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兵庫県立美術館のシンボルである円形テラスを上から撮ってみました。たまたま家族連れで来ていたお嬢さんが見上げていました。 ギャラリー棟2階から円形テラス、展示棟を見たところ ギャラリー棟1階のホワイエ全面ガラス壁の向こうに彫刻が見えます。外に出て、建物を回ってみると、ヘンリー・ムーアの作品 「ゴスラーの戦士」です。ホワイエの中に入り、ガラス壁側から見たミュージアムホール柱にこんな案内図が貼られています。中央が円形テラスです。 入口を眺める。1階の海側に美術館の表示があります。こちらが正面なのですね。 建物壁面に建物の案内図が掲示されています。美術館入口近くから神戸港を見ていると、 目の前を船が通過していきます。 展示棟、ハーバーウォークに下りる大階段が伸びています。ハーバーウォーク側から美術館を見ると、こんな外観です。 ギャラリー棟ギャラリー棟の前のスペースには、 山口牧生の作品 「日の鞍」さらにそこより海側に、元永永正の作品 「くるくるきいろ」 東側には、新宮晋の作品 「遙かなリズム」ギャラリー棟を正面から東側に回り込むと上掲のヘンリームーアの作品が置かれています。建物外壁の蔦がいいですね。野外彫刻は、いろんな位置、角度から、違った雰囲気を味わえておもしろい。これはギャラリー棟の2階の外側 ここにも野外彫刻の展示が。 今村輝久の作品 「不在の中のかたち 26」 2階の展示棟とギャラリー棟の間には、JR灘駅方面への通路と3階への階段があります。駅への通路を真っ直ぐに北方向へ進むと、歩道橋入口に繋がっているのです。帰路は既にご紹介した歩道橋を渡って駅に向かいました。高層ビルが建ち並んでいます。なかなか洒落た標識が目にとまりました。美術館で入手した美術館マップの記載文を最後にご紹介しておきましょう。兵庫県立美術館-「芸術の館」ーは、阪神・淡路大震災からの「文化の復興」のシンボルとして、2002(平成14)年神戸東部新都心(HAT神戸)に開館しました。世界的に著名な建築家・安藤忠雄氏によって設計された建物は、延床面積・約27,500m2という西日本最大級の規模。北には六甲山系を、南には瀬戸内海と神戸港の風景を望む美しい環境に位置します。ご一読ありがとうございます。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺山口牧生 :「パラミタミュージアム」 山口牧生GARDEN 公式サイト元永定正 :ウィキペディア 元永定正展始まる :YouTube新宮晋 :ウィキペディア動く彫刻 造形作家 新宮晋 :YouTube 新宮晋「時の旅人」 :YouTube 今村輝久 :「ウィズたからづか」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 神戸市 兵庫県立美術館を見る(橋本関雪展鑑賞の折に)-1 へ
2018.01.09
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2013年10月に「生誕130年 橋本関雪展」を神戸まで見に出かけました。展覧会場だった兵庫県立美術館そのものと周辺の探訪をまとめていたものを一部再編集して再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)この美術館そのものがかなりユニークです。何度かこの美術館を訪れていますが、美術館そのものを被写体にして、写真を数多く撮ってみたのはこの時が初めてでした。 展覧会を見るというためではなく、周辺を含めてこの美術館そのものを見に行くことも良いのではないでしょうか。訪れたのが平日の午後であったためか、比較的人も少なくて美術館そのものをあまり邪魔をされずに写真に撮ることができました。JR灘駅から海岸の方にゆるやかな坂道を下って行きます。途中、左手に阪神岩屋駅が少し奥に見えます。兵庫県立美術館に近づくと、こんな風景です。行きは冒頭の景色ですが、道路面の道を歩きました。帰りはこちらの陸橋に通じるスロープを通りJRの駅に戻りました。振り返って撮った景色です。美術館の建物が見えて、最初に目に付いたのは屋上に置かれた大きな蛙さん。だいぶ以前にこの美術館に来たときにはなかったのでは? と思います。一時的な設置か、恒久的なものかは分かりませんが、目立っておもしろい!2018年1月現在も蛙さんは居座っているでしょうか・・・・・。 歩道橋への道から美術館を見ると、蛙さんがおもしろいでしょう。 陸橋を美術館側に渡ったところに、美術館のレイアウト掲示がありました。(これは帰路に見つけたのですが・・・・)この地図で位置関係の大凡を想像しながら、以下ご覧ください。 ホールから入ってきた山側の入口壁面に蔦が伸びていい雰囲気です。ギャラリー棟と展示棟の間がアプローチになっていて、山側から見ると海側の上部は突き抜けています。 2階通路の山側から見たところ 訪れた時は、この展覧会案内掲示が置かれていました。裏側に回って眺めたものです。背景に六甲の山が見えます。この掲示の先に、美術館入口があります。入口を入ると、エントランスホールの天井がぐんと高くて開放感があります。 階段の空間もすごくゆったりしています。 ここが3・4階の「光の庭」だと思いますが、作品が展示されていました。 3階の通路の海側は大きなガラス壁面です。波止場や海岸線道路が広々と見渡せます。 美術館の通路はガラス壁面で明るく開放感があります。 隣のビルもガラス壁面なので、ミラーになっていました。 常設展示室エレベーター・ホールに吹き抜けの空間があり行き来できる階段がついています。ひろびろとしたゆとり空間いっぱいという感じ。つい、階段を下りおりたくなりますね。もちろん、そうしました。円形テラスです。1階から見上げたところ。この円形テラスは、B1駐車場、1階エントランスホール、ギャラリー棟、展示棟、さらに2階の屋外スペースを結びつけているところです。この美術館のシンボルになっているのだとか。この美術館は2001年に竣工しました。(工期は平成11年3月~平成13年9月です。)建築家安藤忠雄氏(安藤忠雄建築研究所)の建築設計によるものです。・・・・・・・・ 覚書として ・・・・・・・最後に、展覧会そのものについて当初冒頭に記していたものをここに残します。京都・銀閣寺の近くに橋本関雪の邸宅・白砂村荘があり、学生時代からこの日本画家の名前を知っていました。白砂村荘を訪れたとき、数点の作品を鑑賞したり、京都の美術館での展覧で何度か作品を見たことはありました。しかし、なぜ神戸でこの展覧会が行われるのか・・・最初はちょっと不思議だったのです。しかし、展覧会のサブタイトルにある「豪腕画人 関雪登場」とある理由がこの展覧会で略年譜を読んで初めて理解できました。橋本関雪の生誕地がこの神戸だったからということを。1896年の「静御前」から、死去前年1944年の「香妃戎装」まで、小品から大作まで織り交ぜて展示された回顧展は見応えがありました。関雪の生涯にわたる作品を一堂に鑑賞できる機会は滅多にないことと思います。堪能できました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく参照資料 兵庫県立美術館 美術館マップ【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺橋本関雪 :ウィキペディア 白砂村荘(はくさそんそう) 橋本関雪記念館 ホームページ橋本関雪展 このページの展覧会案内に作品の一端が載せられています。兵庫県立美術館 ホームページ 建築概要のページ 安藤忠雄 :ウィキペディア安藤忠雄の「主要作品+リンク集」のページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 {再録] 神戸市 兵庫県立美術館を見る(橋本関雪展鑑賞の折に)-2 へ
2018.01.09
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御香宮の拝殿は割拝殿の形式です。中央が通路になっています。いつ訪れても自由に建物を眺めることができます。建物をゆっくりと眺めていくと、いろいろなことに気づくとともに、そこに作り込まれた美を楽しむことができます。拝殿の姿を鑑賞してみてください。 拝殿の唐破風造の正面の鬼板と兎毛通(うのけとうし)の上部には徳川家・葵の紋が見えます。徳川家が寄進した建物には、三葉葵の紋を使うことが認められたようです。これは、逆に言えば、徳川家が寺社への崇敬を表しシンボライズしているもの、今風にいえば、宣伝効果に繋がるものかもしれません。 唐破風の屋根の下の装飾美。細やかな透かし彫りと絢爛たる彩色で華やかさを際立たせています。 中央の通路をはさみ、左右の三間四方の建物部分の蟇股を見ないで、参拝だけして帰るというのはもったいないと思います。柱と柱の間にある蟇股。三間四方の建物の外回り三面には、3×3で9つの蟇股があります。左右に建物がありますから合計18です。この蟇股、一つ一つの意匠が違うのです。蟇股の美をお楽しみください。 いつ訪れても、自由にゆっくり鑑賞できる。おすすめスポットです。しかし、あまり意識していない人がほとんどのようです。参道から本殿へ向かう通り抜けの建物くらいにしか思われていない感じです。ご覧いただいたら、ぜひ御香宮神社を訪れた折に、拝殿の周りを見上げながら歩いてみてください。 通路を見上げると、虹梁部分の彫刻もまた楽しいですよ。 拝殿前の狛犬【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺御香宮神社 ホームページ御香宮神社 :「京都観光Navi」蟇股 :「weblio辞書」誰もが必ず見た事のある「蟇股」:「奈良県立医科大学皮膚科学教室」蟇股の探訪 :「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」斗栱・蟇股・木鼻のお話-2 :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -1 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -2 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -3 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -4 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -5 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社の石庭~小堀遠州ゆかりの庭石~ほか へ
2018.01.05
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御香宮の本殿壁面装飾を拝観した時、社務所建物内のお庭も拝見できました。小堀遠州と関係がありそうなので、興味を抱いた次第です。建物の前にある駒札が読みづらくて素通りし、まずは庭を拝見しました。 縁側の傍に、「遠州ゆかりの石庭」と題した説明が掲示されていました。内容の要点をご紹介しますと:*現在の庭は、遠州流の手法を生かした枯山水の庭として、中根庭園研究所長中根金作氏の作庭によるもの。*庭石は、小堀遠州が元和9年(1623)に伏見奉行の就任した時、奉行所内に作庭した際に使用されていた庭石などが利用されたということ。*庭にある大きな手水鉢には文明9年(1477)の銘があり、在銘のものとしては極めて珍しく且つ見事なものであること。 なぜ、そんな経緯になったのか?実は、幕末の鳥羽伏見の戦いで戦場となり、奉行所は灰燼に帰し、明治になってここに工兵隊ができ、僅かに残っていた池庭の傍に将校集会所が建てられたのだそうです。さらに、第2次大戦後、この敷地の東の部分が国道24号線にかかり、西側全部が京都市に払い下げられ桃陵団地ができることになったのです。その機会に神社では庭石の払い下げを受けて、この御香宮内に遠州のゆかりとして造園されたという次第です。 おもしろいのは、小堀遠州が奉行所内に数奇を凝らした庭園を造ったことに対して、徳川三代将軍家光は褒美として遠州に5000石を加増したのだそうです。それで小堀遠州は一躍大名になったのだとか。京都市伏見区讃岐町には、今、「伏見奉行所跡」の石標が建てられています。御香宮神社のすぐ近くなのです。「伏見奉行所跡」について、こんな記事もみつけました(「道ばた史料館」京都新聞)。江戸時代の『伏見鑑』には、当時の伏見奉行所の門構えが描かれているのです。「幕末特集 京都伏見の新選組」という見出しページで見つけました。こちらからご覧ください。戦いの経緯にも触れられています。(月桂冠大倉記念館のサイト)さて、特別公開が5月初旬でしたので、座敷には古風な人形などが展示されていました。 江戸時代に作られたもので、京都の旧家より奉納された人形そして、御香宮の御祭神の人形です。 詳細は、説明書をご覧ください。また、こんな掛け軸に表装された錦絵も。明治以降に制作された錦絵のようなのですが、五月人形は一般庶民にとってはとても高価な物だったので、代わりにこういう錦絵を飾ったのだとか。端午の節句をお祝いし、子供達の健やかな成長を願うという親心なのですね。 玄関にてこの扁額に記された「常受天福」という語句は『易経』が出典のようです。易には陰陽を組み合わせた六十四卦があるそうですが、易の卦の一つに「坤」(こん)があり、その坤の解の説明の中で出てくるようです。「40. 解 北辰紫宮,衣冠立中,含和建德,常受天福。(坤之觀,需之解)」という説明をあるサイトの記事でみつけました。40という数字の次には、算木の組み合わせの形、つまり卦が載っています(資料1)。その卦自身の「坤の解」を説明しているブログ記事もあります(資料2)。いずれも中文サイトです。推測を含みますが付記しておきたいと思います。この語句、どこに由来するのか?という関心から、少し調べた範囲ですが・・・・。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 2. 坤之第二 :「易学網」2) 坤之解:『北辰紫宮,衣冠立中。含和建德,常受天福。』 :「同安講堂」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺小堀遠州 → 小堀政一 :ウィキペディア中根庭園研究所 → NAKANE & ASSOCIATES ホームページ 「沿革」のページに、中根金作氏の略歴が載っています。遠国奉行 :ウィキペディア竜馬襲撃の報告文書を発見/伏見奉行所、所司代あて 2009/12/15 11:17 :「四国新聞社 Shikoku News」工兵第16大隊 :「ぶらり重兵衛の歴史探訪」易経 :ウィキペディア易経 :「コトバンク」易経ネット ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -1 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -2 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -3 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -4 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -5 へ 観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 拝殿 蟇股の美 へ
2018.01.05
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地上に降りる前に、向拝の屋根の裏側を眺めて惹かれたのが雲肘木の装飾です。一つ一つの意匠が違うのです。ここも正面からは見えないところです。見えない、あるいは見えにくいところにも、絢爛とした極彩色の装飾が施されています。まずはこの意匠をお楽しみください。 神鹿・花あり、人・神魚あり・・・・です。向拝の本殿右側、つまり正面に向かって左手の木鼻を写真に撮りました。 黄色い牙を持つ白象の形象なのでしょうね。向拝柱上部の装飾図、円の中には橘の紋章が施されています。足場の上から眺めると、本殿の正面階段の両側に、大きな陶製燈籠が据えられています。陶製のこんな大きな燈籠があったことに気づきませんでした。 また、これほど大きい陶製燈籠を見ることなど、滅多にありません。見ごたえがあります。 本殿の正面階段の両脇に武装した姿の坐像、随身が置かれています。ここでは神殿を護る役目を持つ神像と位置づけられるのでしょう。通常、背面を見ることはできませんので、これまたおもしろいものです。拝観用足場から下に降り、二重菱格子窓をあしらった塀の屋根越し、本殿の蟇股を眺めながら、本殿正面に回り込みます。 本殿正面に回ってから、随身像の相貌を拝見しました。 笑みを浮かべたにこやかな像でした。親しみがもてますね。狛犬の表情とは好対照。向拝の頭貫の上の蟇股は本殿の蟇股に彫られた花々や鳥たちと打って変わります。そこに彫られているのは、本殿正面の向かって、中央に龍、左に虎、右に獅子です。 そして、それぞれの下には紋章が取り付けられていますが、中央に三つ葉葵、左右に橘です。それら紋章の下は波浪の絵柄で統一されています。 中央の蟇股を少し位置を変えて眺めてみました。本殿を下から見上げると、檜皮葺きの屋根の勾配が優美です。 屋根の棟には、菊の紋章が煌めいていました。連休中でもあるせいか、参拝客が絶えません。三々五々、親子連れ、ご夫婦、友人同士など、様々な組み合わせの人々がお詣りに来ておられました。本殿の極彩美のご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。この後、お庭を拝見しました。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺随身 :「コトバンク」八幡神社随身門 :「文化遺産オンライン」東照宮随身門 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -1 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -2 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -3 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -4 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社の石庭~小堀遠州ゆかりの庭石~ほか へ 観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 拝殿 蟇股の美 へ
2018.01.04
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本殿正面の装飾は、やはり華やかです。まずは、本殿正面から見える右と左の両側面の木鼻です。 花の彫刻がそれぞれ異なります。そして、正面から眺めて、ずらりと交互に並ぶ斗栱(ときょう)と蟇股(かえるまた)。 蟇股の内側の彫刻がそれぞれ違う鳥なのです。 様々な鳥の姿態がおもしろい。番の鳥、子に餌を与える親鳥、鳳凰など。 柱も青色を主体にした柱が6本並んでいます。5間の建物幅ですから当然ですが。 本殿正面から見ると、右端の柱手(東側)が昇り龍、左端の柱(西側)が降り龍です。見えた範囲からの推測ですが、柱はどうも2本ずつが対となり昇り龍・降り龍になっているようです。また、柱上部の飾りの文様が、正面と側面では違うのです。正面は円の中に鳳凰、側面は円の中に抽象化された花模様がデザインされています。 本殿正面の回縁に飾られた狛犬はこれまた獰猛な表情の獣像です。獅子と狛犬がいます。正面から眺めて右の阿形像が獅子、左の?形像が狛犬です。狛犬の頭には角が生えています。これら獣像の表情には威圧感があり、まさに魔除けにピッタリ! 彩色木像で玉眼が施されています。 さすがに、本殿正面は間近にみることはできません。両側面から眺め、せいぜいズームで写真を撮っただけです。後は、本殿正面から眺めたり、本殿を囲む塀の二重菱格子窓の空間からズームで写真を撮りながら、しばらく極彩色の美を鑑賞しました。本殿正面の右側面から入り、本殿建物の2階相当部分の三側面を拝見して、左側面から地上に降り、本殿を囲むこの塀を正面に回りこみます。特設の拝観経路を歩み、本殿正面にあらためて至りました。正面から参拝し、拝見しましたので、この本殿に祀られている祭神を記しておきます。 主祭神 神功皇后(じんぐうこうごう) 併せて 第14代仲哀(ちゅうあい)天皇(日本武尊の第二皇子) 第15代応神(おうじん)天皇 六柱の大神 瀧祭神(龍田大神)、宇倍大明神(武内宿禰)、河上大明神(豊玉姫命) 若宮(応神天皇御子、第十六代仁徳天皇と御弟菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)命) 高良大明神(高良玉垂(こうらたまたれ)命)、白菊大明神(白菊翁)次回は、向拝とそこからの眺めを中心にまとめて、終わりたいと思います。つづく参照資料御香宮神社 ホームページ【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺御香宮神社 :「京都神社庁」蟇股 :「コトバンク」斗栱・蟇股・木鼻のお話 :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」狛犬 彫刻のおはなし:「京都国立博物館」狛犬 :ウィキペディア狛犬とは何か? 100万人の狛犬講座 :「狛犬ネット」阿吽の呼吸 :「故事ことわざ辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -1 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -2 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -3 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -5 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社の石庭~小堀遠州ゆかりの庭石~ほか へ 観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 拝殿 蟇股の美 へ
2018.01.04
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近くで鑑賞できるデメリットとして、手頃なデジカメでは全体像を写真に撮れません。 大凡はこんな感じです。そこで、細部を観察し、鑑賞していきましょう。 本殿右側面に回ると、脇障子として素の板戸がまずあります。そして、それと直角になる壁面には麒麟が描かれています。左側面の麒麟と合わせて、これで対と考えるのでしょうか。 さらに右側には錠の付いた観音開きの扉です。文様と形式は左側面と同じです。差異点はこちらの扉に錠があることです。 杉戸には竹と鶏図が描かれています。本殿正面に向かい左角になる柱には降り龍です。本殿は南面していますから、東から龍が上り、西に降りるという動きでしょうか。左側面と同様に、屋根の裏側上部から眺めていきましょう。 大瓶束の箇所には緑の龍図蟇股の内側には鳥の透かし彫りです。蟇股の外側には菊の花が咲き誇っています。冒頭の画像と合わせてご覧いただくと、上の二重虹梁と下の大虹梁とは花の絵柄が違います。大虹梁は葵のようです。二重虹梁は何の花でしょう・・・・。上下の虹梁の間には、 向かい合う鳳凰が描かれています。 頭貫の図柄は左側面を見ていただいた時と同じです。 本殿右側面で見る木鼻の彫刻の花柄がここでも異なります。 屋根の勾配が変化する本殿前方側の側面上部は、こんな草花の絵です。右側面を本殿正面側に乗り出すとこんな感じで繋がっていきます。次は両側面から本殿正面を眺めたものと、鑑賞用足場から降りて、本殿正面を下から眺めた箇所を合わせて、本殿正面を鑑賞することに致しましょう。つづく参照資料『図説歴史散歩事典』 監修-井上光貞、山川出版社 掲載の建物他の図解、図版で示された名称及び本文説明を参考にしています。 (私の解釈・理解に間違いがあるかも知れません。お気づきの点ご教示をいただきたいと存じます。)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鳳凰 :ウィキペディア竜 :ウィキペディア龍と竜の違いは? :「教えて!goo」神社建築 :ウィキペディア社寺建築名称・用語・解説 :「菅原木工」 ネット検索してみて、有益な学習資料を見つけました。参考になります。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -1 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -2 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -4 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -5 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社の石庭~小堀遠州ゆかりの庭石~ほか へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 拝殿 蟇股の美 へ
2018.01.04
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本殿の左側面の全体はこんな感じです。本殿2階は細幅の回廊がめぐらせてあります。拝観のために回廊部分がナイロンでカバーされており、その外周に参観通路の足場が出来ているのです。建物の側面を下か見上げるのでなく、目の前でじっくり観察し、鑑賞できるのはすばらしいですね。細部までよく見えます。麒麟図でしょうね。「中国の伝説上の動物。瑞獣といい、聖人の現れる前に出る」といわれているそうです。(参照1)雄を「麒」、雌を「麟」とよぶというのを、辞書を引いて初めて知った次第です。「体はシカ、尾はウシ、ひづめはウマとされ」(参照1)ています。まず思い浮かぶのは、キリンビールのあの商標に描かれた麒麟でしょうか。早稲田大学図書館所蔵の麒麟図(参照2)を公開画像から引用します。 こんな図を載せて説明している書物(参照3)もあります。これも引用です。朱色に塗られた扉に金色の装飾金具がきらびやかです。その線刻文様が繊細なのです。枝にとまる鷹の描かれた杉戸絵もなかなかいいですね。そして本殿正面に向かって右角になる柱に昇り龍が描かれています。 目を上に転じて見ましょう。そこは極彩色で描かれた世界です。大虹梁の上に二重虹梁が乗り、三段になったところに様々な意匠が施されています。二重虹梁の中央、大瓶束(たいへいつか)には靑龍が描かれ、蟇股は猿と木の透かし彫りになっています。枇杷の木でしょうか。猿がその実を食べています。上下の虹梁には蓮花が咲き誇り、蟇股の外側に菊花が満開です。 大虹梁と二重虹梁の間の壁面には天女飛天図が描かれています。天女というと、すぐ平等院鳳凰堂の天女を連想するのですが、神道と天女・・・どういう関係か?関心を抱き調べて見ると、トヨウケヒメで関係があるのですね。『丹後国風土記』逸文に出てくる奈具(なぐ)社の縁起に羽衣伝説に連なる話が出てくるそうです。丹後の比次山頂の真名井で水浴中の天女8人のうち1人が、天に帰れなくなった。老夫婦が羽衣を隠したのです。この天女が鎮守となった豊宇賀能売神(とようかのめのかみ)だとか。つまりトヨウケヒメなのです。(参照4)天女の両外側には鳳凰が羽を大きく広げています。屋根の裏側を見上げると、軒桁の側面にも花模様が施され、連三ツ斗は幾何学文様で塗り分けられています。木鼻にはやはり違う花の彫刻が見えます。頭貫の連続パターンがくっきりしています。軒桁の花模様が統一され、頭貫もその図案が統一されています。木鼻は花とりどり。垂木の先端には、文様をたたき出した金属板で包まれています。等間隔の均斉美です。 懸魚の上部に被せた装飾金具には、三葉葵の紋が飾られています。本殿左側面と右側面にはどのような差異が見られるのでしょうか? つづく参照資料1)『日本語大辞典』(講談社)2)「麒麟図」 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 3)『因循一掃』増山守正 著 :近代デジタルライブラリー(国立国会図書館)4)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著・柏書房 p174 トヨウケビメ :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺「麒麟 その聖なる獣-起源と図像の変遷をめぐって-」 北進一氏長刀鉾 一番水引幕(五彩雲麒麟図) 正面 :「KAWASHIMA SELKON」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -1 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -3 へ 観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -4 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -5 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社の石庭~小堀遠州ゆかりの庭石~ほか へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 拝殿 蟇股の美 へ
2018.01.04
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2013年5月の連休期間中に春の「京都非公開文化財特別公開」が開かれました。「古都の春 新たな出会い」(朝日新聞の別刷特集)に私の生まれ育った伏見の御香宮(ごこうのみや)神社が特別公開の対象に入っていました。冒頭の画像は本殿背面の斗供の木組を中心に撮ってみたものです。特集紙面で「本殿は徳川家康によって1605年に建立。1994年に極彩色の壁面が復元され、今回は19年ぶりの公開。ほかに小堀遠州ゆかりの庭も。」という紹介を読んだのです。1994年に復元されたということも、実は知りませんでした。そんなニュースを読んだという記憶がありません。さらに19年ぶり・・・・この機会を逃すと、いつ見られることか。生まれ育った郷土(今は隣接の宇治市在住なのですが・・・)を少し深く知りたい・・・そんな思いで訪れたのです。このときまとめたものを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)この公開のために、本殿外壁面の周囲に鑑賞用の足場が組み立てられました。そのため壁面の直ぐ目の前で本殿の障壁画や建物の装飾壁面を見ることができたのです。そして写真撮影もOKということで、ほんとにうれしい限りでした。本殿に向かって右側面から入り、本殿の裏側壁面を見ます。本殿の左側面、右側面と鑑賞して、反対側から足場を下るという形です。最終日前日の5日でしたので、比較的見学者も少なくて、ゆっくり鑑賞できました。本殿は五間社流造(ごけんしゃながれづくり)といわれる形式です。まずは本殿背面からのご紹介です。この背面の画像から、本殿が5間の桁行であることがお解りいただけるでしょう。5間の板壁面には連続した1枚の絵が描かれています。 壁面に向かって左側から眺めていくとこんな感じになります。目の前1mくらいにこの彩色を鑑賞できるのです。ほんと、いいチャンスでした。そして、上部を眺めると、三つ斗組の斗栱(ときょう)、つまり柱の上にあって軒をささえている組物がそのパーツごとに極彩色に塗り分けられ、朱色主体の建物の中で、鮮やかさを添えています。 そして斗栱の間は、板壁が漆喰壁のように白く塗られて、そこに蟇股(かえるまた)が描かれているのです。 その蟇股の中に、それぞれ違った草花が描かれています。なかなか凝った趣向です。 柱の横木である頭貫の先端、つまり木鼻がこれまた、両側面違う花柄で彫刻され極彩色なのです。こういう装飾形態、様式がすべて東照宮の装飾に集約・反映されていくのでしょうね。未だ東照宮を訪ねたことがないのですが・・・・。本や映像では何度も拝見しています。そして、本殿左側面に移ります。つづく【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺御香宮神社 ホームページ御香宮神社 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -2 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -3 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -4 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -5 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社の石庭~小堀遠州ゆかりの庭石~ほか へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 拝殿 蟇股の美 へ
2018.01.04
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2013年の興福寺国宝特別公開の続きに訪れた部分のまとめの再録です。奈良県立美術館の展覧会の印象記は覚書として最後に回し、奈良市内のスポット探訪の方をメインに加筆、再編集してご紹介します。 (再録理由は付記にて)興福寺北参道のところから東西の登大路を横断し、奈良県庁の西側から一筋北の通りを右折します。東に向かう突き当たりが、南北の幹線169号道路です。この突き当たりに見えるところが冒頭の景色のところ「雲井坂」です。以前にもこの道路を往復していましたが、この時までこの石碑を意識しませんでした。石には「雲井阪」と刻されています。このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。雲井坂は、「雲居坂雨」として「南都八景」に数えられていた「雲居坂」だそうです。「雲井坂雨」と表記されてもいます。南都八景は東大寺・興福寺の周辺で見られる景勝地を選んだものだとか。(資料1,2,3) 東大寺鐘、春日野鹿、南円堂藤、猿沢池月 佐保川蛍、雲居坂雨、轟橋行人、三笠山雪が選ばれています。 むら雨のはれ間に越えよ雲井さか みかさの山は程ちかくとも 藤原為重近江八景、金沢八景など、「八景」を選ぶというのは中国の北宋で選ばれた「瀟湘八景」をモデルにして景勝地を選定したのが由来のようです。石山寺や瀬田川流域を探訪したおり、「近江八景」を調べていて知りました。道沿いに更に少し北に行きます。緑地が続きます。 この緑の空間は、東大寺旧境内だったところです。この景色にみえる芝生の北隣、黒い壁面の建物が「吉野本葛天極堂」さんです。吉野葛を使った様々な葛料理で評判のお店です。この時はここで軽く遅めの昼食を食べ、しばし休憩しました。お店はこちらからご覧ください。店の大きなガラス越しに東大寺西大門址のこの一角を眺めることができます。この画像はお店を出てから撮ったものです。奈良県立美術館に行く折りには、歩道歩きをやめて、この緑地を歩きました。 上掲の「雲井阪」碑のあたりに、このゆったりとした池があります。木の傍に池の名称碑が建てられています。その北側には「轟橋」の碑があります。「轟橋行人」に関係する「轟橋」です。 うち渡る人めも絶えず行く駒の 踏みこそならせとどろきのはし 藤原冬宗この坂道の途中に元は川が流れていて、轟橋が架けられていたそうです。インターネット検索で調べていて入手した資料では、この石碑のある付近の道路歩道部分で違う色・材質の石が使われて意識的に区別されていることからそのように推測します。(資料1)もとは吉城川が流れていたようです。歩道を歩いているときはこのことを意識すらしていませんでした。嗚呼!奈良県庁の北側の東西の通りには、通りの北側に奈良県警察本部の建物があり、その西隣が午後からの目的地となる「奈良県立美術館」です。県警本部の前では、小学生の一団が白バイについて、警察官から何やら説明を受けていました。社会科学習の一環でしょうか。熱心に聴いています。 通りに沿って、この時の特別展の幡が街灯に取り付けられた金属棒に吊されています。 特別展 Kimono Beauty -シックでモダンな装いの美 江戸から昭和-この「奈良県立美術館」で開催されていました。ここを訪れるのは久振りでした。この特別展のことは、最後に覚書として残しておきたいと思います。美術館を出た後再び興福寺の北参道を南に向かい、境内を横切ってJR奈良駅に戻ります。鹿がゆったりと思い思いに・・・・ 鹿せんべいを売るおばちゃんが境内の一隅で談笑していました。猿沢池はこの坂道よりもどんと一段下になります。坂道の脇には、「植桜楓之碑」が建ち、傍には新たに碑についての説明板が建てられています。幕末(1846~1851)に奈良奉行を勤めた川路聖謨の呼びかけで「桜と楓の苗木を東大寺・興福寺両寺を中心に南は白毫寺西は佐保川堤まで植樹した」ということの記念碑なのです(説明板より)。夕方に向かう猿沢池も人が少なくなり始めています。亀や鳩がのんびりと・・・ 猿沢池の西北隅に位置する小さな朱色の社があります。春日大社の末社「采女神社」ですこの神社、不思議なことに鳥居を背にして後ろ向きに建てられているのです。『大和物語』にその伝承が記されているそうです。帝の寵愛が衰えたことを歎き、采女がこの猿沢池で入水し亡くなります。その霊を慰めるために社が建てられたのですが、池を見るにしのびないと神社を一夜にして後ろ向きにしたので、こうなっているというもの。その伝承が能に取り入れられて、謡曲「采女」が創作されたそうです。 奈良駅もすっかり様変わりしました。***** 特別展の覚書 ***** この特別展のチケット 購入した図録図録表紙にはチケットのきものの図柄の一部が使われています。特別展会場は勿論撮影禁止。この特別展のハイライトの一つは、ボストン美術館から里帰りしてきたビゲロー・コレクションのきものです。アメリカ人、ウィリアム・スタージス・ビゲローが収集したきもので、江戸時代中期から明治時代初期のきもの17領が特別出品されています。図録を参照して、鑑賞の印象を少し述べてみたいと思います。ビゲローは、133領のきものをボストン美術館に寄贈しているそうです。その中から17領が選ばれたことになります。ビゲローは日本で暮らした8年間の間に多岐にわたる日本の作品を収集しました。それを数回にわたり、ボストン美術館に寄贈したそうで、染織作品の寄贈は約1,000点に及ぶようです。チケットと図録表紙に掲載のきものは、勿論ビゲロー・コレクションの1点です。「白綸子地竹垣牡丹模様小袖」染に刺繍がほどこされた江戸時代の作品です。18世紀初頭、宝永・正徳頃の作と推定できるものだとか。ビゲロー・コレクションの中では最も古い時期の作品のようです。右袖の花籠のわずか一部がチケットには載っているだけですが、きものの図案としては、花籠からあふれ出た牡丹の茎と花がダイナミックに垂れさがる意匠です。「寛文小袖」の典型的意匠を取り入れ、そこに竹垣を配し、空白を小さくして大胆な構図を生み出しています。以前から、京博の常設展で結構きものの展示を見ていますが、いつも思うのは江戸期のきものの意匠のモダンさです。大胆で華やかな図案、意匠のおもしろさに惹きつけられます。きものの素材やきものの様式などについては、無知のままなのですが、きものに描かれたり、刺繍されたりしたその図案、意匠を見るのは大好きです。絵画鑑賞の感覚できものの作品を眺めています。大胆な意匠の作品がある一方で、非常に細やかで繊細な感覚の図案の作品もあり、目を楽しませてくれます。ビゲロー・コレクションと併せて、国内各地で所蔵されている各時代のきものを数多く拝見することができました。この展示でおもしろいと思った点がいくつかあります。1つは、寛文6年版「御ひいなかた」と称される江戸時代の小袖雛形本が出品されていることです。同種のものが何点か展示されています。つまり、きもの図案のカタログ集、スタイルブックなのです。精緻に縮小して描かれたきものの図案を見て、当時の人々も、これがいいねと発注していたのでしょうか。図録によれば、ボストン美術館には43種の小形雛形本が所蔵されているそうです。日本にはどれくらい当時の物が残っているのでしょうか。私は今回初めてこの種の雛形本を目にしました。2つめは、江戸時代の絵本の展示です。きもの姿の風俗が精緻に描かれています。勿論版木を起こして摺りあげた和綴じの絵本です。絵本の絵はなんと錚錚たる浮世絵師が名をつらねています。まさにオンパレードです。菱川師宣、西川祐信、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、葛飾北斎・・・・などなど。3つめは、江戸時代の髪飾りの優品が併せて展示されています。様々な材質と意匠の小道具です。櫛、笄(こうがい)、簪(かんざし)、それに紅板(携帯用の紅入れ)もあります。一点一点が結構凝った作品です。こういうところで、さりげなく贅と美を競った人々が存在したのですね。4つめは、明治・大正期のきものに関連した浮世絵、挿絵、絵画、ポスターが出展されていることです。竹下夢二を除いては、初めて名前を知った何人かの画家の作品がありました。知る人ぞ知る・・・なのでしょう。大正ロマンを彷彿とさせるきもの姿の絵を味わえました。最後に、きものに不可欠な帯の秀逸な作品群を楽しめたことです。ここにも様々な意匠・図案があって、興味深いものでした。**********ご一読ありがとうございます。参照資料1) 名勝奈良公園としての本質的価値 pdfファイル 奈良県2) 南都八景 :ウィキペディア3) 「南都八景」をご存知ですか? :「奈良公園」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺こんな講座ありました(奈良今昔~南都八景を巡る~) :「奈良市生涯学習財団」ウィリアム・スタージス・ビゲロー :ウィキペディアWilliam Sturgis Bigelow :From Wikipedia, the free encyclopediaVita William Sturgis Bigelow by CURTIS PROUT :Harvard Magazine日本美術に魅了されたボストニアンと日本人 :「ボストンという町」(神戸大学)和服 :ウィキペディア江戸時代のきものデザイナー 染織のはなし :「京都国立博物館」江戸時代の女性衣裳 :「日本の服の歴史 Maccafushigi」 続江戸時代の女性衣裳 続々江戸時代の女性衣裳(葛飾北斎編) このサイト、奈良時代から明治時代まで通覧できる秀逸な内容です。きもので知る江戸時代 :「文化デジタルライブラリー」ボストン美術館のコレクション kimonoで検索すると547件(2013.5.21) Museum of Fine Arts Boston Collection Search ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.01.03
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2013年4月に、美術館・博物館をハシゴしたときに、普段通り過ぎながらやはり目に入っていなかったもの・ことがあることに気づきました。如何に意識せずに歩いているか・・・・ということです。また、同じ通り道から一筋ズラして歩いて見ると、これまた色々と発見があるものです。その辺りを少しまとめていたものを再録しご紹介します。行政区分をまたがりますので、煩わしさを避け、「京都を歩く」としました。 (再録理由は付記にて)冒頭の町家は、京都文化博物館から御池通に出て、右折し東に進んでいくと、御幸町通との東角にある瀟洒な町家です。真新しい建物の感じです。以前がどうだったか・・・昔から何度も傍を通る機会がありました。しかし、思い出せません。 この庇屋根に置かれた鍾馗さんがいいなあ・・・なかなか見られない景色です。御池大橋の手前で、今まで気にも掛けずに通り過ぎていた駒札をみて、あっ!と思いました。 車道と歩道の境目に置かれている句碑夏目漱石の句碑だったのです。 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉 漱石 御多佳さんって、どんな人? また関心の波紋が広がります。後でゆっくり・・・・・・。取りあえずは先に進みました。後日、駒札をキッチリ読むと・・・ちゃんと解説がありました。そこから関心の波紋がさらに起こりました。夏目漱石は、お多佳さんのことをどこかに記しているだろうか?少し脇道に逸れ、補足します。「漱石全集」第26巻(岩波書店)の日記及び断片をチェックすると、漱石はやはり記しています。(p150~154)大正4年3月19日より4月9日までのところです。該当文の箇所だけ引用列挙してみます。漱石は19日(金)の朝、東京を発ち、当日京都に着いたのです。20日(土) 「晩食に御多佳さんを呼んで4人で11時迄話す。」22日(月) 「御多佳さん河村の菓子をくれる。」23日(火) この日漱石は「天気晴るれど腹工合なほらず」と記しています。24日(水) 「寒、暖なければ北野の梅を見に行かうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方へ行つて今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ夕方懸けたつて仕方がない。」25日(木) 「多佳さんと靑楓君と4人で話してゐるうちに腹工合少々よくなる。」27日(土) 「夕方から御君さんと金之助と御多佳さんがくる。・・・御多佳さん早く帰る。」29日(月) 「午後御多佳さんがくる。晩食後合作をやる。」[この日の後、4月8日まで日記は欠けています]9日(金) 「御多佳さんの一中節 大長寺と與次兵衛、河東節の熊野」また、この年の「断片」の記述の中に、〇御多佳へ手紙、アートと人格、人格の感化とは悪人が善人に降参する事 p158末尾の注解によると、磯田多佳(お多佳)さんは、大正6年2月号の『渋柿』に、この時の思い出を「洛にてお目にかかるの記」と題して文を記されているとか。 p245磯田多佳さんは、祇園白川にあったお茶屋「大友(だいとも)」の名物女将です。「文芸芸妓」ともいわれたそうです。夏目漱石は、大正5年12月9日に逝去(1867~1916)。俳号は愚陀仏。初めて意識したのですが、明治維新の前年・慶応3年1月5日に生まれているのですね。その後で、ウィキペディアの夏目漱石の項目を初めて検索してみました。なんとこの句碑が写真紹介されています。元に戻ります。橋を渡り、左折して川端通を少し北上し、仁王門通に入って、東に歩きます。東大路通を横断して、少し歩くとお寺があります。 このお寺の前を通る時、いつも「鬼子母善神」の石碑を見て通り過ぎてしまうのです。ふとその傍の石碑を見ると、「赤穂義士墓 當山ニアリ」と記されています。そして、山門の右手に「京都義士會」の表札が掲げてあります。この義士が赤穂義士を意味しているのですね。この表札は以前に見ていた記憶があるのですが、連想できていませんでした。再認識です。梅宮町の明智光秀の墓の探訪について既に再録しています。こちらは目的意識を持って当日予定に入れていたのです。そして、その先・・・・ 白川沿いに北の方向に戻ります。三条通を歩くのも代わり映えしないので、一筋南の通りを歩いてみようと決めました。この景色の小橋を渡るためです。橋の名前がおもしろい。「土居ノ内橋」帰宅後、地図を見ると、この橋を渡った西側が土居ノ内町なのです。土居→秀吉のお土居→鴨川の西側に築く・・・・とすると、ここって、鴨川の東、白川の西に位置する町なんです。なぜ「土居ノ内」なんだろう? 今、解決出来ない素朴な疑問です。ネットで何か分からないかと、ちょっと検索して見ましたが、手がかりをつかめていません。課題が残りました。三条通と平行な一筋南の通りを西に歩いて行き、東大路通を横断してさらに進むと南北の通りで突き当たりです。そこには、「大将軍神社」ありました。いつも三条通を往復するばかりでしたので、この神社があるなんて、意識していません。神社の境内は一つ西の通りとの間の全体が境内でした。つまり、こちらは東の鳥居です。鳥居の傍に、由緒の説明板があり、鳥居を潜って直ぐ右手にこの「大将軍神社記」という銘板が嵌め込まれた石碑があります。由緒とこの石碑の説明文の要点をご紹介しましょう。桓武天皇の平安遷都の際に、王城の四隅に大将軍を祀り、都を鎮護したのです。ここはその内の一つで、東南隅の大将軍(由緒)なのです。石碑には南大将軍と記されています。ここはスサノオノミコトの荒魂(あらたま)を大将軍と称し、当神社の祭神はスサノオノミコトです。一方、和魂(にぎたま)を天王と称し、平安城四方に祭ったとも記されています。丁度このあたりは、京七口と呼ばれた京への出入口の一つ、「粟田口」(=三条口:大津街道・東海道)への要地にあたります。外敵、邪霊の侵入阻止という意味で重要視されたのでしょう。由緒の説明で知ったのですが、このあたりは、藤原道長の父である藤原兼家が東三条殿を造営していたところだそうです。東三条殿は応仁の乱で荒廃したのだとか。子の道長は父・兼家の像を画かせ、ここに合祀したといいます。相殿に藤原兼家の神像が祀られているそうです。 南面している本殿 西の鳥居から入って来ると 本社殿の東側に蔵と小祠、神馬像 本社殿の建物正面の木鼻は真っ直ぐ正面を向いているものが多いのですが、ここのは左右が共に斜め内側を見ていておもしろい様式です。境内にはいくつか摂社が祀られています。東の鳥居側に「天満宮」、その傍に「東三条社」の石碑が建てられています。兼家の神像を合祀した証でしょうか。南隣に「白龍弁財天」の社が並んでいます。 西の鳥居側に荒熊稲荷社 西の鳥居それでは、四隅の大将軍神社とはどこなのか?少し、ネット検索をしてみると、 京都の西北・紙屋川 大将軍八神社 京都の北・紫野大徳寺門前 今宮神社の境内にある紫野大将軍社 上鴨社の対岸 西賀茂大将軍神社 京都の南 不明 現在藤森神社境内の摂社に大将軍社が所在するようです。区別するために、ここでご紹介した神社を東三条大将軍神社とも呼ぶようです。この辺り、かつての平安京の構造とのかかわりもあり、興味深いところです。各大将軍神社の祭神が異なるようでもあり、改めていつか大将軍神社の探訪をしてみたいと思っています。稲荷神社は京都・伏見区の稲荷大社を発祥の地にして全国に広がって行ったようです。「荒熊」稲荷社というこの名前に興味を抱いて、少しネット検索してみました。すると、荒熊稲荷神社としても同名の神社が西の方向に点々と所在しますね。検索でわかっただけでも、神戸市中央区、福岡県福岡市西区、佐賀県伊万里市にあります。他の神社名と併記で見つけたものには、忌宮神社/荒熊稲荷神社(山口県下関市)、住吉神社/白髭稲荷神社・荒熊稲荷神社(福岡市博多区)、鏡山稲荷神社/荒熊稲荷(佐賀県唐津市)などです。神社の分布は、人の移動と定着あるいは交流の深化でしょう。いつごろにどういう人々が西へ西へと活動範囲を広げて行ったのでしょうか。「荒熊」は何を意味するのでしょう・・・・。「大将軍」「荒熊」、歴史へのロマンがひそんでいます。今回は、ぶらり歩きでの京都再発見、そして感想のご紹介でした。ご一読ありがとうございます。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鍾馗 :ウィキペディア鬼子母神 :ウィキペディア史跡 御土居 :「京都市情報館」 このページに京都七口の説明・表示もあります。夏目漱石の句碑(京都市中京区) :「京都風光」 この句碑に関連した詳細な説明が載せられています。鍾馗博物館 ホームページ 日本経済新聞(2013.3.29)の「文化」欄で、小沢正樹氏の寄稿文 「小屋根の鍾馗さん百面相 京の民家の守り神、今日も探して町歩き」で知ったサイトです。 ご本人が開設されているサイト。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.29
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2013年2月に京都国立博物館での特別展観を鑑賞に行ったときにまとめたものを再録し、ご紹介します。再録にあたり、再編集して、特別展そのものの印象記は最後に覚書として残す形にしました。特別展観鑑賞後に今までは通過点に過ぎなかった箇所を見つめ直してみた部分をご覧いただければと思います。 (再録理由は付記にて)さて、2013年は、現在「平成知新館」と名づけられた新館の建設中でした。そのため特別展観だけが旧陳列館-現在「明治古都館」と称される-で、年数回開催されるだけだった時期です。それだからこそ、改めてこの旧館の外観部分を眺め直してみる機会になったのです。それまでは目にしていても通り過ぎる通過点として眺めているだけでした。改めて細部を眺めると、クラシックな外観がしっくりと落ち着いていてなかなか素敵なのです。機能美だけの建物ではない外観は見飽きることがありません。京博のある場所は、明治維新後寺院境内が収公されて、「恭明宮」(江戸から帰洛する和宮親子内親王のための御殿として造営)の敷地だったところで、そこにあった旧蓮華王院西門は移築されて東寺南門となっています。恭明宮の地が明治28年に京都国立博物館の建設地になったのです。この建物、1897年(明治30)年の竣工で、宮廷建築家片山東熊(とうくま)が設計し、フランス17世紀の華麗なバロック様式を取り入れたもののようです。片山氏の代表作は赤坂離宮だとか。 正面三角破風の彫刻も見事です。各部を拡大するとこんな感じ・・・ 上は仏教世界の美術工芸の神とされる毘首羯磨(びしゅかつま)、下は伎芸天です。 下部は玄関部分の両側が左右対称に彫刻されています。 建物名称の下部分の彫刻閉館間際の庭園を味わいました。 冬枯れの景色もスッキリとした冷ややかさを味わえます。博物館を出て、いつものように、蓮華王院(三十三間堂)の東側の道路を南に下ると、「法住寺」(天台宗)の門が閉まっていましたので、逆に山門扉の浮彫に目が止まりました。開門時に通過することが多く、意識になかったのです。山門の南側に龍宮門が並んでいます。そこで着目したのが、門前の石標です。 左の石標には「法住寺殿跡」と刻されています。 「法住寺殿跡」の石標の側面には、「四至」として、「東 東大路 西 大和大路 南 泉涌寺道 北 七條通」と示されています。 龍宮門の石橋手前の中央に、普段意識することのなかった「旧御陵正門」の石標が目立ちます。そして龍宮門前脇の石燈籠の竿(六角柱)前面に刻まれた「法住寺法華堂陵前」という文字と、「あそびをせんとやうまれけん」と刻まれた石碑。この門前も今までは博物館に行くとき幾度も通りながら、あまり意識せずに通り過ぎていたのです。これらを見て、おぼろげな知識を一度整理してみました。上掲画像中の言葉からピンと来た方はかなりこの周辺のこと、歴史をご存じの方でしょう。法住寺はまず、太政大臣藤原為光が、娘忯子(花山天皇女御)の死をいたんで988年に創建した寺なのですが、1032年末に焼失します。平安時代後期中葉、この地に法住寺堂や邸宅が藤原信西(藤原通憲)により造営されますが、平治の乱で再び焼亡。その後、後白河天皇が出家後、法住寺殿を後院として造営し、1161年4月13日にこの地に移ります。その時は、七条大路をはさんで南北約400m、大和大路以東約400mに及ぶ規模だったそうです。この法住寺殿西側に当たる現在地に平清盛が1164年、私財を投入し造進したのが千体観音堂です。この功によって、清盛は備前守に任じられています。ところが、1183(治承3)年、清盛は法住寺殿を襲わせ、院政を停止させ、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する挙に出ます。1183年11月に木曽義仲が南殿(正殿)を焼き打ちし、源頼朝が再興したそうです。しかし後白河法皇の死後に荒廃します。蓮華王院の本堂は1249年(建長元)年の京の大火で焼失。1266(文永3)年に再建・落慶法要されます。これが現在の蓮華王院であり、「三十三間堂」の通称の方がよく知られているお堂です。少し横道にそれますが、蓮華王院という名称が付けられたのは、平等寺縁起によると、後白河法皇の前生は熊野にあつて蓮華坊という人だったというお告げを貴僧から告げられたのだとか。法皇は頭痛持ちだったようですが、それはこの前生の髑髏が朽ちずに岩田河の水底にあり、その髑髏の頭より柳の樹が貫いて生えていて、風が吹くと動揺するからなのだという。そこで探させると髑髏があったので、その髑髏を得て、観音の頭中に籠めたとか。(『都名所図会』)三十三間堂では、1月9~15日には、頭痛封じや悪疫退散で知られる「柳のお加持」(楊枝浄水法)が行われています。法住寺の裏手つまり東側には、後白河天皇法住寺陵があります。宮内庁管轄ですが、法住寺の北側の通路から御陵の前までは行けます。かなり以前に訪れたことがありますが、この日道路に面した鉄柵の門がはや閉まっていました。後白河法皇が1192(建久3)年3月に生涯を終えたのは、六条西洞院にあった長講堂(現在は下京区富小路五条下ル)です。焼失した法住寺殿の敷地に、法華堂がつくられ後白河法皇の御陵とさだめられたのです。三十三間堂に対面した形で、後白河法皇の法華堂は、建礼門院の法華堂の南側に位置したようです。この法華堂建立ということで、石灯籠に記されたことの意味が理解できます。法華堂内には伝運慶作の上皇木像を祀っています。そして、法住寺は後白河法皇の御陵寺として続くことになります。江戸時代には法住寺が、妙法院門跡の「院家」として待遇されていたことが、古文書からわかるとか。明治になって、後白河天皇陵と妙法院門跡法親王の墓所が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれます。そして、一時期「大興徳院」と称しますが、昭和30年以来、「法住寺」の名前を伝えるために、「法住寺」に復称されたとのことです。最後に石碑の章句「あそびをせんとやうまれけん」は、次の今様の一部です。「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」後白河法皇が好んだ今様の一つの頭の句が刻まれているのです。後白河法皇は『梁塵秘抄』として多様な今様歌謡を集成しています。政治の分野で権謀術数に明け暮れた人が、一方で、白拍子らを相手に歌っていとまなかったそうです。この歌は『梁塵秘抄』の第359番目で、巻第二・雑八十六首の中程に出てきます。後白河法皇の信条に通じる歌だったのではないかなあという気がします。 龍宮門の屋根の左右のデザインが違うのも興味深いものです。 蓮華王院の「南大門」を通り抜けて右折し、蓮華王院の築地塀を見上げて、軒丸瓦の文に初めて目が止まりました。法住寺の龍宮門の屋根瓦を見てきた直後でもあるからでしょう。そして、この文が豊臣秀吉の紋であることに気づいたのです。手許の本を参照したうえで、蓮華王院のホームページにアクセスして、「太閤秀吉と三十三間堂」という項目を知り、重ね合わせて理解が深まりました。1586(天正14)年に秀吉がこの三十三間堂の北隣に方広寺を建てたとき、千手堂として境内に包摂し土塀を築いたのです。その遺構が南大門とこの築地塀(太閤塀)だったとのこと。歴史的経緯を知ると面白いものです。京都タワーの上部にカバーが掛けられていました。こんな景色を見るのは初めてです。また目にする機会があるでしょうか・・・・・。意識的に観照してみると、興味が深まります。***** 覚書(印象記) *****2013年2月6日(水)の午後、京都国立博物館にて、「国宝 十二天像と密教法会の世界」(2013.1.8~2.11)を鑑賞しました。特別展観の案内ちらしに記された言葉は、「平安の祈り 乱世の無常」。「成立800年記念 方丈記」が同時開催でした。こちらにも関心がありました。国宝十二天像を一堂に鑑賞するのは初めてです。空海が唐から帰朝し、仁明天皇の許しを承和元年に得た後、承和二年(835)から宮中で「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」を始めたそうです。正月の宮中節会の後、8~14日の7日間行われる国家の鎮護を祈る修法(法会)なのです。この時に十二天像と五大尊像の仏画像が使用されます。かつては、大内裏の中に真言院という道場が特設されていて、そこで法会が営まれたのですが、現在は東寺の灌頂院で続けられているといいます。十二天というのは、日天・月天・水天・風天・閻魔天・羅刹天・帝釈天・火天・毘沙門天・伊舎那天・地天・梵天です。十二天がすべて揃っているものでの出展は、京博(国宝)、奈良博(重文)及び神護寺(重文)の所蔵品でした。神護寺のもは十二天屏風。それ以外に、全部が揃ってはいませんが、西大寺、仁和寺、京博(重文)、聖衆来迎寺、個人二家分蔵のものも展示されていました。これだけ十二天が一堂に鑑賞(観照)できると、見ごたえがあります。京博所蔵の国宝十二天の内の閻魔天のお顔が柔和だったのが、私にはすごく印象的でした。この修法にまつわる歴史や、「年中行事絵巻(模本)」に描かれた法会の場(環境設定)の詳細な図、そして修法をささえる密教法具(大壇具)-結界具と供養具-が整然と大壇に並べられた状態、法会に使用される山水屏風なども興味深いものでした。「方丈記」の特集陳列では、鴨長明自筆という伝承がある大福光寺本(重文)を全文拝見できました。これもまた、滅多にない機会でした。この特別展観の折には、次のチラシを各所で入手できました。 記録として引用しておきます。再録にあたり序でに補足です。特別展観の会場で鑑賞後に購入した図録の表紙もご紹介します。この表紙に十二天像から円形に切り出した図像部分がデザインとして配置されています。上段から、左、右の十二天図像の名称を記します。 日天 ・ 月天 水天 ・ 風天 羅刹天 ・ 焔魔天 帝釈天 ・ 火天裏表紙は上から順に、伊舍那天(いしゃなてん)、毘沙門天、梵天、地天です。図録の解説を参照しますと、密教の法会として「七日御修法」が行われた折に、十二天像は道場を守護するために掛けられたといいます。承和2年(835)、空海の奏請によって正月八日から宮中真言院で七日の修法が行われるようになった、というのがこの密教法会の始まりだとか。十二天の名称で私たちが良く目にする組み合わせは、「日・月」「風・火・水・地」「梵天・帝釈天」と単独で毘沙門天です。「日・月」は天部の像としてよりも、日光菩薩像・月光菩薩像の対として目にする方が多いように思います。「風・火・水・地」を良く目にするのは、五輪塔と呼ぶ石塔の構成に組み込まれている要素です。この石塔は下部から「地輪・水輪・火論・風輪・空輪」と称される5つの要素で構成されていますので五輪塔です。梵天・帝釈天は東大寺三月堂の本尊不空羂索観音像の脇侍像としてよく知られています。また帝釈天は常に阿修羅と戦う神としてご存知かもしれません。阿修羅と言えば、すぐに興福寺のあの阿修羅像を思い浮かべますよね。毘沙門天は単独で信仰されるときの名称ですが、多聞天という名前で「四天王像」の一つです。須弥壇の四隅、東西南北の方位で守護する天部像として欠かせない存在です。これもまた、東大寺の戒壇堂の四天王像が有名です。地獄絵図に登場する閻魔大王は、密教で形容が変わりますが「焔魔天」と称されるそうです。私にとりあまり馴染みのない名称が「羅刹天」「伊舍那天」です。羅刹天は「悪鬼で通力よく人を魅しまたは食うという。のち仏教の守護神となり羅刹天」(『新・佛教辞典』誠信書房)に位置づけられたそうです。「伊舍那天」は「欲界の第六天に住む天神」(同書)だとか。○○天と称される天部の像は、仏教に取り入れられて守護神となったものですが、その源流はインドの神々に由来するようです。**********ご一読ありがとうございます。参照資料 特別展観図録『国宝十二天像と密教法会の世界』 京都国立博物館 2013 『京都府の歴史散歩(上)』 山本四郎著・山川出版社 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 『京都史跡事典』 石田孝喜 新人物往来社 『新訂 梁塵秘抄』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 「京都国立博物館庭園マップ」 法住寺(京都市):ウィキペディア 「法住寺殿の成立と展開」 上村和直氏 :「京都市埋蔵文化財研究所」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺法住寺 :「京都観光Navi」法住寺 :「HIGASHIYAMA」 後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺今様合(いまようあわせ)~のご案内 :「法住寺」今様合わせに会(法住寺) :「きょうの沙都」 蓮華王院三十三間堂 ホームページ 創建と歴史 → 「太閤秀吉と三十三間堂」 後白河天皇 :ウィキペディア妙法院梁塵秘抄 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)その後にまとめたこちらの方も併せてご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へ
2017.12.29
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[探訪時期:2014年4月]前回載せた「しゃくなげ渓」案内標識のあるところから、県道262号線を南西寄りの方向にしばらく下って行きます。途中で渡る橋の傍に、「松風の滝、お夏茶屋」という駒札が建てられています。しかし、滝は枯れ、もとあった茶屋の建物はなくなり「石楠花ウッディハウス」に建て替えられています。鎌掛城跡への登り口になる橋を左側に見ながらもうしばらく下ります。 「屏風岩」への道標があり、そこからこの城山の北側斜面の麓に向かいます。 滝谷の河川工事が行われていました。地元の人の要望を取り入れ護岸の一部に地元の鎌掛石を利用し改修工事が終わった部分が見えています。この谷川を左手に渡ったあたりが、「鎌掛山屋敷遺跡」でした。蒲生氏の居館だった山屋敷の縄張図が当日のレジュメに掲載されていました。引用させていただきます。これが「鎌掛山屋敷概要図」(振角卓哉氏作成の図)です。山屋敷跡は比較的土塁や堀跡がわかりやすく残っています。 この画像の「土塁」標識の立つ傍の高まりが、 この概要図の土塁跡のところあたりです。画像の奥側が山の斜面になりますので、概要図を上下逆さまにして合わせてみました。 「横堀」標識のある位置が堀跡になります。山麓斜面の高い側、つまり南から北へ下がって行く横堀を眺めています。左側には土塁の上に人が立ち、右側には「横堀」の外側に回った人々がボランティアガイドさんから説明を聞いているのです、 この山屋敷跡の主郭部分あたりにグループ単位で探訪していた参加者が全員集合しました。「蒲生氏の盛衰 有力国人から豊臣大名へ」と題した解説を文化財保護課の方から拝聴しました。蒲生氏がこの日野地域を国人として領有していた時代、鎌掛城はその支城だったようです。蒲生秀行の死後、蒲生氏の内訌が起こります。音羽城の蒲生秀紀(秀行の嫡子)は六角定頼に攻撃されて籠城8ヶ月で降伏し、鎌掛城に移ります。叔父の蒲生髙鄕に秀紀が暗殺されるまでは、この山屋敷を居館としていたのでしょうか。(資料1)蒲生氏郷の父、賢秀が隠居所として余生を送ったところでもあるそうです。(資料2)「曲輪」標識は天地逆にした山屋敷跡図の右手側(つまり、西南側)から眺めた景色この山屋敷跡は南北120m、東西30m位の規模だとか。正法山側の斜面にある坂道を上ります。 滝谷の対岸、城山の急傾斜の山腹に見える屏風岩 元は六曲屏風のように立って見えた巨岩があったそうです。説明板にあるように、江戸時代の中頃から石垣用の石材として切り出されて残った部分が現状の姿だとか。ここの石が「鎌掛石」と称され広く用いられたようです。岩質は古成岩の堆積角岩。粘板岩と珪石より成ると言います。この後、山裾を回って正法寺に向かいました。 参道の入口近くにある案内図 参道の途中から案内図の方向を眺めたものです。 緩やかな参道を上っていくと、地蔵堂が見え、傍の駒札からこのお寺が臨済宗妙心寺派の禅寺であることがわかります。御本尊が十一面観世音菩薩立像であることから、「日野観音霊場第13番札所」になっています。左折して境内に入って行きますと、左手にお寺についての説明駒札が建てられています。その背後に見えるのが「閻魔堂」です。しばらくの境内自由散策タイムがとられる前に、ボランティアガイドさんの案内で拝見したのがこの石造宝塔です。 傍の説明板には「正法寺宝塔」と題して詳しい説明が記されています。国指定重要文化財となっています。高さは2.75mあるようです。(資料2)日野観光協会・鎌掛公民館が建てられた説明板には、「衆人の浄財によって造立されたこと」と「造立当時からここにあったのか、他から移建されたのかは不明だが、正法寺本堂厨子内に伝わる二躰の鎌倉期の天部像とともに、この地方の歴史を探る上で重要な文化財であろう」とも記されています。閻魔堂の先には、放生池があり、反り橋を渡ると、その参道の先に正法寺本堂があります。 石造宝塔の側からの放生池の眺めです。江戸以前は後光山と呼ばれていた山が、正法寺が創建された以降は正法寺山(標高362m)と呼ばれることになったそうです。駐車場からは30分ほどで山頂まで登れる里山なのです。正法寺散策案合図や入手資料を見ると、山の途中に行者堂(岩間観音)、修験の岩(堆積岩)があり、山頂には頂上観音が祀られているようなので、登ってみたかったのですが、バスの時刻などの絡みで今回は山頂を眺めるだけにとどめました。山頂の「頂上観音堂」は平成21年11月に地元鎌掛地区によって新しく設置されたのだとか。(資料2)境内には大日堂や稲荷神社、金比羅宮、天満宮も祀られています。稲荷神社が勧請されたことにはこの土地の伝説があるのです。神社の所に「稲荷神社の伝説」という説明板がありました。ご紹介しておきましょう。「江戸時代も終り頃、正法寺の和尚さんが毎朝毎晩本堂でお経を唱えていると、そのたびに後ろの方で何かが動く気配がします。なんだろうと振り返ってみると白い毛の年老いた狐が、本堂の縁に来ております。お経を唱えるたびに狐の姿が現れます。 このことを和尚が村人に話すると、その白い狐を見た人は沢山いて、その白狐は石楠花谷へ行く途中の山に住み着いている狐とわかり、狐もまた年老いて観音様のお慈悲に縋りたくなったのだろうと話し合われそのために、京の伏見にある稲荷大明神をお迎えし、明治時代の初めにこの社が建てられました。」ちょと面白く感じるのは、明治の初めなら廃仏毀釈・神仏分離が世間を風靡した時代だったのではということです。そのころにお寺の境内に神社を勧請することも事実あったという事例になりますね。他にも神仏分離をしなかった寺社も現存するので、土地土地により様々な様子が窺える一例としてふと興味深く思っている次第です。日野商人(近江商人)を生み出したこの地では俳句が広く嗜まれてきているのでしょうか。境内にはいくつか句碑が建立されています。 観音の甍みやりつ花の雲 松尾芭蕉 江戸時代・文政年間(1818-1829)に建立された句碑 日野商人で俳句を嗜む人が芭蕉を偲んでたてたのでしょうか・・・・。 この句は、貞享3年(1686)、芭蕉43歳の時に詠んだ句です。(資料3) さまざまな別れにあいぬ露の秋 山上荷亭 鎌掛の誓敬寺(真宗)住職。俳句の指導者。1971年秋句碑建立 青き踏む近江も湖の遠き野に 皆吉爽雨(みなよしそうう) 皆吉爽雨は山上荷亭他日野町俳人の師。1983年3月句碑建立これらの句碑がどのあたりにあるか、藤の寺を訪れて確かめて見てください。芭蕉の句ですが、参照した本の脚注にはこの句には前書が付されていて、それは謡曲「西行桜」の一節なのです。「毘沙門堂の花盛、四天王の栄花も是にはいかでまさるべき。うへなる黒谷・下河原。むかし遍照僧正のうき世ヲいとひし華頂山、鷲の深山の花の色、枯にしつるの林までおもひしられて哀なり」このことから考えると、この句碑を建てた人は、正法寺の観音と藤の花をこの句に重ねて行き、新たな句意の受け止め方を展開させていたのでしょう・・・・。そんな気がします。正法寺は別名「藤の寺」と称されています。逆にいまでは「藤の寺」の方が有名になっているそうです。藤は創建時に植えられたという伝えがあるそうで、旧山名から「後光藤」と呼ばれ、案内図にも後光藤と明記されています。「花房が1m以上にもなり、5月中旬を盛りとして見事に美しい藤の花を棚一杯に咲きゆらします」(資料2)とのこと。正法寺山の北側山裾、正法寺境内の続きの場所に、「日野ダリア園」が広がっています。このダリア園の観光を兼ねて、藤の寺を訪れている人々にかなり出会いました。ここでは、春の牡丹・芍薬とクレマチス、夏から秋のダリア、冬から春はイチゴ狩りなど、四季を通じて楽しめる花の鄕になっています。(資料4)これで、みたびめの日野町についての観照&探訪記を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1)「蒲生氏の盛衰 有力国人から豊臣大名へ」当日配布資料(滋賀県・文化財保護課) (探訪 [近江水の宝] シャクナゲの里をゆく -鎌掛谷シャクナゲ群落と蒲生氏の居館・山屋敷遺跡-)2)「正法寺山周辺散策ガイド」リーフレット 正法寺山を愛する会作成3)『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 p884)「滋賀県日野町」観光案内リーフレット 日野観光協会・日野町役場補遺地学フォト巡検記 鎌掛の屏風岩 吉田史郎氏 地質ニュース556号(2000年12月) 正法寺(藤の寺) :「滋賀県観光情報」 関西の藤の名所 :「花の名所一覧」 日野ダリア園 ホームページ 鎌掛 :ウィキペディア 寺社の項に、「正法寺」「誓敬寺」の名前も出てきます。皆吉爽雨 :ウィキペディア藪入り :「575筆まか勢」 このブログ記事 「藪入り」の例句リストに山上荷亭の句が載っています。 裏戸よりつとかけ込みて藪入す 山上荷亭 下から9つめです。 近江鎌掛城 :「近江の城郭」 鎌掛城 :「秋田の中世を歩く」 新近江名所圖会 第147回 蒲生氏ゆかりの地-中野城から音羽城・鎌掛城へ- :「滋賀県文化財保護協会」 ボタン :ウィキペディアシャクヤク :ウィキペディアクレマチス :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 [再録] 滋賀・日野町 みたびめは花に引かれて -1 鎌掛谷ホンシャクナゲ群落 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡ふたたび -1 中野城跡、涼橋神社、興敬寺、大日堂 へ 4回シリーズでご紹介した探訪記の第1回目です。探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -1 信楽院(蒲生家菩提寺)と雲竜図 へ 7回シリーズでご紹介した探訪記の第1回目です。
2017.07.10
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2014年4月26日(土)、探訪会「シャクナゲの里をゆく」に参加しました。これは平成26年度滋賀県教育委員会文化財保護課が主幹されている「歴史探訪等のイベント」の第1回です。事務局とボランティアガイドの皆さんのお世話になりました。感謝!滋賀県日野町にある鎌掛(かいがけ)谷ホンシャクナゲ群落を観て、蒲生氏の居館・山屋敷遺跡、屏風岩、正法寺(藤の寺)を訪れてみようという探訪企画です。日野町探訪の再録によるご紹介の一環に、この時のまとめも加えておきたいと思います。タイムリーさには欠けますが、日野町の魅力を知るには良いかと存じます。なお、日野鎌掛の里は、8月下旬~11月初旬は、ダリアが咲き競う地に変身することを追記しておきましょう。日野ダリア園が2002年にオープンしています。こちらについては、ここからアクセスしてみてください。(花の郷日野ダリア園ホームページ)天然記念物のホンシャクナゲ群落が観られる時季、つまり2014年4月26日(土)~5月6日(祝・火)に「しゃくなげ渓」が開園されていて、臨時バスの運行の便宜も図られていました。今回の探訪はその初日に合わせた企画でした。「シャクナゲは滋賀県の郷土の花として知られ、春に紅紫色から白色の美しい花を咲かせる」のです。このシャクナゲは、昭和29年(1954)に行われた「郷土の花選定運動」での投票により選ばれたそうです。(資料1)冒頭の画像がその場所・鎌掛谷にアプローチする入口です。「しゃくなげ渓」という標識が道路脇に出ています。駐車場傍に大きな看板が建てられていて、一番奥に「森の家」という案内所兼特産品販売コーナーのある建物があります。下の部分地図(観光案内リーフレットから引用)をご覧ください。日野町の南東方向に位置します。大凡の位置はこれでご理解いただけるでしょう。詳しい地図(Mapion)は、こちらからご覧ください。現地の案内用に作成された「しゃくなげ渓Map」です。これも参照しながら、ご紹介したいと思います。(資料2)「森の家」近くにもシャクナゲが咲いています。「森の家」に向かって右側が入園受付場所になっています。車道はしばらくの区間、歩行者専用になっています。その先の車道は「しゃくなげ池」の傍まで園内バスがピストン運行されていて車道の歩行は禁止です。私たちは谷川に架けられた木橋を渡って遊歩道を歩みます。 赤いカーネーションツバキが咲き誇っていました。 ピンク色の椿も咲いています。 遊歩道沿いの谷川畔にもシャクナゲが点在しています。 「しゃくなげ池」の入口付近には桜がまだ満開状態でした。 いよいよ鎌掛谷沿いの遊歩道に入り渓谷沿いに山道を登っていきます。「天然記念物鎌掛谷ほんしゃくなげ群落地」の起点です。 谷川の対岸の渓谷斜面にホンシャクナゲの群落が見えます。爺斧岨(やぶそ)川渓谷の急峻な岩盤斜面に群生しているのです。斜面の傾斜は40度以上になっています。(資料1)例年よりも少し早めに開花があったようで、初日からかなり花開いている状態を鑑賞できました。これからしばらくは、一層花の盛りを観ることができることでしょう。何カ所かに説明板が建てられています。ホンシャクナゲは普通は標高800~1000mに自生するそうなのですが、この鎌掛谷では標高350m前後のところに群生しているのが観られるのです。 「ホンシャクナゲは本州の中部地方以西と四国に分布するツツジ科の常緑低木で、比較的標高の高い渓谷の斜面などに生育し、適度な湿り気を持った土壌を好む。樹高は4mほどで4月下旬から5月中旬にかけて」開花するそうです。(資料1)比較的緩やかな山道・Aコースを登っていくと途中から展望台までが少し急な階段状の登道になります。その距離はわずかですガ・・・・。展望台から対岸の山を見たところ。画像の右側に群落が見えます。「しゃくなげ池」への戻りは、Aコースを引き返すのですが、オプションでさらに少し登ってから下って行く山道・Bコースを利用できますとのことで、Bコースを選択。途中から探訪グループのメンバーに合流することにしました。 Bコースの山道に脇には、ツツジも咲いています。 ホンシャクナゲの花も少し観られます。ただし、BコースではAコースで観た対岸の群生景観は樹木に遮られてほぼ見られませんでした。そして、「しゃくなげ池」畔で昼食休憩。午後は鎌掛山屋敷跡の探訪からとなりました。この「しゃくなげ池」は「農林省の直営事業によって昭和16年に竣工した砂防堰堤によって形成され、現在は灌漑池としての機能も備えている」のです。(資料1)これが「しゃくなげ池」の景色です。池の上流側からの眺め。 爺斧岨(やぶそ)川に架かる「しゃくなげ橋」を渡った先からの眺めです。 池の下流側から上流側を見た眺め再録にあたり、追記します。手許の歳時記を引くと、一書には「シャクナゲ」は漢字で春・四月の季語として「石南花」で載っていて、季語の説明の中で、「石楠花」とも記されています(資料3)。もう一書には、「石楠花」で載り、夏の季語としています。そして、「石楠花の名はよく知られているが、漢名を誤用したもので、中国でいう石楠花はまったく別の植物である」とも(資料4)。もう一書も夏の季語として取り上げています(資料5)。中国ではどんな植物のことをいうのでしょう・・・・・。その具体的な説明はありません。収録されている俳句をいくつか引用して、ご紹介します。私の好みでの抽出です。 石楠花や雲の中なる行者みち 河村宰秀 禅苑の石南花明りして静か 松尾千代子 石楠花は日蔭をよしと盛りなる 高浜年尾 石楠花や朝の大気は高嶺より 渡辺水巴 石楠花の岩落つ水は淵をなす 石橋辰之助ネットで検索していて、島木赤彦が「木曾街道より入ること六里にして氷ヶ瀬に至る」と詞書した十首のなかで石楠花を二首で詠んでいることを知りました。(資料6) 石楠(しゃくなげ)は寂しき花か谷あいの岩垣淵に影うつりつつ 石楠の花にしまらく照れる日は向うの谷に入りにけるかな 日本原産種に、ツクシシャクナゲ・キバナシャクナゲ・ハクサンシャクナゲ・ホソバシャクナゲなどがあるそうです(『日本語大辞典』講談社)。原産種がある花のようですが、手許の『萬葉植物事典』をチェックしてみると、『万葉集』にはこの花名で詠まれた歌はありません。また、日本国際文化研究センターの和歌データベースの検索機能で「しゃくなげ/しゃくなけ/石楠花/石南花」の語句を検索してみましたが、シャクナゲを詠み込んだ歌はヒットしませんでした。桜や梅だと300首以上ヒットします。シャクナゲは上記のとおり滋賀県の県花(郷土の花)です。またネパールの国花でもあるそうです。その花言葉は、「威厳」「荘厳」であり、一方で「警戒」「危険」をも意味するとか。(資料7)シャクナゲからの波紋が広がりますが、一旦この辺りで立ち止まりましょう。つづく参照資料1)「近江水の宝 鎌掛谷ホンシャクナゲ群落 日野町鎌掛」 滋賀県教育委員会・滋賀県埋蔵文化財センター 2)「滋賀県日野町」 二つ折りA4リーフレット 日野観光協会・日野町役場 「平成26年度滋賀県・日野町 しゃくなげ渓Map」 同上 (上掲写真の裏面には、日野町Map、しゃくなげ渓行臨時バス時刻表等掲載)3)『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂4)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所5)『吟行版 季寄せ草木花 夏[下]』 選・監修 中村草田男 朝日新聞社6) 第2回 四月「石楠花・しゃくなげ」 歌人・田中保子氏 :「京都・花の詩・花のこころ」7) シャクナゲ 花言葉 :「花言葉事典」補遺鎌掛谷ホンシャクナゲ群落 学習シートNo.115 :「滋賀県総合教育センター」日野観光協会 ホームページシャクナゲ :ウィキペディアホンシャクナゲ :「みんなの花図鑑」シャクナゲ :「花と緑の図鑑」美郷町ホンシャクナゲ自生地 :「島根県」県の木・郷土の花・県の鳥 :「滋賀県」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 [再録] 滋賀・日野町 みたびめは花に引かれて -2 鎌掛山屋敷跡遺跡、屏風岩、正法寺(藤の寺)へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡ふたたび -1 中野城跡、涼橋神社、興敬寺、大日堂 へ 4回シリーズでご紹介した探訪記の第1回目です。探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -1 信楽院(蒲生家菩提寺)と雲竜図 へ 7回シリーズでご紹介した探訪記の第1回目です。
2017.07.09
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