2012年07月27日
NHK大河ドラマ「平清盛」の崇徳上皇の終焉の地(その1)
NHK大河ドラマ「平清盛」の
崇徳上皇の終焉の地(その1)
保元の乱が終わり、崇徳上皇は流罪と決します。
その配流の地は、私が住んでいる香川県(讃岐の国)でした。
隣の市になりますが、坂出市に流されて来ました。
一番最初に上皇が上陸した松山津、生活なされた「雲井御所」と「木の丸殿」、崩御なされ埋葬された白峰寺の天皇陵、二条天皇が崇徳上皇の御霊を慰める為に建立した「白峯宮」までご案内致します。
約八年間の流罪生活の基盤を嫁ハンと共に訪ねる事にします。
嫁ハンと一緒に訪れた時は案内説明に一生懸命になって写真を撮って居ませんでした。
改めて訪れる機会を作って写真を撮影してきました。
「松山津;まつやまのつ」 です。
五色台と云う山の西側にある小さな山の麓に、その松山津が在ります。
保元元年(1156年)7月に、讃岐の地に流された崇徳上皇は松山津に上陸しました。
その地点と思われる所には、石碑が建っています。
「浜ちどり 跡はみやこへ
かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく」
現在の海岸線からはだいぶ陸地奥になっていますが、当時はこの辺りが海だったと考えられています。
その証拠に、平清盛から直ぐ後の世に起きた「屋嶋 壇ノ浦の戦い(関門海峡の壇ノ浦海戦のちょっと前)」では、現在は陸地になっている屋嶋はその名前の通り島でした。
私の小説「浦島太郎って誰?」にも書いていますが、「縄文海進」縄文時代に海が現在より3mから5m近く海水面が高くなり、陸地が海に迫られていた時代が有ります。
その後の弥生時代には「弥生小海退」と云って、逆に海岸が後退し陸地が広がっていた時期もあります。
この様に時代と共に、海岸線は海側に後退したり、陸地側に進んだりして、現在の海岸線になって居ます。
地球温暖化が進めば「海進」、逆に地球冷却化になれば「海退」の自然現象が起きる事になります。
多くの写真を掲載致しますので数回に渡ってUp致します。
この情報の続きは下記のページでご覧下さい。もっと大きな写真を載せています。↓
崇徳上皇ゆかりの地を巡って
崇徳上皇の終焉の地(その1)
保元の乱が終わり、崇徳上皇は流罪と決します。
その配流の地は、私が住んでいる香川県(讃岐の国)でした。
隣の市になりますが、坂出市に流されて来ました。
一番最初に上皇が上陸した松山津、生活なされた「雲井御所」と「木の丸殿」、崩御なされ埋葬された白峰寺の天皇陵、二条天皇が崇徳上皇の御霊を慰める為に建立した「白峯宮」までご案内致します。
約八年間の流罪生活の基盤を嫁ハンと共に訪ねる事にします。
嫁ハンと一緒に訪れた時は案内説明に一生懸命になって写真を撮って居ませんでした。
改めて訪れる機会を作って写真を撮影してきました。
「松山津;まつやまのつ」 です。
五色台と云う山の西側にある小さな山の麓に、その松山津が在ります。
保元元年(1156年)7月に、讃岐の地に流された崇徳上皇は松山津に上陸しました。
その地点と思われる所には、石碑が建っています。
「浜ちどり 跡はみやこへ
かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく」
現在の海岸線からはだいぶ陸地奥になっていますが、当時はこの辺りが海だったと考えられています。
その証拠に、平清盛から直ぐ後の世に起きた「屋嶋 壇ノ浦の戦い(関門海峡の壇ノ浦海戦のちょっと前)」では、現在は陸地になっている屋嶋はその名前の通り島でした。
私の小説「浦島太郎って誰?」にも書いていますが、「縄文海進」縄文時代に海が現在より3mから5m近く海水面が高くなり、陸地が海に迫られていた時代が有ります。
その後の弥生時代には「弥生小海退」と云って、逆に海岸が後退し陸地が広がっていた時期もあります。
この様に時代と共に、海岸線は海側に後退したり、陸地側に進んだりして、現在の海岸線になって居ます。
地球温暖化が進めば「海進」、逆に地球冷却化になれば「海退」の自然現象が起きる事になります。
多くの写真を掲載致しますので数回に渡ってUp致します。
この情報の続きは下記のページでご覧下さい。もっと大きな写真を載せています。↓
崇徳上皇ゆかりの地を巡って
【崇徳上皇ゆかりの地を巡っての最新記事】
この記事へのコメント