ナイチンゲールの世界 (23)
何といってもフランス革命でした。
そうなんです。初期の新聞はその政治的主張を鮮明にした政治新聞でした。発行は不定期、激動の日々が続くと日刊に近くなりますが、小康状態の日々には、半月近く間が空くことも、良くあったのです。そんな感じですから、定期購読など、勿論ありません。
本人が売り歩くことはほとんどありませんが、支持者が街頭で売り歩くのです。またこの時期の特徴は、識字率の関係で、1部の新聞を大勢が取り囲んでの読み聞かせが、広く行なわれていたことです。 コーヒーハウスや居酒屋、そして街頭と新聞を朗読する人の周りを、大勢の人が取り囲む姿が、各所にありました。
そうした新聞を日刊化したのは、七月王政(1830年~48年)時代の初期に『ラ・プレス』紙を発行した、フランスのエミール・ド・ジラルダンでした。
彼は、新聞広告を採用したこと、折から開通したパリ~オルレアン間の鉄道を利用して、パリ近在の各地にまで売り込みをかけたことで、広告費と発行部数の増加で単価を下げ、今までの新聞の半値以下での発行で、購買層の拡大に成功したのです。
また、当時売れっ子作家だったのアレクサンドル・デュマやエミール・シューらを起用して、新たな試みとして、新聞に連載小説を掲載することで、日刊新聞の発行を定着させることに全力を傾けました。
しかし、19世紀前半という時期は、日刊紙の発行を定着させるには、まだまだ困難の方が多かったのです。連載小説は、作家からストックを確保する形で、紙面に穴が開くことは避けられますが、なんと言ってもニュースの迅速な蒐集が難物でした。パリ市内とか、ロンドン市内の出来事ならば、無理をすれば蒐集が出来ます。しかし、外国の出来事、植民地の出来事などは、何日も遅れます。それに印刷術が発展しているといっても、なお平台による印刷でしたから、印刷に要する時間もかなりの長時間を要しました。
それゆえ、速報性を期待できない新聞を日刊化しても、人々の関心をひきつけるのは、まだ難しかったのです。ジラルダンの試みが、大きく開花するのは、フランスでもイギリスでも、1860年代に入ってからのことでした。ついでに言うと、アメリカでは1880年代、ピューリッツァー賞でお馴染みの、ピューリッツァーの『ワールド』紙が草分けでした。
話が長くなりました。クリミア戦争の時代は、イギリスでもフランスでも、定期購読者を持ち、経営的に安定していた何誌かの新聞がありましたが、そうした新聞は速報性の武器にしたものではなく、内容の濃さを売りに、情報を深く掘り下げた週刊新聞だったのです。
ウィリアム・ラッセル記者をクリミアの現地に派遣した、『ロンドン・タイムズ』(略して『タイムズ』と呼ばれます)もまた、そうした人気のある週刊新聞だったのです。 続く
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