2012年06月12日
NHK大河ドラマ「平清盛」の崇徳上皇の終焉の地
NHK大河ドラマ「平清盛」の
崇徳上皇の終焉の地
保元の乱が終わり、崇徳上皇は流罪と決します。
その配流の地は、私が住んでいる香川県(讃岐の国)でした。
隣の市になりますが、坂出市に流されて来ました。
6月10日(日)に、嫁ハンを連れてそのゆかりの地を訪ねてみました。
嫁ハンを連れての説明なので、カメラを持って行って居ましたが、結局、嫁ハンに説明するのに忙しく、現地の写真を一枚も撮っていません。
先ず最初に向かった所は、「松山津;まつやまのつ」です。
五色台と云う山の西側にある小さな山の麓に、その松山津が在ります。
保元元年(1156年)7月に、讃岐の地に流された崇徳上皇は松山津に上陸しました。
その地点と思われる所には、石碑が建っています。
「浜ちどり 跡はみやこへ
かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく」
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現在の海岸線からはだいぶ陸地奥になっていますが、当時はこの辺りが海だったと考えられています。
その証拠に、平清盛から直ぐ後の世に起きた「屋嶋 壇ノ浦の戦い(関門海峡の壇ノ浦海戦のちょっと前)」では、現在は陸地になっている屋嶋はその名前の通り島でした。
私の小説「浦島太郎って誰?」にも書いていますが、「縄文海進」縄文時代に海が現在より3mから5m近く海水面が高くなり、陸地が海に迫られていた時代が有ります。
その後の弥生時代には「弥生小海退」と云って、逆に海岸が後退し陸地が広がっていた時期もあります。
この様に時代と共に、海岸線は海側に後退したり、陸地側に進んだりして、現在の海岸線になって居ます。
地球温暖化が進めば「海進」、逆に地球冷却化になれば「海退」の自然現象が起きる事になります。
その次に行った所は、四国八十八カ所第八十一番白峯寺 (白峰寺)です。
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「?・・・どうして四国八十八カ所のお寺に?」と思われますよね?
長寛二年(1164年)8月26日に、都から送り込まれた刺客に暗殺された上皇は、ここで葬られています。
この札所は「崇徳天皇菩提所」で在ると同時に、この寺の西側に崇徳上皇の天皇陵が在るからです。
奈良県や京都府、大阪府以外には、ここ崇徳上皇の天皇陵、下関市の幼帝安徳天皇陵、そして淡路島の南あわじ市の淳仁天皇陵にしかなく、大正天皇と昭和天皇が八王子市にその御陵が在るだけです。
日本最大にして最強の怨霊となった崇徳上皇の霊を慰め鎮める為に、ドラマにも出てくる西行法師が、この天皇陵に参って
和歌を詠んで、
「よしや君 昔の玉の
床とても かゝらん後は 何にかはせん」
崇徳上皇の御霊を慰めました。
また、天皇陵に隣接する境内には頓証寺(とんしょうじ )と勅額門が鎮座しています。
頓証寺と勅額門の建物は、流されて過ごした行宮(御所)を、死後にここに移築した事になっています。
現在残っている建物は、火災で焼け落ちた為に高松藩主松平家が再建した建物です。
この札所には、天皇陵、頓証寺、勅額門と遺跡が多く残っています。
一番最初に上皇が上陸した松山津、次に崩御なされ埋葬された白峰寺の天皇陵。
約八年間の流罪生活の基盤を訪ねる事にします。
雲井御所
「ここもまた あらぬ雲井と
なりにけり 空行く月の 影にまかせて」
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綾川を挟んでその両岸のどちらかで、二年半ほど住まわれて居たと伝えられています。
本来の雲井御所は、讃岐国府(現在の香川県庁)の司(現在の県知事)の住まい(官舎)だったそうで、上皇は住みづらかったと思います。
もう一つは「長命寺」と呼ばれるお寺が雲井御所だったとも考えられています。
こちらでしたら、司に流罪人として気を使うことなく、或る程度ノンビリと暮らせると思います。
実際にここでは地域の武士達を御所に招いて、弓に興じていたと記録に残っています。
と、云う事は・・・都ではまた争乱を起こそうとするのでは?と勘ぐられていたのでは?
さて、もう一つの八十八カ所の札所に・・・・正確には本来の札所に向かいましょう。
白峯宮:
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ここは白峯宮の境内の中に、八十八カ所の札所が在ります。
金華山 高照院 天皇寺・・・その寺名からも判ると思いますが、崇徳上皇とゆかりの有る寺です。
元々は上皇より以前から「摩尼珠院」として存在していましたが、上皇暗殺後に二条天皇より崇徳天皇社を建立し、上皇の荒ぶれた御霊を鎮めるように勅命が出されました。
それ以後、明治維新後の神仏分離令(廃仏毀釈令)で、崇徳天皇社は白峰宮として残り、摩尼珠院は廃寺となり暫くして白峰宮の境内を間借りするように「金華山 高照院 天皇寺」が建立されました。
年代順に走っていませんが、暗殺されて都から勅使が到着するまで、真夏に崩御なさった上皇の玉体(遺体)が腐敗しないように「野澤井(のざわい)」と云う湧き水に浸して居ました。
先程の白峯宮の直ぐ裏手に有る泉です。
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現在では八十場の泉として、この湧き水で冷やしたトコロテンが有名で、多くの人達が涼を求めて訪れています。
付近は身の毛がよだつほどの冷気(霊気)に満ちて、夏には本当に涼しく感じる所です。
さて、配流の生活の殆どは「木の丸殿」と呼ばれる御所でした。
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木の丸殿は、現在の鼓岡神社で前方後円墳の後円部分に建てられていました。つまり墳丘の上に御所を建てた事になります。
当時は丸太で出来たあばら屋らしく、決して高貴な王家の方が住まわれる様な建物では無かったようです。
ここでは、毎日写経に勤しみ、出来上がった写経を都に送り届けましたが、何の呪いが込められているか判らないと云う理由で突き返されてしまいます。
崇徳上皇はいたく落ち込まれたとの事でした。
静かに毎日を送られていた上皇の耳にホトトギスの鳴き声が・・・。
「啼けば聞く 聞けば都の
恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」
私も含めて、崇徳上皇は決して日本最大最強の怨霊ではなく、地元の讃岐の民達にも慕われていた方だと思って居ますし、現に坂出市の皆様は今なお上皇を尊敬しているそうです。
ただ先程の国府は鼓岡の墳丘の直ぐ眼下に在りました。
要は雲井御所で司の居無い間、何をしているか判らないので、監視の目が行き届く国府の近くに引っ越しをさせられた事になります。
最後は暗殺の地「柳田」・・・。
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国府から、木の丸殿からもそれほど遠くない所で、都から送られて来た三木近安と云う武将に暗殺されたと記録に残っています。
その関係で白峰寺や白峰宮には「三木」と云う姓の人は立ち入り禁止になっています。お気を付け下さい。
現地を巡りながら、嫁ハンはドラマに登場する「崇徳上皇」を思い浮かべながら、
「決して何も悪い事をしていないのに・・・こんなに酷い目に遭って可哀想なお方・・・。」
と少し涙声になって感想を言っていました。
崇徳上皇の終焉の地
保元の乱が終わり、崇徳上皇は流罪と決します。
その配流の地は、私が住んでいる香川県(讃岐の国)でした。
隣の市になりますが、坂出市に流されて来ました。
6月10日(日)に、嫁ハンを連れてそのゆかりの地を訪ねてみました。
嫁ハンを連れての説明なので、カメラを持って行って居ましたが、結局、嫁ハンに説明するのに忙しく、現地の写真を一枚も撮っていません。
先ず最初に向かった所は、「松山津;まつやまのつ」です。
五色台と云う山の西側にある小さな山の麓に、その松山津が在ります。
保元元年(1156年)7月に、讃岐の地に流された崇徳上皇は松山津に上陸しました。
その地点と思われる所には、石碑が建っています。
「浜ちどり 跡はみやこへ
かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく」
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現在の海岸線からはだいぶ陸地奥になっていますが、当時はこの辺りが海だったと考えられています。
その証拠に、平清盛から直ぐ後の世に起きた「屋嶋 壇ノ浦の戦い(関門海峡の壇ノ浦海戦のちょっと前)」では、現在は陸地になっている屋嶋はその名前の通り島でした。
私の小説「浦島太郎って誰?」にも書いていますが、「縄文海進」縄文時代に海が現在より3mから5m近く海水面が高くなり、陸地が海に迫られていた時代が有ります。
その後の弥生時代には「弥生小海退」と云って、逆に海岸が後退し陸地が広がっていた時期もあります。
この様に時代と共に、海岸線は海側に後退したり、陸地側に進んだりして、現在の海岸線になって居ます。
地球温暖化が進めば「海進」、逆に地球冷却化になれば「海退」の自然現象が起きる事になります。
その次に行った所は、四国八十八カ所第八十一番白峯寺 (白峰寺)です。
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「?・・・どうして四国八十八カ所のお寺に?」と思われますよね?
長寛二年(1164年)8月26日に、都から送り込まれた刺客に暗殺された上皇は、ここで葬られています。
この札所は「崇徳天皇菩提所」で在ると同時に、この寺の西側に崇徳上皇の天皇陵が在るからです。
奈良県や京都府、大阪府以外には、ここ崇徳上皇の天皇陵、下関市の幼帝安徳天皇陵、そして淡路島の南あわじ市の淳仁天皇陵にしかなく、大正天皇と昭和天皇が八王子市にその御陵が在るだけです。
日本最大にして最強の怨霊となった崇徳上皇の霊を慰め鎮める為に、ドラマにも出てくる西行法師が、この天皇陵に参って
和歌を詠んで、
「よしや君 昔の玉の
床とても かゝらん後は 何にかはせん」
崇徳上皇の御霊を慰めました。
また、天皇陵に隣接する境内には頓証寺(とんしょうじ )と勅額門が鎮座しています。
頓証寺と勅額門の建物は、流されて過ごした行宮(御所)を、死後にここに移築した事になっています。
現在残っている建物は、火災で焼け落ちた為に高松藩主松平家が再建した建物です。
この札所には、天皇陵、頓証寺、勅額門と遺跡が多く残っています。
一番最初に上皇が上陸した松山津、次に崩御なされ埋葬された白峰寺の天皇陵。
約八年間の流罪生活の基盤を訪ねる事にします。
雲井御所
「ここもまた あらぬ雲井と
なりにけり 空行く月の 影にまかせて」
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綾川を挟んでその両岸のどちらかで、二年半ほど住まわれて居たと伝えられています。
本来の雲井御所は、讃岐国府(現在の香川県庁)の司(現在の県知事)の住まい(官舎)だったそうで、上皇は住みづらかったと思います。
もう一つは「長命寺」と呼ばれるお寺が雲井御所だったとも考えられています。
こちらでしたら、司に流罪人として気を使うことなく、或る程度ノンビリと暮らせると思います。
実際にここでは地域の武士達を御所に招いて、弓に興じていたと記録に残っています。
と、云う事は・・・都ではまた争乱を起こそうとするのでは?と勘ぐられていたのでは?
さて、もう一つの八十八カ所の札所に・・・・正確には本来の札所に向かいましょう。
白峯宮:
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ここは白峯宮の境内の中に、八十八カ所の札所が在ります。
金華山 高照院 天皇寺・・・その寺名からも判ると思いますが、崇徳上皇とゆかりの有る寺です。
元々は上皇より以前から「摩尼珠院」として存在していましたが、上皇暗殺後に二条天皇より崇徳天皇社を建立し、上皇の荒ぶれた御霊を鎮めるように勅命が出されました。
それ以後、明治維新後の神仏分離令(廃仏毀釈令)で、崇徳天皇社は白峰宮として残り、摩尼珠院は廃寺となり暫くして白峰宮の境内を間借りするように「金華山 高照院 天皇寺」が建立されました。
年代順に走っていませんが、暗殺されて都から勅使が到着するまで、真夏に崩御なさった上皇の玉体(遺体)が腐敗しないように「野澤井(のざわい)」と云う湧き水に浸して居ました。
先程の白峯宮の直ぐ裏手に有る泉です。
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現在では八十場の泉として、この湧き水で冷やしたトコロテンが有名で、多くの人達が涼を求めて訪れています。
付近は身の毛がよだつほどの冷気(霊気)に満ちて、夏には本当に涼しく感じる所です。
さて、配流の生活の殆どは「木の丸殿」と呼ばれる御所でした。
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木の丸殿は、現在の鼓岡神社で前方後円墳の後円部分に建てられていました。つまり墳丘の上に御所を建てた事になります。
当時は丸太で出来たあばら屋らしく、決して高貴な王家の方が住まわれる様な建物では無かったようです。
ここでは、毎日写経に勤しみ、出来上がった写経を都に送り届けましたが、何の呪いが込められているか判らないと云う理由で突き返されてしまいます。
崇徳上皇はいたく落ち込まれたとの事でした。
静かに毎日を送られていた上皇の耳にホトトギスの鳴き声が・・・。
「啼けば聞く 聞けば都の
恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」
私も含めて、崇徳上皇は決して日本最大最強の怨霊ではなく、地元の讃岐の民達にも慕われていた方だと思って居ますし、現に坂出市の皆様は今なお上皇を尊敬しているそうです。
ただ先程の国府は鼓岡の墳丘の直ぐ眼下に在りました。
要は雲井御所で司の居無い間、何をしているか判らないので、監視の目が行き届く国府の近くに引っ越しをさせられた事になります。
最後は暗殺の地「柳田」・・・。
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国府から、木の丸殿からもそれほど遠くない所で、都から送られて来た三木近安と云う武将に暗殺されたと記録に残っています。
その関係で白峰寺や白峰宮には「三木」と云う姓の人は立ち入り禁止になっています。お気を付け下さい。
現地を巡りながら、嫁ハンはドラマに登場する「崇徳上皇」を思い浮かべながら、
「決して何も悪い事をしていないのに・・・こんなに酷い目に遭って可哀想なお方・・・。」
と少し涙声になって感想を言っていました。
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