2009年10月20日
今川義元 〜其の弐・三河平定〜
花倉の乱の後の
1537年、当時甲斐で勢力を拡大、駿河にまで侵攻してきていた
武田信虎(信玄の父)の娘を娶り、
武田氏との対立を解消するが、
そのため今まで同盟関係だった北条氏との関係が悪化してしまった。
幾度か北条氏の駿河への侵攻を許したが、
1545年、義元は上杉朝定・憲政 と通じて北条氏康を挟撃、駿河を取り戻した。
また、1548年に勢力が衰えつつあった松平家の嫡子
松平竹千代(徳川家康)を人質として迎えようとするが、
その護送中に尾張織田信秀(信長の父)に急襲され、奪われてしまった。
ところが義元は、当時織田領だった三河安祥城を攻め、
守将織田信広(信長の異兄)を捕らえ、
人質交換をし、見事竹千代を取り戻した。
しかし、1550年に竹千代の父松平広忠が亡くなると、
三河に大軍を送り、平定してしまった。
そして、駿河・遠江・三河と三国を平定した義元は、
かねてからの野心実現のため、上洛の兵を挙げた・・・
戦国武将 今川義元
1537年、当時甲斐で勢力を拡大、駿河にまで侵攻してきていた
武田信虎(信玄の父)の娘を娶り、
武田氏との対立を解消するが、
そのため今まで同盟関係だった北条氏との関係が悪化してしまった。
幾度か北条氏の駿河への侵攻を許したが、
1545年、義元は上杉朝定・憲政 と通じて北条氏康を挟撃、駿河を取り戻した。
また、1548年に勢力が衰えつつあった松平家の嫡子
松平竹千代(徳川家康)を人質として迎えようとするが、
その護送中に尾張織田信秀(信長の父)に急襲され、奪われてしまった。
ところが義元は、当時織田領だった三河安祥城を攻め、
守将織田信広(信長の異兄)を捕らえ、
人質交換をし、見事竹千代を取り戻した。
しかし、1550年に竹千代の父松平広忠が亡くなると、
三河に大軍を送り、平定してしまった。
そして、駿河・遠江・三河と三国を平定した義元は、
かねてからの野心実現のため、上洛の兵を挙げた・・・
戦国武将 今川義元
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