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1997年の1月5日、もしくは6日。私はボストンに戻りました。どうしてそれがわかるかというと、6日(月)にテニスをした記録が残っているからです。ポールと私が組んだダブルスで、マーティン/フレッド組に次のスコアで勝ったことが記されていました。6-1、6-4、6-0、12-10第四セットが12-10とは、すごい接戦でした。4セットやったということは、いつもの枠の二倍、二時間以上試合をやっていたのだと思います。 その次の記載は、8日(水)。以前試合をして6-2、6-2で勝ったレーティング4・9のアートと再戦、8-6、3-1のスコアでした。以前よりも接戦となっていますね。 ちょっと間があって12日(日)には、以前6-1,6-2、6-0と圧勝したレーティング5・0のヴィックと再戦し、6-1、4-3のスコアでした。 そして、いよいよ13日の週から期末試験シーズンに突入します。期末試験シーズンといっても、すでにメディア論と統計学は12月に終わっています。残っているのは、ミクロ経済、マクロ経済、そして国際金融論で、14(火)、15(水)、17(金)にそれぞれイン・クラスのファイナル試験がありました。私の記憶が正しければ、教室内で1時間半~2時間くらいかけて問題を解く形式だったと思います。 後で結果が分かったのですが、最初のミクロ経済はあと5点多く点数を取っていればA-だったのに結果はB+に、マクロ経済は予想通りA-。中間テストではクラストップの点数だった国際金融は期末試験でデフォルトのケースを論述しなかったことで減点され、A-に落ちてしまいました。 すでにお話ししたように、B+だとあきらめていたメディア論はファイナル・エッセイでAを取ったのでA-に上昇。統計はファイナル試験をちょっとミスして、Aには1点足りずにA-でした。これによって、最初の学期の成績が出そろいましたね。A-が4つにB+が1つでした。まずまずの成績です。この成績でしたら、最後の学期は3教科でB-を取っても卒業できる計算です。しかしB-はほとんど勉強しなかった、あるいは理解できなかったときに取る成績です。普通に、まじめに勉強していればB+は取れるのだということが実感できた学期でもありました。(続く)
2024.11.27
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私を含め龍好きな方が多いようなので(拙著『不思議な世界の歩き方』も龍神の話から始まります)、今日は「本物の龍」の写真!?を紹介します。ヒマラヤ上空を飛んでいる飛行機から撮った写真を現像したら写っていたそうです。撮った人は普通のアマチュア写真家。確かに大きな雲の下に、龍らしき顔とくねくねうねった胴体らしきものが見えますね。もちろん、心眼で見ないと見えませんよ! 普通に見たら、ただの薄い雲になってしまいますからね。詳しくは次のサイトを参照してください。二匹いると書かれていますので、右の雲みたいなのも龍なのでしょうか。もし心眼で二匹とも見えた方がいらっしゃいましたら、教えてください。
2005.08.11
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亀石の後、向かったのは、明日香の山の中です。山道を登っていく途中、畝傍山と二上山がよく見える場所に来たので撮影します。右が畝傍山。左奥に見えるのが二上山ですね。山道を車で進むこと15分。ようやく目的地に着きました。明日香村柏森(かやもり)にある加夜奈留美命(かやなるみのみこと)神社です。元々は葛神社と呼ばれていましたが、地名の柏森(かやもり)から、カヤナルミを主祭神とする神社になりました。単なる語呂合わせのようですが、こうしたシンクロニシティには意味があります。飛鳥坐神社と同様、「出雲国造神賀詞」に根拠があります。オオナムヂが国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすることを誓いますが、その中に「加夜奈留美命の御魂を飛鳥の神南備に坐わせ」と記されていることから、この山に違いないと考えてカヤナルミを祀っているわけです。ここにもうっすらとですが、加夜奈留美命神社と彫られているようです。神社本殿。加夜奈留美命はオオナムヂとヤシマヂヌミの娘の子なのですが、謎の神でもあります。別名が鳥鳴海神で、男神なのか女神なのかよくわからないんですね。私は女神説で、しかも「加夜」から「カグヨヒメ(香用姫)」、「タカテルヒメ(高照姫)」説を採っています。別名が天道日女。オオトシ(天火明)と結婚してアメノカグヤマを生んだ女神ですね。アマテラス、スサノオ、オオナムヂの直系ということになります。その女神とオオトシことニギハヤヒが結婚して生まれたアメノカゴヤマは、超優良ハイブリッドです。その超優良ハイブリッドと、ナガスネヒコ一族のミカシキヤヒメとオオトシの間に儲けた異母妹ウマシホヤヒメが結婚して生まれた孫がヨソタラシヒメ。孝昭天皇妃となりました。当時、いかに多部族間・多民族間の結婚が重視されたかがよくわかりますね。それが統一王朝を作るための唯一の手段だったからです。(続く)
2017.04.30
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▼竹内巨麿について(その6)巨麿が天に帰る時がやってきた。それは浅見と巨麿の予言通りであった。1965年1月27日午前2時、浅見が自由宗教一神会本部(千葉県松戸市)で寝ていると、本部棟の大きな屋根のところでドシンと大きな音がした。その音で目を覚ました浅見は、寝たまま神通力で音がした屋根の方を見ると、そこには「鞍馬の仙人」の姿をした巨麿が立っていたのだ。浅見はとっさに、「巨麿先生は亡くなったな」と感じたという。巨麿は浅見に「後を頼むぞ」と言って、消えてしまった。浅見によると、巨麿は「天空の術」を使って、体を磯原の皇祖皇太神宮に置いたまま空を飛び、自分が死んだことを浅見に伝えたのであるという。浅見は早速、支度をして、午前4時には出発の準備を整えた。驚いたのは、弟子たちであった。1月の朝の4時は真っ暗である。「どこに行くのですか」と浅見に尋ねた。「磯原だよ。巨麿先生が亡くなったよ」「電話でもあったのですか」と、弟子たちは不思議がって質問した。「巨麿先生本人が報せに来たのだよ」「ヘエ・・・・・巨麿先生はいつ来たのですか」「夜中の二時ごろだよ」このような会話を交わしながら、浅見は弟子の運転する車に乗り込み、磯原へ向かった。磯原の皇祖皇太神宮に着いたのは、午前8時近くであった。既に連絡を受けた、巨麿と古くから付き合いのある人たちが集まっていた。その中の一人に『キリストは日本で死んでいる』の著者で、竹内文書の熱心な研究者である山根菊子がいた。山根と浅見は何度か会ったことがあったので、山根は参拝をしている浅見を見つけると、話しかけてきた。「あら、どうしてあなたがここにいるの」周りの人たちも、見知らぬ人間が来たので、浅見が何者か興味津々であった。その中の一人が「誰もお知らせしなかったというのに、どうしてわかりましたか」と浅見に聞いた。「巨麿先生が天空さんになって、夜中の二時に報せに来ましたよ」と浅見が言うと、みな目を白黒させて驚いた。そんな不思議なことがあるのだろうか。あっけに取られている他の参拝者を後にして、浅見が以前泊まった磯原館へ行くと告げると、山根ら他の参拝者も磯原館へ行くという。(続く)
2006.06.07
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12月19日のシングルスの初敗戦で気を落としたのか、12月20日(金)から翌年1月5日(土)までの17日間、日記には一切何も書かれておりません・・・・・・というのは嘘で、実は1月14日の週から期末試験が始まるまでの間、大学が冬休みに入ったのでワシントンDCに遊びに行っておりました。ところが、会おうと思っていた人が、ペルーの日本大使館人質事件が発生したため急遽、長期間不在に。ボストンーワシントンDCの格安往復航空券を買っていたこともあり、その日程は動かせず、17日間をDCで一人で過ごすことになりました。一応、ファイナル試験用にノートや教科書を持っていきましたが、その期間勉強をした記憶がありません。きっとボストンに戻ってから試験勉強をすればいいや、と思っていたに相違ないのです。で、その代わり何をしたかというと、モールに行っては映画を見ておりました。当時、私が見たと記憶している映画は、次の通りです。The Englis PatientEvitaShall We Dance?Shine最初のイングリッシュ・ペイシェントは確かアカデミー作品賞を取った作品でしたね。イギリス出身のクリスティン・スコット・トーマスの演技が光りました。日本公開は翌年。二つ目のエヴィータは、マドンナ主演。歌は本当にうまいです。三つ目は、役所広司主演・周防正行監督による1995年の邦画ですが、アメリカでは96年暮れに上映されて好評を博しておりました。この邦画のように、外国の映画をよく上映する名画座のような映画館がデュポン・サークルのそばにありました。まさか、その建物のアパートで、のちに暮らすようになるとは、その時は想像もしておりませんでした。それはまた別の話です。四つ目は、実在の天才ピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた映画。ほかにも何か観に行ったような気がしますが、よく覚えておりません。こうして一人寂しくクリスマスを過ごし、新年を迎えた私は、おそらく「17日の空白期間」である最終日の1月5日(日)に、ファイナル試験が待ち受けるボストン(正確にいうとケネディスクールがあるのはマサチューセッツ州ケインブリッジ。私が住んでいた寮は、ビジネススクールのある、チャールズ川を隔てたボストン市のソルジャーズ・フィールド・パークにありました)のハーバード大学に戻りました。(続く)
2024.11.26
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デロス島のことで、もうひとつ書き忘れていたことがありました。furafuranさんの見たビジョンでは、山の中腹にある神殿の周辺は階段のそばに小川が流れていたり、噴水のような泉があったりしたのだそうですが、今のデロス島は乾燥した瓦礫の山のようになっています。とても川があるような場所には見えませんでした。ところがミコノス島に帰ってから購入したデロスの本には、デロス島のキントス山中腹から1924年に埋め立てられてしまった「聖なる湖」まで、1年を通して川が流れていたと書かれていたんですね。地図で確認すると、確かに神殿があったと思われる場所に川が流れていたことになっています。それを思うと、古代のデロスは本当に水の豊かな島だったことがわかります。果たしてデロス島は、私たちがかつての前世で暮らした場所だったのでしょうか。可能性は高いですね。ただし、この古代ギリシャの過去生の映像は、かなりアトランティスの過去生ともダブるような気がします。どちらも何となく自由な雰囲気があったように思われ、かなり共鳴しています。これに対して、ムー(レムリア)や古代ペルシャなどは、ある意味平等ではありますが、不自由だった感じがあります。道理でギリシャとペルシャの間で長期間戦争(グレコ・ペルシャ戦争)をしてしまうわけです。あくまでも私のもっている印象の話ですが、もしそうだとしたら、アトランティスの前世と古代ギリシャの前世では、同じ自由と平等のバランスというテーマがあったように思われます。何度も同じことを繰り返すわけです。それでも学びながら螺旋状に少しでも前に、あるいは上に進んでいくというのが、輪廻転生の本質なのかなと思っています。さて、ミコノス島に戻ってからを簡単に紹介しておきましょう。とにかく、とりあえず今回の旅の目的(古代ギリシャの前世を巡る旅)はある程度達したように思われましたので、これを機会にいろいろ観光名所を見て歩きました。それらを写真で紹介いたしましょう。デロス島からの帰りに海から撮影したミコノス島の「リトル・ヴェニス」。赤い屋根の教会と、ミコノス島の人気者であるペリカンのペドロ君。毛づくろいをするペドロ君。愛嬌がありますね。そういえば、ガラパゴスのペリカン君もかわいかったです。白い壁の教会とブーゲンビリアと青い空。陸から撮影したリトルヴェニス。そして、ミコノス島の猫たち。(続く)
2024.03.10
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写真を整理していたら、今年1月30日に面白い写真を撮影しておりました。忘れないうちに紹介しておきましょう。こちらです。雲の上を飛ぶ黄金の龍。この雲にだけ太陽光が当たっていたので、このように見得た次第です。綺麗な龍雲ですね。
2024.05.15
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流れの速い川。流れの早い川の瀬に住むのが瀬織津姫。大祓詞(中臣祓詞)の中にしか出てこない謎の女神とされています。だけど、その祓詞の中にちゃんと本名が隠されています。簡単に説明すると、高山から流れ落ちタギツように激しくうねる激流の瀬にいらっしゃる瀬織津姫という神様と書かれています。隠された名前は、まずはタギツヒメです。タギツヒメといえば、宗像三女神の末子・多岐津姫にほかなりません。そして次に隠されている名前は、大祓詞の漢字に記されています。漢字では、「多支都速川能瀬坐須瀬織津比賣(たぎつはやかわのせにますせおりつひめ)」のように書きますが、この漢字の並びの中に須瀬織津比賣(すせおりつひめ)があり、須勢理毘賣(すせりびめ)という名前がそれとなく読み取れるようになっているのです。このことから、宗像三女神の末子タギツヒメは、実はスサノオの末子であるスセリビメであり、またの名を瀬織津姫と呼ぶことが秘中の秘として大祓詞に隠されたのではないかと私は判断したわけです。どうしてそうなったのかーー。詳しくは拙著『101人目の卑弥呼』、もとい『卑弥呼は二人いた』(河出書房新社)をお読みください。
2021.07.21
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2010年でほかに特筆できる出来事は、5月から6月に掛けて私たちが再びイギリスを訪問しているときに起こりました。5月30日に私たちが泊ったのは、その後英国訪問時の常宿となったスコットランドの国境近くにあるイギリスの農場でした。写真は同日、スコットランドの方角に沈んでいった夕日です。農場のゲストハウスからスコットランドの大地の彼方に沈んでいく雄大な夕陽を眺めた、その夜。といっても翌31日の朝方でしたが、私は不思議な夢を見ます。夢といっても、既に起きてはいるものの、まだ意識が完全に覚醒していない状態でみた「夢」です。その夢の中で私は、風が吹き渡る広大な草原を見ていました。草原の右手のほうを見ると、ちょっと離れた場所にストーンヘンジに似た巨石群が立っています。このとき私は、この草原が物質的な草原ではなく、時間の象徴としての草原、あるいは物質化した時間とも言うべきもので、時間を三次元的に表現した映像であることに気付きます。道理で草が液体のように波打っているわけです。こうして、悠久の時間の中に巨石が立っているのだと、私は「夢」の中で理解します。そのときふと浮かんだのが、「時の楔(くさび)」という言葉でした。どうやらその夢の中の映像は、この宇宙の無限の時の流れの中で「時」や時代、あるいは歴史を固定させるために巨石を造ったのだと言っているようでした。巨石は確かに天体観測に使われたのかもしれませんが、別の次元から見ると、無限の中に時間や時代、あるいは歴史を刻むものが巨石なのかなとも感じられました。「夢」はただこれだけです。私には巨石を造った人たちの意図がはっきりとわかるわけではありませんが、その夢から得た示唆は、巨石は時間に何かをする道具であったということです。おそらく時間を越えて何かを送ることができたのではないでしょうか。それが良いものであれ、悪いものであれ、想念を地球のあらゆるところ(世界中にある巨石群?)へ、あるいは宇宙へ、過去や未来へと、配信(受信も)できる装置であったような気がします。想念(エネルギー)転送(送受信)装置、テレパシー増幅器といったところでしょうか。「夢」をみて、そのようなことを思いました。(続く)
2024.03.21
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コンウィそばの山中にあるドルイド・サークルを後にして、次の向かったのが、ウェールズの北西部にあるアングルシ―島の巨石群でした。島と言ってもフェリーで渡る必要はなく、本土とは橋で結ばれています。とにかくこの島は、石器・青銅器時代の遺跡が所狭しと集まっているところでもあります。詳細な巨石マップを事前に入手してありましたので、その地図とにらめっこしながら、巨石群を探します。最初に見つけたのが、ブリン・ケスリ・ディーという石室墓でした。上の写真でいうと、中央の牧場奥、林の手前に見えるこんもりした丘がその石室墓です。車を止めて、牧草地のわきを歩いていきます。そして見えてきたのが、こちらです。ヘンジのように溝と土塁がめぐらせてあります。こちらが入り口。狭いですが、中に入っていけるようになっています。中の石室には、白っぽい石柱が立っていました。石室の中に石柱がポツンと建っているのは珍しいです。石室墓の外側には、レプリカですが、アイルランドの巨石群で見られたような模様が刻まれた別の石柱が立っていました。アイルランドは目と鼻の先ですから、この模様からも文化的な交流があったことがよくわかります。(続く)
2012.11.19
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2009年から2010年にかけては、UFO現象らしきものを初めて目撃しています。近所をfurafuranさんと散歩をしていた時です。突然、彼女が「今、足のようなモノが見えた!」と言います。なんでも私たちの1~2メートル先の目の前を横切ったというんですね。驚いたのは私です。私には何も見えなかったからです。しかし、何か横切ったのかもしれないと思って、横切った先にある家の壁の方を見たんですね。いつものオーブ、もしくはオーラを見る方法を使いました。そうしたら、いました!何と、家の外壁に沿って、垂直に周りの空間を歪めながら移動する物体がわかったんですね。大きさは多分人ぐらいはあります。その物体はそのまま上昇し、屋根の上に抜けた辺りで見えなくなりました。衝撃的な体験でした。映画『プレデター』で宇宙人は光を屈折させて透明になりますが、あのような感じです。空間が歪むので、何かいるとわかるものの、目の前を横切られても、furafuranさんのように敏感なセンサーがないと気付かないんですね。しかも、本来なら移動することによって生じると思われる風も感じませんでした。以前、秋山氏が娘と近くの公園で宇宙人のゲルに遭遇した時、秋山氏には姿がはっきりと見えましたが、娘は「何か光みたいなものが見えた」と語っていたそうです。つまり、宇宙人は光を屈折させて姿を見えなくすることができるのだと思います。そのころは、私たちの周囲でしばしばこうした不思議な現象が出現するようになりました。(続く)
2024.03.20
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このように、古代日本の王たちの系図を丹念に調べて行くと、記紀神話の本当の意味がわかってきます。記紀編纂者の言葉の端端や「語らなかったこと」に「重大な歴史」が隠されているんですね。さて、出雲国を武力で平定した日向国ですが、記紀を読むと、ここで大事件が発生したことがわかります。一つはオシホミミ政権が予想外の短命に終わったことと、もう一つはアマテラスの夫で事実上の王(政治王)であった高木神が亡くなったことです。本当でしたら、日向国の正統な後継者であるオシホミミが出雲国に進出すべきなのですが、当人はこともあろうに生まれたばかりの息子であるニニギに王位を譲ると語ったと『古事記』に書かれているように読めます。しかも『古事記』の記述を読むと、ニニギは長男ではなく次男ということになっているんですね。長男はアメノホアカリです。これは看過できません。長子相続の日向族がどうして次男を王位に就けるんでしょうか。余程の理由があったはずです。なぜ長男のアメノホアカリではなかったのか、考察をしてみましょう。一つの可能性は、病弱でとても王位を継げるような健康体ではなかったか、早くに亡くなったか、という健康上の問題です。ニニギの兄だけど、正妻の子ではなかったという可能性もありますね。しかしながら別の解釈もできます。ニニギの兄などいなかったという見方です。「えっ、そんなまさか!」と思われる方もいるかもしれませんが、ニニギが長子だとすると、スムーズに理解できるんですね。実際に『日本書紀』の「一書(第一)」にはニニギはあたかも長子であるかのように単独の王子として描かれています。つまりアメノホアカリは「ねつ造された長男」であった可能性があるわけです。その根拠は彼の名前にあります。アメノホアカリは「天火明」と書きます。どこかで見たことはありませんか。そうなんです。スサノオの四男であるニギハヤヒことオオトシの正式名称である「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」に出てくる名称なんですね。実際『先代旧事本紀』ではニギハヤヒとアメノホアカリは同一人物であるとしています。ということは、ニギハヤヒの存在を隠すために記紀編纂者が施した系図改竄工作の一つであった可能性が強いんですね。少なくとも私はそのように見ます。「工作」の証拠は『日本書紀』の混乱・矛盾した記述にも見て取れます。というのも、ホアカリの書き方が非常にいい加減なんです。既に指摘したように、一書(第一)ではオシホミミの子として登場するのはニニギだけで、アメノホアカリは出てきません。ところが一書(第六)ではアメノホアカリはオシホミミノの長男(ニニギの兄)として登場しますが、一書(第二)(第三)(第五)ではホアカリ(火明)という名前でニニギの息子にされてしまうんですね。しかもニニギの子であるとしながらも、長男としたり次男としたりと、滅茶苦茶な記述になっています。一体全体、「ホアカリって何者なの?」と読者は混乱するはずです。まさにそれが記紀編纂者の狙いなんですね。オシホミミの長男にしたり、その子ニニギの子にしたりして、ニギハヤヒことオオトシがよくわからないようにかく乱したわけです。それによってオオトシがニギハヤヒであることを巧妙に隠しました。「火が盛んな時に生まれた子を火明命と名付けた」とは、『日本書紀』の編纂者は本当によく言ったものです。気炎が上がったときに誕生したことにして、まさにニギハヤヒの正体を煙に巻いたわけですから。嘘をつきながらも、結構いいユーモアのセンスを持っていますね。(続く)
2015.03.12
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記紀神話とギリシャ神話では、同じ物語が共有されているだけではありません。登場人物も極めて似かよっているんですね。よく言われるのが、イザナギとイザナミから生まれたという「三貴子」と、ゼウス、ポセイドン、ハデスの三神です。三貴子(さんきし)は「みはしらのうずのみこ」とも読ませますが、『古事記』で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちたアマテラス、スサノオ、ツキヨミという三柱の神々のことです。イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから名づけられました。三貴神(さんきしん)とも呼ばれます。で、この三貴神は、父神のイザナギによって統治する場所が決められます。イザナギの左目から生まれたアマテラスは、太陽神として高天原を治めることになります。イザナギの右目から生まれたツクヨミは、夜の世界を統治する月神となります。そして、イザナギの鼻から生まれたスサノオは、海原を統治する神となるんですね。一方、ギリシャ神話では、「オリュンポス神族」が「ティタン神族」との闘争に勝って、オリュンポス政権が樹立されたときに、何とくじ引きで、ゼウスが天界、ポセイドンは海洋、ハデスは冥界を統治するということが決められたというんですね。冥界は夜の世界、すなわち月神に通じます。つまりツキヨミはハデス、スサノオはポセイドンであることになります。でも、ゼウスとアマテラスでは何かしっくりきませんね。ところが、天界とはどこか、ということをよく考えてみてください。記紀神話では「高天原」のことですよね。で、その高天原を統治していたのが、既にご紹介したタカミムスビこと高木神です。記紀神話ではうまく隠されていますが、読む人が読めば、実質的にアマテラスの夫である高木神が天界の統治者であることがわかります。そう、高木神こそゼウスなんですね。『古事記』で高木神が高天原から下界の葦原中国を眺める描写などは、天界(オリュンポスの山)から下界を見下ろすゼウスの描写にそっくりです。では、アマテラスがギリシャ神話の誰に相当するかというと、それはヘラと、「岩戸隠れ」のときに紹介したデメテルです。なぜアマテラスが二人もいるのか、という疑問を持たれるかもしれませんが、これにも理由があります。高木神の妻としてのアマテラスがヘラで、スサノオと政略結婚したアマテラスがデメテルであると解釈することができるんです。(続く)
2015.05.24
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空飛ぶ円盤のような雲ですが・・・右側に延びている部分を尻尾に見立てれば、にツチノコに見えます。そのツチノコのような雲の下にも、ユニークな形の雲たちが集まっていますね。ちなみに黒い点はトンビです。
2018.01.19
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9月30日の週(学期が始まって第三週目)になると、ほかの授業の宿題の締め切りがやってきたことが日記帳からわかります。10月2日は「APIー200 #1」と書かれていますが、これは統計学の第一回目の宿題の締め切り日です。正式には「Empirical Analysis and Program Evaluation(経験的分析とプログラム評価)」。簡単にいうと、統計を基にプログラムなど提示された計画を評価する方法を学ぶ授業です。説明し忘れましたが、授業コードの「API」というのは、「Analysis of Policies and Institutions(政策と組織・機関の分析)」の略で、私がこのときほかに履修したミクロ経済やマクロ経済も「API」の授業でした。この統計学のコースの先生は、リチャード・ライト(Richard Light)教授(専門・教育学)。コース全体の評価4・40、役立ち度の評価4・75と極めて高い評価を得ています。またしても、この高評価につられて履修しました。確かに極めて明快な英語でわかりやすく話す授業でした。成績は宿題の提出と、三回の教室内の試験(In-Class Exam)で決まりました。私の記憶では、私はすべての宿題を提出し、最初の二回の試験では平均で93点ほどの成績でしたが、比重が40%ある最後の試験で85点を取り、確かAには1点か0・5点足りなくて、A-となってしまいました。同じミッドキャリア・コースのインドから来た同級生のミトラは、楽々Aを取っていました。彼女は経済学ですでに修士号をもつ成績優秀な学生でした。一方、同じミッドキャリアの同級生で韓国から来た同業者(新聞記者)は「B-を取っちゃった」と言っていましたから、数学が苦手だと結構苦労する授業だったのかもしれません。でも、「B-」でも悲観する必要はありません。別の教科でB+を取ればちゃらになります。平均Bで8教科履修すれば、卒業できることになっているのです。実際、その韓国から来たクラスメートはちゃんと一年後には卒業しておりました。ライト教授の簡単な紹介をしているサイトを見つけました。こちらです。生涯教育者と言う感じの方ですね。統計学者とも書かれています。(続く)
2024.11.14
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11月25日の週からは、また勉学が忙しくなります。月曜日の25日は、ミクロ経済とマクロ経済の宿題NO5がそれぞれ提出日となっています。翌26日にもマクロ経済と書かれていますから、何らかの宿題があったのでしょう。番号は記載されておりませんでした。このころは学期も終盤に差し掛かってきます。それでもちょうど28日がサンクスギヴィング(感謝祭)で休みがあったこともあり、27日夜にはテニスをしています。スコアは6-0、6-0。テニスパートナーのピーター・リュウとシングルスの試合をしました。12月2日(月)は、再びミクロ経済の第六回目の宿題提出日。その週の5日(木)には、コーチのC・Jのリターンマッチを受けています。スコアはなんと9-7。いい試合でした。熱戦の末、何とか破っています。翌6日にもテニスの試合。6-2、6-3とマイケル・ギャラント(5・0)を退けました。私の苦手の左利きプレイヤーで、連日のいい勝負となりました。(続く)
2024.11.23
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Marvin Kalb(マーヴィン・カルブ)のメディア論の授業でグループ分けしたのは、そのグループ内で一週間で起きたニュースの中のトップニュースを選ぶという作業をやらせたからです。人種も年齢も国籍も社会的地位も違う人たちが1つのトップニュースを選ぶわけですから、もう大変。「船頭多くして船山に登る」といった状態になります。グループとしてトップユースが決まったら、それを理由とともにクラスで発表し、また議論します。他の人たちが何に興味を持って、何を考えているかがわかって、結構面白かったです。 説明がおくれましたが、マーヴィン・カルブが何者かについて説明しましょう。CBSニュースとNBCニュースの記者を30年間務めたジャーアリストで、有名報道番組「Meet the Press」のホスト(司会・進行役)としても活躍しました。ハーバード大学院に創設されたメディア論の研究センター(Joan Shorestein Center on th Press, Politics and Public Policy)の初代センター長でもあります。その看板授業が、私が履修した「Press, Politics and Public Policy」だったわけです。政治とメディアについて研究しているThomas Patterson(トマス・パターソン)教授とともにこの授業を担当しておりました。二人とも授業はとても面白かったです。そして何よりも、宿題に出されるリーディングアサインメントの内容が秀逸で最高でした。毎週、論文を中心にして重要部分の抜粋を120ページほど読まされるのですが、どれも本当に充実しており、ためになりました。アメリカ人の学生もリーディング資料の面白さに感嘆しておりました。クラスにおけるグループ発表と、二つの小論文、そして最後の比較的長い論文でグレードを付けられるのですが、私は最後の論文を残した時点(60%分)でB+くらいの評価でした。まあB+でもいいかと半ばあきらめていたのですが、最後の論文でAを取り、A-に滑り込んだと記憶しています。そのAがハーバードでもらった最初のAの論文でした。(続く)
2024.11.11
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