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バブルを考える(86) 債権放棄を巡って…その2 飛島建設ゼネコンのケースをいくつか見てみましょう。本日は飛島建設です。飛島建設はゼネコン中のトップを切って、早くも1991年には破綻状態に陥り、メーンバンクの富士銀行の管理下で、再建を目指すことになりました。92年4月にまとめられた再建案の骨子は、次ぎの3点にまとめられます。(1)飛島建設と飛島グループに債権を持つ金融機関に、今後5年間(97年 3月末まで)の金利減免をお願いする。(2)飛島建設の債務の内、2500億円のみを本体に残し、その他の全債務は 飛島都市開発などグループ企業に移しかえる。(飛島本体が債務超過で 赤字になることがないように、決算対策として債務の付け替えを行うの である。)(3)子会社に移した債務については、飛島建設が返済を保障する。ただし 今後5ヵ年間、保証債務の履行請求は行わないよう要請する。単純化すると、借金は必ず返すので、とりあえず5年間は何も言わず待ってほしい。その5年間は、利息も免除してくれ、無理なら減らしてくれと、頼んでいるのです。例えばこうです。三和銀行の飛島への貸付金は、93年3月末時点で、507億円でした。そして約束の期限97年3月末はどうか。95年度に2億円だけ返済され、505億円分が残されたままでした。債務の支払いを繰延べてもらっても、いたずらに時間ばかりが経過しただけであって、飛島本体の経営が改善することはなかったのです。富士銀行と飛島建設は、97年7月28日、臆面もなんく第2次再建計画を提示しました。それによると,子会社に対する飛島本体の債務保障(子会社に付け替えた債務)7400億円のうち、1000億円分については、飛島建設が今後20年をかけて、分割返済することを約束する。ついては、残りの6400億円については、担保保全分を除いて、請求を免除してほしい。こういうことでした。元来92年の段階で、本体の債務を子会社に付け替えたのですから、飛島自身が6400億円もの債務を踏み倒すということにほかなりません。子会社群はは、外にも飛島本体の保証のない債務を1600億円ほど抱えていましたから、債務総額は8000億円。そのうち、担保で保全される分は、2500億円程度とされましたから、事実上5500億円程度が富士銀行を中心とする金融機関の損失となったのです。問題はこれで飛島建設が再建されたかにあります。確かに飛島建設は現在も東証1部に上場されています。しかし、株価はほとんど100円以下に張りつき、最近は50円以下で推移しています。とても再建されたとはいえない状況が,現在も続いているのです。この間、2000年以降の飛島の決算は、ずっと赤字決算を続けており、1株当たりの純資産も、ずっとマイナスを続けています。2000年以降飛島は、毎年50億円づつ返済すると約束した債務すら返済できずにいるのです。既に20年計画の半分の10年が経過しながら、今までに返済できた額は100億円に達しないのが実情です。 これが債権放棄の1つの現実です。現実にはゼネコンは相変わらず過剰状態にあり、そのため、大手ゼネコンも利益が低迷し、建築業界の生産性を国際比較してしてみると、下位に低迷している事実が浮かび上がります。過当競争と負け組企業を温存する体質が、大きくマイナスに響いている現実が見てとれます。競争力の高い輸出関連企業が、国際的に見ても高い生産性を誇っている事実と,見事なコントラストをなしているのです。 続く
2008.01.06
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イギリスの庶民生活……(1)貧民の食べ物 3教区徒弟の悲惨な食事の話を記しました。では、職人たち不通の労働者の食卓はどうだったのでしょうか。職人と言っても、特殊技術を持つ熟練工は賃金も高く、小規模な商店主や手工業親方といったプチブルに近い生活を送るようになっていました。彼らの食卓には白いパン、砂糖つきの紅茶、そしてかなりの頻度で肉類も登場しています。それが半熟練工になると、肉類の質がグンと落ちてきますし、家計に占める食料費の割合(エンゲル係数)がかなり高くなってきます。それが非熟練工になると、白いパンと砂糖なしの1杯の紅茶が全てとなり、肉もバターもチーズもなしになります。そして日雇いや最下層の人々になると、白いパンも消えて、ライ麦等の褐色パンになり、紅茶に変えてミルクになります。最下層では、褐色パンの替わりに、ジャガイモが食卓に登場するケースも増えてきます。19世紀の半ばとなり、鉄道や蒸気船の発達、そして穀物法(小麦輸入を実質的に阻止する法規)の廃止や関税の引き下げなど、自由貿易が推進されたことで、安価な輸入食糧が豊富に出回るようになり、下層の人々の食卓も、多少は華やいできます。当時のイギリスで、労働者家族が家計簿をつけることは先ずありませんから、労働者の賃金は会社の帳簿から理解することは出来ても、家計支出については材料が乏しいのが現実です。1840年頃の半熟練労働者の家庭のエンゲル係数は、およそ60%程度と推計されています。この食費のうち、50%がパンとジャガイモで、22%が肉類という推計もあります。同じ時期の綿工場で働く非熟練労働者、工場内の最低クラスの労働者の労働者の家計では、家計に占める食費の割合は80%~85%近くに達しています。しかも食費に占める褐色パン、オートミール、ジャガイモの占めるウェートは、これまた80%近くに達しています。肉類の比率は3%~8%程度に過ぎないのです。勿論紅茶は登場しません。こうした低所得労働者の場合、飢饉などによる食糧価格の高騰は、すぐに食卓に影響を与え、1日の食事の回数を減ずることに繋がったのです。この絵は、ロンドンの簡易宿泊所で、貧しい日雇い労働者に提供される食事です。テーブルもなく、土間のような所に座って、褐色パンと薄いスープだけの食事を流し込んでいます。 続く
2009.03.13
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19世紀のアメリカ(58) 第2章 明白なる天命…191838年、時のアメリカ政府は、チェロキー族にオクラホマへの強制移住を命じました。強制移住というのは、米軍が銃剣で移住者を追いたてながら、目的地までまるで囚人のように護送するのです。先ずは各地に散らばるチェロキー族を収容所に駆り集めるのです。この任に当たった部隊は、抵抗する者は容赦なく射殺し、女性や子どもにも、何の情けもかけませんでした。こうしてジョージア、ノースカロライナ、テネシーの各地から集められた1万2千人のチェロキー族が、オクラホマへと旅立つことになったのです。この旅は、現在のアメリカ史では「涙の旅路」として知られています。先祖代々の地から力尽くで引き剥がされた1万2千人のチェロキー族は、ミシシッピー川の西へ向かったのです。下に掲載した絵は、その一端を示すものです。ここに数台の馬車が見えます。この馬車は病気で歩けなくなった者のために用意されたもので、そんなに沢山はなかったのです。歩けなくなった者を放置して進めば暴動になりかねない。そんな無用な争いは起すなと、命じられていたが故の措置でした。ですから、馬車が大きく役立ったということはありません。現実には、裸足で歩き続けることを強制された者が、最も多かったのです。実際、「涙の旅路」は「死の行進」でもあったのです。春や秋の季節ではなく、厳寒を迎える晩秋から真冬にかけての時期に、問答無用で追い立てられたのです。寒さにやられる者、飢えや疲労、病気で命を落す者が後を絶ちませんでした。目的地のオクラホマは遠く、広い米大陸の半分近くの距離を、チェロキーたちは歩かされたのです。それは5ヶ月に及ぶ旅でした。1839年3月の末になって、チェロキー族の旅はようやく終りました。生きてオクラホマにたどり着いた者は、およそ8千人。4千人、3人に1人のチェロキー達が、旅の途中で命を落としたのです。おそらく兵士に殺された者もあったのでしょう。死者は墓標もなく、埋められたのです。文字を持つチェロキー族は、記録を残してくれましたから、米政府の記録と照合すると、こうしたことが明らかに出来ます。チェロキー族以外にも、強制移住に追い込まれた部族は、チョクトー族、ウィネバ族など沢山ありますが、詳細は不明のままです。 続く
2010.07.02
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宗教改革よもやま話 (15)ルターは、熱心な修道士として、ひたすら聖書を読み、聖書を通じて自身の信仰を深めていったのですが、その過程で、彼は「信仰のみ」という考えに辿りついたのでした。「人が救われるか否かは、日頃の行いによるのではなく、神を信じているかどうかだけによるのだ」というのです。ルターがこの命題に辿りつくにいたった根拠を、難解なラテン語の文章で綴ったものが、「95ヶ条の論題」でした。ですから、ルターは民衆が「命題」を読んで理解することは、少しも期待していなかったのです。しかし、教皇や教会幹部の腐敗、堕落を快く思っていない人々も多かったのです。こうした人々が、ルターの主張が「贖宥状」販売を金儲けに利用しているカトリック教会とその関係者を批判していると聞きつけたのです。彼らは、神学論争への関心ではなく、信仰への素朴な熱意と、聖職者の不正に対する怒りとを汲取ってくれるものとして、ルターの論題を支持したのです。教会の内部にも、教皇や幹部の金儲け主義を快く思わない聖職者は、かなりの数に達していました。彼らは、カトリック教会の内部に留まって、改革を進めようとしたり、ルターに協力して、改革を進めようとしたりしたのです。後者の立場を選択した人々が、絵入りのパンフレットを作成したりして、ルターと改革派の考え方を、分かりやすく民衆に伝える宣伝隊の役割を果たしていたのです。上の絵は、贖宥状販売の様子を描きながら、贖宥状の販売を批判した1520年刊の木版画です。左側中央部で1人の修道士が贖宥状を手渡しています。右手では代金の受け渡しが行われています。左手前の婦人達は、購入の順番を待っているようです。問題は、画面上方左は、明らかに法王の紋章で、右は時の教皇レオ10世の生家のメディチ家の紋章です。その中央にある十字架にご注目ください。十字架に架けられたイエスの手足を打ち抜いていた釘のあとが残っています。しかし、そこにあるべきイエスの姿が消えてしまっています。もう事情は明らかです。俗物教皇の下で、贖宥状販売という金儲けに夢中になっている教会の堕落、そういう教会に愛想をつかしてしまったイエス・キリストは、どこかに姿を隠してしまわれたのだ。これがこの版画のメッセージでした。
2009.06.04
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クロニクル 林彪クーデターに失敗1971(昭和46)年9月8日46年前ですね。この日、中国共産党副主席で、中央軍事委員会の責任者として、党および軍で、いずれも毛沢東主席に続くNo2の実力者だった林彪が、政権奪取のためのクーデターに失敗、逃亡しました。当時プロレタリア文化大革命の渦中にあった中国で,林彪副主席は文革派の総帥的地位にあり、何故この時期にクーデターを起こしたのか、今もって謎に包まれています。わかっているのは、モンゴルへ向けての亡命飛行中に、乗っていた飛行機が墜落して、乗員と共に死亡したことだけです。墜落した飛行機は軍用機でしたが、追跡機に撃墜されたらしいことが、分かっていることはいるのですが……どうやら、この事件の謎は、永遠に明らかにならないのかもしれません。まさに権力の闇そのもののような事件でした。
2017.09.08
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19世紀のアメリカ(27) 第1章 米英戦争…2先ずは、下の地図をご覧下さい。大き目の地図とさせて戴きました。19世紀のアメリカを概観する時、そこには常に2つの課題がありました。第1の点は、序章に記したようないきさつで、夫々が内政に関する主権を持つ州の連合体という形で出発した連邦政府が、どの時期にどのような形で自らの権限を強化して、現在のような合衆国中央政府となったのか。この点です。僅かな権限しか持たなかった中央政府権限の、強化の歩みです。およそを先に語っておくと、この点では1861~65年の南北戦争と、20世紀になってのことになりますが、1933年からのフランクリン・ローズヴェルト政権下のニュー・ディール政策が、大きな役割を果たしました。そして第2の点が、昨日記したナポレオンから、ほとんどただ同然の値段で購入したフランス領ルイジアナを含む、西部開拓地の問題です。ルイジアナ(地図の若草色の部分)の購入と編入によって、合衆国の国土は、建国当時のほぼ2倍に増えました。この1803年に、パリ条約でイギリスから貰い受けたアパラチア山脈の西方では、3つの州が誕生し合衆国に加わっていました。1992年にケンタッキーが、96年にテネシーが、そして1803年にオハイオが州昇格を認められて、合衆国に加わったのです。しかし、まだ人口も僅かで、州となった地域でも、盛んに入植と開拓が続けられていたのです。未開の西方との境がフロンティアと呼ばれる開拓最前線なのですが、それはなお、ミシシッピー川に及ばず、はるか手前にあったのですが、この未開の辺境フロンティアの最前線を、西へ西へと移動させてゆく西漸運動は、1890年代にフロンティアの消滅が宣言されるまで、ずっとアメリカ史を特徴付けてきたのです。地図に戻りましょう。スペイン領だったフロリダは、スペイン本国の混乱に乗じて、1819年に首尾よく購入しています。その1年前には、イギリスとの間で、カナダの一部とルイジアナの1部をほぼ等面積で交換しています。1845年には、テキサスをメキシコから奪い取っています。オレゴンは、1846年に勝手に米国領とし、カリフォルニアは1848年に、ニューメキシコは1853年に、共にメキシコから僅かな金銭で譲り受けています。こうして、西へ西への開拓運動は、遂に太平洋にぶつかるまで、留まることを知らなかったのです。こうして、開拓すべき西部の存在と、西部の開拓地をどうするかという問題が、代々の米国政府にとって、大きな課題となったのです。 続く
2010.05.29
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フランス革命(94)クーデタに向けてナポレオン帰国の報は、13日にパリに届きます。それを知った妻のジョゼフィーヌは、留守中の不貞の数々の噂が夫の耳に届かぬうちに先手を打とうと、その日のうちに出迎えの旅に出るのですが、あろうことか道中ですれ違ってしまいます。こうして16日の朝、ナポレオンは妻のいない自宅に戻ります。ジョゼフィーヌの帰宅は2日後のことでした。クーデタを胸に秘めるナポレオンは、慎重に世論の動向を見極めようとしますが、「平和と栄光を齎す将軍」の帰還を歓迎する声が強く、満足すべきものでした。この空気に総裁政府も、ナポレオンの戦線離脱を不問に付すしかなくなります。ナポレオンは慎重に誰を相棒に選ぶかを吟味します。ヴァンデミエールの王党派のクーデタに際し、失意のナポレオンを登用してくれたバラスは、この時また総裁の1人に就いていましたし、シェイエス、ゴイエ、ムーラン、デュコと5名の総裁の中から、組むべき相手を選ぶ必要があったからです。世論の支持を得ながらのクーデタにするためには、政治家の協力が不可欠だったからです。1人1人の総裁と密かに会談する機会を持ったナポレオンは、消去法で1人消し、2人消しして、最後にシェイエスを選びます。弟のリシュアンを通じてシェイエスとの連絡を保っていたナポレオンは、11月1日にシェイエスに会い、彼の計画する3人の統領(執政とも言う)制に賛意を表明し、必要なら自分が統領の1人になるつもりであること、しかもそれは臨時の制度で、将来の政体については、改めて考えることにすることを、強く主張します。シェイエスは承知せざるをえません。かくて謀議は成立しました。この間、先を読む能力に優れ、独特の人物観察眼を持ち、ナポレオンの軍事独裁の成立を見通していたタレイランは、ナポレオンとシェイエスの橋渡しに一役買い、バラスの中立化にも貢献して、一味に加わり、その巧みな外交術を買われて、ナポレオン政権の外相に就任します。99年春から警察大臣に就任していたフーシェも、その職務の重要性から仲間に加えます。フーシェは、立場上クーデタ計画の一切を知らされていましたが、何食わぬ顔であちこちのサロンに顔を出し、出席者をケムに巻いては、クーデタの実行が、まだ先であるかのような印象を振りまいていました。こうして、ブリュメール18日がやってきます。 続く
2007.10.13
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ウクライナ戦争を考える……2PTSDウクライナに限りません。戦争は仕掛けた側、仕掛けられた側を問わず、破壊という物理的行動による損失、経済的損失、そして人的な損失など、社会経済的に攻める側、攻められた側を問わず、大きな損失を生むのですが、ここで忘れてならないのが、戦地の民衆のみならず、戦争に動員された兵士たちとりわけ若い兵士や銃後の輜重部隊の隊員たちに広がるPTSDの被害を見落とすわけにはいきません。一時を除いて、ほとんど報道されなくなっているのですが、初めて自衛隊が戦地に派遣されたイラク戦争はご存知と思います。このイラク戦争に派遣された兵士たち(3ヶ月交代の任務で、工兵部隊のような仕事を担当していましたから、戦場には出ておりません。)のかなりの部分が、帰国後PTSDに陥って長期にわたって、療養生活を余儀なくされているのです。戦場には出なくても、安全地帯の駐屯地から出て作業に向かったりする過程で、いくつもの肉片となって飛び散った死体や、苦し気にのたうちながら呻いている断末魔の人たちを目にはするでしょうから、精神をやられる自衛官が出るのは、むしろ精神的には健全のように思えます。五体に傷などありませんから、懸鼓そうに見えながら、精神は深く傷ついている。真面目で精神的に健全な若者だからこそ、むごたらしい死体の衝撃は極めて大きいのです。戦争は勝敗に関係なく、戦場に遭遇した健全な若者たちとプラスアルファの人たちに、再起不能かもしれない大きな心の傷を残すのです。すなわち輝かしい未来を棒に振る、たくさんの若者を生み出すのです。イラク戦争の一つの場面に過ぎないのですが、私の目に焼き付いてしまったテレビ報道の一場面があります。若い純真そうな米軍兵士が、走ってきた乗用車に向かって発砲し、両親と幼い子供2人を乗せた普通のイラク市民の車を蜂の巣にして、惨殺してしまった映像です。おそらくこの兵士はゲリラの攻撃に怯えてしまい、この車からゲリラが銃撃してくると錯覚して、咄嗟に銃撃してしまったのでしょう。自分の行動が生んだ悲劇に気づき、「こんなはずではなかった。僕には銃を構えたゲリラの顔がはっきり見えたのに… と首を振りながら呆然としていた兵士の顔を、今もはっきりと覚えています。純情なこの青年は、おそらく一生を棒に振ってしまったと、当時0代前半だった私は受け止めました。重度のPTSD患者になって今も苦しんでいるのか、あるいは自ら命を絶ってしまったのか、知る由もないのですが…激しい地上戦が行われ、ヤケッパチのロシア軍の無差別爆撃や空爆は、ウクライナの人々に、消せない傷を残すでしょうし、ロシア軍の兵士にも、多くのPTSD患者を生み出すでしょう。こうした面からも、戦争は早期に終結させることが、今となっては最も望ましこととなるのです。戦争にプラスなんてないのですから… 続く
2022.06.21
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