徳のある所、不安は消散する
お金がある人が幸せとは限らないし、
お金が無いから不幸という訳でもない。
基本は、不安があるか無いか、である。
『後から後から涌いて出る不安』は身近な生活の中で切っても切れない存在だ。
不安は嫌なものだが、
全く消し去る事は出来ない。
『不安は嫌なものだが、全く消し去る事は出来ない』不安を消せないから不幸になる。
これ、人間生活の問題の最も重要な部分を言い得ている。
どうしたら不安を消せるか?
この問いに対する答えは(それが実現しやすいかどうかは別にして)実はかなりシンプルである。
要するに『とらわれないこと』
無理だ…という反論は山ほどこの後に控えているのは想定出来る。
確かに無理なものは無理だ、という考えは分からなくもない。
しかし、ここで落ち着いて考えをまとめてみる。
『不安から脱却したい!』という願いを実践するための理性的判断をしてみる事は重要だ。
そこでキーワードをあげるなら、
尽きる事の無い不安のその一番は人生幼年期の人格形成の環境的不安要因に尽きる、という事。
『親に認めてもらえない子供』は一生『認めて欲しい』という欲求を持ち続け、その欲求が『かなえられない不安』を一生感じ続けるハメになる。
残酷?
本当の事だ。
もうこれ以外にコメントのしようの無い明確な事である。
ではどう発想の転換をするか?
『認めて欲しい』とは思わなければいい。
ぶっちゃけ、他人に期待をしない事である。
『わかって欲しい』等と期待をして、100%それをかなえて欲しい…等と思う事はとんでもない贅沢だ、と思ってみる。
『所詮、他人の都合』である。
甘えてもいい相手ならいざしらず、そういう関係でないのなら100%のうち1%でもかなえてくれたら、
まず大きな声で『ありがとう』というべきだ。
残り99%を無視されたとしてもその事で相手を責めるのは筋が違う。
それに他人に『わかってもらえようが/わかってもらえまいが』自分自身の本質的な価値は全く変わらない。
『わかって欲しい』という言葉に引きずられて人間関係を壊してしまう問題が、世間にはたくさんあるという事を、
注意すべき基本的課題としてまずふまえておきたい。
『(第一に)分かってもらう相手』は、無理に回りの人間にしないで『神仏』とすればよい。
これが信仰である。
『(神仏に)わかってもらう』という事は『(神仏に)わかってもらえている』という事である。
『神仏に手を合わせる』という事は、
実は驚くべき発想の転換である、という事明記しておく。
合掌_右手(仏_宇宙の真理)//左手(我々自身)を合わせる事。
心の姿をより自然な生体エネルギーの営みとしてみた場合、
不可知な心の現象をより科学的な視点で受け止めてゆこうとする姿勢は、その信仰のあり方において全く自然だ。
神や仏に祈れる優秀な挑戦者でありたいものである。
その限界において困難を感じざるを得ない個人的な観点の問題は、
『神仏の視点』に、恭しく棚上げして視点を切り替える事を推奨する。
礼儀や思いやり、相手に対して上から目線になっていないか等反省すべき点は反省する事が必要。
重要な事は、
自分の定義は自分で作る事。
どのような言葉にも意味の無い無益なものは無いが、主体的に『自分がその言葉をどのように使うか』が、自分自身の魂を明るくさせる。
言葉を使って作品を作る技術をもつ者は、言葉を他人に絶対に強制しない。
【言辞施(ごんじせ)_人の長所を発見してほめるように努める】これがどんなに周りを幸せにし、自身を豊かにするか…
親鸞に学ぶ幸福論 http://kikuutan.hatenablog.com/entry/2014/08/15/190157
(人)徳は、相手の幸せを願い施しをする心の元に積み上がる。
徳のある所、不安は消散する。
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