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クロニクル 大気汚染指定地域全面解除1986(昭和61)年10月31日28年前のこの日、中央公害対策審議会は、大気汚染指定地域の全面解除を決定しました。これは、工場排煙、ゴミ焼却場の排煙、自動車の排気ガス等の大気汚染物質の除去が、排煙脱硫装置の普及や、自動車用排ガス浄化装置の発達などによって大きく前進し、一時期に比べて大気の汚染状況が改善した結果によるものでした。しかし、浄化されたといっても、都会の空気は、決して美味しいものには戻っていませんね。 しかも3/11以後は、そこに放射能汚染が加わり、いまなお解決の目途は立っていません。名ばかりの情報公開の悪弊が目立ちますね。マスコミも隠す側に荷担している様子も次第に明らかになりつつあり、今や国民が怒るべき時にきているよう思えます。
2014.10.31
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クロニクル 教育勅語発布1890(明治23)年10月30日この日、明治政府は「教育勅語」を発布しました。124年前になります。自由民権運動の盛り上がりは、国会開設の約束でかわしましたが、明治17年の秩父事件では、秩父の農民達がいとも気軽に、「怖レナガラ、天頂様ニ攻敵スルカラ、加勢シロ」と近在農民に呼びかけていたことが伝えられ、政府の魂胆を寒からしめました。徳川270年の支配すら、あっけなく倒されたではないか。ならば、僅か17年の天皇の政府くらい倒すのは簡単だ。これが秩父農民の考え方でした。こうした農民層の受けとめ方は、全国的に共通します。そのことに気付いた政府はあせりました。これは放置できない。天皇を敬う心を教え込み、天皇制イデオロギーを社会に浸透させなければならない。こうして考えられたのが、明治15年に発布されていた軍人勅諭の積極活用であり、この日制定された教育勅語の活用でした。学校と軍隊で思想教育を徹底しようというのです。勅語は、親に孝,主君に忠...などの標語を並べ、「日本は天皇を父とし、皇后を母とする家族国家である」とする事によって、忠と孝の間の相克を取り除いたのでした。そして、勅語の徳目を一つ一つ学習する場が「修身」の時間でした。歴史(国史)の時間では、歴代天皇の名を全て暗誦することから始めて、天皇の善政と、国民への慈悲の姿勢のみを学ぶことによって、ここでも天皇のあり難さを子ども達に刷り込んだのです。勿論南北朝の抗争など、天皇位を巡る皇族間の争いなど、天皇の名誉に関わることは、教科書ではカットされていました。皇国史観によって脚色された歴史教育です。幼い内に刷りこまれる天皇絶対のイデオロギーは、そうした子ども達が親になり,社会の中心になるにいたって完成します。天皇制国家の支配構造は、こうして日露戦争の勝利後、明治末には完成し、いつしか、天皇は日本国民の父といった位置付けから、現人神にまつりあげられていきました。1番困っていたのは、天皇その人だったのかもしれないと、この頃は考えるようになりましたが...。身近の「拉致」の国の、「将軍」様のやっていることは、明治国家版、国民思想教育をそっくり真似しているように思えます。そう考えると、他人事でないような...。それにしてもひどい話でした。国民思想教育の先兵が教育勅語だった事実は、忘れてはいけないことのように思います。
2014.10.30
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クロニクル NTT株の売出し価格決まる1986(昭和61)年10月29日28年前になります。大蔵省(当時)は、この日、NTT株の一般投資家への売出し価格を、1株119万7千円と決めた旨を発表しました。薄く、広く幅広い投資家に行き渡るようにとの行政指導が行き渡ったせいか、我が家でも当時付合いのあった証券会社から、ワイフと私の名義で各1株の割当を受けたことを覚えています。東証等への上場は、翌87年の2月9日でしたが、この日は買いが殺到して、超大型株にもかかわらず、値つかずで終え、翌日10日に160万円の初値をつけました。その後も上昇を続け、318万円で天井を打ちました。そこからの下げは、ご存知の通りです。公募に当たった投資家はそこそこの利益を手にできたわけですが、上場後に参加した投資家の中には、高値のババを掴まされた方も多かったようです。この後、バブルの絶頂の89年12月末まで、株式市場は我が世の春を謳歌しましたが、その後の凋落は、今もなお回復できておらず、さながら日本経済の縮図をみるようですね。
2014.10.29
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クロニクル 「わたし作る人...」なんて差別だわ1975(昭和50)年10月28日来年で40年になるのですね。当時「わたし作る人、ぼく食べる人...」というハウス食品のコマーシャルが、良くブラウン管を賑わしていましたね。たしか食べ物はカレーだったような...?我家では、当時麺類は私が茹でていたのですが、特に気にすることもなく、ワイフと笑いながら、何気なく見ていましたが、このコマーシャル75年の10月をもって、突然放送打ちきりとなりました。75年は、国際婦人年と銘打たれた年でしたが、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」という、おそろしく長たらしい名称の団体が、当時人気のあった「わたし作る人、ぼく食べる人」のコマーシャルに対し、「男女の役割分担を固定化する差別CMである」として、提供元であるハウス食品工業に抗議文を送り、放送中止を求めたのです。指摘を受けたハウス食品は、食品メーカーとして婦人団体を敵に回すわけにはいかないとして、この日CMの中止を決断。今月末をもって放送を中止する旨を「行動を起こす会」に伝えました。同会は、今後も女性差別に通じるCMには、抗議を続けるとの姿勢を表明したのですが、テレビCMだけを対象としたため、巷に反乱する差別語は平然と見逃してしまい、そうした差別語が今もって平然と使われ続けるという、弱点も露呈しました。一例をあげておくと、子ども達の小・中・高校のPTAの会合の名称です。「父母会」と自覚的に呼んでいる学校はどれだけあるでしょうか。未だに戦前の家父長制社会そのままに、「父兄会」と呼んで憚らない方達が数多く見受けられます。「父兄会」の兄は、家督相続者であり、父に事あれば、弟妹達の生活の面倒を見る責任を負う、浅見光彦君の兄上のような兄を指す語で、今日ではほとんど存在しません、保護者の集まりに兄が出席することも、ほとんどありません。実際の出席者はほとんどが母親で、父親がちらほらといったところでしょうか。現実には子に対して圧倒的な影響力を発揮しているのは母親です。その母親の存在を無視して憚らない鈍感さに、実はわたしは呆れています。「いまどき「父兄会」だなんて、そして「ご父兄の皆様」だなんて、よくもまぁ平気で言ってますねぇ、あんた古いネェ...」これはわたしの1人言です。
2014.10.28
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クロニクル フランス人民戦線崩壊1938(昭和13)年10月27日76年前のことです。この日、フランスの人民戦線が崩壊しました。人民戦線とは、迫り繰るファシズムの脅威に対抗することを目指して、1936年にフランスの左翼並びに中道政党や、労組などの各種団体が連合を組んだ統一戦線を指します。政党では共産党、社会党、急進社会党の3党が、「パンと平和と自由と」をスローガンに統一戦線を組んだのですが、当時のフランスの選挙制度が小選挙区2回投票制だったからこそ、実現した緩やかな連合でした。2回投票制とは、第1回投票で有効投票の過半数を獲得した候補がいなかった場合に、上位2名で決戦投票を行なうという制度です。したがって第1回投票では候補者調整の必要はなく、2回目の決選投票に残った候補を互いに応援し合えば良いのですから、協定を結び易かったのです。決戦に残った2名が共に3党の候補だった場合、他の1党は1位の候補に投票する決まりでした。こうして、人民戦線は1936年5月の総選挙に大勝し、社会党のレオン=ブルムを首班とする内閣を組織、労働者に3週間のヴァカンスを保障する労働協定法案などを成立させる成果をあげましたが、スペイン内戦の勃発にどう対応するかで、意見が割れて、戦線は不安定化し、次第に有名無実となり、この日遂に崩壊の憂き目を見たのです。時に第2次世界大戦勃発の、約10ヶ月前のことでした。
2014.10.27
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クロニクル 伊藤博文公暗殺1909(明治42)年10月26日105年前のことです。この日、前韓国統監伊藤博文(69才)公が、清国黒竜江省の省都ハルビン駅頭にて、朝鮮人青年安重根の凶弾に倒れました。この日、伊藤公は日露戦争後のロシアとの関係修復をはかるために、ロシア蔵相ココフツェフとの会談のため,ハルビンを訪れ、駅構内の列車の貴賓室での会談を終えて、列車を降り、居並ぶ各国領事と挨拶を交わした直後に、安の銃弾に倒れたのです。日本国内は,この報に強い衝撃を受けましたが、統監として、日本の朝鮮支配を強化した伊藤は、韓国民衆にとっては怨嗟の的であり、暗殺者安重根は、韓国では独立運動の義士として、今も英雄視されています。1つの事件も、見る角度が変わると,全く異なった顔を見せる。そんな歴史理解の難しさの一端を示す、好例がここにあります。日中・日韓の歴史理解を擦り合わせる作業はやらなければならないことなのですが、その作業はなお前途遼遠だと思わざるをえません。しかし、独・仏はヨーロッパ連合の前進に向けて、過去の怨念を捨てて、共通の歴史教科書の作成に向けての困難な作業を続け、遂にその作業を完成させました。アジア特に北東アジアの日・中・韓の努力が、今や世界から問われています。この事実の重さを、言葉の軽い政治家や、マスメディアの皆さんに噛みしめてもらいたいですね。
2014.10.26
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クロニクル 日本政府外交権を喪失1945(昭和20)年10月25日69年前のこの日、GHQは日本政府に対し、日本政府の外交権を停止する旨を通達、ここに占領下の日本における統治権は占領軍であるGHQに属し、GHQに委任された範囲でのみ、日本政府に存在価値がある状況が続くことになりました。この状況が本格的に解消するのは、サンフランシスコ講和によって、占領状態が解消され、日本が主権を回復した1952年4月28日(条約締結は1951年9月8日)になります。戦争に負け、占領されるということは、こういうことなのですね。敗戦を終戦と言い換えてみたところで、こういう事実が消せるわけではありません。確かに敗戦を受け入れて降伏すれば、戦争は終わりますから、敗戦の受諾は終戦であることも間違いではないのですが…。 マスコミを含めて、なんとも姑息なことをするものですね。
2014.10.25
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クロニクル ウォール街の暗黒の木曜日1929(昭和4)年10月24日85年前のことです。世界恐慌の幕開けだったとされる、有名な株式大暴落の話です。10月はじめから微妙な値動きを示していたNY株式は、この日の朝は平穏でしたが、10時前から急激に下げ始め、売りが売りを呼ぶパニック状態になりました。昼近くには、取引の正確な情報さえ分からないという混乱状態に陥りました。しかし、午後になって金融界が急遽対応策を練っているとの情報が伝わると、急速に持ち直して、この日の取引を終えたのです。しかし、これは1時的な凪に過ぎず、翌週29日には終日売りの嵐が吹き荒れたのです。「暗黒の木曜日」に続く「悲劇の火曜日」の追い討ちでした。ここに、株価は10月だけで、37.5%も急落、上場株式の時価総額は9月末評価の896億ドルから、12月1日には、なんと635億ドルへと、259億ドル強の減少となりました。NY株式の工業株平均は、ニュヨークタイムズの発表によれば、1926年末の180ポイントから上昇を始め、28年1月には240ポイント、29年1月には330ポイントと、倍近くに上昇していました。その後も、実態経済の変調、フォード車の売れ行き不振が報じられる中、なお夢見る投資家の参入で上昇を続け、10月には440ポイントの高値を付けていたのです。バブルの崩壊、ユーフォーリア(根拠のない熱狂)の醒めたあとを知る我々には、何かわが身に起こったことのような感じもします。さて、米国の株価大暴落は、実態経済の変調に目をつぶっての買い漁りの結果でした。それだけに投資家の受けた傷は大きく、資金繰りに窮した投資家は、欧州への投資を回収して、損失の穴埋めをせざるをえなくなったのです。こうした行動は、米国からの資金流入に頼って、第1次大戦の破局から、経済再建を進めていたドイツ経済を直撃し、そのドイツからの戦争賠償に頼って経済再建を進めていたイギリスとフランスの経済にも大打撃となったのです。この混乱は植民地経済にまで波及して、ついにはソ連を除く全世界を巻き込む世界大恐慌となったのは、御存知の通りです。
2014.10.24
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クロニクル 長銀一時国有化を申請1998(平成10)年10月23日16年前のことです。春以来,迷走を続けていた日本長期信用銀行は、この日債務超過から、金融再生法に基づく一時国有化を申請し、その46年の歴史に自ら幕を下ろしました。政府・大蔵省は、危機的状況にある長銀の救済合併を住友信託銀行に依頼したのですが、住信は、資産査定の曖昧さが残り、債務超過の可能性が残る長銀を救済することは、自らの経営体力を損なうので出来ないと拒否したのです。このため、危ない銀行を健全銀行が救済合併するという、大蔵省得意の筋書きは、不発に終わりました。こうして万策尽きた長銀は、16年前のこの日、実質的に倒産したのです。
2014.10.23
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クロニクル キューバ危機発生1962(昭和37)年10月22日52年前のこの日、アメリカ合衆国のケネディ大統領は、カリブ海の隣国キューバに、ソ連がミサイル基地を建設中である証拠を掴んだと発表、今後の武器等の搬入を阻止するためにキューバに対する海上封鎖を実施する、ソ連船といえども臨検の例外とはしないと発表しました。すわっ米ソの軍事衝突は避けられない、第3次世界大戦=核戦争の勃発かと、世界は悲壮な覚悟を迫られました。この日は丁度私の20才の誕生日でした.米国時間の22日でしたので、日本でニュースを知ったのは、23日の夕刊でしたから、良かったのですが、それでも20才になった翌日から暗い気持にさせられるとはと、忘れられない苦い記憶が今も鮮明に残っています。数日後、ソ連共産党のフルシチョフ第一書記は、キューバ近海に達していたソ連船に引き上げを命じ、危機は回避されました。世界が第3次世界大戦に最も近づいた1週間でした。
2014.10.22
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クロニクル ウーマンリブ登場1970(昭和45)年10月21日44年前のことです。この日は国際反戦デー。各地で学生や労働者がヴェトナム反戦の集会を開く中、東京京橋の水谷橋公園では、ヘルメット姿で「男は立ち入り禁止」とした集会が開かれていました。60年代の後半から欧米で盛んになった,女性自身による女性解放運動、「ウーマンリブ」の日本でははじめての街頭への進出でした。デモに参加したのは、いくつかの女性解放団体のメンバー約200人で、ほとんどが20~25歳と思われる会社員か学生といった若い女性達でした。夫々が思い思いのヘルメットを被り、「男達を喜ばせるための服装や化粧はしない」とか「妊娠中絶の禁止反対」などを掲げて、数寄屋橋から新橋まで、短い距離でしたが、派手なジグザグデモを繰り広げました。このデモがきっかけとなり、11月14日には、日本初のウーマンリブの大会が開かれ、「性差別への告発」をテーマに活発な討論が行なわれました。女性の社会進出が、なお道半ばの時代の出来事で、ウーマンリブ運動の参加者達は、現在のように自然体のままで、何気なく女性解放運動に参加することが出来ず、やがてジリ貧に陥って行きました。肩に力の入りすぎたままの運動は、長続きしないことを地で行った感じでした。
2014.10.21
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クロニクル 中曽根裁定下る1987(昭和62)年10月20日昨日に続き本日も27年前の事を記します。昨日記したNYのブラックマンデーの影響で、東京市場は朝から売り一色。買い物が入らないため、ストップ安売り気配の銘柄が続出するパニック状態にありました。そんな27年前のこの日、引退を表明していた中曽根首相は、後継総裁に名乗りをあげていた、安倍晋太郎・竹下登・宮沢喜一の3氏の白紙委任を取り付けた上で、自らの後継に最大派閥竹下派の竹下登氏を指名しました。最大派閥からの総理・総裁の登場は、田中角栄元首相の辞任後、13年振りのことでしたから、長期安定政権誕生かと思われたのですが、「好事魔多し」というべきか、竹下首相がリクルート事件に連座して、一般消費税の導入を花道に、在任2年足らずで辞職を表明したのは、89年4月末のことでした。それから自民党ばかりでなく、日本政治の漂流が始まったような気がします。
2014.10.20
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クロニクル ブラック・マンデー1987(昭和62)年10月19日27年前のことです。この日、NY株式市場が急落、ダウ工業株30種平均は、一挙に508ドル32セント、率にして22.6%もの急落を記録しました。そうなんです。当時のダウ平均は2400ドル前後だったのです。米国ウォール街での株価急落は、あの世界恐慌の引き金を引いたことで名高い、1929年の暗黒の木曜日が有名ですが、あの29年当時の暴落でさえ、下落率は12.8%だったのですから、記録を10ポイントも上回る大暴落でした。レーガノミックスによる財政と貿易という双子の赤字が、アメリカ経済を蝕んでいたとか、システムトレードの普及が、サーキットブレーカーを発動させ、売りが売りを呼ぶ連鎖となって、下落幅を拡大したとか、色々な検証結果が発表されましたが、おそらくその全てが一分の真実をついていたものと思われます。一夜明けた火曜日の東京市場も、日経平均は3836円安と、14.9%の急落を記録、翌日こそ戻しましたが、その後再び下げに転じ、年末まで約2ヶ月の調整を余儀なくされました。しかし、欧米市場に比べると、日本市場の下げは小さく、翌88年1月から、89年12月にかけて、いわゆるバブル景気を謳歌することになります。
2014.10.19
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クロニクル フラフープ発売1958(昭和33)年10月18日56年前のことになります。フラフープはご存知ですね。特に女性の方はだっこちゃんと一緒にインプットされているのでは…。実は56年前の今日は、日本でフラフープが発売された記念すべき日にあたります。
2014.10.18
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クロニクル OAPEC石油戦略を発動1973(昭和48)年10月17日41年前になります。この日、ペルシア湾岸6ヶ国は、原油公示価格を21%引き上げることを決定、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国の石油担当相会議は、イスラエル支持国向けの原油生産を5%削減するという、石油戦略を発動しました。6日に始まった第4次中東戦争において、この日いよいよ産業社会の命綱,石油を武器とした石油戦略が発動されたのです。世界経済を大きく揺るがせた、史上に名高い第1次オイルショックは、この日の決定が基となって、スタートしました。
2014.10.17
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クロニクル 北炭夕張新鉱でガス事故1981(昭和56)年10月16日33年前になります。この日、午後0時40分頃、北海道夕張市の北海道炭鉱汽船(略称北炭)の夕張新鉱で、坑口から約3000メートル、地下約800メートルの地点でガス事故が発生、構内で作業中の坑夫が酸欠やガス中毒で次々に倒れました。危険度の高い有毒ガスが蔓延しているため、救出も難航を極めたのですが、追い討ちをかけるように、午後10時過ぎに坑内火災が発生、大惨事になりました。「北炭」夕張新鉱は、「北炭」夕張炭鉱が5年の歳月と300億円もの巨費を投じて開発、75年6月に操業を開始した深部採炭型の炭坑でした。最新の設備を誇っていたのですが、最深部の可燃性の高い質の良過ぎる石炭を採掘するため、ちょっとした火気でもすぐに火災が発生したり、有毒ガスが噴出したりするなど、操業当初から事故に苦しめられておりました。操業1ヶ月の75年7月には、早くもガス突出事故が起きて、5人が死亡、14人が負傷しました。80年の8月にも坑内で火災が発生しています。そんな矢先のこの日の事故だったのです。そして、この日夜10時過ぎに発生した火災は、なかなか鎮火せず、1週間後の23日になっても燃え続けていました。そこで、会社側は23日に至って、救援に入ったまま行方不明になっていた救援隊の10名も、坑内で死亡したものと判断、3次、4次の災害を防ぐための苦渋の決断として、坑内に救援隊を含めて59人の行方不明者を残したまま注水を開始したのです。死者は総計で93人にのぼりました。この事故が原因で、北炭夕張炭鉱は12月に倒産、再建計画も不調に終り、翌82年10月、夕張新鉱は閉山しました。2006年に財政破綻した夕張市の苦難は、ここに始まったのです。
2014.10.16
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クロニクル 拉致被害者5名帰国2002(平成14)年10月15日もうあれから12年も経つのですね。朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」)に拉致された拉致被害者のうち、9月の小泉首相の訪朝の際に、「北朝鮮」が生存を確認した5名の皆さんが、この日久々に日本の土を踏みました。蓮池夫妻、地村夫妻、そして曽我ひとみさんです。他の方々は死亡と発表されました。この報に接した時の私の印象は、よくぞまぁ、拉致という国家犯罪を認めたものだという点にありました。「国家は過ちを認めないし、あやまらない」の倣岸不遜を貫く日本の官僚機構であれば、拉致を認めるなどということは絶対にしなかっただろうと、考えるからです。それだけに私は、拉致被害者家族会の皆さんが、帰国しなかった自分たちの家族が、なお「北朝鮮」で生存していると思って活動されているお気持ちを理解しながらも、12年前に死亡と発表された皆さんについては、生存の可能性は低いのではないかと受け止めています。それだけに、再々調査を約束した今回の「北朝鮮」側の対応に、いったいどんな答えをもってくるのか。体制内部をまとめ切れるのかと、いくつもの疑問を感じておりました。果せるかな、金正恩総書記が40日ほど姿を見せなかったり、日本側への中間報告が遅れたりと、「北朝鮮」側の揺らぎを示す兆候が、次々と表面化しています。どういう決着になるかはともかく、拉致問題が全面解決に至るには、南北朝鮮の統一が欠かせない。日本側が納得する解決は、統一後になるであろうと、私は考えています。日本政府のすべきことは、南北統一を早期に実現して、朝鮮半島全域をくまなく探せるような環境を整えることにあると、私は考えています。それはまた、かつて朝鮮半島を植民地として支配した日本が、ひと汗かくべきことでもあるように思うのです。
2014.10.15
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クロニクル 「日本史」の授業再開 1946(昭和21)年10月14日68年前のこの日、GHQは国民学校(小学校)における、日本歴史の授業再開を許可する覚え書きを発表しました。前年の12月31日、GHQは「修身」「日本歴史」「地理」の授業停止と教科書回収の覚え書きを出し、この年46年1月25日には、有名な「墨塗り教科書令」を発令するなど、学校教育は激しい変化の中にあったのですが、7月の「地理」、9月の「公民」に続いて、この日,最も遅れていた「日本歴史」の授業再開に許可を出したのです。授業は『くにのあゆみ』と題する全く新しい歴史教科書を用いて行われ、神話からではなく考古学的叙述から始まる画期的な内容で、学問上の成果を無視する皇国史観とは一線を画したものでした。ここに日本の歴史教育は、科学的な歴史教育への第一歩を記しました。
2014.10.14
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クロニクル トルコ共和国アンカラに遷都1923(大正12)年10月13日91年前になります。関東大震災から43日後ですね。この日、誕生間もないトルコ共和国のケマル・アタテュルク大統領は、イスタンブールからアンカラへの遷都を正式に発表しました。第一次世界大戦の敗戦国オスマン帝国は、他の敗戦国同様厳しい講和条件を押し付けられたのですが、スルタンの政府は抵抗することもせず、自己の政権の継続を条件にそれを受け入れ、1920年セーヴル条約を結びました。しかし、この条約はトルコ人の主権を著しく制約する内容だったため、ケマルらは敢然と立ち上がって連合国、特に強硬なギリシアとギリシアの肩を持つイギリスに戦いを挑みました。国民の支持を得たケマルらは、アンカラに臨時政府を組織して戦いを進め、1923年トルコ人の共和国の独立を認めさせることに成功、セーヴル条約を破棄してローザンヌ条約を結ぶことに成功したのです。こうしてトルコもまた、民族自決権を確保し、同時にスルタン制を廃して、共和国となることを選んだのでした。首都のアンカラへの移転は、その帰結でした。
2014.10.13
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クロニクル サラ金の実態調査結果発表 1978(昭和53)年10月12日36年前です。この日,警視庁はサラ金等貸し金業に関する実態調査の結果を発表しました。この時期は、サラ金等による40~60%という高額な利息と苛烈な借金の取立てが社会問題化していた時期でした。調査によると、同年1月から8月までの8ヶ月間で借金苦による自殺者130名、蒸発等行方不明者1,502名、自殺者の88.5%が男性、女性は主婦が大多数だったと報告されています。また特に女性の借金の大部分は、30~50万円の小口で「家計のやりくりのために借りたが、利息があまりに高く、元金が減らずに困っていた」人だったという実態が示され、また家出人の多くが20~40代だった事実も明らかになりました。ここに、サラ金規制の必要性が明かになったのですが、サラ金等からの政治献金がネックになったのか、国会での審議はなかなか進まず、世論やマスコミの指弾を受け、ようやく「サラ金等規正法」が成立をみたのは、なんと1983年11月でした。警視庁による実態調査発表の5年後です。ここで留意したいことは、この時の規制が高利規制、過剰融資規制、強制取り立て規制の3点の眼目を持っていたことです。それでも、利息制限法の上限金利とは別に、出資法に定めるより高い上限金利という2種類の上限金利が併存したために、サラ金各社は、「グレーゾーン」と呼ばれた出資法の上限金利を適用して、高収益をあげていました。こうした実態に対する批判に対しても、「金利を下げれば生活困窮者は融資を受けられなくなる」との主張が業界寄りの議員や官僚からしきりに出され、2006年の最高裁判決で、「グレーゾーン金利は違法であり、その差額は過払い金として返還される必要がある」とされるまで、より高い金利が適用され続けました。その後、過払い金返還請求が殺到し、返還に追われた業界が不振に陥ったのは、まさに自業自得というべきでしょうか。
2014.10.12
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クロニクル 国鉄の分割・民営化閣議決定 1985(昭和60)年10月11日来年で30年になるのですね。この日、政府は国鉄の分割民営化を閣議決定しました。民営化法案は、翌86年11月28日に衆議院を通過、87年4月1日に、JR各社や国鉄清算事業団などが発足、国鉄は110余年の歴史に幕を引いたのでした。
2014.10.11
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クロニクル 田中金脈事件の幕明け1974(昭和49)年10月10日こんにちは。今日は1964年の東京五輪の開会式から、ちょうど50年目の記念日です。ただこの記事は2020年の五輪が東京で開催されることになったことに因んで、昨年取り上げましたので、今日はこちらの話題にしました。東京の五輪開幕からちょうど10年後、40年前の話になります。この日、立花隆氏の「田中角栄研究ーーその金脈と人脈」を掲載した『文芸春秋』11月号が発売されました。世に言う「田中金脈」問題の口火を切ったこの論文は、発売と同時に大きな話題を呼び、今太閤と話題を呼んだ田中人気は急速に失速、田中首相は11月26日には,辞職を表明するところまで、追い詰められたのでした。その後、ご存知「神に祈る気持で…」と表した椎名裁定で、三木武夫氏が総裁に指名されたのは、12月1日のことでした。
2014.10.10
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クロニクル ビルマで爆弾テロ1983(昭和58)10月9日31年前のことです。現在のミャンマーが、まだビルマと名乗っていた時期のことです。この日、現地時間10時25分頃、ビルマの首都ラングーン(現在はミャンマーの首都ヤンゴン)の国立殉難者記念廟で爆発事件があり、ビルマを公式訪問中の韓国政府要人等韓国人17人とビルマ人4人が死亡、多数の重軽傷者が出ました。韓国の全斗煥大統領は、到着が遅れて難を逃れたのですが、副首相は死去しました。この記念廟には、ビルマ建国の父で、アウン・サン・スー・チー女史の父にあたるアウン・サン将軍の遺体が安置されており、ビルマを公式訪問した外国政府要人が、必ず訪れる場所だったことから、全大統領の参拝を狙った爆弾テロだったことは明らかでした。時あたかも、大韓航空機爆破事件の40日後でしたから、韓国政府はただちに北朝鮮の仕業と断定し、強い抗議談話を発表しました。ビルマ政府もメンツをかけて迅速な捜査を実施、11日と12日に犯人2名を逮捕、北朝鮮工作員の仕業と断定、ただちに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国交を断絶しました。
2014.10.09
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クロニクル 佐藤前首相にノーベル平和賞1974(昭和49)年10月8日ちょうど40年前のこの日、佐藤栄作前首相にノーベル平和賞が授与されることが発表されました。在職中に実現した「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」の非核三原則の国会決議が、高く評価された結果でした。非核三原則は、72年に米国から返還された沖縄の米軍基地に、核兵器が配備されたままではないのかという不安感が拭えず、沖縄の人々が訴えていた「核抜き本土並み返還」が本当に実現したのだろうかと、国会でも厳しく追及されました。こうした野党の追及をかわす為に、非核三原則を世界にアピールすることが提案され、国会で満場一致で議決されたのです。ですから。非核三原則は佐藤首相自身が積極的に推進したものではなかったのです。それだけに、国内ではその他のノーベル賞受賞者の時のような、祝賀ムードは見られず、かえってノーベル平和賞の権威を傷つける受賞とさえ、言われました。
2014.10.07
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クロニクル 附加価値税導入断念1979(昭和54)年10月7日35年前のこの日、第35回衆議院議員選挙が行われました。前年に就任した大平首相は、財政再建を錦の御旗に附加価値税の導入を掲げて選挙戦を戦い、惨敗しました。その結果、自民党は保守系無所属議員を追加公認するという、窮余の一策で辛うじて過半数を確保したのです。約1ヶ月後の11月9日の首班指名選挙では、自民党から大平総裁の外に、前総裁の福田赳夫氏も出馬、党内を二分する分裂状態となりましたが、田中派の支持を得た大平総裁が新自由クラブの支持も得て、辛うじて勝利する一幕となりました(大平・田中vs福田の30日抗争。この頃から角影内閣の呼称が生まれました)。ここに、附加価値税の導入は頓挫し、中曽根内閣の下での売上税の導入も失敗。竹下内閣の下で、消費税(当初税率3%)と三度名を変えて(課税方法も少しづつ変わっていますが、大型間接税という本質は変わっていません)、ようやく導入に成功したのは、附加価値税構想発表の10年後、1989年のことでした。実際に消費税が課税されるようになったのは、1989年の4月1日のことでした。
2014.10.07
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1973(昭和48)年10月6日41年前のことです。この日、エジプト・シリア両軍がイスラエルに対する攻撃を開始、第4次中東戦争が始まりました。過去3度の戦いでは、欧米諸国の支援を受け、空軍力に勝るイスラルが圧勝していました。その反省に立って、第4次の戦闘では、アラブ諸国は石油戦略を発動して原油生産の削減を決定、原油価格の引き上げと、イスラエルを支持する国には、産業の米である石油を売らないことの2点を、各国に通知しました。その結果、アラブ世界から石油を買っている諸国は、先を争ってアラブ支持を表明、欧米諸国もイスラエルを支持するわけにはいかずに、中立を宣言。戦いは、欧米からの武器援助を十分には受けられなくなったイスラエルが苦戦し、序盤はアラブ諸国軍が優勢でした。イスラエルは後半必死に盛り返し、辛うじて引き分けに持ち込んだのですが、ここにイスラエルの不敗神話は崩壊しました。この時OAPEC(アラブ石油輸出国機構)はOPEC(世界石油輸出国機構)の協力も得て、原油の減産を実行して、第1次石油ショックの引き金を引いたのです。ここに、従来1バーレルあたり2ドル~3ドル程度(差は原油の質による)だった原油価格は、15~18ドルに急騰(その後、80年の第2次石油ショックでは30ドル前後に急騰)しました。これでも現在に比べればグンと安いのですが、当時としては大変でした。日本国内では洗剤やトイレットペーパーがスーパーの店頭から消え、パニックが起きましたし、世界的に物価は急騰しながら、景気は最悪と、戦後世界では最初の世界同時不況となり、世界的にスタグフレーション(不況下の物価高)が深刻化しました。
2014.10.06
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クロニクル 山口百恵引退コンサート1980(昭和55)年10月5日あれから34年も経ったのですね。この日、俳優の三浦友和との結婚を機に引退を発表した、当時人気絶頂の歌手山口百恵のファイナルコンサートが、東京九段の日本武道館で開かれました。別れを惜しむファンが詰めかけ、会場は12,000人のファンの熱気に包まれました。山口百恵は、当時の人気番組だった、日本テレビの「スター誕生」で見出され、1973年5月「としごろ」で歌手デビュー。桜田淳子、森昌子と3人で、花の中3トリオとして人気を集めました。「コスモス」「プレイバックPart2」などのヒットを飛ばし、引退までにLPレコード485万枚、シングルレコード1600万枚(当時まだCDはなかったのです)を売上げました。三浦友和とは映画「伊豆の踊り子」「絶唱」などで共演、いずれも200万人の観客動員を記録する大ヒットとなるなど、惜しまれての引退でした。引退後一度もマスコミに登場しない姿勢も、一本筋が通っていますね。
2014.10.05
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クロニクル 自自公3党連立政権樹立で合意1999(平成11)年10月4日15年前のこの日、自由民主党・自由党・公明党の3党は、連立政権を樹立することで合意しました。この合意に基づき、翌5日に成立した小渕改造内閣には、自由党から1名、公明党から1名の、計2名が、連立政権の閣僚として参加しました。このうち、自由党の党首は、後に民主党代表になる小沢一郎氏でした。やがて、自由党から、野田毅、扇千影氏らが分離独立して、保守党の名乗りを上げ、その後自民党に吸収されてゆくのですが、小沢自由党は、03年の9月に、民主党との合併に合意して、民主党に合流、政権交代に成功しますが、その後がいけなかったですね。
2014.10.04
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クロニクル 東西ドイツ統一1990(平成2)年10月3日あれから24年経ったのですね。この日、午前零時、統一ドイツが誕生し、1949年の東西両ドイツ国家の誕生以来、41年に及んだ分断の歴史に終止符が打たれました。前年の11月9日、予想もしていなかったベルリンの壁(壁の設置は1961年の8月でした)が崩壊し、東西ドイツの交流が自由化されて以来、職を求めて西ドイツに流入する東ドイツ国民が急増、何らかの対策を講じる必要が生じていました。しかし、西ドイツ財界は、拙速な統一は基盤の脆弱な東ドイツ経済を崩壊させ、西ドイツの経済的負担を増大させるとして、時間をかけてゆっくりと統一を進める道を提言していました。しかし、功を焦るコール首相は、ドイツマルク(西ドイツ)とオストマルク(東ドイツ)の交換レートを1:1に設定する(当時公式レートは1:4とされていましたが、街中でのレートは1:10程度だったとされています)という経済常識を無視した通貨交換を実施して、通貨を統一。東ドイツ国民の支持を集めて、早期の統一を実現したのでした。統一ドイツは人口約8000万人、国土面積は日本とほぼ等面積の35,7万km平米となりました。しかし、コール首相の人気取りのための無理な通過統合がたたり、背伸びを強いられた東ドイツ企業は西ドイツ企業はもとより、旧ソ連の支配下にあった東欧諸国の企業にも太刀打ちすることが出来ず、次々に倒産、東ドイツ地域の経済再建に10年以上の年月を要する苦難を強いられることになりました。ドイツ経済の復活は、ユーロの誕生によって、ユーロ圏諸国に関税なし、そして為替の障壁もなしに、輸出できるようになったからでした。ドイツにとって、まさにユーロさまさまでした。
2014.10.03
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クロニクル 池田・ロバートソン会談始まる1953(昭和28)年10月2日61年前のことになります。この日、池田蔵相とロバートソン国務次官(米国)の会談がワシントンで始まりました。2人の交渉は断続的に10月末日まで続けられるロングランとなり、30日に「日本の自衛力の漸増」などを盛り込んだ共同声明を発表して、終了しました。この会談が一躍有名になった理由は別のところにありました。それは、執拗に日本の自衛力の強化を求めるアメリカに対して、池田蔵相がその攻勢をかわすために、次のように述べたことが明らかにされたからでした。池田蔵相は、「日本人は、軍部の専横に懲りて、戦争アレルギーを強く持っている、そのため、米国が日本に望んだ憲法9条とその精神を、強く支持している。この平和に対する強い支持のある間は、自衛力の拡張も慎重に検討しなければならない。」「問題は、日本人の平和への意識を変えることであり、そのためには、大いに教育を重視し、子どもの時代から、日本人の精神に働きかけることが重要だ。」と、述べたと言うのです。教育を通じて、日本人の反戦・平和の思想を、時間をかけて薄め、取り除く。そのために教育を利用する。こうした趣旨の発言が、当事の政治指導者で、やがて首相となる人物の口から出ていたのです。時移った現在から見ると、当時の池田蔵相の発言通りに時代が移ろったことが、良く理解できます。教育を政治的に利用してきたのは、政治の側でした。そして、安倍首相の下で、その動きは益々強く、歴史の捏造にまで進もうとしているのが現在です。
2014.10.02
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クロニクル 新幹線開業1964(昭和39)年10月1日今日は、新幹線開業50周年の記念日です。この間大きな事故もなく、旅客を運び続けてきたのですから、凄いですね。50年前、東京オリンピックの開幕を10日後に控えたこの日、東海道新幹線東京~新大阪間が開業しました。東京を出発すると、名古屋、京都、新大阪にしか停車しないひかり号は3時間10分で、新横浜、小田原等各駅に停車するこだま号でも4時間という、当時としては夢のような速さでした。速さの秘密は色々なところにあるのですが、大きな点を2つ上げると、東海道本線開通時とは、各段に進歩した土木技術によって、線路をなるべく直線にと、あちこちにトンネルを掘っては、スピードの出しやすい直線路を延ばしたこと、そしてもう一つは広軌道レールを使用したことでした。新橋~横浜間の鉄道開通以来、日本国内ではずっと狭軌鉄道が使われてきたのですが、新幹線では広軌が使われました。そしてこの広軌の技術は、日本の占領時代に南満州鉄道(満鉄)に派遣された旧国鉄の技術陣がいつの日か日本にも、広軌の鉄道を敷きたいという、夢をもって蓄積した技術が残されていたからこそ、比較的短期間に実現出来たのでした。今では九州にまで広まった新幹線。大変な本数が走っていますが、3年半前の大震災でも、1つの事故も起こさずに、該当する区間の全ての列車を、停車させました。この危機管理の素晴らしさは、世界に誇れますね。
2014.10.01
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