路上観察

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2015.04.08
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カテゴリ: 大庭の歴史

今日は一日雨で

家で一日中、本を読んだり、パソコンとにらめっこでした


これまで、色々郷土史の本を読んでいるうちに深みにはまったのかな

大庭御厨、大庭城などは誰が、いつ、何処に作ったのとか調べはじめました


大庭氏概略系図

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鎌倉権五郎景政

疑問に思ったのは姓は鎌倉で、権五郎は名前で景政も名前と思われ

なんで、名前が2つもあるんだと???

素朴な疑問でしたが、ネットで調べると

鎌倉は苗字(名字、姓)で、権五郎は字、景政は諱(個人の正式名称)ということらしい

ああ、ややこしい


886年 仁和2年 良文 誕生(3月18日)
923年 園長1年 築き荘園を拓き村岡五郎平良文を名乗る
952年 天暦 6年 良文 67歳没す
1104年長治1年 景政 大庭原野を開拓し伊勢神宮に寄進する

1177 大庭三郎景親は大庭司となる
1180年 治承4年 景親は平氏に、景親の兄である景義は源氏に加担し、景親を殺す

1193年 建久4年 景義は失脚し、大庭氏に代わり扇谷上杉氏が支配することになる
      家臣の大田道灌は大庭城を修理築城する
1512年 永正9年 上杉朝長が北条早雲に攻められ落城してから早雲が鎌倉に築いた
    玉縄城の支城的となる


大庭景義は、若くして源義朝に忠誠を誓う。保元元年(1156年)の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。

大庭氏は、鎌倉権五郎景政の子である景経(景継)に始まる。 景継は、景政に続いて大庭御厨を開拓した人物で、はじめて大庭氏を名乗り大庭景継と称した。 景継は古館に館を構えていたと思われる。







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最終更新日  2015.04.08 17:29:45
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