「トリノで充電中」
トリノといえば、フィギュアスケートの荒川静香さんが金メダル獲得した2006年のトリノ・オリンピックを思い出す。私はあの優勝の映像を、病院のロビーにあるテレビで見ていた。母がその病院で息を引き取ったのは、その3日後のことだった。
整然とした街並みに、黄色いトラムが映える
フィレンツェから列車で約3時間、午後2時頃トリノ・ポルタ・ヌオーヴァ駅に降り立った私は、一目でこのトリノの街が気に入った。
パリのリヨン駅を思わせる優雅なガラス建築の駅から王宮広場へと真っすぐに伸びるメインストリート沿いには繊細な装飾が施された美しい建物が立ち並び、駅の前を東西に横切るヴィットーリオ・エマヌエーレ二世通りにはオレンジ色の路面電車が同じ高さに整然と並ぶ白い建物群を背に走っている。
北部イタリアを支配していたサヴォイア家の居城があり、イタリア統一時には初の首都として栄えたこの街には、世界遺産に登録された美しい王宮が遺り、数々の優美な宮殿や城巡りはトリノ観光の目玉である。
が、夜9時発の国際夜行列車に乗るまでの時間でその宮殿や美術館巡りを楽しもうという私の目論見は見事に裏切られた。なんと月曜は全ての観光施設が軒並み定休日だったのである…。
上品で歴史の香り豊かなトリノ名物のカフェにも、薄汚れたウィンドブレーカーに擦り切れたジーンズという見るからにお金のなさそうな私の恰好では、とても恥ずかしくて入れるような雰囲気ではない。そんな似非バックパッカーが時間をつぶせるのはお金のかからない公園くらいしかないと相場は決まっている。かくしてスーツケースを駅のコインロッカーに収めると、オシャレなカフェのショーケースに並ぶケーキを外から指を咥えて眺めながら、ポー川の手前にある大きな公園へと直行したのだった。
ところが、意外にも駅から10分ほど東へ向かって歩いたところにあるヴァレンティーノ公園とそこから川沿いに延びる遊歩道が、驚きの上機嫌な時間を私にもたらしてくれたのである。
豊かな芝生が拡がる公園には、たっぷりの陽差しを浴びて草の上に体を投げ出す若者たちの姿が目立つ。公園を一周して、しばらく草の上に腰を下ろし、ぼーっとしていたが、アルプスの山々から運ばれてくる3月の春風は肌に心地良く、自然と足は公園の隣りを流れるポー川の遊歩道へと向かう。
清らかな音で心を満たしてくれるポー川のゆったりした流れも、この街の歴史を見守ってきた老人のように静かにそこにある。川沿いをしばらく北上した後、陽の当たるベンチに腰掛けしばらく目を瞑る。午後の陽射しがポカポカと暖かく、街の喧騒は遠く、聞こえてくるのは川の流れと吹き過ぎる風の音ばかり。それら自然の魔法がその場所に私を捉えて離そうとしない。まるで足に根が生えたように、何十分もそこから動けずにいた。
何もしなくともただそこにいるだけで満たされた気分になる貴重な時間。王宮や美術館が月曜で軒並み休みでなければ、こんなにゆったりした時間を持つことはできなかっただろう。たっぷりと光合成をして充電を完了すると、偶然訪れた束の間の僥倖に感謝しつつ、傾き始めた太陽を背に私はやっと重い腰を上げ、川沿いを左に折れ王宮広場目指して歩き出した。
「いきなり運勢下り坂…」
素晴らしく満ち足りた午後を過ごした後に待っていたのは、予期せぬ試練だった。陽が沈むのと同時に私の運も坂を転がるように落ちていったのだ。
ポー川を離れて王宮方面へと歩き出したはいいが、カフェは本当にそれなりのきちんとした服を着た人々以外には敷居が高くて入れず、結局メインストリートをブラブラ歩いているうちにポルタ・ヌオーヴァ駅まで戻ってしまった。
空腹だったため、安くて雰囲気の良いカフェなどないかと駅の裏側をウロついてみたが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世通りとは一転、アジア系の貧民街のようになっていて少し危険な匂いを感じたので仕方なく最後の砦であるワールド・スタンダード、困ったときのマクドナルドに入り時間をつぶすことに。
とはいえチーズバーガーにポテトとアイスティーだけでは何時間も居座る訳にいかない。春とはいえまだ日の沈む時刻は早く、6時にはすでに夕闇が辺りを覆い、旅人が安心して身を落ち着けられる場所は狭まっていく。
今夜乗る予定のミラノ発バルセロナ行きの夜行列車エリプソス号は、街の外れにあるポルタ・スーザ駅を21時18分に通る予定だ。何故かエリプソス号だけはメインの駅であるポルタ・ヌオーヴァ駅は通らない。ポルタ・スーザ駅がどの程度の大きさの駅なのか、待合室があるかどうかを先ほど切符売り場で尋ねてみたのだが、英語の全く通じない係員で要領を得ない。国際列車が止まる駅なのだからカフェや待合室くらいあるだろうという予想のもとに近郊線に乗って移動したのだが…、それが判断ミスだったことはすぐに判明した。ポルタ・スーザ駅、何もない!
小さな立ち飲みカフェが切符売り場の横にぽつんとあるだけで、広い待合室には煌々と灯りが点っているにもかかわらず何故か施錠されていて入れない。しかも最近造られた駅なのか工事中で駅舎と地下にあるプラットフォームまでが暗い通路を延々5分以上歩かされる不便さ。重いスーツケースを引きずってやっとの思い出真新しい地下のプラットフォームまで来てしまったので引き返すのも億劫で、人気のないがらんとした底冷えのするプラットフォームで1時間を過ごす羽目になった。
アルミのベンチからお尻に伝わる冷たさと一人ぼっちの心細さに泣きそうになりながらも、ネパールの深夜の空港も寒かったな…と旅の始めを思い出したりしていると、やがてポツポツとバックパックを担いだ若者のグループやボストンバッグを手にした夫婦などが下りてきたので、皆私と同じように早く着き過ぎてしまったんだなぁ、と少しホッとする。
「初めてのイタリア旅で学んだこと」
イタリアは最後まで人も建物も街も、寒々しい印象しか私に与えなかったが、それは私のひどい心理状態に加え、春まだ遠い3月という季節、そしてひとり旅ということが大きく影響していると思う。旅の道連れがいれば自ずと行動も変わってくるため、印象ももっと違ったものになっていたと思うのはどこの国でも同じで、感動を分かち合う相手がいてこその外国旅行ともいえる。
とはいえ、イタリア人にサービス精神が欠如しているというのは紛れもない事実だと書き留めておきたい。もちろん反論する人もいるだろう。恐らくそういう人は自分の窮地を周囲に訴えた結果、おせっかいとも思えるほどの親切を示されたのに違いない。だが、「自分は困っている。助けてほしい」と自ら声と態度に出して助けを求めない限り、個人主義の徹底したヨーロッパでは、特に自分の家族を一番に考えるイタリアでは、旅人は人の目に映らないのである。
そんな12日間のイタリア旅で私が感じたのは、だからこそ自分が日本にいて異国からの旅人に出会ったら親切にしてあげたい、という思いだった。
日本人は英語で話しかけられると、思わず「ノー、ノー」と言って逃げ出してしまう人が多い。旅先で思うようにいかず、自国と違う文化に戸惑い気落ちしている時、ほんの些細な親切が旅人の心を救うことがある。
金満国家という悪どいイメージを持たれ、消極的で遠慮がちであるがゆえに無視されるかぞんざいに扱われる日本人にも笑顔で話しかけ、席に案内し、拙い英語でのこちらの希望を辛抱強く聞いてくれる、そんな店にあたると元気が出る。笑顔で頷き返すという動作だけで旅人の心が癒されることもあるのだ。
イギリスの地方では、立ち止まって地図を見ていると、必ずと言っていいほど ”May I help you?” と聞いてきてくれる人がいた。ローマでもバスカードの差し込み方がわからず困っていた時、無言で教えてくれた女性がいた。トリノのマックで時間をつぶしている時も「何か困ってるの?助けが必要?」と英語で尋ねてくれたご婦人がいた。
そんな小さな当たり前の親切を、私も旅人に対して大切にしたいと思う。そして旅人の側でも、その国の言葉を少しでも学んでくることは、また大事なことなのだ。
★ 『ヨーロッパ前編?L 一生に一度は訪れるべき街、バルセロナ』 へつづく…