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2009年、ブログを再開しようと思いました.以前、2004年から2007年までの3年間ブログを書いていましたが、別のプロジェクトで長いことサボっていました.去年のリーマンブラザーズ破綻からの金融危機がおこり、2009年は誰もが経験のしたことのない波乱の年になると思います.その貴重な体験を、はやり自分の目でみて、感じて、それを記録として残しておくことが大切だとおもい、ブログ再開とします.ただし、ブログは別サイトに移転しましたので、英文流三郎ブログをご覧ください.
2009.01.11
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とっても、久しぶりのブログです。アメリカでものすごいニュースがありました。【ワシントン17日時事】米カリフォルニア州にある食肉処理会社ウエストランド/ホールマーク・ミート・パッキング社の施設で自力歩行が困難な「へたり牛」が虐待されたり、食肉処理されたりした疑いが浮上している問題で、米農務省は17日、同社が過去2年に製造した生鮮・冷凍牛肉製品約6万5000トンの自主回収に踏み切ると発表した。牛肉の自主回収としては過去最大。BSE(牛海綿状脳症)感染牛は歩行困難の症状を示すことが多い。同省はへたり牛の食肉処理を禁止するとともに、その疑いがある場合には同省に通報し、判断を仰ぐことを義務付けているが、同社はこの規則に違反していたという。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080218-00000019-jij-intそれらを、食肉加工し、学校の給食に配送されていたというそうで、この事実はとてもショッキングです。このニュースにある「へたり牛」は狂牛病の問題のある牛です。まず、このリコールのキッカケとなったビデオを下記リンクからご覧ください(Click to playをクリックしてください)。https://community.hsus.org/campaign/CA_2008_investigation?qp_source=gaba89このビデオをみれば、足がよたよたした牛や、立つこともできない牛がいっぱいいます。それら牛は病気に感染しているとおもわれますが、その中でBSE感染の牛は何割をしめるのでしょう?さすがに米農務省も、この事実を隠蔽させることができないとあきらめたのか、リコールの指導になったのでしょう。狂牛病問題にかんしては、2年前にアメリカで狂牛病の牛が発見されてから詳しくこのブログにも書いてきました。本当にアメリカの実態はひどいもの、情報がかさなるとおもいますが、下記にまとめます。■ BSEの発端狂牛病の発端は、70年代のオイルショックまでさかのぼります。イギリスでは家畜でつかう干草の供給がすくなく、家畜であまった動物をくだた肉骨粉を飼料として食べさせていました。通常、この飼料を作るときには、消毒として過熱処理をおこなっていましたが、オイルショックで加熱処理の時間を短くしました。仮説では、その熱処理をおこなったがために、10年間の潜伏期間をへて牛がBSE感染し、その90年代にBSE感染しました。これがイギリスの出来事。その後が問題です。イギリスでは、肉骨粉の使用が禁止されました。しかし、肉骨粉の製造メーカーは大量にあまり在庫を破棄するため、輸出しました。アメリカに大量の肉骨粉が輸入され、牛に食べさせたのです。その一部は日本にも、いきそれが原因でBSE感染していました。もちろんこれは、アメリカでも大量のBSE感染牛はいる根拠ともいえます。(でも、アメリカではたったの3頭だけ?それはうそ)■ ヤコブ病の集団感染その証拠に、アメリカでヤコブ病患者が増えています。えっ、でもアメリカでヤコブ病患者?人間にBSE感染すると10年の潜伏期間をへて、脳細胞がスポンジ状になくなります。通常ヤコブ病は、100万人に1人の割合で自然発生する難病ですが、牛海綿状脳症(BSE)の病原体によっても発症します。さて、この100万人に1人の割合の難病のはずが、アメリカ各地でヤコブ病患者が大量発生しています。New Jersey州:1987-1992年Pennsylvania 州 1993年Florida州1994年Texas 州 1996年Oregon州 1996年New York 州 1999-2000年Idaho州: 2005年ニュージャージー州の小さな町で13人がヤコブ病でなくなった話は、TBSの報道特集で放送されたくらい有名な話。それらなくなった13人の共通点は、ある競馬場のレストランで食事していたことです。そのレストランの名物料理は「T-Boneステーキ」。T-Boneは特定危険部位にしていされていて、日本では食べられません。また、アイダホ州は、6人が集団感染し、5名がヤコブ病で亡くなっています。■ アルツハイマー病の10%はヤコブ病?(さらにこんな情報もご参照)エール大学神経病理学科外科部門の研究チームの検討を含め複数の研究で、剖検によりアルツハイマー病あるいは痴呆症と診断されていた患者の3~13%が実際はクロイツフェルト・ヤコブ病に罹患していたことが判明したとしている。米国では毎年アルツハイマー病と診断される患者が400万人、痴呆症患者は数十万人が発生していることから、最も少なく見積もって12000人以上のクロイツフェルト・ヤコブ病患者が検出されず、公式統計に含まれない可能性がある。 実際、アルツハイマー病と診断された死亡患者数は1979年には857例であったものが、2000年には50倍以上の5万例近くとなった。 http://www.asyura2.com/0311/gm9/msg/362.html■ BSE検査の実態アメリカのBSE検査は、年間生産量の1%しか検査しません(日本では全頭検査)。しかも、検査対象は生産者側の任意で、歩行が困難なへたり牛は「ちょっと検査でひっかかりそうだからやめよう」とすることができます。そのゆるゆるの検査で狂牛病(BES)感染牛は、3頭も見つかりました。この事実から言えば、BSE牛はもっといるのが当たり前なのに、米農務省は、「統計的にBSE牛は発生率低い」とし、BSE検査を停止しました。事実上、BSE問題を隠蔽したのです。っとまあ、この事実を知ったときに、牛肉を食べることを極力さけるようにしました。まず、1.牛のひき肉は買わない/食べない2.マクドナルドなどのジャンクフードはたべない(ただしIn&OutはOK)アメリカの農務省はそれにしてもひどい。このニュースを知ってから久しぶりに、農務省への怒りとともに、皆さんと情報をシェアできればとおもいました。ご参考まで。
2008.02.18
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アメリカ南部の旅、最終日。世界一長い橋といわれるLake Pontchartrain Causewayをわたり、反対側の町 Mandevilleへ。 橋の長さは、23.87マイル(38.42 km)。東京アクアラインの川崎~木更津間(15.1km)の倍以上の長さ。永遠に水の上を走る風景は、僕の心をも広くさせる。 仕事を終わらせてからは、帰りの便まで時間があったので、ニューオリンズで時間をつぶすことに。街を走っていると、倒れ掛かった電信柱を何度もみました。地元の人によると、ハリケーン「カタリナ」の後、まだ30万人の住民がニューオリンズを去ったままのようです。人口の減少は、ニューオリンズの経済に影響を与えることは言うまでもありません。■ プランテーションハウス 「 Destrehan Plantation House」 1787年に建築されたDestrehanは、ミシシッピーバリーの中では一番古いPlantation Houseになる。入場料は10ドルだったのだけど、その価値はありました。ツアーガイドがついてくれたのですが、客は僕一人につきっきり。おかげで、奴隷時代、南北戦争時代の背景などいろいろ勉強させてもらいました。映画「インタビューウィズバンパイヤー」の撮影で使われたそうです。「トムクルーズやブラッドピッドをみた」とおばちゃんはうれしそうにいっていました。 写真は、奴隷が住んでいた家。アフリカから人を拉致して、人身売買をおこなっていた奴隷制度。黒人には人権を認めなかったアメリカの歴史は、いまでも深い傷をつけてしまったようです。このアメリカ南部の旅。オクラホマ州、アーカンソー州、ミシシッピー州、そしてルイジアナ州を結局1000マイルをドライブしました。アメリカの南部をみることができた旅は、楽しかったです。
2007.04.08
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4月5日の木曜日は、ミシシッピー州ジャクソンから最終目的地のニューオリンズへ移動。■ ニューリンズの湿地帯を走る55号を南へ下り、だんだんニューオリンズへ近づいてくると、いつのまか湿地帯の上を走っていた。 湿地帯の上に建つ、ウォーターハウス。 最終目的地のニューオリンズに到着。■ フレンチクウォーターを歩く ホテルにチェックインしてから、フレンチクウォーターへ歩き、ジャクソンスクエアーにいきました。写真はSt. Louis Cathedralジャクソンソンスクエアー付近から、眺めるミシシッピー川。 それから、有名なバーボンストリートへ。■ ケイジャン料理を楽しむ。 おなかがすいたので、近くのケイジャンレストランGumbo Shopでディナーを。 「伝統的なケイジャン料理を食べたい」とサーバーに聞いたら、Coreole Dinnerという4皿のコースをとることに。まずはGumbo Z'Herbesというスープにソルティードックを頼みました。 そして、 えびのクレオールとレッドビーン、ジャンバラヤのコンビネーション。サイドディッシュにはマッシュドポテト。ほどよい辛さは食欲をそそりました。■ バーボンストリートで酒を飲む 食事のあとには、またバーボンストリートへ。各クラブやバーでは、ロック、ジャズ、ブルースバンドが大音量で演奏されています。 夜のバーボンストリートは、観光客であふれていて活気があると思ったのですが、これでも「ハリケーンの前と比べると、まだまだスローだ」とホテルのバーテンダーはいっていました。 最初に入ったバーは、ブルースバンドが演奏していたJazz Emporiumというバーで一杯。帽子をかぶっているのがボーカルだったのだけど、エリック・クラプトンのような渋い声。バンドのレベルも驚くほど高い。ブルースバンドの演奏が終わってから、次のバーへ。イーグルスのホテルカリフォルニアの演奏を聴き、このバーについつい入ってしまいました。エアロスミスなどロックンロールを楽しみました。気がつけば、夜12時近く。かなり酔っ払いで、おもいっきりバーボンストリートを楽しめた夜でした。
2007.04.08
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今日は、午前中に仕事を終わらせてから、アーカンソー州のFt. Smithからミシシッピー州ジャクソンまでの移動。州都であるLittle Rockは、森の中をひたすら西に走りる感じ。途中には湖があったりと、アーカンソーのドライブは楽しい。■ 「風と共に去りぬ」の撮影現場 The Old Mill アーカンソー州の州都 Little Rockに、「風と共に去りぬ」の撮影でつかわらた The Old Millという水車があるということで、そこによってみました。水車は1800年代に作られた水車などパーツを、1931年に復元されたそうです。The Old MIllの内部。■ リトルロック→ ジャクソンの3ルートアーカンソーの州都リトルロックから、ジャクソンまではルートの選択に迷いました。(A) リトルロック → (40号) → テネシー州のメンフィス → (55号) → ジャクソン (B) リトルロック → (65号)→ ミシシッピー州グリーンビル → ジャクソン (C) リトルロック → (65号) → ルイジアナ州レイクプロビデンス → ジャクソンの3ルートがあった。ルート(A)はすべてハイウェイでいけるので、所要時間は一番短くいけるルートだが、ハイウェイは面白くなさそうなので却下。ルート(B) (C)は、Pine Bruffより、州道65号と下道をはしる。ルート(B)は、貧困地域であった街にカジノを誘致して繁栄させたグリーンビルを経由するルート。逆に(C) は、さらに南へルイジアナ州貧困地域を通るルート(C)で迷った。がっ、今回の旅のテーマは「南部の旅」。1860年代の南北戦争で、アメリカ連合国(The Confederate States of America)に参加したアーカンソー州、ルイジアナ州、ミシシッピー州は、南部(Deep South)にあたるのだ。南側は「奴隷は個人の私有財産」と主張し、1960年代まで当たり前のように黒人差別がおこなわれたアメリカの歴史を語るうえで重要な地域であるとおもう。このような思いがあり、ルート(C)を行くことにした。■ アーカンソー州 65号ハイウェイ540号をぬけ、南へ一般道の65号を走る。あたりは、ミシシッピー川沿岸は農業地域が広がっていた。 65号沿いに建つ、小さな教会。 写真右は、ミシシッピー川。川沿いを南へ走ります。重要な西部開拓時代から今まで、いまでも工業品や農作物を運ぶインフラとなっています。■ ルイジアナ州貧困地域を走る。ルイジアナ州に入ると、ここまでかというくらい。1. 道路ががたがた(整備されていません) 2. 建物が汚い 3.街が汚い州をまたぐだけで、ここまで違うのかと思うくらい。歴然とした差がありました。ハリケーン「カタリーナ」の影響が残っているのか、電信柱が傾いています。 ルイジアナ州の最北西端にある街、Lake Providenceには入ると。。。 とても古びて寂れた街がそこにありました。 見慣れたチェーン店はなく、つぶれてしまったテナントもありました。 Lake Providence付近の住宅。建物自体は、くたびれた感じがありました。フリーウェイ 20号の街、Tallulahに到着。街には、浮浪者らしき人が道にたむろ。2、3匹の野良犬は、道路の真ん中を気にすることなく歩いていた。 ここに付いたのは夕方6時頃。身の危険は感じなかったが、正直夜にならなくてよかったと。夜はさすがに危なかったかもしれない。
2007.04.05
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今日は、午前中にミーティングの後、アーカンソー州のFort Smithまでの移動の予定となっていた。 商談は10時過ぎに終了。せっかくなのでまたフルに活動することにした。 アーカンソー州といえば、世界一の売上高をほこるWalMartの本社がBentonvilleにある。創業者のサム・ウォールトンがこよなく愛したこの地を訪問してみたかった。サム・ウォールトンがWalMartを立ち上げる前には、あるディスカウントショップのフランチャイズ権を買って、このBentonvilleに店をかまえた。ただ、その店があまりにも繁盛していたため、サムはそのフランチャイザーから彼の店を取り上げられてしまった。 自ら築き上げた店を一夜になくしたサムはそれにもめげずに、WalMartを立ち上げることになった。写真は世界一の売上高に成長したWalMartの本社。今でも、現在のCEO Lee Scottはサム・ウォールトンのオフィスを使っているとか。 Bentonvilleについたのが2時頃。まだまだ時間があったので、さらにルート62を西へ走らせ、歴史的観光地 ユレカスプリングへ向かった。その途中のビューポイント。アーカンソー州は自然がいっぱいあって、癒される。 ユレカ・スプリングは1870年からリゾート地として栄えている歴史ある街だ。西洋風の古い建物が、メインストリートに建つ。 インディアンの民芸品や、地元アーティストのギャラリーが並ぶメインストリート。 1886年に建設されたCrescent Hotel。アメリカの歴史建造物に指定されているようです。 美しい自然が眺められるホテルからの風景。 ちょっと街をまわってから、おなかがすいたので、メインストリートで遅いランチをとることに。ここのレストランが入ってるBasin Park Hotelも1905年に建築されたとか。 自然に囲まれた西洋風の街並み。本当に心が和みます。サム・ウォールトンが地元を愛した理由がちょっとわかったような気がしました。 今日の走行距離は400マイル(640Km)。結構走りました。
2007.04.04
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オクラホマ州オクラホマシティーへようこそ。オクラホマシティーの飛行場についたのは、夕方6時。今日は仕事もないので、空港の観光案内所で観光スポットをチェック。ホテルでちょっと仕事してから、オクラホマシティーのダウンタウンまで足をはこびました。 空港の観光案内所のおばちゃんが教えてくれたのは、BrickTownというところ。その名のとおり、レンガ造りの建物が集まる街。建物の間に、運河が流れ、ちょっとしたベニス(行ったことないけど)に立っている気分になる(いいすぎ?) 一人で食事するのは面白くないのだけど、せっかくなのでこの街で食事をすることにした。その運河沿いにあるBourbon Cafeというケイジャン料理のレストランに入った。ケイジャン料理はジャンバラヤで有名ですが、いろいろ悩んだ末、Shrimp Creoleにした。トマトベースのちょっぴりピリ辛ソースに白いご飯。これがまたうまい。めずらしく期待以上のディナーを味わうことができました。明日は、午前中に仕事をして、午後は200マイルのドライブ。アーカンソー州へ西へ向かいます。
2007.04.03
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明日から、アメリカ南部縦断の旅にでる(まっ出張ですけど。。。)。 明日の月曜日にオクラホマ州のオクラホマシティーに入り、火曜日にアーカンソー州、水曜日にミシシッピ州を経由して、ルイジアナ州のニューオリンズをドライブする5日間 850マイル(1360Km)の旅。 旅の準備は整った。ドライブの友は、20世紀を代表する偉大なるアーティスト。 Led Zeppelin Eric Clapton Bob Dylan Belly Joel Beatles Doors Pink Floyd Red Hot chili Peppers Santana Simon & Garfunkel System of a Down Nirvana Sublime Bad Religion Nofx 夢と希望をのせ、明日からアメリカ南部をがんばって走ってきます。
2007.04.02
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先週のドイツのデュッセルドルフにいってきたときの写真をアップします。■ デュッセルドルフの街並み デュッセルはライン川沿いにある工業都市。鉄を中心にした重工業が盛んで、ライン川は重要なインフラになっているようです。 デュッセルドルフの街中にある、教会。夕方6時になる鐘の音色は、暖かい雰囲気にしてくれました。 デュッセルドルフ中央駅まで歩きました。 デュッセルドルフには、市電が網の目のようにはしていて、鉄道インフラはすばらしい。■ ドイツのビール ドイツといえばビール。近くのビアホールへいってきました。 ビアーホールでは、注文される前にビールを何杯も持ってきて、お客にビールを取らせる。「ちょっと今、いらないかな」といっても、ノリのいいサーバーは「ぁハーっ!」といいながら飲め飲めとジェッシャーする。 日本でいう「正」の字のように、サーバーは飲んだビールの数を記録にとる。■ アウトバーン フランクフルトまでの車中。ドイツの高速道路(アウトバーン)は速度制限がなし。僕が乗ったBMWは、最高速度で240kmをだした。さすがに、速かった。 そして最後に、フランクフルトまでの車中ののどかな風景。
2007.03.15
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時は3月3日 夜8時。ロンドン国際空港。 ドイツ出張へ経由地となったロンドンで、足止めを食らった。ロサンゼルスからの11時間のフライトのあとで、くたくたになっている中、「エンジントラブル」のためデュッセル行きの機内で3時間も待たされた。 「20分もあれば直ると思う」とアナウンスした機長だったが、1時間、2時間たっても直る気配はない。2時間半くらい経ってから、「悪いニュースです。本日はドイツまで飛べないことになりました」。さすがに、この遅れには、ブチキレた客が、機長に罵声を上げているところもみた。 「えー、本日はブリティッシュエアウェイズにご座席いただきありがとうざいました。」 1日ロンドンで滞在することになったのだが、せっかくなので翌日のフライトは夕方の便にして、ロンドンを観光することにした。 朝起きた8時に起床して、ダウンタウンに向かったのだけど、市内観光できる時間は、たった2時間だけ。バスをつかって観れるだけ、急ぎまわってきました。 ロンドン Heathrow空港からダウンタウンまで地下鉄で50分。6ポンドの一日乗り放題券で、地下鉄でバスが乗り放題。悪くない。 Hyde Park駅を下車。まずは、赤色の2階建てバスに感動。早速、バスに飛び乗り、市内を走る。 市内を走っていたら、なんやら美しい広場にでたので、途中下車。地図で確認すると、”National Galleries”というところ。 上の写真は、建物から広場を眺めたところ。なんとも言えない美しさ。 それから、バスを乗り換えてTower of Londonへ。歴史をものがたる”城”は迫力あり。 Tower of Londonのまえ流れる川に架かるTower Bridge。 Westministerへの途中で、St. Paul's Cathedralに途中下車。どうやら、イギリスで一番大きいといわれるカソリック教会だとのこと。 たまたま日曜日だったので、教会では礼拝がおこなわれていた。賛美歌がとても美しく聞こえた。 そして、最後にWestministerにあるBig Ben。短い時間だったけど、まあロンドンの街中を観ることができただけ、満足しないと。次は、やっぱり「大英博物館」はみたい!
2007.03.12
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今年初の出張は,シカゴにやってきました.全米の寒波で夜の気温は,マイナス6度.寒さによわい僕にとっては結構きついですわ.
2007.01.18
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2007年もあっという間に2週間が過ぎてしまった.2007年は,「地道な活動をつうじて,力をつけていきたい」という願いをこめて,テーマは「継続」■ 継続的な学習英語で読むアメリカの経済ニュース.継続的な「学習」と継続的な「情報の記録」.定期購読している新聞や雑誌を,英語の学習とニュースのポイントをノートにまとめる感覚で新しいブログをはじめました.英文の見出し部分を書いて,わからない英単語を学習することと,時事を考える思考の訓練すること.1年間継続すれば,いい勉強になるかと思っています.■ 仕事今年から,また新しい役割が担当となりました.駐在の営業担当が,会社の事情で2月末で日本に帰任となり,僕が営業担当をすることに...今年からは,販売や仕入計画,そして本社へ報告まで,仕事の幅が広がります.責任はさらに重くなっているけど,今年も仕事が楽しくできるといいと願います.■ 個人そして,家族ともども,健康,幸せに暮らしていくこと.稜真も,今年で3歳になる.子供の成長に負けないくらい,僕も成長する1年となりますように...
2007.01.14
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今日,クリントイーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を1人で観にいってきました.■ 役者「加瀬亮」僕ら夫婦に子供ができてから,映画を劇場で観ることができなくなったしまったのだけど,この映画だけは,どうしても観たかった.それは,役者「加瀬亮」が清水役で出演していたから.加瀬さんは,僕が大学でウィンドサーフィンをしていたときの1つ上の先輩だった.映画,音楽,小説などずばぬけた好奇心に,いつも彼から強い刺激をうけた大学生活.それから,「おれは演劇しかねえ」といって,浅野忠信さんの付き人からはじまり,役者へと道を歩んだ加瀬さん.日本にかえっては,加瀬さんの仕事をみさせてもらったりしたけど,まさかアメリカで彼の映画を観れるとは夢にも思ってもいなかった.本当に,すごい. ロサンゼルスで「硫黄島からの手紙」を公開されている映画館はサンタモニカとハリウッドの2ヶ所しかない.車を30分走らせハリウッドまでいってきました.■ 硫黄島からの手紙 映画が始まったときは、加瀬さんの登場をワクワクまった.飛行機から降りてきたシーンには、「お~,わが主将!」と興奮していた. しかし、いざ決戦がはじまると、体中を凍らせて映画に見入っていた.映画が終わったときには、体が麻痺しているかのように立てない.あまりにも,いたいたしい悲劇.意識はあるのに、体が動かない。そのくらいの衝撃でした。 主人公の栗林中将が、「愛する家族を守るために戦いたい、でも愛する家族のために生きて帰りたい」という言葉がとても印象に残った.この言葉ににる2つの対照的なキャラクター. アメリカに憧れをもちつつも、愛する家族を守るため戦い抜いた栗林とバロン西. 国のために戦い抜こうと思っていたが、生きようと選択した清水と伊藤.この対照的キャラクターは,同監督の「許されざる者」を思い出す. 「許されざる者」は,罪が罪を連鎖する物語. 客である牧童が酒に酔っ払ったいきおいで売春婦の顔をナイフで怪我させてしまう罪. 保安官が牧童を罰しなかったことにより賞金をかけ殺そうとする売春婦の罪. 売春婦を差別する街の住人の罪. 生活苦のため賞金をかせぐため牧童を殺す若いガンマンの罪 主人公を捕まえようとその相棒を尋問で殺してしまう保安官の罪 そして,相棒を殺されたことに復習をする主人公の罪.「許されざる者」にも対照となるキャラクターがいた.それは, むかし「善人」であるがゆえに,人を殺せと感情的にものをいう売春婦と若いガンマン. むかし「悪人」だったがゆえに,静かに平和を愛す主人公のクリントイーストウッドと相棒のモーガンフリーマン.ことの重大さ(この場合は「人の死」)を認識できるがゆえに,強い自分で主体的に生きることができるのではないか.(その裏づけに,「おれは今で5人も殺したことがある」とイキがっていた若いガンマンが牧童を殺したとき,「初めて人を殺した」と涙ながらクリントイーストウッドに打ち明けることになる)「硫黄島」からの重大なるメッセージ.戦争による「悲劇」を痛感(認識)できるからこそ,僕らはどのような世界・社会にしたいのか・・・戦争を知らない僕にとっては,忘れることのできないすばらしい映画でした.
2006.12.27
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気がつけば,2006年のあと2週間で終わろうとしている.とにかく時の流れは,年をとるたびに加速している気がする.僕にとっては年末は,1年を振り返りながら来年の目標を考える最も重要な時期.そろそろこのブログを書きながら1年を振り返ろうかなと思います.2006年のテーマは「挑戦」(2006.01.11)でした.尊敬できる先輩の日本へ帰国することになり,自らが中心となって仕事をしていく新しい環境をいかに作れることができるのか.また,仕事以外にも日本のビジネスパーソンをお手伝いする英文レターの文例集サイトのプロジェクト.集中力がないという欠点があるので,今年はこの「仕事」と「英文プロジェクト」の2本柱に絞りました.そして各柱のキーワードを手帳にこんな感じで書いておきました.*******************************2006年テーマ 「挑戦」■ 仕事 社内運営 経営の勉強 予算管理→利益を上げる 教育 チームワークリーダーシップ いかに方向と時間軸を示すか?■ 英文 サイトデザイン 100ページ 100相互リンク Yahoo登録広告収入*******************************とまあ,こんな意気込みがあった2006年でしたが,おおまか満足できる年となりそうです(パチパチパチ).まっ,細かくは後日まとめます.
2006.12.18
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3日間の出張でラスベガスから帰ってきました.ラスベガスはいままで10回ほど行ったので,あまり感動することはなくなってしまったのだけど,毎回行くたびおもうのが,ホテルのばかでかさだ.泊まったホテル(MGMグランド)は,世界最大のホテルといわれていて,まあとにかくよく歩く.今回は飛行機で移動したので車はなく,歩きかタクシーの移動.よっと隣のホテルだから歩くことにしても,それが何度もなると歩くのが苦痛になる.会社の先輩と取引先の社長は靴ずれになって,痛々しかった.仕事は朝から晩まで,まあがんばってきたけど,やっぱり疲れた.とりあえず週末はゆっくりと休みたいところですわ...
2006.11.18
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日本から帰ってきました.10月27日から11月8日までの13日間.結構長いかと思いきや,かなり充実した日々をすごせたののであっという間に過ぎた13日でした.仕事は,工場に2日,本社に1日.あと仕事の予備日として1日で,後は有給と週末で自由な時間を楽しめるよう日程を組んだ.日本に帰って,絶対に行きたかった場所.それは,ダリの回顧展だ.ダリの作品はポスターやらでみたことがあるのだけど,現物をみたのは1点だけ.今回の回顧展で60点が出品されるとあって,どーしても観たかった.休日にはいきたくなかったので,狙ったのは予備日.予備日の2日は仕事の予定をいれずに,昼頃いってきたのだけど,大混雑.僕らがいったころには入場制限はなしで入れたのだけど,入館したらものすごい人がひとつひとつの絵に群がっている.絵の目の前に近寄ってみるには,順になっている長い列に並ばないとだめだ.その後ろから覗き込むだけであれば,ダリの細かいしごとをみることができないので,時間をかけてでも並んで観た.そのかいがあって,ダリの世界を十分楽しませてもらった.それにしても,やっぱりダリの才能には驚かされた.すべての作品で,独創性と創造力のすごさはもちろん,鮮やかな色つかいなどはポスターじゃ観ることはできない.夫婦そろって,大満足の1日でした. まっ,ダリ以外でも,友達にも家族にも友達にもたくさん会うことができ,1年ぶりの日本帰国.最高でした.
2006.11.13
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テキサス州のダラスにやってきました.ダラス空港に午後3時半に到着.テキサス州といって思い浮かぶものは,カウボーイと宇宙センター.観光スポットという場所はほとんどない退屈なダラスだが,ケネディー大統領が暗殺された現場(ディーレイ・プラザ)がダラスダウンタウンにあるので,そこにいってきた. ケネディー暗殺事件は当初はオズワルド単独説とされたが,オズワルドが射殺されたり射殺したルビーの動機が不可解で,いまだに暗殺事件の真相は謎に包まれている.多くの仮説から「全体的にはCIA、FBIとマフィアを実行部隊にした政府内部の犯行であるとする説が多い」とされている.暗殺現場を撮影した8mmフィルムから.道路上に2つのマークが印されていて,左側が1発目,右側が3発目が命中されたとされる. 写真真ん中のマークで1発目が命中された.暗殺者の容疑者オズワルドがいたとされるテキサス教科書倉庫.ウォーレン委員会によるとオズワルドはここの5階から3発を撃ったと結論づけた.そして,謎につつまれている3発目の場所.オズワルド単独説では3発とも「後方」にいるオズワルドから撃たれたとしている.しかし, 「大統領の頭部は後方に動いていることから、その致命的な射撃は前方から行われたとみられる」とされ,別調査ではオズワルド以外に少なくとも1人の協力者がいたと結論を下している.前方から射撃された場所として,写真左上の階段上から射撃されたといわれている.アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーによって撮影された現場で,暗殺事件を説明する案内人. 液晶の大画面で,暗殺当時の画像や謎につつまれている事件について熱心に説明していました.
2006.10.25
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今日の10月23日は,稜真(りょうま)君の2歳の誕生日.昨日は,去年と同様ディズニーランドに行ってきました. 1年ぶりのミッキーマウスとの再会.去年はミッキーにびびって大泣きだったのに,今回は問題なく写真撮影.帰り際にも,「バイバイ」と手を振る.成長した稜真君でした. アメリカはハロウィンの前とあって,パンプキンの飾りもの.結構かわいい.まあ,それにしても昨日のディズニーランドはめちゃくちゃ混雑.人気のアトラクションは40分待ちとか.年間パスを買ったのでいつでも来れるので,4時間くらい遊んで帰りました.そして,今日.一応バースデイケーキを用意して,自宅で誕生日を祝いました.稜真君大喜び. 「おいしっ」と大喜びでした.っとまあ,こんなかんじで2歳の誕生日を祝いました.明日からはテキサスのダラスに1泊の出張.そして,金曜日からは待ちに待った日本へ出張.めちゃくちゃ楽しみですわ... さんま!秋刀魚!サンマ!さんま!秋刀魚!サンマ!さんま!秋刀魚!サンマ!さんま!秋刀魚!サンマ!さんま!秋刀魚!サンマ!
2006.10.24
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ペルー出張最終日の5日は,ロサンゼルスへの移動.マイアミへのフライトは朝6時出発.ということで起床は3時半.ただ,帰りもビジネスにアップグレードしたので,ゆったりとした帰国でした. リマを発ってから2時間ほど.おそらくアンデス山脈の山岳地帯だと思います. そして,おくにうっすらと見えるのが,中南米のパナマ上空. パナマをすぎて,おそらくジャマイカが見えました. きれいなエメラルドブルーの海.フロリダキー諸島が見えます. そして,マイアミに到着.リマから5時間のフライトでした.
2006.10.13
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ペルー3日目の10月4日.仕事後,ディナーに「Scena」という,ペルーで最もモダンなレストランに連れて行ってもらいました.この店にすばらしい建築とインテリアデザインにはかなり驚かされました. 店の天井は吹き抜けで広々した空間.店のつくりから見ると相当の建築家が設計したと思いました. 店奥にはバーカウンター.ここで,1時間くらいカクテルをのみながら雑談. 店奥には,寿司を作るカウンターがありました. 赤い旗には,カタカナで「スーパー ニッケイ」という訳のわからない文字が...まっ,いいか広い壁には,一面に絵がタイルのように貼り付けられていました. トイレから出ると,階段のうらに,こんな仕掛けが...よ~くみてみると... 階段の裏に鏡がはってあって,対象はこのように床に仕掛けてありました.Kentというたばこのクールな広告でした.
2006.10.12
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引き続き,ペルー2日目.食事後,取引先にリマのダウンタウンまで連れて行ってもらった.■ リマ ダウンタウン ダウンタウンの中心部.写真は教会だそうです.夜はライトアップしていて結構きれい. 別角度から.. その隣に,ペルーの大統領官邸(ペル版のホワイトハウス)もうちょっと近寄って. そしてホワイトハウスの隣には,リマの役所がありました.黄色の壁がきれいにライトアップされていました.
2006.10.11
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ペルーの2日目(10月3日) 朝おきて,ホテルからの風景.ペルーは南半球なので,季節は春になる.霧のような天気が毎日続きました,■ ランチ ペルー料理 昼ごはんには,ペルー料理を食べにいってきた.ペルー料理はシーフードがおおいみたいだ.写真のはタコと魚をレモンにつけたもの.写真は,100%カニでできたもの.かに味噌がいい味だしていました!ペルーで「コーラー」を頼むと,写真の「インカコーラー(Inka Kola)」がでてくる.まあ,ソーダーに色をつけたような飲み物.■ リマのダウンタウン パート1午後はリマのダウンタウンへ写真はリマの裁判所(らしい)です.リマ市街ではバスが市民の足となる. 狭い道にも,タクシーが停車.タクシーが渋滞をつくっていると,運転手は文句を言っていました.■ リマのビーチ 夜は,ビーチの前にあるイタリアレストラン屋.リマの海岸を望みながらの食事でした. 鎌倉の七里ガ浜にある珊瑚礁のように,海を照らしていました.
2006.10.10
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10月2日から5日までのペルー出張.初日はロサンゼルスからペルーまでの移動.この日は朝3時半起き,そして現地リマのホテルに到着したのは深夜12時半の長距離移動でした.ロサンゼルスから経由地のマイアミまで5時間.マイアミの飛行場はめちゃくちゃ広い.ゲートの移動で,歩いて30分もかかった. マイアミからリマまでは,ビジネスクラスにアップグレード.いつもエコノミーで移動する僕にとっては,贅沢すぎる食事.サラダ,グラタンっぽいパスタ,そしてアイスクリームで終わり.飲み物は,もちろんワイン.酔いがまわりはじめたところで,寝る.今回はゆとりある移動でしたよ. マイアミ出発が1時間遅れたので,リマ国際空港は10時45分到着. ホテル到着は深夜12時半.つかれまくりの移動でした.ゆとりのある広々したいいホテルでしたよ.
2006.10.09
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ペルーの首都リマに,3泊4日の出張で行ってきました.ロサンゼルスからペルーまでは,ロサンゼルスからマイアミまで5時間,マイアミからリマまで5時間のフライト.乗り継ぎ時間をあげれば12時間の移動は,やっぱり遠い!日程を振り返ってみると,朝早くから夜遅くまで仕事をしていたので,結構疲れた出張でした.10月2日 起床 3:45 → ロサンゼルス発 7:00 → リマ着 22:45 → ホテル着 0:3010月3日起床 6:45 → 仕事 8:30 → 夜の会食 19:00 → ホテル着 23:30 10月4日 起床 6:45 → 仕事 8:30 → 夜の会食 20:00 → ホテル着 0:3010月5日 起床 3:45 → リマ発 6:20 → ロサンゼルス着16:40 まあ,そんなことをいいながら,いろいろリマの街を写真におさめたので,時間があればアップしていきます.つかれたんで,おやすみなさい.
2006.10.06
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4日目.エルサルバドルの朝を迎えた.前日の疲れからぐっすり眠れた.滞在したホテルは,サンサルバドルのラディソン.部屋はリビングとベッドルームが分かれている1ベットルームで冷蔵庫とキッチンつき.結構,高級なホテルなのに,一泊は70ドルと安い.仕事を終えて,ホテルに戻ってきたのは夜8時.ちょっと,寝る前にホテルの庭で,ビール1杯といかの揚げ物をつまむ.本当はワインでも飲みたかったのに,ウェイトレスがまったく英語が通じない.「ワ・イ・ン」とゆっくりえっても,「WINE」と紙に書いても通じない.どうやら「ビール」という言葉は通じたみたいで,ビール1杯を無事に飲むことができた.4:30起きの5日目の朝.ホテルからのシャトルバスにのって飛行場へ.さらばエルサルバドル.
2006.09.21
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コスタリカと違ってエルサルバドルは,56年に独立してから92年まで内戦とクーデターを繰り返してきた情勢不安定の国だった.66年には隣国のホンジュラスとのワールドカップメキシコ大会予選の結果が原因で戦争が勃発したという興味深い歴史がある(サッカー戦争)3日目.コスタリカからエルサルバドルへ移動.飛行場は滑走路1本,とってもこじんまりした飛行場だ.外にでると,コスタリカよりは蒸し暑さを感じた.さて,タクシーで首都サンサルバドルへ.飛行場からサンサルバドルまで車で40分.田舎道を走りっている途中,道端でココナッツを売る屋台が見えました.道の切通しに描かれている広告.この場所の所有権はだれにあるだろうと疑問になる.政府がもっているのかね?仕事のあと,ディナーで,最近できたモールへ.おそろしいほどきれいなモールだ.エルサルバドルは2001年から通貨がドル化されて,対外からの投資が盛んにされている.このモールもそのうちのひとつと考えていい.食事はどうやら「アメリカのインディアン」をコンセプトにしたステーキ屋.店内は内装が洞窟のように作れていて,かなり雰囲気はよい感じ.朝4時から夜12時までの長い長い3日目の終わりだった.
2006.09.19
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9月11日 午後8時.コスタリカ到着. 入国審査で並んでいると天井をみて思わずびっくり.ジャングルで綱渡りをする人...形. そして,地元代理店の取引先と一緒に,サンホゼ空港の近くにあるシーフードレストランへ. まず,最初に食べたのが,えびのアパタイザー.メキシカンのサルサにお酢をいれたようなテイスト.結構おいしいかった. そして,シーフードスープ.これも,結構おいしかった. 食事のあとは,ホテルへ.3日目の朝が早い(4時おき)なので,飛行場ちかくのホテルで滞在.インドネシアに行ったときを思い出させるホテル.屋根がついているだけのロビー.以外にも気温は暑くなくて,結構快適でしたよ. 2日目: 仕事後に,コスタリカのある街へ.街並みを写真に撮っておこうとおもったのだけど,車からの撮影はろくな写真が取れない.まともな写真はこの一枚だけ.どっかの教会らしいです. そして,街をめぐったあとで,サンホゼ空港へ.翌朝のために「プリチェックイン」.さすがに9時になっていると閑散とした飛行場でした.
2006.09.18
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コスタリカ,エルサルバドルから帰ってきました.この出張は本当に疲れた.まずスペイン語ベースの国なので,英語でのコミニュケーションが難しい.通訳してくれる人がいたのだけど,技術的内容になるとなかなか言いたいことが通じないときが多々あった.ホワイトボードに絵や図を書いたりして,なんとか伝えるべきことはできたとはおもうけど,やっぱり南米にいくのならスペイン語はほしい.それから,一日一日がとっても長い! 2日目:朝から仕事して,夜の食事は8時くらいから,それからバーに飲みに行ってホテルに帰ってきたのが12時頃. 3日目:朝4時起きで,エルサルバドルまで移動.エルサルバドルの代理店に着いたのは朝の9時頃で,それから夜の8時まで仕事.9時から食事で,ホテル着12時. 4日目は,8時から夜の7時まで仕事.それから食事にいって夜9時にホテル着. 5日目;朝4時半に起床.エルサルバドルからロスへ移動.とまあ,初めての中南米を楽しみしていったのだけど,結果的には街を観光する余裕なんてもちろんなかった.次は休暇でゆっくり行ってみたい.それでも,移動中にいろいろ写真をとったので,のちほどこのブログにもアップします.
2006.09.17
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昨日 コスタリカのサンホゼに到着したのは夜8時.これで海外は,インドネシア,アメリカ,メキシコ,カナダ,フランスと6カ国目の訪問.異国の地の訪問は,胸騒ぎがする.そこには異なる人々,歴史,そして文化がある.そんな異なる環境との触れ合う刺激がたまらなくいい.サンホゼ空港の出口で待ち合わせしていたのだけど,ものすごい人が群がっていてなかなか見つからない.ラテン系のタクシーのおっちゃんたちが,「タクシー?」 「タクシー?」「タクシー?」と声をかけられる.バリ島に行ったときの状況に似ているが,インドネシア人ほどしつこくない.コスタリカ人には「No」という言葉が通じるようだ.■ 世界で唯一の非武装国家コスタリカは世界で唯一の非武装中立国家だ.戦後のコスタリカは,日本の平和憲法と同様の「常設軍の廃止」をしたのだけど,日本はその後自衛隊という事実上の軍を保有していることから,非武装国家とは言いがたい.北にはニカラグア,エルサルバドル,ホンジュラス,南はパナマ,コロンビアなど周囲には内戦やクーデターを繰り返してきた情勢不安定な国ばかり.集団安全保障体制でのアメリカからのバックアップを受け,非武装の原則を守り続けている.軍隊に金をかけるかわりに,教育に力をいれることで国は繁栄した.国の教育費は国家予算でなんと21%(2001年度).国民の国政にたいする関心も高い. アメリカのイラク戦争が開戦されたときに,コスタリカ大統領はアメリカを支持した.それに反対した法学部の学生が,憲法違反だと訴え全面的に勝ち,大統領に「アメリカ支持の撤回」をさせてた.また,小学生が「どぶにふたをしてほしい」ということで教育権を侵害しているとして訴えたりと,年間に1万件の憲法訴訟がおこなわれているらしいですよ.戦後同じ平和憲法を持ちながら,日本は軍隊を持ち,コスタリカは非武装を教育にあてた.イラク戦争で一方は軍を派兵して,一方は憲法訴訟をおこして支持を撤回させた.なんか,まったく異なる国をみているようだ.この民度の高さ.日本も見習いたいところだけど...
2006.09.12
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明日から,コスタリカとエルサルバドルへ4泊5日の出張へ行ってきます.中南米の出張ははじめて.ちょっと楽しみです.なるべく写真をとって,皆さんに紹介できればと思います.
2006.09.11
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先週末,サンタバーバラのワイナリーに1泊2日の家族旅行に行ってきました.かれこれ3年前ぶりのサンタバーバーラ.3年前は1日で5軒くらいはまわったのに,今回は子供がいるせいもあって2日で5軒しか回れなかった.それでも,すばらしいワインにであえることができてとっても満足した旅行でした.訪問したワイナリーサンフォード(San Ford): 毎年すばらしいワインを生産している名声ある生産者のサンフォード.以外にもピノノアやシャルドネではなく,ピノノアのすばらしいピーチやパイナップル系のフルーティーな香りが印象に残った.ピノノアの香りはいいのだけど,ちょっと酸味の口当たりがいまいちだったのが残念.サンストーン(SanStone):シャルドネは洋なしとパイナップル系の甘い香りにもかかわらず,テイストはドライ.酸味もしっかりしていてすばらしかった.あと,シラーの香りは,コショウ系のスパイスに,シナモン,ジンジャーのすばらしい香りがしたが,テイストはライトでちょっといまいち.キャンブリア(Cambria):このワイナリーの訪問は初めて.ここのシャルドネやピノはCostcoやTrader Joesなどでゲットできるのだけど,Viognierのすばらしさには驚いた.グレープフルーツやピーチの甘いかおりに,レモンライムのような酸味.いやけのない酸味としっかりとしたバディー.ロスではゲットできないワインだったので,おもわず購入してしまったほどだ.フォクスン(Foxen):以前ここにきたときは,干草のようなハーブ系のソビニオン・ブランクの香りが忘れなれない.今回はテイストできなかったのだけど,以外にも赤ワインがとってもすばらしかった.香りとバディーが強く,バランスもすばらしい.ザカメサ(Zaca Mesa):以前にはほとんど印象がなかったのだけど,今回はテイストしたすべてのワイン(白・赤ともに)がすばらしく,このワイナリツアーではナンバーワンだった.赤ワインも絶品の中,ほんとうにすごかったのはシャルドネ(2004).アップル・洋ナシ・バナナのフルーツととおに,花とスパイスの香りも感じさせた.バランスよく,最高のワインでした.僕の中で,ここのワインはかなりランクアップしました.
2006.09.07
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6月にオープンした英文レターの書き方・文例集サイト.このブログはサボりながら,ちょくちょくサイトのコンテンツを増やしていましたが,最近やっとその成果がでてきたようです.うれしいことに,先週Yahooのカテゴリーに登録されました.Yahooカテゴリー 英語 Yahooカテゴリー 文例集Yahooのカテゴリー登録の審査は一番難しいといわれているらしいですが,サイトの内容をみとめてもらったということでうれしい限りです.ウェブサイトを作ってから,Yahooカテゴリーに登録されるのはひとつの目標でした.やはり日本ではYahooが一番よく使われているので,カテゴリーに登録されるされないで,検索結果が大きくことなることになります.その成果が早速アクセス数に反映していました. ページビュー:先週までの1日平均500 → 昨日800 ユーザアクセス:先週までの1日平均180 → 昨日 325まあ,アクセス数の増加は僕のモチベーションに大きく影響を与えます.まあ,「アクセス数が増えれば,より多くの人に役にたってもらえている」と思えば,より一生懸命がんばろうと思えます.今後は文例のコンテンツを増やすとともに,「英語+時事ネタ」系のコラムに挑戦してみようかなと考え中です.英語でコミニュケーションされるビジネスパーソンの方,今後もよろしくお願いします.
2006.08.26
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今日,家族でディズニーランドのカリフォルニアベンチャーに行ってきました.実はアラジン・ミュージカルに出演している昔のルームメイトのお兄さんライアンが,ゲストとして家族全員を招待してくれた(タダでね).今日の10時30分にカリフォルニアディズニーのゲートでライアンと待ち合わせ.久しぶりの再会に会話が弾んだ.以前R君にあったのは,2年前のクリスマス(2004.12.26の日記) (12月25日 2004年 右奥に立っているのがライアン)ライアンはニューヨークで劇団で演劇をやっていたところ,このアラジンの仕事がとれたのでちょっとした里帰りとしてロサンゼルスに戻ってきた.あと1ヶ月で契約が切れるので,9月頃またニューヨークに戻る予定みたいだ.ライアンの役はてっきり脇役だと思い込んでいて,「ジニーの役だよ」といわれてもパッとこなかった.アラジンのストーリは観たことはあったのだけど,キャラクターの名前まではすっかり忘れいた.おそらく本人は「なに寝ぼけているんだよ」と思ったに違いないが,「ブルーの顔しているからね」と親切に説明してくれた.タダでディズニーランドに入れたことはさることながら,ライアンは僕ら家族をVIPリストに載せてくれて一般客の前に入場させてもらい最前列の席を確保できた.一番前でみるライアンのショウ.「ブルーの顔」「ブルーの顔」「ブルーの顔」を追いかけて観るのだけどなかなか出てこない.「いつでてくるのだろう」と思っていた頃,あのランプからでてきた「ブルーの顔」.そう「ジニー」が主役だったと知った僕らが,本番で驚いたのは言うまでもない.そこにいたのはゲートであったライアンではなく,「ジニー」だった.完全に演じきっている.「すげー,これがプロだ」と思わせる熱演が目の前.今日のビデオではないけど,You Tubuでライアンの熱演が見れる.もしよかったら見てみてください. もちろん,「ブルーの顔」がライアンです. ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓アラジン・ミュージカル ライアン演じ,踊り,歌う. ビデオだけでも見ごたえがあるのだけど,これをライブで観たらすごい.ライアンいわくのこのアラジンのショウは1500万ドルのプロジェクトらしい.えらいコストをかけているだけあって,照明,舞台,サウンド,そして出演者のクオリティーは最高だった.まあ,知り合いがでていたかもしれないけど,このショウは一見の価値ありです.皆さんもカリフォルニアベンチャーにいったときは観てみてください.
2006.08.20
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先日,お知らせした英文レターの書き方・文例集サイトのデザインをリニューアルしました. 英文レターの書き方・文例集サイト デザインのセンスが全くない僕にとっては偉大なるチャレンジ(?)でしたが,少なくとも以前よりはましになったと思います.もし英語にご興味あれば,遊びにきてくださいね.取り急ぎ,ご連絡まで.
2006.08.17
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今日,マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」をみた.メディアや政治家が人々に過剰を不安をあおる「不安ベースのアメリカ社会」が描かれていて,めちゃくちゃおもしろかった. 6歳の子供がなぜ銃で同級生を殺してしまったのか? 犯罪率が減少しているのに,銃の売り上げはなぜ年々増え続けるのか? 年間1万人以上が銃で殺されているアメリカ.いったいその訳は? ミシガン州フリントで起きた6歳児の発砲事件. コロンバイン高校銃乱射事件.メディアは,事件の悲惨さを伝えるだけ.マリリン・マンソンの過激な暴力的音楽,暴力映画とゲームなどと,問題をすりかえる.だけどけしてメディアは本質の問題をとらえようとしない.その裏にある貧困問題,銃社会.2000年問題.コンピューター暴走による世界の崩壊.メディアの不安をあおられた人々は,発電機や地下シェルターへの避難,水・食料を準備 9・11. テロリストとの戦い.ガスマスクや銃を買って,身の安全を守る人々. 銃発砲を報道するローカルニュース.それをみた視聴者は自己防衛を必要し,身の安全のために銃を買う.今でも銃が合法にもてるアメリカはなにかおかしいように思えるが,実際にすんでいると感覚が鈍ってくる.何がいったい不安なのか?マイケル・ムーアがカナダにいって,彼はその答えを見つけた.アメリカと同じ銃社会のカナダ.だけど,アメリカと比べて銃殺害事件は圧倒的にすくない.人々は家の鍵をしめない.社会福祉の充実,人が人として生きる権利がそこにある.そう,カナダにあったのは「信頼ベースの社会」なのだ.不安は目にみえないもの.9・11以降 「アメリカはテロリストから狙われている」といってブッシュは不安をあおるだけあおり,支持を獲得する.圧倒的な国民からの支持をバックに,国際法をむしして不法戦争をやってのけるアメリカ.人をコントロールしやすい「不安」はなんなのか.そんなことを考えさせられた映画でした.
2006.08.03
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久しく日記を更新.経理の女の子が日本に緊急帰国されることになってから,経理業務を兼任でなっているのだけど,前回の時ほどめちぇくちゃ忙しいわけではない.前回のときは,出荷業務,経理業務やら,貿易の書類作成まで,すべて全部を一人でならなければならなかった.けど,今回は1月に日本から駐在できた人がコンピュータに精通していて,業務をある程度分担できる.出荷と貿易書類つくりは,彼にまかせて,僕は経理をメインにやればいいので,結構楽チン.でも,さすがに出張など入るとデイリーになる業務がたまってその処理が大変になる.8月には中南米に出張予定(コスタリカとコロンビア,ペルーとチリ)があって,出張帰りの業務の山を想像するだけでこわい.その緊急帰国した経理の人の帰りを待ちたいのだけど,いまだに返信がない.いつまでも待てないので,来週までに返信がなかったら,また求人活動を開始しなければならないだろうけど,本当は彼女に戻ってきてほしい.来週に彼女から連絡をもらえることを期待して,がんばりましょ. あっ,英文レターの文例集の更新も結構がんばってやっています.こちらのプロジェクトはまだまだ納得できる段階ではないのだけど,まずはコンテンツを少しずつ充実させてから,かっこいいサイトにしていきたいです.
2006.07.23
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前回の日記で,経理のアシスタントを採用したFさんに.この週末,不幸な知らせが日本から届いた.脳梗塞でFさんのお父さんがなくなられたのだ.あまりにも急な知らせで,自分の父親の最後を見届けられなかった彼女のことをおもうと,本当に心がいたみます.お父さんのご冥福を祈ります.日本へ帰国しなければならなくなった彼女からのメールでは,「会社に迷惑をかけるので採用は取りやめとしたい」とのことだった.僕としては,本当にすばらしい人柄で経験のあるFさんだっただけに,すべてを落ちつかせてからは会社に戻ってきてもらいたい.ただ,Fさんの家庭の事情によっては,日本に帰国されるかもしれない.会社としては数週間でアメリカにもどってこられることを期待して,落ち着かせた時点で連絡をくださいと返事を書いた.まずは,Fさんの連絡を待つあいだ,ひたすら仕事をがんばろう.
2006.07.11
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先週書いたように,経理のMさんが辞めることになって,経理アシスタントの求人活動を続けていました.一番最初に応募してくれた人(Fさん)がとってもよさそうな人だったので,早速オファー.即,オファー受けてもらい明日から働いてもらうことになりました.今までを振り返ってみると...6月27日:Mさん2週間で辞表,その夕方求人広告を出す. 6 月28-29日:Fresno出張,Fさんの応募あり,30日に面接のアポ. 6月30日:Fさんの面接 7月3日:Fさんにアポとり 7月4日:独立記念日 7月5日:オファー.受理してもらえた. 7月6日:仕事開始前回の求人活動で人材を探す難しさを痛感していただけ,今回は1週間で探しだすことができたのは,本当にラッキーだったとしかいいようがない.さらに,僕が面接した感じだと,Mさんよりはるかに優秀な人材と読んだ.果たしてその予想は当たるか?明日からFさんと仕事をするのが楽しみでしかたない.
2006.07.06
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1泊2日のFresno出張から帰ってきました.Fresnoという町は,ロサンゼルスとサンフランシスコの中間に位置し,人口は42万人でカリフォルニアで6番目となる.Fresnoまでのドライブは,写真をみてもらえばわかるけど,永遠に農業地帯がつづく.久しぶりにのんびりした風景にふれて,心が癒された.さて,出張の話はさておき,おととい仕事で2つの出来事がありました.ひと~つ先日,肩書きを変えようという話があったのだけど,結局「Branch Manager」という肩書きに決まりました.パチパチパチ.ふた~つ伸びない経理の女の子Mさんが,辞めることになりました.2 Weeks Noticeで7月初旬に去る.早速,人を雇うよう手をうっているけど,もし雇うことができなければ,来月からめちゃくちゃ仕事が忙しくなりそうだ.それにしても,5ヶ月で辞めてしまうのは本当の早い.Mさんは正直に辞める理由を話してくれたのだけど,どうやら転職を決めたらしい.金銭的にいいわけでもなかったらしいが,その仕事だと資格が取れるのにひかれたらしい.僕にしてみたら,もうちょっと残って経理の経験をつめば,将来のキャリアーアップにつながると思うのだけど,とても残念だ.彼女が辞める理由を正直に話してくれた代わりに,僕も彼女の仕事ぶりについて正直に話した.出てくる書類はミスだらけで,きめられた業務もやり方を覚えられなくて出張中の僕をつかまえて電話で聞いてくるありさまだ.覚える気がないのか,注意力がないのか,それとも,仕事なんてどうでもいいのか.そうは思いたくないのだけど,このようなことが続くと周りや上からはそのように思われても仕方がない.もちろん本人にはこんなストレートには伝えなかったのだけど,「そんなミスが繰り返されると,仕事の信頼性がないと上から思われるから気をつけたほうがいい」とはアドバイスしておいた.まあ,Mさんの次の仕事での成功を祈りながら,新しい人を雇うべく動いていかないとね.
2006.06.30
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英文レターの書き方・文例集サイト最近,英文レターの書き方・文例集サイトをオープンしました.今年のはじめからこつこつとサイトデザインとコンテンツを作ってきたこのサイトですけど,そろそろ皆さんにお知らせします.■ 英文レター.comこのサイトを作ろうと思ったのは,日本の本社からきた駐在員がEmailのコミニュケーションで苦労していたのをみてのがきっかけ.ウェブで調べても,英文レターの書式やフォーマットの説明は見つかったとしても,実際に使われている英文の文例集はろくなものがありませんでした.そこで,「事例にあわせた英文の文例集サイトは英語でコミニュケーションをするビジネスマンにとってよろこばれるかもしれない」ということで,サイトつくりをはじめました.メーカーの事務所でのアナウンス,価格提示,出荷案内,支払いの催促,クレーム対応などのレター作成,ベンダーからの売り込みの対応,さらにバイヤーとしてアメリカのメーカーから日本へ商品を卸した経験を生かして,実務でつかわれている英文レターの文例集をまとめようと思います.英語で商売をされる方,英語に興味がある方,皆さん英文レター.comに遊びにきてください.
2006.06.27
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アメリカの牛肉の安全性など無視しながら,日本政府はアメリカ牛肉の輸入再開を強引に決めちゃった. まあ,先月の日記に書いたとおり,今月に訪米する小泉からブッシュへのお土産としてすでに決まっていたと考えなければならない.こうした小泉の絶大なる配慮にもかかわらず,アメリカの政治家や畜産トップが 「喜ぶのはまだ早い」 「引き続き科学に基づいて日本が実際に輸入を再開するまで圧力を掛け続ける」 「日本は信頼できない貿易相手国だ」などとほざくから,超ウルトラスパーデラックス頭にくるのだ(関連記事) 97年まで狂牛病の本場イギリスから大量の肉骨粉をアメリカ牛肉に消費させていた事実があるにもかかわらず, 足のよろけている牛は検査させず任意の低レベルなBSE検査(年間生産量の1%)で,3頭もの狂牛病感染をみて,今度は科学的に発生率は低いと否定する 僕の取引先の知り合い2人がヤコブ病で亡くなったように,全米で大量にヤコブ病で死んでいる事実を,「科学的根拠がない」として隠蔽する 食品中傷を禁止するメディア規制(13州の州法)で,食品の安全性についての知る権利と言論の自由を剥奪するこ~んな利己主義な奴らに「信頼できない相手」とは言われる筋合いはねえ.日本にさきかげて韓国が輸入再開にむけアメリカの食肉工場を査察したのだけど,「米国の牛肉加工施設は韓国政府が提案した基準を満たしていない」として輸入を延期した.どうやら,「35ヶ所の施設のうち、7ヶ所もの施設で,カナダ産だとかの、産地の違う牛が、平然と混入されてた」らしい(関連記事)そんなことを知りつつ日本政府は査察で安全性を確認する前に,輸入再開を決めてしまった.普通であれば,安全性を確認してから,輸入再開をきめるのが筋だと思うが,もし安全基準に満たしていなかったらどうするのだろうか?アメリカでは8月末までに再開しなかったら対日制裁をする法案が可決したから,もう日本は打つ手はない.「アメリカとさえ仲良くしていれば,すべての国際関係はよくなる」といって外交をむちゃくちゃにしてしまった小泉のつけは,このようなところでている.
2006.06.23
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「そろそろ君の肩書きを変えてほしいのだけど,どんな肩書きがいいか自分で考えてくれないか?」と僕の上司からいわれた.今僕の肩書きは「Sales Engineer(技術営業)」.全米の代理店ネットワークに保守面の技術を教えながら,販売促進をおこなっていくポジションだ. ただ今となっては,その肩書きが正確な僕のポジションをあらわしているとは到底いえない.技術営業以外にも,経理業務,人を雇ったり,新規代理店設立など,会社全体の業務をおこなっている. 今回の依頼というのは,名刺に「Manegerという肩書きをつけなさい」ということだ. ■仕事しない上司に感謝 2006.01.11の日記にも書いたとおり,僕の上司はまったく仕事をしない.ほぼ仕事をまる投げするタイプの上司だ.僕の尊敬する先輩の代わりとして,今年1月に本社からきた営業担当者Nさんはその上司に対して「なんにも仕事をせずに,仕事を押し付ける」とストレスを感じているようだ.僕も当初は,「何も仕事をしない上司はアホだ」などと反感をおもっていた. ただ,2階で寝ているのがあたりまえなんだおと慣れてしまったせいか,逆に今となっては「重要な仕事を与えてくれてありがとう」という気持ちになっている.彼の仕事を請け負う=会社の運営を担当しているようなものになっている. 金利の高い口座を開設して現金の運用を考えたり,CPAとの対応,経理処理の全責任を負ってやっている.また,求人広告をつくり,採用までの面接をしたり,システム入れ替えを担当するなど幅広い経験をさせてもらっている. ■ 自分で自分のポジションを作る ここまでできるようになったもの,すべては無能なアメリカ人のおばちゃん2人がこの会社を去ったことから始まる(2005.07.07,ドラえもんの体系をした経理のおばちゃん).越権行為は絶対にゆるさないとしていた彼女らが今でも居座っていたら,今の自分はない. 彼女らがいなくなってからは,自分で自分のポジションを作ってきた.出荷業務をやっていたANAおばちゃんが去った後,会社が新しい人を雇おうとしていたのだが,「システム変更で業務を改善すれば,僕が出荷業務できる」といって,出荷業務と在庫管理担当とした. ドラえもんの体系をした経理のおばちゃんが去ったと,経理を担当した女の子が突然やめることになったときも,その業務をできる人間は僕しかいなかった.当初は完璧にこなせるかは不安だったのだけど,やってみれば経理など簡単だった. 電気工学でいえればオームの法則みたいに,簿記にも右肩左肩という原則中の原則がある.原則に基づいて処理をして,その処理が税法にのっとっているかはCPAの意見を求まればよいだけの話だ. 過去10年間赤字を垂れ流した会社が,去年から黒字化.今年の上半期も予算以上の黒い数字を出すことができそうだ.4年前に黒字を出す会社なんて想像もつかなかったのだけど,結果的に会社の成長させることによって僕自身の成長させたのだった. 今となっては貴重な経験をさせてもらった会社に対して,感謝しなければならないと思う今日この頃だ.
2006.06.18
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昨日の6月10日で,僕ら夫婦の結婚4周年(つきあいはじめてから13周年)を迎えた.かみさんと付き合い始めたのが,高校2年の6月10日.忘れないようにと同じ日に,籍をいれたのが4年前の6月10日だった.それからはや4年ですよ.四年.はやいものです.ということで,結婚記念日のためにと,とっておきのワインをあけた.ワイン好きであればだれでもしっている,カリフォルニアワインの最高級のワインだ. [2002] オーパス・ワンこのワインは,かみさんが地元の雑誌で懸賞に応募して当てたワインだ.早く飲みたかったのだけど,大切な日のためにとっておいた.香りはベリー系+スモーク系.味はしっかりした酸味に,しとやかでなめらかタンニン.ボディーは強めのバランスはいいが,これっという強い印象は薄かった.おいしいのだけど,コストパフォーマンス(買っていないのだが)は低めかもしれない.でもワインというのは価格をみるのではなくて,やっぱりマンダビとロートシェルトの情熱を感じることのができた貴重な体験と考えないといけないかな.A(A:すばらしい B: 良い C:まあ、飲める D:飲めない)
2006.06.12
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明日は,ラスベガスに日帰り出張です.ラスベガスは飛行機で1時間くらいだから本当に楽.とはいいつつも,1時間半前くらいに飛行場の待ち時間を考えると,実質は3時間とみないとね.まあ,飛行機の中で4~6時間拘束される東海岸と比べれば.ずっとましだ.そんなわけで,今日は早く寝ます.おやすみなさい.
2006.06.07
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腰痛がひどく,近所にある鈴木邦美東洋医学博士のクリニックで治療してもらった.この鈴木先生は,同じ大学を卒業した先輩で,ロサンゼルスにある同窓会で何回か面識がある.「痛みをとり健康体にする治療法」という仙骨を中心とした統合治療法を確立した人だ. バランス健康革命という本での紹介文 鈴木 邦美 1942年東京の深川で生まれる。18歳の時に多発性関節リウマチスという難病を患い、その時、服用した薬により多くの医原病にかかり、長年、闘病生活を余儀なくされる。その闘病生活中に痛みをとり健康体にする医師になることを決意。中央大学卒業後、日本療術協会会長より直伝していただき渡米準備を整える。1972年に渡米後、Woodberry University,Sawayer Collegeを卒業後、Yuin Oriental Medical Universityにて学士、修士、東洋医学博士号を取得。その間、ロスアンゼルスにてOriental Medicine Pain Clinicをオープンし、自身の闘病体験を生かした「痛みをとり健康体にする治療法」を約十種類以上を取り入れ治療にあたっている。仙骨を中心とした統合治療法を確立する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 先々週に,この年にもなってサッカーをした.その翌々日に家族でLA動物園にいって,リョウマ君を肩車していたとき,激しい腰痛を感じたのだ.一度座っておちついたら,とりあえず痛みは直った.そして,先週セントルイスの出張で,顧客にプレゼンで長時間立ちっぱなしでいたら,また同じ腰痛を感じた.こりゃやべ~な.ということで,先生にみてもらうことにした.同い年の友達が腰痛で鈴木先生にみてもらったのだが,「あれは本物だ」ということを言っていたことを覚えていた.さっそく先生のクリニックにいって,治療方法の説明を受けた.どうやら,仙骨(腰下の部分)のゆがみのバランスを整えることで,健康体を保つということらしい.治療は整体や指圧ににているけど,それプラスにマイナスイオンを体にあてたりするのだが,素人の僕にはよくわからない.唯一わかるのは痛みだけだ.「ここいたいでしょ」と指圧を受けるのだけど,これがまたいたくいたくて仕方がない.「ぐぎゃ~,いたいです.いたいです」みたいに散々叫んだ.先生から「ここがいたむと肝臓がわるい」とか「ここは心臓」.「これはあごのがちゃんとはまっていない証拠」などなど.あげくのはて,「こりゃ~,ひどいね」と散々いわれまくった.でも,先生のバランス療法で整体みたいに「よいしょ~」とか,指圧みたいなものをうけてあとには,先ほど痛かった場所がうそのように消えていたのは驚きだった.こりゃ~本物だ.終わったあとには,結構体がすっきりした感じにはなったのだけど,いちどバランスを調整しても,体の骨はすぐに元に戻ってしまうらしい.「本気でなおす気あるの?」と先生から問われて,いうまでもなく「本気で直す気はある」と答えた.ということで,はまりはじめたゴルフは中止,会社へのチャリ通も中止して,徒歩で通うことにした.重いものは持たない.そして,また来週アポをとり,この鈴木先生に治療してもらう.
2006.06.06
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村上ファンドのインサイダー取引疑惑で世間を騒がしている(関連記事)以前,ライブドア事件の当初,村上も危ないと日記に書いたことを思い出し,当時の日記を振り返ってみた. ライブドアショック 政界へ~ダイナシティー→闇組織→安部官房長官&村上2006.01.31)当時は,ホリエモンの逮捕はとっても驚きの事件だった.インターネットで夢中になって調べたら,その奥深さはすごかった.ライブドア ~ダイナシティー~暴力団~村上~そして安部さんのつながりだ.マネーロンダリングを担当していた野口さんは沖縄で殺害されたと噂されている.この日記で,「インサイダー疑惑のある村上ファンドもやばい」と書いたのは,ニッポン放送についてではなく村上ファンドによるライブドアオート株の買占めについてだった.村上ーホリエモンラインでは,闇社会とのつながりと,インサイダー取引についてはいろいろ悪い噂が耐えない.今回の捜査で,どのくらい真実を突き止められるか注目だ.
2006.06.04
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アメリカの開拓者の街,ミゾリ州のセントルイスに行ってきた.出張自体はめちゃくちゃ疲れたけど,取引先社長にいろいろセントルイスを案内してくれて楽しかった旅でもあった.セントルイスはミシシッピー川という海運で恵まれたおかげで,18世紀初頭から栄えた西への開拓者の街で,まちを歩けば歴史を感じることができた.セントルイスのシンボル,Gateway Archだ.建築家のEero Saarinenがデザインし,1966年に完成.高さ192メートルにもなるアーチはめちゃくちゃ感動したね.「西への門(Gateway to the West)」ということで,このアーチは西側を向いている.ダウンタウンからアーチをみる.ミシシッピー川.海運の拠点として,現在でも重要なインフラだ. 1894年に完成したセントルイス ユニオンステーション.鉄道の駅だったけど,19世紀中旬には閉鎖され,現在はショッピングモールとなっている. カーディナルスの野球場.取引先の社長は,車の移動中ラジオでカージナルスの試合をずーっと聞いていたのだから,地元の野球熱はすさまじい.ロサンゼルスでそこまで熱い野球ファンはあまりみない. 名前はしらないけど,歴史の古そうな教会.セントルイスの歴史を感じるね. セントルイス美術館を裏側から眺めて.セントルイス動物園の入口.最近完成したらしいが,どうやらブリキみたいなものでできている.かわいいね.
2006.06.03
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明日からMO州のセントルイスへ出張だ.朝一の便で,朝3:30起き.きつい! アメリカは本当に広いので,東側に移動してその日のうちに仕事をやろうとなると,恐ろしいほど早起きしなければならない.今回みたいに1泊の強行スケジュールを組むと,朝一番に家をでて,帰ってくるのは深夜みたいしんどい旅となります.まあ,ぶつくさ文句いわず,行ってきます.
2006.05.30
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マイアミから帰ってきました.ちょうどマイアミではワニに殺された被害者で話題になっていた.どうやらたった1週間で3人が殺されたらしく,マイアミ住民は結構ショッキングな話だったようだ.もともとはマイアミの人口が増えるにしたがって,湿地帯をどんどん開拓していった.その開発にしたがって貴重なワニの生態系を壊され,激減するワニにたいして保護をするよう政府が動いた.自宅にワニが表れても,殺さずに捕獲するよう市の捕獲隊に連絡しなければならない.銃などで殺してしまえば,500ドルの罰金に科せられるらしい.しかしながら,ワニの保護で増加するなかで,今度は捕獲隊の人数が足りず,捕獲が追いつかないとも言われている.マイアミ行かれる方,水周りはかなり危ないっす.
2006.05.20
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明日からフロリダ州のマイアミに出張に行ってきます.マイアミは今回で2度目.今からちょうど2年前に,かみさんとマイアミ,キーウェストへ旅行で行ってきた.このキーウェストの7マイルブリッジは結構感動したね.まあ,今回は仕事なのでとくに楽しみはないけど,過去の旅行を思い出す今日この頃.
2006.05.17
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