アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

2007年01月30日
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カテゴリ: 歴史・考古学
 前回のエントリーの関連で。自分の専門関連のメモなのでつまらないと思います。

 伝説のオアシス都市ゼルズラを発見したと信じたアルマーシ・ラースロー(「イングリッシュ・ペイシェント」の主人公のモデル)が次に目指したのが、紀元前524年にリビア砂漠(エジプト西部)で遭難したペルシア軍の痕跡を発見することだった。第二次世界大戦の勃発でその夢は叶わず、また現在に至るまで発見されていない。
 この「砂漠に消えたペルシア軍」についての記録は、紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの「歴史」による簡潔な記述しかない。以下松平千秋訳の岩波文庫版から当該箇所(巻3・26節)を抜粋してみる。

・・・アンモン攻撃に向かった分遣隊はテバイを発し、道案内人を伴って進み、オアシスの町に到着したことは確実に判っている。オアシスの町は・・・(略)、テバイから砂漠を越えて七日間を要する距離にあり、(略)。ペルシア軍はアンモンに達することがなかったし、引き返したのでもなかったのである。当のアンモン人の伝えるところはこうである。遠征軍はオアシスの町から砂漠地帯をアンモンに向かい、アンモンとオアシスのほぼ中間あたりに達した時、その食事中に突然猛烈な南風が吹きつけ、砂漠の砂を運んでペルシア軍を生き埋めにしてしまい、遠征軍はこのようにして姿を消したのである。


 「イングリッシュ・ペイシェント」でも猛烈な砂嵐で車が生き埋めになる場面があったが、5万もいたペルシア軍を飲み込むとは、砂漠の砂嵐というものはかくも恐ろしいものなのか。
 なおこの逸話は最近「カンビュセス王の秘宝」(ポール・サスマン作)というミステリー小説でも扱われている。僕は読んだことが無いが(ていうかさっき知った)、やはり消えたペルシア軍の遺跡を探す考古学チーム同士の競争が背景となっているそうだ。


 ペルシア軍が向かっていたアンモンというのは現在のシワ・オアシスにあたるという。ここにはアモン神の神殿があり、その託宣は非常に敬われており、ギリシャにまで聞こえていた(ギリシャ人はアモン神をギリシャ神話の主神ゼウスと同一とみなしていた)。
 ペルシア軍の遭難からおよそ200年後の紀元前331年2月、ペルシア軍を逐ってエジプトに入ったアレクサンドロス大王は、神託を得るためわざわざこの砂漠の中の神殿に赴いているのだが、そのとき神官に「神の子よ」と呼びかけられ、自己のエジプト支配の権威付けに利用していることからも、その権威のほどが分かる。
 またペルシアが滅ぼしたエジプト第26王朝の王墓はここにあるそうで(よく知らないがリビア系王朝なのかな?)、エジプト人に「セフト・アム(椰子の地)」と呼ばれていたアンモンを征服することは、エジプト支配を完成する上で欠かせなかったのだろう。
 もっともアンモン遠征軍を送り出したペルシア王カンビュセス(ペルシア語でカンブジャ)は、アモン神の権威を利用するのではなく、その神殿を焼き払うために遠征軍を送った、とヘロドトスは記しているのだが。

 アレクサンドロス大王はアンモンに向か際、ナイル河から西へ砂漠を突っ切ることをせず、いったん地中海に出てから海岸沿いに進み、そこから南下してアンモンに至ったのだが、なぜカンビュセスは派遣軍に無謀な砂漠横断をさせたのか。
 ヘロドトスの記するところではカンビュセスは「もともと気違いじみた性格で、冷静さを欠く人物であった」といい、このアンモン遠征や同時に行われたエチオピア(現在のスーダン)遠征は水や食料の補給をろくに準備もせずに踏み切った、という。
 カンビュセスは一代で現在のイラン、トルコ、イラク、シリアを征服したキュロス大王の息子で、父の急死を受けて紀元前530年頃に即位した二代目である。こう書くといかにも苦労知らずな人物が想像されるが、その他ヘロドトスがカンビュセスを気違い呼ばわりした所業として挙げているのは、
・ペルシアの掟に背いて実の妹と結婚し、あまつさえ身重になった妹を殴り殺した
・弟スメルディスを疑って殺した
・エジプト王の墓を暴いて遺体を焼き捨て嘲笑した
 (火葬はペルシア・エジプトいずれの風習にも背く)
・アンモンの神殿も焼き払おうとした
・エジプト人が崇拝する聖牛アピスを殺した
・近臣(元リュディア王クロイソスなど)を手討ちにしたり残虐に扱った
点である。

 ところがこうしたヘロドトスの伝える暴君像とは異なる記録もある。
 聖牛アピスを殺したというが、実際には紀元前524年の銘をもつ 石碑 が発見されており、そこにはアピスを拝むカンビュセスの姿が彫られている。聖牛アピスは滅多に居ないある特徴をもった牛で、エジプト人は神の顕現とみなすのだが、この石碑はカンビュセスがエジプトの風習を尊重していることを示す。
 実妹との結婚だが、これは古代王朝では「血の純粋性」を守るためとしてよく行われていたことであり、特別異常ではない。イランではペルシア人以前のエラム人にも見られるし、エジプトにもある。ギリシャ人はこの近親相姦を唾棄したが、のちにアレクサンドロス大王の部将からエジプト王になったプトレマイオス王家はこの風習を採り入れ、有名なクレオパトラ7世は最初弟と結婚している。兄弟殺しも、新しいスルタンが即位する度に兄弟が誅殺されたオスマン帝国などを見れば、とりわけ異様ではない。常人には理解できないが。
 またカンビュセスは紀元前525年にエジプトを征服したのだが、その際は砂漠で水を確保するためアラビア人と同盟したり、サモスなどギリシャ人と同盟して制海権の確保を心がけるなど周到な準備をしている。アンモンやエチオピア遠征の軽率さとは別人のようではある。

 エジプト征服直後のアンモン遠征とエチオピア遠征は大失敗に終わっている。エジプト遠征に比べあまりに拙速な行動や、ヘロドトスが描くエチオピア人の姿があまりに空想的(皆120歳の長寿を保つ云々)なことから、この遠征噺は作り事ではないかという説もあるらしい。
 ナパタ(スーダン)ではヌビア王の 石碑 が発見され(現在ベルリンの博物館に所蔵)、その中には「ヌビア王ナスタセンがケンバスデンのペルシア軍を破り、その船を全て奪った」という記述があり、このケンバスデンをカンビュセスと同一視し史実とする意見もあったようだが、ナスタセンは紀元前4世紀末にペルシアから独立した王らしく、時期が合わない。
 ヘロドトスによれば、カンビュセス自らが率いたこのエチオピア遠征は、準備が足りず無謀だったためたちまち兵が飢え(近代の太平洋にもそんな軍隊ありましたね)、ついには兵士が10人一組で籤を引き、当たったものが他の兵士に食べられるという惨況に陥り、やむなく退却したという。
 ついさっき検索で知ったのだが、藤子不二雄はこの話に基づいた短編漫画を作っているそうだ。


 このときカンビュセスは、アンモン、エチオピアと同時にカルタゴに対する遠征も企てていたとヘロドトスは伝える。カンビュセスは支配下のフェニキア人に命じてその艦隊でカルタゴ遠征を企てたのだが、そもそもカルタゴはフェニキア人が紀元前9世紀に植民して建設した都市国家であり、フェニキア人のサボタージュでカルタゴは難を逃れたという。
 もしこの時ペルシア帝国がカルタゴ遠征に成功していたら、その後のヨーロッパの歴史に与える影響は大きかったろう。カルタゴやフェニキアは、ギリシャやエトルリアを通じてヨーロッパに影響を与えており、ヨーロッパと西アジア(中近東)はより近くなっていたかもしれない。
 さらに想像すれば、カンビュセスのアンモン遠征はエジプトの完全支配というだけでなく、強力な海軍を持つカルタゴへの将来の遠征に備えた陸路行だったと考えられないか。またエチオピア遠征に成功して紅海ルートの打通に成功していれば(実際は紅海交易はローマ時代に最盛期を迎える)、ペルシア帝国は地中海からインド洋にまたがるローマ帝国どころではない世界帝国になっていたかもしれない。
 まあ騎兵に頼りすぎのペルシアの軍事力では、ギリシャも征服できなかったのだから(20年後のペルシア戦争)、いずれにせよ無理だったろうけど。

 現実にはアンモン、エチオピア両遠征の惨憺たる失敗後まもなく(紀元前522年)、本国で殺したはずの弟スメルディス(バルディヤ)が反乱を起こし王を名乗った。ヘロドトスによればこのスメルディスは偽者で、カンビュセスはこの偽スメルディスを討伐すべくシリアまで引き返したところで乗馬の際事故を起こし(腰の刀の鞘が抜け、足に突き刺さった)、その怪我がもとで急死したという。享年は分からず、彼には子がなかった。
 この偽スメルディスを倒したダレイオス(ダーラヤワウシュ)が王位を継ぎ、ペルシア帝国を磐石なものとするのだが、最近の研究では実はダレイオスこそが簒奪者であるというのが定説になりつつある。ダレイオスこそが、正当な後継者であったスメルディスを倒して彼を偽者扱いし、歴史を改竄してべヒストゥーン碑文に彫り付けたという訳である。あるいはカンビュセスの不自然な死も、スメルディスかダレイオスによる陰謀の結果によるものかもしれない。
 ダレイオスが即位直後に相次ぐ反乱の鎮圧に回らねばならなかったこと、カンビュセスの妹と結婚して血統上の正統性を主張したことなどがその傍証となる。そもそもペルシア帝国の創業者と二代目であるキュロスとカンビュセスは、赤の他人のダレイオスによって無理やり彼のアケメネス家の一員に組み込まれ系図を改竄された、という説さえある(本来「テイスペス朝ペルシア」だったものが、アケメネス朝に易姓した)。
 こうしてみると、カンビュセスが気違いじみた暴君だった、というヘロドトスの記録は、ダレイオスのプロパガンダを真に受けたものかもしれず、眉に唾してかからなくてはならない。またヘロドトスはエジプトの神官たちからエジプトの歴史を取材したのだが、カンビュセスがエジプト征服にあたり、神殿を尊重しつつもその旧来の利権を認めなかったため神官はカンビュセスを恨んでいたといい、だとすればヘロドトスは二重の悪意に影響されたカンビュセス像を書き記したことになる。
 もしかしたらカンビュセスは、ダレイオス、アレクサンドロスや始皇帝、クビライ、あるいはナポレオンやヒトラー(?)のような世界戦略を備えた気宇壮大な大王だったかもしれないが、力量も運も及ばなかったというべきか。

 カンビュセスの墓は故国のイランにあるとされるも長らく所在が分からなかったが(ヴァルター・ヒンツなどが推定はしていたが定説はなかった)、昨年12月イランのパサルガダエで、その廟に使われたと思われる石材が転用されているのが偶然 発見された という。





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最終更新日  2007年01月31日 04時34分32秒
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