高松空襲と本土空襲ー市民から見た第2次世界大戦ー【電子書籍】[ 真田まさお ]
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卒業論文の制作、初めての本格的な歴史研究
第一文献にあたるのが卒論の基本である。
空襲がテーマの卒業論文で、第一文献と言えば、高松空襲経験者の生の声である。この高松空襲経験者の記録は高松空襲手記編という形で本になっている。空襲経験者の証言をまとめて、共通点を見つけていく、研究は根気と時間が必要であった。
証言者の意見が多ければ多いほど、その説には信憑性が生まれ、また、証言以外の別の資料を証拠として提出できれば定説になる可能性が出てくる。
例えば、一例を挙げると、高松空襲が始まった時間だが、高松空襲経験者の証言では、七月四日午前一時から二時の間に空襲が始まったとする証言が大半を占める。
この証言を裏付ける資料として、高松市史年表がある。この資料は議会や消防などの公的な機関の報告書をまとめた資料で、現地の人達が作った信憑性の高い資料である。この高松市史年表では高松空襲の始まった時間は一時四八分頃と記載されている。
当時の公的機関の正式発表と空襲経験者の証言がほとんど一致しているので、ほぼ確かな説と言える。
しかし、どのような歴史にも、様々な説が存在する。この高松空襲の開始時間に関してもそれは同じである。
実例として、高松市市民文化センター平和記念室の展示には、高松空襲の始まった時間は七月四日の午前二時五六分と記載されている。
実に、高松市史年表と一時間以上の誤差が生じている。
この二時五六分を裏づけする資料として、サイパンのマリアナ基地の出撃に関する米軍資料が挙げられる。この資料を見ると、二時五六分は第一目標上空時間と記載されている。
では、高松市年表の午前一時四八分とマリアナ基地の二時五六分のどちらが有力な説なのかを考察してみる。米軍の資料は、一番機の到着の目標時間なので、あくまでも予定と考える事ができ、実際に到着した時間とは違うのではないかと考察する事ができる。
そのように考えると、決め手になるのが第一資料である。
第一資料の空襲経験者の証言では、午前一〜午前二時の間という意見が多いので、一時四八分の方が空襲の経験者の証言に近い為、高松空襲が始まった時間は一時四八分ぐらいと考える事が妥当である。
だが、また、新たな視点や資料が登場すれば、私が研究した説は簡単に覆るだろう。それが歴史研究だと思っている。
過去の定説がいとも簡単に変わるところに、歴史の面白さと難しさを感じる事ができる。
これ以外にも、最初の爆撃地、終わりの時間、空襲中の行動、出撃数、空襲前、空襲後、全国的な比較、復興など様々な視点を高松空襲経験者の証言を中心に、数多くの資料を裏づけにして研究を進めていった。
研究を進めていくと高松空襲の真実と全体像が浮かび上がって来る。
高松空襲の全体像から他地域の空襲と比べることによって、次は、日本全体での本土空襲の様子が見えてくる。
高松空襲を研究する事によって、昔流行った、アメリカ軍は文化遺産を避けて空襲を行ったという、ふざけた俗説を一蹴する材料の一つにもなった。
京都は原子爆弾投下の候補地でしかなかったと言う事だ。
米軍の本土空襲はそんな甘いものではない。アメリカの攻撃は国際法を無視した、大量殺戮と徹底的な破壊があるのみである。
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