遊心六中記

遊心六中記

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません
2023.10.18
XML
カテゴリ: 探訪

御池通に面して、 「史跡 神泉苑」の石標と石鳥居・石柵 が見えます。

二条城の探訪を行い、外堀の外周を巡りました。先日探訪記をご紹介したところです。
押小路通の歩道を歩きながら南側の外堀の景観を眺めていた時に、見つけた石標をご紹介しました。

この石標 です。これは平安京の時代における神泉苑が二条城の南側外堀傍の位置で示す 東端線と西端線 を表示しています。

こちらも既にご紹介した案内板から 部分図 として切り出しました。
赤い線の枠が二条城の史跡指定範囲 です。
かつての神泉苑は北は平安京の二条大路まで広がっていた ことを示しています。
現在の二条城内とかなりの部分が重なる位置関係だったのです。

この石標を見たことが動機となり、当初の予定外の「神泉苑」に立ち寄ってみました。




「史跡 神泉苑」の石標の近くに、この 駒札 が立っています。
上掲の図とこの駒札の説明とを重ねていただくと、おもしろいかもしれません。

駒札と手許の本 (資料1) によれば、
*平安京造営の折に、宮中の附属庭園として造られた。常に清泉が湧き出す地。
*当時の境域は南北四町,東西二町という広大さ(13万㎡)だった。二条城は275,000㎡
*天長元年(824) 弘法大師空海が勅命により善女龍王を勧請し祈雨の法を修した。
   → 日本中の旱天への対策  『神泉苑絵巻』が描かれる。
*貞観5年(863)3月 宮中内殿・中宮とともに神泉苑で三日間の大般若経の転読実施
*同年5月20日、御霊会の執行 → 疫病の流行に対する対策 →祇園祭発祥の淵源
*貞観8年5月、天台座主安恵によって七日間の祈雨修法執行。
   → 貞観年間(859~877)以降、神泉苑は宗教的霊場として有名になっていく。

この他のことは後記することにして、 境内を探訪しましょう


境内中央に池 があります。朱塗りの反り橋が中島に架けられています。
駒札には、 「法成就池」 と明記。 この池が「御池通」の名称の由来に なりました。

二条城造営により、神泉苑の北側は大きく削られ、神泉苑は荒廃したそうです。
慶長12年(1607)、筑紫の僧怪雅が官に請い現在の神泉苑を再興 したといいます。
それ以降真言宗東寺派の寺に なりました。現在の境内は方一町の規模で、開創当時の三十分の一ほどです。 (資料1,2)

冒頭の石鳥居の左に少し見えていますが、境内の西南角に 「臨泉閣」 と称する建物( 方丈 )があり、

その北隣りに「 本堂 」があります。 本尊は聖観音像 が安置されています。

手許の本の挿画(昭和59年8月、俊則画)には、 本堂の北側に客殿 が描き込まれています。(神泉苑のホームページでは 平安殿 と表記)
今回訪れてみるとその場所は更地になっていました
かつて訪れた時の記憶では神泉苑平八という料亭として使われていた建物があった場所。ネット情報を検索してみますと、営業していたころの情報がたくさん残っています。更地になっていたという一記事がやはりありました。その変化は最近のようです。
さて、その敷地部分が今後どうなるのか・・・・。


臨泉閣と本堂との間、本堂の南東側で目にとまったのが 石仏の集合 です。
お地蔵さまとして祀られているのでしょう



この石像が一番お地蔵さまのイメージに合いますね


池側には、 「鯉塚」「亀塚」 と刻された 供養塚 が祀られています。
「鯉塚」は台座の正面に鯉が浮き彫りにされていて、「亀塚」は、台座の上面が亀の形にです。


「法成橋」 を中島に渡ります。

池を眺めると、鯉 がたくさん泳いでいました。

                           夕月や神泉苑の魚躍(オド)る  与謝野蕪村 


  橋を渡ると、 拝殿 があり、その北側に社殿が見えます。
拝殿の西側に、 駒札が立ち「弘法大師御勧請 善女龍王社」と 記されています。

池中の島ですので、瑞垣は、 中門と左右の脇に塀が立つだけのシンプルさ

社殿


アヒル がいました。つがいでしょうか。


       拝殿の北西側に立ち、 池の北西方向を眺めた景色
拝殿の西南側から眺めた法成橋



拝殿の南東側に 「恵方社」 があります。 祭神は歳徳神
歳徳神はその年の吉方(恵方)にあって、開運をつかさどる神 」です。
「社殿は円い石の上に置き、その年の恵方にあたる方角に向きをかえるため、自由に動かせるようになっているのが珍しい。むかし苑内で、属星祭などの星の信仰による祭事を行なった遺風であろう」 (資料2)
とのこと。

島の南側に石橋が架けられていて、冒頭の石鳥居の前に至ります。
この石橋が正面の石鳥居から善女龍王社への参道になっているのです。

橋を渡って、池の東側を探訪 しました。

目にとまった 小社 の傍には「 洛中天満宮 」の駒札が立っていました。

辨財天社

神泉苑のホームページの案内図には、「 弁天堂 」と記されています。

池を反時計回りにさらに歩むと

池端に 宝篋印塔 が建立されています。これ一塔だけ。

 その先に見える 朱塗りの鳥居
「鎮守稲荷社」 が祀ってあります。
ここから池の北方向は通行止になっていて、巡ることができませんでした。


  池の東側から眺めた善女龍王社の社殿の側面の景色


探訪できたのはこれくらいです。

神泉苑の歴史的な経緯を補足 しておきましょう。 (資料1)
延暦19年(800)7月19日 桓武天皇の行幸。在位6年間に27回の行幸
平安時代初期には頻繁に行幸が行われた 。​
 平城天皇 行幸13回
 嵯峨天皇 行幸43回。 弘仁3年(812)に日本で初めての桜の花見を催す
 淳和天皇 行幸23回。
神泉苑内には、乾臨閣という左右に閣を配した三棟からなる正殿のほか、東西釣殿・滝殿・橋を配し、自然の森と池沼に囲まれていた。皇族・貴族の遊宴の地だった。

だが、「 9世紀中ごろには京外に遊興の地を移していった (資料3) といいます、これと相前後して、上記のように神泉苑が消厄除災の地として注目を浴びるようになります。

貞観の御霊会に関連してですが、 ​9世紀後半の貞観年間は平安京に伝染病が流行​ した時期だったそうです。貞観3年(861)8月に赤痢が流行。貞観5年(863)正月に「咳逆(ガイギャク)」と称される咳を伴う病気、いまでいう流行性感冒とみられる病気が流行。これが同年5月の御霊会のつながります。貞観14年(872)1月に再び「咳逆」が流行したそうです。 (資料4)

この時代、貞観の大地震や、富士山の噴火など、全国的な災いが相次ぎます。平安京で悪疫が流行したことで、 貞観11年(869) に、町衆が全国の国の数に準じ、長さ2丈の66本の鉾を立て、 祇園社(現八坂神社)から御輿を担いで神泉苑に来て、 厄払いとして疫病退散の神事 を行ったのです。これが町衆の祭典となる 祇園会(祭)の起こり と言われています。 (資料2,5)
神泉苑が御霊会を契機に消厄除災の地と知られていたことにより、町衆が厄払いを神泉苑で行うためにこの行動を生み出したということでしょう。

さらに、「貞観17年(875)6月に真雅を中心とした神泉苑での請雨経法以来、 神泉苑は祈雨道場として の位置を確立した。延長年間(923~931)以降、聖宝から仁海に至る真言僧の祈雨が相続き、仁海は雨僧正の異名をとるほどであった。」 (資料1) という歴史をたどります。

天明の大火(1788)で、二重塔・弁財天社・不動堂など焼失。その後歳月をかけ堂舎の再建が行われ、明治28年(1895)に境内が整備されるに至ったようです。 (資料1)


御池通に面した石鳥居の東側に、この 駒札「神泉苑と謡曲『鷺』由来」 が立っています。
「『源平盛衰記』には、醍醐天皇の時代、宣旨に鷺さえも羽をたたんで、かしこまった話がのせられており、謡曲『鷺』はこれをもとにつくられている」 (説明文より)
五位鷺 」といいますが、これは天皇が鷺に五位の位を授けたことに由来するそうです。神泉苑のホームページでは、次のように説明されています。
「醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。召使いが『帝の御意なるぞ』と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った」 (資料5)

これでご紹介を終わります。
ご覧いただきありがとうございます。


参照資料
1)『京都史跡事典 コンパクト版』  石田​ 神泉苑 ​孝喜著  新人物往来社
2)『昭和京都名所圖會 洛中』  竹村俊則著  駸々堂 p302-306
3)『古代を考える 平安の都』  笹山晴生編  吉川弘文館 p246
4)『平安京の災害史 都市の危機と再生』 北村優季著  吉川弘文館 p78-82
5)​ 神泉苑の歴史 ​  :「神泉苑」

補遺
神泉苑 ​  ホームページ  
  ​ 秋の大念仏狂言
神泉苑~宮廷の遊び場には別の顔があった! ​ :「京都トリビア x Trivia in Kyoto」
世の中、捨てたもんじゃない…「神泉苑」の怒涛の物語 ​   :「T.M.OFFICE」
演目 鷺 ​  :「the能.com」
曲目解説 能 ​ :「銕仙会~能と狂言~」
サギ ​  :ウィキペディア

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもご覧いただけるとうれしいです。
探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所
   11回のシリーズでご紹介しています。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.10.18 15:26:16
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: