全図大正15年度最新版」には畳屋町と記載されています。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)〕
January 27, 2024
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