1868年の 明治維新より、政府は様々な改革を施していきました。1869年に旧藩主の版図戸籍を天皇に返還する、世に言う 版籍奉還が行われ、 知藩事(地方行政にあたる官職)がおかれました。この政策により、土地と人民は新政府が管理することが可能となりました。この頃、政府における外国事務局御用掛を担当していた 陸奥宗光(むつ むねみつ。1844-97)は、1869年税制改革の建白書を提出しています。これは土地税( 地租)の改正案で、古来の検地および納税方法を刷新するという内容でした。また陸奥は、天皇の中央集権化をより強固なものにするため、同年に廃藩置県の意見陳述を行いますが、政府では採用されませんでした。このため、いったん下野した陸奥は、故郷の紀州(和歌山)藩にて藩政改革を行い、徴兵制度と地方自治政策の実現をはかりました。やがて、この政策の実現が政府の目に留まり、1871年の 廃藩置県、1873年の 徴兵令へとつながっていきます。
1871年8月末より、全国的な廃藩置県が実施され、藩から県となり、知藩事に代わる 県令が置かれました。県令は現在の県知事の前身に当たります。廃藩置県により、中央管下における府と県の行政区画が完成すると、政府は江戸時代の1643年に発令していた 田畑永代売買禁令や 田畑勝手作禁令( 作付制限令)に対する農地改革に着手しました。1871年に 田畑の作付期限を撤廃して、農作物の自由作付を許可し、翌1872年には、田畑の面積や収穫高を基準に地価を定めて、 田畑永代売買の解禁を行いました。この年、陸奥宗光は"田租改革建議"を政府に上申して、同年5月に、陸奥宗光は政府より地租改正法案の策定の担当を任されました。
そして、陽の当たった1873年7月28日に 地租改正法および 地租改正条例が太政官布告として決まり、新たな税制改革が始まりました。土地台帳を作成して面積と収穫高を記録、地方官による土地検査をへて、この検査内容が記録された 地券が政府より発行されました。納税義務を負う地主は、地券に記された 地価の3%にあたる地租を金納することが定められました。地租金納により安定した歳入がはかられ、財政改革は成功したかにみえましたが、地主は重税負担に苦しみ、茨城や三重で 地租改正反対一揆が続発しました。このため政府はやむを得ず、税率を地価の3%から 2.5%に軽減し、いわゆる" 竹槍で、ドンと突き出す二分五厘"の文句が誕生しました。
地租改正は明治時代の日本に大きな影響を残しました。納税義務のある地主階級の発言権が増し、やがて 自由民権運動に端を発する、国会の開設と国民の参政権付与に大きな役割を担うようになっていくのでした。
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