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セルジオ・レオーネ監督の『夕陽のギャングたち』をみた。ロッド・スタイガーとジェームス・コバーンの配役でメキシコを舞台にした革命の映画だが内容があって最後まで見入ってしまった。
ところで、会社を元気にすることで日本を元気にしよう。経営学からの考察を京大教授の講義を紹介したい。四半世紀ほど前のことであるが、小売業を営む老店主は、営業を続ける理由として、「商品を仕入れておけば、それが売れて、日銭が入ってくる。光熱費は少しかかるが、それ以外には費用はかからない。だから損しない」と述べた。この老店主の考えをどう思われるか?今回は、「機会費用」をふまえて、老店主の考えについて検討する。円が上がるから不景気になって雇用が見込めないという単純な経営者には変革の時代の会社経営の参考にしていただきたい。 そんな国際通貨に一喜一憂しているようでは経営レベルが低い。そんなことは関係ないと円高を逆手に取った経営も一つの方法である。
機会費用とは「諦めた利得」のこと
人はさまざまな意思決定を行っている。サラリーマンの家計では、毎月の給与で生活に必要な財やサービスを購入している。前回のコラムで取り上げたように、高校を卒業すれば、大学に進学するか、就職するかの選択に直面する。
また、企業に就職して財務を担当すれば、企業内に蓄積された資金を銀行に預金するか、株や債券などの金融資産に投資するかを選択するし、販売を担当すれば、与えられた販売促進費を広告に使うか、リベートなど流通チャネルの整備に使うか、あるいは小売価格の値引きに使うかという意思決定に直面する。さらに、人事を担当すれば、従業員の配属を決めることになろう。
これらの意思決定はすべて、代替的な用途を持つ希少な資源をいかに配分するかという選択である。代替的用途を持つ希少な資源は、最初の例では給与(カネ)、2つ目の例では二十歳前後の4年間という時間、最後の例では従業員(ヒト)である。
前回のコラムで述べたように、代替的な用途を持つ希少な資源は、それを特定の用途に用いれば、他の用途に用いることができない。特定の用途に用いるということは、他の用途に用いることを諦めることを意味する。すなわち、他の用途に用いたならば得られたであろう利得を諦めることになる。この「諦めた利得」が機会費用である。
大学に進学することの費用には、入学金や授業料の他にも、下宿の部屋代や食費などがある。入学金や授業料が高ければ進学を諦めるという意味で、これらの費用は意思決定に影響を及ぼす。他方、部屋代や食費などは、就職したとしてもかかるわけであるから、金銭的費用ではあっても、意思決定を左右するものではない。
これに対し、大学進学を選択したならば、就職を諦めることになり、就職したら得られたであろう賃金は、現実には支払われてはいないが、意思決定を左右する。実際、この賃金が高ければ、多くの人は、経済的観点から、就職を選択しよう。
冒頭の老店主の例に戻ろう。この商店は大都市のJRの駅近くに立地しており、1階が店舗で、2階には店主夫婦が住んでいた。子どもたちは独立しており、跡継ぎはいない。年商1000万円で、300万円程度の粗利益を上げていた。この金額は、国民年金と併せれば、店主夫婦が生活するのに十分であった。
この例では、代替的な用途を持つ希少な資源は店舗のスペースである。このスペースは店舗として他の人に貸すこともできる。自分で営業するということは、この賃貸料収入を放棄することであり、この分の機会費用がかかっているのである。
数年後に体調を崩した店主は店を閉めたが、その際この店主は、店舗スペースを屋根付き、シャッター付きの駐車場として貸すことによって、年間240万円の賃貸料収入を得た(バブル期のことでもあり、屋根があるため車が汚れず、シャッターがあるため安心な駐車場は、ベンツやBMBなどの高級車の所有者を中心に、1台あたり月5万円でも借り手があった)。
さまざまな意思決定を行うに際し、多くの人は、実際に支払っている金銭的費用については十分に考慮する。しかしながら、ある資源を特定の用途に用いるということは、他の用途に用いたら得られたであろう利得を諦めることであり、機会費用が発生する。意思決定に際しては、この機会費用を考慮することが肝要である。
ある人が企業に就職するということは、代替的な用途を持つ希少な資源である、彼の時間と能力を、他の企業で用いずに、その企業で用いることである。この人が、A社から1000円の時給、B社から1200円の時給を提示されているとすれば、時給の高いB社に就職するであろう。このとき、彼がB社に就職することの機会費用は、A社の時給(1000円)である。
いま、C社がこの人を引き抜く状況を想定しよう。(1200円まで支払う用意がある)B社から引き抜くためには、C社は1200円以上の時給を支払う必要がある。そして、この人が1500円の価値のある仕事をするのであれば、この人を雇うことからのC社の利得は300(=1500-1200)円となる。
C社は、1500円の価値のある仕事を、もっと能力の高い人に任せることもできる。しかしながら、(労働市場において)能力の高い人を雇うためには、高い賃金を支払う必要がある。仮に、能力の高い人を雇うために1500円の賃金を支払うとすれば、C社の利得はゼロになる。
このように、仕事の価値を一定とすれば、企業が最大の利得を得るためには、その仕事を遂行できる人の中で最も能力の低い(それゆえ、賃金の低い)人を雇う必要がある。
それでは、C社で1500円の価値のある仕事をする人の賃金が、なぜ1200円で済むのか?この人が他社でも1500円の価値のある仕事を遂行できるのであれば、他社もまた1200円以上の賃金を払って雇おうとするだろう。
他社が1200円以上の賃金を払わないということは、この人の能力では、他社ではたかだか1200円の価値の仕事しかできないことを意味する。そうだとすると、なぜこの人はC社で1500円の価値ある仕事ができるのだろうか?
このパズルを解く鍵は、「特殊な熟練」である。すなわち、特定の職場(仕事)では価値が高いが、他の職場ではそれほど価値が高くはない熟練である。この種の熟練は、職場訓練や日々の改善活動によって養われる。「わが社のDNAだ」などと呼ばれているノウハウの多くは、この種の熟練であろう。
C社の従業員がこの種の熟練を身につけていれば、彼の労働はC社においては1500円の価値を持つが、他社では熟練が意味を持たず、(一般的な能力に対応する)1200円の価値の仕事しかできない。それゆえ、他社は1200円以下の賃金しか払わないのである。
一般的な能力を向上するための訓練は、他社での仕事の価値をも向上させるため、他社が支払おうとする賃金もまた上昇する。この状況で、能力の向上した従業員を雇い続けるためには、高い賃金を支払わなければならない。
それでは、従業員は自らの賃金を増やさないような熟練を、なぜ身につけるのか?従業員に訓練を受けさせるためには、彼らにたいして適切な誘因を提供する必要がある。そのための方策の1つに、利益分配がある。すなわち、熟練を積んで1500円の仕事をすれば、300円の利得が生じるわけであるから、この一部を特殊な熟練を修得した従業員に与えることなどが考えられる。
これまで述べてきたように、ある資源が1500円、1200円、1000円の価値のある3種類の用途を持つ場合、市場経済のもとでは、この資源は最も価値の高い(1500円)用途で用いられる。このときにあきらめた利得である機会費用(=市場価格)は、2番目に価値の高い用途で用いられた場合の1200円である(経済全体でみれば、1500円の価値を生み出すために、1200円の価値を諦めることになる)。
そして、この資源が生み出す価値と機会費用の差が利益となる。したがって、資源の利用から利益を生み出すためには、自社内での資源の価値を、他社が用いる場合よりも高くしなければならない。資源がヒトの場合には、自社内では価値が高いが、他社では価値の低い特殊な熟練を修得させることが肝要である。
セルジオ・レオーネ監督の『夕陽のギャングたち』の映画のように、このままでは孫や子のために日本を元気にしなければ死んでも死にきれない。人類も産業・会社経営も変化して進化して発展してきた。変化はしなければならない宿命である。国益のため、まず先に国家的戦略として少子化問題の解決がすべての根源である。そんな大局的に政治課題の読める政治家が少ない。そして他民族国家プロテスタントアメリカオンリーの米国の属国から憲法改正し、強固な戦争力の基盤に立った我が国独自の多方面近隣諸国との相互信頼できるように外交ができるように政策を変化させることである。
都道府県の借金時計 猶予は1年である 。 (文責:尋牛亭日常)
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