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パートをしながらブログ書いてる平凡な主婦です。面白いこと、人を笑わせることが好きです。
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2024年08月26日

ギザのピラミッドがどうやって作られたか?その真実が書かれた日記が発見されていた!!

2013年、研究者らがエジプトの紅海沿岸のワディ・アル・ジャルフにて世界最古のパピルス30点を発見しました。

そこで見つかったパピルス、紅海文書には数種類文書が含まれていました。
その中でも注目を集めたのは、メレルのメモでした。

メレルとは、ギザのピラミッドを建設した時の作業員のチームリーダーであり、そのチームの活動記録を日記にして書き残していたのです。

メレルのチームがギザのピラミッド建設にかかわっていた3ヵ月間の作業の毎日の記録が書かれていたのです。

ワディ・アル・ジャーフ遺跡は、英国の旅行者で古物収集家のジョン・ガードナー・ウィルキンソンが1823年に発見しました。

IMG_2554.jpeg


重要な港町の記録


2008年、フランスのエジプト学者のピエール・タレーがこの遺跡の一連の発掘調査を担当していました。この時のワディ・アル・ジャルフが4,500年前にさかのぼり、クフ王の治世にて重要な港であったことを特定しました。

この港が、ピラミッド建設時に241キロ離れたピラミッド建設時に資材の取引が行われていた中心地であったことを発見します。

4,500年前の港での状況が、メレルの日記によって明らかにされたのです。
これは、すごい発見です。

ワディ・アル・ジャルフの発掘作業


ワディ・アル・ジャルフは、ナイル川と紅海の間の、いくつかの異なったエリアで構成されている土地です。
ナイル川から見て、海岸から4,6キロに最初のエリアがあります。

ここには、30の大きな鍾乳洞があり、パピルスはこの場所で発見されました。
貯蔵庫として使用されていた場所のようです。

そこから東、457メートル先には13の平行な区画に分かれた石造りの建物があります。
これらの建物は、当時の人の住居として使われていたのではないかと推測されています。

海辺には、住宅と倉庫があり、ここで発見された陶器と碑文からエジプト第4,500王朝のものと特定することができます。

この港は発見された状況から、ファラオ・スネフェルの時代に開かれ、息子であるクフ王の治世で放棄されたのではないかと推測しています。

つまり、この港はクフ王のピラミッド建設期間の活躍したものということがわかります。

IMG_2553.jpeg


ピラミッド建設に必要な素材の運搬


パピルス以外に発見されたものの中に130隻の錨を発見しています。
これだけの錨があったということは、当時の港がものすごく混雑していたことがうかがえます。

当時のエジプト人が石を切るために胴を必要としたことがわかっています。
銅は、その時代に入手可能な金属の中で1番固いものであったためです。

そのため、船は港から紅海を渡り、シナイ半島に向かっています。
銅をたくさん積んだエジプトの船が港にたくさん停留していた情景を想像してみてください。

どれだけ活気があった港であったかも想像できますよね。
休んでいる間には船は鍾乳洞の中に保管されていたようです。

クフ王の死後、港は操業を停止しメレルのチームは鍾乳洞をふさいだようです。
その時にメレルの日記が誤って岩の間に挟まってしまったのではないかと推測しています。

メレルの日記は発見されるまでの4,500年間の間砂漠に眠っていたことになります。
すごいロマンを感じますね。





メレルチームの作業


メレルのチームの人数は約200人。
エジプト中を移動し、ギザのピラミッドにかかわるすべての作業を担当していました。

メレルはトゥーラ鉱山から石灰岩を集め、ボートでギザ委に輸送した方法が詳細に記録されていました。
彼らは石灰岩のブロックをボートに乗せ、ナイル川沿いに移動し、ギザに行く前に数を管理していたようです。

日記には採石場からギザまでの3日間の旅が記録されていました。
翌日には新しい石灰岩を取りに採石場に戻ったと書いてあります。

メレルの日記には、建築家の一人である人物の名前も記録されていました。
クフ王の異母兄弟であるアンカフという人物が、すべての仕事の司令官であったようです。

当時、エジプトには通貨がなかったため、働いた賃金は配給という形で穀物を渡していました。
労働者はランクに応じて皆、穀物を受け取っていました。

主な配給品は、酵母パン・平らなパン・様々な肉・ナツメヤシ・はちみつ・豆・ビールとなっていたと記録されています。

このことにより、ピラミッド建設にあたった労働者は奴隷ではなく、きちんと賃金を与えられた労働者であったことがわかります。

IMG_2552.jpeg


労働者の協力で建設されたギザのピラミッド!


あれだけの大きな石を人力で運ぶことができるのか?
そこが需要なポイントでしたが、当時のチームリーダーの日記によって、その工程の1部が証明されたことになります。

奴隷ではなく、労働者がチームを作り、リーダーの支持のもとで適切に各々の仕事をやっていたことがわかります。

多くの労働者に仕事を割り振ることで、民も潤いますし、街にも活気が満ち溢れます。
ピラミッドをなぜ作ろうとしたのかはわかりませんが、現代でいうところの公共の仕事だったことがわかりますね。

現代とは違い、力仕事は当たり前の労働であり、底辺の仕事という認識がおかしいのかもしれません。
石工というものが古くから存在しています。

彼らは奴隷ではありませんよね。
時代とともに、重要な位置にある仕事の内容は異なります。

ピラミッド建設にかかわった人たちは、今でいう職人の集まりであり、公共施設の建設に集まった労働者であったというのが真実のようですね。

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