すごく辛い思いでだけど、兄弟は亡くなってしまって、昔話もできないから聞いてくれる?」と祖母から電話がありました。
本郷に住んでいた祖母は追分尋常小学校に避難し、家族は全員無事でしたが、家は焼けてなくなりました。
空襲下、官僚だった曽祖父は官庁に召集され、曽祖母と兄弟だけで避難してとても怖かったそうです。
◇東京大空襲の追悼集会 犠牲者の名前、初の読み上げ
1945年3月10日の東京大空襲では、 わずか2時間半の爆撃で約10万人が犠牲になったとされる。
だが、 国による本格的な研究や資料収集は行われていないうえ、 民間の被害者は補償の対象外だ。
◇10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか
※今、官僚のことを私もとても批判していますが、戦時中、官僚の曽祖父のおかげで、祖母は都心に住んでいても食べ物はいっぱい家の中にあって恵まれていました。
そのように恵まれたほうなのに、かわいがっていた幼い妹は疎開し、戦時下家族ばらばらになったことはとても辛かったと聞きました。
親が妹を疎開先に迎えに行ったのは終戦からだいぶ時間がたったころでもう会えないかと思っていたそうです。10代の頃にこんなつらい経験をした兄弟姉妹の絆はとても強いものでした。
戦後、局長までになった曽祖父は財を成し、子供たちにそれぞれ家を与えました。
恥ずかしい話、曽祖父は接待漬けでテニスや芸者遊びを楽しみ赤坂や銀座にお妾さんがいました。
結婚してるとは知らないお譲さんが家に遊びに来て、曽祖母をお手伝いさんだと思って帰っていくこともあったそうです。曽祖母はとてもかわいそうでした。
曽祖父は天下りした後は、悠々自適、職場にはほとんど行かず庭で鯉や蘭の養殖を楽しみました。
やり手の曽祖父はなかなかグレーです。
これは70年前の昭和のとある官僚の話ですが、
今の総務省の接待の話をみると70年たっても接待ってまだあるんだと思ってしまいます。
あともう一つ、たった数10万の接待で許認可されるんなら、大企業にとって安いもんなのだろうなぁと....
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