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11月:甲府、松山、大洲 1月末:台湾 2月:金沢 3月:キプロス 4月:ドイツ(ミュンヘン) 今後の予定 8月:トルコ
2018年04月23日
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3月半ばに帰国した。15日間イギリスとドイツにいたが、その間15の博物館を見た。 久しぶりのドイツはやはり面白かった。永住したいとはあまり思わないが、数年くらいならまた住んでみたいと思う。難民騒ぎがどうこうと日本では報じられていたが、あまり影響は感じなかった(以前より多少警備が厳しくなったようには思う)。 イギリスは4回目か5回目だが、やはり面白い国だ。以前と少し印象が変わった気がする。以前はドイツ人に引きずられていたのかあまり好意を持っていなかったが、改めて行ってみるとイギリス人の方がドイツ人よりよほどフレンドリーな人たちだと思った(商売や仕事のこととはいえ)。あとドイツとイギリスの違いは、イギリスの女性は結構スカートを履いて(似合っているかはともかく)フェミニンな格好をするが、ドイツではスカートを履いている女性はほとんどいない。気候の違いもあるのだろうが。 イギリスでもドイツでも、寿司や日本食がいよいよ当たり前のようになっていて(もはやこうした食事から日本を連想する人は少ないのかもしれない)、日本食の店は待ちが出る程の盛況だった。ちなみにイギリスで一番美味しかったのはインドのビリヤニとモロッコのクスクス定食だった。ドイツではルール地方の郷土料理を食べた。やはり塩っぱいな。
2016年04月27日
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エクスカーション2日目。この日は午後まで自由行動であり、エルサレム旧市街観光を楽しむことができる。 ところがあいにくこの日はシャバット(ユダヤ教の安息日)であり、ほとんどの博物館は閉館である。というわけで行先はおのずと制限された。 まず旧市街のヤッファ門(西門)の前でバスから降ろしてもらい、旧市街を通り抜けてダマスカス門(北門)に抜ける。途中はほとんどがアラブ人の商店街で、雑踏の中の単独行である。僕は真っ黒に日焼けしていたのとほとんど手ぶらだったことから、日本人観光客には見えなかっただろう。客引きの声を全然かけられなかった。↓ダマスカス門(城壁の外側から)。門の周りには物売りがひしめく。この城門は19世紀のものだが、古代から変わらない風景だろう。↓この日開館していた数少ない博物館であるロックフェラー博物館。 イスラエル各地出土の考古遺物を展示。入場無料なうえなかなかいいものを置いているが、「置いている」だけで解説がほとんどないため(出土地もろくに書いてない)、まるで一昔前(あるいはシリアなど)の博物館のようだった。館内撮影も禁止。 僕は調査の必要上、ローマ・ビザンツ時代の土器を集中的に見た。 その後「岩のドーム」に行こうとしたが、なぜか入場できなかった。仕方なくその近くの遺跡公園(閉館日で入場できず)でうろうろしていると、別行動していたT先生や韓国からの参加者と出くわし、合流する。↓「岩のドーム」に隣接するアル・アクサ・モスク(灰色のドーム)と遺跡公園。 T先生は日本における聖書考古学の第一人者だけに、その案内でエルサレム観光できるのは僥倖である。最新の調査成果なども教えてもらいつつ、猛暑の中ダビデ王時代の遺跡を見て回る。↓ダビデ王時代(紀元前1000年頃)のエルサレムは、現在の市街の南側にあった。周りを谷に囲まれた要害の地である。崖上で発掘された当時の城壁。↓エルサレム郊外の石切り場。ローマ時代のものか?↓エルサレムの水源である「ギボンの泉」から、「シロアムの池」までを結ぶ地下トンネル水道(「ヒゼキヤの水道」)。紀元前700年頃。土曜日以外は観光客も膝まで水につかりながら探索できる。この日はパレスチナ人の警備員に特別に入口まで入れてもらった。↓最近発見されたローマ時代の「シロアムの池」。「シロアムの池」でイエスが盲人を治す奇跡を起こしたといわれる。現在別の場所が「シロアムの池」として一般公開され、ウクライナ人の巡礼が殺到していたが(普段は近所の子供のプールになっている)、イエス時代の「本物」はこちらのようだ。 昼食は旧市街に戻り、T先生のおごりでシャワルマを食べる。一つ17シェケル(約500円)。専門的な案内といい食事といい、T先生様様である。↓ヤッファ門近くの店先で店番をしている猫。おつかい(ただし自分の用事だけだが)にも行く出来た猫である。 午後2時半に全員集合し、キブツへの帰路につく。帰路はおよそ1時間半の道のりであった。↓帰路に通ったイスラエル・ヨルダン国境地帯。中央の丘はテル(古代の集落があった丘)。その背後がヨルダン川か。その向こうはもうヨルダン王国である。手前のフェンスは無人監視システムが備えられたイスラエル側の国境警備施設。・・・・・・・ こうして一泊二日の(キリスト教徒、ユダヤ教徒にとっての)「世界の中心」への旅は終わった。そうした宗教的・世界史的意義を抜きにしても、僕はさまざまな人々が交差するエルサレムという街が好きになったようである。 また翌日から現場である。
2008年08月16日
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今日は発掘は休みである。そのためボランティア参加者(ほとんど学生)と一部のスタッフで死海とエルサレムへの一泊二日のエクスカーションに出かける。 朝8時、キブツを出発。いったん東に向かってヨルダン川沿いに出て、南に転じてまず死海へ向かう。↓死海への途上で見かけた刑務所。テル・アヴィヴ空港乱射事件の犯人である岡本公三が収監されていた。↓「死海文書」の発見地であるクムラン近くの風景。とても人が住めるとは思えない気候風土。世界で最も海抜が低い地域でもある(海抜-400m以下)。 バスの運転手の提案で、まず死海の泥や塩を使った化粧品を販売するアハヴァ社の直売店に向かい、買い物の見返りにアハヴァ社の所有するプライベート・ビーチをただで利用させてもらうことにする。僕はお土産にハンドクリームを買う。 さていよいよ死海であるが、周りは全く殺風景でまさに死海の名にふさわしい。しかもすさまじく暑く、海岸は裸足では歩けない。 残念ながら僕自身が浮かんでいる写真はまだ準備できてないので風景だけ。↓ 塩分がきついので、水に入った途端足の傷口(虫に咬まれて痒くて引っ掻いた傷)が猛烈に沁みる。そろそろと入って行き上向きになると、自然に体が浮く。 面白い体験だったが、ずっとやっているとさすがに飽きてくる。また塩分がきついので長時間入っていると脱水症状になる。入浴後はナトリウムのおかげで肌がつるつるになった。 死海での昼食後、エルサレムへ。死海からは1時間もかからない(イスラエルは面積が九州程度の小さい国である)。↓オリーヴ山からエルサレム旧市街を望む。中央の金色の建物がイスラム教の聖地である「岩のドーム」。キリスト教、ユダヤ教の聖地でもある。周囲の城壁は19世紀のもの。 次いで旧市街に入り、処刑を控えたキリストが十字架を担がされて歩いた「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)を歩く。↓ヴィア・ドロローサの起点であるライオン門。ヘタウマなライオンの浮き彫りがあるためこの名がある。↓エルサレム旧市街の雑踏。商店はアラブ人が多い。観光客ではロシア人・ウクライナ人が目立った。↓キリストが十字架にかけられ、またその墓があるという聖墳墓教会。金曜日だったので周辺ではモスクから流れるアザーンが鳴り響いていた。↓イエスが十字架に架けられたとされる場所。巡礼客の長い行列が絶えず、列の流れを良くしたい修道士?と、一刻も長く居座りたい巡礼客とのバトルが展開される。↓イエスの墓とされる場所。巡礼客の作る行列の長さに見る気も失せた。↓聖墳墓教会の壁に残る12世紀の落書き。十字軍兵士が残したもの。中世のヨーロッパ人にとってエルサレムは「世界の中心」だった。↓「嘆きの壁」。かつてのユダヤ教神殿の西壁。↓礼拝する正統派ユダヤ教徒↓夕食。レバノン料理店。予算の関係で肉なしで、少し物足りない。 夜はクネセト(イスラエル国会)近くのユースホステルに投宿。団長であるT先生にお供してタクシーで新市街へ飲みに出かけた。12時過ぎにホテルに戻り、1時過ぎに就寝。
2008年08月15日
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今日は比較的暖かい日だった。 今日はハイデルベルクから電車で1時間半くらいのところにあるシュツットガルトに行ってきた。人口56万とドイツでは大都市の部類に入り、バーデン・ヴュルテンベルク州の州都でもある。街並みは近代的な大都市のそれである。 かつてはヴュルテンベルク公国(1806年に王国に昇格、1918年まで存続)の首都であり市街の中心には宮殿もあるが、現在は世界に名だたるメルセデス・ベンツ社の本拠地として知られている。駅舎にまで大きなベンツのマークが掲げられており、企業城下町の観がある。ベンツの博物館もあるが、他にもポルシェ博物館もある。また「砂漠の狐」エルヴィン・ロンメル元帥の息子マンフレート氏が長年市長を務めていたことでも知られる(知られない?)。 しかし僕はベンツもポルシェもそっちのけで別の博物館に行った。芸術館で行われている大規模な展覧会「Imperium Romanum(ローマ帝国)」と、16世紀?に建てられた旧宮殿の中にあるヴュルテンベルク州立博物館を見に行くのが目的だった。 Imperium Romanumのほうは、3世紀までドイツ南西部を版図に収めていたローマ帝国当時の遺物などを展示してあった。特に当時の生活に重点を置いている。史上最強の帝国の一つであるローマは歴史に親しむ者を魅了してやまない。その版図は今の地中海沿岸全域にイギリスやドイツの一部、バルカン半島、さらにイラクまでを加えた広大なものだった。5ユーロ紙幣のデザインはギリシャ・ローマ古典期のデザインを使用しているが、ヨーロッパ人はローマこそが自分たちの起源だと信じてやまない(実際そうと言い切れるだろうか)。 その後はヴュルテンベルク州立博物館に行く。ここには10年位前に来たが、当時はドイツの考古学なんてまるで知らなかったのでちんぷんかんぷんだった。しかし今はだいぶ知っているのでより興味深く見ることが出来た。ここにはとりわけケルト時代の城砦集落であるホイネブルクや豪華な副葬品が発見されたケルト人首長の古墳であるホーホドルフの出土品が置いてある。どちらもギリシャ系の遺物が出土しており、北ヨーロッパ人の地中海(古典)文明への憧れや影響を窺わせる。 ここはドイツの考古学を知る上では外せない博物館だろう。まあそのためか金もかかっているようで展示も一部更新されていた。ここでも本を買いまくってしまった。・・・・・・・・ 久しぶりにシリアのニュース。(引用開始)レバノン元首相暗殺の黒幕?シリアの内相が自殺【カイロ=岡本道郎】シリア国営通信は12日、1982年から2002年にかけレバノン駐留シリア軍の治安部門責任者だったガジ・カナーン内相が同日午前、ダマスカス市内の事務所で自殺したと伝えた。 昨年秋に内相に就任、治安機構の改革を手がけていた同氏はシリアのレバノン実効支配を最も象徴した実力者として知られ、今年2月に同国首都ベイルートで起きたハリリ元首相暗殺事件の黒幕とも目され、先月には同事件の真相究明に当たっている国連調査団の事情聴取を受けたばかりだった。 自殺の理由は「関係機関で捜査中」(同通信)というが、同調査団の報告が今月25日にも発表される直前のタイミングだけに、「自殺」が事件捜査との関連している可能性は高い。(読売新聞) - 10月12日21時48分更新 (引用終了) ・・・・口封じ?
2005年10月12日
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昨日の夜、眼鏡を踏んづけて壊してしまった。別にかけていなくても見えるのだが、車の運転や本を読むときはやはり眼鏡が欲しい。ドイツでは眼鏡を作るのに保険が出るので(前作った時は50マルク出た)、早速作るか。 今日は午後カールスルーエに行った。ハイデルベルクからは電車で45分くらいのところにあり、人口は27万人とドイツでは大きめの部類に入る。連邦憲法裁判所(日本の最高裁にあたる)や工科大学、州立歌劇場などで有名である。もちろん僕が行ったのはそれらが目的ではなく、ここの宮殿にあるバーデン州立博物館に行った。他には特に見るべきものはない。宮殿は駅から北に2kmのところにある。 この博物館には古代中近東やギリシャの遺物のほか、この宮殿に住んでいたバーデン大公家ゆかりの豪華な調度品などが展示してある。予想以上に規模が大きく、根詰めて見るとかなり疲れるかもしれない。中東の遺物は数は多くないが、ウラルトゥ(紀元前9・8世紀頃にトルコ東部やイラン北西部に栄えた王国)関連で見るべきものがある。ただし盗掘され古物商から流れてきたもので、出土地は不明なのだが・・・。 面白いところでは、17世紀のオスマン帝国(トルコ)軍の武器などが展示されている。これはバーデン侯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが、オーストリア軍の部将として対トルコ戦争(オスマン帝国軍による1683年のウィーン包囲と、それに続くオーストリアの反撃)の指揮を取ったことに由来しておい、トルコ軍から奪った戦利品が元になっている。400年前の「トルコ‐ヨーロッパ問題」である。 この博物館ではつい本を買いまくってしまった。 カールスルーエは今は規模の大きい産業都市だが、非常に独特な整然とした街路網をもっている。州立博物館の入っているバーデン大公の宮殿を中心として放射状に街路が伸びており(その中心点は宮殿内の塔)、本来の市街地は宮殿の南側に広がり、北側は広大な庭園になっている。一見して計画都市とわかる。 1715年、バーデン伯カール・ヴィルヘルムはその狩場の森を切り開いて宮殿を建設することにし、この幾何学的な都市計画を定めた。新たに宮殿を設けたのは、プファルツ継承戦争のさなかの1689年にその宮殿があったドゥルラッハ(カールスルーエに隣接)が焼けてしまったこと、そして当時フランス国王ルイ14世がパリ郊外の荒野に建設したヴェルサイユ宮殿を真似る事がヨーロッパの王侯の間で流行っていたからである。カール・ヴィルヘルムは「私の国は小さいので、小さな宮殿で十分だ」と謙遜しているが、宮殿の建物だけで幅300m、その北側に広がる庭園は1kmはあったのだから恐れ入る。なおカールスルーエという名前は「カールの安息」という意味で、すなわちカール・ヴィルヘルムの休息所としてそもそもこの町が計画されたことを示している。 1718年以降、カールスルーエはバーデン地方の中心都市となった。その後バーデン伯はナポレオン戦争の最中の1803年に選帝侯に格上げ、1806年に大公国に格上げされている。1818年にはドイツ国内で最初の憲法が制定され立憲君主国となった(現在の連邦憲法裁がここにあるのは関係するのだろうか)。1918年の第一次世界大戦後に大公は退位した。 第二次世界大戦後の1945年にはフランスの占領下でヴュルテンベルク地方と統合されてバーデン・ヴュルテンベルク州となり、州都はヴュルテンベルク側のシュツットガルトに置かれている。今でもバーデン人はヴュルテンベルク(シュヴァーベン)と混同されるのを嫌がるようだ。なお宮殿は戦争中のイギリス空軍による空襲で外壁を残して焼失したので、内部はただの博物館である。 夜家に戻ってテレビを見ていると、ヴュルテンベルク地方のある小都市での騒動が報じられている。この町では幼稚園の保母にイスラム教のシンボルであるスカーフの着用を禁止する条例を制定しようとしており、その議論がテレビで中継されていた。見た感じでは住人の多くはこの条例に賛成のようだが、トルコ系や「緑の党」支持者は強硬に反対している。 「幼稚園ではクリスマス・ソングを園児に歌わせるのに、イスラム教徒には宗教的なものを禁止するのか」とトルコ系のおじさんが吼えていた。まあそもそもイスラムとスカーフは直接の関係はないと思うんですがね(スカーフ着用の風習は12世紀以降といわれる)。またトルコではヨーロッパ以上に政教分離にうるさく、大学や公共の場などでは教師・職員のみならず学生もスカーフ着用が禁じられているようだ。
2005年10月06日
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今はハイデルベルクにいる。しばらく滞在する予定。ここを拠点にシュパイヤーやカールスルーエ、シュツットガルトなどに行こうと計画中。 ハイデルベルクはもう何度も観光しているので、今日はプファルツ選帝侯博物館を見たほかはひたすら古本屋や本屋を回っていた。本のほうはあまり収穫なし。 旧市街の通りではやたらと日本人の観光客、しかも20歳くらいの若い女の子ばかりを集団で見かけたのだが、修学旅行か何かなのだろうか? プファルツ選帝侯博物館はハイデルベルクの歴史やここの領主だったプファルツ選帝侯(バイエルン王家の親戚)ゆかりの品などが展示してある。観光コースから外れているのか、日本人の姿を見ることは無かった。今は特別展で17世紀前半のメディチ家の肖像画を展示しているが、プファルツ選帝侯とも婚姻関係があったようだ。この博物館では地元の考古学に関する展示も充実していて、特にローマ時代の遺物が多い。ローマ時代のルフィイニアナは中世の市街よりも西にあり、直接の連続性はないようだ。
2005年10月05日
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ドイツに戻ってきた。 今は手帳に手書きで書いていた今年の夏の日記を、再構成して順次こっちのほうにアップしているところ。例年はあまり夏の現場のことなどを書いていなかったのだが、今年は1ヶ月と期間が短かったことや、今年が最初の調査ということもあるので、自分のための記録の意味も込めてこちらにアップすることにする。 今朝はトルコの首都アンカラに居た。 空港へ行くバス乗り場までタクシーを使うことにして、ホテルを出たところで通りかかったタクシーを呼びとめると、運転手は東洋人顔の若い男だった。眼鏡をかけていて、なんとなく僕の従兄弟か大学時代の同級生を彷彿とさせる顔である。日本人といっても全く違和感が無いだろう。 乗り込んで行き先を告げ、早速「お前は何人だ?」と聞く。すると「タタール人だ」と答えた。ちょっと訛りはあるが紛れも無くトルコ語である。この顔でトルコ語を話されるとやっぱり変だ。 とはいっても僕自身がトルコ語を話すのでトルコ人たちは同じように変なふうに思っているかもしれないし、僕は現場の日焼けのせいもあって「日本人か?」と聞かれたことがほとんど無い。まず最初は「フィリピン人か?」と聞かれる。これは僕の色が黒いこと、そして彼らが出稼ぎ先のサウジアラビアやリビアでフィリピン人と接していることがその理由だろう。僕が「いいや」と答えると、「じゃあ」といって出てくるのはウズベク、カザフ、タタールなど中央アジアのトルコ系諸民族の名前になる。これは僕がトルコ語を話すせいだろう。しびれを切らしてこっちから「日本人だ」と言うことも度々ある。 タタール人というのはロシア領内に散在するので「ロシアから来たのか?」と問うと、「ダーウスタンだ」と答える。日本で言う「ダゲスタン共和国」のことで(トルコ語の「ダーウスタン」は「山国」という意味で、その名のとおり山がちな国である)、ロシア連邦の一構成国であり、カスピ海沿岸にある。どちらかというと隣接するチェチェンとの関連で口頭に上ることが多く、現に1999年にはチェチェン・ゲリラの攻撃を受けている。僕はそこにもタタール人が住んでいるというのは全く知らなかったので少々驚いた。ただタタール人といってもその定義はかなり漠然としているようだ。 いつトルコに移住してきたのかは聞かなかったが、おそらくソ連が崩壊(1991年)して民族紛争が激化・経済状況が悪化してからだろう。チェチェン人やチェルケス人のようにトルコに移住するものが増えているのだろう。また彼の親戚はドイツにも居るという。ロシアの人口が減少しているわけだ。 彼自身はタクシー運転手の傍ら(その逆?)、大学で教育学を専攻しているそうだ。道を間違えるなど、タクシードライバーとしてはいまいちな様だが(料金のうち、彼のせいで余計に走った分は返してくれた)。握手して別れた。 空港にも東洋人顔の地上職員が居た。シワスでは見かけなかったが、タタール人は大都市では結構あちこちに居るようだ。 ともあれ無事にアンカラ・エセンボア空港に着き、無事にドイツに戻って来れた。飛行機だとドイツ・トルコ間は三時間ほどである。車だと4日、どんなに頑張っても3日はかかり、これは現に先月経験したばかりである。 フランクフルトでは電車待ちも兼ねて荷物をコインロッカーに預け、町に出た。フランクフルトは町並み自体はアンカラよりも整然としているが、住民の醸し出す雰囲気はより雑然として怪しい雰囲気がある(特に駅の周辺)。 ドイツは住むにはまあ便利な国だし、何事も比較的ちゃんとしている。しかし僕はやはりトルコに居るときのほうがずっとリラックスしているように思う。僕はドイツ語もトルコ語も出来るので言葉の理解能力の問題でも無いだろうし、理屈で説明するのは難しいのだが。
2005年09月07日
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(9月12日 記) この日は比較的早く起きて外出する。今日の目的はアンカラ市内にあるローマ遺跡の見物、アナトリア文明博物館の見学、そして書籍購入である。 僕の泊まっているホテルはウルス地区のチャンクル通りにあるのだが、まずは同じ通りに面してホテルの近くにあるローマ浴場跡を訪れる。この浴場は3世紀の初め頃にカラカラ帝によって建設されたものと考えられている。広さは80X130mと結構大きいのだが、木があちこちに生えて草生している現状からかつての姿を想像するのはかなり難しい。この遺跡は1940年代に発掘されたものだが、発掘者であるマフムート・アコックによる復元図を見ないと厳しいだろう。 浴場は二つの部分からなり、前庭であるパエストラと建物部分に分かれる。パエストラは浴場に付属する広場のようなもので、回廊で囲まれスポーツ競技に使われていた。スポーツの後浴場ですっきり汗を流す。つまり総合健康施設だったわけである。パエストラの跡には今はアンカラで出土した様々な時代の墓碑(ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語)、彫刻が施された石材や墓が移築されて無造作に並べられている。建物部分は石壁と無数に並んでいる床下の支柱からなる。ローマ浴場はどこでもそうだが、上げ底の床下に蒸気を通して蒸し風呂とする。蒸気の熱さは冷浴、温浴、熱浴と三段階に分かれ、さらに発汗室(サウナ)や更衣室、プールなどが付属している。 以前はこの遺跡の横には女子高があって、チェック模様のスカート(トルコではどこでも同じみたいだ)をはいた女子高生がフェンスの向こうから遺跡見物をする僕らに手を振っていたりしたのだが、今は夏休みで人気(ひとけ)が無い上、どうも職業学校に変わったらしい。 次ぎはチャンクル通りをアンカラ城の方向に向かって歩いていく。独立戦争(1919~22年)勝利を記念したアタチュルク騎馬像(作られたのは1927年で、彼の生前のようだ)のある広場で左に折れ、坂道(ヒサールパルク通り)を上がって行く。坂道を登りきるとアンカラ城だが、その途中で左手に遺跡が見えてくる。 最初は最近ショッピングセンター建設の際に発見されたローマ時代の石畳街路である。大石が敷き詰められ(今の歩道よりもしっかりしているくらいだ)、道路の幅は3mくらいだろうか。工事で削られた斜面には建物の礎石も覗いている。当時のアンカラに比べて今の市街地は3mほど高くなっており、風化・侵食した土砂がそれだけ堆積しているということである。 このローマ時代街路の延長線上、県庁など役所が並ぶアルムトル通りに、高さ15mの「ユリアヌスの柱」が立つ。柱頭の上にはコウノトリが巣を作っている。この円柱は362年のローマ皇帝ユリアヌスのアンカラ訪問を記念して建てられたといわれているが、柱頭は6世紀頃のものと考えられるという。キリスト教を嫌って古代の神々に心酔し「背教者」といわれたユリアヌスは、アンカラ訪問の翌年、メソポタミアでペルシア軍と戦って戦傷死している。 元の通りに戻って坂道を登り続け、そのまま城に向かわずに一旦左に折れて別の丘に続くヒュキュメット通りに入って歩いて行くと、かつての丘の頂上にアウグストゥス神殿の遺跡が見えてくる。これは1世紀前半に神君たる初代ローマ皇帝アウグストゥスをまつるために建てられた神殿で、地元のフリュギア人の女神キュべレの神殿の跡地に作られたらしい。現在は周囲の円柱は失われ内陣の壁のみが残っているのだが、今でもちゃんと立っている。 壁に刻まれたラテン語の碑文にはアウグストゥスの事跡や寄進、神官や知事のリストが刻まれているのだが、面白いことに神官の一人の名前の語尾は-ixで終わっている。こうした特徴は中央ヨーロッパに居たケルト人の名前によく見られるのだが(ドイツでは漫画でお馴染みのアステリクスとかオベリクスとか)、紀元前3世紀初頭にヨーロッパからアナトリア(トルコ)に移住したケルト人(ガラテア人)が数百年間ケルト的な名前を維持していたことが分かる。ガラテア人というのは新約聖書にも登場しますね(「ガラテア人への手紙」)。 このアウグストゥス神殿は5世紀にキリスト教の教会に改造され、さらに15世紀にはイスラム教の導師ハジ・バイラムの廟とモスクがこの神殿の遺跡を利用して建設された。この場所は宗教こそ変えつつも、紀元前から連綿として信仰の場所として今も生き続けていて(この日もハジ・バイラムの廟に参る人が絶えなかった)、重層的なアナトリア文明を象徴する遺跡ともいえる。 このアウグストゥス神殿の近くで、かつてアンカラ市街を囲んでいた街壁の一部を見つけた。工法からして中世のビザンツ帝国時代のものと思われる。18世紀初頭にヨーロッパ人が描いたアンカラ図には、市街を囲む城壁がはっきりと描かれているが、今は開発によってほとんどが失われている。 ヒュキュメット通りを元来た道を戻り、再び城に向かって坂道を登ると、左側の崖下にローマ時代の劇場跡が見える。これは1982年に発見されたのだが、その後はほったらかしになってゴミの山となっていた。あまりの惨状に最近柵が設けられて保護されたが、そのため中に入ることが出来なくなった。今は舞台(スケネ)と半円形のオーケストラ及び観客席の一部を見ることが出来るが、草ぼうぼうで当時の姿を想像するのは難しいかもしれない。1世紀か2世紀のものだという。 坂道を登りきるとアンカラ城に突き当たる。アンカラ旧市街を見下ろしその中心だったアンカラ城は、外城(200X400m、12世紀??)と内城(150x300m、7世紀?)からなり、山頂の最高地点にはアクカレという城塞がある。城内は今は住宅地になっていて古い家屋が立ち並び、あたかも迷路のような細い路地があり、入りこむとかなり迷うが、古い家屋や12世紀に建設されたアラエッディン・モスクを見るのも一興かもしれない。アンカラ城は紀元前2世紀のガラテア人(テクトサゲス族)の時代から存在したといわれるが、現在の城壁の大部分は中世のビザンツ帝国もしくはオスマン帝国時代のもので、ローマ時代の石柱や彫刻などが石材としてあちこちに転用されている。 アナトリア文明博物館はこのアンカラ城のすぐ脇にある。もともと15世紀に建てられたバザール(市場)の倉庫を改修し、1960年代に開館した。当初トルコ国内の貴重な出土品は全てこの博物館に集められていたので、1960年代までの貴重な出土遺物は全てこの博物館に所蔵・展示されている。その後出土物は各県の最寄りの博物館にとどまることになったのだが、このアナトリア文明博物館が、オスマン帝国時代の帝都博物館だったイスタンブルと並んで、トルコ国内でもっとも重要な考古学博物館であることに変わりは無い。 展示物は先史時代から鉄器時代(紀元前1千年紀)までに渡り、館内中央のホールにはアラジャホユックやカルケミシュなどから出土したヒッタイト時代の浮き彫りが並び圧巻である。最近地下にアンカラ市・アンカラ県の歴史に関する展示が加えられ見所が増えた。展示のみでなく研究室では出土遺物の保存や修復も行われており(僕も訪れたことがある)、今年は保存処理の済んだアジェムホユックなどの出土遺物(象牙製の箱など)が新たに展示されていた。 なおこの博物館、入場料として外国人からは10トルコ・リラ(800円強)を徴収するが、トルコ人からは3トルコ・リラしか取らないという差別料金制度をとっている(シリアなんかもそうだった)。 館内では日本人観光客を案内する、流暢な日本語を話すトルコ人ガイドを何人か見かけた。僕も何かこれで商売できないかと不届きな考えが頭をよぎる。あとこのときは館内に迷彩服姿のアルバニア兵がたくさん居た。アフガニスタン(ISAF)からの帰りらしい。 博物館を見学したあと、所用でスヒイェ地区に行き、ついでに韓国庭園を見る。この庭園は朝鮮戦争(1950~53年)で戦死したトルコ兵の慰霊のため1970年代に韓国から贈られたもので、韓国風の塔が立ち、周囲の碑には1950年から59年にかけての700名あまりの戦死者の名が刻まれている。 その後繁華街であるクズライ地区に移動。アンカラの旧市街が上に書いたアンカラ城を中心とするウルス地区であるのに対し、こちらはアンカラがトルコの首都となった20世紀に開発された新市街である。立ち並ぶビルもモダンなものが多く、また道行く人々の服装もこざっぱりしてお洒落であり(僕のほうが薄汚いくらいだ)、頭にスカーフを被った女性の割合も低く、おしゃれな喫茶店や飲み屋(シワスでは見たことが無い)、本屋などが並んでいる。以前何かの本でウルスを浅草、クズライを新宿に例えているのを見たことがあるが、いい得て妙だと思う。ちなみにクズライとは「赤い月」、つまりイスラム世界での赤十字社のことであるが(十字軍以来、十字は禁忌であるため)、どうしてこの地区にこの名がついたのかは僕も知らない。 僕はクズライでは魚ばかり食べていた。今年は発掘隊の宿舎でも週に一度は近くの川で獲れたコイ?を食べていたから、例年になく頻繁に魚を食べたことになる。クズライには海の魚を扱う魚屋も並んでいる。内陸のアンカラで海魚というのも変だが、最近のトルコの大都市住民の一部は健康志向なのか、魚レストランはどこも満員だった。健康にいい「白い肉」こと鶏肉と魚肉の専門レストランも見かけた。果ては魚肉(鮭だろうか?)のドネルというのまで見た(言うまでも無くドネルケバブは普通羊肉や鶏肉で作る)。美味しいのだろうかと興味はあったがまたの機会にする。あと道端でミディエ(ムール貝)にご飯を詰めたものを一個40クルシュ(30円くらい)で立ち売りしていた。「○個呉れ」というと、言った分だけ殻を剥いてレモン汁をかけて渡してくれる。 そして本屋めぐりをする。シワスにはろくな本屋が無かったが、さすがにここは首都だけにかなりの品揃えの本屋が並んでいる。考古学関係の本を買いあさり、全部で6冊くらい買った。 クズライの歩行者天国の一角で「トルコ共産党」なる団体がビラを撒いたり横断幕を掲げてシュプレヒコールをしている。「活動家」の顔を見ると皆学生風の若者で、あまり苦労しているように見えない。共産主義は宗教を否定するだけにイスラムの価値観に対立するものであり(そういう共産主義も一種の宗教といえなくも無いが)、こういうのはかつての日本と同じく中進国に共通の現象なのかもしれない。 日も暮れたので、再び魚レストランに入ってビールを片手にメズギットと呼ばれる大きめの魚(スズキ??)を食べる。充実したトルコ滞在も今日で終わりなので、ちょっとした感慨に耽りつつ街行く人々を眺めていた。
2005年09月06日
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(9月10日 記)・9月3日 土曜日 朝、現場に出る皆に別れを告げた後、村のドルムシュ(乗合バス)で宿舎を離れシワスに向かう。このバスはドイツ製の小型バスだが、もう40年は走っているんじゃないかと思わせる代物だった。そのバスに人間と小麦袋なんかがぎゅうぎゅう詰めに積まれている。途中で客を拾ったり、客の希望先まで行ったりして回り道をするのでシワスまで2時間くらいかかった。この路線に日本人が乗るのは初めてだろう。だからというわけでもないだろうが、普通6リラかかるところをタダにしてくれた。 シワスは曇り空でぽつぽつと雨も降っている。今年は暑い夏だったが、ようやく秋の訪れを感じさせる天気になった。バスターミナルでアンカラ行きのチケットを購入する。料金は25トルコ・リラ(およそ2000円)。 ちなみにトルコでは今年の1月にデノミネーションが行われ、1000000トルコ・リラ(TL)が1新トルコ・リラ(YTL)となった。0が6つ取られたことになる。またそれに伴い補助通貨であるクルシュが復活した。紙幣のデザインは従来のものと変わらないが、1新トルコ・リラ硬貨と50新クルシュは大きさ、デザインともまるでユーロ硬貨のパクリである。 シワスからアンカラまではおよそ7時間の行程である。途中何ヶ所かでトイレ・昼食休憩がある。車内ではお茶やコロンヤ(オーデコロン)がサービスされる。 アンカラに着いたのはもう夕方の6時くらいだった。ウルス地区にある安宿(というかビジネスホテル)に投宿。前に泊まったのは随分前だが、フロントの兄ちゃんは僕の顔を覚えていた。 この日はその後繁華街であるクズライ地区に出て(アンカラは地下鉄が出来て随分便利になった)、鯛の塩焼きを肴にビールを飲む。鯛は小型のチュプラというやつで、一匹12リラ(1000円)もした。トルコの食事としてはかなり高い。ビールはジョッキで3リラ(250円)。ちょっとぜいたくだが、久しぶりに自由行動の出来る今日くらいはいいだろう。 夜、サッカー2006年ワールドカップドイツ大会予選のトルコ・デンマーク戦をテレビで見る。トルコが逆転したものの、最後の90分になって同点に追いつかれ引き分けでガックリ。トルコ代表は無事にドイツに来られるのだろうか。・9月4日 日曜日 いつもの癖で朝5時過ぎに目が醒めてしまう。もう現場ではないのだからそんなに早く起きる必要は無いのだが。二度寝してゆっくり起きて、この日は遺跡見学のためカマンに向かう。ドイツからの往路にも立ち寄ったが、ここでは1986年から日本の調査隊が発掘を続けている。アンカラからはバスで2時間ほどの距離。 先月来た時とはメンバーが多少替わっていて、若い日本人学生が増えている(M大学の学生が多い)。夜はドイツで同窓のK君とビールを飲んで積もる話?などをする。ドイツ隊ではビールを飲むのはほとんど毎晩で(一日平均2本)、時に仕事しながらでも飲むが(さすがに発掘現場では飲まないけど)、ここでは週末くらいにしか飲まないということだ。また夜10時以前の飲酒も禁止されているらしい。イタリア隊(アルスランテぺ)を訪問したときなんて、やつら昼食にワイン飲んで居やがった。所変われば、というやつだろうか。・9月5日 月曜日 ここの発掘隊では休日は日曜日で、今日から新しい週が始まる。隊のスケジュールに合わせて5時に起き、一緒に現場に出る。 ここでは日本から来た学部レベルの学生がそれぞれ発掘区を担当して発掘責任者となり、夕方のミーティングでは英語で発表しなければならない。現場の動かし方、トルコ語、英語のいい勉強になるだろう。僕もかつてここで随分勉強させてもらった。もっとも現場については、学生よりもトルコ人労働者(近くの村から雇用)のほうが経験があるので、任せっきりにしても問題無いくらいであるが。 普段は(日本では)学部レベルの年齢の人と話すのはつかみ所が無くて正直面倒くさいのだが、ここに来ているのは考古学の学生でもあるし僕と共通の志向をもつだけにいろいろ話し込んだりして、そうこうするうちにあっという間にその日の作業時間は終わった。 夕方のバスでアンカラに戻る。
2005年09月03日
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(9月7日 記) この日は朝8時に起床、ホテルを出てボアズキョイの発掘隊宿舎を訪問する。 世界遺産にも指定されているヒッタイト帝国の都・ボアズキョイ(古代名ハットゥッシャ)は、1906年以来一貫してドイツ隊による発掘調査が続いているが、現在の発掘隊長は4代目のユルゲン・ゼーアー博士(ドイツ考古学研究所イスタンブル支部)。折り良く同氏は宿舎に居て、今年の調査の成果など話を伺う事が出来た。同氏の書いた遺跡のガイドブックまで貰ってしまった。そのガイドブックを貰う際、「去年の冬はなんだかすごい数の日本人観光客が来てね・・・」と言うので、「それじゃあこのガイドを日本語に訳して売らないといけませんね」と答えると、「そのとおり、誰か訳してくれないかね」と言うので「僕が訳しますよ」と言っておいた。まあ版権はトルコの出版社にあるのですぐには実現しないだろうが、機会があれば是非とも日本語に訳したい。 その後隣接する博物館を見た後、ボアズキョイの遺跡を見学。南北2km、東西1.5kmに及び岩山の上に築かれて見所が散在するこの巨大な遺跡を見て回るには、どうしても車が必要になるだろう。夏は猛烈に暑いので、飲料水を携帯することをお忘れなく。遺跡内に売店などはありません(自称ガイドや土産物の物売りはうろうろしているが)。 ゲートにあたる場所の脇では現在城壁の復元工事が進んでいる。古代のやり方と同じく、石壁の基礎の上に日干し煉瓦を積んでいく工法でヒッタイト帝国当時の威容が再現されつつある。現場監督らしいトルコ人に、膨大な量の日干し煉瓦の製作工程や壁や塔の工法などを説明してもらう。 次いで遺跡内のサルカレの近くにある、現在進行中の発掘現場を見学。足の不自由なユルゲン氏に代わって夫人のアイシェさんが指揮を取っている。数メートルに及ぶ土砂の堆積の下に、ヒッタイト帝国時代の建物が姿を現わしている。これまで多く見つかった神殿と異なり、規格性の高い建物が整然と並んでいる。建物の間取りや出土遺物などから想像するに兵舎ではないかとのことだが、それは今後の成果を待たねばならない。 以前の調査が神殿や門などモニュメンタルな建築物の発掘・復元に重点を置いていたのに対して、ユルゲン氏の調査は編年や都市機能に重点を置いている。その結果、近年巨大な貯水池や穀物庫(地下に穴を掘って穀物を蓄える)、そして上記の兵舎?や一般住居が発見され、モニュメンタルな神殿・神々の都というボアズキョイのイメージや、紀元前1200年頃に突如として滅亡したというヒッタイト帝国の最期の理解に一石を投じている。 ボアズキョイに隣接する岩窟神殿の遺跡であるヤズルカヤを見学した後、午後1時に出発、東方のシワスに向かう。 ボアズキョイのあるヨズガットとシワスの間は一本道が延々と続き、一部地域を除いて荒涼とした風景である。シワスの手前辺りで右側に川が見えてくる。これが「赤い川」ことクズルウルマックで、河床の土砂が含む鉄分の為に川の水が赤く見えるためにこの名がある。この日も見事に赤かった。川の周囲だけは緑が溢れている。 午後6時、シワスに到着。今年もこの町に来てしまった。買い物と夕食を済ませた後、僕らの調査隊の宿舎のあるバシュオレン村に向かう。シワスからは車で1時間半くらいの行程で、途中から道路は舗装されておらずただの砂利道になる。月明かりと車のライトだけを頼りに細い道を進み(といっても最近石油パイプラインが敷設されたので、その関連施設周辺だけは煌煌としているのだが)、午後10時に宿舎に到着。 宿舎は雪に閉ざされる冬の間は無人だったので封印されており、まずは鍵を開けないことには中に入ることも出来ない。簡単な掃除を済ませ、無事目的地に着いたことを祝って、シワスで仕入れたビールで三人で祝杯を挙げた。この日は明け方まで飲み続けた。こうしてドイツからトルコまでの3000km・6日間の旅は終わった。
2005年08月05日
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(9月7日 記) この日はカマン・カレホユック発掘隊のスケジュールに従って朝5時起床、朝6時に始まる発掘現場に一緒に出る。朝が苦手なCには辛いようだ。 発掘現場の後は宿舎を見学。現在宿舎に隣接して考古学研究所が建設中だが(トルコでの常識を破るスピードと精巧さだ)、まだ内装は未完成とはいえ、なんだか映画「ジュラシック・パーク」に出てくる恐竜を復活させるDNA研究所を連想してしまった。今年9月末には三笠宮殿下(息子のほう)やトルコのエルドアン首相が参列して開所式が行われ、既に裏山に建設された日本庭園とともに日土友好のシンボルとされるそうだ。将来は学会を行う会議場や宿舎、遺跡から出土した遺物を展示する博物館も建設される。 ここの調査の特徴はきわめて学際的なことで、発掘現場だけでなく様々な分野の研究者が宿舎にあってそれぞれの研究を続けている。この日は出土遺物の保存・修復作業、人骨の分析・鑑定、土器の接合、出土した金属器の蛍光X線?による分析、土器焼き窯を建設しての焼成実験などを見学させてもらった。 同行したMやCは宿舎の作業やその組織、建設中の研究所の規模に感嘆していた。トルコでもここまで備えた発掘現場は皆無といっていい。 昼過ぎ、宿舎を辞して一路北方に向かう。次の目的地はヒッタイト帝国(紀元前18~13世紀)の首都ハットゥッシャの遺跡があるボアズキョイである。この日はボアズキョイの村にあるホテルに投宿し、ビールを飲んだりしてのんびり休息して長旅の疲れを癒した。
2005年08月04日
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(9月7日 記) 朝、テレビのニュースでサウジアラビアのファハド国王が死去したことを知る。後継は弟のアブドラ皇太子。サウジの国王は初代のイブン・サウード以降は彼の息子たちが順次継承している。一体何人子供がいるのだろうか。 朝、出発前にエディルネ中心部を散策し、セリミイェ・ジャミィ(モスク)を見物。今回の旅路で初めての観光。このモスクはオスマン帝国の著名な建築家(ミマル)・シナンが最晩年に建設したとされ、16世紀末のもの。日本で言えば織田信長や豊臣秀吉の頃のものだが、その割に新しく見えるのは度々修理が加えられ、今もそれが続いているからだろう。文化財である前に、今も生きている信仰の場所である。 「エディルネ」という名は紀元125年にこの町(ハドリアノポリス)を建設したローマ皇帝ハドリアヌスの名が訛ったもの。当時の遺跡は市内にはほとんど残っていない。ビザンツ(東ローマ)帝国時代の城壁の一部がわずかに残っているが、それは僕らの泊まったホテルの駐車場に面していて、現代の住宅の壁の一部として使われている。1365年にはオスマン帝国の首都とされ、1453年にコンスタンチノープル(現イスタンブル)が陥落するまで、欧亜に拡大し続けるオスマン帝国の都だった。町の人口は決して多くないが、見所は多い。 朝早かったので博物館には入れなかったが、その庭に移築されたドルメン(巨石墓)は見ることが出来た。博物館は小さいが、考古遺物の展示にはヨーロッパとの関連を示す興味深いものが多くある。 この日はひたすらトルコの高速道路を南東に向かって走る。途中イスタンブルでボスポラス海峡を渡り、ヨーロッパからアジアに渡る。橋からはコンスタンチノープル攻略の為に1450年に建設され、ボスポラス海峡を扼していたルメリ・ヒサール(城)を見下ろすことが出来る。 しかしそうしたロマンチックな感慨に浸るどころではなかった。とにかくイスタンブルの交通混雑は凄まじい。ただの渋滞や混雑ならまだいいのだが、トルコ人の運転マナーは最悪で割り込みや無理な追い越しは当たり前である。左側を150kmでかっ飛ばす車がいるかと思えば、右側には黒煙を吐きながら時速40km程度でもがいている過積載のトラックがいる。そうしていると突然僕らの目の前にワゴン車が割り込む・・・・・といった具合である。全く生きた心地がしない。毎年イスタンブルを通過するときは冷や汗が出る。市内交通のほうは見当もつかない。 イスタンブル郊外には次々と住宅街や高層ビルが建設されている。その建物の多くはキッチュ極まりない色で彩色され積み木の家のようだ。実際のところ耐震強度も積み木程度しかないのではないかと思えるくらいだ。もともと荒地の丘みたいだった所で電気や水道はどうやって通すのだろうか。イスタンブルの成長は留まる所を知らず、住宅建設は追いつかないくらいなのかもしれない。 暫く走ると工業地帯が続く。こちらも見るもおぞましい光景で、辺りには異臭が漂っている。1999年の大地震でこの辺りは打撃を受け、被災者のための臨時仮設住宅が並んでいたが、今はそれもほとんど無くなり、代わりにピカピカの高層マンションが建ち並んでいる。これが中進国の勢いというものだろうか。 工業・住宅地帯を過ぎると、荒涼としたアナトリア高原が始まる。緑が点在するだけの黄土色の大地。所々に石灰岩の岩山が見え、また平地の多くは小麦畑かその休耕地である。休耕地には羊や牛が群れをなして悠然と草を食んでいる。うねうねとなだらかな丘が連なり、決して短調ではなくまた地質学的に興味深い景色もあるのだが、やはり退屈してくる。イスタンブル・アンカラ間は高速道路が整備され(険しい山岳地帯のボル近郊は除く)、車で突っ走るには悪くないのだが。 首都アンカラを迂回してその南郊に出て、さらに南東のカマンに向かう。カマン近郊のカマン・カレホユックでは1986年以来日本隊による発掘調査が継続しており、僕らはそこの見学のため、カマン近郊の村にある発掘隊の宿舎に泊めてもらう。この日は12時間走りつづけた。ちなみに運転はMとCが交代で行い、僕はトルコ語の通訳と道先案内だけで、自信が無いので運転はしない。
2005年08月03日
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(手帳に書いた日記を元に9月7日記す) 朝8時、ベオグラードを出発、南下してニシュに向かう。セルビアも高速道路は比較的よく整備されている。ただ気をつけなくてはいけないのは、セルビアではやたらとスピード違反の取締りが多いことで、あちこちでスピードガンを備えたパトカーが待ち伏せている。高級車をぶっ飛ばす、ドイツから里帰りするトルコ人が多く犠牲になっていた。そもそも有料の高速道路を走っているのはドイツのナンバーをつけた車ばかりで、そのほとんどが里帰りのトルコ人である。 セルビアはベオグラードまでは恐ろしく単調な平地だったのだが、ベオグラード以南は山がちになる。あたりの景色はほとんどがトウモロコシ畑で、時々甜菜が混じるくらい。どちらも地力を使うし水も必要なのだが、換金性が高いので小麦よりも好まれているのだろうか。 セルビアとブルガリアの国境地帯は険しい渓谷地帯になる。断崖に面した細い道を大型トラックやバスが延々と走っている。時にはすれ違うのも難しいくらいである。これだけ険しいと道路を新しく作るのも大変だろうし、今までは防衛上の理由でむしろ細い道一本が好ましかったのだろう(マケドニアの帰属を巡って、ユーゴスラヴィアとブルガリアは長年微妙な緊張関係にあった)。 午後3時半頃、ブルガリアに入国。ここも以前は係官のいやらしい荷物検査があったのだが(賄賂を要求することでトルコ人には悪名高かった)、今年は比較的すんなり入国できた。ブルガリア語で「こんにちは」は「ドブリー・デン」という。ロシア語にかなり近いそうだ。 通関を待つ長距離トラックの長蛇の列の中に、F1のトヨタ・チームの作業車らしいトラックが居た。今年初めて開かれるイスタンブル・グランプリのため、ドイツからトルコに向かっているのだろうか(トヨタ・チームの本拠地はケルン)。 ブルガリアでも畑はトウモロコシが多いが、小麦畑の割合が多くなる。また景色に占める緑色の割合がどんどんと減っていき、黄土色の割合が徐々に多くなっていく。畑の中に時々古墳がぽつぽつとあったが、紀元前の騎馬民族トラキア人のものだろう。 ソフィアやプロヴディフといった大都市はスモッグに覆われており、ソフィア郊外の道路沿いでは運転手目当ての娼婦の姿も見かける。そういえばブルガリアの看板広告は妙にお色気系のものが目立った。高速道路はプロヴディフを過ぎたあたりで途切れ、日が暮れる中、田舎道をとろとろと走り続ける。ブルガリア南部ではトルコ人相手のトルコ語看板を多く見かけたが、このあたりにはブルガリア国民の2割近くを占めるというトルコ系住民が多いのだろうか。 午後9時、ようやくトルコ国境に到達。ところがトルコ側の窓口が一つしか開いていないせいか、すさまじい長蛇の列が出来てブルガリア側にまではみ出している。イライラしたトルコ人たちはクラクションを鳴らしたり、列への割り込みをめぐって激しい口論をしている。トルコ側が窓口の係官を増やしたのちようやくトルコに入国できたのは、3時間後の12時頃だった。 この日はトルコ・ブルガリア・ギリシャ三国の国境の町エディルネのホテルに泊まる。この日も蒸し暑くて寝苦しかった。
2005年08月02日
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(手帳に書いた日記を元に9月7日記)(先先月の日付の日記は書けないので7月31日と8月1日をまとめて書く)・7月31日(日曜日) 曇りのち晴れ 朝9時、マールブルクを出発しトルコに向かう。同じ町に住むMが発掘隊の車で迎えにくる。車はベンツのワゴン車で座席は9人分ある。内部は機材や個人の荷物が満載されていて座席の多くは埋もれている。ギアの調子が悪く、また燃料計が故障している(オーストリアでガス欠になりかけた)。 最初は同行するCの実家があるシュヴァルムシュタット(赤頭巾ちゃんの風俗で比較的著名)近郊の村に向かう。案外遠い。 トルコまで同行するMもCも共にドイツ人の男子学生。 Mは博士課程の学生で学生助手をしている。ヘッセン北西部のヴェスターヴァルトの農村部出身で(そのためヘッセン方言がきつく訛りがある)、以前にトルコでの調査に参加したことがあり、また仕事や研究のためバルカン諸国やベラルーシ、イランに行った事もあり、トルコ語は出来ないが海外経験は豊富である。今回は助手という立場のための参加となる。比較的長身で性格は快活、また実家が農家で不器用ながらいろいろなことが出来、いかにも現場向きだと思う。彼は右目は淡いブラウンだが左目はオリーヴグリーンで、まるでヴァン猫(トルコ東部原産の、左右の目の色が違う猫の品種)みたいだ。特技はハーモニカ。 Cは上述のようにシュヴァルムシュタット近郊の出身で、実家は農家だったが今は農作業はしていないという。彼自身はウサギの養殖をしている(言うまでも無く愛玩用ではなく食用)。まだ修士前の学生で、発掘現場での経験もドイツのみでネコ車を押したくらいで、多くない。ただ性格は明るく冗談好きであり、これは異郷での長丁場の現場にあっては大事なことだと思う。特技はギターとトランペットで、地元のバンドに加わって演奏もしている。顔はちょっとだけユアン・マクレガーに似ているかもしれない。 この日は学校が夏休みに入って最初の日曜日ということもあり、アウトバーンは大混雑だった。なんだか知らないがオランダの黄色いナンバーをつけたキャンピングカーがやたらと多い。ドイツ人の車も合わせ、まるでローマを略奪に向かうゲルマン人の大移動みたいだ(実際には現代のゲルマン人はイタリアやギリシャに金を落としに行くのだが)。 バイエルンではホップ畑を見かける。今まであまり気にしていなかったのだが、奇妙な高さ3mくらいの斜めに立てた柱と針金にホップの蔓草を絡ませる。ビールにホップを入れる意味は何なんだろうか。 オーストリアに入ったあたりで雨が降り始める。渋滞のせいで距離が稼げず、スロヴェニアとの国境に達する前に日が暮れてしまい、やむなくアルプス山中のザンクト・ミヒャエルという村のキャンプ状でキャンプ。近くのレストランで地元の鱒に舌鼓を打つ。他の二人はウィーン風カツレツ(シュニッツェル)を食べている。トルコでは豚肉は食べられないから、今のうちに食べておきたいのだろうか。・8月1日 月曜日 晴れ 朝8時、ザンクト・ミヒャエルを出発。9時半にスロヴェニアに入国。スロヴェニアもEU加盟国なので国境審査は無い。両国の間には険しい山があったが、1991年のスロヴェニア独立と共に着工し、2001年に開通した長さ10km以上に及ぶカラヴァンケン・トンネルのおかげで便利になった。 今回は残念ながらスロヴェニアは素通り。美しい首都リュブリャーナやそこの女性たちはお目にかかれなかった。スロヴェニア語で「ようこそ」は「ドブロシュティ」、「こんにちは」は「ドバ(ル)・ダン」で、南スラヴ語に属する。 昼過ぎ、クロアチアに入国、EUから出国(僕には関係無いが)。山国のスロヴェニアに比べて平地が多く、車窓の風景が極端に退屈になる。高速道路の周りには見渡す限りトウモロコシ畑が続いている。スロヴェニアに比べ高速道路の整備状況は悪くない。 午後5時、セルビアに入国。2002年には国境で6時間も待たされたこともあったが、今回は荷物検査もほとんどなくすんなり入国できた。 ベオグラードにはうちの大学に留学していた知り合いがおり、彼らの別宅のあるベオグラード郊外のバノフチという住宅地に向かう。別宅はドナウ河に面しており、目の前を貨物船が行き来し(エミール・クストリッツァ監督の「黒い猫・白い猫」を彷彿とさせる)、対岸は森になっておりなかなかの眺めである。ただそのせいか蒸し暑くまた蚊が多く、寝苦しかった。 バノフチで知り合いのセルビア人らとピザを食べる。物価はドイツの半分くらいと、とても安い。ビールはピヴォ、チーズはケツァルというが、チーズはトルコ語の「カシャル」が訛ったものか。また鶏肉をピリッチ、挽肉料理をチェバブチッチ、スープをチョルバというなど、400年以上のオスマン帝国支配の名残りは主に食物にその名残を残しているようだ。
2005年08月01日
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この日はThucydidesさんと共にマインツに行く。ここからは電車で南へ2時間ばかりの距離、人口18万のライン河に面する都市である(近くでライン河とマイン川が合流しているが、町の名前の由来とマイン川に直接の関連は無い)。昨日遅く(というか今朝)まで起きていたので(それどころか踊ったりしたわけだが)、朝はゆっくり起きて出発したのでマインツに着いたのは午後2時ごろだった。 こんな時間に着いたのでは大して観光も出来ないので、僕らにとって興味のあるローマ・ゲルマン中央博物館だけを見る。ここは中東とヨーロッパの先史時代から初期中世までを概観的に見ることの出来る博物館で、展示物の多くは模造品とはいえ有名な遺物ばかりが並べられている。なぜだか知らないが今年の2月にアメリカのブッシュ大統領が訪独した際に、この博物館を見学している。マインツはローマ時代以来の伝統を誇るドイツ最古級の町で、市内にローマ時代の遺跡も多い。 その後マインツ市内をぶらぶらし、大聖堂を見物。この街はケルン、トリアーと並んでカトリックの大司教座があり、宗教的にも政治的にも大きな影響力を持っていた。大聖堂は大きいのだが、いろいろな時代に建てられた部分部分がごちゃごちゃとくっついていて、歴史的価値はともかく率直に言ってあまり美しくない。この辺りで採れる赤い砂岩で出来ているのが印象的である。そういえばこの街にある宮殿や貴族の旧宅、さっきの博物館、その他の教会、そしてラインラント・プファルツ州議会の議事堂などはすべて赤い砂岩でできている。 マインツは大きい町だが日曜日で買い物が出来るわけでもないので(戦災のためか、古い町の割には町並みは新しい)、適当に町をぶらぶらして夕方帰路に付いた。 Thucydidesさんはうちに泊まるのはこの日が最後だったので、食事を兼ねて飲みに行った。・・・・・・・ 以下マインツの歴史について。 マインツはライン河中流の西岸にある人口19万の都市で、ラインラント・プファルツ州の州都でもある。カトリックの大司教座として宗教的にも重要な都市であり、また派手なカーニヴァルの仮装行列が行われることでも知られている。 マインツには2万5千年前の旧石器時代から人が住んでいたことが確認されており、また紀元前500年頃以降のケルト時代にも集落が存在していた。ライン河とマイン川の合流点のやや下流にあたるその位置は、河川交通上重要だったことと関係するのだろう。ローマ時代にこの町はモゴンティアクムと呼ばれていたが、モゴンというのはケルト人の神モゴンス(ギリシャ・ローマ神話のアポロンに相当)に由来する。 紀元前52年、ローマ帝国のカエサルによって、ケルト人の住むガリア(現在のフランス)は征服された。しかし東に住むゲルマン人はしばしばライン河を越えてガリアを脅かした。カエサルの後継者アウグストゥスはゲルマニア(ドイツ)征討を行ったが、その総大将は彼の義理の息子(妻の連れ子)ドルススだった。ドルススは紀元前13年頃に現在のマインツに軍団(ローマ市民権保持者で構成される正規軍、最大定員6000人)の駐屯地を建設した。これが現在のマインツの起源であり、マインツはドイツ最古の伝統を誇る町の1つである。 ドルススのゲルマニア遠征には最大で4個軍団及び補助軍(原住民や傭兵からなる非ローマ市民の部隊)が参加した。兵士の数にしておよそ二万人といったところだが、これだけの兵士の必需品(武装や食料)を供給するためにライン河の水運が利用され、また兵士を商売相手とする商人が集まって大集落が形成された。ドルススはゲルマニア遠征中の紀元前9年に病死し、マインツには彼を顕彰する高さ20mの墓碑が建てられ、現在のその一部がマインツ南駅(当時の市街地の南端で、街道沿いにあたる)の近くに残っている。 ローマ帝国のゲルマニア征服は紀元後9年のトイトブルクでの大敗で頓挫し、専守防衛に転じた。最前線にあたるマインツには国境防衛のため2個軍団(第14「ゲミニ」、第16「ガリカ」)が駐屯したが、ローマ帝国の国境が前進した90年以降は一個軍団(第22「プリミゲニア」)になった。マインツは上ゲルマニア州の州都とされ、この地域の行政上の中心となった。 当時のマインツはおよそ1kmx1kmの規模を持ち、城壁で囲まれ4つの門を備えていた。マインツからは四方に街道が伸びるとともに、ライン河の渡しを扼し、港もあって実際に当時(4世紀)の船が出土している。市内にはイシス(エジプト起源)やマタル・マグナ(小アジア起源の大地母神)、ミトラ(イラン起源)など国際色豊かな神々の神殿が設けられ、また水道橋で市内に水が供給されていた。市街は城壁を越えて大きく拡大し、その南の外れには劇場も建設された。この劇場は現代の鉄道線路によって切断された格好になっており、その一部をマインツ南駅のホームから見ることができる。市街の郊外の街道沿いは墓地になっており、貴顕紳士から奴隷までの墓碑や火葬墓が並んでいた。 ローマ帝国が不安定になった3世紀後半、国境の長城は放棄されてマインツは再び最前線の町となった。同じ頃、中東起源のキリスト教が帝国内に広まり、マインツにも及んだと思われる。キリスト教公認後の343年には司教マルティヌスの名が伝わっており、既にこの地域のキリスト教信仰の拠点となっていたことが分かっている。 5世紀のローマ帝国弱体化とともにゲルマン人の跋扈が始まり、407年にゲルマン系のヴァンダル族がマインツを攻略し破壊したという。その後5世紀にはフランク王国の版図に収まった。フランク王クローヴィスは496年にキリスト教に改宗し、司教のいたマインツは再びその重要性を取り戻すことになる。 8世紀にはベネディクト修道会によるドイツへの布教が活発化するが、中でもイギリス出身のボニファティウスが有名で、744年にボニファティウスはマインツ司教に就き、北ドイツへの布教に努力して列聖された。ボニファティウスの後任ルルスのとき(780年)、マインツは大司教座に格上げされた。カール大帝は彼の宮廷のひとつをマインツに設け、マインツは政治的にも意義を持つようになった。 10世紀にはマインツは「アウレア・モグンティア」(黄金のマインツ)と呼ばれ、マインツ大司教はローマ教皇のアルプス以北での代理人とされるほどの権威をもった。975年にマインツ大司教の座に就いたヴィリグスは、同時に神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の大宰相でもあり、政俗両面で大きな権力を持った。幼少でドイツ帝位に即位したオットー3世の摂政をも務めている。ヴィリグスはマインツ大聖堂の建設に着手したが、この大聖堂はその後も改築が続けられ、現在はヴィグリス当時のロマネスク様式に後世のゴシック様式を併せ持つ形態になった。 その後もマインツ大司教はドイツ皇帝の選挙権(ドイツ皇帝・ドイツ王は有力諸侯の互選で選ばれる建前)を保持し、俗界での権力を維持した。1096年に第一回十字軍の派遣が決定されると、マインツ市内では熱狂する騎士によってユダヤ人1000人以上が虐殺された。マインツは12世紀初頭の大司教アダルベルト1世のときに都市権を与えられたが、1160年に徴税をめぐって市民が大司教アルノルトを撲殺する事件が起きると、ドイツ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)は都市権を剥奪し都市を囲む城壁を撤去した。 フリードリヒは1184年にマインツに居を移し、またこの地から第三回十字軍に出発している(従軍中の1190年にトルコで溺死した)。フリードリヒの孫フリードリヒ2世はマインツ大聖堂で大司教ジークフリート2世に帝冠を授けられてドイツ王として戴冠し、また1235年にはここで帝国平和令(帝国内諸侯の死闘を禁止)を発令するなど、当時マインツはドイツの中心的な都市であった。 大司教の支配下でマインツの都市整備が進んだ。1236年にフリードリッヒ2世はマインツに再び都市権を授与し、ドイツ皇帝とローマ教皇との対立の中、マインツは1244年には帝国自由都市とされ、名目上はマインツ大司教の支配下にありながら市民が自治権を得た(評議会による自治)。1254年にはライン都市同盟に加わっている。しかし大司教と市民との抗争はその後も続き、また1328年には大司教人事をめぐってローマ教皇と対立し混乱、マインツの権威は下落した。ただし1356年の「金印勅書」では、マインツ大司教はドイツ皇帝の選挙権を保持する7人の選帝侯の一人に定められている。1462年には市民とドイツ皇帝との対立によって帝国自由都市としての権利を剥奪された。 この混乱の15世紀、マインツ市民の一人にヨハンネス・ゲンスフライシュ(その屋号を取った「グーテンベルク」という通称のほうが姓として有名)が居た。1440年頃にストラスブールでブドウ圧搾機を改良して活版印刷を発明し、マインツに戻った彼は暦やラテン語聖書などを印刷し販売した。彼自身は借金のため不遇の晩年を送ったが(1468年没)、その発明は16世紀のマルティン・ルターによる宗教改革運動の底流となり(もっともグーテンベルクはルターが宗教改革を始めるきっかけになる免罪符も印刷していたそうだが)、社会史上の画期として高く評価されている(ただしその技術上の業績については疑問もあるらしい)。 そのルターは1517年10月31日に、マインツ大司教による免罪符の販売に抗議して、宗教改革を始めている。 17世紀初頭には選帝侯たるマインツ大司教や貴族の華麗な宮殿・邸宅や都市を囲む堡塁が建設されたが、三十年戦争のさなかの1631年に新教(プロテスタント)側のスウェーデン軍によって無血占領され、大司教はケルンに逃れている。ただしスウェーデンは市民の新教の自由を認めたため、マインツ市民の多くはカトリックに留まった。1689年にはプファルツ継承戦争のあおりで今度はフランス軍に占領されている。ただしスウェーデンによる占領と同じく、破壊は免れた。 18世紀にもマインツは大司教のお膝元としてバロック様式の華麗な邸宅が次々に建設され、文化・芸術が花開いた。当時の邸宅や教会は、度重なる戦災を乗り越えて修復され、現在も市内各所にその姿を見ることが出来る。当時の人口はおよそ二万人である。 フランス革命後の1792年、フランス革命軍はドイツに逆侵攻し、同年10月にマインツは再び無血占領され、大司教は逃亡した。フランス革命軍はマインツ市民に民主主義を鼓舞し、「マインツ共和国」と呼ばれる民主主義体制が樹立された。しかしプロイセンやオーストリアを中心とするドイツ諸侯軍は翌年マインツを包囲、一月あまりの攻防戦の末フランス軍は降伏し撤退した。1797年にマインツは再度フランス軍の占領下に置かれ、マインツ選帝侯は廃止された。ライン河西岸はフランスに併合され、マインツはモン・トンネル(ドナースベルク)県の県庁所在地とされた。 ナポレオンの没落後(1816年)、マインツはフランスに対するドイツの西の守りとして、市街を囲む要塞が強化されたが、要塞の存在はむしろ市街地の拡大を阻むことになった。1870年の普仏戦争勝利でドイツ国境は西に移動し、マインツは国境の要塞都市としての役割をメッツに譲り、要塞は20世紀初頭までに解体された。人口が10万をこえたのはようやく1908年になってからだった。 なおマインツ名物とされるファストナハト(カーニヴァル)は、市民の権利向上と大司教などの旧権威が後退する中の1838年に始められたもので、案外新しい「伝統」のようだ。 第2次世界大戦では激しい空襲を受け、終戦までに市街の80%が破壊された。戦後はフランス軍の占領下におかれ、新しく創設されたラインラント・プファルツ州の州都とされ、150年ぶりに地方行政の中心都市として復活した。
2005年07月17日
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この日はThucydidesさんと共にマンハイムに赴く。この人口20万の産業都市は有名な大学町ハイデルベルクの近くにあり、ここからは電車で2時間くらいの場所にある。州としてはバーデン・ヴュルテンベルク州に属する。 ハイデルベルクに留学しているasalluhiさん(S君改め)夫妻に落ち合って会うのと、この町のライス・エンゲルホルン美術館で行われている古代エジプトに関する特別展を見に行くのが目的だった。 この美術館は潰れる寸前だったのだが、地元の篤志家の支援を得てからは大規模な特別展をひっきりなしに開催している。去年は日本考古学に関する特別展、今年は既にポンペイに関する特別展が行われており、考古学関係の特別展が多いので重要である。 正午過ぎにマンハイムに到着し、asalluhiさん夫妻に落ちあう。ご飯を食べる適当なところが無かったので美術館付属のカフェで食べ、早速特別展を見る。 この特別展は「ファラオは常に勝つ!」と題して、古代エジプトの戦争と平和に関するものだった。戦争につきものの武器や戦勝碑文のみならず、古代人にとっては戦争の帰趨を左右する決定的な役割を担っていた神々の世界、そしてギリシャやシリアといった他国との交流や外交に関する遺物も展示されている。置いてあるものは悪くないのだがどうもドイツにありがちな「置いてあるだけ」という展示法で、正直言ってあまり面白いとは思えなかった。Thucydidesさんもasalluhiさんも楔形文字が読めるので(ただしヒエログリフは読めない)、粘土板文書は噛り付くように見ていたが、展覧会そのものにはあまり感心したふうではなかった。 この博物館には常設展示もあるのだが、世界の民俗資料、ドイツの自然や先史時代に関するものである。日本の資料として茶室の復元や江戸時代の甲冑や駕籠なんかもある。ミュージアムショップもなかなか充実している。 その後市街をぶらぶらしつつアイスコーヒーなどを飲み、マンハイム市のシンボルである高さ60mの給水塔(1889年)だけを見て駅に向かい(もう1つのシンボルである選帝侯の宮殿は改修工事中だった)、三人はハイデルベルクに、僕は家に戻った。・・・・・・・・・・ マンハイムはこの前日に訪れたトリアーがローマ時代以来の由緒をもつ都市であるのとは対照的に、都市になったのは17世紀と非常に新しい町である。現在はむしろバーデン・ヴュルテンベルク州第2の産業都市として栄えており、人口の2割は外国人(トルコ人など)である。 マンハイムを特徴付けているのは、京都のように碁盤の目のように巡らされた街路である。こうした街路はドイツではきわめて珍しい。ドイツの普通の町では番地は玄関が面する通りの名前で表わされるが(「大学通り11番」など)、ここではアルファベットと数字の組み合わせによる番地名(「B8」といった具合)で表示されている。 この前日訪れたトリアーも、ローマ時代にはこうした街路をもっていたが、中世には迷路のような街路システムになっていた。マンハイムのそれはローマ時代のものではなく、ギリシャ・ローマなどの古典文化が見なおされたイタリアのルネサンス期に起源を持っている。 16世紀のイタリアではフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ、ヴィンチェンツォ・スカモッツィなどによって、ローマ式の街路と幾何学的な外形をもつ数多くの「理想都市」が設計されたが、実際に建設されたのはパルマノヴァ(1593年)などごく僅かだった。実際の地形にそぐわないので建設に手間がかかったり不便だったりすることが多いからである。しかしこうした都市設計思想はフランスやドイツにも影響を与え、なかでもフランスのルイ14世の治世下に軍略家セバスティアン・ル・プレートル・ド・ヴォーヴァンがフランス国境に建設した要塞都市ノイ・ブライザッハ(1698年、現在はドイツ領内)などはその典型だろう。 マンハイムは「マンネンハイム」として766年のロルシュ修道院の文書に初見されるが、ライン河沿いにある人口500人程度の小さな漁村に過ぎなかった。1284年にマンハイムの辺りはプファルツ選帝侯(ドイツ皇帝の選挙権をもつ諸侯の称号)ヴィッテルスバッハ家(バイエルン王家と同族)の領内に組み入れられる。 1606年、プファルツ選帝侯フリードリッヒ4世はマンハイムにイタリア・ルネサンス式の要塞都市を建設することにした。直径およそ1.5kmのほぼ円形で、周囲は城壁ではなく、当時めざましかった大砲の発達に合わせて稜堡で囲まれていた。翌年都市特権が与えられ、人口はおよそ1200人だった。 この要塞都市はまもなく勃発した三十年戦争のさなかの1622年にカトリック(オーストリア・ハプスブルク家)側の将軍ティリーによって占領されのちに破壊されたが、再建され1652年に再び都市特権を与えられている。しかし1689年にはプファルツ継承戦争で再びフランス軍に占領され破壊されている。1692年に再建されるが今度は1697年の大火で焼失し、選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムは1698年に退避した住民などを強制的に移住させてマンハイムを再建し、町の北部に隣接していた要塞部分を撤去して市域を拡大した。当時の人口は3000人くらいだった。 1720年、選帝侯カール・フィリップは宮廷をハイデルベルクからマンハイムに遷し、40年かけて宮殿を建設した。マンハイムはプファルツ選帝侯のお膝元として華麗な広場や教会が次々と建設され黄金時代を迎え、人口は25000人にまで増加した。しかし1778年に選帝侯カール・テオドールが同族のバイエルン領を継承するためにミュンヘンに居を移すとその繁栄に翳りが見え始め、1795年からはフランス革命後の戦争によってフランス革命軍に占領され、ついでオーストリア軍に奪還されるなど戦火に見まわれている。要塞として使用できないように1798年からは周囲の稜堡の撤去が始められて1821年には完了し、マンハイムは要塞都市としての機能を失った。稜堡は撤去されたが、碁盤の目状の街路は残り、マンハイムは円形の外形をもつようになった。 フランス革命とフランスによる占領の影響でドイツ人の民族意識が刺激される。1817年にはマンハイムでブルシェンシャフト(学生団)の一人が劇作家アウグスト・フォン・コッツェブーを刺殺したが、それは彼がドイツ人の愛国運動を揶揄したという理由からだった。オーストリアの宰相メッテルニヒはこれを機会にブルシェンシャフトの弾圧に乗り出したが、対抗してカールスバードの決議がなされ、ブルシェンシャフトがドイツの民族主義運動と統一運動の中心となっていく。 1828年にはライン河沿いに港が建設され、マンハイムはライン河の水運を担う産業都市としての役割を持つようになった。1840年にはハイデルベルクとの間で鉄道が開通、人口は再び2万を越えて第2の黄金時代を迎える。1865年にはフリードリッヒ・エンゲルホルンがBASF社を設立し、こんにち化学産業では世界最大の企業に成長している。1886年7月にはカール・ベンツがその試作車を走らせ、ドイツを代表する産業である自動車産業の誕生の瞬間でもあった。なお自転車の起源も、1817年にマンハイムでカール・フォン・ドライスが走らせたものであるという。産業都市として栄えたマンハイムの人口は20世紀に入ると10万を越えた。第2次世界大戦では産業都市であるため甚大な戦災を蒙っている。 マンハイムというと、ドイツで人気の歌手グループSöhne Mannheimsというのがあるが(中心メンバーのXavier Naidooはソロ活動もしているが、これなんて読むのだろうか?)、その名のとおりマンハイムの出身である。
2005年07月10日
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この日はまずまずの天気の中、レンタカーを借りてK君の運転でThucydidesさんと共に三人で西方に向かう。 さしあたっての目的地はルクセンブルクとの国境に近い人口10万の町、トリアー(Trier、日本語表記ではトリーアと書かれることもあって一定しない)である。ここからは車(高速道路)でおよそ2時間半のところにある。・・・・・・・・・ トリアーはモーゼル川沿いの谷間に作られた都市だが、中世の伝説ではアッシリア王ニヌアの王子トレベタによって築かれたということになっていたらしい。アッシリアというと今のイラクだから考えられない話で、この都市の歴史の古さを強調するために聖書を引用して成立した説話である。 実際にはここには新石器時代(帯紋土器時代)から集落があり、モーゼル川の水運を利用できる立地条件の良さから連綿と続いていた。この辺りにはケルト人の一派トレヴェリ族がおり、ユリウス・カエサル(紀元前1世紀)の「ガリア戦記」にも登場する。カエサルによってこの地を含むライン河西岸までがローマ帝国に征服された。 カエサルを継いでローマ皇帝となったアウグストゥスはローマ軍の臨時兵営のあったこの地に都市を建設し(紀元前17年頃)、コロニア・アウグスタ・トレヴェロルムと名づけた。言うまでも無く「コロニア」はローマ市民権保持者(主に退役兵士)が入植した都市、アウグスタは彼の名前、トレヴェロルムは先住民トレヴェリ族にちなむ地名である。ガリア(フランス)とライン河地方を結ぶモーゼル渓谷を南北に走る街道を扼し、またモーゼル川の水運を確保するための都市建設だった。 上の伝説を抜きにしても、トリアーはドイツ国内で存続する最古の都市ということになる。 ローマ時代のトリアーは南北2km、東西1.5kmを計り(285ha)、周囲は城壁で囲まれ市内には碁盤の目状に整然と街路が走っていた。都市への入り口である城門は南北に二つあり、そのうちの1つであるポルタ・ニグラ(「黒門」)は現在も残っている。また市内にはカイザー・テルメン(浴場)、バルバラ・テルメン、現在のフィーマルクトにあったテルメンなど大規模な浴場が建設され(ローマ人は無類の風呂好きだった)、その遺跡もよく残っている。都市の東端には直径200m、2万5千人収容のアンフィテアター(円形闘技場)も作られ、市民に剣闘士(グラディエイター)による血みどろの格闘という娯楽を提供した。市民にパンを提供するための穀倉もあった。またモーゼル川には頑丈な橋が掛けられ、これも橋脚の部分は現在も残っている。当時の人口は7万を数えたといい、アルプス以北では最大の都市だった。 しかしローマ帝国が不安定になった3世紀末の275年にゲルマン系のアレマン族によって破壊された。アレマン族が撃退されたのちの293年から395年までは、ディオクレティアヌス帝によって4分割されたローマ帝国の西方正帝の居城、つまりは首都とされた。なかでも312年に西方正帝に即位したコンスタンティヌス1世が有名だが、彼はトリアーに宮殿を築いた(バシリカ)。コンスタンティヌスは分裂したローマ帝国を再統一して首都をコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)に遷し、またキリスト教を公認したことで知られる。しかしローマ帝国の衰亡は覆うべくも無く、5世紀にはこの地はゲルマン系のフランク族の手に落ちた。都市生活になじまないゲルマン人は市中に住まず郊外に住んだため(タキトゥスやアミアヌス・マルケリヌスの記述によれば、彼らは都市を嫌ったという)、トリアーは荒れ果てた。 しかし他のローマ都市とは異なり、トリアーには存続する要素があった。キリスト教の司教座の存在である(ケルン、マインツも同じ理由で存続した)。コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した直後の314年にその存在が言及されるが、キリスト教はもっと前からこの地に広まっていたらしい。フランク王国のカール大帝(9世紀初頭)のもとトリアーは大司教座に昇格し、ヴァイキングの襲撃(882年)などにもかかわらず、司教の座する大聖堂とそれに隣接する市場を中心として、直径200m程度の小規模な集落として存続した。いわば門前町である。中心にはロマネスク様式の大聖堂が建てられ、また11世紀には隠者聖シメオンを記念してローマ時代の城門の遺跡であるポルタ・ニグラの上部に教会建築が付け加えられている。 13世紀に入ると中世都市として復活を遂げ、大司教テオドリッヒ1世やアルノルト2世のもとで都市を囲む城壁が築かれ、市域は東西・南北1kmに拡大した。それでもローマ時代に比べると半分程度の大きさで、人口も1万人程度だったようだ(ただしヨーロッパの中世都市としては大きい部類に入る)。街路は碁盤の目のようなローマ式のそれではなく、地形の起伏にあわせた雑然としたものとなった。市内には放置されたローマ時代の廃墟が残っていたが、そのうちカイザー・テルメンやポルタ・ニグラは城壁の一部として、また宮殿跡であるバシリカや穀倉は教会堂や修道院として再利用された。トリアー大司教は俗界での政治的影響力も大きく、選帝侯(神聖ローマ皇帝=ドイツ皇帝を選出する選挙権をもつ諸侯)にもなっている。 17世紀に大司教はコブレンツに移り、30年戦争でスペイン軍やフランス軍に占領されたりもしたが、ローマ遺跡であるバシリカを利用してバロック様式の大司教(選帝侯)の宮殿が建設されている。フランス皇帝ナポレオンによる占領ののち、1814年にこの地域はプロイセン領となった。また第2次世界大戦末期の1944年12月には激しい空襲も受けている。ちなみに「資本論」のカール・マルクスは1818年5月5日にこの町で生を受け、その生家も博物館として公開されている。・・・・・・・・・ 僕らはローマ遺跡を中心に見て周った。駐車場に車を置いて、最初はフィーマルクト、ついでポルタ・ニグラに行く。ポルタ・ニグラの脇には市の歴史博物館があるのだが、改修工事で閉館中だった。またポルタ・ニグラもどういうわけか閉鎖中で、登ることが出来なかった(何年か前に来たときは登れたのだが)。これは予想していなかった。ポルタ・ニグラは中世に教会として再利用され上部に塔などが立っていたのだが、近代になって撤去され今はローマ時代に近い姿に戻されている。 旧市街の街中ではオープン・カフェや大道芸人、屋台がたくさん出ていた。屋台の中にはこの地方の名物であるモーゼル・ワインの試飲もある。またこの町は玩具、特に鉄道模型でも有名なのだそうだ。 この日はデモ行進があるらしく、ものすごい数の警官や機動隊が街中を移動し、また警察のヘリコプターが上空を旋回している。このものものしさからしてネオナチの行進かもしれない(ネオナチの行進には反対派の左翼系過激派が妨害のために集合して両者の暴力的衝突になること多いので、警戒がものものしくなる)。 アイスコーヒー(日本で言うコーヒーフラッペ)を飲んだ後、大聖堂に移動。ちょうど礼拝の時間になったので外に出る。この大聖堂に隣接して聖母教会というのがあるのだが、大聖堂はロマネスク様式であるのに対して後者はゴシック様式で、その対照が鮮やかである。その後さらに移動してバシリカを見る。バシリカは大司教の宮殿の一部として利用され、ローマ時代の遺跡は壁だけなのだが、戦災を機に天井などがローマ時代の姿に復元されている。 その後中世の城壁を見つつ州立博物館に行くが、これも展示準備のため閉館中。なんだか当てが外れまくっている。カイザー・テルメンを見た後、少し歩いて円形闘技場を見てトリアー市内見学を終えた。・・・・・・・・ 帰路は高速道路ではなくモーゼル川渓谷ぞいの一般道を走る。モーゼル川は激しく蛇行しているのでカーブの多い道でなかなか距離が稼げない。しかし景観は最高である。比較的険しい渓谷の両岸はブドウ畑になっており、川沿いに連なる集落には多くのワイン醸造所があり自家製ワインを販売し、試飲もさせてくれる。そして渓谷の両側に聳え立つ山頂にはしばしば古城があり、すばらしい自然景観に点睛を加えている。川には遊覧船や輸送船が盛んに行き来しているが、船の多くはベルギーやオランダからライン河を遡って来た輸送船だった。ローマ、いやケルト人の時代以来の水運は衰えていないようだ。 そういえばトリアーも含めこの辺りは隣国ルクセンブルクからの観光客が非常に多い。ルクセンブルクよりもドイツのほうが物価が安いのだろうか。ルクセンブルクの公用語はフランス語だが、もともとドイツ語圏の一部でオランダ語ともドイツ語ともつかないルクセンブルク語を話す(広義のドイツ語の一方言)。会話やラジオを聞いたが、訛りが激しくてほとんど理解できなかった。ルクセンブルクは翌日EU憲法批准の是非を問う国民投票を控えていたのだが(結局57%の賛成で可決)、ドイツくんだりに遊びに来ていていいのだろうか(笑)。 このモーゼル渓谷にもローマ時代の遺跡が点在する。車で無いと行けないような場所にあるのだが、僕らはそのうちメーリングMehringにあるヴィラ・ルスティカの遺跡と、ネーレンNehrenにあるローマ時代の墓(復元)を寄り道して見に行った。 ヴィラ・ルスティカというのはローマ時代の農場兼邸宅で、多くの使用人や奴隷を使った大規模な農園経営が行われていた。そういえばこの地域にブドウ栽培をもたらしたのは他ならぬローマ人で(ブドウの原産地は中近東)、現在のモーゼル・ワインの起源はローマ時代に遡る。墓のほうは内部に壁画が描かれた家形の石室墓で(4世紀頃のものか)、山の斜面にあって渓谷を見下ろす場所にある。おそらくこうしたヴィラ・ルスティカの所有者(貴族・富裕層)のもので、自分の農園を見下ろす場所で永遠の眠りについていたのだろう。 夏ゆえに遅い夕暮れの中、魅力的な古城などをしり目にモーゼル渓谷を走破して、家に戻ったのは夜中だったが、歴史も絶景も満載の実に素晴らしい日帰り旅行だった。K君に感謝したい。モーゼル渓谷は出来れば車を使ってゆっくり回ることをお勧めするし(ただ飲酒運転は厳禁だが)、僕もいずれそうしたい。
2005年07月09日
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今日は朝一番でシャルロッテンブルクに向かう。ここにはシャルロッテンブルク宮殿(王妃の離宮)があり、その一角には先史・原史博物館がある。主にヨーロッパの先史から初期中世までの考古遺物をコンパクトに展示している。前に来たのは1999年だったが、その直後から展示が大規模に変更されて見やすくなった(その分展示物は減った)。ヨーロッパだけでなく、中近東(キプロス、トロイ)の遺物も展示されている。トロイでシュリーマンが発掘してベルリンにあった「プリアモスの遺宝」の実物は第2次世界大戦終結直後にソ連軍が押収して現在はモスクワにあるが、ここにはそのレプリカが展示されている。 この地区には今年3月までエジプト美術館があったのだが、改装工事のため閉鎖されている。このエジプト博物館の目玉は古代エジプトの王妃ネフェルティティ(紀元前14世紀、アケナテン王妃)の胸像だったのだが、現在はポツダム広場の近くにあるKulturforumでの特別展で展示されているというので、急遽そちらに向かった。この特別展は古代エジプトというより、その近代美術(アルブレヒト・デューラーやパウル・クレーなど)への影響に関するものだったのだが、ネフェルティティ像には無事ご対面できた。 その後クーダム(ツォー駅周辺)に移動して買い物などをしたあと、ベルリンを発ち、4時間後にマールブルクに戻った。重要な資料も多く見れたし、本もたくさん買えた、収穫の多いベルリン旅行だった。 この三日間はにわか雨が降ることが多く、天気に恵まれず、随分と涼しかった。
2005年07月08日
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この日は朝一番で、博物館島にあるペルガモン博物館に行く。この博物館は古代中東、古典(ギリシャ・ローマ)、イスラムの三部門からなり、特に古代中近東に関してはロンドンの大英博物館、パリのルーヴル美術館に次ぐ規模を持っている。僕らにとってベルリン旅行の目玉である。 この博物館で圧巻なのはなんといっても古代建築をそのまま運んできた展示で、ペルガモン(トルコ)にあったゼウス神殿の大祭壇(紀元前2世紀)、ミレトス(トルコ)の市場門(紀元後2世紀?)、バビロン(イラク)にあったイシュタル門(紀元前6世紀)などがある。ここは何度来ても飽きない。 昼食後、今度は隣接する「旧博物館」に移動。ここは1999年からペルガモン博物館の古典美術部門の一部として復活した。 主に古代ギリシャの壷や彫刻などを展示している。どういう関連か知らないがフェッタースフェルデ(ポーランド)で見つかった、遊牧騎馬民族スキタイの黄金遺宝(紀元前6世紀?)も展示していた。ここもペルガモン博物館も、建物の外壁には第2次世界大戦末期の地上戦(1945年4月)の弾痕が生々しく残っている。 その後はツォー駅周辺に移動してぶらぶらした後、建設中の中央駅(Sバーンの駅はある)で降りて、徒歩で首相府、連邦議会などの傍を通る。もっとも、首相府の主(シュレーダー首相)は今はサミットでスコットランドに行っているので不在である。 ブランデンブルク門の傍を通った後、その南隣にあるホロコースト記念碑を見る。これは今年5月に公開されたばかりで、ユダヤ人犠牲者にのみ捧げられたことや、そのデザインなどで論議を呼んだものである。ユダヤ系アメリカ人のピーター・アイゼンマン氏のデザインによる2711のコンクリート製の四角い柱?が並んでいる。文字は一切無いが、地下にホロコーストに関する展示が行われている。 その後さらに中央街に向かって歩いていく。そこで偶然北朝鮮大使館の前を通りかかった(ドイツと北朝鮮は国交がある)。疲れたのでスターバックスに入って休んでいると、ロンドンで同時多発テロが起きて33人が死んだというニュースを耳にした。ロンドンはつい先日行ったばかりなので他人事とは思えない。 夕食はアレクサンダー・プラッツ駅近くの飲み屋(クナイぺ)で食べる。ソーセージ、ザウアークラウト(キャベツの酢漬け)、ふかしジャガイモの「ドイツ黄金三点セット」を食べる。ビールが安くていい店だった。 ベルリンには中華・タイ・寿司などアジア食レストランが多いのが目についた。 その後ホテルに戻ったが、テレビのニュースはロンドンでのテロ事件一色である。タヴィストック・スクエアはロンドン大学の近くで、僕は先日歩いたばかりじゃないか。ベルリンでも地下鉄の警備を強化するらしい。 うちにテレビが無いので、物珍しさからずっとテレビを見ていると、ドイツのテレビはやたらと「警察実録」のドキュメント番組が多いことに気がついた。なんだかんだ言ってドイツ人は警官など制服を着た人が好きなんだろうか(学校に制服は無い。念の為)。
2005年07月07日
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急なことだがThucydidesさんとベルリンに行くことにした。もともとベルリンは彼の訪問希望先だったので、早いうちに行っておこうということで行った。 ここからベルリンまで新幹線(ICE)を使っておよそ4時間くらいだった。新幹線に乗るのは昨年家族がドイツに来て以来1年ぶり。 ホテルは事前に調べて予約していたのだが、一泊14.5ユーロ(ただし朝食抜き、二人部屋で一人につき料金)という格安価格なのでかなり怪しげなホテルではないかと思っていた。実際立地はベルリンの中心からかなり外れたシェーネフェルト空港に近い場所にあり(東駅から鉄道で20分)、周りも侘しい感じがする場所だった。ホテルの建物もかなりボロっくて心配したのだが、室内を見ると意外に清潔そうで安心した。しかもテレビもシャワーもある。とりあえずホテルは正解だった。 荷物を置いて、イスラエルに留学しているThucydidesさんにちなんで、最初はクロイツベルクにあるベルリン・ユダヤ博物館に行く。この博物館はイスラエルがらみということで入り口での荷物チェックがかなり厳しい。客の中にはアメリカのユダヤ人と思しき人も居た。 ここではドイツにおけるユダヤ人の歴史を展示しており、2001年に開館したばかりの新しい博物館である。展示自体は散漫な感じがして正直言ってあまり感心しなかったが、銀色の外観の現代建築のほうは評価が高いらしい(僕はほとんど興味が無い)。ユダヤ人の苦難の歴史に興味がある人よりも、むしろ現代建築に興味がある人のほうにお勧めかもしれない。僕としては中世のユダヤ人に関する展示とホロコーストに関する展示が少なかったので不満だった(ホロコーストに関してはよそで嫌というほど見られるのだろうけど)。 館内は学習のためクラス単位で訪れた中高生で一杯で、連中がやかましいのでかなり居心地が悪い。 その後チェックポイント・チャーリー(ソ連軍とアメリカ軍のベルリン占領区域間の検問所跡)を見て、カフェで休みつつぶらぶら中心街を歩き、ベルリンの目抜き通りであるウンター・デン・リンデンに出る。ブランデンブルク門まで行って引き返し、この日はホテルに戻った。この日はよく歩いたので早めに寝る。 ホテルの部屋でテレビのニュースを見ていると、2012年オリンピックの開催地がロンドンに決まったと報じていた。
2005年07月06日
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今日は所用があってボッフムに行く事にした。ルール地方にあるかつての工業都市・ボッフムに行くのはこの半年で3回目になる。天気は快晴で外出にはうってつけの日だった。 その後ケルンに行って日帰りで戻ってきたのだが、今日は都合8時間電車に乗っていたことになる。ギーセンとルール地方との間にはヴェスターヴァルト、ジーガーラント、ザウアーラントなどと呼ばれる丘陵地帯があって大都市が無いので、特急列車が走っていないためどうしても時間がかかる。そうでなくとも僕は「週末チケット」(日本の青春18切符のようなもので、特急や新幹線に乗れない、5人まで共有できる一日乗り放題券)で行ったので時間がかかったのは仕方ないのだが。 駅で売られている新聞を見ると、全国紙には揃って一面トップにアジア・アフリカ会議で演説する小泉首相の顔写真が大きく掲載されている。昨日日本の過去の侵略について反省とお詫びを表明したことがこうも大きく扱われるとは、正直思わなかった。中国や韓国に対する効果の程はともかく、世界に向けての宣伝としては絶妙なタイミングだったのかもしれない(もっとも見出しには「中国は満足せず」とも書かれていたが)。 朝8時過ぎに列車に乗り、ギーセンで電車を乗り換え、さらにジーゲンで乗り換えてボッフムに向かう。この列車には黄色と黒のシャツを着たBVB(サッカー・ブンデスリーガのボルシア・ドルトムント)のファンが大勢乗りこんできて列車の中で大騒ぎしていた。連中はハーゲンで降りて行ったが、連中の残したビール瓶を乗りこんできた貧しそうなアラブ人数人組がすかさず拾い集めている(ビール瓶やペットボトルはデポジット制なので換金できる)。今度は入れ替わりに全身黒尽くめの衣装やパンファッションの若者が大勢乗りこんできた。「ナチス反対」という旗を持ったりワッペンをつけている者が居たが、一体何なんだ。 出発から4時間でボッフムに着く。ここの用事はすぐに済んだ。せっかくこの地方に来たのでケルンに行くことにする。僕はドイツに留学してウン年になるが、人口およそ100万、ドイツ第四の都市であるケルンに恥ずかしながらまだ来た事が無かったのである。 ボッフムからケルンまでは急行電車でおよそ1時間。途中デュッセルドルフまではものすごく混んだが、その後はガラガラになった。ケルンに近づくと列車は速度を落とし、ライン河にかかる長い橋をゆっくりと渡った。 橋を渡りきるとそこはケルン中央駅で、ドイツ最大のケルン大聖堂は駅の目の前にあるのでもう車窓から間近に見える。竣工まで600年かかったというこの大聖堂はあまりに有名でケルン随一の観光名所だが、大きさの割に二本の塔が低く随分バランスが悪く(ドイツでもっとも高いのはウルム大聖堂の塔)、ありていに言えばいささか不恰好の感はある。まあ圧倒される大きさであることには違いないのだが。 駅を降りて外に出ると、大聖堂の周りの広場はすごい人出である。スケボーするガキんちょも多い。あと中国人観光客が目立った。ドイツはヨーロッパではいち早く中国人に観光ビザを出すようになったので、今や日本人よりも目立つようになった。 ケルンは英語やフランス語で「コローニュ」というが、「ケルン」にしろ「コローニュ」にしろ、ケルンのローマ時代の名前である「コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシウム」の最初の「コロニア」が訛ったものである。香水の「オー・デ・コロン」が「ケルン水」という意味があるのは比較的知られていると思う。19世紀初頭、ナポレオンに従軍したフランスの兵士が故郷の妻への土産にケルンの香水を持ちかえってその名が広まったということになっているが(当時ドイツはフランスに占領されていた)、そもそも18世紀の初めにあるイタリア商人が「ケルン水」という商標で売り出したのが最初だそうだ。 さて「コロニア」である。「コロニア」はローマ帝国内の属州の中に数ある都市の中でも、ローマ市民権を持つものが入植した都市のみに皇帝が名づける由緒ある都市の称号である。紀元前1世紀、ローマ帝国に友好的だったゲルマン人のウビー族がライン河を渡って移住し(ライン河西岸は本来ケルト人の土地だった)、集落を営んだのがケルンの起源である。紀元後50年、時のローマ皇帝クラウディウス帝はこの集落に防壁を設け、退役軍人を入植させ、妻のアグリッピナの名を冠して上記の名前をつけた。ケルンはマインツ(モゴンティアクム)やレーゲンスブルク(カストラ・レギーナ)と並んでドイツでもっとも長い伝統をもつ都市といっていい。そのため市内各所からはローマ時代の遺跡が発見される。現在ケルン市の地下鉄新線(南北線)が建設中だが、緊急発掘調査が行われているようだ(同じように長い伝統を持つ京都に地下鉄を作ったときも、至る所に遺跡が出てきて大変だったらしい)。 ローマ時代のケルンは2世紀の最盛期には人口三万を数えたが、4世紀にはゲルマン系のフランク族の侵入を受け、ローマ帝国が滅亡するとフランク王国の支配下に入った。この時代多くのローマ都市は廃棄されたが、キリスト教司教座のあったケルンはその命脈を保ち、カール大帝の時代(800年頃)には大司教座が置かれて中世都市としての地位を確立した。13世紀には大司教が追われて有力市民の自治が確立され帝国自由都市となり、推計人口4万を数えドイツ最大の都市に成長した。この都市のシンボルである大聖堂の建設が始まったのもこの時期である。近代以降はライン河の水運を生かした産業都市として発達し、そのために第2次世界大戦でひどい戦災にもあったが、ドイツ第四の都市としての地位を保っている。(ケルンの歴史については、今回の一時帰国の際に購入した魚住昌良・著「ドイツの古都と古城」山川出版社を参照した。読みやすいだけでなくあまたある類本の中では学問的に最もしっかりしていると思う。お勧めです) さてもうあまり時間が無かったので、僕は大聖堂の脇にあるローマ・ゲルマン博物館だけを見た。この博物館はケルンで出土したローマ時代の遺物を中心に展示しているが、その数たるやものすごい。またモザイク床画や石碑(墓碑や記念碑)など、圧倒される建造物も展示している。考古学や歴史が好きな人は大聖堂よりもこちらをお勧めしたい。僕個人としては、どういう脈絡か知らないがこの博物館に所蔵されている、ケルチ(南ロシア)で発見された騎馬民族の装身具(5世紀頃)を見ることが出来たのが収穫だった。 今は「ノルトライン・ヴェストファーレン州の埋蔵文化財保護」という特別展が行われており、ケルンを中心に緊急発掘で見つかった、恐竜の化石から第2次世界大戦の捕虜収容所跡までに及ぶさまざまな時代の遺物がコンパクトに展示されている(8月まで)。博物館の売店や近くの本屋で本を随分買ったのでカバンが重くなった(博物館のガイドやカタログのほか、「ローマ時代の技術」「バイエルンの原史時代」)。また来なくては。 列車に乗って家路につく。帰ってきたのは10時前だった。帰ってきたらそのまま飲み会に参加する手はずだったのだが、飲み会の主役であるイラク人(この春新しく来た留学生)の都合が悪いというのでお流れになった。今日は珍しく電車の乗り継ぎなどが予定通りにことが運んだのだが、最後に外したようだ。(追記) 「クライン孝子の日記」を見ると、今日の午後デュッセルドルフの日本総領事館の前で中国人留学生数百人が反日デモをした、とある。ついにドイツにまで飛び火か??僕の住む地域を管轄するフランクフルト総領事館(オイローパ・センター)のほうには行われるのだろうか。あのビルには日本関係の団体や企業が多く入っているからなあ。 第三国のドイツでやるというのは、「歴史を直視し反省する国」の同情を引こうというつもりなのだろうか。やれやれ。
2005年04月23日
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毎年春、香川県琴平町にある金丸座(国指定重要文化財)では「金毘羅大芝居」と銘打って歌舞伎の興行が行われている。この金丸座は現存する日本最古の歌舞伎劇場で、昭和60年に修理が完了した。今年は中村吉右衛門、市川染五郎などの人気役者が「彦山権現誓助太刀」「釣女」などを演じている。 関東に住む僕の従姉妹は吉右衛門の大ファンで去年もこの興行を見に来たのだが、今年も観劇のためうちに泊まりに来た。その母である僕の伯母、そして母も一緒に今年も観劇のため日帰りで琴平に行くことになった。ところがうちの母は足がやや弱いので、一時帰国中で暇のある僕が急遽母の付き添いでついて行くことになった。人気のチケットは入手が困難で当日券などは無く、僕は三人が観劇している間は暇つぶしをすることになった。結果から言えば母は全く問題が無く、金刀比羅宮の長い石段でこけたのは僕だったのだが。 岡山から瀬戸大橋線に乗り(高知行きの特急「南風」号)、香川へ向かう。瀬戸大橋は何度か渡ったが鉄道で渡るのは初めてだった。瀬戸大橋は二階構造で上が車道、下が鉄道になっている。見晴しは車道程よくなかった。瀬戸大橋を渡りきるまで7分くらいかかったと思う。橋の上ではやや速度を落として運転するのはサービスなのだろうか。 岡山から一時間程で琴平駅に到着。大正時代に建てられた北欧風?の小さな駅である。この町は金比羅宮の門前町として発達しただけに駅前から「こんぴらさん」一色である。ちなみにここは四国で最初の鉄道が走った地でもあるが(丸亀~琴平間)、日本の鉄道、特に私鉄というのはかつて庶民の最大のレジャーだった寺社の巡礼路に沿って発達した。琴平もそうだが、京浜急行(川崎大師)、近鉄(奈良)、南海(高野山)、東武(日光東照宮)、西鉄(太宰府)などといった具合である。 駅から歩いて金刀比羅宮門前町に向かう。平日午前だったためか門前町は意外な程閑散としている。店は名物のさぬきうどんや饅頭、木彫などの土産物を売っている。どこも似たりよったりの印象である。店員も客も年配の人が多い。土産物店に混じって旅館もある。僕らはさっそく名物のさぬきうどんを食べた。この地の名物は生(き)醤油うどんで、具として天かす、大根おろし、ねぎ、すり胡麻をたくさん載せて醤油をかけただけの素朴なもの。作りたての美味しいうどんでないと出来ない食べ物である。 そして長い石段を登って金刀比羅宮に向かう。石段は本宮まで785段あり(明治以前の本宮だった奥宮までだと1368段)、場所によっては傾斜もきつくお年寄りにはちょっときついかもしれない。そのための駕篭屋もいるが往復5000円も取られる。 僕らは参道の桜が散る中をゆっくり登って行き、象頭山の中腹にある本宮まで無事に辿り着いた。そこからは讃岐西部の平野が見渡せる。 「こんぴらさん」として親しまれる金刀比羅宮の信仰が始まったのは15世紀のことという。政治的には不安定な室町幕府、戦乱続きのイメージがある当時は、瀬戸内海の海運が劇的に活発化し、貨幣経済が勃興した時代だった。瀬戸内を航行する時、讃岐平野に聳える讃岐富士とこんぴらさんが立つ象頭山は海からもよい目印になったはずだ。羅針盤や正確な海図のなかった当時、沖合いから見える山は航海のための重要な目印だった。 ♪ こんぴら船船 追い手に帆掛けて シュラシュシュシュ~ そのためこんぴらさんは船主や漁師と行った海に関係する業者の崇拝を集めた(ちなみにうちの祖先も海運に関わっていたらしいのだが)。象頭山は当初「カピラ山」と呼ばれており(仏教説話に出て来る地名だろうか?)、それに漢字をあてた音読みが訛って「こんぴら(金刀比羅)→ことひら(琴平)」となったらしい。元亀の頃(16世紀後半)には社領も与えられ(この地を支配していた三好氏、香西氏によるものか?)、江戸時代も宮司が支配していた。地元の大名である京極氏や松平氏(水戸黄門・徳川光圀の兄を藩祖とする)の寄進した灯籠も残る。また江戸時代後半には西日本各地の海運業者などが競って寄進をしている。明治時代に神仏分離が行われ、祭神は大物主(大国主)命に加え、保元の乱による配流先のこの地で亡くなった崇徳上皇が加えられた。 歌舞伎興行の行われている金丸座は門前町の脇にある。この建物は1835年に建てられたもので、古式の舞台装置などがよく残る。 客の多くは女性、しかも年配の人が圧倒的に多かった。若い女性は僕の従姉妹くらいだろうか。着物を着たりおめかししたおばさま方が午前の部を見終わって出口から大量に吐き出されて来た。母達は行列に並んで無事に枡席を確保して中に入って行った。 母達が観劇している三時間の間、僕は暇つぶしに門前町や琴平の町をぶらぶらした。金丸座の近くにある「海の科学館」に入るが客は僕しかおらず、展示も10年くらい変わって無さそうな感じである。海運業者がバブル期に作った博物館だろうか。もうひとつ、ここの地元の名酒である「金陵」の資料館にも入る。門前町に面するこちらは新しい企業博物館だが、やはり客は僕だけだった。 門前町とは別の商店街を通って駅に向かうが、店の半分以上がシャッターを下ろしている。最初はつぶれているのかと思ったが、どうもここは閉店が異様に早いらしい。まだ午後四時くらいだったが、商店街を歩くのは地元の高校生や中学生ばかりだった。駅も同様。そして門前町にまた戻ったが、こちらも午後5時くらいには半分以上の店が閉店している。門前町の掟で何か決まりでもあるのだろうか。確かに参拝客はもうほとんど居なくなっていたが。 平日とは言え、門前町を除けばまるで活気のない町だった。従業員も参拝客も全般にお年寄りが中心ということが大きいのだろう。うらぶれたかつての人気観光地、といった雰囲気だった。寺社参拝はもはや日本人のレジャーの主流ではないようだ。そういえば宿泊する人も多いだろうに飲み屋とかもほとんどない。コンビニも一つも見なかった。今時の日本ではちょっと不思議な感じがした。こういう町があってもいいと思う。 夕方6時に歌舞伎が終わり、雨がぽつぽつ降る中家路についた。帰りに乗った列車(この路線はディーゼルカー)は車体にも車内にもアンパンマンの絵が書いてあった。そういえばアンパンマンの作者やなせたかしは高知の出身だったっけ。 この日は夜もうどんだった。
2005年04月13日
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関東地方での挨拶めぐりを終えて、この週の半ばに故郷に戻った。 しかし6日には日本の大学時代の指導教授が院生を連れてゼミ旅行に岡山に来ると言うので、挨拶かたがた会って飲んだ。岡山駅前の大通りでは高層マンションの建設ラッシュで、しかも竣工する前に全室完売の状況だという。金があるところにはあるのかもしれないが(この工事は関西の企業が進出して来ているという)、本当に日本は不景気なのだろうか。 翌7日は先生方を案内、というより便乗して岡山市内の古墳を見て回った。院生の一人が古墳時代後期(6世紀)の横穴式石室を専門にしているし、先生も本来古墳時代が専門である。院生の一人は弥生時代の土器が専門なので資料館で土器を見させて、僕を含む三人はレンタカーで岡山市内を東西に走った。 最初は備中国分寺の裏手にある江崎古墳(総社市)。全長50mほどの前方後円墳で、巨石を用いた横穴式石室をもち、中には石棺が残っている。先生と院生は中に入ると早速スケッチと採寸をしている。この古墳は周辺のこうもり塚古墳や作山古墳程には目立たないし農家の裏手なので訪れる人も少ないが、石棺にも触れるし石室の規模でいえばこうもり塚に匹敵する古墳である(墳丘はおよそ半分の大きさ)。時期は6世紀後半、男女ニ体が埋葬されていたが早くから天井石が崩れて荒らされていたようだ。現在はコンクリートを用いて天井が被われている。 次はそのやや東の岡山市内にある造山古墳へ。この古墳は岡山県で最大、全国でも四位の規模を誇る前方後円墳である(長さ360m)。より上位の古墳はいずれも天皇陵とされて立ち入りできないから、一般の客が墳丘上に立ち入りできて古墳の巨大さを実感できるものとしては最大といえる。時代はやや早い5世紀のもので、横穴式石室が導入される以前のものである。発掘されていないが竪穴式石室をもつことは間違い無い。 この古墳の前方部には神社が立っていて、その脇に石棺を転用した手水のための石槽が置いてある。また神社の脇には同じ石棺のものと見られる石蓋の一部が転がっている。時期的に見てこの石棺がこの古墳から出たものとは考えにくく、周辺の古墳から運ばれたものだろうとのことだった。 後円部のふちには土塁のようなものがあるが、これは豊臣秀吉が近くの備中高松城を水攻めした際(1582年)に陣地として使用されたときに作られたものだろう。平野にぽつんとある古墳は格好の陣地になり、戦国時代にはよく城として使われた(大阪の「仁徳天皇陵」=大仙古墳、茶臼山古墳など)。 近くのうどん屋で昼食を済ませ、岡山市街に戻る。まず岡山市埋蔵文化財センターを訪問。うちの墓の近所にあって、しかもうちが檀家となっている寺の裏手にあるのに恥ずかしながらその存在を全然知らなかった(目立たないところにあるのは確かだが)。ここでは小規模ながら岡山市内の発掘の成果が展示されており、無料で見ることもできる。 そこの方に情報を教えてもらい、岡山平野北端にある龍之口山の麓にある唐人(カロウド)塚古墳へ行く。すぐ脇の賞田廃寺跡で発掘と整備事業が進んでいるのだが、この古墳はほとんど知られていない。しかしやはり1mを越すような巨石を積んで造られた横穴式石室を備え、中に入って石棺を見ることもできる。石棺は蓋が無くなっており、天井から降って水滴で棺内に水が溜まっている。石室の入り口には祠があるが、やはり早くから盗掘されて空っぽだったのだろう。墳丘も削られたりして原型を留めない。6世紀後半のものだろうか。 この日最後の目的地は、そこをさらに北上した牟佐大塚古墳である。これも6世紀後半のもので、直径30mほどの円墳である。外から見える墳丘の大きさこそこれまで挙げたどの古墳にも及ばないが、石室の構造や使われた石の大きさはもっとも甚だしい。入り口と玄室(棺を置く墓室)をつなぐ羨道ももっとも長い。途中こうもりの死骸が落ちていたが、こういう横穴式石室はこうもりの格好の巣となる。中にはやはり巨大な石棺が残されているが、横に大きな穴があけられており、盗掘者が副葬品目当てに石を割ったのだろう。 この牟佐は岡山平野から北方の山地へ抜ける旭川の谷間を扼する交通の要衝にあり、地元豪族の墓と考えられるという。この古墳からは旭川や岡山平野に抜ける街道がよく見渡せたはずだ。 6世紀という時代はこうした巨石を用いた横穴式石室が日本中で建設された時代である。それ以前の墳丘の大きさ、すなわち外見重視から、埋葬施設の結構や巨石築造技術の高さ、副葬品の数では無く希少さをステータス・シンボルに変えた時代だった。その背景には「あの世」の観念など死生観の変化もあった。 同じような巨石を用いた古墳はヨーロッパでは新石器時代(紀元前3000年頃)に数多く造られているが、それが数百年というタイムスパンであるのに対し、日本の場合はおよそ1世紀という比較的短期間に集中している。いわば古代(同時代のヨーロッパに即せば中世初期と呼ぶべきかも知れないが)日本の建設ラッシュ時代、バブルのようなものといえるかもしれない。同時代のヨーロッパの貧相な王墓(副葬品はともかく)、一握りの王侯貴族に墳墓建設が独占された中国、そして墓をあまり重視しないイスラム世界などにくらべると、日本中(東北は除く)でこうした巨石墓が数多く建設されたことは印象的である。 古墳時代は寒冷期にも関わらず新技術(鉄器・土木技術)による新田開発などで人口が急増したらしいのだが、その辺も関係しているのだろう。同じような「建設ラッシュ」ですぐに思いつくのは、鎌倉時代の寺院建設(奈良と鎌倉の大仏など)、1600年前後の築城ラッシュ、そして明治の文明開化、昭和の高度経済成長だろうか。
2005年04月07日
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今日から正式に「日本におけるドイツ年」がスタート。ドイツのホルスト・ケーラー大統領が来日し開会セレモニーが行われたようだ。大統領は明日は愛知万博を見学する予定とのこと。なおこの「ドイツ年」のマスコット・キャラクターはDie Mausである。 「ドイツ年」行事の第一弾として、東京国立博物館では明日からベルリンの「博物館島」にあるいくつかの博物館に収蔵されている名品が展示される。大阪ではドレスデンの名品が展示されているそうだが。 僕はというと開会セレモニーに呼ばれなかったので(当たり前だ)、この日は茨城県つくば市へ。この研究学園都市は今年8月に常磐新線が開通し、東京(秋葉原)から近くなるそうだ。 午後少し暇ができたので筑波山周辺を車で廻ってもらう。南北朝時代から戦国時代にかけての城跡である小田城跡、奈良時代の地方役所(校倉造の倉庫など)が復原されている平沢官衙、平安時代末期の寝殿造風寺院である日向廃寺、そして隣町・真壁の真壁城跡である。 小田城、真壁城ともに土塁のみが残っているが、整備作業が進められている。小田城は本丸跡のど真ん中をかつては鉄道線路が走り(今は廃線)、真壁城では本丸跡に役場が立っている。 どちらも同名の姓を持つ有力豪族(小田氏・真壁氏)の居城として鎌倉時代から連綿と受け継がれた城だが、戦国時代以降戦術の変化に伴って大きく拡張された。しかし小田氏は常陸北部の戦国大名・佐竹義重に追われ(1568年)、その佐竹氏の傘下に入った真壁氏は佐竹氏が関ヶ原の合戦での罪を問われて1602年に秋田に移された(減封)のに伴って、先祖代々の城を去っている。どちらの城もその後の新城主(それぞれ梶原政景、浅野長政)によって土塁造りながらも壮大な城に整備されたが、江戸時代はじめには廃城されている。 夜マツケンサンバのDVDを見せてもらう。案外普通の歌だった。
2005年04月04日
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この週末は上京して学会(金曜・土曜)などに出た。寝泊りは都内のカプセルホテルなどだった。ほとんど毎日飲み続けている。特に日曜日(3日)はかなり遅くまで飲んだ。僕はあまり人付き合いのいいほうではないのだが(それで損もしているが)、気のおけない仲間との付き合いは大事にしたい。 学会あけの日曜の昼間は暇があったので、同じ会に出ていたドイツでの同級生K君と東京見物をした。 まず新宿から四谷まで歩いた。このあたりは武蔵野台地の縁辺にあたるらしく、地形は案外起伏がある。新宿では新宿区立歴史博物館を見学。小さいがまあまあ面白い(特に戦前の都市生活について)博物館だった。 午後は電車で九段下に移動して(さすがに歩くのは疲れたので)、まず靖国神社に行った。いろいろと話題にのぼる場所だが、桜の名所としても知られている。まだ満開には程遠いがもう花見の宴をしている人が多くいた。出店も出てものすごい人出である。靖国神社付属の遊就館(戦没者の遺品や兵器が展示してある)では今日露戦争100周年記念展をしているのだが、展示物を見るのは疲れたのでパス。 そのあとは江戸城を北の丸、本丸、二の丸と歩いていった。実は江戸城のこの区域に入るのは初めてだった(北の丸だけは行った事があった)。さすが将軍の居城だけに他の城とは石垣の高さや城門の数など規模がまるで違う。感激して写真を撮りまくりだった。石垣は江戸時代に入ってからの造営がほとんどなだけに、和式の城郭建築の集大成とも言える技術が使われている。 いったん大手門を抜けて皇居前広場に出て、おなじみの二重橋前や伏見櫓を見物して江戸城見物を終えた。とにかくこの日はよく歩いた。 この日夕方の飲み会で、この日の未明にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(84歳、俗名カロル・ヴォイティワ)が死去したことを知らされた。容態が悪いとは聞いていたが随分唐突の感がした。 歴代三位の在位26年、この人は僕が物心ついたときには教皇だった。キリスト教国のドイツでは今大騒ぎではないだろうか。教皇については落ち着いたら別の日に日記に書こうと思う。次の教皇は誰がなるのだろうか。カトリック最大の国ブラジルの枢機卿か(カトリック人口の半分は南米の人)、リベラル派で地元イタリアの枢機卿か、保守派としてしられるドイツ人の枢機卿か。「神の代理人」である教皇が選出されるコンクラーヴェに注目したい。 そんなときにおいらは日本か。僕にとってはホリエモンと北尾なんとかさん(この人もなんだか感じ悪いな)の対決や、森進一・昌子夫妻の別居騒動なんてどうでもいい気がする。
2005年04月03日
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泊りがけでルール地方に学会に行ってきて、土曜の午後に戻った。この三日間はあいにくの天気で、特に12日はひどい雨と風模様になった。 結果からいえば、学会のほうはあまり実りあるものとは言えなかった。今回で4回目のこの学会は今回は理系・自然科学系の発表が中心だったし、学際的というと聞こえはいいがコンセプト無く発表者をよんだせいか聞いていて辛い(眠くなる)発表が多かった。他学問や専門外の人に自分の専門・研究を説明するときは気をつけないといけない。 あまりに辛かったので、今日も予定より早く帰ってきてしまった。 10日の早朝に車でボッフム(人口40万)に向かう。だいたい2時間強の行程。途中ラジオで北朝鮮が核兵器保有を宣言したというニュースを聞いてびっくりした。 行き先はドイツ鉱業博物館というところで、鉱工業で栄えたルール地方らしい産業博物館である(都市の下に坑道がうねうねと走っている)。この地方は産業革命期まではドイツの一地方に過ぎなかったし、第2次世界大戦の戦災が物凄かったので歴史的観光名所はほとんど無い。今この博物館では「古代ペルシアの煌き」という特別展が開かれている(5月まで)。 夜はエッセンにある研究室仲間のAの新居に泊めてもらう。翌朝は内装工事の手伝いをした。日曜大工が好きなドイツ人は、寝室の壁紙とかは自分で貼る人が多いみたいだ。 11日はつまらない(!)学会をすっぽかして近郊のデュッセルドルフに向かう。エッセンから電車で30分くらい。人口60万弱のこの街はノルトライン・ヴェストファーレン州の州都であり、ドイツでは「モード都市」、つまりファッションの流行の先端(見本市も開かれる)をいく街として知られている。ただしあまり歴史的観光名所は無い。 在独日本人には日本人が6000人も住む都市として知られている(他の地方に住むドイツ人はこのことをあまり知らないようだ)。インマーマン通りは「日本人通り」と呼ばれ、日本企業の代理店や日本食レストランなどが並んでいる。僕はドイツに来てかなりになるが、この街に来たことが無かった(在独日本人には正しい日本食が食べれてカラオケも出来るというので人気の街である)。 僕はリトルトーキョーやチャイナタウンみたいなのを想像していたのだが、日本人の姿こそ多いものの、幅広い道路で外見はあまりドイツの普通の町並みと変わらない。テナントの2軒に1軒くらいが日本系だった。日本食品店、日本書籍店、日本食レストラン、商社、日本航空などがある。圧巻は日本ビデオのレンタル店で、民放のドラマがほとんど全部見れる(著作権とかどうなっているんだろうか)。日本とドイツとではビデオの解像方式が違うらしいのだが。 同行したK君と早速「なにわ」という店に入る。この界隈の日本食店では一番リーズナブルな値段で食事を提供しており、僕らが食べた昼の日替わりラーメン定食(チャーハンつき)は8ユーロ(1000円強)だった。日本の雑誌が置いてあり、まったく日本のラーメン屋の雰囲気と変わらない。違うのは外を歩いて珍しそうに店内を覗き込む人や、店の客の中にドイツ人がかなりいることである。「なにわ」は通りを挟んで寿司部門とラーメン・定食部門の二つに分かれている。 そのあとはライン河沿いにあるドイツ陶器博物館(Hetjens Museum)を見学。ヨーロッパのみならず東洋・アフリカまで、結構優品を持っているし悪くないのだが、ドイツの博物館にありがちな「並べただけ」という展示は見ていて疲れる。日本人を対象にした陶芸教室もやっていて、商社員の夫人やドイツ人と結婚して在住していると思しき日本人女性がたくさん来ていた。 その後また歩いてインマーマン通りに戻る。途中ケーニヒスアレーを通ったが、ここは高級ブティックが並びドイツでもっともお洒落な場所の1つである。僕のような貧乏人には縁が無いが。スターバックスで休憩。銀行に入ったら日本人用のブースもあり、この街では日本人がお得意様のようだ。もっとも、撤退したり、ヨーロッパ中央銀行のあるフランクフルトに移転する日本企業が増えているらしいのだが。 日本書籍店にも入った。フランクフルトにあるそれとは品揃えが比較にならないほど充実している(ロンドン、パリの日本書籍店に匹敵するかも。店舗面積はこっちのほうが広い)。値段は日本での倍以上になっているので、何も買わなかった(文庫本・新書。雑誌が多く専門的な本は少ない)。最近ハプスブルク家がブームなんでしょうか?随分いろいろ本が出ていたけど。あとドイツ人のアニメ「オタク」が何人か来ていたり、店内のプリクラの前で嬌声を上げていた。かなり違和感のある光景ではある。 夕方は串焼きの店でビールを飲む。昼に比べてかなり高い。しかし店内BGMは日本の歌謡曲だし店員も客も皆日本人、日本の居酒屋と全く変わらない(値段は割高)。日本人のK君と飲んでいると東京郊外の飲み屋にでも来た気分だった。 Bochum (von Herbert Grönemeyer, 1984) Tief im Westen/wo die Sonnne verstaubt Ist es besser/besser, als man galubt Du bist keine Schönheit/ vor Arbeit ganz grau Du liebst dich ohne Schminke/bist'ne ehrliche Haut Leider total verbaut/ aber grade das macht dich aus Du hast'n Pulsschalg aus Stahl/ man hört ihn laut in der Nacht Du bist einfach zu bescheiden/dein Grubengold/ hat uns wieder hochgeholt Du Blume im Revier *Bochum, Ich komme aus dir, Bochum, ich häng' an dir Glück auf, Bochum Du bist keine Weltstadt auf deiner Königsallee/ finden keine Modenschaun statt hier, wo das herz noch zählt/ nicht das große Geld wer wohnt schon in Düsseldorf *Bochum..... Du bist das Himmelbett für Tauben/ und ständig auf Koks hast im Schrebergarten deine Laube/ machst mit'nem Doppelpaß Jeden Gegner naß/ du und dein Vfl *Bochum.....
2005年02月12日
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朝家族の投宿するフランクフルトへ。午過ぎの便で日本に帰るのである。 ホテルをチェックアウトし、荷物をコインロッカーに預けてフランクフルトの繁華街へ出る。ドイツのデパートやスーパーを見てもらう。町の様子は日本と取り立てて違いは無いから驚きも特に無いだろうが、母はとにかく外国人(中東・アフリカ系)の多さと、落書きの多さに驚いていた。 デパートの一つに入り、食料品売り場へ。やはりそれが一番興味があるらしい。妹は日本に比べはるかに充実している肉売り場やパン売り場、チーズ売り場をデジカメで撮影しまくる。さらにアジア食品のコーナーも興味を引いた。「おとなのふりかけ」が500円もするのに驚いていた。母はチーズが好きなのでいろいろ見ている。僕はチーズの香りが苦手なので離れて見ている。 さらにお菓子コーナーへ。妹は会社の同僚へのお土産として、ドイツで発明されたお菓子であるグミ(ゼリー状の弾力があるお菓子)を大量に購入、なんと3000円くらいも買ったそうだ。うちの妹はこういうくだらないものや雑貨が好きである。 グミというと熊の形をした「グミベルヒェン」が有名だが、それだけではなく様々な形態や味のものがある。サッカーボールを象ったものや、グロテスクな目玉のようなものもある。さらに塩味の魚形のもの(ザルツヘリンゲ)まで買っていた。ものすごい味がしてドイツ人ですら敬遠する「ザルツヘリンゲ」が当たる妹の会社の同僚が可哀相だ。 「ミカド」という名前で売られているグリコのポッキーや「とっとこハム太郎(Hamtaro)」のお菓子まで買っていた。ドイツにまで来て何を買ってるんだ。 フランクフルトの目抜き通りをぶらぶら歩いて駅に戻り、空港へ。荷物が少ないのでチェックインを機械で済ませ、母と妹は僕に手を振りながらゲートの向こうに消えて行った。 ようやく家族の5泊6日のドイツ旅行が終わった。「もう1ヶ月もドイツに居る気分じゃな」と家族は言っていたが、終わってみればあっという間だった。扱いにくい珍客の世話を僕に押し付けられたハイデルベルクのS君夫妻と、カッセル近郊に済むM氏ご一家には、返す返す感謝したい。おかげで家族には滞り無くまた得がたいドイツ旅行になったのではないかと思う。 家族を見送った後、老いていく母のことや、自分のドイツ滞在がいつか(近い将来)終わることを思い、柄にも無くしんみりしてしまった。どっと疲れが出たので家に戻って寝た。追記:今日のニュース イラクで暫定政府に主権委譲が前倒しで行われた。またイスタンブルでNATO首脳会議が行われており、それに関連してトルコでテロが相次いでいる。
2004年06月28日
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この日朝に目がさめると、雨が降っていた。天気があまり良くないのは残念だった。 午前中にM氏の家を出る。すっかりお世話になってしまった。家族にはドイツののどかな農村風景を堪能してもらえたと思う。 最寄の駅まで送ってもらい、電車でカッセル(ヴィルヘルムスへーへ駅)へ。ここの駅でミカンの乗ったチーズケーキ?を食べたのだが、母が「これは美味い」と言った。うちの母は食べ物の好き嫌いが激しくて(肉は全然食べないし、香りのきついものもダメ)、食べ物では苦労すると思ったが、案の定だった。前回ドイツに来た際はツアーで泊まったホテルのレストランでひどい食事をして「ドイツの食事は不味い」という観念を持ってしまった。今回はそれに比べていい食事をさせてもらったのだが、やはり肉とお酒がダメというのではドイツの魅力は大いに減退してしまうかもしれない。 カッセルから新幹線(ICE)でヴュルツブルクへ向かう。うちの母は乗り物(電車や飛行機)が大好きなので、ドイツの新幹線に是非乗ってもらいたかったのである。結構混んでいて窓際の席に座れなかった。 カッセルからフルダへ抜けるこの路線は新幹線専用に建設されたので、在来線の路線と違いトンネルが多く車窓の風景はさほど良くは無かった。一時間ほどで目的地ヴュルツブルクに到着。 ヴュルツブルクは人口13万、フランケン地方の中心都市の1つである。行政区分上ではもうバイエルン州に属する。乗った列車の車掌はちゃんと「グリュース・ゴット!」という南ドイツ独特の挨拶をしていた。僕は10年ほど前に一度来たことがある。 空には晴れ間が広がり、気温が随分高くて暑いくらいだった。天気もあるが、南と北ではこうも違うものか。 ヴュルツブルクに来たのは世界遺産である大司教のレジデンツ(宮殿)を見るためだった。大司教というと日本(仏教)ふうに言えば大僧正なのだろうが、キリスト教(カトリック)では世俗的な権力ももっていて、この辺りの領主も兼ねていた(ルターが宗教改革を始めたのもむべなるかな、と思う)。一応聖職者なのでその地位は世襲ではないが、大司教は諸侯並の贅沢な暮らしが出来た。 ヴュルツブルク大司教は1720年まで市街のマイン河対岸にあるマリエンベルク要塞に住んでいたのだが(坊主が要塞に住むというのも奇妙である)、やはり城では居住性がよくないのか、18世紀初頭になって大司教は市街の外れに豪華なバロック風の宮殿(レジデンツ)を建設した。 2階に上がる「階段の間」にはイタリア人画家ティエポロの作になる壮大な天井画がある。今は一部修復作業中で幕に覆われている。その後もロココ調の豪華極まりない装飾(タペストリー、金細工、漆喰、大理石)が施された部屋が続く。天井がものすごく高く、クモの巣が張っても取れないんじゃないかと思う。僕や家族のような貧乏性では、こういうがらんどうとした所には落ち着かなくてとても住めないだろう。一つ一つの部屋は意外に大きくない(日本で言う「千畳敷」がない)。ナポレオンが二日間宿泊したという寝室もある。 このレジデンツも第2次世界大戦の多大な戦禍を受けているが、修復技術者たちによって見事に復元された。 その後市街を散策。日曜ということもあって道端で演奏する人がたくさんいた。ヴュルツブルクは今年建都1300周年だそうで、それに関連するイベントもやっていた。日曜で店は閉まっているのでウィンドウ・ショッピングに終始する。大聖堂、市庁舎の前を通って、アルテ・マイン橋まで行く。聖者の石像が橋の両脇に立ち並ぶ18世紀の橋で(雰囲気は、行った事が無いがプラハのカレル橋に似ている)、この上から旧市街の茶色い屋根瓦の町並みと、対岸の壮大なマリエンベルク要塞が見渡せる。 この辺りはいわゆるフランケン・ワインの名産地で、周囲の丘陵の斜面は一面のブドウ畑で覆われている。家族はもちろんお土産に独特の丸い瓶に入ったフランケン・ワインを買った。 結構暑かったのでカフェに入り、「アイス・コーヒー」も飲んだ。日本のいわゆる「アイス・コーヒー」と違い、上にアイスクリーム(ドイツ語では氷と同義語の「アイス」)が乗っている。あとうちの母は麺類が好物なので、南ドイツ独特のシュペッツレも食べさせたが(ドイツでは本来麺類はほとんど食べない)、くどすぎて気に入らなかったようだ。 夜家族をフランクフルトに投宿させ一緒に夕食を摂る。ドイツの魚の調理法や味付けはやはり母の気に入らなかったようだ。 その後僕は独りマールブルクの自宅に戻る。<しばらく見られなかったが今日のEM>準々決勝第4試合チェコ:デンマーク 3:0 予想当否 △チェコ、ギリシャ、オランダの勝利は予想通りだった。
2004年06月27日
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本来はこの日はベルリンに向かうつもりだったのだが、あまりに強行日程で電車に乗る時間のロスが大きすぎ、またM氏の御好意もあったので、予定を変更してカッセル近郊巡りに切り替える。 日本からドイツに来る観光客が普通見るのはドイツの都市ばかりである(留学生もそうだ)。しかしドイツの都市文化の背景には豊かな農村文化がある。幸いM氏は農家の一軒家を借りて住んでいるしこの辺りには詳しいので、うちの家族には普通の観光では見られないドイツの田舎を見てもらうことにする。 最初に訪れたのは、カッセルの南西にあるフリッツラーFritzlarという町。ここも人口2万くらい、農村地帯にある小さな地方都市で、「地球の歩き方」には辛うじて名前だけが載っている。しかしこの町はやはり木組みの家が並ぶ古い町並みで、また町を囲む中世の城壁も比較的残っており(旧市街の直径は約800m)、23あった見張り塔のうち9つがまだ立っている。ドイツでは「ロマンチック街道」だけが中世の面影を残しているわけではない。 マルクト広場では近郊の農家が屋台を出して自家製の蜂蜜やサラミなどを売っている。こういう光景は中世も変わらなかっただろう(今の農民は馬車ではなく車で売りに来るが)。 ちょうど生バンドの演奏みたいなのをやっていて、それを聞いてハイになったらしき旅行中らしきドイツ人の老女が僕らに話し掛けてくる。「あなたはどこから来た?日本?ドイツではどこに住んでいる?何を勉強してるんだ?私はデュッセルドルフに住んでいて日本人に会うことが多く、日本人に親しみをもっている。日本以外のアジアはあちこち旅行した(中国、インドネシア、シンガポールなど)。是非日本に行ってみたい。孫も日本行きを熱望している。私は寿司が大好きだ。あなたはヨーロッパではどこに行ったか?トルコ?ローマ文化は地中海沿岸にいかないと無いわよ。それはあなたのお母さん?うそー!とてもきょうだいにしか見えないわよ(母が若く見えるというより、僕が老けて見えるということか?)。それじゃよいご旅行を」ということをほとんど一方的にべらべら話しかけて去っていった。ドイツにはときどきこういう老人がいる。まあ日本が好きならいいことだとは思うけど。 フリッツラーでは中世の面影を残す町並みと、このお婆さんばかりが強烈な印象を残したが、実は歴史的に非常に重要な町である。 723年、ドイツへのキリスト教伝導に尽力したイギリス出身の伝道師ボニファティウスは、ゲルマン人の異教の神ドナーに捧げられた神木を切り倒し、その木で小さな礼拝堂を作ったが、それがフリッツラーの起こりであるという(こういう過激なことをあちこちでしたせいか、ボニファティウスはのちにオランダで原住民に殺され殉教した)。のちこの地には修道院も出来た。 フランク王国の王カール大帝は自分のプファルツ(王宮)の1つをフリッツラーに建設したので、政治的も重要な都市となった。カール大帝の子孫の代にフランク王国は分裂したが、そのうち東フランク王国はドイツの原型となった。カールの家系が断絶したのち、ザクセン侯ハインリッヒ(1世)はフリッツラーで行われた帝国(諸侯)会議でドイツ王に選出されザクセン朝を開いた(919年)。ハインリッヒの息子オットーが、騎馬民族マジャール人を撃退して名を挙げたオットー1世である。フリッツラーは21人のドイツ皇帝の訪問を受け、8回の帝国(諸侯)会議が開かれた。 その後フリッツラーはマインツ大司教の属領となり、ドイツ帝国の中心都市としての役割を失った。ヘッセン方伯や外国(スウェーデン、フランス)軍の攻撃を受け、町は徐々に衰退していった。現在では農村部にある一地方都市になっている。日本でいうと奈良や飛鳥の歴史にやや似ているかもしれない。 その後北上し、ツッシェンという集落の近くにある古墳を見る。もう家族の旅行そっちのけで、僕の都合で動いてもらってしまった。 この古墳は紀元前3000年頃の新石器時代(ヴァルトベルク文化・TRBK=漏斗状土器文化の併行期)の巨石墓の一つで、長さ16m、幅3mほどもある集団(家族?)墓である。 規模の大きさもさることながら、より貴重なのは壁面に牛を表わすY字状の記号がおびただしく線刻され、また牛車(2~3頭立て)の表現があり、この当時に既にヨーロッパに車輪が存在していることを示していることだろう(中近東でも同時代には車輪が発明されていた)。 この寄り道の後、温泉保養地として知られるバード・ヴィルドゥンゲンBad Wildungenを通過。天気がいいこともあって、まるでギリシャの海岸保養地に来たかのような雰囲気の町である。日本でいうと箱根や熱海に近いノリなのだろうか。 この日はなぜかものすごい数のバイクが走っている(しかも「イージーライダー」のようなアメリカン・バイクばかり)。たまたまそういう集会があるらしい。 もう少し西走して、エーダー湖に着く。ここは渓谷を利用したダム湖ではあるのだが、景色は箱根の芦ノ湖そっくりである。ヨットハーバーがあり、遊覧船も出ている。この日はこの湖の湖岸道路をバイクがたくさんラリーしていた。 そのエーダー湖を一望の下に見下ろすヴァルデックWaldeckという城に登り、軽く遅い昼食を食べる。この城も由緒があり、小さいながらもドイツ内で独立した諸侯としての地位を保っていた。この日はちょうどお祭りで、中世の扮装をした踊り子や楽団、芸人、職人などが集っていて、時代祭りのようなものをやっていた。これは実に運が良かった。 その後一度M氏の自宅に戻り、夕食はホンベルクという町(ドイツで二番目に深いという井戸がある城がシンボル)のレストランで夕食を食べた。美味かった。この日もM氏宅に泊まる。 この日は日本ではほとんど知られていない(しかしドイツでは比較的有名な)、ちょっとマニアックな観光地を巡ることが出来た。ドイツの自然も多く見ることが出来た。M氏に感謝である。
2004年06月26日
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今日は家族と共にハイデルベルクに行った。僕自身はおそらく4回目か5回目だろうが、家族は前回のドイツのツアー旅行の際、飛行機の遅延でハイデルベルク行きを削られてしまったので、是非行きたかったそうだ。 家族は以前のツアー旅行ではバスで移動したため、ドイツの鉄道に乗ったのは初めてだそうだ。このハイデルベルクに向かう列車がいきなり電気系統か何かの故障で5分ほど遅れる。フランクフルトからハイデルベルクに車窓の風景は意外に綺麗ではない。 さすがに日本人とアメリカ人には有名な観光地だけあって、外国人(ドイツ人以外)が非常に多い。最近急増している中国の観光客が(僕には)目立った。もちろん旗をもつガイドさんについて行列する日本の団体ツアー客も健在である。良く言えば個人主義、要は好き勝手な行動をするドイツ人には、確かに異様に見えるのかもしれないが、あれはあれでいい旅行の仕方ではないか、と僕は思う。僕自身はしたことは無いけど。 1時過ぎにハイデルベルクに留学している後輩のS君夫妻と落ち合い、昼ご飯(茹で過ぎのスパゲッティ)を食べてから、S君夫妻の案内でお城の見学。ケーブルカーは改修工事中で代替バスが走っていた。やはり半ば廃墟となっているここの城はいいですね。 その他大学図書館なども見学。ウィンドウショッピングもした。僕個人としては古本屋に行って、いい本が買えたのが嬉しかった。ここには本屋がたくさんあって羨ましい。 夜はギリシャ料理を食べる。食べ物の好き嫌いが激しいうちの家族には初の体験だったが、少々刺激が強かったかもしれない。とりあえずウゾー(葡萄の蒸留酒)は全くダメなようだ。 ハイデルベルク観光は滞り無く終了。S君夫妻に感謝。 今日はとにかく電車の遅延が甚だしい。行きは15分、帰りは25分も遅れた。原因は電気系統か何かの故障らしいが、日本的な感覚からすればよほど整備不良でポンコツな車両がドイツの鉄道では使われているのだろうか、と怒り心頭。<今日のEM>準々決勝・ポルトガル:イングランド 1:1(PK6:5) 予想当否 ×電車で移動中のため全く見れなかった。開催国ポルトガルはしぶとく勝ち残っている。
2004年06月25日
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またやってしまった。日本との時差の関係で6月24日の日記を6月25日として書いてしまった。というわけで、24日のほうに25日の日記を書く。 この日(6月25日)は朝フランクフルトのホテルに泊まっている家族を迎えに行き、そのまま家族を連れてとんぼ返りでマールブルクに向かう。僕の住んでいる町だから一応今回のメインの旅行先ではあるのだが、小さい大学町だし名所が多いわけでもない。ということで、午前中のみを利用して町を案内する。 見学は聖女エリザベート(13世紀初頭の人)ゆかりの教会だけにして、あとは町の各所をぶらぶら歩いて案内する。僕の学ぶ研究所の前を通り、いつも通っている学食でコーヒーとケーキを食べ(昼食時だったが腹が減っていなかったので)、旧市街に登って散策。旧市庁舎のヘボい仕掛け時計のニワトリも運良く見られた。そうして駅に戻る。 家族を案内している間、知り合い4人にすれ違った。ここは実に狭い町ということである。 その後列車に飛び乗って北上し、カッセル南郊のとある駅で、その近辺に住むM氏と落ち会う。M氏の車でカッセル近郊を案内してもらうためである。 もう時間が押していたので慌ててカッセル・ヴィルヘルムスへーエの離宮に向かう。うちの家族は曲がりなりにも全員美術学校を出ていて絵が好きだというので、この離宮に所蔵されている絵画コレクションを見学する。レンブラントなど17世紀オランダ絵画のコレクションが特に素晴らしいそうだ。僕はというと、家族の案内そっちのけで、同じ所に所蔵されている古典美術(ギリシア・ローマ)コレクションに見入ってしまう。なかなかのコレクションである。今まで来なかったのが愚かだった。ガイドも何冊か買う。 前にも書いたが、たかだか人口20万の町(カッセル)にこういうすごいコレクションがあるのは、いかにも地方分権制度だったドイツならではなのだろう。 同じ場所にある人工の巨大な滝やヘラクレス像も見せる。この日は曇りで風も強く、とても6月下旬とは思えない天気だったのが残念だ。 その後まだ明るかったので、ハン・ミュンデンという町にいく。ヴェラ川とフルダ川が合流してヴェーぜル川になる地点(ミュンデン)に面する、人口たかだか2万の小都市で、旧市街全体にドイツらしい木組み(ファッハヴェルク)の家が560戸も並んでいる。町を囲んでいた城壁も一部残っている。旧市街は500x300mくらいで、中世ドイツ都市としては普通の大きさである。 この辺りにはこうした古い景観を残す小さな都市が散在している。悪く言えばどれも同じように見えるのだが、それぞれに歴史があり、地元の人はそれを大切にしているのだろう。交通の便もあまり良くないので、日本からの観光客は滅多に来ないようなところである。 この日はハン・ミュンデンの近く(ヘデミュンデン近郊)のレストランで夕食を摂り、M氏のお宅に泊めてもらった。M氏の息子さん(2歳)と飼い犬の出迎えに、うちの家族も喜ぶ。
2004年06月24日
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この日はゆっくり起きて朝食をいただく。 正午くらいに僕とM氏以外の人を最寄りの駅に送り、僕らは再びカッセルに向かう。今日の目的地はカッセル市街の中心にあるヘッセン州立博物館である。 ヘッセン州立博物館にはヘッセン州北部の考古学に関する展示がある。展示そのものはさほど圧巻でもないが(最近新しくなって見やすくなったそうだ)、解説のガイドブック(4巻セット)が非常に有用なので購入。まるでそのままドイツ考古学の概説書に使えそうだ。 考古学の展示は1階だけだが、2階は壁紙博物館、3階は工芸博物館になっている。 壁紙博物館というのも珍しいだろう。中世から現代までの壁紙を一堂に集めたこの展示は意外に見ごたえがあった。ヨーロッパに紙が広く普及する16世紀までは壁「紙」は革で出来ていた。とにかく近代ヨーロッパの壁紙の装飾過剰に圧倒される。こんな壁紙が貼られた部屋に居るとくつろげたもんじゃない(20世紀に入るとだいぶ落ち着いた感じになる)。 一方工芸博物館も予想以上に見ごたえがあった。特に同行したM氏は美術専門だけに感激しまくっていた。芸術を愛好したヘッセン方伯のコレクションが元になっているだけに、貴重な美術品が目白押しらしい(絵画のほうはヴィルヘルムスホェーエのほうにある)。日本の有田焼(四代柿右衛門)、最古の頃のマイセン磁器や「幻の」カッセル焼などが並んでいる。もちろん焼物だけでなくガラスや金属工芸、宮廷芸術や宗教美術などが無造作に並べられている。 こんな充実したコレクションなのだが、客はついに僕ら以外に居なかった。職員もまったくやる気がなさそうだった。 ヘッセン方伯は由緒こそあるが、大小の国家が分立していたドイツの国内政治では中堅クラスではあっても大国ではなかった。 ドイツでは辺境にあたるプロイセン(ドイツ東部)の国王フリードリッヒ・ヴィルヘルムやフリードリッヒ2世が軍備増強・領土拡大に狂奔している頃(18世紀後半)、ヘッセン方伯は芸術を奨励して絵画・彫刻アカデミーを設立して芸術家を招聘し、カッセルは当時のドイツ画壇の中心だったそうだ。日本でいえば加賀藩前田家の城下町・金沢のようなものだろうか(加賀藩は日本最大の藩だったが)。 ヘッセン侯国はドイツを統一(1871年)したプロイセンの軍門に下ったが、カッセルという華麗な文化・庭園都市を残した。プロイセンの首都ベルリンやケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)の数奇な運命を思うと、カッセルとの対比が鮮やかである。戦後に連合国の占領下で誕生したヘッセン州の州都はヴィーズバーデンに置かれ、カッセルはヘッセン北部の中心都市という地位に甘んじているが、4年に一度開かれる「ドクメンタ」という国際美術展の会場として、「芸術都市」の面目を保っている。 この日はカッセルでは祭りが開かれており、中心街(ドイツ最古の歩行者天国だそうだ)では屋台がたくさん出て、バンドの生演奏が行われていた。カッセルは都市面積の割に人口が少なく(20万)、全体に閑散とした印象を受けるのだが、ここだけは人通りが多かった(それでもフランクフルトほどではない)。 オランジェリー(宮殿)に付属するカール公園にも立ち寄るが、とにかく広く、大きな池がいくつもあり、そして人影がまばらである。 その後マールブルクに戻り(カッセルから車でちょうど一時間)、河川敷でのバーベキュー・パーティーに参加する。天気がよく気温がぐんぐん上がったせいで(日没と共に急速に涼しくなったが)、河川敷ではあちこちで同じようなグリル・パーティーをやっていた。 この日はちょっと疲れていたので、終バスで家に戻った。
2004年05月29日
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日本人ジャーナリスト二人がイラクで襲撃され殺害されたという。殺害されたと見られるお二方のご冥福をお祈りします。もはやこれは外国人を狙った愉快犯としか思えない。 地元民の犯行か外国から入りこんだ者の犯行かは分からないが、もしイラク地元民の犯行だとしたら、イラク同胞の首をしめる行為である。アメリカなど外国に匙を投げられてその結果凄まじい内戦や圧制になってももはや文句が言えないだろう(イラク権益にしがみつきたいアメリカにそのつもりは毛頭無いだろうが)。もちろんフセイン政権を倒してイラク人の価値観を破壊し「パンドラの箱」を開いた責任はアメリカにあるのだが。 確かに米軍は最善な占領軍ではないが、「アメリカ軍(外国軍隊)が撤退すればイラクが平和になる」というのは妄想だろう。ちなみに、イラク戦争に反対したドイツのシュレーダー首相も、中国(安保理常任理事国)が国連決議案として提案した「来年1月のイラク駐留外国軍の撤退」を「撤退を議論するのは時期尚早」としている。 この日は夕方になって急遽、ここから50kmほど北方にあるカッセル近郊のM氏の家にお邪魔することになった。M氏の家(農家を賃貸している)は農村部にあり、「隣の家」が1km?くらい離れているようなところである。彼の家に行くのは、去年の6月に彼の引越しを手伝って以来である。 電車でもよりの駅まで行き、車で迎えに来てもらう。今のドイツは1年で一番いい季節である。麦や木々の緑はあくまで濃く、黄色い菜の花畑が目にまぶしい。日本の農村部はやたらと看板とかが多くてごちゃごちゃしているが、ドイツの農村部は時に単調と感じるほどに同じような家と畑、そして林が繰り返される。絵に描いたようとはこのことである。 M氏の家でコーヒーを頂いてくつろいだ後、近くにあるSpangenbergという城跡に行く。13世紀に城下町とともに築かれたこの城は大砲が普及した17世紀に大改造され、今はホテル兼レストランになっている。第二次世界大戦末期にアメリカ軍の焼夷弾空襲で焼かれたのだが、ちゃんと復元されかつての姿をよく留めている。雰囲気としては松山城のようなものか。 周囲を見下ろす山の頂上にある城だというのに、二重の空堀がさらに巡らされている。中世ヨーロッパ史に関する本をちょうど読んだところだったが、この時代のヨーロッパは「防御過剰」だという指摘に納得。これだけの城を守るには数百人は必要だろうが、この城の城主がそれだけの兵士を動員できたかどうか分からない。もちろんより大きな大名に助けてもらったりもできるだろうが、こうした城がドイツにはあちこちにある(ヘッセン州だけで800箇所という)。 冷戦時代のヨーロッパではないが、とにかく「有事」に備え緊張しつづけていたのだろう。そういう時代の人たちが宗教(キリスト教)にすがる気持ちも分からぬでもない。 その後カッセルに向かう。街の中心部の外れにあるオランジェリー(宮殿)の中にあるカフェで食事を摂り、その後街の西外れの郊外ヴィルヘルムスへーエに向かう。 カッセルは今でこそ人口20万の一地方都市だが、かつてはヘッセン侯国の都だった。ヴィルヘルヘルムスへーエはそのヘッセン方伯の離宮のようなものなのだろう。ここにはレンブラントのコレクションで有名なフリデリチアヌム美術館や、18世紀末に建てられた中世スコットランド様式(わざと一部を廃墟のように作ってある)の城であるレーヴェンブルクなどがある(これはのちのノイシュヴァンシュタイン城や東京ディズニーランドのお城の系譜の劈頭にあるものだろう)。 しかしここでもっとも圧巻なのは、山頂に作られたヘラクレス像とそこから1km以上に渡って流れる人工の渓流・滝である「水の芸術」だろう(神戸出身の人にいわせれば、「須磨海浜公園みたいだ」とのこと。規模は比較にならないが)。僕はこういうものがカッセルにあるとは知っていたが、「ふん、くだらねえ」と思っていたので来た事はなかった。 ところが実際に来て見るとその規模に圧倒される。山頂のヘラクレス像は石を積み上げて岩山のように作った台の上に立っているが、それだけも城や教会並のすさまじい大きさである。僕らは真夜中に行ったのだがライトアップされ、眼下にはカッセル市街の夜景が一望の下に見渡せる。日本だったら格好のデートスポットであたりはアベックだらけになるのだろうが、ドイツ人は夜中にあまりこういうところには来ないらしい(ちらほららと若者の姿はあったが)。 夜中なので「水の芸術」はほんの一部しか見られなかったが、山の斜面にわざわざ石を組んで渓流を作り、滝やら噴水やら演出もたくさんあるらしい。こんな馬鹿馬鹿しく華麗で巨大なものが、自然を改変してまで作られたことに感心した。 ヴィルヘルムスへーエの庭園群が作られたのは18世紀末か19世紀初頭くらいだろうが、これはあくまで一握りの王侯貴族の娯楽の為のみに作られたものである。こんなものが作られたりしたら庶民が革命を起こしたがるのも無理ないなあ、と奇妙に納得したものである。 ヨーロッパは実に階級社会である。これにくらべれば、財政難に喘いでいた日本の大名の贅沢など(たとえば岡山の後楽園のような大名庭園など)、贅沢にも入らないだろう。 その後M氏の家に戻り、夜中まで日本酒を飲んでいた。彼の家の周囲はとにかく畑しかないので、実に静かなところである。
2004年05月28日
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19日の夜、ドイツに戻った。久々に自分のコンピュータでインターネットが出来るので、文章が打ち込み易い(実家のパソコンはマックだったので打ちにくいこと)。 ここ数日の出来事をまとめて記す。 4月19日、早朝に伊丹空港から国内線で成田に向かい、昼に成田発の飛行機でドイツに飛ぶ。ドイツから日本に行くときは翌日着になるが、日本からドイツに向かうときは地球の自転方向と同じ向きに飛ぶせいか、出発当日の夕方にドイツに着く事になる。日本からドイツへの飛行時間は11時間。ドイツから日本の場合は偏西風の影響で30分ほど短くなる。 ドイツに向かう飛行機の座席は、どういうわけだかドイツの高校生グループのど真ん中になってしまった。ドイツに住んだことがある人なら分かるだろうが(ドイツに限らないかもしれないが)、こっちの高校生は変に与太っていて好きではない(特に男子)。この日もあまり愉快ではない空の旅になった。 このグループはどうやらオーストラリアで語学研修か何かをしてきたらしい。ドイツではオーストラリアへの飛行機はよく日本経由の路線が使われるようだ。 飛行機の中では「ラスト・サムライ」、「ペイチェック」、「モナリザの微笑」(ジュリア・ロバーツ主演のやつです)、「ラブ・アクチュアリー」、「大魔神」、「アルマゲドン」などが上映されていた。他の映画が興味が無かったので、「ラスト・サムライ」と「ラブ・アクチュアリー」を何度も繰り返し見てしまった。あらためて「ラブ・アクチュアリー」って良く出来ていると思う。 夕方、へとへとになって自宅に着き、すぐに寝てしまう。 ドイツではあたりはすっかり春の装いである。緑が美しい。日もすっかり長くなり(夏時間のせいでもあるが)、8時くらいになってもまだ辺りは明るい。桜のような花(八重桜のような)が満開である。思えば今年もちゃんと花見をしなかった。
2004年04月19日
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イラクの邦人誘拐事件のニュースは情報錯綜しているが、僕はと言うと、今日は車で鳥取方面に行って来た。 最初は三徳山三仏寺(三朝町)。険しい山の上にお寺が建っている。有名なのは国宝の投入堂で、伝説では役行者(えんのぎょうじゃ)が法力でお堂を投げ入れて作ったと言うのでこの名前がある。絶壁に穿たれた窪みにへばりつくようにお堂が建てられており(窪みの形にあわせて支柱の長さが様々に調節されている)、平安時代後期の阿弥陀堂建築の傑作・珍品と言っていいだろう。 ちなみに投入堂にはかなりの険しい山道を歩いていかないといけないので、今日は下から望遠鏡で見上げただけである。 ついで鹿野(小さな城跡がある)を抜けて県庁所在地である鳥取市街へ。この町の起源は池田家32万石の城下町である。 その中心であった鳥取城跡を少しだけ見る。もともとここには戦国時代に因幡(鳥取県東部)の守護だった山名家が築いた山城があった。この城は1581年の豊臣秀吉(当時は織田家の部将で、羽柴姓)による包囲戦で有名である。兵糧の尽きた城内はたちまち修羅場と化し、毛利軍の城将・吉川経家は飢えに苦しむ城兵の助命を条件に開城し、自らは切腹した。 池田家の鳥取城は、この戦国時代の鳥取城が築かれた久松山の麓に築かれている。比較的大規模な城にしては、戦国時代の要害である山城と江戸時代の藩庁である平城(根小屋)が組み合わさって残った珍しい例といえるかもしれない(松山、備中松山、龍野などもそうか)。現在の鳥取市街はこの城の西側に発達した城下町が基礎になっている。 鳥取城のあと、これまた鳥取砂丘を短く見物。ここに来るのは二回目である。観光用のフタコブラクダ(中央アジア原産。ちなみに中東原産はヒトコブ)を数頭見かける。 鳥取砂丘は16世紀以降、鳥取市内を流れる千代川が河口まで運んだ砂が、北西から吹く風で飛ばされて形成されたといわれている。つまり戦国時代までは鳥取砂丘は存在しなかったわけで、現に鳥取砂丘の砂の下からは縄文時代などの遺跡が発見されている。現代の地球各地で起きている「砂漠化」のはしりのようなものか。 なぜ16世紀になってここで砂漠化が始まったのかはよくわからない。もしかしたら、上流地域(智頭や岡山県北部)で中世以降に発達した製鉄や林業のために森林が伐採され、土砂が流出したのが原因だろうか?鳥取砂丘のガイドにこうした歴史的説明をしてくれる本はあるのだろうか。 近代製鉄の導入によって中国山地での製鉄業(たたら製鉄)は廃れたが、林業は今でも鳥取県の数少ない産業の一つである。 最後は鳥取市の東にある国府町へ。その名の通り、古代にはここに因幡の国府があった。 国府の長官たる国守としてもっとも有名な人物は、奈良時代の758年にこの地に赴任して来た大伴家持(おおとものやかもち)だろう。この名を挙げてもへえ?と言われるだけだろうが(うかつながら僕もそうだった)、三十六歌仙の一人であり、また日本最古の歌集である「万葉集」を編纂したと考えられる人物、といえば少しはピンと来るかも知れない。軍人かつ歌人として有名だった大伴旅人の息子である。 というわけで、この大伴家持にちなんでここには「因幡万葉歴史館」というのが建てられている。あまり大きく無い博物館で(入場料が一般500円はちと高いなあ)、大伴家持はもちろん、国府町内の古代遺跡や歴史、万葉集の時代の生活や風俗、さらに伝統芸能についても展示されている。 なんとなく来た国府町だったが、うかつにもここは古代遺跡の宝庫だった(その他、鳥取藩主池田家の壮大な墓所もある)。日が傾きかけたので、そのうちの二ケ所だけを慌てて見学に行く。 ひとつは梶山古墳。この7世紀頃の古墳は珍しい八角形をしており、古墳の前には参道や祭祀のための壇がしつらえてある。八角形という形は、中国起源の老荘思想(道教)に影響されたものとも考えられている(占いとかで出てくる八角形の表を想起されたし。法隆寺の夢殿も平面は八角形ですな)。 この古墳は横穴式石室(トンネル状の墓室)をもっているが、その最奥には、極めて稚拙ながら壁に魚などの模様が描かれている。魚という図柄は古墳の壁画としては極めて珍しい。そういえば、初期キリスト教では魚はキリストを象徴するもので、かつ7世紀当時の中国には、中央アジア経由で景教(ネストリウス派キリスト教)が伝わっていましたが・・・。これは想像の飛躍のし過ぎか。 もう一ケ所は、そのすぐ近くの岡益の石堂といわれる石造物である。地元ではこれは壇の浦での平家の滅亡(1185年)から脱出した安徳天皇の墓とされており、そのため宮内庁により陵墓参考地にされている(壇の浦の合戦で、8歳の安徳天皇は祖母の二位の尼に抱かれて三種の神器とともに入水し平家と運命を共にしたといわれている。これも平家落人伝説の一種なのだろう)。 ところがこの石堂と称される建造物は、いわゆるエンタシス式といわれる上下両端がすぼまり真ん中が膨らむ高さ2mの石柱の上に、幅1.4mの大きな石の板が載せられた特異なものである。しかも柱や上板には、中近東に起源をもつ忍冬唐草文(パルメット紋)が彫刻されている。この模様から判断して、7世紀頃に作られた石造物である可能性が高い。 現状ではこの石柱は大きな石板に四方を囲まれ、また高さ80cmの石壇の上に載っている。中世に上板の上に五輪塔が追加されたが、現在は取り除かれている。この石造物はどういう機能を持っていたのか今なお不明である。ここに存在したといわれる仏教寺院との関連で、石灯籠や塔などとする説がある。先日見に行った岡山の熊山遺跡のような、仏教教典や舎利を納めるための壇だったのだろうか。 今日は見に行けなかったが、国府町内の今木神社の境内に置かれている石には、エジプトのシナイ半島で見つかるシナイ文字に酷似する図形が彫られているという。シナイ文字と言うのは、紀元前二千年紀後半頃に使われたと見られるセム系言語の文字で、アルファベットのようなものである。 僕は実物を見ていないのでなんとも言えないし、シナイ文字といきなり比較するのは眉に唾しなければならないだろう。中近東の鉱山技術とともに、文字では無く図形として中央アジア、中国経由で日本に持ち込まれた、と説明されているのだが・・・。夢のある話ではある。 鳥取県と言うと今は「人口日本最少の県」とか、過疎といった辺鄙なイメージがある(池田家が当主の幼少を理由に1632年に岡山から鳥取に国替えされたように、こうした辺鄙イメージは江戸時代には既にあったようだ)。しかし航海技術上の制約から、古代には日本海側が日本にとっての「先進海外文明への窓口」だった。それを裏付けるように、最近鳥取県では、妻木晩田遺跡(弥生時代最大級の環濠集落)、青谷上寺地遺跡(弥生時代の遺跡で、弥生人の脳などが見つかった)、上淀廃寺(聖徳太子と同時代の寺院跡で、壁画の一部が出土)などといった、古代遺跡での注目すべき発見が相次いでいる。 国府町で見た、古墳に描かれた魚や、謎の石造物のパルメット紋、それに「シナイ文字」などは、想像を逞しくさせてくれるに十分である。
2004年04月11日
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(3月29日記) あちこち転々としているが、この日は横浜の中華街に行く。 中華街を歩いたのも初めてである(二年前に来たことはある)。すごい人出でびっくりした(日本はどこに行ってもすごい人出だが)。なかなか面白いところだ。 中華街には「チャイハネ」(トルコ語で「喫茶店」という意味)という店がいくつもあり、てっきりトルコ人の経営する喫茶店だと思って行ったのだが・・・・。なーんだ、単なるエスニック雑貨の店じゃん。つまんねえの。 夜テレビで映画「パールハーバー」を見る。噂には聞いていたが、こりゃあひどい映画だ。 とにかく冗長。ストーリーも平板。歴史考証は滅茶苦茶(日本軍が一般市民を攻撃!史実では真珠湾攻撃でのアメリカ市民の犠牲者は味方の米軍の対空砲火の巻き添えになった人だけだったはずだ。まあ映画での多少の脚色は仕方ないのかもしれないが)。ルーズベルト大統領やドゥーリトル中佐の変な美化も気になる。第一、どうして真珠湾攻撃で映画が終わらないんだ。 またこれは原作のせいではないが、内山理名の吹き替えも若過ぎで聞くに耐えない。良かったのは空中戦のシーンだけだろうか(なんか「作り物」くさくはあったが)。金を払って見に行かなくて良かった。こういう映画をありがたがる日本人もどうかしている。
2004年03月28日
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(3月29日記) この日、関東に上京。 時間があったので浅草を観光。といっても時間が遅かったので仲見世の店の多くはすでに閉まっていた。名物揚げまんじゅうや芋ようかんなどを食す。 外国人にとっては東京見物の定番である浅草だが、僕は実は初めてだった。もっとゆっくり見てみたい。
2004年03月26日
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この日はお彼岸ということで墓参りに行く。 地元名物の手打ちうどんを食べたが、入った店を間違えて大失敗、不味かった。 その後、岡山県備前市にある熊山遺跡を見に行く。標高500メートルの熊山の山頂にある、石を三段の階段ピラミッド状に積んだ遺跡である。 よくこの遺跡には「ミステリアス」とか「用途が分からない」とかいう宣伝文句がついているが、8世紀はじめ頃の仏教関係の遺構らしい。一見墓のように見え(こういう形態の古墳は、日本のみならず朝鮮半島や中国にもある)、実際中に空洞があるが、中に納められていたのは死体では無くお経だった。似たような遺跡は奈良にもある。仏教が日本に普及し始めた時代の名残りである。この熊山山頂にはこの遺跡に隣接して寺院があったが、戦国時代に焼失した。 仏教の発祥地インドでは、釈迦の遺骨(舎利)を納める塔(ストゥーパ)が建てられたが、その変型だろうか(仏教寺院の五重塔もストゥーパの一種である)。もちろん釈迦の遺骨が無限にあるわけではなく、塔に納められるのはやがて宝石や経典に代わっていく。日本で墓石の後ろに建てられる「卒塔婆(そとば)」という言葉は「ストゥーパ」の訛りだったと思う。仏塔の簡易版といったところだろうか。
2004年03月21日
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この日はまた外出、大阪方面に出る。行ったのは大阪府河南町にある、大阪府立近つ飛鳥博物館と隣接する近つ飛鳥風土記の丘。 恥ずかしながら(考古学専攻のくせに、という意味で)、近鉄河内長野線に乗ってこの辺りに来たのは初めてである。かつての大和朝廷の根拠地でもあったこの地域は、今は田園と風情に欠けるベッドタウンの入り交じる風景である。意外に辺鄙なので驚いた。 博物館のほうは安藤忠雄設計の墓石みたいな建物で、展示は模型を使ったモダンなものである。古墳造営に使われた、大石を運ぶための橇である「修羅」が印象深かった。 風土記の丘の方は、29ヘクタールという広大な園内に102基の古墳があり、うち40基が見やすいように調査・整備されている。日本でも最大級の群集墳である一須賀古墳群である(この古墳群自体は200基程の古墳がある)。 この古墳群は山の西側の斜面に築かれていて、河内平野、大阪湾、さらには神戸の六甲山までも見渡すことができる。もちろん海岸部にあった堺市の百舌鳥古墳群(世界最大の古墳である、いわゆる仁徳天皇陵がある)、また古市古墳群などを一望の下に見渡せる。この素晴らしい眺望を目にすれば、この山中に古墳群が築かれたのはすぐに納得できるだろう。 古墳自体は、ふつう「古墳」と聞いて連想する前方後円墳ではなく、直径10mから20mくらいのあまり大きく無い円墳や方墳がほとんどである。それもそのはずで、この古墳群は六世紀から七世紀に築かれたもので(大雑把に言って聖徳太子の時代)、前方後円墳は「時代遅れ」になっていた。墓そのものの大きさの代わりに、巨石を積み上げた立派な墓室や豪華な副葬品をもっている。 この古墳群から少し北の二上山麓の西側の谷(太子町)は、エジプト・テーベの「王家の谷」ならぬ、「王陵の谷」と呼ばれている。というのは、そこには用明(聖徳太子の父)・推古(聖徳太子の叔母)・敏達・孝徳といった六世紀後半から七世紀前半にかけての天皇陵が営々と築かれ、そして聖徳太子自身のものといわれる古墳もある(叡福寺)。 今でこそのどかな風景だが、かつては天皇家の奥津城として日本史の中心的な舞台だったのだろう。もっと早くに来ておけば良かった。 天王寺の駅ビルにある本屋で本を購入。どういう縁かこの本屋ではいい本をみつけることが度々ある。この日買ったのは「五胡十六国 中国史上の民族大移動」(三崎良章・東方選書)と、「長安の都市計画」(妹尾達彦・講談社選書メチエ)。 前者はマールブルクに客員研究員として来ていたことがあるそうだ(中国史研究者がドイツで何を研究されるのかは分からないが)。日本の古墳時代と同時代にあたる五胡十六国とヨーロッパの民族大移動時代は、僕も興味のある時代である。 後者は実は僕の日本での母校で教鞭を執っていたこともある。ただこの大学の東洋史学は近代史の人が結束して幅を利かせていて、居づらくなったのか妹尾先生は都内の私大に移った。嘲うべき史学のセクショナリズムであるが、僕自身がこの先生の授業を受けなかったのが残念だ。
2004年03月19日
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(3月22日記) この日、関東から西日本にある実家に戻る。 ドイツの先生はこの日昼の飛行機でドイツに戻ったはずだ。出発まで時間のある午前中に成田市街を見たいとおっしゃていたが、行かれたのだろうか。成田市内には特に見るべきものは無いしなあ。成田山新勝寺は印象深くはあるが、歴史的建造物でも無いし、無信仰のうちの先生にはどうみえただろう。 成田市内にはとにかくホテルが多い。うちの先生は空港の近くに林立する高級ホテルを見て感嘆していた。これも国際空港が、東京から遠い不便なところにあるがゆえの事情ではあるのだが。 僕自身はこの日の午前中、上野の国立博物館と、西洋美術館を見た。 上野公園は大昔にパンダのランランとカンカンを見て以来(古いね)、僕が東京で一番好きな場所の一つである。この日は大変な陽気で、上野公園は桜が開花直前だった。相変わらずホームレスが多い。 先生も言っていたが、昨日の歴史民俗博物館に比べるとたしかに国立博物館はオーソドックスな展示で、悪く言えばモノを並べただけの展示ではある。所蔵品はさすがに素晴らしい。「ギリシア・ローマ格言集」と図録を購入。 西洋美術館のほうでは、ヴァチカン美術館所蔵のローマ彫刻展をやっている。ちょっと前まではほとんど興味をもっていなかったのだが、最近は興味をもっている。相変わらず彫刻そのものにはあまり興味が無く、その表現している人物や時代の方にばかり興味が行くのだが(だからすぐに見終わった)。 西洋美術館の常設展示も見る。ドイツで付き合いのあるM氏の影響か、17世紀の絵画には興味がもてたが、印象派以降には相変わらず関心が持てない。キュービズムには何をかいわんや、である。
2004年03月17日
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この日は朝からK君とともに、僕らの師匠であるドイツの大学教授を案内して千葉方面に行った。考古学の教授だけに、行き先はもちろん遺跡と博物館に限定される。 教授にはおっかないトルコ人の奥さんがいるのだが、今回は来日直前に風邪をひいてしまったので先生が一人で来た。だから案内ははるかに楽だった。 朝のかなり早い時間に三鷹市にあるホテルに先生を迎えに行く。今日ドイツに戻るHとBの夫妻も共々に、中央線に乗る。ラッシュアワーにはまだ早いが、ドイツで通勤電車がこれほど混むことはまずないので、彼等には得難い体験だったろう。 うちの先生は日本は二回目だが、HとB夫妻は初めての日本だった。日本に興味を持ってくれたようで良かったと思う(前々から寿司のファンではあったが)。彼等は成田エクスプレスに乗るため新宿で降りた。 総武線に乗り継いで千葉まで行き、そこの駅でレンタカーを借りる。スズキのカルタスみたいな車で、男三人に乗るにはちょっと手狭だったが安いから文句はいえまい。 車を日本で運転するのは実に久しぶりだった。ドイツにはオートマ車はほとんど普及しておらず、また日本と逆で人が左、車が右なので、先生は「ちょっと運転させてみてくれ」と安全なところで試運転をした。 最初に向かったのは千葉市内にある加曽利貝塚である。この縄文時代中期(紀元前3000年頃)の貝塚は世界的にも有名で、うちの先生ももちろん知っている。加曽利貝塚は1920年代には発掘調査が始められ、遺跡は公園として保存されている。公園内には発掘された住居跡や貝塚の断面が保存・展示され、また出土品を展示する資料館もある。 背丈以上の高さにもなる貝塚の断面を見て、先生は「素晴らしい」を連発していた。僕らはデンマークの貝塚(エルトベレ遺跡)に行ったことがあるが(時期的には加曽利貝塚よりも数千年古い)、規模は日本のものには遠く及ばない。 先生は来学期に西アジアやヨーロッパの新石器時代についての講議をするのだが、その関連で縄文時代に非常な関心を持っている。 縄文時代とほぼ同じ時代、西アジア、ヨーロッパ、中国、インドなどの各地域で農耕が始まり(それ以前は狩猟採集生活)、文明への道を歩み始めるのだが(新石器時代)、日本は独特な縄文時代が一万年以上も栄えることになった。 縄文時代は、定住生活をしながらも農耕が行われていた痕跡がない。世界の他の地域では、狩猟採集社会=移動生活、農耕社会=定住生活という常識があるが、縄文文化はこの世界の「常識」にあてはまらない(縄文時代にも農耕が行われていたという議論は絶えず行われているが、少なくとも他の地域のような農耕社会は営まれていない)。文化内容は新石器時代に近いものでありながら、肝心の農耕がみられないのである。 そして縄文文化を世界に知らしめたのは、その土器である。土器もまた、世界の他地域では農耕社会のみの産物と考えられているのだが、日本では縄文時代から存在する。それどころか、最古の縄文土器は紀元前10000年よりもさらに古い、世界最古の土器という化学分析の結果が出ているのである(ユーラシアの西半分で最古の土器は、西アジアの紀元前6000年頃のもの)。 ついで佐倉市にある国立歴史民俗博物館へ。1981年に開館したこの博物館は、その名のとおり歴史・考古学・民俗学の三者が学際的に日本の歴史を研究する場として、かつての佐倉城内に設立された。難をいえば交通の便がやや悪いことか。 ここの展示は、日本の歴史を模型や映像で分かりやすく展示していることである。遺物を並べているだけの他の国立博物館に比べて異色と言える。先生も「素晴らしい」を連発していた。 ここで先生の関心をひいていたのは、30000年前の部分的に磨研された石器だった。これまたヨーロッパなどでは磨製石器はもっとあとの新石器時代に初めて出現するのだが(それ以前は打ち掻いて作る打製石器のみ)、日本や東南アジアではこうした部分磨製石器が出現しているのである。先生は僕らに熱心に質問して来たが、僕にはそれに答える知識は無い。また先生は恐ろしく博覧強記なのだが、さすがにユーラシアの東側までの知識は無く、自分の「常識」に修正を迫られている様子だった(日本には石器ねつ造事件もあったので、にわかに信じられないのもやむを得ないことだろうか)。 先生は写真をとりまくる。ここでは数時間しか考えていなかったのだが、見学だけで3時間くらいかかってしまい、さらに先生は写真(デジカメ)撮影に一時間くらいかけていた。ここの博物館、いい展示内容なのに、欧文のろくな解説が無い。 日が暮れそうな中、最後に訪れたのは栄町にある房総風土記の丘。ここには龍角寺古墳群という6世紀から7世紀(非常に大雑把にいうと、聖徳太子の時代)にかけての古墳が大小110基以上もある。一部には復元して埴輪を並べている。 この公園の一角にある最大の古墳、龍角寺岩屋古墳(径40mの方墳)の上に登り(本当は登ってはいけません。念のため)、先生との一日ツアーは終わった。満足してもらえたようだった。 成田で車を返し(レンタカー屋の人たちは皆親切だった。ドイツじゃありえないだろう)、先生を予約したホテルに入れて夕食を共にして、僕らは東京に戻った。
2004年03月16日
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(2月22日記) この日はとりあえず、ワインの名産地であるラインガウ地域の中心的な観光地であるリューデスハイムRüdesheimに向かう。人口こそ一万人と小さな町だが、辺りの丘陵の斜面はブドウ棚で覆い尽くされ、町の盛り場である「ツグミ横丁」は観光客で賑わっている。 ・・・・・のは春と夏の話。今の季節は盛り場の店の多くが冬季休業中、ライン河の川風が身に沁みるだけの寒々しい町である。早々に後にする。 次に向かったのはダルムシュタットDarmstadt、かつてのヘッセン・ダルムシュタット大公国の首都で、人口14万人。ただし第2次世界大戦の戦災のため現在の町並みは他のドイツの中堅都市とさほど変わらず、活気こそあれ趣は無い。町の中心部にある大公の城館とその向かいの重厚な州立博物館、そしてかつての芸術家村だったマチルダの丘のみが、かつての文化都市の趣を偲ばせる。 僕らは州立博物館のみを見た。全然期待せずに見に行ったのだが、これが結構大した博物館だった。地元の出土品を並べただけの考古学のコレクションこそあまり大した物ではなかったが、ユーゲント・シュティル(アール・ヌーヴォー)の芸術作品(家具や食器、焼き物など)や絵画コレクションはかなりのものらしい。美術が本業のM氏は目を輝かしていた。僕らは考古学展示のほかは、自然史に関する展示を見ていた。ちょっと古くなっているが、動物に関する展示はなかなかのものである(同じテーマならばフランクフルトのゼンケンベルク博物館のほうが質量ともに凌駕しているが)。 ドイツはかつて300ほどの領邦に分かれていた。その各領主がそれぞれにコレクションを持っていたりするので、ドイツではこうした地方都市に思わぬ芸術作品や文化事業があったりする。同じような地方分権の歴史をもっている日本では、小藩のほうが学問が盛んだったりしたものだが、近代以降はどういうわけか文化事業が大都市に集中しがちだった。これからはドイツのこうしたところは見習っても良いのでは、と思う。 この小旅行の締めくくりとして、フランクフルト近郊にあるザールブルクSaalburgに向かう。もう何年も前から行きたかった場所である。ただし行った時間が遅かったせいか、中には入れず周りから見るにとどまった。それでも十分楽しめた。寒かったのには閉口したが。 これはローマ時代の兵営の遺跡を、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1918年、第1次世界大戦の敗北により退位、亡命)の肝いりで20世紀初頭に復元したもので、ローマ皇帝の姿をした彼の銅像やラテン語の碑文もある。 復元された建物は、紀元200年頃の段階のローマ軍の砦(とりで)兼兵営で、4つの門を持つ147mx221mの方形プランの石造りの城壁の周囲に2重の空堀をめぐらしてある。城壁だけではなく兵舎などの建物も復元されており、また砦の周辺には浴場などの跡も残っている。この駐屯地には2000名ほどのローマ兵士や軍属などが暮らしていたらしい。 紀元前1世紀に急速に膨張して地中海を制覇したローマ帝国は、現在のドイツにあたるゲルマニアの地にも進出したが、紀元後9年のトイトブルクの戦いで三個軍団が壊滅する大敗を喫した。その後も歴代ローマ皇帝は服従しないゲルマン人に対して何度か遠征を繰り返している。ただしこれは一種の予防戦争であり、ゲルマン人に対しては基本的には専守防衛だった。 ローマ帝国第11代目の皇帝ドミティアヌス(在位81~96年)は全般に平和主義外交だったが、即位間も無い紀元後83年、ゲルマン人の一派ハッティーChatti人に対する遠征を行い、彼らの地をローマ帝国に編入した。今で言うとフランクフルトとその北方の地域(フリードベルクまで)一帯である。ローマ人にとっては不毛な極寒の地であるゲルマニアだが、この地域には温泉が多く存在し(昨日僕らも入浴した)、風呂好きのローマ人には見逃せなかったのだろうか。ちなみにヘッセンHessenという現代の州名は、このハッティー族に起源がある。 ドミティアヌスは併合したこの地域をゲルマン人の逆襲から防衛するため、リーメスLimesと呼ばれる長城を建設した。「長城」といっても、堀をうがち土手に柵を植えて木造の監視塔を立てただけのものである。こうした長城がフランクフルト北方のタウヌス山地の稜線上から南ドイツのドナウ河まで、総延長400kmくらい建設された(同様な長城は現在のスコットランドやシリアにもあった)。長城は点々と設置された兵営に駐屯するローマ軍部隊によって守られていた。ヘッセンのあたりは特に守りが堅く、10kmおきくらいに兵営を兼ねた要塞が置かれていた。ザールブルクはその要塞の1つである。 83年頃の建設当初、ザールブルクの兵営は木造の柵で守られていた。またザールブルクの北200mくらいのところに当時の長城が残っている。土手も堀もだいぶ崩れて当時の姿を想像するのは難しいが、確かに森の中を延々と続いている(当時はもちろん木が切り払われてもっと見晴しが良かっただろう)。世界史でも習う五賢帝時代ののち、ローマ帝国の軍国主義化政策を推し進めたセプティミウス・セヴェルス帝(在位193~211年)の時代に、帝国防衛強化策の一環としてザールブルクは石造の要塞に改築された(上記のとおり、現在復元されているのはこの時代の姿である)。 しかしその大改築から60年ほどののち、相次ぐゲルマン人の侵入と、それに対処した軍人皇帝ガリエヌス(在位260-268年)による軍制改革により、ローマ帝国は国境要塞線での専守防衛からコンパクトな機動軍(騎兵)による防衛策に転じたことから(最近どこかで聞いた話だ)、ザールブルクは放棄された。駐屯していたローマ軍はライン河西岸に撤退し、この地は再びゲルマン人のものになった。 この日もひどく寒かったが、こんなところを守らされるローマ兵も大変だったろうと思う。もっともローマ軍には多くの地元ゲルマン人やケルト人の傭兵も居た。帝国というものは作るのも大変だが、周辺の羨望の的になるだけに維持するのはもっと大変である。 夕方、マールブルクに戻る。 息をつくまもなく、ベルリンでの学会からハイデルベルクに戻る途中マールブルクに立ち寄ったS君を、K君と共に駅で出迎える。歴史の話とかで思わず熱い話になり、時間が経つのも忘れて話し込み、夜中の2時頃まで飲んでいた。
2004年02月21日
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(2月22日記) この日はM氏の車で、僕を含めた4人でライン河方面に旅行に出た。M氏の車は一見普通のセダンのアウディで、アウトバーンで飛ばせば250kmは出る。もっとも、今回の旅行では田舎道を走ることが多かったが。 この日は寒かったが比較的好天に恵まれた。 マールブルクを出て、まず去年の1月に行ったことのあるラーン川(ライン河の支流)下流の渓谷地帯を目指す。なんとなく雰囲気が日本の信州っぽくて気に入っている地域である。これで温泉があれば最高だな、とか言っていたので、今回は温泉にも入ることにした。 まず昨年泊まった事のあるBulduinsteinという村を目指す。ここには廃墟になった中世の城がある。ドイツの城は石造なので、こういう廃墟になった城はあちこちにある。城といっても塔が1つあってそれを一重の城壁で囲んだだけの簡単なものが多い。(僕の住むマールブルクの旧市街のてっぺんにそびえる城も13世紀頃まではこういう実用一辺倒の城だったのだが、のちに宮殿として手が加えられ姿を大きく変え、また遺跡にならずによく残っている) とりあえずラーン川沿いにナッサウNassauに向かう。ドイツが1871年に統一される以前は、ラーン川下流地域はかつてこのナッサウ公国の支配下にあった。ナッサウ公国はドイツの諸侯の中では小さいほうだが(19世紀にプロイセンに併合された)、有力諸侯の選挙で選ばれていたドイツ皇帝を出したこともある。 そのナッサウには町外れの山の上に城がある。ナッサウ公の居城だから立派な城だろうと思っていたが、行ってみると遺跡にこそなっていないが、意外に小城だった。それともナッサウ公は普段は違うところに住んでいたのだろうか。 温泉に入りたいなあということで、かつてヨーロッパ貴族の温泉保養地として栄えていたバード・エムスBad Emsという町に向かう。「バード」という地名に表わされているように、ここには温泉がある。「温泉」といっても日本のようなお湯ではなく、ぬるま湯か水のようなものなのだが。現在の人口は1万人ちょっとである。初代統一ドイツ皇帝であるヴィルヘルム1世も毎年夏はここに保養に来ており、普仏戦争(1870年)のきっかけになった宰相ビスマルクの謀略である「エムス電報事件」も、ここが舞台になっている。 さてエムスに着いてみると、盛名の割にしょぼい町だった。なるほど19世紀末の優雅な建物は町の一部に立ち並んでいる。しかしその地区を抜けるとドイツのほかの田舎町と変わらない。駅は人気(ひとけ)が全くない無人駅である。そして、なぜだかドイツ人ではない顔つきの人が多くたむろしている。 実はこのエムスはどういうわけだかロシア貴族に人気の保養地で、葱坊主のようなロシア正教の教会があるのは、その名残りである。そして僕らが見かけた怪しげな人々も、どうやらロシアからの保養客のようだった。 肝心の温泉は昼休みで入れなかった。 温泉のほうはヴィーズバーデンで入ろうということになり、とりあえずワイン産地として有名なラインガウに向かう。この地域は見渡す限りのブドウ畑で、あちこちに醸造所がある。車を出してくれたM氏はワインに詳しいというかプロなので、ライン河沿いにあるエルトヴィレEltvilleという村にある彼のお勧めの醸造所の1つに行く。こうした醸造所では訪問客に試飲をさせてくれるし、直接ワインを売ってくれる。 ドイツの小売店や日本で買うとおそろしく高くなるワインが、こういうところでは試飲して自分の好みのものをリーズナブルな値段で買えるらしい。日本のワイン輸入業者の中には、こういうところの一番安いものを輸入して、ラベル(銘柄)が同じだというのでその最高級品の値段をつけて売ったりする者もいるようだ。 様々なワインを試飲させてもらう。中には一瓶(750ml)120ユーロ(一万五千円)もするようなワインもあるのだが(アイスヴァインという遅摘みブドウで作った濃厚・芳醇な極甘ワイン)、惜しげも無く試飲させてくれる(試飲なのでタダである)。普通は味だけ確かめて口から出すらしいのだが、もったいないので出されたワインやブランデーを全部飲んでしまったら、真っ赤になってすっかりいい気分になってしまった。 こういうワイン醸造所の人は皆すごく真面目そうな顔をしているし、人当たりがものすごく良い。そういう人を選んで接客させているのか、ワイン職人にはそういう人が多いのか。もっとも、醸造所は玉石混交で、さらに自然のものだから年により出来の良し悪しがあったりもするらしい。「ラインガウ」という地名や醸造所のブランドだけで選べばよいものではないらしい。なかなか奥が深そうである。僕はビールのほうが好きだが。 ほろ酔い加減で、次は温泉のあるヴィーズバーデンWiesbadenに向かう。人口26万人、ヘッセン州の州都でもあるこのライン河畔の町は、やはり「バーデン」という語尾が示すように温泉の町である。保養の町だけに、お金持ちの邸宅が郊外に並んでいる。 僕らの目的地はカイザー・フリードリッヒ温泉というローマ式の温泉である。1913年に建てられたものだそうだ。入浴料は17.5ユーロ(約2000円)と、銭湯に入るような気軽さではとても行けない。この金額で4時間まで入浴できる。建物の内装はローマ時代をイメージしており華麗で重厚である。 さてここで難事が持ちあがった。僕らは水着で入ろうと思ったのだが、ここはどうもすっぽんぽんで入るところらしい。しかも金曜は男女混浴の日である(曜日によっては性別制限をする)。フリチ○のおじさんとかが脱衣所に既に居た。 しかも脱衣所から浴室までの間にはカクテル・バーのようなものがあり、さすがにそこを素っ裸で歩いている人はおらず、腰に長いタオルを巻いたり、バスローブのようなものを着て行き来している。僕はあいにく短いタオルしか持ってきておらず、そこをフリチ○で歩くのは気が引けたので、そこは水着を着て押し通った。 浴室には数種類のサウナ(ローマ式、フィンランド式、アイルランド式)と大きな浴槽、そしてくつろぐための長いすなどが置いてある。サウナに入って汗を流し、お湯か水に浸かり、湯疲れしたら長椅子に寝そべってくつろぐ、ということの繰り返しである。古代のローマ時代の浴場もこんな感じだったのか、と感慨ひとしおである。 ここでは男女問わずみんな完全にすっぽんぽんである。すっぽんぽんの男女が談笑している。最初は非常に気が引けたが、仕方なくタオルで前をさりげなく隠しながら素っ裸になった。客は裕福そうな中年男女がほとんどで、時々20代前半くらいの若い人も混じっている。トルコ人ぽい人はいたが、東洋人は僕らだけだった。 若い女性の裸とかを目の前に見せられると困ってしまう、と事前に予想していたが、ああも堂々と裸になられると全然気にならなくなるから不思議である。というかむしろ「見られているのでは」という恥ずかしさのほうが先にたって、他人の裸はどうでもよくなる。 風呂自体はまあまあでしたかね。僕は日本式のお湯に浸かりたかったので、ここの浴槽は水温も高くちょうど良かった(ちなみに、日本のお風呂でお湯に浸かるようになったのは江戸時代以降だと聞いたことがある。それ以前は蒸し風呂が主流だった)。料金が高いのでしょっちゅう来る訳にはいかないが、日本の温泉が恋しくなったり、身体を温めるにはいいかもしれない。次に来る日は曜日を選ぶか、バスローブもしくは長いタオルを忘れないようにしたい。 この日はライン河沿いの村にあるホテルに投宿する。開業して数年の家族経営の田舎風のホテル兼ワイン醸造所だが、いかにも接客業が好きそうなお父さん母さんが経営しているだけに、あちこちに熱意が感じられるいいホテルだった。
2004年02月20日
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