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御池庭の北岸の北に仕切りの築地塀と門があります。門をくぐると東側が 「御内庭 (ごないてい)
」
です。
京都御所の案合図
から切り出した 部分図の引用
です。 (資料1)
御内庭は「曲折した遣り水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奧に茶室を構えている」 (資料1) のです。
まずは、庭部分を拝見しながら北に進んだ後、折り返して「御常御殿」の内部を北から南に拝見しながら御殿の南側を右折して西方向に進みます。
それでは、御内庭のご紹介からです。木々が紅葉した御内庭の景色は2010年秋に訪れたときに撮ったものです。春秋の景色を織り交ぜていきたいと思います、
御内庭の庭木の間から北に建物が見えます。これが 茶室 のようです。案内図では 「聴雪」 と記されています。
御内庭で北方向に入れたのはこの飛石伝いの通路の手前まで。通路の先の門は 「御涼所」 と称される建物への入口です。御涼所はその名が示すとおり、天皇が夏季の納涼のための御座所として使用された建物といいます。 (説明板より)
左の写真は「御涼所」の南に連なる建物です。案内図では 「迎春 (こうしゅん) 」 と記された建物です。孝明天皇が所見の間として使われたところだとか。 (説明板より)
この建物と廊下で繋がり、南に位置するのが「御常御殿」です。
この写真は、 「御常御殿」の御内庭に面した東面
を撮ったものです。
その名称が示す通り、「天皇日常のお住まいとして使用された御殿で、16世紀末以降、清涼殿から独立して建てられるようになった。内部は15室からなる入母屋桧皮葺の書院造りの建物」 (資料1)
です。
建物の北側から廂の間を南に眺めたところ
。正面に 杉戸
が見えます。
ズームアップしてみると、右の絵が描かれています。この杉戸は一の間と御小座敷上の間を仕切る杉戸です。描かれているのは 岡本亮彦筆「蹴鞠」
です。この 杉戸の背面には岡本亮彦筆「曲水(宴)」
が描かれています。写真は撮れませんでした。
岡本亮彦( すけひこ
、1823-1883)は、呉春門人・小栗伯圭の息子ですが、上京し、四条派の岡本豊彦に師事し、岡本家の養子となったのです。安政度御所造営に参加し、御学問所菊ノ間を担当しているそうです。
(資料2)
御殿の北面、廂の間の上部
御常御殿の東面する部屋は、北側から「二の間」「一の間」「御小座敷 上の間」「御小座敷 下の間」
と名付けられています。
二の間 鶴沢探真筆「四季花鳥図」
2010年秋
には、この二の間に、 人形師・伊東久重氏の作品
が展示されていました。
2014年 秋
一の間 狩野永岳筆「桃柳 (とうりゅう)
」(朗詠ノ意)
狩野永岳(1790-1867)は京狩野派九代目で、京狩野派の掉尾を飾る画家です。安政度御所造営に参加し、御用絵師となった人。前回にもご紹介しています。
一の間の近くから撮った杉戸の絵の一部です。白い蹴鞠が空中高く描かれています。
御小座敷 上の間 中島来章 (らいしょう)
筆 「和歌ノ意」
中島来章(1796-1871)は幕末の円山派をトップとして丸山派を支えた画家です。「正統的円山派の画法を伝え、その門からは川端玉章らが出た。」 (資料2)
2014年秋
御小座敷下の間 塩川文麟 (ぶんりん)
筆「和耕作図」
塩川文麟(1808-1877)は、四条派の岡本豊彦に師事した画家。「中国の山水画を学び、文人画の精神性を四条派の作風に取り入れ」たそうです。幕末から明治にかけ、平安四名家の一人と称されたようです。近代京都画壇の基礎を築いた人だと言います。 (資料2)
下の間の南端に位置する 杉戸
杉戸の片側しか撮れませんでしたが、これは前回ご紹介している 原在照筆による「陵王納曽利」の一部 です。「陵王納曽利 (りょうおうなそり) 」は雅楽の演奏に合わせた舞(舞楽)です。「陵王(=蘭陵王)」(左方・唐楽)と「納曽利」(右方・高麗楽)を組み合わせた番舞 (つがいまい) を意味します。舞曲としては特に有名なものです。
写真の絵は、赤主体の衣裳ですので 蘭陵王 を意味します。 (資料3)
御常御殿 南面全景
上段の間 狩野永岳筆「尭任賢図治図 (ぎょうにんけんとちず)
」
尭舜 (ぎょうしゅん)
という言葉を想い浮かべられたかもしれません。尭は中国古代の伝説上の理想的帝王の一人です。尭が賢人を任用して国の政治・治安を図るという状況を描いた障壁画ということのようです。
2014年秋
中段の間 鶴沢探真筆「大禹戒酒防微図 (だいうかいうぼうびず) 」
鶴沢探真(1834-1893)は狩野派の画家です。父・狩野探竜に画法を学んだといいます。御所の絵師をつとめ、明治以降は帝国博物館や宮内省の御用掛をつとめた人だそうです。 (資料4)
大禹は偉大な禹王という意味でしょう。「禹」を辞典で引くと、「中国古代の夏 (か)
王朝の始祖とされる人。尭帝のときに大洪水が起こり、尭のあとをついだ舜帝に命じられて、治水に成功した。その後、舜に帝位をゆずられたという」 (『日本語大辞典』講談社)
つまり治水の神と敬われる王です。その王にまつわるエピソードのようです。
「禹は、献上された酒を飲み余りの美味しさに飲み過ぎて酔ってしまいました。禹はこのような美味しい飲み物を飲んでは仕事に支障が出て国を亡ぼしてしまうと考えて酒を造った職人を遠ざけたという伝承があります。」 (資料5)
とか。
下段の間 座田重就 (さいだしげなり)
筆「高宗夢賚良弼図 (こうそうむらいりょうひつず)
」
座田重就(1787-1858)は賀茂社の官人で、代々院雑色を勤める家柄の人だそうです。安政度御所造営に参加した画家です。 (資料2)
調べてみるといろいろ資料があるものです。この図は次のエピソードが描かれたのです。
「殷の高宗が国を平和に治める事を願っていたところ、夢の中で高宗をよく補佐する者が現れるというお告げがあり、夢に出てきた賢人の姿を描き、その人物を探しだして宰相として任用したところ、その人物(傅説ふえつ)はよく高宗を補佐し、高宗が中興の主となることができたという故事」 (資料7)
だそうです。
下段の間の傍の 杉戸
御常御殿の南面と御池庭を区切る白壁の源氏塀
塀の傍に 井筒
があります。
御常御殿からその南西に連なる「御三間」の建物との角に、 「下向」
が設けられています。
左の写真ですが、少し薄暗くてみづらいですが、建物の下部へ石段を下りたところに扉があり。開いた状態にしてありました。
「こちらは、御殿や廊下をくぐり抜ける地下通路です。地面から降りていく階段と、開放している木戸の先には、石積みの壁に囲まれた鉤状の通路があり、回り道をすることなく北側に行くことができます。 現在の京都御所は簡単に往来が可能ですが、造営時にはそれぞれの御殿が廊下でつながっていたため、御殿に昇殿せずに離れた場所へ行くことがむずかしい状況でした。そのため、このような通路が設けられました。 第二次世界大戦に伴う建物疎開により、御殿をつなぐ廊下の多くは取り壊されましたが、昭和40年代に一部復元され、廊下にあった下向も復元されました。 現在、京都御所には下向が17箇所あります。」 (説明文を転記)
次回は「御三間」です。
つづく
参照資料
1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット
2) 「京の絵師は百花繚乱 『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」 図録
京都文化博物館開館十周年記念特別展 京都文化博物館
3) 曲目解説 納曽利
:「おやさと雅楽会」
4) 鶴沢探真
:「コトバンク」
5) 治水神・禹王研究会
:「露木順一」OFFICIAL WEBSITE
6) <京都>御所と離宮の栞 其の十三 京都御所
:「宮内庁」
補遺
講演「京都御所の障壁画について ~御常御殿をめぐって~」聴講記 その1
:「中国歴史 あら?カルト!」
講演「京都御所の障壁画について ~御常御殿をめぐって~」聴講記 その2
:「中国歴史 あら?カルト!」
御常御殿の間取り平面図が載っていて参考になります。
陵王
雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」
納曽利
雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」
雅楽「陵王納曾利」 (Gagaku Dances Ryoo and Nasori)
:YouTube
厳島神社の舞楽
:「宮島観光協会」
<<京都>>御所と離宮の栞
:「宮内庁」
これまでの栞はこちらから
pdfファイルがダウンロードできます。
今回調べていて見つけました。この栞シリーズは必読の情報源!!
伊東家について
:「伊東建一-御所人形の世界」
伊東久重略歴
時代風俗人形について
ネットに情報を掲載された皆様に感謝!
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ
探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ
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探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔
探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ