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いつからだろうか。自分のことを文章にすることが困難だと感じるようになったのは。たとえば、愚痴、悪口、マイナスなことを書くと、それが文字となって残るのが嫌だ。何故って文章は正直だから。そして、自分をよくみせたいという願望。これがやっかいだ。何故って文章は素直だから。そして、うわべだけの文章は書くだけ無駄だ。たとえば、心を動かされる文章がある。何故ってそこには真理があるから。うわべだけではなく、そこに、魂があるかどうか、ということなのだ。
2007.11.26
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人間の心は複雑である。自分自身に嘘をつく行為は、結局自身を苦しめるだけである。自分の愚かさ、弱さにとまどい、ときに心に悪魔が住みつくこともあるかもしれない。そこから抜け出すのは自分自身である。真理に到達するのはいつか。答えはいつも自分の中にある。神は存在するのか?信仰とは神聖なものであり、誰にも汚すことのできないものである。神は、自身の心に存在するのだ。「ねえ、お母さん、まったくどんな人でもすべての人に対して、すべてのことについて罪があるのです。僕はなんと説明したらいいかわかりませんが、それがほんとうにその通りだってことは、苦しいくらい心に感じているのです。まったく僕たちは今までこの世に暮らしていながら、どうしてこれに気がつかないで、腹を立てたりなんかしたんでしょう?」
2007.04.02
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人間は本来自己本位なものである。人間の行為には、少なからず自己本位な意思が存在する。それを人のため、誰かのためと言うのにはあまりにも偽善である。キレイゴト。所詮人間は弱いものだ。しかしそうして厭世的になってしまってもはじまらない。何もかも否定的に見てしまっては、何も生まれない。いいことばかりあるはずがない。それでも太陽は輝いている。生きているっていいことだ、そう思えるほうがしあわせだ。それからどうするのか、それを考えている。「人間は、熱誠を以って当たって然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠をてらって、己を高くする山師に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは云えまいが、よりよく人間を解剖した結果に外ならなかった。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、そのあまりに狡猾くって、不真面目で、大抵は虚偽を含んでいるのを知っているから、遂に熱誠な勢力を以ってそれを遂行する気にはなれなかったのである。と、彼は断然信じていた。」夏目漱石「それから」より漱石の文体は好みである。
2007.02.12
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正月、久しぶりに会った親戚の女の子で印象に残った子がいた。去年まではそれほど印象に残るタイプの子ではなかったが、先日会った彼女は何というか、綺麗になっていた。年は17歳、この年頃の美しさというのは少女の表情の中に垣間見る女の表情の曖昧なバランス加減、といったところだろうか。まだ少女の部分が多い中にかすかに感じられる女としての色香の妙。彼女の染めていない黒髪に化粧気のない白い素肌はよりいっそう今でしかあらわせないみずみずしい美を物語っていた。化粧というのはこの年頃には必要はない。せっかくの素の美しさをつくりもので台無しにしてしまうのだ。恋をしているときいた。目鼻立ちは決して美人顔というわけではない。姿かたちの美しさだけでは表現されないその人特有の何か、そして恋愛のオーラを感じた日。
2007.01.03
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「言葉が人間に与えられたのは自分の考えを隠すためである。」誰かが言った言葉であるが言い訳の仕方は、その人をあらわすものだと思う。人は自分の立場を守るために言い訳をする。子供の言い訳を日常きいているとあきらかに自分が悪いのに責任が自分以外にあるような言い方をする。何かのせいにするのは、自分がそのことから逃げたいから。自分では素直にそう認めるようにしているが図星を言われると人はひるむものだ。とはいっても強い人間なんていない。人間は誰だって弱い。そして言葉は、多すぎても少なすぎてもよくない。言葉が足らなくて、つたわらない。言葉が多すぎて、誤解を生む。一度発せられた言葉はもとには戻らない。言葉の選び方にその人の品格を見るのだ。
2006.11.18
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仕事が休みだった。私がひとりになれるのは、平日仕事を休むとき以外はなかなかない。子供がまだ小さいときはそんな時間は夢のようであった。しかし手に入れてみれば、それは味気ないものであったりする。人はないものを常に求めている。仕事や家事でバタバタしているときは休みの日が待ち遠しいが一生休日であったとしたらそれは味気ないものになるであろう。たまらなくひとりになりたいときがある。しかし一生ひとりでいろといわれたらたぶん寂しくてやっていけないだろう。手に入れてしまえばそれは色あせる。だとすれば、手に入らなくていいのだ。しかし、そのことが私を少しだけ切なくさせる。
2006.11.07
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市で行っている40歳以上対象の健康診断に行ってみた。何故健康診断に行くかというと健康であることを確認するため、つまり安心を求めるためにある。40歳以上対象・・・自分もそういう年になったものだ、そんな年になるのが信じられへんかったよなあ昔は、まあそれはさておき、病院というのも久しぶりである。以前、眼科と歯医者のはしごをしようかといった日記を書いたような気がするが自慢になるが、内科系は覚えてないぐらい行ったことない。今回注目していたことのひとつに身長を計るということがあげられる。この年で身長が伸びるということはまずありえないのであるが自分が思っているよりも少しでも高かったら・・・という淡い希望は図らずも絶たれた。自称身長よりも1センチ低かったのであった。相当チビの私は長身の人に相当憧れるのである。次に生まれ変わるとすれば、身長170センチの女性なんていいよなあ、いや生まれ変われるんだったら、やっぱ男がええわ、そして放蕩の限りをつくすのだ。まあそれはさておき、一通りの検査は終了。心電図までとられ、年配のナースに乳首周辺を触られたのが妙に生々しかった。血液検査の結果がでた。ヘモグロビン濃度が若干正常値を下回り、貧血気味と診断される。他には血圧106の60で低血圧気味。あとγ-GTPが成人女性30以下のところ50であった。γ-GTPが上昇するのは一般的にアルコール過剰摂取とあるが私はほとんど飲まないというのに不思議である。他の肝機能GOT、GPTは正常値なのにである。まったく異常なしということはなかったわけでこれ以上自慢できないのが残念である。まあそれはさておき、自分の血液が数値になって現れるのも悪くない、毎年受けたろ、というのが今の実感。
2006.10.13
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このブログも1年になった。更新率は28パーセント。当初はこういうつもりはなく、ありのまま考えずに書いていくつもりであった。しかし人に見せる日記となると、なかなかそうもいかない。自分の書いた文章を他人に読まれるということは自分自身をさらけだすのと同じことであると考える。幾分、秘密主義であることは否めない。幾分、自分をよく見せようという欲もなくはない。そんな自分は愚かである。とにかく書き続けていくことは難しい。最初のブログは、もう削除してないが今読み返せないぐらい、はずかしくてつたない文章であろう。自分が書いた文章なのに、何故そう思うのだろうか。それはその頃の自分と今の自分が違うからに他ならない。人の心情は移ろうのである。時の流れとともに。過去の自分、現在の自分、未来の自分、いちばん好きなのは、未来の自分でありたい。自己満足でいいから。
2006.09.08
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気がついたらまた日記を更新していなかった。そういえば、きのう新聞の拡張員が来た。新聞は1年ごとに変えるのがここ最近の流行となっておりその度に3ヶ月サービスだのビール券だのが定番である。忘れていたのであるが、10月から新聞の契約がかわりどうやら2年契約の商品券30,000円にビール券10枚という契約を交わしているらしかった。らしかったというのは、この契約をしたのが平成16年2月21日となっており、とっくに忘れているということであった。商品券とビール券は、これからもらえるのでふってわいたような話である。今回の契約は、更にその後の契約となり2年契約の半年サービスにビール1ケースということである。平成22年まで先のことが決まっているというのもどうなんだろうか。「あと映画の券、遊園地の券もヨロシク。」というのを迂闊にも忘れており、大阪人としてイマイチやったわ、と少しばかり反省するエセ大阪人であった。最近、暇だったので、試験的に期間限定的にもうひとつブログを立ち上げてみた。自分のための日記というか、人に見せるための日記ではないものを書いてみたくなったのである。テーマは「毎日更新」。今のところ2週間連続更新中。しかし、これも8月が限界であろうと思われる。しかし昨日の日記は、何故か今までの自分の日記の過去最高アクセスをたぶん記録。エロネタではない。(たぶん)アオタ キョウコ日記は、今度いつ更新するかは未定。
2006.08.17
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エアコンをつけた瞬間のカビくさい匂いにも慣れた。もうすぐ8月、セミの声、直射日光が肌を突き刺す、ノースリーブ。スーパーに入った途端、訪れる涼しさ、快適。また外に出る、暑い、不快。カーテンを洗う。窓を拭く。タバコを吸う。何かに依存したい。読書をする、眠たくなる、そして眠る。永遠の繰り返し、それでも私は日常を愛している、と思いたい。サガン「冷たい水の中の小さな太陽」冒頭に引用された詩に惹かれた。未知の彼女はぼくのいちばん好きなかたち、人間であることの悩みからぼくを解放してくれたひと、ぼくは彼女を見、それから見失う、そして ぼくはぼくの苦しみを甘受する、冷たい水の中の小さな太陽のように。ポール・エリュアール
2006.07.28
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最近、また読書をはじめたわけである。自分が死ぬまで果たしてどれだけの文学を知ることができるのか、時間は限られている。最近、そんなことばかり考えてしまう。日常の雑務、といってしまえば自分の日常行っている業務って何だろうということまで疑問は否応なく降りかかってくるわけだけれども、自分が今しなければならないことというのは、紛れもなく自分自身が選択してきたことなのであり、やはりそれは人生で必要なことで不可欠なことなのである。それをこなした上での限られた余暇の中で、私は文学を知りたいと思っている。今まで自分が生きてきた40年という長い時間に感じたことのない焦燥感、時間は年々早くなっていくのだ。フィツジェラルド「グレートギャツビー」野崎孝訳不思議とひきつけられる文章である。私はまだ本を読み始めたところで、多くの作家を知らないが沢山の本を読む読書家というのも憧れるのであるが気に入った本をじっくり2度3度と読み返し、味わっていく読書家というのも憧れるのである。もう一度読みたい、そんな文章なのだ。「ギャツビー、ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男。もしも間断なく演じ続けられた一連の演技の総体を個性といってよいならば、ギャツビーという人間には、何か絢爛とした個性があった。人生の希望に対する高感度の感受性というか、まるで、一万マイルも離れた所の地震さえ記録する複雑な機械と関連でもありそうな感じである。しかし、この敏感性は、「創造的気質」とえらそうな名称で呼ばれるあのよわよわしい感じやすさとは無縁のものだった。それは希望を見いだす非凡な才能であり、ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、これからも二度と見いだせそうにないような浪漫的心情だった。」
2006.07.08
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気が付けば、前回の日記から1ヶ月以上経っていた。忙しかったから・・・というわけではなく、またこの言い訳は好きではない。確かに時間は限られている。日々のしなければならないことを優先していくと必然的にそうなる。しかし、どうしてもしたいことであれば、どんなに忙しくても人はそのことを優先しようとする。そういうものだ。ここ1ヶ月は本を読む気にもならず、また、つたない文章を書く気にもならなかった。自分にとって書くことって何だろうかと大袈裟だが漠然と考えてみた。ひとつ思いついたことは、あまり考えすぎると書けなくなるということだ。とりあえず短編を読んでみた。ツルゲーネフ「はつ恋」神西清訳ひさしぶりに言葉が文章が頭に入っていく感覚は、やはり心地よい。「そこが、詩のいいところなのね。つまり、この世にないことを、言ってくれる。しかも、実際あるものよりより立派なばかりでなく、ずっと真実に近いことをまで、言ってくれるんだもの。」
2006.06.19
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ゴールデンウィーク。しかも絶好のお天気。これは出かけるしかない。とはいうものの、GWはどこも混んでいるのである。以前にも遠出して当然のごとく渋滞に巻き込まれ、エライ目におおた。とにかく大阪を出る道という道は混んでいるのである。ということでここ最近はGW中は遠出は控えて、大阪府下内に遊びに行くことにしている。今回はハーベストの丘に行った。ここは2回目になる。以前行った時は上の娘が幼稚園に入る前だったように思う。下の息子はたしかまだベビーカーに乗っていた写真があったことを思い出す。車はまあ順調に流れている。大阪のオフィス街は今頃はガラガラだろうなあと思ったりする。道行く車に他府県ナンバーをよく見かける。やはりゴールデンウィークなのであろう。日付が変わっただけなのに、すべてが連休仕様になっている。しかし、太陽はいつもと何も変わらない。直射日光がまぶしい。このまま順調に進むかと思われたが、目的地4キロ前から渋滞が始まる。結局通常40分ほどでいける距離が1時間半かかった。やはりゴールデンウィークなのであった。駐車場で止まっている車のナンバーを見ると、「なにわ」「大阪」「和泉」が当然主流の中、連休ということで「神戸」「奈良」「京都」もけっこう多かった。堺でも南のほうなので、「和歌山」が比較的多かった。変わったところでは「岐阜」「名古屋」「習志野」なんてのもあった。「宮城」「室蘭」というナンバーも発見。やはりゴールデンウィークなのであった。本日の目的としては、春季限定いちごのアイスクリーム作りの体験に参加することであった。が、当然のごとく満員であえなく断念。とにかく人が多いのである。95パーセントは家族連れである。あと5パーセントはカップル。ここではカップルの数よりも妊婦の数のほうがはるかに多いようである。とにかくベビーカーが多い。うちの二人の子供たちはベビーカーを卒業してしまった。もう使うことはないだろうといろいろな種類のベビーカーをたくさん見た今日、改めて思った。なんとなく寂しい。ダンナと子供たちがわんわんふれあい広場に行っている間に私は芝すべりの順番とりに並ぶ。60分待ちである。堺のここの芝すべりが60分待ちなのであればUSJやTDLは今頃大変なことになっているのだろうと考える。その後、娘は手作り教室のようなところで万華鏡作りをした。真昼の直射日光は暑いぐらいであったが、空気が乾いていて汗はかかない。湿度の低いカラッと晴れた絶好の行楽日和。しかし夕方になると寒いのである。連休中は夜8時までやっていてライトアップもされるようだが暗くなる前に家路へと向かった。これがひとつの正しい連休の過ごし方なのであろうと楽しかった時に感謝し、夕闇に染まる流れる景色を見ていた。
2006.05.03
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今週は小学校の授業参観に家庭訪問があった。幼稚園は公立は家庭訪問はあるが、私立は懇談で園に父兄が行くことになる。幼稚園の懇談は今月中旬に終了している。まあ年度始めである。家庭訪問は本日午後4時30分の予定。通常いつも家をキレイにしているので特にあわてる必要はなく、季節の花でも飾ろうかと優雅に考える私。というのは勿論嘘で、今朝食器はそのまま服も脱ぎ捨てたままで出勤したのであった。ということで今日は仕事を13時にあがり、家庭訪問にそなえることとなる。1時間ぐらいあれば余裕で掃除できるだろうと思っていたが不思議と妙なところが気にかかるものである。システムキッチンの下の棚をクレンザーで磨いた。台所のテーブルに先生が座った場合、結構目がいくところのなのである。この前磨いたのはいつだったか覚えていない。こういう機会がなければシステムキッチンの棚はいつ磨かれることだったろうか。15時すぎ、下の子の幼稚園の迎えに行く時間となりタイムアップ。思ったより掃除ははかどらなかった。ある程度見えるところだけ片付けたという状態。16時15分、下の子を幼稚園に迎えに行き、帰りにスーパーで買い物して帰宅。先生を待つ。17時すぎ、30分ほど遅れて先生到着。時間がおしてる上に道に迷ったそうである。先生にアイスレモンティー(市販品)をお出しする。「おかまいなく・・・」先生は今日一日でどれだけのお茶を飲まされるのだろうかとふと考える。アイスコーヒー、ホットコーヒー、紅茶、煎茶・・・「何かクラスに要望とかありますか?」という先生の質問に、「今の子供に対しての私の個人的教育論なんですが・・・」と長々と語る私。というのは勿論嘘で、「特に・・・」と曖昧な笑顔で答える私であった。こういう質問に上手に答えられる大人になりたいものである。しかしいつも家庭訪問で思うのだが、ほぼ初対面の先生と話すのは緊張するし、話すことも特にないのである。時間もおしてることだし、早々に10分ほどで家庭訪問は終了。先生はアイスレモンティー(市販品)に手をつけなかった。
2006.04.28
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小説を読んだり、音楽を聴いたりするのが好きである。しかし、自分が一生の間に鑑賞できるものは限られている。特に文学作品は一冊読むのにも時間がかかる。それを思うと、散りゆく花を見るように空しくなる。この世に知らされている芸術のほんの一部しか知ることはないのだと。芸術とは何だろうか。才能に恵まれた天才がさらりと表現しただけのものだろうか。人の魂を揺さぶるものとは、それだけではない。才能は勿論、その人の喜び悲しみ怒り苦悩、血や涙や汗、その生のすべてをもっての表現が心を動かすのだ。「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い溝が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。 そして、それが僕だ。」村上春樹「風の歌を聴け」より
2006.04.12
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入学式シーズンである。うちは今年は入園入学はないのだが、息子の幼稚園では入園式の日に進級式を行うのである。一年前の入園式の頃からすれば、それなりに成長した息子に感慨深いものを感じ目を潤ませる私。というのは嘘で、なぜ入園でもないのにスーツにヒールで出かけなあかんねん、こっちは自転車やで、とひとり呟く私。タイトスカートにヒールに自転車二人乗りである。シブイ。幼稚園で親子を見ると、間違いなく親子だなあというくらい似ている親子をよくみる。不思議と他人の親子は似ているのがよくわかる。私は小柄なのだが、息子はダンナ似で学年で3番目くらいに背が高い。3番目くらいというところが中途半端でよい。背もでかいが態度もでかいのである。というのは嘘で、筋金入りのマザコンで気弱な子羊のような息子である。顔は私に似ているといわれるが、私にはよくわからない。新しいクラスで、ひとりひとり園児が前に出て自分の名前を自己紹介がわりに言うのだが、息子は流暢に礼儀正しく自己紹介をし、私を喜ばせた。というのは嘘で、自分の名前にわざわざ「くん」をつけ、順調に皆の失笑をかうこととなったのであった。「はーい。さよならの挨拶をしまーす。」「せんせい、さよなら。みなさん、さよなら。あしたもがんばる、えいえいおー。」息子のやる気のないエイエイオーに、まあ、こんなもんやろと呟く私であった。こんな息子であるが、20年後30年後に桜の美しい庭園のあるレストランなどで接待をうけるのがとりあえずの私のはかない夢なのである。やれやれ。
2006.04.07
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近所の桜が咲いた。まだ五分咲きといったところだ。家の台所の窓から、ベランダから桜の木が見える。窓を開ければ桜が見られるのは、なんとなくうれしい。桜は不思議だ。引き寄せられる。桜の木の下に行ってみる。染井吉野。美しい名前である。響きも良い。桜を見て感じるこのせつなさは何だろう。染井吉野の淡い色は、この世で一番上品で繊細な色だと思う。前に日記で書いたが、やはりそう思う。毎年桜を見て思うことは、来年の桜の頃の私はどうなっているんだろうということだ。桜は散るから美しい。日常も移りゆくから趣がある。凡庸さに埋もれそうな毎日。一日一日は、それほど変わり映えはない。けれど、去年の桜の頃の私と今、桜の木の下にいる私はやっぱり違う。少しずついい方向に自分が向かっていければ、それでいい。
2006.04.03
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そういえば、私には一人暮らしという経験がない。結婚するまで親元にいて、現在はダンナと子供二人と一緒である。このままいくと、ダンナに先立たれ、子供たちが家を出て行くまで私は一人暮らしというものを経験することがないということである。だからであろうか。たまにひとりになるとほっとするのである。親と一緒に住んでいるときもそうであった。自分ひとりでいられたら、ラクだろうなと思っていた。たとえ家族といえども、ひとりになりたいときはあるものだ。その傾向は昔から変わることはない。しかし、一生ひとりとなると果たしてどうなのだろうか。本当の孤独というものを私は知らない。子供たちを見ていていつも思うのは、私は孤独ではないということだ。この子たちにとって母親とは、この世にたったひとり私しかいない。このことが私の生きている意味であり、それはまぎれもない現実であり日常である。しかし子供はいつか私の手を離れる。人は自分自身の孤独といつかは向き合わなければならない。そのときに孤独の意味を知るのだろうか。
2006.03.28
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恋を知らないで一生を終える人がいたとすればそれは人生の半分以上は損をしているといってもいいかもしれない。恋は盲目であり、錯覚である。しかし、生きていると実感できるのが恋なのだ。明日のことを考えていては恋はできない。恋に翻弄されるというのは、それほど愚かなことではない。物事に終りがあるように、恋も必ず終りがある。所詮、一時のはかない夢なのだ。そうとわかっていても、しないよりはしたほうがいいのが恋なのだ。「恋愛は人生の花であるとは、まさに言い得て妙である。どんなに美しい花も、時間が経てば色あせる。しかし、そうとはわかっていても私たちは美しい花を見ずにはいられない。」「恋愛は人間永遠の問題だ。人間ある限り、その人生のおそらく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。」坂口安吾
2006.03.20
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雪が降った。3月も半ばというのに。今日の朝、外を見ると白く積もっていた。まず考えたことは、幼稚園まで自転車10分強の道のりをどうしようかということであった。しかし、家を出る頃には道路の雪は溶けて不安はなくなった。自分の存在を知らしめるように冬は最後に雪の花を散らせ、やがて消えゆく。溶けてなくなる雪に去り行く冬を思う。暖かな春の日差しを見せたかと思うと冬の冷たい風が吹く。3月は不思議な月だ。家族全員がインフルエンザにかかったというのにインフルエンザにならなかった。免疫力が強いということだろうか。とにかく、子供のインフルエンザで仕事をずいぶん休んだのでこの3週間は真面目に出勤した。働くっていいことだ。歯科通院が終わった。歯は抜群にいいらしい。この調子でいけば入れ歯の心配はないと言われ、気をよくする。特に変わり映えのない、2006年3月の私。
2006.03.14
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午前6時。携帯のアラームで目覚める。いつもと同じような平日の朝。こうして同じ朝を何回繰り返すのだろうか。考えても仕方のないことを漠然と思う。朝起きて、学校に行く、会社に行く。行くところがあるというのは幸せなことだ。自分の家以外に行くところがないということは自由のように思えるが、実は不自由なのかもしれない。人は「忙しい」と言う事によって、自分を納得させ安心している。心を失わない程度に「忙しい」ことは必要なことだ。いつもの日常のはじまり。でも、まったく同じ一日なんて存在しないのだ。昨日と今日は少し違う。そしてたぶん、明日も明後日も。午前8時25分。家を出る。3月、晴れ。まだ風はつめたいが、日差しが暖かい。少しずつ春に近づいていく。気持ちが少し明るくなる。
2006.03.03
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夕食の用意をしているとき、ガスコンロにかがんで火をつけようとして炎が私の髪の毛を焼いた。ほんの数センチ程度。カラーリングでもろくなった毛先は、みごとに縮れて無残である。自分の細胞がもろくも崩れ去るのを見るのは、哀しい。こうして髪の毛を焼いてしまったことは、何回かある。煙草を吸おうとしてライターがないとき、ガスコンロで火をつけようとして、同様に。最近、髪の毛を結ばなくなった。夏の暑い時期は、肩にまとわりつく髪が暑苦しくて家ではひとまとめにしていたが寒い今の時期は家事をするときも結ばなくなった。料理をするときは結んだほうがいいかもしれない。それは衛生的かつ髪の毛を焼かないという点では正しいことである。正しいことってなんだろう。正しくないことはなんとなくわかっても、正しいことの基準は何なのだ。そして、それは誰が決めるというのだろうか。真理というのは一体何なのだ。焼け焦げた髪の毛のは、なんともいえない香ばしい匂いがした。
2006.02.21
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サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」を今頃読了。発表から半世紀とのことだが、多少の時代は感じても輝きは衰えないと感じた。さりげない表現の中に哲学がある。自分が日ごろなんとなく感じていることを、小説でさらりと表現されたものを読むことがある。こういう風に活字で表現できるのかと心に響いていく。なんともいえない快感。また、自分では到底表現できない感覚を小説で見出す。本を読む愉しさというのは、そういうことなのだ。「ものによっては、いつまでも今のままにしておきたいものがある。そういうものは、あの大きなガラスのケースにでも入れて、そっとしておけるというふうであってしかるべきだと思う。それが不可能なことぐらい承知しているけど、やはりそれは無念なことだ。とにかく、そういうことをいろいろ考えながら、僕は歩いて行ったんだ。」「何よりまず、君は、人間の行為に困惑し、驚愕し、はげしい嫌悪さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点では君は決して孤独じゃない、それを知って君は感動し、鼓舞されると思うんだ。今の君とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。」今回は野崎孝の訳を読んだが、村上春樹はどう訳したのか読みたいと思う。
2006.02.19
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午前中から寝てしまった。すごく眠たくて。今日は息子の幼稚園の送り迎え以外、外出の予定はない。昨日はダンナの実家で法事があり、嫁してきてほぼ一日家をあけていた。考えてみれば、私が家に10時間以上も帰らないということは滅多にないということに少し驚く。私は主婦で、言うなれば私の仕事場はこの家なのだ。主婦という職業(といえるのかは謎だが)は、自分の家にいると果てしなく仕事があるということでもある。家事とは、どこまでも完璧にしようと思えば果てしなくあり、手を抜こうとすれば、これまた果てしなく手を抜けることなのだ。だからであろうか。こうしてわりと長時間正当な理由で家をあけると、開放される自分がいることに少々驚くのである。家というのは、本来仕事を持ち込むべきところではないが主婦というのは家のことが仕事であるから、実は家にいると落ち着かないのかもしれない。少し無理があるかな。もともとは、家にいるのが好きなことは好きなんだけど。最近、読書をしても眠たくなってしまう。ネット依存症。睡眠不足気味。こうして午前中から昼寝できたりするのは、無上の幸せであるが、時間が果てしなく自分のものであったら、凡人の私は時間をもてあましてしまうのだろう。やらなければならないことがある、行かなければならないところがあるということは実は人として必要なことなのだ。
2006.02.16
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昨晩、娘の熱は39.7℃まで上がった。今朝も39.4℃。これはどうも普通の風邪ではないと感じ、本日再度小児科を訪れたのであった。案の定、インフルエンザAであった。ということは、ダンナはやっぱりインフルエンザAだったということだ。まったく、病院に行くのもあまり早すぎてもこういうことがあるものだ。なんとなく医療費も余計にかかってしまったし、時間も無駄にしてしまった。少し納得のいかないことをこうして文字にすることによって、気を落ち着かせる。病院の帰り、スーパーでなんとなく惣菜売り場をながめていたらこぶりのミンチカツ1個58円が妙に美味しそうに見えた。昼ご飯にでもしようかなと思った矢先、横からおばちゃんがひとつ残らずミンチカツをパックにつめてもっていってしまった。せめて1個ぐらい残すかなぁと思ったら全部持っていかれてしまった。自分が今買おうかなというものを目の前で、こうも鮮やかに全部持っていかれるという経験は、そういえば、あまりないことである。なんともいえない複雑かつ神妙な気持ちになったのであった。昼ご飯は別のものになったが、食べ終わればミンチカツのことはどうでもよくなった。けっきょく、たいていのことは代わりがきくとしみじみと思った次第である。インフルエンザでここまで日記をひっぱるとは思ってなかったがとりあえず記録まで。あとは私が倒れるのを待つばかりである。
2006.02.14
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ダンナは土日二日間、ほとんど寝ていた。一時39℃まで熱は上がったらしい。「高熱でタネがなくなったらどないしよう。」などと言っていた。まだ子供つくるつもりやったん?まぁそれはいいとして、私の手厚い看病の成果で(嘘)今日は熱は下がり、普通に出勤したのであった。ところが今度は娘が発熱。38℃超。けっきょくダンナは病院に行かずじまいだったのでインフルエンザだったのかどうか不明である。ダンナのがうつった可能性は大きい。早速、小児科に行く。案の定、順番は20人ぐらいあとであった。皆名前を書いていったん家に戻るらしく、わりと混雑はしていなかった。とりあえず1時間は待つことを想定して、私は読書、娘はDSとそれぞれの時間を過ごす。しかし、こういう待ち時間に本も読まずにじっとしている人というのは普段から本を読まないのだろうなぁとおせっかいにも考える。しかし、私も少し前まではただぼーっとして恍惚としているだけの人であった。人それぞれ、それでいいのだ。思ったより早く名前を呼ばれる。もう少し、本が読みたかった。読み始めてのってくるといつも中断されてしまうのが主婦の常である。インフルエンザの検査をしたが、反応はでなかった。発病から早すぎても反応がでない場合があるらしい。とりあえず、インフルエンザではない可能性のほうが大きいでしょう、明日熱が下がらなければまた来て検査して下さい、とのことであった。すっきりしないが、インフルエンザではなかったということに自分の中では結論を出したのであった。けっきょく、今日も仕事を休んだ。明日も微妙である。そうこうしているうちにもう春休みである。パートとはいえ、これでいいのだろうか。ま、いっか。私の代わりはいくらでもいるのだ。
2006.02.13
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朝、ダンナが発熱。38℃超。またインフルエンザ?とりあえず仕事に行ったが、途中で帰ってきた。残念ながら今日は祝日で病院は休み。寝てるしかない。子供らが退屈するので、ダンナをおいてマクドに行くことにした。休日のお昼時はそれなりに混雑していた。最近のジーンズはウエストが低く、また今はトップスも短めのためよく、座ると背中の肌が見えてしまう女性を見かける。きょうも若い女性2人の背中の素肌を目撃。彼女らは素肌にニットを直接着るのだなーとしげしげと観察。私は寒がりなので、必ずインナー(正しくはババシャツ)を着るのだがもしかしたら私もローライズジーンスとニットの間からババシャツを露出していたかもしれない。若い女の子は、皆それなりにキレイである。でも何故か皆同じに見えてしまう。彼女たちを見ていると自分の若い頃を思い出す。若いことが当たり前で、自分が何も分かっていないということさえ分からないつまらない女だった。しかし若さというのは、そういうものなのかもしれない。きっと若い頃の私も、年配の人から見て皆と同じに見えていたのだろう。昨日、歯医者で虫歯を治療され、仮につめてもらっていたものがはがれた。ぽっかりあいた削られた歯の隙間に違和感を感じた2月休日の午後。
2006.02.11
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立春を過ぎていた。今年になって、月日はなおさら早く過ぎていくように思う。年をとると時間が経つのが早く感じるのは、例えば60歳の人であれば、1年は60分の1であるけれど20歳の人では20分の1だから、感覚が異なるのだと誰かが言っていた。そういえば、そうなのかもしれない。今年の冬は寒かった。12月のガス代、15000円を超えていた。1月は11000円超。夏のクーラーをつける時期でさえ、うちは10000円超が1ヶ月だけというのに。私は極端に寒がりなのだ。春が待ち遠しい。冬至の私の誕生日の時に比べれば、だいぶ日が長くなってきた。春は確実に近づいている。こうして春を待ちながら、何回冬を越していくのだろう。季節は移ろう。時は流れる。それは死ぬまでかわらない。今日は娘の誕生日である。8年前の雪が降る日に娘は生まれた。初めて子供を産んだ日に雪が降っていた。しとしとと降る雪ではなく、すこし吹雪いて荒れた天候だったことが印象的だった。あれから8年、泣くだけの赤ん坊だった娘は小学2年生になった。でも娘にとっては、1年はまだ人生の8分の1なのだ。自分が母親になるのが信じられなかった、というか遠い未来のことだった子供の頃。今は子供のいない自分は考えられない。月日は流れたのである。寒い冬を何回も越して。今の娘と同じ8歳の頃の自分の記憶は、かなり薄れている。そうしていろんなことが思い出せなくなったり、忘れていってしまう。無上に無情で無常な現実。でも変わりたくない、忘れたくないことがある。そんなことを考えながら、ケーキに8本ローソクをたてた。
2006.02.08
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「ウィルス性結膜炎」は、ほぼ完治。いつもの見慣れた目に戻り、安堵する。目薬さしたあとって、目薬の味がするんだよね。どうでもいいけど。目と鼻と口はつながってる。非日常と日常は、どこでつながってる?本日朝、自宅から幼稚園まで信号機4つとも青であった。(厳密にいえば、ひとつは信号無視。)今までの自己最短タイムを更新したであろうと思われる。その後、気をよくしてか幼稚園から会社に向かう途中、出会い頭で自転車と正面衝突しそうになる。自転車ライダー、相変わらず注意力散漫。最近知った事実。先日息子がインフルエンザで出席停止扱いになった件、出席停止の間は、出席でも欠席でもないのでその間の給食費が返還されるという事実をきいた。なんだか得したような気分。関西弁について。「~できない」という関西弁バージョン「でけへん」は大阪人。「できひん」は京都人。「できへん」は神戸人。「でけやん」はなんと和歌山人。
2006.02.06
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前回の日記が「歯医者に行った」で、今回の日記が「眼科に行った」である。私は医者になかなかいかないほうなので、珍しいことである。何故眼科かというと、おとといの夜から左眼がおかしい。翌朝、目やにで目があかなかった。目は充血している。昨日は左眼だけであったが、今日は右目まで充血してきた。私は目薬というものを買ったことは記憶にないぐらい昔であるが昨日、薬局に買いに行ったのであった。すると今日、職場で「眼科に行った方が治りが早いよ。」と助言され素直な私はそれもそうだと思い、行くことにしたのである。市販の目薬627円。なんとなく無駄になってしまうのが心残りではあった。今日は16時半から歯医者の予約を入れていたので歯医者のあと眼科へ行こうかとも考えた。私の人生の中でも、病院のはしごというものはしたことがない。それも悪くないとは思ったのだが、子供連れでの病院のはしごも何だし子供を家において行くにしても長時間、子供らだけでの留守番というのもどうかということで、歯医者の予約を先延ばしして眼科へ行く事にしたのであった。歯医者が15年ぶりとすれば、眼科はそれ以上であると思われる。もしかして人生初かもしれない。眼科デビュー。だいたい視力はいいほうである。今回調べてもらったところ、両目とも1.2だそうだ。就職以後、コンピュータ作業をするようになって、多少視力は落ちたと思っていたので、意外であった。なので眼科というものには昔から縁がない。けっきょく「ウィルス性結膜炎」であった。目をいろいろいじられるのはなかなかつらいものであった。他人のからだに触れるということは、医者、ナース、医療関係者以外はあまりないことであろう。医療とは、エロチックで神秘的なのである。この病気はうつるらしいので、タオルは別にすることと言われた。子供らにこれがうつるとまたやっかいだなぁと思った。子供に目薬をさしたことは今までないが、烈火のごとく抵抗するであろうことが予測されるからにほかならない。トータル3230円の出費。「一週間後にまた来てください。」と言われたが、たぶん行くことはない。ここ最近、眼科に3230円、歯医者に3000円、インフルエンザの小児科2回通院4850円と病院代に1万円以上使っていることに驚愕した私であった。
2006.02.03
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市の無料歯科検診を受けるために歯医者に行った。自慢になるが、歯は丈夫である。今までに歯が痛いとか歯茎が腫れて痛むという経験はない。歯医者に行くのは、実に15年ぶりぐらいである。15年前も別に歯が痛んでというわけでもなくなんとなく親知らずでも抜いておこうか、歯医者に行くのも久しぶりだしとふいに思い立って行ったのであった。その前となると、また15年ほど前の小学生の頃にさかのぼる。だいたい15年ぐらい経つと歯医者に行こうと思い立つらしい。少し自慢しすぎたようなので、これくらいにしておく。産婦人科の内診もさることながら口の中を見られるというのは、エロチックである。私の中でエロチックといえば、歯科衛生士であるが今日いた歯科衛生士2人はからはエロスは感じられなかった。白衣ではなく、ピンクの仕事着はエロチックではあった。「すごくいい歯なんだけどねぇ、歯周病かかってきてるよ。」と歯医者に言われ、ショックをうける。私の自慢はここであえなく玉砕となる。「僕の奥さんだったら、治療をすすめるねぇ。」「僕の奥さんだったら。」この言葉をきょうの歯医者は3回は言った。よほど愛妻家なのであろう。特に歯茎が腫れているでもなく、痛みもなくこれといった症状がなくても歯医者に言わせれば、私の症状も歯周病に入るというのである。そういえば歯ブラシを使うと、たまに出血することはあるけども。これでは、中年以上はほとんど歯周病だと思ったほうが良いであろう。15年も歯医者に行っていないというのもシブイが、ある程度の年齢になったら年に1回ぐらいは歯医者に行くほうがいいそうである。無料歯科検診に行ったつもりが、結局3000円の出費。愛妻家歯科医のいわれるがままの私であった。でもこのまま、また15年行かなかったら、完璧歯周病へと進むらしいので、まぁよかったことであろう。あと数回、歯科通院する模様。
2006.01.30
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消耗品を安い時に買うのが一種の趣味である。トイレットペーパーシングル12ロールあけてないのが7個ティシュ5箱セットが6箱生理用ナプキン羽根付き羽根なしあわせて10個タンポンは2箱洗濯用洗剤なぜか13個もあった。その他シャンプー、リンス、柔軟仕上げ材、お風呂の洗剤などいろいろ多数。生理用タンポンについて少し。私は高校生の時に初めてタンポンを使用して以来、今までずっと同じメーカーのものを使い続けている。化粧品、日用品、消耗品など考えてみたら他のものはありとあらゆるメーカーのものを使ってきている。20年以上同じメーカーの同じ商品を使い続けているのはタンポンだけという事実に最近になって気がついた。ひとりで「ほう。」とつぶやいたのであった。結論としては、消耗品は消耗するからいいのだ。ヤフオクで落札したコンドーム72個。数えたら66個になっていた。使用期限はあと4年ぐらいだと思うが使いきれるだろうか。66個を4年でということは66÷4=16.51年で16.5回ということは一ヶ月1.375回使えばいいということになる。なんだ。その気になればいけるやん。しかし、こういうことを考えること自体どうなんだろう。消耗品に管理されるセックス。味気ないね。まったく。
2006.01.26
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使っていないクレジットカード複数。必要とされないものの哀しい存在。一時の気まぐれよって生み出された存在理由を失った物質。不必要なものが多すぎる。言葉が多すぎる。言葉が足らない。あやふやなコミュニケーション。適量な言葉とは?大事だったことは、それを失ってから気がつくものだ。考えることは必要だけど、考えすぎないことも必要。質問を質問で返すのは、よくないことだ。息子が幼稚園でもらってきたプリントに書いてあった言葉を何回か読み返す。「帰る家があって、きちんと食事が出来て、大切にしてくれる人がいて自分のしたいことをしているのなら、それで充分幸せだと思う。」これがすべて満たされていれば、かなり幸せなのではないか。それ以上に何を求めるというのだろう。空気のようにそれは当然のようにそこにあるようなそういうあたりまえのことが、幸せであると感じたい。
2006.01.24
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大江健三郎を読んだ。私は読書感想文というのを書くのは苦手である。その本について書くには、最低2回ぐらい読まないと本当の意味で読んだとは思えないのである。単に、自分の読解力、理解力の不足ということである。また、自分の感じたことを表現する力が不足していることでもある。2回ぐらいは同じ本を読みたいのだが、物理的精神的余裕がない。これは、所詮言い訳である。その作家について語るというのは、さらに数冊の読書が必要であると感じるが、大江健三郎を1回だけ読んだ率直な感想を述べるとするならば誠実、謙虚な文章であった。読後はさわやかな印象。小説の中にででくる「なんでもない人」という言葉。自分は「特別な人」であるという意識はある意味必要である。人生そう思わないとやっていけない面もある。しかし、優れた功績を成した人が平凡に一生を終える人より人としての価値が上ということはない。決して卑下するということではなく、人は、広い意味で「なんでもない人」であるという謙虚さを持つことによって心の余裕が生まれるのではないかと感じるのである。これは著者が小説の中でも述べていることで、深く頷いたところである。本当に「なんでもない人」の私としては、何だか救われたような気がしたのだ。生きるとは、という答えのない命題について少しだけ考えた読後であった。
2006.01.20
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息子の状態は順調に回復した。次の日の朝は熱が37.9℃あったが、その後順調に下がり、今日などは家においておくのが気の毒なほど元気であった。子供は急変も早いが、回復も早い。明日から幼稚園に行けるのではないかと考えたが、そういえばインフルエンザの場合は「治癒証明書」がいることを思い出す。インフルエンザは学校伝染病に指定されており、出席停止扱いとなる。その他は、おたふくかぜ、水ぼうそう、風疹など。したがって出席でも欠席でもない扱いとなる。この場合、治癒証明書を医師にに書いてもらい、幼稚園に提出しなければならない。面倒な手続きである。このために、もう一度小児科に行かなければならないのである。この治癒証明をもらうのは、実は初めてである。上の娘が幼稚園の時、水ぼうそうにかかったのだがあまりにも症状が軽くて気が付かず、幼稚園を通いとおしたということがある。娘の体にほんの数えるほどの発疹を見つけたとき、もしかしてと思って小児科へ行くと「水ぼうそうですねぇ。でも、もう枯れてますねぇ。」といわれ、結局幼稚園には水ぼうそうのことは伏せて、そのまま通わせたのであった。その後、順調に下の息子に水ぼうそうはうつったのだがかわいそうなくらい発疹が出て、症状も重かったのである。子供によって症状はずいぶん異なるものである。今日の午後、再び小児科を訪れ、「明日から幼稚園、行けますでしょうか?」と訊くと「火曜日の朝まで熱があったのなら、明日は無理ですねぇ。金曜日からです。」と言われ、治癒証明にも「1/20より登園可」と書かれた。明日から行けると思っていただけに残念である。元気な子供を家においておくのは、意外と苦痛なのだ。幸い、上の娘は今のところインフルエンザにかかっていないようである。インフルエンザの潜伏期間は3日だそうで月曜日の未明に息子は発熱したので、それから3日というと明日朝までに発熱しなければ、今回のインフルエンザにはかからなかったということになるそうである。読書をして眠たくなったら昼寝、という怠惰な生活がもう一日延長されたわけである。嬉しいような、複雑な心境。やれやれ。
2006.01.18
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今日未明、下の子が熱を出した。39.4℃。朝、子供を連れて町の小児科に行く。今の時期の小児科は大盛況である。町の小児科でも1時間待ちであった。これが少し大きい総合病院になると、3時間待ちであろう。大阪という人口の多いところだからかもしれないが本当に少子化か?と思うのである。子供のいるところには、いるものなのだ。診断はインフルエンザA型であった。二人の子供は今までの人生でインフルエンザにかかったことがない。多分。多分というのは、以前は正確に診断できなかったのではないかと思われる。今は鼻水で簡単に診断できるようになっている。ということで、子育て約8年にしてようやくインフルエンザという診断をきいた次第である。病院の支払いは、合計4370円。大阪市は少し前は、小学校就学前まで子供は医療費はタダであった。今はたしか500円だけ負担するようになっているようである。私は大阪市まで数百メートルのところに住むのだが、違う市のため、乳幼児医療費免除は満5歳の誕生月までで息子はとっくに誕生月を過ぎているため、保険3割負担分を払わなければならない。いつもこの行政の差に不条理を感じる次第である。インフルエンザは当然うつる病気なので、明日熱が下がっても幼稚園に行けるのは木曜日から、明日も熱が持ち越すようであれば、金曜日以降と指導される。当然、私もその間仕事を休まなければならない。運悪く、上の娘にインフルエンザがうつった場合は、さらに休まなければならない。真面目で仕事熱心な私には、気が重いことである。とはいってもパート勤めの気楽な身分だから良いが正社員で働いている小さい子供のいる女性は本当に大変だと思う。そういう理解は、周囲には意外とないものなのだ。少子化対策はこういうところに焦点を向けて欲しい。息子は今、薬を飲んで眠っている。ということで、今週は比較的ヒマな一週間になりそうである。
2006.01.16
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今日は雨であった。外出の予定のない雨の日は、好きである。そんな日の雨音は心地よく、そして優しい。基本的には家にいるのは好きなほうだ。まっすぐに降る雨を見ながら、自分には居場所があることを確認し、安堵する。雨は、その存在を物語るように静かに降っていた。三島由紀夫を読んだ。鮮烈であった。芸術にとって「感性」は勿論重要な要素であるに違いないが、芸術とはそれだけではない。人を魅了する美しい表現。芸術とは、美とは。なんて難しいことはよくわからないんだけど。「美は誰にでも身をまかせるが、誰のものでもない。」今回の小説で心に残った言葉。
2006.01.14
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きょう、スーパーで偶然、知人に会った。まだ上の娘が幼稚園に入る前に子供を公園に連れて行っていた頃の知り合いである。久しぶりに会う彼女は、なんだかやつれていた。久しぶりに知人、友人に会うと無意識のうちに以前の面影の印象と比べてしまう。よく会っていた頃の彼女は綺麗な人だったし、年は私より5歳は若かったはずである。子育て疲れ、生活疲れであろうか。なんとなく疲れたオーラをはなっているのであった。子育て中は、女が女でなくなるときである。心も体もなんとなく乾いている状態。自分のことを考える余裕がないのだ。女性は、心の余裕がないと不思議と輝かないものである。心身ともに潤いは必要である。中年以降の女性の顔は、その人の今の状態、生活をあらわすものだと実感する。さて、そういうアナタはどうなのと言われるとたいしたことないです。スミマセン。
2006.01.10
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きょう、図書館に行った。この前来たのはいつだったか、思い出せないぐらい久しぶりである。私の読書熱は最近のことで、主に文庫本を買っては読んでいたのだが図書館にも行ってみようと思い立って行った次第である。近所の市立図書館はそれほど規模が大きくないからなのか思ったよりも本が少なかった。というか、私が読みたいと思った本が意外となかった。少しばかりの失望感を抱きつつも、三島由紀夫と大江健三郎を借りることにして貸し出しカウンターへと向かう。今の時代は勿論、貸し出しもコンピュータ管理である。バーコードのピッという乾いた音は、妙な説得力をもって私の心に響く。とても現代的な音だ。「返却は2週間後です。」図書館司書は今日何十回言ったであろう言葉を慣れた口調で話す。図書館司書というのは、私の憧れである。エアコンの効いた快適な環境で本に囲まれて優雅にバーコードを操作する。私が羨望感をもって司書である彼女を見つめていることに勿論、彼女は気づかない。帰宅後早速読書を始める。期限付きの読書は不本意ではあるが、期限をつけないとなかなか読めないからいいのかもしれない。三島由紀夫から読むことにした。三島由紀夫を読むのは初めてではないはずであるがたぶん10代の頃であったので、ほとんど覚えていないし、それほど確固たる意志をもって読んだという覚えがないのでほとんど初めて読む感覚である。日常の中で、読書にさける時間はほんの少しであるが私にとっては、少しだけ非日常な文学的時間である。それは、静かではあるがとても深く私の中に浸透する時間なのだ。
2006.01.08
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文章を書くということは、自分自身を見直す作業であると思う。文章には、その人の人格、品格があらわれると言った人がいたがまったく同感である。そういう意味からすれば、文章を書くということは私にとっては楽しい作業とはいえない。むしろ苦痛な作業である。自己顕示欲が比較的少なく、自分のことを語るのが苦手な私が何故ブログをやっているのかというと苦痛な作業の中にも、文章を書くということに何らかの意味を見出しているということにほかならない。ただし、完全に自己満足の世界である。私には本当に「書ける」ということはないような気もする。「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」最近読んだ小説で印象に残った文章。
2006.01.06
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前回の日記に書いた通り、台所の蛇口の水漏れを直すべく水道工事屋に来てもらうことにした。ネット検索で並んだ会社の自宅から近いところから電話していく。朝一に電話してみたが、意外とつながらい。まだ休みです、とか主人が旅行中でよくわからない、とか、今週中は予定が立てこんで来れない、とか。世間はわりとのんびりしているなと感じながら8件目でかけた水道屋さんがようやくすぐに来てくれることになった。あらわれたのはまだ20代であろう茶髪のにいちゃん2人であった。最近、うちの子供らはこういう業者の人が来るとなぜか、からみたくてしかたがないようなのだ。このまえ、電器屋さんが来た時もそうであった。いちいち大人の話に割り込むし、作業中もにいちゃんたちに話しかけるのである。娘は、自分が食べていたいちご味のチョコレートをにいちゃんたちに「あげるわ。」とふるまっていた。まったく、おせっかいな娘である。けっきょく、蛇口ごと交換することになった。このマンションも築20年になるので、システムキッチンの蛇口もそろそろ寿命であろう。3万円ほどかかるらしい。「部品を今から発注しますので、いつ工事になるかまた電話します。」と言い残し、にいちゃんたちは帰っていった。夕方、水道屋から電話があった。「物が届くのが土曜日で工事は連休明けの10日になりますけど、よろしいですか?」まぁ水漏れは大したことはないので、「いいですよ。」と軽く返事をしてしまったが、迂闊であった。「しゃあないなぁ。じゃ、その分安うしてな。」と言えばよかったと後悔した。こういう言葉がすっと出ないあたり、私は真の大阪人でないということであろう。仕方ないので、ついでに洗面所と風呂場のパッキンをただで交換してもらうように話をもっていくことにするか。しかし、年明けから痛い出費である。
2006.01.05
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正月三が日が終わった。日常の中の少しだけ非日常的な日々。毎年年末から年明けまでのこの数日は、自分自身の意志とは違う方向に時は流れていくような奇妙な感覚を覚える。そしてそれは、確実に毎年やってくるのだ。年賀状が必ず元旦に届けられるように。新聞屋の集金が、必ずやってくるように。しばらくすると、この奇妙な感覚にも体は馴染みそれを楽しんだりしている自分もいる。テレビは、完璧に正月バージョンになっておりだらだらと娯楽番組を見ることもなかなかいいなと思ったりする。のんびりと流れていく時間。こういう退屈さは、心地よいものだ。退屈というのは、無上の贅沢である。お互いの実家を行き来して、自宅にもどる。いつもの自宅の風景に感じることは日常に帰ったのだという安易な安心感と少しだけの閉塞感。少し水漏れのする台所の蛇口を見ながら明日、直さないといけないな、と思った。私は、また日常に帰ってきたのだ。
2006.01.03
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大晦日である。きょうは朝からダンナの実家におせち料理の手伝いに行った。毎年の大晦日の風景。一応、私も嫁である。先日、家を整理していたら、文庫本が何冊か出てきた。買ったことも忘れていたものもあった。読む本がなくなったので、図書館でも行こうと思ったら早々に休館になっていたのでちょうど良かった。一度読んでいるはずなのに、ところどころ覚えているものもあるがほとんど覚えていないものが多い。しかし、もっと他にもあったように思うがこれだけだっただろうか。とても本を読んでいるとは言い難い私であるが一応、国文科卒なのでそれらしく三島由紀夫、太宰治、遠藤周作などの文庫本をほんの数冊購入して読んだ記憶がある。もしかしたら、実家に預けたままかもしれない。実は買ったと思い込んで借りていただけなのかもしれない。記憶がかなり曖昧である。それと同じくして、小説の内容もほとんど覚えていない。それは当時の私にそこまで響くものがなかったからなのか。たぶん、文学というものにそれほどの興味がなかったからなのであろう。当時はそれ以外に私にはすることがあったのだと思う。とはいっても、今思い出してもぼんやりと日々を過ごしているだけの10代、20代であった。とにかく、今は名作といわれる小説を読みたい気分なのである。図書館や本屋に行くと思うことであるがこの膨大な書籍をほとんど読むことなく自分は人生を終えるのだろうと少しセンチメンタルな気分になる。世の中の知らされていることのほんの一部しか知らずにたいていの人は一生を終えるのだ。大晦日。2005年が終わろうとしている。今年はいい年だったと思う。自分なりに。来年の大晦日にもそう思いたいものである。
2005.12.31
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「うどん」を漢字で書くと「饂飩」であるということを先日はじめて知った。「紅葉」のほかに「黄葉」という言葉があることを知った。「紅葉」は秋になって葉が紅く変わることで「黄葉」は秋になって葉が黄色く変わることである。いちょうは黄色く変わるので、厳密に言えば「黄葉」らしい。「非常」 「非情」「ひじょう」という響きは、本当にヒジョウって感じだ。どこか、哀しい。常でない。情がない。この上ない。「無常」 「無情」 「無上」「むじょう」という響きは、何故か惹かれる。どこか、切ない。年末というのに、ぼんやりと国語辞書をながめていた午後。
2005.12.28
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娘の同じクラスの男の子の絵が高く評価されているらしい。娘の話なので、要領を得ない部分があるが何かコンクールの特賞に選ばれ、海外の美術館に彼の絵が展示されることになったらしい。大人では描けない絵だそうである。(あたりまえか・・・)その子は去年、お母さんを病気で亡くしている。彼のお母さんは私と同い年であった。何度か彼女と話したことはあったが、元気な印象しかない。訃報を聞いたときは驚いたものだった。幼くして母親を失うということは、子供にとってどういうことなのだろう。下に当時2歳の女の子もいたというのに。その引き換えといっては言葉は適切ではないが彼には絵の才能というものが授けられていたのかもしれない。時として、人生は自分の意志ではどうにもならないことが起こるものである。しかし、それをどう受け入れていくかということはやはり自身の問題なのである。天命を受け入れ、自身で思考し、選択、行動することによって未来は決まるものなのである。いろんな人生がある。あまりにも凡庸に徹してしまっている私には、きっと彼の絵はまぶしく見えることであろう。
2005.12.26
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クリスマスイブである。クリスマスに疎い私だが、サンタクロースを信じている子供が二人いるので一応、我が家もささやかにクリスマスツリーなどをだして飾り付けをしている。家の外観をクリスマス仕様にものすごく凝っている家をたまに見る。キラキラ輝く美しい装飾にため息がでるばかりであるが、自分の家の幸せ度をアピールしたいのだろうと考えてしまうのは、きっと私の心があざといということなのであろう。今夜はクリスマスケーキにロウソクをたてた。ケーキはもちろん既製品である。クリスマスケーキを手作りするお菓子作りが趣味といえる奥さんは、私の永遠の憧れである。電気を消してローソクに火を灯す。毎年、この時の子供たちの顔は輝いている。明日目覚めれば、サンタクロースからプレゼントが贈られる。子供にとっては、一番楽しい夜なのだろう。サンタクロースを信じていたのは、いつまでだったのだろうか。「恋人がサンタクロース」を久しぶりに聴いた。この曲をよく聴いていた高校生の頃の自分を思い出した。あの頃の自分が懐かしく、少し切ない。もし過去に戻れたとしても、きっと同じような道を歩むのだろう。未来の私はどんな私になっているだろうか。それは、今後の自らの思考、選択、行動によって決められていくことなのである。聖なる夜は、更けてゆく。明日は神の生まれた日。
2005.12.24
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雪が降った。大阪の平地に雪が降るのは、今シーズン初めてだと思う。しかも誕生日に。大阪に住んでいると、この時期には滅多に雪は降らない。今までに雪の誕生日はあっただろうか。覚えてないぐらいにないことである。なんとなく、うれしい。午前中はほんの少し、雪で白くなった。少しの間だけだったが、白く染まった街は美しかった。放置された自転車が風で倒され、その上に雪が白く積もっているのを見た。景色がそこだけ少し寂しくなる。私の住む街は、大阪でも滅多に雪が降ることはない。年に1回見られるかどうかの景色である。ほんの数時間のまぼろしであった。マクドナルドに行った。ドナルドのホットココアをたぶん初めて飲んでみたがものすごく薄かった。これは本当にココアなんだろうか。新しい飲み物のようだった。銀行で新券に変えたばかりの35000円入りの封筒を置き忘れた。もうあきらめて銀行に行ってみたが、親切な人が窓口に届けてくれていた。以前にも、タクシーで財布を忘れたことがあったが手付かずで私のもとに帰ってきたことがある。神様っているんだと思った。午後にはすべて雪は溶けて、アスファルトの地面も乾きはじめていた。きょうは冬至である。1年で一番日照時間の短い日。そんな日に、私は生まれた。
2005.12.22
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私の喫煙歴は、1年ちょっとである。子供から手が少し離れたのを機会に吸うようになった。喫煙歴1年程度、しかも1日に3本程度なので、やめようと思えばやめられるような気がする。基本的に人前では、吸わない。ひとりになった時、ひとりを楽しみながらタバコを吸うのである。やめようと思えばやめられそうなのだが、私にとっては、タバコは孤独を楽しむアイテムなのである。家族がいることの幸せは、かけがえのないことだと充分認識しているが私には自分ひとりの時間が必要なのだ。それは、贅沢な時間なのである。だから、やめられないのかもしれない。40歳になったらやめようと思ったが、たぶん無理である。誕生日は、2日後。メンソールのタバコは、苦手である。
2005.12.20
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きょうは休日である。子供たちを連れてマクドでも行こうかと思ったが寒いので断念した。西では「マクド」、東では「マック」というのが通例のようである。福岡出身現大阪人の私は、完璧に西の人なので「マクド」と言うが友人知人の中には、たまに「マック」という人もいる。「マック」という響きは、なんとなく優雅なイメージを感じる私である。冬の寒い土曜日。のんびりと時が過ぎてゆく休日。こういう日は、アイロンがけに適している。アイロンの蒸気と熱気は、夏には向かない。今日は一歩も外に出ずに過ごしたい。きっと、充実した一日になるであろう。
2005.12.17
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私の自転車歴はわりと長い。それとは関係ないかもしれないが、今までに自転車で接触事故を3回経験している。原付との接触1回、車との接触2回である。かすり傷程度で大したことはない。いずれも大阪に来てからである。そのうちの1回は周囲にたまたま知人がいたため警察を呼んだり、いろいろとよくしてくれた。加害者は50代くらいの自営業風のおじさんで、無口だが人は良さそうな感じであった。警察で拘束され、また私を連れて病院までいくはめになりまぁ気の毒といえば気の毒であった。しかし、青信号の横断歩道を走行中の自転車と接触した場合、車側がほぼ悪いということになるから、仕方ない。加害者よりも被害者でいるほうが、気が楽だなぁと所轄警察の空気の悪い室内で思ったものである。3回目の接触事故はわりと最近のことで下の子を自転車の後ろにのせ、幼稚園に送って通勤するところであった。車を発進させる際に左側から走ってくる私の乗った自転車に全く気がつかなかったらしい。子供を乗せたまま自転車が倒れた。おまけに雨が降っていて、傘をさしていたのだが、自転車が転倒した際に傘の骨が無残にも折れて、余計に哀れな状況を物語っていた。子供にケガはなく、私の右足が車のバンパーにはさまった程度であった。加害者は60代くらいのおじさんで、「大丈夫ですか。」と私たち親子の心配をするが、私は先を急ぐので「大丈夫ですから。」と気丈に返事をし、息子を自転車に乗せ、折れた傘をさしながら幼稚園へと向かい、そして、遅刻することもなく何食わぬ顔で出勤したのであった。日常の中にも、非日常は潜んでいるものである。今日は今年一番の寒さらしい。冷たい風が私の存在など関係なく、吹き荒れる。これからの季節の自転車は、憂鬱なのである。
2005.12.13
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