YogaLife(ヨーガ・ライフ)
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いろんな人をはげまして暮らしている。はげますのが私の使命だと思うくらい、はげます事に昔から長じていたように思う。父も母もそうだ。むやみやたらに励まされたとき、元気になるどころかヘコむ事があるのを経験する人も多いかもしれない。それは、その人を励ましたことにはならないのだと思う。時には一緒に泣くだけが一番の励ましになることもあるし、相手が泣いていても、笑いとばすのが一番のはげましの事もあるし、時には、「いい加減にしなさいよ!」と一喝することかもしれないし、時には、良い部分をほめることかもしれないし、時には、ほんとうにマイナスな部分を指摘することなのかもしれない。ただ、なくてはならないことは、優位なこころの状態ではできぬことであり、その存在に対しての愛がないとできぬことだという事かもしれない。私は、それにかなわぬときには、わざわざ何かをすることはない。なかには、はげまされるために、ほめられるために働きかけてくる人もいる。適おう、適おうとばかりする人がいる。例えば、ヨーガの教室でも、自分を感じ取らずに、どうしたら合格点がとれるのかばかりに気をとられている人もいる。ヨーガにとって、それは一番合格点に遠い状態。何かの時に、自分をよく感じてね と言うと瞬間的に、「こう?」「それともこう?」と反応的に瞬間的にすごいスピードで状態を変えていかれる人。自分を感じられていないわけだ・・・・・・適おうとされているわけだ・・・・・・何にだと言うのだろう?ヨーガは、真の自己に向う方向のものだが、外の何ものかに外の何かの状態かに向おうと必死なのだ。誰かにOK出されなければ自分の存在が危ぶまれるような誤解が我々のこころには存在するからだ。かといって、私さえよければいいのよ的な自己中心とも違うわけで。時々、あまりに自分を無視して適おうとされている時に「ちょっと違う方向ではないですか?」というような意味のお声がけをするとする。「こうですよね?」 わかっていますよと言いたげなのだ。わかっていないから方向性を指摘されていても、自分はそれをわかっていると主張する。そうではなくて と言うと、「そうですよね?」と即座に答える。さきほどと反対の事を、瞬時に わかっていると答える。体の状態の事など言っていないのに、体をあちこち動かして、こうですか?ああですか?と瞬時にどんどん変える。体の事ではありませんと言うと、そうですよね? と、それもわかっていると言ってしまい、呼吸は乱れ、自分を失くす。「私、できてますか?」とよく聞く。何に対してだろう?だからこそ、多分・・・・・・・・・できていないんだと思う・・・・・・・・いつまでたっても励ませない・・・・・・・・・励ませないのは、適おうとしすぎているからなのだ。そういう人の要求は、ほめられること。適おうとしすぎる こころと行為をやめてみることを、その方向に励まそうとしているから、要求に応えること自体が反対に向かせる事になったりする。ときどき、私もチラリと反応してしまう。何度言っても、いくらたっても、適おうとしている。自分の今を感じ取ってほしいけれど、なかなか難しいのだ。わからない と発見できれば、それはもう わかったの扉・・・・・わからないという事を全く受け入れられない こころは、わかる という事だけを わかった事だと思いこんで、それゆえに、適おう適おうとして、どこまでも適わない。時々、うんざりする。自分の中の、同様の こころを投影するのだ。素直が一番なのだ。
January 30, 2009
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