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クロニクル 筑波大生の集団買収発覚1978(昭和53)年12月4日茨城県議会議員選挙において、良い小遣い稼ぎと考えたらしい、筑波大学生141名が、1人3000円で買収され、集団で不在者投票していた事実が、37年前のこの日明るみに出ました。筑波エクスプレスもなく、陸の孤島に出現した当時の筑波大学では、学生の多くは寮生活を送っていたので、当地で選挙権を行使したのですが、当然地域への帰属意識が働くことはなく、当然ながら地方議会の選挙になど関心が持てるわけもありませんでした。無用な投票権が、不在者投票に参加するだけで、3000円になるのであれば、効率の良い話だと考えただろうことは、想像に難くないことではありました。積極的に仲間を誘った学生は,仲間から感謝されたとの報道もありました。 成る程と思う反面、国立大学学生の知力の程度と、地方議員のレヴェルの実情に、肌寒いものを感じざるをえない一幕でもありました。日本における学力の低下は、今に始まることではないこと、それは「ゆとりの教育」が生み出したものなのではなく、もっと根が深く、既に70年代の末頃に芽があったことが、ここから分かりますね。あれから37年、地方議員の質は一向に向上しないばかりか、益々劣化が進んでいるように見えますし、今や国会議員の質もお寒い限り、困ったものですね。
2015.12.04
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バブルを考える(43) 拓銀倒産の余波拓銀の倒産は,北海道経済を揺さぶりました。旭川に近い、上川管内の美深町に本社を置き、「テンモク」さんの名で町民に愛されていた、道内屈指の木材業、天塩川木材工業は、メーンバンクだった拓銀の支えを失い、連鎖倒産に追いこまれました。拓銀倒産から僅か11日後の、28日のことでした。旭川地裁に自己破産を申請し、自らケジメをつけたのでした。木材業は、安価な輸入木材に押され、どこも青息吐息で営業を続けていただけに、頼りのメーンバンクが倒れたとなると、後が続かなかったのです。同社に続いて、98年3月までの4ヶ月間に、道内で25もの木材業者が立て続けに倒産しました。同年12月24日には、函館の漁業資材製造の名門、函館製網船具が函館地裁に自己破産を申請、その日のうちに破産宣告を受けました。年の瀬の破産、突然の解雇は、従業員にとって何よりも辛いものです。こんな時期に資金繰りに追い込まれての倒産は、経営者の無能と、企業家としての社会的責任の欠如を明白に物語っていました。「年末の資金繰りがつかない」として、1ヶ月も早く身をたたんだ天塩川木材工業との、経営判断の差は歴然としていました。芦別市のスーパーかくはた(角幡商店)も、拓銀の破綻で経営環境は一機に厳しくなりました。98年8月末の決済資金が用意できない可能性が出てきたのです。同社は道内最大手のスーパー・ラルズへの身売りを決意します。「雇用契約の継続を希望する従業員は、全員引きうける。ただし、かくはたの債務は引き継がない」というのが条件でした。拓銀破産は、北海道経済に縮小均衡の茨の道しか残さなかったのです。経営陣が保身のために、経営不振企業の延命に手を貸し、その挙句に破産した拓銀は、北海道経済に大きな爪あとを残したのでした。企業のとりわけ、大手銀行の社会的責任とは何かを、考えさせられる出来事でした。経営者に人をえない企業は、従業員にとっても、周辺社会にとっても、迷惑この上ない存在になるのですね。企業は誰のものかを考える際、その社会の公器としての側面を見落とすわけには、いきませんね。
2007.11.11
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19世紀のアメリカ(27) 第1章 米英戦争…2先ずは、下の地図をご覧下さい。大き目の地図とさせて戴きました。19世紀のアメリカを概観する時、そこには常に2つの課題がありました。第1の点は、序章に記したようないきさつで、夫々が内政に関する主権を持つ州の連合体という形で出発した連邦政府が、どの時期にどのような形で自らの権限を強化して、現在のような合衆国中央政府となったのか。この点です。僅かな権限しか持たなかった中央政府権限の、強化の歩みです。およそを先に語っておくと、この点では1861~65年の南北戦争と、20世紀になってのことになりますが、1933年からのフランクリン・ローズヴェルト政権下のニュー・ディール政策が、大きな役割を果たしました。そして第2の点が、昨日記したナポレオンから、ほとんどただ同然の値段で購入したフランス領ルイジアナを含む、西部開拓地の問題です。ルイジアナ(地図の若草色の部分)の購入と編入によって、合衆国の国土は、建国当時のほぼ2倍に増えました。この1803年に、パリ条約でイギリスから貰い受けたアパラチア山脈の西方では、3つの州が誕生し合衆国に加わっていました。1992年にケンタッキーが、96年にテネシーが、そして1803年にオハイオが州昇格を認められて、合衆国に加わったのです。しかし、まだ人口も僅かで、州となった地域でも、盛んに入植と開拓が続けられていたのです。未開の西方との境がフロンティアと呼ばれる開拓最前線なのですが、それはなお、ミシシッピー川に及ばず、はるか手前にあったのですが、この未開の辺境フロンティアの最前線を、西へ西へと移動させてゆく西漸運動は、1890年代にフロンティアの消滅が宣言されるまで、ずっとアメリカ史を特徴付けてきたのです。地図に戻りましょう。スペイン領だったフロリダは、スペイン本国の混乱に乗じて、1819年に首尾よく購入しています。その1年前には、イギリスとの間で、カナダの一部とルイジアナの1部をほぼ等面積で交換しています。1845年には、テキサスをメキシコから奪い取っています。オレゴンは、1846年に勝手に米国領とし、カリフォルニアは1848年に、ニューメキシコは1853年に、共にメキシコから僅かな金銭で譲り受けています。こうして、西へ西への開拓運動は、遂に太平洋にぶつかるまで、留まることを知らなかったのです。こうして、開拓すべき西部の存在と、西部の開拓地をどうするかという問題が、代々の米国政府にとって、大きな課題となったのです。 続く
2010.05.29
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クロニクル 自動焦点カメラ発売1977(昭和55)年11月30日11月30日はカメラの日です。ご存知でしたか?。 実は、36年前の11月30日に、小西六写真工業(現コニカミノルタ)が、世界初のオートフォーカス(AF)カメラ「コニカC35AF」を発売したのです。それを記念して、この日がカメラの日とされたのです。コニカは「ジャスピン(ジャストピント)コニカ」の愛称でこのカメラを大々的に宣伝し、それまでカメラを扱うのに尻込みをしていた女性層にも、受け入れられました。
2013.11.30
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クロニクル 西ドイツ大連立政権誕生1966(昭和41)年12月1日55年前のことです。この日、当時の西ドイツで、CDU・CSU(キリスト教民主同盟・同社会同盟)と社会民主党の大連立内閣が誕生しました。首相にCDU党首のキージンガー、外相に社会民主党党首のブラントが就任しました。戦後政権を離れていた社会民主党ですが、ブラントは大連立の成果をもとに、政権担当能力を国民にアピールすることに成功、東ドイツとの関係改善を進める東方外交を武器に、3年後政権奪取に成功します。その後の西ドイツ並びにドイツでは、社会民主党中心の内閣とCDU中心の内閣が交互に政権を担当する、実質的な二大政党制が機能しています。翻って日本を見ると、民主党の失敗の原因がはっきりします。種々批判されるのですが、小澤一郎という人物は、見るところをちゃんと見ていました。 彼が党首の時代に、彼の側から時の福田首相に連立政権を持ち掛け2人の間では、実質的に合意が出来ていたのに、民主党内の反対でご破産になったことがありました。あのとき私と同年の小澤一郎の頭の中には、西ドイツとブラントの成功が、見習うべき事例として行き来していたと、私は想像しています。果たせるかな、政権運営即ち官僚操縦術を学ばなかった民主党は、見事にというか小澤一郎の危惧した通りに政権運営に失敗し、弱小政党に転落してしまいました。転落は自業自得なのですが、結果として日本における二大政党制確立のチャンスを潰し、以前に比べ下品で乱暴な自民党の事実上の独裁を許してしまった責任は、非常に重いと指摘せざるをえません。後悔先に立たずですが、残念でなりません。
2021.12.01
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