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2024.01.07
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カテゴリ: 探訪

石清水八幡宮を昨年12月24日に探訪 したご紹介は年末年始にかけてご紹介しました。
裏参道を降りてきた後、 ニノ鳥居(上掲の左)を通り抜け、表参道を再度上り ました。
上掲右の石段から下に降りてみる 気になったのです。この石段道所から、お寺らしき大きな屋根が目に止まっていたからです。
この石段道を降りれば、石清水八幡宮の周辺を探訪する起点にもなると 思ったこともその一因です。


上掲の石段道を降りると、石垣の傍に 「下馬」と刻された石碑と角柱の石標 が立っています。石標の方は残念ながら刻字が判読できません。石清水八幡宮への石段道ですから、ここで馬から降りて、この後境内は徒歩にて進めということでしょう。


右の方に目を転じると、 地蔵堂と神社 が並んでいます。
 地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、
ここのお地蔵さまもお顔に化粧が施されていました。京都市・宇治市と同様に、地蔵盆にい地蔵さまを浄めてから化粧するという風習があるということでしょう。
隣の小さな神社は工事中のようでした。


石清水八幡宮への石段道とこの神社との位置関係が景色としておわかりいただけるでしょう。

ここは 「相槌神社」 。案内板が設置されています。

建物の右側には、 「山ノ井戸」と刻した石標 が立ち、この 井戸 があります。
この井戸がこの神社の由来に なるそうです。
「山ノ井戸」は八幡五水の一つ のようです。

平安時代に活躍した有名な刀鍛冶、大原五郎太夫安綱が、山ノ井の水を使って刀を鍛造したとき、神がきて「相槌」をなしたために、ここに神社を建てて祀ったそうです。安綱が神と交互に作刀のために交互に槌を打ち合わせた「相槌」という名が付けられたとか。
山ノ井は江戸時代に井筒などが整備されたそうです。江戸時代中期、1710年頃までは石清水八幡宮の管轄下にありましたが、その後は近隣住民が独自に修繕などを行い、神社との関わりが強くなったようです。 (案内板より)

相槌神社前の道を東方向に 進むと、 


「松花堂 泰勝寺」 の表札を掲げたお寺の山門が見えました。
表参道から眼下に見えていたのはこのお寺です。

山門の左手前に 「松花堂旧跡」と刻した石標 が立っています。

      山門の左の壁に 案内板 が掲示してあります。

「天正18年松花堂昭乗は9才の時男山に入山滝本本坊の実乗に師事し阿闍梨となつた。特に書画茶道作庭に長じ、自らの草庵を松花堂と称した。小堀遠州、沢庵、石川丈山、林羅山等と親交があり、寛永の文化人として屈指の人物である。
当寺は昭乗の墓所を中心に建立俗に松花堂と呼ばれ 境内の宝物館には昭乗、遠州、沢庵、光悦等の墨蹟を始め多くの寺宝が展示されている。又人々のえとの守り本尊八躰が泰安され難を転じ福を招くお守りが授与される。本堂前庭は各種南天を配し、三途の川を渡つて彼岸へ船出する 石庭 があり、 茶席閑雲軒 は日本百席の一つである。」 (案内板転記)





山門の柵前から延べ段の先に唐門が見える境内を眺めるに留めました。
参拝には寺務所にて予約が必要と上掲案内文の末尾に記されています。
機会を見つけて、再訪したいと思いました。

相槌神社前まで戻り、北方向に進みます。右(東)側には川が流れています。

この 反り橋 が見えてきます。


「安居(アンゴ)橋」 という名の橋。



橋の北側にこの 駒札 が立っています。
橋名の由来は諸説 あるそうですが、駒札には2つ紹介されています。
*鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたという説
*かつてすぐ川下に「五位橋」があり、相対する仮の橋が造られ「相五位橋(アイコイバシ)」と呼ばれ、これが変化して「安居橋」となったとする説
江戸時代初めの古絵図には、平橋が架けられている形で描かれていいるそうです。
元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景の一つに 選ばれました。
慶応4年(1868)1月、橋は鳥羽伏見の橋で焼失。約150m川下にあった 「高橋」という反り橋(太鼓橋)を偲ばせる形で、安居橋が再興され て現在に至るとか。


駒札の隣りにこの 石碑「やわた放生の景」 が建立されています。
現在、ここが 石清水八幡宮の「石清水祭(放生会)」の神事の舞台になっている そうです。



石清水きよき流れの 絶(タエ)せねは やとる月さへ くまなかりけり
   (石清水清き流れの絶えせねば宿る月さえ隈なかりけり)
の歌碑 もあります。

調べてみますと、この 能蓮法師の歌 は、『千載和歌集』の「巻二十 神祇」1280 に採録されています。文治元年(1185)9月の石清水八幡宮での歌合せでの詠歌だそうです。 (資料1)

川下を眺める
振り返った景色

安居橋の所から、石清水八幡宮探訪の最初に訪れた頓宮殿の境内地を通り抜け、当初の起点まで戻りました。そして 一ノ鳥居前から、境内地沿いに左(西)方向への道を歩いて みました。
少し道沿いに進みますと、

竹垣と 「神護寺」と刻した寺号標 が見えます。



左方向に道を歩めば、左側に 頓宮殿の西門と連子窓のある屏 が見えました。


右側に見えたのが、この 巨大な「五輪塔」 です。
そう、最初に頓宮殿の門越しにその一部を垣間見ていた五輪塔です。基壇が設けられています。
 石段を上がると、

五輪塔より少し離れた右側手前に 「航海記念大石塔」と刻した石標 が立っています。



    五輪塔の左側手前に駒札 が設置されています。

鎌倉時代(12世紀末~1333年)頃に建立された五輪塔。高さ6m、最下段の横幅は2.4m。中世以前の五輪塔では日本最大で、国指定重要文化財 です。 (駒札より)
五輪塔は5つの石から構成され、下から「地、水、火、風、空」という物質の構成要素を象徴しています。小規模な五輪塔は全国的に分布しています。仏教思想に基づいて平安時代に創始されたと言われています。

「多くが武士層によって造立された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養を目的のひとつとしたが、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石としてつくられるようになった」 (資料2) そうです。

正 面
右側面
裏 面
左側面 
周囲を巡ってみました。どの面にも刻銘等が一切ありません。
目的、製作者、年代など不明です。謎多き巨大五輪塔です。

「言い伝えによると、平安時代末頃、日宋貿易の摂津尼ケ崎の商人が中国から帰国する途中、海上で嵐に巻き込まれ、あわや転覆かの時、石清水八幡宮に一心に祈ったところ、無事本土にたどり着くことができ、感謝してこの石塔を建立したといいます。この話から、『航海記念塔』とも呼ばれています」 (駒札説明文、最後の段落を転記)

この説明で、上掲石標の立つ意味が理解できました。

石柵に囲まれた基壇から降りて右の側面をみますと、

「不動堂道」と刻した道標 が目に止まりました。

そこで、この不動堂と上掲に載せた神応寺を訪れてみることにしました。

つづく

参照資料
1) ​ 石清水清き流れの絶えせねば宿る月さへ隈なかりけり ​ :「古代文化研究所:第2室」
2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞  山川出版社


補遺
泰勝寺 ​    :「八幡市観光協会」
泰勝寺庭園 ​  :「おにわさん」
歌人等によって詠まれた八幡の歌 ​  八幡を詠んだ歌 :「八幡散策」
八幡八景 ​  :「やはた走井餅老舗のブログ」
勅祭石清水八幡祭 ​   :「石清水八幡宮」

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その点、ご寛恕ください。)

こちらもご覧いただけるとうれしいです。

探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか ​ 
   8回のシリーズでご紹介





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Last updated  2024.01.07 16:08:36
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