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2020年01月12日

プラトンについて!法政大学通信教育部文学部史学科倫理リポート




プラトンについて!法政大学通信教育部文学部史学科倫理リポート

プラトンはソクラテスに大きな影響を受けた1人である。
それは、主にソクラテスとの対話方式で書かれた初期対話篇に見られる。

ソクラテスの倫理は主に対話を通じて相手の無知を自覚させ、新たに真の知を探索させようとする方法である。
つまり、人間の生き方は自分自身を知ることによって、自分自身を含めた人間は知者の存在ではなくて、無知の存在であるとし、人間は無知であるからこそ、自分自身に無い知を愛し、そして、知を求めるものだと考えた。


 ソクラテスの生き方は、ほんとうに生きるとはどういうことかを問い続けた生き方だと思われる。

ソクラテスの生き方に対して、ペロポンネソス戦争に敗れ、政治的、社会的に不安に陥っていたアテナイでは、反感の意を唱える者も現れてくる。

そして、最終的には死刑となって、死んでいくわけである。
プラトンは師匠であるソクラテスの運命な死を目の当たりにして、人間の本当の生き方や国家のあり方、道徳のあり方など考えさせられたと思われる。

プラトン哲学は後期には自己流の哲学へと発展を遂げると考えられているが、しかし、根底にはソクラテス哲学が存在していると思う。

ソクラテス哲学は主に人間を対象にしていたのだが、プラトン哲学は人間だけでなく、国家や宇宙など、その領域を広げた所に特徴があると言えるだろう。


 プラトンの倫理学の中心となるのは、イデア論だと思われる。
イデアとは、形相のことで、プラトン流の解釈なら、実在するものや真実のものと言った物事の本質を表す言葉である。

例えば、美しいと感じる物があったとするなら、その美しい物のなかには、永遠不変の美のイデアが存在していると考えられた。
プラトン哲学の特徴は、物体や固体よりもその内側にあるものを重要視している。
言いかえると、現実世界にある物よりもイデア界を重要なものとして扱っている。

人間の生き方で考えるなら、肉体を鍛えるよりも、内側の精神や魂などを鍛える方が重要であるとの考えである。
この考え方は、魂の世話を主張した師ソクラテスの思想ともほぼ同じと見る事ができる。


 プラトンの考え方は、神が自然の万物を作りあげる時にその原型となるのがイデアだと考えた。

すなわち、イデアは万物を創造する時の設計図のようなものであると考えられる。
このようにイデアは神の意志が入った神聖なものとされた。それに対して固体は模型にしかすぎないと考えられた。


 この神の思想のような空想的で非現実的な考え方は、プラトンの倫理学では重要となってくる。
それは、人間にとって偉大なことは、神にとらわれることであるとの思想である。

神に人間がとらわれると言う事は、すなわち、神よって人間の意思が動かされる事を意味している。
例えば、恋愛をしているときなど、自分自身には恋愛相手の良さが分かるが、しかし、他人にはまったく、恋愛相手の良さが理解されない。これは、神にとらわれたことによって、その人にしか分からない相手の良さを発見することである。

このように、人間の生き方は神の意志と密接に関りをもっていると考えられた。
このプラトンの空想的な神の思想は、後に、中世キリスト教の教義などと結びついていき、歴史的にも人間の生き方に大きな影響を与えることになる。


 また、プラトンは魂の三分説を唱え、魂をイデア界に関る部分と現象社会に関る部分との2つに分け、また、現象界は勇気と欲情的なものとに分けられるとした。

プラトンは魂の三分説の中で、理性は魂を支配し、正しく導く存在と考えられ、勇気は理性のよき支配を受けながら、理性を助けて欲情を正しく導く存在とし、また、欲情は健全な肉体を維持する存在だと考えられた。


 また、プラトンは人間の生き方だけでなく、政治にも興味を示している。

理想の国家を作るためには、その統治階級者となるべき人には徹底した教育が必要であると考えた。
そのため、プラトンは学園アカデメイアを創設し、学園で理想国家の統治者になるべき人間を育てていくことになる。

プラトンの理想国家論は理想的な人間と理想的な国家は本質的には同じだと考えた。
そのため、理想的な人間を育てることは、理想的な国家を作る事と同じあると考えた。


 プラトンの理想国家論は、人間を3階級に分け、それぞれの階級には独自の任務と道徳観が必要であると考えられた。

まず、上級者階級は法律や制度の制定などを行い、また、市民を統率することを主な任務とする。上級者階級に必要な徳は知恵であるとかんがえられた。

次ぎに防衛者の階級は国家の防衛を行うので、戦う事を主な任務とする。
防衛者階級が必要とする徳は勇敢である。

次ぎに生産者階級は国家が必要とする生活必需品の生産が主な任務で、必要とする徳は節制である。

また、以上三つの徳を国家活動の中で統一されることによって、調和が生まれ、そして、公正という徳が生まれる。

これら4つの徳によって国家が理想的に運営されると考えられた。
これら4つの徳のうちもっとも重要な徳と思われるのは知恵だが、しかし、それは、4つの徳全てが理想的に機能している状態でのみ発揮されることである。

4つの徳が理想的に発揮される倫理的社会とは国家の事を指している。
 (西洋哲学史 今道友信 1987 講談社 参照)
(プラトン初期対話篇研究 上田徹 2001年11月20日 東海大学出版会 参照)









タグ: リポート

2019年06月12日

形而上学について!哲学リポート-通信大学生必見




形而上学について!哲学リポート-通信大学生必見

現代世の中は非常に混沌としている。

多様化する国際社会、統合を始めたヨーロッパ諸国、や統一ドイツ、パンアフリカ思想、しかし、分離崩壊した旧ソ連、分裂したチェコスロバキアやユーゴスラビア、アフリカの細分化された独立、国際社会は一方では他民族が協力して1つの国家を作ろうと努力しているが、一方では独立運動をてんかいして分離独立を勝ち取って細分化されている。世界は同時に二面性をだしながら進んでいう。

世界の進むべき姿がわからない。

その他、戦争や民族闘争、これらによる人の命の価値の低下、殺し合い、人間同士の憎悪、破壊、憎しみが憎しみを呼ぶ終わりなき報復、がくり広げられている。がしかし、現代において、福祉国家の誕生、赤十字、発展途上国に対する資金や技術の援助、国際協調、などの世界の流れもある。世界にはいろんな状況が同時に存在していることが分かる。

また、本来人を救うべき存在である宗教が原因となって引き起こる宗教闘争、これは今現在でも、北アイルランド問題やイスラムの宗派での争いがありテロなどが発生している。これは宗教が人の救いを与える反面、人を不幸にしている。まさに、多面性である。人間個人に目を向けると凶悪化する犯罪、犯罪の低年齢化、孤立化、しかし、人間はお互いに協調し、そして一人じゃ生きられなくグループを作る。

 今まで述べたことを考えると、まさに多様化、いろんなことが同時に起こり、分けが分からない時代である。人間とは本当に不思議な生き物、人間とはいったい何なのか、この多様化した時代で、人間が引き起こす、さまざまな問題を、人間の感情、自我、など、もっとも深くシンプルな基本となる部分をから考える必要があるのではないかと思われる。これこそが現代の形而上学に他ならない。

 形而上学の最初の始まりは、古代ギリシアのアリストテレスである。アリストテレスの作品を編集した時、自然学関係諸巻のあとの本という名から始まる。アリストテレスはこの部分を第1哲学と呼び、ものの第1原理と原因を解明する学問。言いかえるなら、すべてのものの最高原理を研究し、その根本にあるものを解明するものである。

 その後形而上学は中世になると、スコラ学の神学と結びつき発展を遂げる。18世紀にはいってヴォルフ学問を分類して、形而上学とは人間の自由とか魂の不滅や神の存在など、超経験論を考える部類の学問とし、存在論を展開した。

これに対しカントは存在論を独断論として反対した。カントは、経験に依存しなくても総判断が可能なである学問で、超越論哲学に基づく新しい形而上学を目指した。しかし、カントが目指した形而上学は難しく完成するのには険しい道のりだった。

その後、フィヒテはカントの哲学を受け継ぎ発展さした。フィヒテはア・プリオリ的な経験に依存しない判断で、人間の自我に関する可能性を考えていった。そして、その後、ヘーゲルは事物を、不変で、たがいに個々別々に引きはなされて存在し、それ自体では運動しなく、運動、変化の原因はその内部に持たないという、とれえかたの思考方法を唱え、形而上学を反弁証法的思考方法だと説いた。これは、知識をおおざっぱで全体的にとれえていたのに対して、細部にわたって個々別々にそれぞれの知識領域を研究していくようになったことを意味する。しかし、細部にわったて研究することは大切ではあるが、ものごとの全体や関連、発展、変化を見過ごしてしまう危険性である。そこで弁証法的な物事のとらえかたも必要となっていった。

 現代の形而上学は近代のカント後の哲学にもどり、自己意識や自我についてもう一度考え直そうとする流れがでてきた。そして、自己意識を研究してきたドイツ哲学と一線を引いて独自の哲学を研究していた英語圏哲学にも自己意識を研究する流れが見え始めた。

 ドイツでの現代形而上学の研究はハインリッヒである。ハインリッヒは近代の哲学は自己意識を研究してはいるが自己意識がどのようなもので他の知を根拠づける機能を持つという点にのみ研究が集中されたと考えた。結果、近代哲学は自己意識そのものは、それ自体で何かという点に対して説明不足であるとハインリッヒは思った。ハインリッヒは自己意識は何であるかとの問に関して自己保存という視点から考えようとし、この自己保存こそ自己意識は何という問を説くカギであるとした。

 現代の英語圏の形而上学は言語分析における自己意識の研究である。私という言葉を通してこれがどのように機能し、そして、自己意識とは何かという問いに答えようとした。シューメーカーは私という言葉は、主観としての用法と客観としての用法の2つの文法的用法があるとした。この2つの用法により、私という言葉が自我であるがないかを研究した。これに対してアンスコムは私という言葉の自我性を2つの用法とも否定した。このように言語研究から英語圏哲学は自我をかんがえていった。

 現代の形而上学は、近代の形而上学を基本とし、新しい形にしたものである。これは現代の多様化時代に適応するために近代形而上学が違う形に進化したといえるのではないか。


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2019年05月13日

哲学と科学の人間から見た違い!哲学(一般教養リポート)







哲学と科学の人間から見た違い!哲学(一般教養リポート)

人間という生き物は常に考え、あらゆるものに疑問を持つ動物である。そのことによって人間が地球上において食物連鎖の頂点に立ち現在の文明を作り上げた原動力になったと思われる。考えて見れば、僕自身子供の時、親に素朴な疑問をぶつけて困らしていた。


例えば、宇宙って何、UFOや宇宙人は本当にいるの、幽霊って何、空はなんで浮いているの、川ってどうやってできるの、男女になんで分かれているの。


自然、今考えただけでも疑問だらけであった。まさにこの世は不思議なことだらけである。だが、年をとるたびに、疑問を感じなくなった。いや、分からないことは考えないようになった。考えても分からないからである。答えがでないことは疲れるからあまりかんがえなくなった。


 哲学や科学はまさにこの疑問から発生した学問といえるだろう。この世の中、宇宙の神秘のなぞを解く学問である。


 しかし、僕自身この哲学を勉強する前は哲学と科学が同じ問いから発生した学問だとは思わなかった。哲学のイメージとして人間とは、なにかというようなイメージ、ようするに、あまりよく分からない学問、それに対して科学は数式が中心の数学的なイメージであった。まさに、論述的な学問と数学的な学問である。この2つの学問は方向性が途中から変わったようである。

最初は同じであったと思われる。例えば古代ギリシアのアリストテレスなどの有名な哲学者達、しかし、アリストテレスは科学の父とも言われ、その他の哲学者達も科学史では非常に有名である。この時代は哲学者兼科学者であると言えるだろう。


 ここで疑問がある。なんでこの宇宙のなぞを考える学問が二つに分かれたかである。途中でその問、疑問に対して解明する方向が変化した。


 まず、私の疑問であったことから考えると、光はなぜガラスや障子などを貫通して外に行くことができるかである。音と同じなのか、はたまた、幽霊のようなものなのか、すごく疑問であった。

しかし、この問は物理の勉強をした時なんとなくだがわかった。それは、光は波動性と粒子性を持っていること、トンネル効果なるものの存在、なにが起こるかわからないミクロの世界のこと、これらを自分なりに考え、ある程度ではあるがなんとなく、光が物を貫通する原因が自分の中で解明された。


また、これらの現象を数式に表すことができることも知った。これが科学である。しかし、どのようには分かったが、なぜこのようになるのかが不明である。なんで光は波動でもあり、粒子でも有るのか、そもそも粒子って何、波動って何なの、なんで物体の構造は電子と原子からできているの、電子って何、原子って何なの、掘り下げて疑問を追求すると、どんどん疑問がでてくる。疑問を究極まで考えるのが哲学である。

もう1つ例をあげると、たとえば、宇宙とはなにか、科学では、宇宙の構成物質は電子や原子などの小さい微粒子で構成される。そこにはもともと、人間が勝手に決めた価値観である、時間、力、位置、などの概念がないと考える。これを前提としていろいろな法則や物質の構成、結合、反応、自然などを観察や実験、理論をもとに研究をすすめていくのが科学である。あくまで、事実を元に考える学問である。

言いかえるなら答えを出そうとする学問。始めにあった人間の疑問、宇宙はなにかと言う問が宇宙とはどのようなものか、にすりかわっているのが分かる。そして、人間はどのようなものなのかで納得してしまうのである。

しかし、よく考えてみれば、純粋な疑問はなぜである。なぜ宇宙は存在するか、宇宙は何、なぜ存在するの、と言う問が忘れられている。哲学は究極の理由なぜや有るものや存在するものの根源の問いを考えるのである。しかし、答えはでない。考える行為そのものが哲学である。


 次に、人間の思考である。私自身物心ついた頃からすごい疑問があった。それは、意識である。意識は自分だけが持っているのではないか、なんで自分は考えるのだろか、そして、最近思うのは実は自分自身ただのプログラムじゃないかとか。このような人間の思う、行う、有るなどの感情、自我は何なのか、科学で考えるならまだ、完全には解明されてはいないが、答えは近い将来にでるだろう。

例えば脳細胞の有る部分に記憶をつかさどる細胞があって、というふうに解明されるであろうが、しかし、根本的な問題の解決にはなっていない。なぜ人間は考える。なぜ記憶する。人間って何、思考はなに、というふうに無限に疑問が広がって、ついにはなんでこんなこと考えるかとかというふうに、もう、理解できなくなる。これが哲学である。


 人間は答えを求めてしまう生き物なのかも知れない。だから、現在答えがでる科学の異常な進歩を引き起こし、哲学がついていけなくなるという現象を引き起こしたのではないだろうか。しかし、僕は思う。この世に答えなんてない。答えのでない哲学こそ、これからの学問の主流になるべきだ。

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タグ: リポート

2019年04月08日

科挙について東洋史概説-法政大学通信教育リポート・学生必見

科挙について東洋史概説-法政大学通信教育リポート・学生必見

科挙以前の官僚登用は、漢(前202〜220)で行われた察挙である。これは中央政府から地方に派遣された地方官が優秀な人材を見つけ推挙するというシステムである。だが、実際は地方で権力を持っていた豪族の意向に左右されることが多いシステムであった。

次は、三国時代の魏で3世紀ごろ作られた九品官人法である。これは地方に中正という官職を配置し、才能有る者などを、九段階の等級に分けて中央政府に推薦するというものである。しかし、初めはうまくいっていた制度だが、中正官はその地方出身者が原則であり、また、中正の官を地方の有力者が占有したため、自然に上品には地方の有力者の子弟が選ばれるようになった。そして、家柄などによって、官職が代々固定され、貴族層が形成され、能力に関係なく官僚が選ばれ結果となった。

九品官人法の問題点を解決するために、隋の文帝(581〜601)は中央の地方に対する統制を強化し、九品官人法を廃止し、始めて科目試験の方法で官職を選抜した。2代目の煬帝(605〜616)は科挙制度を正式に形成した。しかし、隋や唐(618〜907)代の科挙はまだまだ貴族中心の制度であった。だが、少しずつではあるが徐々に科挙の持つ実力主義の特徴が貴族による官僚独占構造を崩していった。

そして、科挙制度の、受験資格は国籍、貧富、身分に関わらず男性なら誰でも受験できた。例えば日本人の阿倍仲麻呂(698〜770)も採用され、節度使として活躍した。科挙制度は優秀な人材を採ると言うことには非常に合理的で、全ての男性に平等な制度と言えるだろう。しかし、科挙試験は非常に難しく、大変な勉強時間を必要としたため、実際に勉強できる環境にあるのは、収入的にゆとりのある貴族などの裕福な層の人間が大半を占めるといった矛盾点もあった。

そして、科挙が形式上、だれでも公平に受験できるようになり、もっとも科挙制度が花開いたのが宋(960〜1279)代である。

科挙は、中国の政治、文化、社会、国民性などを作り出すシステムとして大きな役割を果たした。例をあげるなら、科挙試験による画一された倫理観の養成、科挙制度によってもたらされる文化の普及、その他人と人を結ぶ役割。例えば、教育費、受験費用を援助するシステム、郷試や解試合格者などを地域あげて応援したこと、試験管と受験生のつながり、教育機関でのつながり、官界に入ってからの薦挙制度などによる人脈である。

科挙の試験科目は、経義(経書の解釈)、試賦(作詩)、論、策(論文)である。科挙合格の条件として古典に精通して、詩文を立派に作り、論文作成のための歴史知識をもつことが必要とされ、これらの教養を身につける事が合格の条件であった。

科挙官僚が多数いた宋代において経義に代表される儒教的価値観を身につけた科挙官僚が、宋代の権力者層を形成していった。この権力者層は士大夫と呼ばれた。また、科挙の学習は政治事情と深く関係した。例えば、宋代の王安石(1021〜1086)の率いた新法党が政権を担当したときには、科挙の試験科目から詩賦が除外され、経義が重視されることとなり、王安石を中心に作られた三経新義が教科書となり、受験生達は、王安石の学問一色に染められた。ところが、旧法党が政権を担当すると王安石の書物の使用が抑制され、詩賦が復活した。
そして、再度新法党が政権を握ると経義中心の王安石体制に戻った。

 このように、科挙試験を通して国家や時の権力者が求める画一的価値観にそう自分に都合の良い官僚を育成することができた。また、科挙制度は受験科目である経義を通して、儒教的価値観を国に広める原因となり、広大な中国で1つの統一的な文化が生まれる原因になった。しかし、科挙試験とは関係ない学問は発達しにくいことや科挙試験だけの勉強にかたよることや科挙試験が国や権力者の国家統制に利用されるという弊害も同時に生まれた。

つぎに宋代の科挙試験には殿試と呼ばれる皇帝自らが試験管となる試験が設けられた。宋代では、科挙の合否の決定権は最終的には皇帝1人が握り、官僚の任命をするのも皇帝の役割だった。さらに宋代では「対」と呼ばれる直接皇帝に面会して意見を申す制度が発達した。これらのことは皇帝と科挙官僚の個人的なつながりや関係を深めていった。このことは、皇帝に権力が集中する宋代の政治体制に大きく関わった。また、官僚と皇帝の個人的なつながりは、官僚の発言力が皇帝の政治決断に大きな影響を及ぼした。

この宗代のシステムは大変すばらしいが、たいへん大きな危険性を含んでいた。たとえば、皇帝である徽宗(1082〜1135)は政治よりも文化に興味を持ち、政治はもっぱら科挙官僚に任してしまった。これは、皇帝徽宗の後ろ盾で専権をふるう宰相の出現をもたらした。科挙試験に若くして合格した、蔡京(1047〜1126)は皇帝に重用され、ついには宰相にまで登りつめ、専制をふるい、自分に都合の良い政治をして国を混乱させた。これは、宋王朝滅亡の1つの原因ともなった。

(中国史 尾形勇 岸本美緒 山川出版社 1998 参照)
(科挙と官僚制 平田茂樹 山川出版社 1997 参照)

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2019年01月13日

サルトルについて‐倫理文学部史学科リポート




サルトルの倫理観は人間の存在を無であると考え、人間は自由でなにものに束縛されないものであるとした。
これは、例え神であっても人間は束縛される存在ではない。

人間は過去や現在の自分自身から常に脱出し、未来に向かっての新しい自分を自由に作っていく存在であると考えた。

つまり、人は自分自身が何者であるかを自分自身で決める事ができる存在である。
この事は、人間は自分自身が世界との関り方の中で自分自身の事を選択し、その中から自分自身を決定して、自分自身を常に作っていく。この事がサルトルによって自由と言うことである。


 サルトルの自由に対する考え方は、人間は自由な存在として、自由でなければならない存在であり、また、自由でない人間などありえないとも考えた。
つまり、人間の存在の中で、自由がなくなってしまう、自由はありえないのである。人間と自由は常に共存して、人間は自由から逃げる事はできない。いわば、人間は自由とういう刑を受けた存在であると考えた。

人間という存在は自由を求める存在ではなく、不変的に人間と共に共存する自由という罰から逃れようと考える存在であるとも考えられた。
人間にとって自由という罰は人間でいる限りけっして、逃れる事のできない刑であるので、人間は常に悩み、苦しみ、不安を感じ、常に考える存在であると考えた。

 人間の自由と不安の関係は、例えば、危険な崖を歩く時、人間は常に崖から落ちてしまう可能性に不安や恐怖を感じる。

しかし、自分自身の行動方法によっては、崖から落ちることはありえない可能性も存在しているのである。
また、ある一定の条件さえそろえば、人間が崖から落ちるという事は、物理的な自然現象の外の要因と捉える事ができる。

そして、崖から落ちないと言う事は、自分自身の行動によって決まる事なので、自分自身の中に要因があると考えることができる。

しかし、自分自身の要因で崖から落ちないように企てても、自由に自分自身自ら崖から身を投げることも可能である。
人間は自分自身によって崖から身を投げる可能性に不安を感じるのである。
けっきょく、人間と言う存在は、自由であるがために不安から逃れる事ができない存在と見る事ができる。

不安は人間が自由である事を証明するものと考えることもできる。

 第2次世界大戦によるドイツによるパリ支配によって、言論の自由や行動の自由がパリでは失われた。
サルトル自身もドイツ軍に捕虜として収容所に送られる。

ドイツ支配による自由がまったく失われた世界だが、逆にサルトルはドイツによって占領されていた時ほど自由な世界はなかったと考えた。


 サルトルの思想は、人間の本質は自由を求める存在と考えられ、しかし、それは、何でもやれる自由ではなく、世界との関りを自由に決定する自由だと考えられた。

そして、平凡な生活の中では、人間は何でもやれる事があたりまえのなるので、逆に、自由を見失い能動的な生活になりがちになると考えられた。
例えば、戦争時などのように、戦争によって自由が奪われている状態になると、人間は逆に、本質的に持つ自由に対する意識が明らかになり、世界と関る自由を強く感じると考えられた。


 サルトルの実存主義に大きな影響を与えたのがハイデガーの存在論である。
ハイデガーはまず、人間が存在すると言う事はどのような事であるか考えた。
人間がどのような存在であるか考える行為、それ事体が人間にしかできない行為であると考えられ、自分自身の存在そのものを問題と問い掛けるのが人間であるとも考えた。


 ハイデガーは人間が存在すると言う事は世界と関わっていると言う事だと考えた。
人間が世界の中にあり、人間は自ら世界へと関わりつつ存在している、ということであると考えられた。


 実存とは実際にここに現実に存在しているということである。
実存主義は19世紀末から20世紀初頭にかけて注目を集めた思想である。

ヨーロパでは資本主義も進み機械化が主となってくる。この時代、人間の大衆化が進み個人としての人間の存在が失われてくる。
例えば、工場での単純作業など、同じ繰り返しの作業を大勢の人達が同じように繰り返し行うなどである。大衆化する社会では個人の個性としての尊厳も失う危険性もある。

このような時代だからこそ、個人の存在に注目し、具体的な個人としての人間のあり方や世界との係わり合い方など人間としての問題を考える存在論が脚光を浴びる。
サルトルの実存主義も存在としての哲学であり、無神論的実存主義とも考えられた。

また、サルトルの思想はヒューマニズム批判とも見る事ができるが、しかし、サルトルの思想は神が支配する伝統的なヒューマニズムと違った新たな真のヒューマニズムだとも考えることができる。
これは、伝統的な人間観から新しい人間観を作り出すための実存主義とも見る事ができる。


 サルトルの実存主義の中では、人間の自由な行動を縛るような道徳は存在しない。
自分で行動を選択すること事体が道徳であると考えた。

人間がこうあるべきである、と言うような道徳観は最初からなく、それは自分自身で作るものであり、道徳は作るものであるとサルトルは考えた。

(サルトル 永野潤 ナツメ社 2003 参照)










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2018年07月28日

学校教育における生徒指導の意味とは!生活指導リポート通信制大学

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学校教育における生徒指導の意味とは!生活指導リポート通信制大学

生活指導という言葉のイメージからは、あまり良いイメージは湧かない。例えば、学校や先生が生徒を服装や持ち物、生活態度などで制限を加えて校則で縛り、教師が生徒を一方的に叱るというイメージである。


 しかし、生徒指導という意味は、さまざまな事を含んだ意味として捉える事ができる。それは、生徒を叱って制限を与えることも含めるが、大きな意味としては生徒の相談役や進路の指導などである。学校の存在は生徒たちが社会に出る前の準備段階の訓練場所とも捉えることができるので、その中で教師の役割は人生の先輩として生徒を導く存在と言える。


 学校という存在理由は生徒が将来社会に出た時に必要となる知識や技能を身に付けさせることが目的である。学校で行う教科の指導だけで、生徒が将来必要となる技能や知識を補うことはできない。教科の指導は学校が目的とすることのほんの一部でしか過ぎない。学校は教科の勉強をするためだけにあるのではなく、その他にも、学校で生徒たちは将来必要となる知識や技能を学ぶのである。


 例えば、部活動を通じて、先輩と後輩の関係を学び、勝つ喜びや負ける悔しさ、勝つ為の努力を学ぶ。中には部活動がそのまま将来の職業と関連する人もいるだろう。部活動は将来会社に入社した時、上司と部下の上下の関係や同僚などの横の関係に役に立つ技能ともなる。その他、ホームルームなどを通じて行われる学級活動では、学級の問題を生徒と教師が1つになって考え、班をつくり、リーダーを決め、各個人のそれぞれの役割分担などを決め、また、学級対抗で運動会なども行う。学級は1つの国とも捉えることができる。」

学級活動を通じて将来、主権が国民である民主国家日本で暮らすための必要な知識を少しは得ることができるであろう。また、学校の校則を守ることは将来社会に出た時に法治国家日本で暮らすための訓練ともなるであろう。そして、学校生活ではクラスメートや同級生、下級生、上級生、先生などさまざまな人と出会う場所でもある。その中で、友達を作り、友人となり、好きな人見つけて恋人となることもあるかもしれない。これらの人との付き合いは、将来の人間関係をつくる上で役に立つし、また、友達やクラスメート、恋人などとの付き合いから、楽しさや悲しさなどを知り、人生勉強となるであろう。学校生活は人生のあらゆる要素が詰まっている空間と言える事ができる。


 従来日本の社会の価値観は学習指導重視の偏差値教育であった。教科の勉強も受験を対象とした教育法が取られていたと思われる。これがよい事なのか悪い事なのか私は分からないが、しかし、学校で良い偏差値を取って、良い大学に入学する事だけで、生徒を評価するのはいけないことだと思う。近年になって、従来の学習指導中心の教育法から特別活動中心の教育法へと切り替わる流れも出てきている。総合学習の時間の設置など、教科の勉強以外の時間を増やして、各学校独自の教育システムや地域に密着した教育なども検討されている。


 戦後からの日本社会のシステムの変化にともなって、学校の重要性がますます高くなってきた。日本は戦後の復興をとげ、高度経済成長期に突入する。そうなると、日本社会は大きく変わる。家庭では父親は仕事が忙しく、子育てにもなかなか参化できない。また、母親もパートなどに出かけて、いわゆる、鍵っ子が増えてくるのである。子育ての中心となるべき親が十分な時間を子供に割いてやる時間ができないので十分な子育てができないのである。そして、家族構成もおじいちゃんやおばあちゃんがいない、いわゆる核家族化があたりまえとなった。家庭での子育てが難しい状態となったのである。また、転勤族の増加やアパート暮らしや核家族化の現象によって、地域社会からの繋がりも弱くなったのである。そうなると、地域社会が子供を育てるシステムがなくなり、隣近所の子供であっても、よその子だから叱ることができなくなったのである。

この社会システムの変化によって、子育や子供の教育の中心が家族や地域社会から学校へと移るきっかけとなっている。子育てに対する期待を学校が担うことになるのである。学校の果たす役割や責任の範囲が広くなったのである。


 学校の果たす役割や責任の範囲が広くなることは、教師の負担も増える事を意味している。学校は勉強だけを教えていたのではダメとなり、子供のしつけに対する期待も含まれるようになるのである。


 教師の仕事は教育をつかさどることである。教育には教科と生活指導の意味を含んでいる。子供が大人との接点が少なくなった社会では、子供の生活や道徳に対する知識や技能を養う事が難しい。今後もますます、教師の特別活動(生活指導)に対する重要性は高くなるであろう。

(学校って何だろう 苅谷剛彦 講談社 参照)


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2018年06月29日

道徳と学校教育の関連性とは‐通信教育課程(道徳リポート)

道徳と学校教育の関連性とは‐通信教育課程(道徳リポート)


中学校や小学校での道徳教育の位置付けを考えると、各教科、特別活動、総合学習、道徳の四つは学校教育の教育過程を編成するものである。


 また、小学校や中学校の学習指導要領では道徳教育は、「学校における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うものであり、道徳の時間をはじめとして各教科、特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。」と記載している。


 道徳教育の目的は、人としての生き方を教育する所にある。

例えば、人として、他者を思いやる心や自分自身の自立心などを育て、また、集団生活で必要な技能、モラルを身に付け、良い事と悪い事の分別を付ける能力を養い、そして、人間としての愛情などを育てる所にある。

また、教師という存在は、未熟な生徒達に対して、良い大人として生きる上での手本となり、また、人生の道しるべ的な存在として、生徒を将来良い方向に導く存在と言えるだろう。

教師の仕事は教科を教えるだけでなく、道徳的なことも重要な仕事の1つと考える事ができる。

つまり、学校という空間は道徳教育に満ちた空間とも捉えることができる。 


 学習指導要領に記載されている通り、道徳教育は学校の教育活動の全ての事に関連する大事な要素である。

道徳は学校のあらゆる所に関連している。

例えば、学校の校則などを守る事は、法治国家とも言える日本で生きていく上で重要な事になる。

つまり、学校の校則を守る事は、国の法律を守る事にも繋がり、また、集団生活や地域社会、会社、仕事場でのきまりを守る事にも繋がっている。

人間として生きていく上で集団でのきまりごとを守るのは基本的な事だといえるだろう。

また、部活動やクラブ活動、学級、学年などを通じて、人間として、人との関わり方を学んでいく。

例えば、年齢での上下関係や同級生との縦の同僚関係、また、これらの関係の中から、先輩や後輩、友人、恋人、友達、知り合いなどを作り個人的に、また、集団を通じてコミュニケーションを取っていくのである。

コミュニケーションから人との付き合い方や、また、人間としての人との付き合い方を学んでいく。

学校という場所は、教科の勉強をする所だと受けとめられがちな部分があるが、教科の勉強は学校教育では、ほんの一部でしかなく、生徒が学校で獲得する技能は教科の勉強だけではないと言えるだろう。


 次ぎに、学習指導要領にある、各教科、特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導とあるように、これらは道徳的な内容を加えていかなければならない。

教科の内容に関しても道徳との関連がある。

例えば、社会科などは直接道徳との関連性も考えられる。

現代社会や倫理などは人間としてのあり方や生き方が教科学習の目標でもある。

また、歴史などでも過去の歴史から日本人としての自覚などを学ぶ事もでき、また、世界の歴史を知ることによって、国際社会に生きる日本人としての生き方も学ぶ事ができるであろう。

そして、戦争などの歴史を知ることによって、そこから、平和教育を行うこともできる。


 特別活動は直接的に道徳教育とも考えられる。

学級を通じて生徒が話し合う行為や児童会などでは、生徒の代表が話し合いながら、より良い学校を作るために学校運営に関わりをもってくる。

学校行事やクラブでは集団生活の技能など直接道徳教育と関係している。


 総合学習では、地域と関わりをもって活動を行い、自らが問題を見つけて活動をしていくものである。

総合学習の時間は学校以外の社会と関わりあいながら、現実的に必要な技能を身につける事ができるであろう。

総合の時間は直接的に道徳と関連をもっているといえるだろう。

近年の教育改革で総合学習ができたので、学校ではよりいっそうの実践的道徳教育が可能となったと思われる。

しかし、近年とくに、子供をターゲットとした犯罪なども増えているので、どこまで、子供を地域に解放するのかが難しい問題となってくるであろう。


 人の生き方に関わってくる道徳教育では教師はどこまで生徒に踏みこんでいくのか難しい問題がある。

必ず、これ以上踏みこんではいけないというラインがあると思う。

そのライン以上の道徳教育は、親の仕事である。本来であるなら、子供の躾に関わる部分は家がその中心となるべきである。親の姿が、子供が将来良い大人になるための手本となるべき姿である。

しかし、現代の社会は核家族が増え、両親は共働きがあたりまえとなる世の中である。

道徳的な子供の教育は家庭だけでは難しい世の中である。

家庭だけでなく、地域社会で子供を育てる風習もなくなりつつある。

そのため、学校での道徳教育の重要性が増しているのである。子供の教育は学校と家庭、地域が連携をとって行うのが良いと思われる。

近年の学校週5日制、総合教育はますます、家と学校、地域との連帯が重要となってくるものである。

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2018年06月01日

生徒指導と道徳教育が果たす学校での役割について‐教職課程‐生活指導論1リポート(2005年制作)



生徒指導と道徳教育が果たす学校での役割について‐教職課程‐生活指導論1リポート(2005年制作)

文部省(1981年)の生徒指導の手引きによれば、生徒指導が重要な理由として、学校や社会生活における人間関係の改善と望ましい人間関係の促進の必要、子供の学校生活への適応や自己実現を助成する必要、望ましい社会的態度や行動様式の形成の緊要性、道徳教育を培うこと、青少年の健全な育成の緊要性などのためである。

すなわち、生徒指導の目的は生徒一人ひとりの個性を伸ばし、社会的なスキルを身につけるための手伝いや非行に対する指導などを行い生徒がよりよい成長を行うために必要なものであると考える事ができる。

生徒指導の目的はそのまま学校教育の目的とほぼ同じだと言えるだろう。

すなわち、生徒指導は学校教育では必要不可欠であり、また、学校教育のさまざまな所で、生徒指導が必要となってくる。

生徒指導は人間を育てるものと考えることができる。


 そして、社会の変化によって、学校で子供のしつけや道徳的な価値観を教えなければならい情況はますます増している。

特に戦後復興を果し、高度経済成長期に入ると、家庭では、父親は仕事にあけくれ、母親もパートなどにでかけるようになり、いわゆる鍵っ子が増えた時代でもある。

また、核家族化の増加によって、家族の構成単位にも変化が出て、おじいちゃんやおばあちゃんがいない家庭が増えた。

そうなると、本来道徳的な価値観を教えるべき中心となる家庭での教育、しつけが子供に行き届かなくなる。

また、高度経済成長期に入ると、いわゆる転勤族の増加現象やアパート暮らしの増加により、1つの地域に定住しない家族が増えてくるのである。

この現象は、核家族化とも重なり、地域社会との関係を弱いものとしていき、地域社会の子供の教育を担うシステムが崩壊することになる。

例えば隣近所の子供であってもよその子だから叱れない社会ができてしまったのである。

また、日本という国は、表面的に宗教の影響力が低い国である。

一部の外国の国なら、子供の道徳的な価値観を教えるのは宗教の役目だが、しかし、日本では表向き宗教が子供に道徳的な価値観を教えることは非常に少ない。

まとめると、日本では子供に道徳的な価値観やしつけ的な事を教える場所が非常に少ないのである。


 生徒指導の手引きにも書かれている道徳の関連を考えていくと、道徳教育の目的は学習指導要領によれば、(学校の教育全体を通じて行うものであり、・・・。)と記載されている。

また、道徳教育の目標として考えられるのが、生徒の人格の形成、人間としての生き方などを育成する目標がある。

道徳も生活指導と同じように学校教育全体に関わりあうものだと言う事が言え、また、道徳教育も人間の育成がその大きな目標であり、生活指導と密接に関連している教育目標だと言う事がいえるだろう。


 特に特設道徳が存在していなかった、試案学習指導要領時代の道徳教育の目的は新たな道徳教育に関する科目を設置することなく道徳教育を学校全体に浸透させることにある。

また、戦争と結びついた修身、戦争と結びつく道徳教育の排除である。

つまり、学校教育全般の機能を使って、学校や教師それぞれが、地域性や生徒の個性を考えながら臨機応変に道徳教育を行ったと思われる。

国から統制されていない、一方的な主観のない自由な教育だと言えるだろう。


 しかし、1958年学習指導要領から試案が排除され、告示に変わった事は、教育が国家から法的に統制される事を意味している。

また、この年、特設道徳が新たに設置された。

問題点として、戦後の教育が戦前の国家統制の教育の反省からきている事である。

すなわち、日本は、国家に統制された教育を行った事によって、戦争を擁護し、そして、結果、たくさんの尊い命がなくなり、悲劇とともに終戦を迎えた。

戦前行われていた教育の反省、すなわち、国家に統制されない自由な人間的、人権的な教育を行うことが教育の基本的な精神と言えるだろう。

特設道徳の設置や学習指導要領の試案から告示は教育の逆コースの危険を含んでいる。

この事は、国家の理想とする人間像を押し付ける事になりかねないという問題点をも含んでいる。


 学校教育で生活指導にしても道徳教育にしても問題となるのは、なにが悪い事でなにか良い事なのかがはっきりと言えない事である。

また、良い事と悪い事の概念がはっきりしないからと言って、一方的に国が考える良いとされる概念を押しつけてしまえば、戦前のような悲劇がまた繰り返される危険性もある。

人間は育ってきた環境や様々な要因によって様々な価値観や個性を持ってくる。

そのため、教師は、生徒一人一人の個性や様々な要因を考察しながら、教育を行うというのが理想であると私は考えます。


 また、 教科指導と生活指導は密接に関連している。

授業を円滑に行い、そして、生徒に理解してもらう努力をする必要がある。

授業の円滑化と生徒理解の中に生活指導の要素が含まれている。

例えば、授業の開始の合図であるチャイムを守る。

大抵の生徒はチャイムがなると教室に入って自分の席に着く。

チャイムがなり、授業が始まれば、まず、規律、礼、着席の号令とあいさつを行う。

あいさつが終わり、授業が始まると先生の話を静かに聞く、クラスメートの発言も静かに聞くなどのルールを守ると言う事である。


(教育学への道 岩本敏郎 文化書房博文社 参照 ) (学校って何だろう 苅谷剛彦 講談社 参照) (未来をひらく道徳教育の研究 中野重人 押谷由夫 教育情報 出版 参照)

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2018年05月02日

自然界と生態系について(通信教育部一般教養生物リポート)




自然界と生態系について(通信教育部一般教養リポート)

生態系とは生物が生きている、海洋、湖、森、山、草原、などの区分一つのまとまりの世界いう。

 生物は自然界の生態系の中において、お互いにうまく影響し、自然とバランスを保ち一つの生態系を作る。例えば生産者(緑色植物)は二酸化炭素や光から光合成を行い酸素を作る。その酸素を消費者(動物)や分解者(微生物)が使い生命活動を維持する。そして、動物と微生物が酸素を消費する際、二酸化炭素が精製される。また、生態系は食べる、食べられる関係の食物連鎖によって保たれている。例えば、草を昆虫や草食動物が食べ、昆虫を小鳥が食べ、草食動物を肉食動物が食べ、これらを含めて人間などの動物が食べる。そして、生物は死ぬと微生物に分解されて木や草の養分となる。これはどの生態系でも同じで海なら、海草やプランクトンを食べる小魚、小魚を食べる大きな魚、大きな魚を食べるシャチ、そして、死んだ生物はプランクトンの餌となる。これらのように生態系では、物質同士がうまく循環して成り立っている。

食物連鎖の頂点に立つ人間が数多く住む現代の都市もこの一つの生態系と考えられる。しかし、都市においては他の生態系とは少し違うことがある。少し違うと言うか、正確にいえば都市の生態系は完全に破壊されている。他の生態系からの協力なしには存在が不可能である。そして、他の生態系にはそのつけが回り悪い影響を与えている。詳しく説明すると、もし、都市の生態系を他の生態系と遮断すると、たちまち都市では人間が生きるのは不可能である。なぜなら、都市の生態系では極端に緑色植物からなる生産者が少ない。これは住宅、アスファルトの道路、工場、建物などの建設で森林や草の伐採や土の現象のためである。生産者の減少の影響で、昆虫などの虫、それを餌とした鳥、小動物、物資を分解する養微生物の減少を引き起こした。そして、都市生態系では、人間という食物連鎖の上にいる動物がたくさんいるために食料の不足から生物がいきる条件ではない。また、都市生態系では、人間が多数いるために呼吸による二酸化炭素の大量排出、人間の産業活動により二酸化炭素や生物が生きていくためには有害な物質の排出が起きる。しかし、それを浄化する微生物や二酸化炭素を酸素に変える緑色植物の不足で人間が住める環境の空気ではなくなってしまう。これらの理由で都市生態系だけでは生活が不可能である。

都市生態系を存続するために必要となる人間の食料は農耕地や海洋生態系などが補っている。日本で考えれば都市の食料を補うため、田舎の農耕地から食料の供給を行うのだがそれだけでは全然足りない。その為、外国からの輸入に頼っているのが現状である。日本を一つの生態系に考えるなら人間の生活は難しいと言えるだろう。その他海洋生態系からの食料の供給があるが、大量の乱獲は海洋生態系の破壊につながるであろう。

 都市生態系を維持するために他の生態系の協力を必要とするのは分かったが、しかし、その為に歪が生じている。例えば食料を他の生態系から分けてもらうのだが、実際に世界を一つの生態系と見るなら全ての地域で食料が足りているとは言えない。食料不足で困っている生態系も数多く存在する。食料確保のため農地を広げるのに大量の森林の伐採が行われる。この為、地球生態系全体に悪い影響を与える。酸素不足で空気が悪くなるだけでなく、地球規模での異常気象、温暖化、砂漠化などたくさんの悪い影響が森林の伐採によって考えられる。

 都市生態系の行う産業活動や人間の生活により、地球全体の生態系の影響を考える。排水や産業廃棄物の為に、川や海が汚染される。数が多いために自然の分解能力ではとても浄化は不可能で水質が悪化する。赤潮のようなプランクトンの大量発生が発生することもあり、更なる水質の悪化、他の生物の死、海洋生態系の破壊に繋がる。また、有害物質が川、海洋生物の体内に蓄積され、それを食べる人間やシャチの体内にはこの有害物質が溜まっていくことになる。影響は水俣病などがあげられるが、しかし、これから先の時代には更なる悲劇が待ち受けていることは確実である。

 また、現在の人間が生活していくのに必要な化学物質によって大気汚染や、オゾン層を破壊している。結果として生物全体に悪い影響を与えている。これから先も大気はもっと、汚染され、オゾン層はもっと穴があくであろう。そうなると地球上の全生命にどのような影響があるのかは分からない。ただ、一つ言えることはすごく悪い影響を与える事だけは言え、全生物の死滅も考えられる。

 いままで述べたように、人間が都市生態系を維持するだけで地球全体に悪い影響を与える。人間の為に早いペースで絶滅の危機に瀕している生物種がたくさんいる。近い将来必ず地球は生物が住めない惑星になるだろう。解決方法は人間が原始的な生活に戻るか、地球を捨て別のスペースコロニーなどを作るしかない。しかし、現時点でこの2つの解決策は難しい。だからこそ、今世界中の国が協力して、環境問題、人間の人口問題を考え、地球にやさしい人間の生活を考える時にある。

(生態系 瀬戸昌之 有斐閣ブックス 参照)

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2018年04月03日

細菌やウイルスについて!通信教育部一般教養生物リポート

細菌やウイルスについて!法政大学通信教育部一般教養生物リポート

現在、地球上において、温暖化、異常気象、大気や海洋の汚染、種の絶滅、オゾン層の破壊、などの環境破壊が進み、地球の生態系に悪影響を与えている。近い将来必ずや地球は生物が住めなくなると思われる。地球の誕生からの歴史で考えるとものすごいスピードで環境破壊が行われている。原因は何かというと、人間という種の現代における生命活動が原因である。人間は地球上において食物連鎖の頂点に立つ。地球上では人間に勝てる生命はいない。だが、食物連鎖の頂点に立つ人間でも勝てない生物がいる。それは、ウイルスや細菌などの病原性微生物である。人間の天敵となる微生物の存在はなぜだろう。病原性微生物の存在意義を考えると、増えすぎる人間の数の抑制、自然を破壊する人間に対する戒め、ウイルス進化論などの更なる生物の進化の為、今の人間の価値観や科学では分からない別の存在意義、など、いろいろと考えられる。このような現代考えられる地球浄化の唯一の存在、病原性微生物問題を考えることに、生物学を学ぶ意義があるのではないだろうか。

 人間と病原性微生物の戦いは、人間が抗生物質で病原性微生物を淘汰していった。病原性微生物が原因で死ぬ人間の数は、急激に減った。しかし、抗生物質には大きな落とし穴がある。それは副作用である。人間の体内には、無数の細菌が住んでいる。彼らは人間と協調して共に進化したもの達で、人間の消化機能と免疫力の重要な部分となっている。人間にとっては味方の細菌で彼らによって人間は健康を保ち、人間を支え、微生物による病気の侵入から人間を保護してくれる、いわば、重要な臓器の一部となっている。抗生物質は、これら人間にとって味方の細菌にも悪い影響を与える。このため、元々人間に備わっている消化能力や免疫力が低下し、人間がさらに病気になりやすい環境を作ることがある。いわば諸刃の剣である。また、人間と病原性微生物の戦いは更なる問題を引き起こした。地球上の生物は定説では、環境に対応するために進化を繰り返す。進化により今まで住めなかった環境でも住めるようになり、適応できない生物は淘汰され、環境に適応するために進化した生物は生き残る。これは細菌の世界でも同じで、抗生物質によって淘汰されたかに見えた病原性の細菌は、抗生物質が効かない抗体を持った生物に進化を遂げる。微生物の世界ではこの進化のスピードはとても速い。抗生物質がある環境に病原性微生物は適応していく。そして、人間はまた新しい抗生物質を開発するのだが、しかし、細菌は、また、新しい抗体を持った生物に進化し環境に適応する。このように、人間と病原性微生物の戦いは果てしなく続くのである。

 人間の自然を破壊する開発、それはいまだに未知の眠っていた病原性の微生物を目覚めさせることになった。これからも確実にふえるであろう。自然破壊が新たな問題を引き起こす。現代では、エボラやエイズウイルスなどが人類の脅威となっている。近い将来これらのウイルス以上の殺人ウイルスが人間に感染するかもしれない。

 エイズウイルスは今もっとも人間にとって天敵となるウイルスである。最初サルから人間に感染したとされるが詳しいことは不明である。1981年に初めてこの病気に犯された患者の記載があったが、それから、わずかの間、現代にいたるまでに世界中にエイズウイルスはひろまった。エイズは感染から発病の期間がとても長く、検査をしないと感染したことに気づかない。そのため、エイズに感染したことを知らずに性交渉を行い爆発的に広がっていく。感染率は非常に低いが人類が繁栄のためには必要な性交渉を媒体として感染するため人間の存亡の危機に近い将来なるかもしれない。これはけっして大げさなことではない。実際にエイズ検査を全ての人間がしているわけではないので、今現在人間の人口の何人がエイズに感染しているかは不明で、実際は世界中で数字には見えないが、かなりの数の感染者がいると思われる。このウイルスの特徴は免疫を攻撃するところにある。他の病原性ウイルスが自然に時間がたてば完治するのに対して。発病すればかならず死が訪れる所にその怖さがある。

 最後に、ウイルスとはなんであろうか。ウイルス進化論のように他に目的をもっているのだろうか。そして、彼らは一人では生きられない。何かに寄生して初めてその生命活動を維持することができる。その為、生物であるか無生物であるか難しい存在である。そして、寄生した生物内でウイルスは増え続けると、病気を引き起おこす。そして、最後にはウイルスに寄生された生物は死を迎え、もちろん一人では生きられないウイルスも死んでしまう。ウイルスは自分自身が最後には死んでしまうのになぜ増えつづけるのだろうか。地球を一つの生命と考えると、人間が地球にとっての病原性ウイルスになると考えられる。人間もウイルスもなんで宿主を破壊して増えつづけるのであろうか。しかし、きっと、この先、地球も人間もウイルスも共存の方法があると思われる。これからの時代考えていかなければならない生物学のテーマなのではないかと思われる。

    (超細菌の報復 ジェフリー・キャノン 三田出版会 参照)
  (ウイルスの脅威 マイケル・B・A・オールドストーン 岩波書店 参照)

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