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今回は、山科から渋谷越への旧渋谷街道を歩き、京に入り現五条大橋まで歩いてみました。そのご紹介です。この景色は、旧東海道(旧三条通)と外環状線の交差点、南西角から山科駅のある北の景色を撮りました。ここを起点に渋谷越に向かいます。 道路の南側には、「旧三条通り」の掲示があり、北側のビルの傍に「旧東海道」の道標が設置されています。 「明治天皇御遺跡」碑旧東海道を少し歩むと、このビルの西橋付近にこの石碑があります。なぜここが遺跡になるのか。説明銘板が設置されていますが少し不鮮明ですので、転記します。「この石碑は、明治元年9月明治天皇御東幸の際、同2年3月の御還幸及び、同11年10月の御還幸の3回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹 毘沙門堂御領地内にあった「奴茶屋」(現RACTO・A2階)に御駐輦されたことを記念して建立されたものである。」この説明によれば旧東海道のそばまで毘沙門堂の領地が広がっていたことになります。毘沙門堂はJR山科駅の北側を山手に上がって行ったところですので、かつてはかなり広大な領域だったことがわかります。また、「奴茶屋は,片岡丑兵衛という勇猛な弓の達人が,街道に出没した盗賊を討ち取り,文安4(1447)年,茶店を建てて旅人を送迎したことにはじまると伝える」(資料1)とのことです。 旧三条通をさらに進むと、寺号標石「吉祥山安祥寺」が北への道の西側に見えます。安祥寺への道標を兼ねているのでしょう。 下流側 上流側その傍を安祥寺川が北から南に流れています。橋を渡って西へ。 道路南側の地蔵堂 北側には「当麻寺」の表門と築地塀が見えます。弘誓山と号し、永観堂禅林寺を本山とする浄土宗西山禅林寺派の寺院です。(駒札より) 門から境内を眺めると、西側に当面する本堂が見え、正面には大きい石造観音菩薩立像が建立されています。手前の献花台の正面に「やすらぎ観音」と記されています。 道路脇に駒札が設置されています。 当麻寺の少し西に五条別れの道標が立っています。南に向かう道路との南西角に立っていますので、進行方向を意味する「右ハ 三条通」と刻されています。宝永4年(1707)丁亥11月に建立された道標です。 南へ向かう道について、「左ハ五条橋」その下に、「ひがし にし 六条大仏」「今ぐまきよ水」と並べて刻され、一番下に「道」と刻されています。(資料2) この道を少し南下します。 現三条通の「五条別れ」の交差点に出ます。この景色は東方向の眺めです。 下ってきた道の北東角に立つ石標「山階寺跡」このあたりは「山階寺跡推定地」だそうです。 藤原鎌足ゆかりの地だそうです。山階寺は奈良の興福寺の淵源の寺にあたると言います。 道路の東側は京都薬科大学の建物が通り沿いに建っています。北西角には「美須大明神」と刻された神名碑が祀ってあります。以前に山階寺跡碑を探訪に来たときには、気づきませんでした。 交差点を横断し、南に入ります。 最初の辻の南西角は駐車場になっているようです。角のフェンスの内側に道標がありますが、文面が十分に判読できません。ここで、右折して南西方向に進む道に入ります。この道が厨子奥と称される地域を通る旧渋谷街道です。 道路の南側に、真宗大谷派の「光久寺」があります。「花園山」と号する寺院です。 道沿いの民家の前庭にお地蔵さま(と思います)が祀ってあります。 少し先、南側に奥まってお堂、道路傍に地蔵堂があります。 手前の道路傍に「木造毘沙門天立像」についての駒札が立っています。このお堂に祀られている仏像なのでしょう。かつては、山科厨子奥村の総鎮守として永正寺(廃寺)に安置されていた仏像だそうです。(駒札より) 地蔵堂には、石造地蔵菩薩立像が祀られています。和やかな容貌のお地蔵さまです。 その先にも小さな地蔵堂があります。格子扉から拝見すると4体の石仏が安置されています。 右奥の石仏は、よく見ると一石に三体の像がレリーフされているように思えます。目の錯覚でしょうか・・・・・。 厨子奥の中央部辺りを通り過ぎます。 道路沿いの北側にある厨子奥児童公園 公園の先に、4体の石仏を並べて安置し、覆屋が設けられています。左側の建物には「山科区厨子奥矢倉町」の住所表示板が柱に取り付けてあります。 道路沿いに地蔵堂がいくつもあります。複数体の石仏が安置されているケースがほとんどというのもめずらしい印象を受けました。 そして、その先で厨子奥を通過する旧道が現在の渋谷街道に合流します。この景色は現渋谷街道に入り、南西側から分岐点を眺めた景色です。向かって左側が厨子奥の地域を通る旧街道で、右側が現在の渋谷街道です。 合流地点の傍を、旧安祥寺川が北から南に流れていて、「新八幡田橋」が架かっています。 橋の西詰南側から北を眺めた景色です。ここからは、現在の渋谷街道を山科側から京に入って行くことになります。つづく参照資料1) 明治天皇御遺跡 :「フィールド・ミュージアム京都」2) 三条通/五条橋【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺山科 地名物語(12) 厨子奥 鏡山次郎氏山科家礼記5、巻4 厨子奥の記述がある文書 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東 山科から渋谷越で京に -2 現渋谷街道(北花山)・渋谷越(花山トンネル)へ探訪 京都・洛東 山科から渋谷越で京に -3 旧渋谷通(法華寺・山王神社ほか)と寄り道(浄妙院)へ探訪 京都・洛東 山科から渋谷越で京に -4 渋谷通(三嶋神社ほか)から本町通(浄雲寺)にこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都 東山・山科 渋谷街道を歩く -1 五条大橋東詰から清閑寺傍まで へ 3回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 京都・山科 御陵、安朱を歩く -1 天智天皇陵、五条別道標、當麻寺(当麻寺)探訪 [再録] 京都・山科 御陵、安朱を歩く -2 安祥寺、毘沙門堂探訪 京都・山科 安祥寺 -1 観音堂(本堂)・多宝塔跡地・境内社 3回のシリーズで安祥寺をご紹介しています。
2020.10.14
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「山科団地北」の交差点から渋谷街道(府道116号線)を更に東に進みます。街道の北側は御陵四丁野町、南側は西野今屋敷町で、両町の東端を安祥寺川が南に流れています。 橋の西詰北側にこの地蔵堂があります。くりくり目に描かれたお地蔵さまがにこやかです。 橋を渡り少し先に進むと、街道の南側に「竹鼻公園」があります。この公園に、公園内に正面が向いた形で、 この地蔵堂があります。お堂の背後が渋谷街道です。東に進めば、「渋谷醍醐道」の交差点。渋谷街道はこの交差点で府道117号線と交差します。府道116号線としてはこの交差点までです。一方渋谷街道はさらに東に続きます。交差点を横断し東進します。 街道の南側に「山科図書館」があります。道路に面して「なかよし」と題されたブロンズ像が建立されています。この彫刻像から少し先が「外環渋谷」の交差点です。ここで左折して外環状線を北上すれば、JR山科駅に至ります。「外環渋谷」交差点を横断し、更に東へ。 四ノ宮川に架かる橋を渡ります。比較的狭い川幅です。東に進んで行きますが、街道の両側は住宅地域になっていて特に目に止まるものはありません。 道路に面して「木ノ本公園」がマンションの前にあった位です。 そして、最後は国道1号線に合流します。 この地点の少し北は名神高速道路に入るループ状の道路への起点になっています。現在の渋谷街道はここ山科区音羽が街道の東端です。(資料1)「渋谷街道を歩く」という意味ではこの地点でウォーキング探訪は終わりです。一方、旧渋谷街道という観点で捉えてみると、補足が必要となります。渋谷街道を北に向かう筋を見つつ引き返しますと、北方向がかなり見通せて、信号機の設置された交差点に戻ります。ここで右折して南北の道路を北上してみました。この道は三条通の四ノ宮交差点に至り、さらにそこを横断し北上します。 地蔵堂の傍を通過し、先を眺めると、 旧三条四ノ宮の先に、京阪電車京津線の「四宮」駅があります。この北上してきた道路が旧渋谷街道のもう一つの経路に関係していました。つまり、「旧東海道(旧三条街道)と京阪四ノ宮駅前の道が交差する地点から南(旧奈良街道)を南下し、南殿光照寺前の道(御坊道と呼ばれている)を通って西に向かい、山科本願寺を経て、西野道・渋谷街道に入り北花山に向かうコース」(資料2)があったと想定できるそうです。逆に四ノ宮側から南下していくと、現在の渋谷街道を横切ってさらに少し南下し、右折して御坊道に入るという経路になることを意味します。この南殿光照寺あたりも探訪記を拙ブログで既にご紹介しています。前回、旧三条通の「五条別れ」から南下し厨子奥を経由して西に向かう経路に触れました。つまり、大津方面からここまで来ると、旧三条通が渋谷越えとの関連でも重要になってきます。そこで、四ノ宮から旧三条通を歩き、JR山科駅をこの探訪での終着点としました。 旧三条四ノ宮交差点を右折し、旧三条通を西に進みます。四ノ宮川に架かる橋があります。 橋の西詰に小さな地蔵堂が祀られています。 四ノ宮川の橋を渡ると、右(北)側に「徳林院」の地蔵堂が見えます。六角堂です。手前の唐破風屋根の拝所の右柱には「臨済宗南禅寺派 徳林庵」の寺号標が掛けてあります。 左柱の木札には「上部に蓮華座上の地蔵菩菩薩立像がレリーフされていて、その下に「山科地蔵」と陽刻され一番下に蓮華座がレリーフされています。以前に訪れたときにはこの木札を目に止めてはいましたが、詳しくは見ていなかったような気がします。一説に「四宮地蔵」とも称されるようです。右の蟇股の文様も再認識です。雲流文様でしょうか。この意匠の蟇股も珍しいかもしれません。他所で見かけた記憶がありません。 今回立ち寄ってみて気づいたのは、この「八百五十年伝統 地蔵幡について」の額が掲げてあったことです。「お釈迦様は説法をする時合図として長い竿の先に幡を吊して目印としました。幡を見た善神善人は皆集まり、それに怖れをなした悪鬼悪人は皆逃げさってしまいました。 六地蔵めぐりをしてお幡を集め玄関の軒下へ吊してください。その幡が目印となって貴宅はお地蔵様によって守られている事を知らせ善利を集め悪縁を遠ざけるでしょう。 拙僧は時々徒歩で六地蔵めぐりを致します。丸一日必要です。 巡礼の限らず仏事の元は修行です。苦労するほど功徳(利益)があるのではないでしょうか。 人生も修行と考えれば苦労が多い程、その人は輝いているのですね。 庵主 合掌」(説明文転記)額に六地蔵めぐりの様々な色の六地蔵幡が並べてあります。右端の白い幡が伏見六地蔵、順に左につづいて上鳥羽、桂、常盤、鞍馬口、山科です。 以前ここを訪れた時には、地蔵堂の東側にある建物を民家と思っていて全く意識をしていませんでした。今回ふと気になり、ガラス戸から内部を拝見すると、土間部分に仏像が安置されています。石像なのか木像なのかは不詳。天道大日如来と大聖不動明王の提灯が吊ってあります。上部に一体、その下部に三体の像がレリーフされています。 地蔵堂の右後方に宝篋印塔が見えます。宝篋印塔の左前に石標が立ててあります。それには「人康親王(さねやすしんのう)」と「嘽丸」(蟬丸)を並べてその下に「供養塔」と刻されています。そのまま理解するとこの二人を一緒に最初から供養しているということになります。尚、手許の一書にはこの宝篋印塔を人康親王の供養塔としてます。(資料3)別の書には、「人康親王の供養塔とされ、蟬丸塔ともよばれる」(資料4)と説明しています。こちらの説明だと、後世に人々の思いが一つの宝篋印塔に重ねられたとみることができます。向かって左後に地蔵菩薩石像が安置されています。向かって右後に見える石像はお顔の雰囲気から地蔵菩薩像とは少し異なる印象を私は抱きました。「嘽丸」像と想像してみたくなりました。 童地蔵姿の六地蔵がお堂の背後に安置されています。その左に「徳林庵」の駒札が塀の壁に取り付けてあります。既にご紹介していますし、文字も経年変化により少し読みづらくなっていますので省略します。大木の近くに立つ地図入り観光案内駒札も同様ですのでこれも省略です。 地蔵堂の背後に「徳林庵」があります。 この徳林庵への石畳とカーブに惹かれました。大小の平石の組み合わせがおもしろい。 徳林庵の北西側に大木があります。その根元にもお地蔵さまがさりげなく・・・・。 地蔵堂の北側にある手水舎。井桁の側面に「通」という文字が陽刻されています。ある運送会社の商標を連想してしまいました。手許の書によれば、四宮地蔵(山科地蔵)には江戸時代往来する旅人や飛脚が休息した場所であり、飛脚は丸に通の字や刻印を使ったそうです。これは飛脚たちが奉納したということを示しているようです。(資料4) 北側からの眺め 道路脇には、西面に「南無地蔵菩薩」、南面に「伏見ろくぢざう」という太い文字が陰刻された石標が立っています。なぜここに伏見六地蔵という言葉が刻まれているのでしょう。以前調べていて、昔、伏見にある大善寺の住職が六地蔵巡りを発案して各寺と相談し、始めたのが連綿として今に伝わるということを知りました。その関連でしょうか。単なる推測です。 上掲石標の左隣りに、右写真の「人康親王御墓」の石標が立ち、通路を挟んで北側には「十禅寺」の寺号標石が立っています。人康親王は仁明天皇の第四皇子で琵琶の名手だったそうです。この人康親王の閑居地が「四宮」の由来と言います。十禅寺(本山修験宗)に人康親王の墓があります。(資料3) 道路傍の寺号標石 道路傍に寺号標石が続くその先に諸羽神社の鳥居と社号標石があり、北方向に参道が続きます。駒札に記されていますが、この神社は山科十八郷の第四番目に当たるとされ、この付近の産土神とされています。「四ノ宮社」とも呼ばれたそうです。これが「四宮」の地名の由来とも言われています。(資料3,駒札)諸羽神社の鳥居を眺めて、少し西に進みます。後日の調べと確認で知ったことですが、旧三条通の両側が四ノ宮地域の西端になり、北側は安朱地域、南側は竹鼻地域の東端とが接するあたりになります。そして、南側の竹鼻外田町の北東角あたりが、旧三条通と旧渋谷街道との分岐と考えられるそうです。これも一つ旧渋谷街道として利用されたコースという説があります。(資料2)詳しく考察されているので役立つ記事です。ご紹介しておきます。 また地蔵堂が目にとまりました。白地か赤地の布の涎掛けが定番でしたが、地蔵堂内のお地蔵さまにかける涎掛けもカラフルで様々な図柄のものも使われていることがわかります。これも時代の反映でしょうか。 地蔵堂があります。 道路傍の寺号標石 京阪電車京津線四宮駅から同山科駅は一駅の区間です。この距離の旧三条通を歩くだけで、通りの近くには、臨済宗南禅寺派、本山修験宗、浄土真宗大谷派、浄土宗西山禅林寺派と諸羽神社という具合に様々な寺社があることがわかります。そして、山科駅前の道路・外環状線との交差点に至ります。右折して北方向へ。 歩道傍に設置されている駒札「旧東海道(旧三条街道)」です。右折せずに外環を横断し真っ直ぐ歩めば、前回触れた「五条別れ」に至ります。かつて人々はこの旧三条街道から五条別れで左折し、初めの辻で旧渋谷街道に入り、渋谷越をして五条坂、清水、五条大橋などを目指したのでしょう。あるいは、大津方面から四宮まで出てくると、ここで左折し南進し、東西に別れているとはいえ、山科本願寺の地域を参拝しつつ渋谷越に向かうという渋谷街道コースを人々が選択したのかもしれません。そして、もう一つのコースの可能性も。 京阪電車京津線の踏切を渡る少し手前にこの彫刻が置かれています。「出会う時」と名付けられた谷口淳一氏の作品(1998.10)です。 JR山科駅の前には、地下階と往来する幅広い階段を設けた空間があります。その東側面にこの彫刻が置かれています。「風」と題する少女像です。 JR山科駅前を一旦このウォーキング探訪の終着点とします。機会を見つけて、旧渋谷街道関連個所等の補足をしたいと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 渋谷街道 :ウィキペディア2) 山科 歴史の散歩道 ー旧 渋谷街道の魅力 編- 鏡山次郎氏3)『京都府の歴史散歩(下)』 山本四郎著 山川出版社 p764)『京都府の歴史散歩(中)』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p275-277補遺京都外環状線 :ウィキペディア人康親王 :ウィキペディア人康親王山荘跡 :「フィールド・ミュージアム京都」蝉丸 :ウィキペディア蝉丸 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 東山・山科 渋谷街道を歩く -1 五条大橋東詰から清閑寺傍まで へ探訪 京都 東山・山科 渋谷街道を歩く -2 花山トンネルから「山科団地北」に。旧渋谷街道の一経路 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・山科 山科本願寺旧地を巡る -1 山科本願寺と蓮如上人御廟所 11回のシリーズでご紹介しています。 No.9で史跡山科本願寺南殿跡・光照寺・御塚道石標をご紹介。探訪 京都・山科 若宮八幡宮探訪 [再録] 京都・山科 御陵、安朱を歩く -3 諸羽神社、徳林庵、山階寺跡
2020.09.26
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清閑寺の麓を通り道沿いに進むと、花山トンネルが五条通(国道1号線)の東山トンネルの左(北)側に見えてきます。東山トンネルの2つのトンネルの間に「東山隧道」と刻された石碑が設置されています。また、東山トンネルの長さは259mと北側トンネル正面左端の表示板に記されています。五条通は一般的には東大路通との交差点までをさすようです。そして五条坂から国道1号線の五条バイパスが東山トンネルを通過して山科盆地へと続きます。そこでこの五条バイパスも含めて五条通とも称されるそうです。(資料1) 花山トンネル江戸時代(1811年)に渋谷越の大規模な改修工事が郷民の寄付により実行されたそうです。それでも渋谷越が急坂難所だったことは変わりません。近代になり、1902(明治35)年4月から翌年の4月にかけてこの渋谷隧道の開削工事が行われ、1903年4月28日に完成したと言います。(資料2)渋谷越はこのトンネルができたことにより京都と山科の往復が便利になったことでしょう。しかし、時代の流れとともにこのルートを使う人は数少なくなります。ネットを少し検索してみると、この花山トンネルを心霊スポットとして取り上げている記事もありますね。夜になればすぐ傍を自動車が頻繁に往来しているとはいえ、闇が深く寂しい場所になるのは間違いありません。 東山側にはトンネル入口の上部に「方軌通門」と刻された石額が嵌め込まれています。手許の漢和辞典を引くと「方規」が載っていて、この語句は『史記』蘇秦伝を出典とすると説明してあります。蘇秦伝には、「車不得方規」[車、軌を方(なら)ぶるを得ず]という句がでてくるそうです。「車が二輌ならぶことができない。道のせまい喩(たとえ)」を言います。(資料3)つまり、この隧道は、車が二輌並んで通過できる広さがあるということを、当時の人々が誇らかに感じ、急坂の難所をこの隧道の完成で克服できた喜びを込めてこの言葉を石額に残したということでしょう。 探訪してみようと思っていた当初は、かなり寂れて内部が薄暗く湿気を帯びた歩行者用トンネルになっているのでは・・・と想像していました。実際に現地に行ってみると、改修整備工事が施されたのでしょうか、内部はまだ新しい感じのコンクリート壁面で照明も明るくてスッキリしていました。ここを通過する間に、東山側で一人、山科側で一人、計二人の男性が山科側から自転車でここを通り抜けて行くのと出会っただけでした。 山科側に抜ける手前 トンネルを抜けて、山科側の出入口を眺めた景色です。 こちらの出入口の上部には「花山洞」と刻された石額が嵌め込まれています。京都盆地に入るこちら側がやはり表の入口という位置づけになるのでしょう。トンネルを出ると、道は左折します。 道を曲がったところに、お地蔵さまが祀ってあります。 南方向に少し下って行きます。左(東)側のフェンスの先は幅の狭い谷川が流れています。 東山トンネルの山科側の出入口の傍に、「東山方面歩行者 ⇒」の標識が設置されています。 わずかの距離ですが、五条バイパス(国道1号線)の傍を歩くことになります。 山科側・渋谷越の道に進むところに、「東山方面」へ行くという人向けの標識が設置されています。 山科側での渋谷越の道、つまり渋谷街道を下っていきます。地図を見ますと、北花山の南側山腹にあるつづら折れの坂道を下って行くことになります。 下り始めると、山科盆地の景色が展望できます。途中で道が分岐している個所が幾つかあります。北花山の交差点から登ってくる時は高い方向に進むので気にならないでしょう。だが逆に下って行く時は道路標識がないので、どちらに下るのかすこし戸惑うことになるかも知れません。(事実、戸惑いました。) 坂道を下る途中でこの石碑が目に止まりました。「水路記念碑」と読めそうです。碑文は漢文で記されています。碑文を読みますと、明治29年3月に記念碑として建立されています。山科西北の地にある五部落(日岡・北花山・上花山・川田・西埜山)が旱魃で5年にわたり苦しみ農耕地が荒廃した時期があったそうです。そこで五部落が協力して、明治24年7月に着工し、翌年2月までおよそ550日をかけ、屈曲し高低する山に築堤して、渓水を導く水路工事を完成させたと言います。その距離およそ3000間。昔日の農耕地を復活させることができたそうです。(碑文より) 民家の立ち並ぶ道沿いに下っていきます。 下ってきた坂道は南北の通りである「大石道」と出会います。つまり、渋谷街道と大石道とが交差する「北花山」交差点です。交差点の北東角に阿弥陀寺の白い築地塀が見えています。大石道を横断し、渋谷街道を進みます。 交差点の北西角には北花山の交番が所在します。 渋谷街道の北側に位置し南面する「阿弥陀寺」の表門です。 渋谷街道を東に進みます。北方向への道路傍に愛宕常夜灯が立っています。 渋谷街道の両側に小さな地蔵堂が点在します。 さらに西に歩めば、街道の北側に「元慶寺」の案内表示塔が道路際に立っていて、北への通路の先には元慶寺の表門が見えています。阿弥陀寺と元慶寺は拙ブログで既にご紹介しています。 元慶寺の案内表示塔から少し先に、橋が架かっています。旧安祥寺川に架かる「新八幡田橋」です。 橋の近傍ですが、南側にブロック積みコンクリートの箱型の地蔵堂に6体のお地蔵さまが祀ってあります。渋谷街道の北側は「西野八幡田町(やはただちょう)」で、南側は「西野楳本町(むめもとちょう)」です。それぞれの石仏に涎掛けがつけられていますので、定かではありませんが、いろんなタイプのお地蔵さまがいらっしゃるようです。光背部分の形がすべて異なります。 街道沿いに東進すると「六兵エ池」交差点の道標が見え、その側に「六兵エ池公園」があります。西野八幡田町の南東角に位置します。わりと大きい公園です。この辺りの渋谷街道(府道116号線)の両側は商店や民家が連なり、住宅地域が広がっています。史跡という観点ではあまり目にとまるものはありません。 公園から東に二筋目が「渋谷西野道」の交差点です。 交差点の南東側にこの道標「蓮如上人御往生旧地西宗寺道」が立っています。ここから二丁、南進すると西宗寺に至ると道標の北側面に表記されています。西宗寺の門前には、「蓮如上人御往生之地」という大きな石標が立っています。この西宗寺から東に転じて東進すると、蓮如上人御廟所と東西両本願寺の山科別院に至ります。これら史跡地は以前に拙ブログでご紹介しています。次の信号機がある交差点は「山科団地北」です。旧渋谷街道は時代により頻繁に利用される入口と経路が変化しているようです。大津、山科方面からのルートが数カ所あり、それぞれが旧渋谷街道の一部と考えられるようです。この交差点を真っ直ぐ北上すると、現在の三条通の「五条別れ」の交差点に至ります。さらにその交差点を横断し北に突き当たるとそのT字路は旧東海道(旧三条通)です。 (2013年7月撮影) T字路の南西角に立つ「史跡 五条別れ道標」道標の北面に右方向が三条通と大きく刻されています。また、東側面には、「左ハ五条橋」と刻されその下に 「ひがし」「にし」が併記され、その下に六条大仏、その左側に「今ぐまきよ水」と刻されています。一番下に「道」とあります。つまり、渋谷街道を辿れば、これらの名所に至るという次第です。(資料6)地図を確認しますと、上掲の「新八幡田橋」東詰の少し先で渋谷街道から分岐し、北東方向寄りに厨子奥矢倉町と厨子奥尾上町の境界を行く道があります。厨子奥の地域を通過するこの道は現三条通の五条別交差点から一筋南の道路に合流しています。この北東進する道が旧渋谷街道の経路の一部とされています。(資料4,5)今回、こちらへの北東進の道は虎図に、現在の渋谷街道をひたすら東方向に歩いてみました。住宅街の中を進む渋谷街道を更に東に進みます。つづく参照資料1) 五条通 :ウィキペディア2) 花山洞・渋谷越(京都市山科区) :「京都風光」3) 『中国古典明言事典』 諸橋轍次著 講談社学術文庫 p6444) 『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古書院 p111-1185) 山科 歴史の散歩道 ー旧 渋谷街道の魅力 編- 鏡山次郎氏6) 三条通/五条橋【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺五条バイパス :ウィキペディアやましなを歩く花山周辺 :「山科区」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 東山・山科 渋谷街道を歩く -1 五条大橋東詰から清閑寺傍まで へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ 9回のシリーズでご紹介しています。No.2で元慶寺、No.3で僧正遍照墓など。探訪 京都・山科 山科本願寺旧地を巡る -1 山科本願寺と蓮如上人御廟所 11回のシリーズでご紹介しています。No.11で西宗寺ほかを探訪。
2020.09.25
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京阪電車の清水五条駅で下車し地上に出ますと、五条大橋の東詰です。左の景色は五条通と川端通が交差する南東角の京阪電車への出入口です。右の景色は五条通と川端通の交差点の北東側歩道から五条大橋方向を眺めた景色です。シルバー系の自動車の先に、北西角の京阪電車への出入口が見えます。ここを起点にして、9/22に渋谷街道をウォーキングし探訪してみました。 五条通の南側歩道を少し歩くと、この案内図が歩道脇にあります。川端通から3筋目、青い丸を追記したのが本町通です。山科から渋谷街道を歩んでくると、本町通に至り、五条大橋に到着します。そのルートを逆に山科の方に歩いてみようという訳です。 五条通から本町通に右折して少し行くと、本町一丁目の東側、町家の間にお寺の門が見えます。浄雲寺の表門です。このお寺は「本町通を歩く」という探訪をした時に触れています。 本町二丁目に東の方向への通りがあります。この道が東大路通の馬町に通じています。 通りの北側、民家の傍に地蔵堂が目にとまりました。大和大路通を横切って進むと、東山税務署が北側にあります。京都市広報板の下部に「大和大路東入下新シ町」と表示が出ています。先に進むと、 東大路通(東山通)に出ます。「馬町」の道標が見えます。この馬町の交差点が現在の「渋谷通」の西端になります。ここを起点に「花山トンネル」を東端とする区間が「渋谷通」と称されています。馬町の交差点を横断し、いよいよ渋谷通の緩やかな坂道を東方向に上っていきます。 通りの北側で最初に目に止まるのはこの石標です。この路地を北に少し入ったところ、右手に「佐藤継信・忠信之塚 正木伝 政養之碑」があります。ここは以前にご紹介しています。 常盤町と下馬町の間が幅の狭い谷川になり橋が架かっています。橋という感じがあまりしませんが・・・。その橋の東詰に南面して小さな地蔵堂といくつかの碑が建立されています。地蔵堂の右隣りに「龍橋弁財天」と刻された碑がありますので、ここの橋が「龍橋」と称されるのでしょうか。詳細不詳。 その先には渋谷通から左折し、北方向に下って行く通路が幾筋かあります。最初に見えるのが、この道標が立つ下り坂です。道標の正面にこの道を行けば「西大谷、清水」と表記されています。その左側面には「左 大谷二町 清水五町」と距離が表記されています。下馬町の東隣は上馬町。 ビルの角近くに「三嶋神社」の幟が立ててあります。ここの坂道を少し下ると、三嶋神社があります。渋谷通の南側を見ると、京都女子大学の校舎があります。 さらに進むと、上馬町バス停の近くで道が分岐します。現在の渋谷通(新道)は右(南)側の道路です。今回はこの新道を歩きました。一方、左(北)の道は、後で地図を確認しますと山王神社と法華寺の前を通る道で、こちらが旧渋谷通になるそうです。「渋谷通」が五条通に合流する少し手前で、この旧道は「渋谷通」に合流します。(資料1)この区間については機会をつくり、付近の未探訪先の探訪を兼ねて改めて歩いてみたいと思います。道幅が狭く両側に町家がたちならぶ道のようです。上馬町・下馬町、つまり「馬町」という地名についてふれておきましょう。かつて渋谷街道は東国鎌倉と京を結ぶ重要な道でした。東国への出入口であったこのあたりには、古来馬により物資輸送を行う馬借たちの馬屋が多く、馬市などが開かれたところと言われています。そんなところから馬町と呼ばれるようになったとか。また、手許の一書には北村季吟著『莵芸泥赴(つぎねふ)』に記されているという説も紹介されています。「建久4年(1193)、淡路国(兵庫県)より源頼朝に献上された九頭の馬がしばらくここにつなぎとどめられていたところ、あまりのめずらしさに諸人群集して見物したので、馬町とよぶに至った」(資料1)という言い伝えです。 渋谷通の南東側に地蔵堂があります。基壇正面に「永田町」と刻された石板がはめ込まれています。「延命地蔵尊」と記された扁額が掲げてあり、格子戸越しに眺めると、お地蔵さまの顔は綺麗にお化粧されています。 東側には、少し大きめの地蔵堂がもう一つ並んでいます。こちらには「上馬町 小松谷地蔵尊」と記された扁額が掲げてあります。堂内には8体のお地蔵さまが並べて安置されているようです。数え間違いがあるかもしれません。 この辺りは小松谷と称されるところです。2つの地蔵堂は「正林寺」の表門への参道沿いにあります。渋谷通の南側に境内地が広がっています。表門の少し手前、参道の北側には小さめの「小松谷御坊旧跡」の石標が立ち、南側には「円光大師旧跡」碑が立っています。つまり法然上人の小松谷房があったゆかりの地です。(資料1)後で調べていて、「小松谷御坊旧跡」の石標が道標を兼ねていることがわかりました。北面に「左大津道」と記されているそうです。渋谷越の道を示す道標です。(資料2)このお寺も既にご紹介していますが、表門だけ眺めて行きましょう。 表門の正面には「小松谷」の扁額が掲げてあり、屋根の降棟の獅子口には九条藤紋がレリーフされています。軒丸瓦は一般的な三つ巴紋です。もとは北野真盛町にあった正林寺が、享保年間(1716~1736)にこの地に移ったそうです。その再建にあたっては九条家の庇護を受け、伽藍が整備されたと言います。(資料1) この表門は、八脚門の形式です。正面の左で内側の控柱に寺標が掛けてあります。「円光大師二十五霊場 第十四番 小松谷 正林寺」と記されています。 頭貫の木鼻も蟇股もシンプルな造形です。 中央一間の門扉に対して、その両側にも花頭窓風の外枠の門が設けてあります。三間三戸の形です。出入口が中央一間だけの三間一戸の形式の方が古来から多いそうです。(資料3) 本柱には偈が掲げてあります。 この門の一つの見どころは、本柱の頭貫上に丸彫りされた龍像です。 門を潜って、境内側から眺めると、龍の背面が彫り込まれています。さてこの位にとどめて、渋谷通を先に進みましょう。 通りの斜め北側には、「京都府立陶工高等技術専門学校」があります。この学校を眺めながら通過。 道路が左へカーブする少し手前に、右の京都一周トレイルの順路標識があります。渋谷通が五条通(国道1号線)に合流する少し手前です。 五条通に合流する地点は、渋谷通の左側に地下道が設けられ、五条通の北東側に抜けることができるようになっています。この辺りは「清閑寺山ノ内町」です。清閑寺は五条通の北側、東山連峰・清水山の山腹に位置します。 渋谷街道への道標 渋谷通が五条通に合流するところに、交通安全地蔵尊が建立されています。1966(昭和41)年に建立されたもので、光背の右側には「為有縁無縁各霊菩提也」(有縁無縁各霊を菩提と為す也)という一文が刻まれています。合流地点の南側を五条通沿いに少し東に進んだところに、 明治13年に建てられた大きな道標があります。五条通から南に進む分岐点に立てられています。左側が五条通で山科・大津に向かう方向です。ここで右折すると「中央斎場」(火葬場)に向かいます。 五条通に面した面には、「渋谷街道」と太くて深い彫りの文字が刻まれています。それでは、五条通を横切る地下道を通り抜け、五条通の北側に出ます。そして、五条通沿いに東方向に進みます。 道沿いでこの道標が目に止まりました。北方向の矢印には「六條天皇陵 高倉天皇陵 参道」と記されています。六條天皇陵は清閑寺の北側に位置します。つまり、この辺りが清閑寺への近傍です。右矢印は、渋谷越で山科に向かう方向です。つまり、渋谷街道は、天智天皇陵や遍昭僧正墓への参道でもあるということです。ここで、一つ過去と現在の大きな違いがあります。かつては、清閑寺を経て峠路を登り、山越えして山科側に下るという街道だったわけです。約130mに及ぶ峠路だったと言います。(資料1)現在は「花山トンネル」を通り抜けて山科に出ることができます。峠を登らずにすむ楽なルートになっています。渋谷は『しるたに』ともいわれ、滑谷・瀋谷・汁谷とも表記されたようです。『しるたに』とはぬかるみを『しるい』ということから転化したものとも考えられています。「滑谷はまた渋谷越の北、清閑寺より清水奧の院、音羽ノ滝に至る細い山径をも含めて称したようだ」(資料1)とも。さらに、古名として「久々目路(くくめじ)」「苦集滅路(くずめじ)」とも書かれたそうです。また東国路(あずまじ)とも呼ばれたと言います。(資料1,4)「苦集滅路/苦集滅道」の名は、1679(延宝7)年の『京師巡覧集』に記載があるそうです。「コノ所ハ清閑寺ノフモトナリ。圓城ノ開山教待山崎へ行トテ滑谷ヲ歴コノ辺ヲ通シケルニ。履ノ下ニ苦集滅道ノ音アリ。コレヨリ称シ侍ル」と。(資料4)また、「京都から東国へ左遷されるものがこの道を通るとき、必ず四諦の法を観じたことからかかる仏教的な名が付会されたともいう」(資料1)という説明もあります。鎌倉時代の六波羅探題は渋谷越入口付近に設けられたと言います。この道は当時から重要性が高まっていくことになったそうです。「元弘3(1333)年5月、六波羅探題が滅び、時の探題北条時益、仲時らが東国に向けて敗走したのもこの道であった」(資料4)とか。 「山科方面歩行者」と赤色矢印の記された標識が設置してあります。 五条通(国道1号線)の東山トンネルの全景です。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p133-1352) 小松谷御坊旧跡 :「フィールド・ミュージアム京都」3)『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p164-1654)『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古書院 p111-118補遺渋谷街道 :ウィキペディア渋谷越 :「コトバンク」渋谷街道【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」四諦 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」六波羅第・六波羅探題府とは 幻の京都探訪 :「京都じっくり観光」六波羅探題とは?簡単に解説!場所や目的と役割についても! :「歴史伝」六波羅探題 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -1 五条大橋、本町通を南へスポット探訪 京都・東山 佐藤継信・忠信墓、小松谷正林寺
2020.09.24
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革堂の境内探訪の続きを始めます。鐘楼の西側に地蔵堂が並んでいます。 鐘楼の基壇のすぐ隣りのお堂 格子戸越しに拝見すると、幅が細めの光背のある地蔵菩薩石像が祀られています。 さらに西隣りの地蔵堂です。 こちらには、いわゆるお地蔵さまが二体祀ってあります。今風の涎掛けが掛けられています。かわいい図柄です。 お堂の隣には基壇が設けてあるのでけっこう大きく見える宝篋印塔が建立されています。基礎には「宝篋印塔」と刻され、その下にも反花座が加えられています。関東型と言われるタイプのようです。(資料1)塔身の四面には月輪に梵字が彫られています。隅飾突起が反りかえりひらいていますので、江戸時代に建立されたものかもしれません。 宝篋印塔の西側には、「百体地蔵尊」と記された扁額が掛けられた覆屋があります。 覆屋の中には、大小と姿も様々な石仏がびっしりと並べて安置されています。石仏はその頭部をみると、如来形のものと僧形のものとが混在しています。手前には一石五輪塔も安置されています。 左手に蓮の茎を持ち、右手は与願印の印相のようです。頭部には髪が彫られていますので菩薩像でしょうか。向かってその左側には頭部が欠損した石造半跏坐像が見えます。 こちらは首の部分を補修して如来形の頭部をつないであります。左手には掌に何かを持っていらっしゃるようです。如意宝珠なのか薬壺なのか定かではありません。右手は与願印の印相です。如来石像なのでしょう。 頭部は螺髪のよう・・・。ならば如来形です。 左の写真の後の石仏は如来形、前の石仏は僧形の頭部です。前の方は地蔵菩薩なのでしょう。後の方はたぶん阿弥陀如来坐像の可能性が高いと思います。右の写真の石仏は姿が定かではありませんが、双体石像です。道祖神像の可能性がありますね。 百体地蔵尊の西側の景色巨大な五輪塔ともう一つの小堂が同様に南向きに並んでいます。 五輪石塔に向かって右側に「加茂大明神」と刻された石柱が立っています。つまり、この五輪石塔が「加茂明神塔」です。水輪の正面に四角の穴を穿ってあります。 その内部には、小ぶりの石造不動明王坐像が安置されています。革堂行願寺の本尊は前回ご紹介したように、行円上人が夢告により神木を得て観音像を造立されたとご紹介しました。寺伝によれば、この巨大な石塔はその報恩のために加茂神を勧請して建立されたと言われています。ただし、この石塔の造刻年代の時期は本尊造立時期より新しいものだそうです。火輪(笠石)は鎌倉時代の作で、それ以外は更に時代が新しくなるとか。火輪(笠石)の「軒裏に一重の棰型(たるきがた)の作り出しがあるのは珍しく、市内に散在する忌明塔の一とされている」(資料2)という説もあります。忌明塔とは、「亡き父母の忌明けの日に喪中の穢れを清めるために参拝した」(資料3)塔を意味するそうです。 この小堂も地蔵堂なのかと思って、格子戸越しに拝見しますと、 「出世辨財天」の扁額が掲げてあります。弁財天堂です。 円形の中に弁財天坐像が浮彫りにされていて、その石像が安置されています。この弁財天堂が境内の北西隅に位置します。ここから折り返し山門に往路とは反対側を拝見しながら戻りましょう。 七福神石像が参道に顔を向ける形、つまり東面して一列に並んでいます。 北端には布袋和尚 左が寿老神(中国の福寿の神)、中央が福禄寿(北極星の神格化) 左は毘沙門天(多聞天ともいわれる)、右は弁才天(音楽・弁才を司るインドの神) 左は恵比寿(事代主命にも置き換えられる)、右は大黒天(大国主とも習合する) 南東側からの眺め序でに、福禄寿と寿老人についてです。寿老人は福禄寿と同体異名であると考えて、寿老人を除き吉祥天に置き換える場合もあるようです。福禄寿と寿老人は北極星を神格化した神であり、仏教での北極星・北斗星信仰と関連していきます。妙見菩薩信仰に関係します。妙見は北斗七星の中の中心となる北辰星(北極星)のことです。(資料4) 「寿老神堂」です。安土桃山時代と伝わるそうです。 お堂前面の右上、頭貫の上に「寿老神堂」の扁額が掲げてあります。 このお堂にも結構沢山の千社札が貼られています。 格子戸越に眺めた堂内は暗く、寿老神像は1本の灯明だけのかすかな明るさの状態で拝見しました。これは後日少し画像処理をして見やすくしてみたものです。 愛染堂 その名から愛染明王を祀るお堂ということがわかります。本堂側からなら、参道沿いで最初にこのお堂を拝見し、寿老人神堂を訪れることになります。 境内には蓮の大鉢が数多く並べてありますが、訪れた時季が遅かったからでしょう。 境内で目にとまったにはこの二つの花だけでした。 本堂前から山門に戻る途中で振り返り、本堂をもう一度眺めてから革堂を出ました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『図説 歴史散歩事典』 監修井上光貞 山川出版社 2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p258-2593) 五輪塔(航海記念塔) :「石清水八幡宮」4) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 p357-358補遺都七福神めぐり :「e-KYOTO まるごと京都ポータルサイト」七福神めぐり :「ざ京都」寿老人 :ウィキペディア七福神(吉祥天) :「寺社関連の豆知識」妙見菩薩 :ウィキペディア星曼荼羅図 :「堺市」星曼荼羅(宿曜道) :「PIICATSの勉強室」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛中 革堂行願寺細見 -1 本堂・書院・庫裡・鐘楼・石仏ほか へスポット探訪 京都・洛中 下御霊神社細見 -1 正門・手洗舎・拝殿・本殿・三社ほか へスポット探訪 京都・洛中 下御霊神社細見 -2 末社、神物寶庫、垂加社と山崎闇斎 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -1 寺町頭、阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺ほか 9回のシリーズでご紹介しています。行願寺(革堂)の探訪記も載せています。
2020.09.09
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丸太町通から寺町通に入り、南に200mほど下りますと、下御霊神社の南隣りに行願寺(革堂)があります。地名は中京区行願寺門前町です。行願寺という寺号よりも革堂(こうどう)の通称で良く知られていますので、門前の表示も、「革堂行願寺」と記されています。山号は霊麀山(れいゆうさん)。麀という文字は雌鹿のことだそうです。(資料1)天台宗延暦寺派のお寺で、西国第十九番札所です。山門の斜め左手前、寺町通の傍にこれを示す大きな石標が立っています。ここはまた、京都観音めぐり、洛陽三十三所の一つでもあり、第四番札所でもあります。更に、京都七福神のうちの寿老人が祀られていて、七福神巡りのお寺でもあります。「西国十九番札所」の石標の北側に、「鎮宅霊符神堂」と刻された石標が立っています。この革堂もまた、「寺町通を歩く」一環として以前に探訪していますが、改めて下御霊神社の続きに久しぶりに立ち寄ってみました。訪れた時季が異なるため、がらりと違った雰囲気を味わうことができました。 門前にこの駒札が立っています。駒札にも革堂を主にし、寺号を括弧書きにしてあります。この説明もこれからのご紹介において参照していきたいと思います。 山門 山門は薬医門形式のようです。頭貫の中央に張り出す梁は両側の男木の先端部と同じシンプルな形状です。前面に漆喰が塗だれているようです。白さが際だっています。頭貫に乗る蟇股の上に、直接大斗・平三ツ斗が組み合わされて屋根の棟桁を支えています。扉は菱狭間の桟唐戸です。菱の中には十文字のように見える木組細工が施されています。錺金具は使われていません。 門を入ると、東に真っ直ぐな石敷きの参道がのび、正面に本堂が見えます。初めて訪れるような錯覚を抱いたのは境内の参道両側に大きな鉢が並び蓮の葉が伸びやかに広がっていたからでした。 参道の左(北)側にも、蓮の鉢がずらりと並び、その先に小堂があります。 近づいてみると、「延命地蔵菩薩」と「天道大日如来」と記された扁額が並んでいます。格子戸越しに、三体の石仏が安置されています。 扁額の位置に合わせると、右の石像が天道大日如来で、木製壇上の蓮華座に坐し舟形光背と円光背造形されている方が、延命地蔵菩薩に相当するようです。(右の石像の頭部の形が如来形ではないところが少し気になるのですが・・・・) 左端の石仏はお地蔵さまなのでしょう。 お堂の北東方向に手水舎があります。 木鼻はシンプルな形ですが、格子天井が付いています。千社札が沢山貼られているのが目立ちます。今は禁止されていますので、かなり以前のものがそのまま残っているのでしょう。 大きな手水鉢の正面には、詠歌講と大きく太い文字が彫られています。詠歌講に加わった人々が皆で奉納されたのだと思います。 本堂の手前北側に立つブロンズ製の石灯籠と本堂前南側に立つ寺号標 現在の本堂は文化12年(1815)に再建された建物です。(駒札)向拝は屋根が唐破風になっています。本堂は入母屋造に千鳥破風が付いた屋根のように見えます。 唐破風屋根の獅子口には、中央部に菊花紋がレリーフされていて、経の巻の先端には三つ巴紋が見えます。 錺金具は文様が定かでないのですが、菊花文様ではなさそうです。兎毛通の部分は金網が覆っていますので、これもわかりづらいのですが、鳳凰の透かし彫りのように見えます。間違っているかもしれません。 木鼻は象でしょうね。 龍の彫刻 大斗を頭部で支える獅子の彫像は、目が玉眼になっているようです。 革堂観音と墨書された提灯が吊り下げてあります。本尊は千手観音菩薩です。本堂前面には数多くの額が奉納されています。その多くは御詠歌が記されています。赤い提灯の上に掛けられた銅板製と思われる額も御詠歌と奉納者の名前が記されています。御詠歌 はなをみて いまはのぞみも こうどうの にわのちぐさも さかりなるらん寛弘元年(1004)に一条天皇の勅願により、一条小川(一条油小路)の地に寺院を建立されたのが草創といわれています。開基は行円上人です。(駒札、資料2,3)革堂と行願寺の名称は行円上人に由来します。上人は「九州の出身で以前は狩人であった。或る日雌鹿を射とめて、その腹の中に子鹿が生きていたことを知り、殺生の恐ろしさを悔い出家した」(資料2)と言います。出家した後、その雌鹿の革に千手陀羅尼を書き、身に鹿革の着物をまとって、首に仏像をかけて市中を布教して歩いたそうです。そのため人々は皮聖(かわひじり)あるいは革上人と呼んだと言います。それが革堂の名のいわれだそうです。行円上人の願いの寺から行願寺の名が付けられ、革堂行願寺と呼ばれる由縁になります。(駒札、資料2,3)「鹿革衣」や江戸時代に制作された「行円上人坐像」が寺宝の一つになっています。(資料3)本尊についても次のような伝承があるそうです。「上人は仏像を刻む為の木材を求めていた所、或る夜の夢に高僧があらわれて加茂の社の傍らに霊木がある事を告げられ、神社の傍らにあった槻の木を見つけ、それを譲り受け自ら一刀三礼して八尺の千手観音像を彫刻されたといわれている。」(資料3)この時の余材は安居院の仏師仁弘により千手観音が刻まれ、鷲尾寺に安置された後、善峰寺の本尊になったそうです。(資料1) 本堂外縁の南端には、小堂が祀ってあります。たぶん賓頭盧尊者坐像でしょう。 本堂の前面、南西角の傍に、南面してこの小祠が祀られています。案内等はありません。屋根の形から判断すると、革堂行願寺の鎮守社かなと推測します。写真は撮っていませんが、本堂の南側には宝物庫のビルが並んでいます。 本堂の北西角の傍には、この石灯籠が置かれています。中台の格狭間には、波濤文様が厚肉でレリーフされています。 火袋にも波濤文様がレリーフされています。別面には草花文様のレリーフが見えます。本堂前で左折して北方向への道を進みます。 木の枝葉が茂り、石碑に線刻された図像が見づらくなっています。以前に取り上げていますので、そちらをご覧くださるとうれしいです。下部に刻まれた語句は読み取れます。「発心真正 即刻聖位」と陰刻し漆喰を塗り込んであります。その左に「妙法院門跡良順書」と刻されたいます。 参道を進むと、東側に「書院」があり、玄関が見えます。 その北側に「庫裡」があります。 鬼瓦 参道の突き当たり、境内地の北端に「鎮宅霊符神堂」があります。前面の格子戸の両側は花頭窓です。禅宗様窓が使われています。お堂の前面に吊り下げてある赤い提灯に「鎮宅霊符神」と墨書されています。「鎮宅」とは、「家宅の災禍を祓消し鎮める」という意義だそうです。「霊符」とは一種の「護符」を意味し、ご利益の種類に応じて多くの霊符(七十二霊符)があるようです。霊符神については、神儒仏の三道それぞれに修法があると言います。鎮宅霊符神は北辰・北斗を神格化したもので、北辰(北極星)信仰、つまり妙見菩薩・妙見信仰と関係するようです。(資料4,5)参照した資料には、「鎮宅霊符神尊像」の図像写真が掲載されています。(資料4) 堂前の石灯籠は標準的な石灯籠とはかなりスタイルが異なります。円形を基調としているようです。竿の正面には「霊符神」と刻されています。 鎮宅霊符神堂の西側に接して「鐘楼」があります。この鐘楼は文化元年(1804)の建築だそうです。(資料6) 梵鐘の撞座のある縦帯の左右の池ノ間には天女の飛翔姿がレリーフされています。 下帯には葡萄唐草文様がレリーフされています。別の池ノ間には、現在の梵鐘が昭和48年(1973)5月に建立された由緒が記されています。その理由は、昭和20年5月に太東亜戦争の金属供出で当時の梵鐘が供出され、鐘楼のみが残ったことによります。住職淡海の再鋳発願がこの梵鐘として結実したそうです。 鐘楼の北側壁沿いに石仏が並べて安置されています。 様々な姿の石仏が印を結び、ひっそりとした静かな空間を生み出しています。現在の地図を確認してみました。一条通を越えて小川通を北に行くと道路の両側に「革堂町」、その西隣が「革堂仲之町」、油小路通の両側が「革堂西町」という町名です。草創期に革堂行願寺がこの地にあったことが今もその記憶を地名にとどめています。この地にあった時は、「一条北辺堂」とも呼ばれたと言います。(資料2)「室町時代には、下京の六角堂に対して上京の革堂といわれ、観音霊場としての広い信仰を背景に町堂として親しまれ」また「遅くとも16世紀には確立されていた上京の町組では、その共同体内部の議事は革堂で行うことが通例であった」(資料3)と言います。「一期有事の際には(付記:革堂の)鐘をならして当時に集合する町堂」(資料2)ともなったのです。「享禄2年(1529)1月10日・11日には、武家・柳本が『一条殿御地』の住人に地子を強制し、妻子を人質に取る事件」(資料3)がその実例として起こっています。町衆が革堂の鐘をつきならし、集って武力蜂起したと言います。天正18年(1590)豊臣秀吉の京都大改造の折りに、命じられて寺町荒神口に移転したのですが、宝永5年(1708)の大火で類焼した後、現在の地に三転し、今日に至ります。(資料1,2)地図を見ますと、革堂草創の地の北に元誓願寺通という東西の通りがあります。この通りを西に進みますと、浄福寺がある南北の浄福寺通を越えて西に入ったところ、浄福寺の境内の北に、元誓願寺通の両側が「革堂町」という地名です。一条小川の地からは飛地ですが、ここもたぶんかつての革堂と関係が深かった場所なのでしょう。つづく参照資料1) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p91-932) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p258-2593) 『京都観音めぐり 洛陽三十三所の寺宝』 勉成出版 p20-27 監修:平成洛陽三十三所観音霊場会・京都文化博物館 編集:長村祥知4) 鎮宅霊符神 : 天下無比福寿必得 :「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 妙見信仰とは :「戸原のトップページ」6)『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p53-54補遺第十九番 霊?山革堂行願寺 :「西国三十三所巡礼の旅」行願寺 :ウィキペディア太上神仙鎮宅七十二霊符 :「星田妙見宮」葡萄唐草 :「唐草図鑑」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛中 下御霊神社細見 -1 正門・手洗舎・拝殿・本殿・三社ほか へスポット探訪 京都・洛中 下御霊神社細見 -2 末社、神物寶庫、垂加社と山崎闇斎 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -1 寺町頭、阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺ほか 9回のシリーズでご紹介しています。行願寺(革堂)の探訪記も載せています。
2020.09.08
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境内の拝見を拝殿の南側から始めます。正門を入って、すぐ右側方向に向かうと、境内社の一つとして、「天満宮」が祀られています。 天満宮の奉納石灯籠 天満宮の前から東を見ると、西(右)から東(左)に境内社と土蔵が並んでいます。この景色の西端に祀られているのは、 「大国主社」神殿建築で文化4年(1807)の建立と記された木札が掲示されています。 祭神は大国主神と事代主神です。 大国主社の東隣りには、流造り檜皮葺きの一つ屋根の下に四社横並びに連なって祀られています。西側から拝見して行きましょう。神社名・祭神・特記事項という順でまとめます。それぞれの社の左下に木札が付けてあります。その説明を転記します。 斎部社(いんべしゃ) 天太玉命 社家の祖先神 大将軍社 大将軍大神(方除の神) 高千穂社 瓊瓊杵尊 大将軍社と高千穂社は相殿となっていて、格子扉の内側に紙幣が2つ置かれています。 愛宕社 愛宕山に坐す神(火伏神) 日吉社 近江坂本 山王七社 神殿建築、文化4年(1807) 東側から眺めた姿檜皮葺きの屋根の傷みが進んでいるためでしょう、先端側を金属板で覆い補強されているのが目につきます。つまり、こちらの二棟の境内社は同時期に建立されていることになります。 境内地の東南隅に位置するのがこの「神物寶庫」です。扁額とその周辺の傷みが目立ってきていますが、土蔵形式の建物で、その漆喰仕上げの扉の厚みをみると往時の姿は人目を惹くものがあったことでしょう。 正面の右側に、案内文が掲示されています。 神輿や祭具を保管する蔵(神庫)です。 この神蔵は宝永の大火(1708年)後に境内の別の場所に建てられていたものが、天明の大火(1788年)で神社が焼亡し社殿造営を行うときに、現在の位置に移築されたと考えられています。天明の大火の時には、この土蔵の扉が閉められていたので、庫内の品々は火災を免れたのです。当時、庫内には宝永の大火の翌年(1709年)に東山天皇・霊元天皇より賜った大宮神輿や貴重な祭器が保管されていたそうです。(説明文より) 屋根の大棟中央に置かれた飾り瓦。鬼板の一種になるのでしょうか・・・・。中央に菊花がレリーフされています。大棟に使われている丸瓦も菊花文が刻印されています。 扁額の左右に造形された一対の鶴、漆喰彫刻がすごい。匠の技と言えましょう。インターネットで調べてみますと、鏝絵とも呼ばれているようです。(資料1,2) 土蔵の内扉の上部・長押のところに漆喰に菊花文がレリーフされています。 土蔵の分厚い扉は漆喰造りで、正面に向かって右の扉の内側には菊花文が浮かび上がっています。 もう一つの左側の扉には、この神社の神紋「沢潟に水」がレリーフされています。 それでは、拝殿の北側で正門に近いところから時計回りに拝見していきます。 正門を入った左側にある手洗舍の北西側はこんな景色です。 手洗舎のすぐ隣りには小さな拝所の奥に社殿があり、拝所に3つの扁額と説明パネルが見えます。右から、「垂加社」「猿田彦大神」「柿本大神」と記された扁額が掲げてあります。つまり、垂加社・猿田彦社・柿本社の三社が相殿になっているようです。 手前にあるのが、この案内パネルです。以前訪れたときの案内パネルと異なり、新調の案内パネルになっています。 末社の一つ、垂加社は山崎闇斎を祀っています。「神官出雲路信直が、闇斎の門人であったので、猿田彦社と相殿で祀った」(資料3)と言います。山崎闇斎(1619~1682)は江戸時代初めに神道と儒学を関連付けて独自説を展開・実践した学者です。朱子学研究で知られ、会津藩主・保科正之に招かれた儒者。一方、山崎闇斎は神道を併せて研究し、独自の神道説を提唱したそうです。「垂加神道」と称されています。(案内説明文、資料4) 案内パネルの後半に、この山崎闇斎の考えが幕末の尊皇派の人々に大きな影響を与える一つとなったことが説明されています。伊勢神宮の神道書の一つ『倭姫命世記』の中に、「神垂祈祷 冥加正直」という語句があり、この語句忠の「垂」「加」から垂加社が由来するそうです。「神垂祈祷 冥加正直」とは、「神の恵みをうける(垂る)ためには人として祈祷が第一で、目には見えない神慮が加わる(冥加)ためには人として正直をもってするのが根本である」という意味だと言います。これが垂加神道の境地を表す言葉だとか。高弟は公家、大名、祠官から庶民までに至り、幕末には梅田雲浜、有馬正義(新七)などに闇斎の思想が継承されたそうです。(案内説明文)「この垂加社の起源は、先生(霊号 垂加霊社)が晩年にお祀りされた自らの清らかな幸魂奇魂(さきみたまくしみたま 心神)を封じた霊璽(れいじ 御霊代 みたましろ)を、高弟の一人で下御霊社神主出雲路信直に託され、最終的に末社猿田彦社の相殿に垂加社として合祀されました。」(案内説明文一部転記) 北側には「稲荷大神」の扁額を掲げた「稲荷社」が祀られています。 稲荷社の北、境内の西北端寄りにこの碑が建立されています。 碑の上部を切り出して見ました。方形枠の中に「闇斎山崎先生祠堂碑」と陽刻されています。その下に、こちらもまた升目をきっちり引いた中に一文字ずつ陰刻した碑文がびっしりと記されています。 闇斎碑に近いところに、この説明パネルが掲示されています。以前に見た記憶はありませんので、その後に設置されたのでしょう。「碑文の大意」が説明されています。 宗像社 闇斎碑の東側に「神楽所」があります。その北側には社家があり、社務所や神官の住居が並んでいます。こんなところで、一通り境内の拝見・散策を終えたことになります。序でに、この神社にほど近い寺町通東側歩道傍に、「横井小南殉節地」の石標がたてられています。明治2年正月5日に横井小南が暗殺された場所がこの近くでした。拙ブログの「京都・寺町通を歩く」シリーズで少し触れています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 土蔵の花形は漆喰彫刻!豊田市足助地区の漆喰彫刻は凄い! :「風とガレ」2) 鏝絵の仁五 ホームページ3)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p132-1334) 垂加神道 :「本居宣長記念館」補遺下御霊神社 トップページ 山崎闇斎山崎闇斎の神道説について 細谷惠志氏の論文 了徳寺大学学術機関リポジトリ 山崎闇斎邸址 :「フィールド・ミュージアム京都」浦賀の鏝絵(こてえ) :「浦賀市」えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)(3)鏝絵① :「愛媛県生涯学習センター」横井小南殉節地 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛中 下御霊神社細見 -1 正門・手洗舎・拝殿・本殿・三社ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -1 寺町頭、阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺ほか 9回のシリーズでご紹介しています。下御霊神社の探訪記も載せています。
2020.09.07
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京都市歴史資料館でのテーマ展を見た後、寺町通を下り、久しぶりに「下御霊神社」を訪れました。以前、寺町通を歩いた探訪記をまとめてご紹介した折に、その一環としてご紹介をしています。ここではもう少し細見的にご紹介したいと思います。この神社は、中京区寺町通丸太町下ル、下御霊前町にあります。歴史資料館は丸太町通から北に少し上がったところです。寺町通に面して朱塗りの明神鳥居があります。その傍に駒札が立っています。 駒札の説明は、このご紹介のなかでも参照していきたいと思います。 鳥居をくぐるとすぐ傍に、一対の石造狛犬像が配されています。 狛犬に続いて、両側にこの石灯籠が奉納されています。石灯籠の竿には「常夜燈」、東面には「福神講」と刻されています。灯籠の基礎には「上之店魚問屋」と刻されていますので、この魚問屋の人々が講を組んで一対の石灯籠を奉納されたのでしょう。 鳥居に続いて「正門」があります。四脚門の形式です。前面の控柱に「御神燈」と墨書した提灯が掲げてあります。 御神燈の側面には神紋が見えます。「沢潟に水」の意匠です。正門に向かって、右側の扉の傍に説明板が立て掛けてあります。「天明の大火(1788)後に造営された仮皇居(御所)の建礼門を下賜され移築したものと伝えられています。大きい梁の中央に龍が飾られ、表側の化粧梁には玄武と朱雀に乗った仙人が、また裏側の梁には麒麟と鳳凰が飾られております。」(説明文転記) 説明文を読み、正門前で門を見上げた景色です。 表側控柱の上の化粧梁には、左に玄武(神亀)に乗る仙人が蟇股に飾られています。 右には、朱雀に乗る仙人です。 立ち位置を変えて撮ってみました。 本柱の大きい梁の上には蟇股に龍が飾られています。その上の虹梁には大瓶束の両側に草花文の飾り彫刻が見えます。 龍の彫刻の背面(境内側) 境内側控柱の化粧梁には蟇股に麒麟の飾り彫刻と 鳳凰の飾り彫刻がみられます。 木鼻はシンプルな造形です。控柱は礎石に乗っています。 上部に花狭間のある桟唐戸の扉は錺金具が鉄製のようであり、歳月の経過を感じます。 正門を入ると、左側に「手洗舍」があります。手洗舎の全景を撮らなかったのは、私が手洗舎付近で写真を撮っていた時に、この手洗舎に来る人が絶えなかったからです。というのは、「清敬」と大きく筆太の文字を陰刻した水鉢の反対側に手洗の水を石樋に注ぐ蛇口とは別に、蛇口が設けてあり、大きなペットボトルを持参してここの水をいただいて行く人が絶えなかったのです。手洗舍の柱に、「下御霊神社 地下水の伝承」と題した掲示がありました。「江戸時代の明和7年(1770年)の秋は京の市中が旱魃(かんばつ)に見舞われました。 当時の神主(第38代)出雲路定尚直が夢のお告げで境内の1か所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出でて涸(か)れることなく万人に汲ませることができ、『感応水』と名付けられたと伝わっております。 今はこの井戸の痕跡はありませんが現在の地下水も同じ水脈です。改めて『御霊水(ごりょうすい)』と名付け、皆様とともに大事にしていきたいと存じます。 その為にも最も大切なことは、水の恵みをあたりまえに思わず毎日神様に感謝することです。」(説明文転記)蛇口から手に掬いこの水を飲んでみました。美味しい水です。 正門を入ると、正面に拝殿があります。1798年の造営だそうです。(資料1) 三間四方の建物で入母屋造檜皮葺きのようです。 拝殿東側に、「下御霊神社 歴史年表」が掲示されています。その年表に併載の略地図を切り出してみました。初めは「イ」の場所、下出雲路の地に祀られたようです。この年表には、創祀については諸説あると記されています。その一説は、「一条の北、京極の東にあった下出雲寺の鎮守社として、仁明天皇(1810~1850)によって創建された」(資料2)と言います。貞観5年(863)5月20日、神泉苑において「御霊会(ごりょうえ)」が修され、この時に6名の御霊が祀られたそうです。この御霊会を由緒とするそうです。(歴史年表)『神祇拾遺』は伊予親王を祭祀としたことが下御霊神社の始まりとすると言います。(資料1)当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと言われています。また、古来より、京都御所の産土神として崇敬されてきたそうです。(駒札)鎌倉初期には「イ」の位置から新町通出水(近衛)辺り、つまり「ロ」の位置に遷っていたとか。現京都府庁がある辺りです。(歴史年表、資料2)応仁の乱において兵火に遭い神社は焼亡したと言います。御神体を奉じて北山花園村にしばらくの間遷るという苦難の時期を経て、再び「ロ」の地に戻り、少しずつ復興して行ったそうです。(資料3,歴史年表)安土桃山時代、天正18年(1590)に豊臣秀吉は京都の大改造を実施しました。御土居造り、区画整備をし、多くの諸寺社を移転させたのです。下御霊神社もそのときに、現在地「ハ」に遷されて、ここに鎮座し現在に至ります。(資料2,歴史年表)御所は、火災などによりその都度様々な場所に遷りました。南北朝時代に、土御門東洞院内裏がその後現在に至る御所の位置(「ニ」)に定まったそうです。 拝殿の傍にはこの「御霊祭 天保絵図」も掲示されています。江戸時代、天保年間に描かれたこの神社の祭礼絵図です。剣鉾と神輿が列をなしています。剣鉾という祭具が飾られて、神幸列に供奉して巡行するのです。下御霊神社には、昭和初期以前のものとして枝菊鉾と石竹鉾が現存するそうです。現在4カ所の「剣鉾差し」が京都市登録無形民俗文化財になっています。(資料4)5月18日前後の日曜日に御霊祭があり、鉾差しが行われます。「神幸列は午前10時に神社を出御し、神社より東側の氏子区域を巡る。午前に供奉する剣鉾は鴨東地区の扇鉾、葵鉾、菊鉾の3基で、そのうち扇鉾と葵鉾は東山系の鉾差しを招く。菊鉾は枠造りで曳行する。午後の巡行列は午後2時に神社を出発する。これには枠造りで曳行する枝菊鉾が供奉する。下御霊神社の神幸列には、神社の祭具として、巨大な三叉鉾を枠造りにした幸鉾(さいのほこ)も供奉する」(資料4)と言います。還幸祭には、鳳輦と神輿が併せて渡御します。天保4年(1833)には「神輿と飾りを大規模に修理し、剣鉾も新造修理」されていて、鳳輦は明治期と大正12年(1923)に新造されています。大正15年(1926)に大宮神輿・若宮神輿が修理されているとか。剣鉾は各鉾町が所有・保管されていて、現存するのは8本だそうです。(歴史年表) 拝所 拝所は唐破風の屋根になっています。 屋根の獅子口 獅子口の経の巻が残念ながら2本欠損となっています。 菊紋章の付いた錺金具と兎毛通。兎毛通にも菊花文様の装飾彫刻が施されています。 菊紋章で統一されていますね。 本殿はほとんど見えませんが、天明8年(1788)に仮皇居の聖護院宮に造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移建したものと言います。(駒札、資料2)尚、寛政2年(1970)の移建と説明する資料もあります。(資料1,3,歴史年表)「本殿・幣殿・拝所・南北廊が、屋根を交錯させて一連の内部構造をつくる特異な社殿構成」(資料2)になっているそうです。これは京都市内の御霊社に特有のものであるとか。(資料2,駒札)祭神は八所御霊。上記の通り、貞観5年の「御霊会」で祀られた6座に2座が加えられて8座が祀られています。6座とは、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂です。この6座に、吉備聖霊と火雷天神(菅原道真の荒魂あらみたま)が加えられています。(資料1~4,駒札)当神社のホームページを参照しますと、吉備聖霊は吉備真備ではなく、六座の和魂(にぎみたま)と解釈されています。吉備真備は成功された人であり御霊には当てはまらないからとのこと。本殿の相殿に、霊元天皇が天中柱皇神として祀られています。(歴史年表) 拝所の傍で、こんな掲示が目にとまりました。 狛犬(拝所の右側) 南廊の端近くの石灯籠 北廊の端近くの石灯籠 火袋の一面に朱雀(/鶴)に乗る仙人が厚肉彫りされています。 火袋の下、中台の格狭間には十二支がレリーフされています。 火袋の一面は、上半分が菱格子窓で下半分に花文様がレリーフされています。 火袋のもう一面には、虎が厚肉彫りにされています。 竿の下の反花と基壇。基壇の格狭間にも動物がレリーフされています。何かは判別しづらいところです。 本殿の北隣には、菱格子の窓になった「三社」の拝所があります。 中央は伊勢神宮の内宮と外宮が勧請されて祀られています。 その両側は春日社(北側)と八幡宮(南側)です。それでは、境内を眺めてみましょう。つづく参照資料*「下御霊神社 歴史年表」 境内に掲示の案内パネル1)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p132-1332)『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p54-553)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p255-253 4)『剣鉾のまつり』 京都市文化財ブックス第29集 京都市 p17,p48,p80-81補遺下御霊神社 ホームページ特集 京の祭の遺宝 剣鉾(けんぼこ):「京都市文化観光資源保護財団」京都 剣鉾のまつり調査報告書 :「京都の文化遺産」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.09.07
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この部分拡大した観光案内図から始めます。方位は南北が逆になっていますのでご注意ください。図の右寄り下の赤丸を追記したところが「奈良国立博物館」です。その左斜め方向にマゼンタ色の丸を追記したところが「浮見堂」で水色のところが「鷺池」です。西方向に走る国道の両側の水色のエリアは「荒池」です。そして、現在位置と表示してある道路脇の位置にこの案内図があります。このあたりは「高畑町」です。鷺池の南側は丘陵地になっていて、「瑜伽山」と称されるそうです。この散策で、この名称を初めて知りました。 鷺池の中島から南岸に架かる「蓬莱橋」の小橋を渡り東西の道路に出ると、道路の反対側に真新しい感じの築地塀が道路沿いに見えました。この景色は、道路を少し西方向に進んでみてから、小橋から道路に出たあたりを撮ったものです。この築地塀の門が庭園入口になっています。ここがこれからご紹介する 「奈良公園 瑜伽山園地(ゆうがやまえんち)」です。今年(2020年)一般公開が始まったろころです。この新観光スポットを偶然に知る機会をえました。上掲の門には鹿が入り込まないように枝折り戸が設けてあり、庭園内は無料で自由に散策できると案内説明が掲示され、設置された透明のプラスチックケースにこのリーフレットが入れてありました。 リーフレットに掲載の庭園案内図をまずご紹介しておきましょう。上記の通り、小橋から道路に上ると、反対側に門があります。破線で囲まれた区域が無料で一般公開されている庭園エリアです。ここは、「旧山口氏南部別邸庭園」だったそうです。高畑町には志賀直哉が一時期住んだ居宅があることでよく知られています。明治期から昭和期にかけては、日本を代表する文人や画家がこのあたりに住居やアトリエを構え、文化人が集うエリアになっていたそうです。山口氏とは、明治期から大正期にかけて大坂財界で活躍した山口吉郎兵衛氏で、ここに別荘を構え、文人・画家たちと文化的な交流の場としていたと言います。この場所が、昭和2年に国指定文化財「名勝奈良公園」に追加指定を受けたそうです。広さは約1.3haの園地だとか。六甲山麓の芦屋にある「滴翠美術館」は山口吉郎兵衛氏の古美術品コレクションを収蔵・公開するゆかりの地です。(資料1) 入口を入ると、この駒札が立っています。奈良県は、「山口家が作庭した庭園遺構」に対し、「当時の作庭思想や護岸石の組み方などを踏襲して平成31年より文化的価値の高い庭園の復元整備に着手し、令和2年から、一般公開を始めました。」(駒札より)それでは、庭園の拝見、回遊をいたしましょう。入口を入ると、南東方向に広々とした空間が広がっています。 庭園の西端よりに門がありますので、南方向を眺めると井戸が見え、瑜伽山の斜面に添って境界の塀が延び上がっています。芝生の庭を囲むように鍵形に折れ曲がる砂利道が設けてあります。 砂利道の途中に立ち止まり、東を眺めた景色。南側(右)の建物は復元された茶室です。「たく庵」と称する茶室です。「たく」は「くさかんむり」に「澤」と書く文字ですが、漢字変換できません。見えている建物は広間(六畳、八畳)で、その背後、南東側に独立した建物で小間(四畳半)があり、二棟で構成されています。 井戸の近くから東方向の眺め。庭園入口を入ると、すぐ左手に築地塀沿いの通路があります。その道を東に歩むと、 平石橋が架かりその先に石敷道と北面する茶室(広間)の正面が木々越しに見えます。 平石敷道の東側には斜めに飛石の道が延びています。この景色の右上隅が庭園入口の門辺りです。 さらに東方向に歩み、築地塀側を眺めた景色です。矩形の砂利道と平石敷道で囲まれた芝生地がぽっかりと広がった庭の東に石組みの庭が連接し、この庭を一部囲む形で小川風の池が作られています。 築地塀沿いに東に通路を歩めば、池の東側沿いに道が続いています。庭園との間に境界が設けてありますが、この建物から庭園が遠望できるようになっています。上掲の案内図に記載の「交流・飲食施設」です。この建物への入口は道路側にあります。庭園とマッチするように落ち着いた色合いと形の外観になっています。 茶室(広間)側の庭から北方向の景色 広間の棟の南側に設けられた茶室(小間)です。 茶室(小間)を回り込んで、西側から眺めた景色です。傾斜地に十三重石塔が置かれていて、その向こうに建物がもう一つ見えます。 茶室に近い山側の斜面地に石組の「大滝」が見えます。 茶室からこの大滝を眺めることができるように作庭されているそうです。 茶室への露地に設けられた蹲と井戸 十三重石塔 井桁 軸部には四方仏が厚彫りされています。 露地に見える井戸の傍から高低差のある山側の庭を眺めた景色。この景色の先に見えるのは、 「腰掛待合」です。その背後に茶会用の雪隠が設けてあります。井戸の傍の石灯籠に着目してみましょう。石灯籠の笠がかなり特異です。手許の本では、朝鮮形と名づけられているものに近いように思います。(資料2)火袋は各面の中央に円窓が穿たれています。 一般的な石灯籠の中台に相当する部分が長方体形になっていて、格狭間の中に草花文様がレリーフされています。竿に相当する部分はごく短かい作りです。 反花の下の基礎部分が、宝篋印塔の基壇ほどの高さ・大きさに作られています。あまりみかけない石灯籠です。 茶室の東には、東西方向に長細くのびた池が設けられていて、木橋が架かっています。これは、築地塀沿いの通路から右折する形で回り込んできて、上掲の茶室(広間)に近い池の端から北東方向を眺めた景色です。池の南側の斜面には竹林が見えます。 木橋の近くから眺めた北側の景色。左の生垣が庭園と上掲施設との境界になっています。 木橋を渡ると、瑜伽山との高低差を利用し、石段を設けて回遊できる庭が広がっています。石段の上り口に宝篋印塔が置かれています。 かなりの歳月を経た石塔です。塔身は石龕風で四仏が厚肉で掘り込まれています。 石段を上った先で西方向に向かう竹林の間の小径この小径の南側が宿泊施設との境界になっています。この景色の手前から左に進むと、施設の入口に繋がっています。そこが境界となっている表示がありました。 宝篋印塔の東方向は竹垣で仕切った竹林が広がっています。この竹垣沿いに、長細い池端に沿った小径を巡ることができます。 池の東端を回り込んで北辺沿いに木橋の近くまで戻って来ると、この石灯籠があります。 創作型の石灯籠です。六角形の中台各面の格狭間には躍動する動物たちが肉厚の盛り上がった形で彫り出されています。六角火袋の各面にも動物や人物が厚彫りにされています。 これらの浮彫をお楽しみください。 反花の下の基礎部分、格狭間には同様に動物が浮彫りにされています。これで、大凡この瑜伽山園地を回遊してきました。再訪すれば、まだまだ見過ごした発見があることと思います。まずはこの辺りで園地探訪を切り上げました。 浮見堂を遠望しつつ、鹿を眺め、鷺池の南辺沿いの道路を戻ります。 道路脇で「荒池園地」の案内掲示板が目にとまりました。ちょっと、立ち寄ってみることに。 緩やかな坂道を南方向に少し下ります。道沿いに残るのは築地塀の遺構でしょうか。その先には広々とした芝生地が広がっています。 東に位置する鷺池から西方向に小川が流れていて、 荒池に流れ込みます。 ここから見える荒池の対岸は国道で、左側に遠望するのは奈良ホテルです。荒池は国道で南北に分断され、こちらは荒池の東半分です。国道の反対側に荒池の西半分があり、南端部で繋がっています。冒頭の案内図でおわかりいただけるでしょう。調べてみますと、この荒池は「水に乏しい奈良公園に築造されました」とのことです。知らなかった。(資料3)これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*庭園入口で入手した上掲のリーフレット1) 滴翠美術館 ホームページ2) 『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社3) 荒池園地 :「奈良公園」補遺滴翠美術館 Twitter 山口 吉郎兵衛 :ウィキペディア志賀直哉旧居について :「志賀直哉旧居」志賀直哉旧居 :「奈良観光.jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良 奈良公園散策 -1 鷺池と浮見堂 へ
2020.08.16
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「よみがえる正倉院宝物」展を鑑賞したあと、観光客をちらほらみかける静かな雰囲気の奈良公園を駅方向に戻りながら、真っ直ぐに帰るのももったいないな・・・・と思い、まだ行ったことがなかったエリアを少し散策してみようと思いつきました。 奈良国立博物館から国道369号線に出るまでに、以前に高畑町にある天神大神社・瑜伽神社を探訪した折りに、浮見堂という名称を道路標識で見ていながらそのときの探訪方向とは違ったために先送りにしていたことを思い出したのです。そこで、浮見堂ならそれほど遠くもないし、未訪なので寄り道してみようと思った次第です。奈良公園と興福寺境内との間を南北に通る国道のところで左折し、南に歩みます。春日神社の一の鳥居を通り過ぎると少し先に四季亭があります。 その先に道路標識が設置されています。 標識の先で左折して東方向に緩やかな坂道を上っていきます。 道路の両側の建物や木々の傍で鹿をみかけます。 さらに進むと、左側に大きな「奈良公園案内図」が設置されています。 部分図を切り出してみました。こんな位置関係になります。 浮見堂は鷺池の中に建てられています。お堂は檜皮葺きで形は六角形です。 鷺池の北西隅から池の北辺沿いに浮見堂に向かいます。 浮見堂への橋の手前、池端で目に止まったもの。金網を張った蓋がこの石造物に取り付けてあります。 鷺池の東部域 池の北岸から浮見堂に向かう橋左柱には「鷺池」、右柱には「蓬莱橋」の浮彫銘板が取り付けてあります。 蓬莱橋の池辺にもう一つの石造物が上掲同様に蓋が取り付けられて置かれています。これって何なのでしょう? 説明板的なものはどこにもありません。私はこのとき、場違いな石造物を連想してしまいました。 それがこれ! 京都国立博物館西の庭の一隅に保存展示されている石造物です。京都市内の上京と下京のお寺の境内で見つかった「キリシタン墓碑」です。形状がよく似ているではありませんか。たまたま似た形状だけなのか・・・・・。 橋上で西方向に目を転じた景色です。西側には池がゆったりと広がっています。この景色でおわかりのように、橋は池の北辺と中島との間に架けられ、途中でT字形に浮見堂と結ぶ橋が分岐しています。 東西方向にのび浮見堂に繋がる橋 浮見堂の外廊から眺めた池、西方向の景色 堂内で見上げますと、中央部が六角形の網代天井に仕上げられています。滋賀県には、近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂があります。琵琶湖上にお堂が建てられ岸辺と橋で結ばれています。海門山満月寺というお寺にあります。「平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。現在の建物は昭和12年の再建による」。また、堂内には「阿弥陀仏一千体」が安置されています。(資料1,2)こちらの浮見堂は、「御」ではなく「見」が使われています。現在の建物は、平成3年から平成6年にかけて3年間の修復工事を行って、旧来の浮見堂をよみがえらせたものと言います。元々は大正5年(1916)に建造され、「浮見堂」と称されたそうですので、池中にて、池の水面・周囲の水辺の景色を見て楽しみ、憩うという目的で建造されたのでしょうね。「八角堂形式(六角形)のお堂」という説明も行われています。(資料3,4)池の北岸には桜の木が多く、春はお花見で賑わい、夏は燈花会の会場にもなるそうです。(資料4) 浮見堂から北岸側の橋景色 浮見堂から南岸側の橋景色橋を渡り、池の南寄りにある中島に向かいます。 中島に、一軒のお店があります。お店から道路を隔てて西側の池傍に竹垣で囲まれた覆屋があります。 そこに「洞水門」が作られています。別名「水琴窟」です。 覆屋の傍に、ボートが係留されています。鷺池でボート遊びを楽しみ、架橋の下をくぐり浮見堂の周囲を巡ることもできるようです。 鷺池の南辺から中島に渡る小橋。この橋も「逢来橋」の一部です。 この辺り、ちょっと見過ごしがちな隠れた観光スポットといえそうです。 池の南辺を西方向に進みます。 鷺池の南西側に、浮見堂の展望スペースがあります。 池の西辺からの景色です。秋は紅葉も楽しめる憩いの場と言えそうです。浮見堂を見つつ、ほぼ鷺池を一巡りしてきました。これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。次回は、今回偶然に知った鷺池の南隣りにある新しい観光スポットをご紹介します。参照資料1) 浮御堂(満月寺) :「滋賀・びわ胡 観光情報」2) 満月寺浮御堂 :ウィキペディア3) 浮見堂 :「NARA Travekers Guide」(奈良観光協会)4) 浮見堂-Ukimido-hall- :「奈良観光.jp」 こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館 特別展「よみがえる正倉院宝物」探訪 奈良 奈良公園散策 -2 瑜伽山園地(2020年一般公開開始)と荒池園地 へこの近くで以前に探訪しご紹介したところです。ご興味があればどうぞご覧ください。探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -3 瑜伽神社スポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -1 大仏殿交差点から境内へ(憶良の歌碑、石灯籠さまざま、萬葉植物園、壺神神社、車舎) 4回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 春日大社を巡る[再訪] -1 春日東西両塔跡・参道・春日若宮神社 2回のシリーズでご紹介しています。
2020.08.14
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部分地図を借用し位置関係が分かりやすいようにカラーの丸を追記しました。紫色と黄緑色の丸が宇治陵No.32とNo.33の所在地です。一旦坂道を下り、府道7号線に引き返して、次は木幡小学校(赤丸のところ)を目指します。木幡正中の交差点で府道242号線(二尾木幡線)に入ります。最初の信号機の所で、左折し北に向かえば宇治市立木幡小学校です。地図(Mapion)はこちらからアクセスしてご覧ください。 「木幡小学校」校門横に、「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」と記された標識が立っています。 校門前の道路を時計回りに回り込むと、もう一つ西向きの門があります。こちらの門傍にも、「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」の標識が立っています。案内板が設置されています。残念ながら読みづらい状態になっています。判読してみました。「木幡は、藤原師実の別荘である京極殿、藤原基房の別荘の松殿、あるいは藤原氏の陵墓である宇治陵など、藤原氏との関わりが深い土地で、浄妙寺もその一つである。 浄妙寺は、藤原道長が藤原氏一門の菩提をとむらうため、寛弘2年(1005)に建立した寺で、別に木幡寺とも呼ばれている。 伽藍は三昧堂・祠堂・鐘楼・客殿・僧坊・多宝塔などがあり、仏教道場としてのかたちを整えていたが、中世の戦乱期に兵火によって焼失したと考えられている。この浄妙寺跡は、木幡小学校付近と考えられていて、昭和42年小学校が建設される時、事前に発掘調査を行い、三個の縁束石をのこす、方形基壇と瓦片を多数発見、それぞれの特徴から、寺の三昧堂跡と推定されている。 昭和57年3月 財団法人 宇治市文化財愛護協会」(案内文 転記)脇道に逸れます。この昭和42年の浄妙寺跡の発掘調査は、宇治市で行われた最初の本格的な発掘だったと言います。この時、小川跡と三昧堂跡が発見されました。その結果、「校舎を寺跡の南端となる川跡よりさらに南に建設し、寺域は校庭とする。遺跡全体は校庭地下に保存する」(資料1)という決定がなされ、現在の校舎が建っているそうです。上掲の校舎の北側の校庭(運動場)の地下に遺跡が眠るということになります。その後1990年(平成2)の校庭の排水暗渠工事に伴う調査、2003年(平成15)からの夏休み期間中の計画的な発掘調査(史跡指定に向けた範囲確認調査)、2009年(平成21)12月からの木幡小学校増築に伴う事前調査が実施されています。(資料1,2)その結果から、以下の事項が明らかになっています。*三昧堂跡は、一辺15.7mの方形大型亀腹基壇で、三間四面の規模である。(資料1)*三昧堂亀腹基壇の上に礎石の遺存はなく、根石が残されていたにすぎない。 縁束礎石は北・東で比較的残存していた。 (資料1)*三昧堂跡の埋没土層には3層の火災層が検出されている。三昧堂の再建が繰り返された。 1期:道長による1005年の創建。檜皮葺と推定。 焼失。 2期:12世紀前半(平等院の改修、金色院建築の頃)に河内系瓦葺で再建。 焼失。 3期:13世紀後半期 中世瓦葺三昧堂を再建。 ⇒ 1462年の一揆で焼亡。(資料1)*三昧堂と多宝塔が、基壇面に段差をもって建立されていた。 (資料1) 多宝塔跡は三昧堂に東接していて、平坦面で約40cm高い。自然地形の削平による。*旧堂の川流路の約6m北側で、東西方向に伸びる築地跡が検出された。(資料2,3)*基底で幅1.5mの築地塀があり、幅1.2m~2mの2本の側溝に挟まれていたと推定。(資料2.3) 参照資料2からの引用ですが、「浄妙寺推定復元図」です。左が三昧堂、右が多宝塔。参照資料1にも掲載されていて早川和子画です。藤原道長は998年(長徳4)に源重信夫人から宇治院を買得し、宇治別業を整備します。後に平等院となるところです。そして、1005年に一門の菩提寺として浄妙寺を創建したのです。寺地の選定には陰陽師安倍清明などがあたり、造仏は康尚、扁額と鍾銘の書は当時の三筆の一人と言われた藤原行成が担ったという記録があるそうです。(資料2)元に戻ります。木幡小学校の校舎の周縁を南から西に回り込み、北に向かう道路に出ます。 北への道路から木幡小学校の西側の門を眺めた景色 お地蔵さまの小祠があります。道を北進します。 北側は「のぼり児童館」、南側は「茶園」がある東方向への道路に右折して、坂道を上って行きます。 途中で、「赤塚第一墓地」の表示とその手前のお地蔵さまの小祠が目に止まりました。 格子扉の左側に、真言が掲げてあります。「おがみかた」として、ひらがながふられています。格子扉のガラスが反射して、お地蔵さまが十分には拝見できませんでした。途中の住宅地を通過し、丘陵地の一番上まで上ります。 宇治陵No.34の石標が坂道の入口に立っています。 宇治陵No.34 陵墓域の奥への小径だけが見えます。 宇治陵前から西方向を眺めた景色です。江戸時代には、この辺りから眼下一帯に茶園と宇治街道を眺め、南西方向に宇治川、その先に巨椋池が広がり、太閤堤が遠望できたのでは・・・・・そんな風景を想像したくなります。坂道を下り、元の道路に右折して北を目指します。 御蔵山商店街の通りと交差します。この商店街の通りを西方向に下って行き、左折すればJR奈良線の「六地蔵」駅に到ります。六地蔵駅からこの商店街の通りを東に進んできたら、この十字路の北西角の建物の「HORI DENTAL CRINIC」が目印になります。道路を横断し北に進みます。 左側に東西方向の道路があり、それらしき生垣が見えましたので近づいて見るとこちらはどうも陵墓の境界側面だけのようです。 南西角と思える個所に、お地蔵さまの小祠が祀られています。漆喰壁面、瓦屋根の頑丈なお堂です。 ここのお地蔵さまは化粧をされてはいませんでした。元の道路に引き返し、さらに少し北に進むと、 左側、民家の間に通路が見え、道路傍に鉄扉が開いています。 参道に入り突き当たりまで行くと、探訪最後の目的地です。 右奥方向を眺めると樹間に大きな岩が見えます。何かは不詳。 宇治陵No.35この宇治陵は木幡(御園)に所在します。宇治陵分布図では北端に位置する陵墓です。 (資料1)さて、初回にに引用したこの宇治陵分布図に戻ります。北端の宇治陵No.35から宇治陵巡りをするなら、JR奈良線六地蔵駅(空色の丸)あるいは京阪電車宇治線六地蔵駅(紫色の丸)が最寄り駅になります。宇治陵分布の基点となる宇治陵No.1(赤丸)からスタートするなら、JR奈良線木幡駅(黄色の丸)もしくは京阪電車宇治線木幡駅(黄緑色の丸)が最寄り駅です。南西端の宇治陵No.14から始めて、宇治陵の集中する南部域をまず巡るなら、この地図の南辺より少し南に位置するJR奈良線黄檗駅、京阪電車宇治線黄檗駅で下車して、府道7号線を北上すると便利です。丹念に全てを巡るとしますと、結構程よいウォーキングの距離になると思います。丘陵地を上下して移動しますので、ハイキング気分も満喫できることでしょう。これで宇治陵巡りを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『日本の遺跡6 宇治遺跡群』 杉本宏著 同成社 p26, p31-392) 「浄妙寺跡発掘調査の概要」 宇治市3) 浄妙寺跡 :「京都平安文化財」補遺浄妙寺(宇治市) :ウィキペディア藤原道長 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -1 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -2 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -3 へ
2020.06.14
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頼政橋まで戻り、右折して道を下り府道7号(京都宇治線)に出ます。南東側が宇治病院です。交差点を横断して右折し、北に向かいます。府道と交差する道があります。その2つめの十字路で西に入ると、すぐに見えるのがこの円墳状の陵墓です。こちらが北側です。正面になる入口はどこか? この景色の左側に民家が1軒府道沿いにあります。 その民家の背後つまり南側に十数mの距離の狭い参道があります。 宇治陵No.14です。ここが宇治陵分布図では、アクセスできる位置としての南西端になります。府道を北進します。 府道の東側に「宇治市東消防署」とその北隣りに「松北園茶園」が見えます。この「松北園」の看板の見える南側面、白いフェンス沿いに階段があります。この階段がいくつかの宇治陵に到るわかりやすい目印になります。階段を上がると、幅の狭い坂道が東方向に延びています。 白いフェンスは消防署の敷地境界です。このフェンスに沿って右に回り込みます。消防署の背後になり、一見袋小路のように見えます。この通路を南進すると、 宇治陵No.6です。消防署の南側に位置します。府道側からはアクセスできません。元の坂道に戻り、東に歩みます。 松北園茶園の南東角あたりに、宇治陵No.5があります。坂道を少し上がると、 宇治陵No.8 坂道を挟んで南側に 宇治陵No.7 そして、No.8の少し東側には、 宇治陵No.9 宇治陵No.10 と、少し間隔をあけて宇治陵が連続しています。宇治陵No.10から南方向を眺めると、南方向への道があります。この少し下り気味の道を行けば、 宇治陵No.11です。 その近くに、宇治陵No.12、さらに 宇治陵No.13があります。これで宇治陵分布図の南部側は探訪終了です。宇治陵No.10の地点に戻ります。No.10から坂道をそのまま上って行きますと、南山団地内の幅の広い道路に出ます。そのまま東に進むと少し斜めの十字路になり、さらに坂道を上りますと、前回ご紹介した宇治陵No.16の前に到ります。つまり、宇治陵No.16の前から道を真っ直ぐに西へ下って行けば、道幅が変化し、突き当たる感じがして一見分かりづらいですが、宇治陵No.10の前まで通り抜けることができるのです。 (資料1)さて、この後は宇治陵分布図の基点となる宇治陵No.1(赤丸のところ)まで府道7号線沿いに北進します。宇治陵No.1から坂道を西に下り、JR奈良線の踏切を横断し、能化院の地蔵堂を右に見つつ通過し、旧宇治街道に入ります。旧街道を北に進むと、 木幡(大瀬戸)に、宇治陵No.37があります。ここは「旧宇治街道を歩く」のご紹介の折に、取り上げています。更に、北上しますと、木幡(東中)に所在する許波多神社境内に、 宇治陵No.36があります。こちらも「旧宇治街道を歩く」で既にご紹介しています。この宇治陵No.36は、藤原基経墓と伝えられています。(資料2)ここで、上掲宇治陵分布図の京阪電車宇治線の「木幡」駅(緑色の丸)とJR奈良線の「木幡」駅(黄色の丸)を結ぶ道路に戻り、東に向かいます。JR奈良線の踏切、府道7号線の交差点を横断し、目指すのは宇治陵分布図にあるNo.31、No.30です。 府道から東の道に入り、坂道を上って行き。分岐点で右(南)の道を更に上ります。途中で、宇治市立木幡幼稚園の傍を通過します。 丘陵地の上まで行くと、そこは「松殿山荘」の私有地になっています。No.30とNo.31の2つの宇治陵はこの私有地の中に位置するようです。方向としてはこの正面の樹林の奥のようです。この2個所の探訪は断念しました。坂道を下り分岐点まで引き返して、左(北)の坂道を上ります。 坂道の途中に「木幡区檜尾町内会案内図」が設置されています。そこに追記してみました。地図の下部、南北に府道7号線(京都宇治線)が通り、空色の丸の西方向にJR奈良線木幡駅があります。案内図が設置されているのは赤丸のところです。ここから坂道を上り詰めれば、紫色の丸を付けた宇治陵No.32に到り、その近くに黄緑色の丸を付けた宇治陵No.33があるようです。 案内図の傍に、お地蔵さまの小祠があります。 笑顔がすてきなお地蔵さまに化粧されています。 「木幡キリスト教福音教会」の傍を通過し、坂道を上りきり、突き当たりで左折します。 宇治陵No.32 No.32へ(紫色の丸)は北側に入口があり、緩やかなスロープの参道になっています。 宇治陵No.33(黄緑色の丸)はNo.32の西側にあります。ここから再び、府道まで坂道を下り、府道沿いに歩き、宇治市立木幡小学校の場所を目指します。この小学校の辺りに、かつては「浄妙寺」があったのです。つづく参照資料1) 『日本の遺跡6 宇治遺跡群』 杉本宏著 同成社 p262) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p54補遺藤原基経 :ウィキペディア公益財団法人 松殿山荘茶道会 ホームページ 山荘の紹介 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -1 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -2 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -4 へ
2020.06.13
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前回引用した宇治陵分布図(資料1)の部分図を利用してご紹介することから始めます。赤丸を加筆した場所が宇治陵No.1でした。前回の最後にお地蔵さまの小祠があった公園が、空色の丸を付けた辺りです。宇治陵No.23が大きな陵墓域ですので、公園の南側の道路を東方向に進み、このNo.23と住宅地との境界となる陵墓敷地の樹林と石垣壁面を家並みの間から垣間見ながら、この陵墓域の南東端あたりまでまず道路沿いに進むことにしました。この辺りは木幡(南山)です。 宇治陵No.23の南辺に沿う道路に到ります。 道路の南側に宇治陵No.21あります。陵墓を囲うフェンス沿いに東に進みます。 フェンスの先に見えたのが、二段の方形に並べられた石仏群です。 回り込みますと、南端のフェンス手前に「新四国八十八ヶ所霊場」の石標が立っています。 東面に石造香炉が置かれた台を挟み、左に石造不動明王立像、右に石造地蔵菩薩立像が安置されています。そして、東面する形で、四国八十八ヶ所霊場に相当する石造観音菩薩立像が祀られています。 霊場石仏群の少し先に、宇治陵No.22があります。ここが分布図の南東側の端に位置する陵墓です。この後は、道を戻り西方向に点在する陵墓探索になります。 道を戻る時、振り返って撮った景色 道沿いに進み、分布の南端に位置する宇治陵から押さえていくことにしました。 小高くなった丘陵上に陵墓があります。 宇治陵No.15です。 一旦、坂道沿いに下ってみました。 弥陀次郞川に架かる頼政橋に到りました。最後は宇治平等院の扇之芝で自刃した源頼政を意味します。「頼政道」と関係してきます。この頼政道は改めてウォーキングして探訪してみたい古道です。この橋がその古道のルートに関係していることになります。この弥陀次郞川沿いの道路を西に下れば、府道7号線に出ます。府道沿いの角地には宇治病院があります。南部に分布する宇治陵を探訪するには、この頼政道からアプローチするのも一つの方法です。その場合、JR奈良線「黄檗」駅もしくは京阪電車宇治線「黄檗」駅から、府道7号線沿いに北に歩むと凡そ500mほどで宇治病院が東側に見えます。では、頼政橋を引き返し、少し急な坂道を北に進みます。 「松陵自治会案内図」が設置されています。その略図の部分図でこのあたりの宇治陵の位置がわかりますので、赤字で宇治陵の番号を追記しました。枠のところに赤丸を付けたのが、頼政橋への方向です。赤丸の右斜め上の茶色が「南山児童遊園」です。道路を挟んで北側が上掲の宇治陵No.15になります。 道路沿いに小規模で横長の「松陵児童遊園」があり、その奥(西)に2つの宇治陵の入口が南北に向き合う形でフェンスに囲まれています。 宇治陵No.17 宇治陵No.18 道路を挟み、東側の角地に宇治陵No.19があります。 No.19の少し東に、宇治陵No.20への参道があります。 松陵児童遊園の北側の道路を回り込み、西方向に進みます。十字路の南西角地に宇治陵があります。 宇治陵No.16です。 正面の扉から左右を眺めた景色 ここから、頼政橋の方に下ります。 坂道を下る途中に、お地蔵さまの小祠があります。おもしろいことに、お地蔵さまに西日が当たらないようにという意味でしょう、扉の前に簾が吊されています。前回、宇治陵は木幡古墳群と木幡墳墓群の両方を含んでいるとご紹介しました。木幡古墳群は、宇治陵を中心に、現状では120基の円墳が確認されていて、京都南部最大の古墳群だそうです。また、「概して古墳は尾根の高い方に、墳墓は裾野に展開する傾向がある」とか。木幡が藤原氏の墓所となったのは、後でご紹介する「浄妙寺」が木幡に創建されたことを契機としていると考えられています。藤原基経がこの木幡の地を藤原一族の墓地と定めたことに始まると伝えられているそうです。記録からは、墓地の基本的な形は「蔵骨器を埋葬した上に石か木の塔婆を建て、周囲に簡単な柵をめぐらしたもの」で「特段の副葬品は読み取れない」と推測できるとのこと。「当時、貴族の墓自体は質素なもの」だったそうです。(資料1) (資料1)この後、府道7号線まで出て、そこから北に進みつつ、宇治陵探訪を進めます。つづく参照資料1) 『日本の遺跡6 宇治遺跡群』 杉本宏著 同成社 p26、p28-29探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -1 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -3 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -4 へ
2020.06.12
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5月に、「旧宇治街道(六地蔵~宇治)を歩く」というご紹介をしました。その時には、旧街道の「不焼地蔵尊能化院」のお堂をご紹介し、東西の坂道からお堂を撮ったという説明をしています。東側は木幡の丘陵地への上り坂になっていきます。そして、この丘陵地に宇治陵と総称される陵墓が点在しています。今回は、この宇治陵とその周辺を先日(7日)探訪しましたので、ご紹介します。冒頭の景色は、宇治陵全域の基点となる陵墓(No.1)です。 宇治陵の分布の全体図をまず『日本の遺跡6 宇治遺跡群』より引用します。(資料1)この地図で宇治陵の分布をイメージしていただきやすくなるでしょう。上掲の基点となる宇治陵は、この図の黒丸上に赤丸を加筆した地点(No.1)です。JR奈良線「木幡(こはた)」駅の位置を黄色の丸にしています。駅を出ますと線路沿いの道を南に進みます。すると東西の道路に出て、左側(東)は踏切です。この道路が坂道になっています。右折して道路を下ると、「不焼地蔵尊能化院」があります。左折して踏切を横断し、東に坂道を上れば、 道路の北側に、現在陵墓管理の基点となる宇治陵(赤丸、No.1)が見えます。ここには墓誌碑「藤原氏塋域」が設置されています。太政大臣・関白・摂政となった8人の藤原一族の名前が連ねてあります。 道路傍の参道入口に、木幡の丘陵地に点在する宇治陵に葬られている人々の名前を記した案内板が設置されています。 天皇の中宮・皇后となった藤原氏の娘たちの名前が列挙されています。贈皇大后という名称も見受けます。「皇室に嫁いだ藤原氏の娘たちが、亡くなった後は一門の墓所に葬られた歴史」(資料1)があるために、藤原氏木幡墓所に集中しているそうです。 参道の左側(北)には、宇治陵を管理する事務所があります。建物には「宮内庁書陵部桃山陵墓監区 宇治部事務所」の木札が掲げてあります。宇治陵全体は、埋蔵文化財の視点でみると、後期古墳時代の木幡古墳群と古代から中世にかけての墳墓、つまり木幡墳墓群が遺跡として混在しているそうです。(資料1) この宇治陵No.1は比較的小規模な陵墓です。現在は、この陵墓のすぐ背後(東)に民家がありその東側を府道7号線(府道京都宇治線)が南北方向に通っています。 府道を横断し、東側の道路を進むと、右側に宇治陵No.2があります。点在する宇治陵のそれぞれに「宇治陵 宮内庁」と刻された石標が立ち、その側面あるいは背面に、識別番号が刻まれています。どの番号が誰の陵墓(古墳/墳墓)なのかは分かりません。上掲の分布図から個別の宇治陵の分布状態と位置を確認できます。宇治陵No.1を基点にして南東方向に大部分が点在していることがわかります。 2軒並ぶ民家の先、南側に少し奥まって陵墓が見えます。宇治陵No.3です。 現存する個々の宇治陵は大小様々です。側面か背面に通し番号を刻した「宇治陵 宮内庁」の石標が立ち、陵墓域は正面に門扉があり石柵で囲まれています。多くはすぐ内側に生垣が墓域を遮蔽する形になっています。陵墓の中央部はほぼ見えません。現在は、陵墓のすぐ近くまで、民家が立ち並び住宅地域として周囲を囲む状況になっています。2つの陵墓の南方向にある一筋南の通りを回り込みますと、 両側に民家が立ち並ぶ間に、宇治陵No.4への幅の狭い参道があります。 その参道を進んで行くと、宇治陵No.4の門扉が見えます。さて、この後、一旦宇治陵No.3の位置に戻り、両側が住宅地として開けている坂道を東に上って行きます。 坂道は生垣に突き当たり、幅の狭い南北の通路とのT字路になっています。突き当たりの生垣のある一帯(東側)が宇治陵です。 南北の通路に立ち、南方向を眺めた景色。この景色の左側は宇治陵の生垣です。この宇治陵の生垣越しにさらに東側の一部には屋根が見え、民家が点在するのがわかります。宇治陵分布図をみますと、それらの民家の東側には南東方向にかなり大きな陵墓域が広がっています。そちらが宇治陵No.23の陵墓域で、これが一番大きいようです。南北方向の通路を生垣沿いに、まず北に歩いてみます。 東側の宇治陵域の北西隅に陵墓域への正面の門扉があります。ここが宇治陵No.23への入口です。 西方向に少し進んでから振り返えって眺めた宇治陵No.23の入口辺りの景色ここから陵墓域が南東方向に広がっていくことになります。 宇治陵No.23の西側に、宇治陵No.28があります。 宇治陵No.29この辺りが木幡(南山畑)の北端です。丘陵地は一旦谷間を形成していて、丘陵地がかなり急斜面となって落ち込み、北山畑の区域に連なります。その先は再び傾斜地の丘陵となり、西側は檜尾、東側は南山と称される区域になります。ここで、一旦南方向に引き返します。 引き返す途中に、民家の間に西方向へ両側が生垣の道があります。 生垣に沿って進むと宇治陵No.27の正面です。元の南北の通路に戻り、上掲T字路地点を通りすぎ南に歩めば、 南側から撮った景色東側に宇治陵No.26の入口正面が見えます。 宇治陵No.26辺りから北方向を眺めた景色。右側(東)が宇治陵です。少し南に進むと、南北の通路から西方向に分岐し、幅がさらに狭い通路があります。こちらの通路に入り少し進みます。 宇治陵No.24が南側に見えます。 この小さな陵墓域の西側に小祠があります。何が祀られているのか不詳です。元の通路に戻ると、この先は丘陵地が下りとなります。 石段を下りた東側の角に公園があります。その公園の北西隅にこのお地蔵さまの小祠が見えました。 ここのお地蔵さまも、格子扉越しに拝見すると、お顔に化粧が施されています。この公園から南側と東側は住宅地として開発された地域となっていて、いまでは、住宅地に囲まれる形です。公園の南西方向が南端、南東から東にかけての方向が南山と称される区域です。上掲分布図に見られるとおり、数多くの宇治陵が点在しています。江戸時代の風景を想像すると、かつては宇治街道沿いに六地蔵から宇治方向に歩きながら東の木幡の丘陵地帯を眺めると、古墳や墳墓群が樹木で覆われた森が点在して広がり、丘陵地の斜面には宇治茶を栽培する茶畑が広がっているというのどかな景色だったのではないか・・・・。昭和の高度経済成長時代に茶畑が住宅地開発で消滅し、さらに東側の樹林帯地域が宅地開発されていった・・・・。そんな想像をしています。確実な変遷史を調べたわけではありません。つづく参照資料1) 『日本の遺跡6 宇治遺跡群』 杉本宏著 同成社 p26補遺宇治陵 :「ウィキペディア」宇治陵って知ってますか? :「京都新聞販売連合会」藤原氏系図一覧 :「藤原氏と古代史推進委員会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -2 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -3 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -4 へ
2020.06.11
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左にカーブした先が京阪電車宇治線の踏切この旧街道探訪の一応の終着点まであと少しです。道路傍の「莵道稚郎子尊 宇治墓参道」の石標に戻ってきた地点から始めます。 旧街道の最後の行程に入る前に、電車が踏切を通過していきます。 左の景色は、踏切で三室戸駅方向を眺めた景色、右は宇治駅方向を眺めた景色です。 旧街道の左側(東側)にこれらの町家が並んでいます。 かつての街道沿いの風情が多少味わえる感じがします。 旧街道を高架になったJR奈良線の線路が横切っています。近くまで行くと、高架部分の側壁の外装が煉瓦積みです。煉瓦を使っているところに時代感が出ています。 高架の手前で、西方向を見ますと、京阪電車の「宇治」駅の側面が見えます。宇治駅を利用しても、私はこちら側から眺める機会は殆どないので、初めて見る駅の感じです。 JRの線路の下を通り抜けると旧街道は府道7号線に合流します。中央に緩衝地帯のように見える部分があり、道路は2方向に分岐しています。 右側に進むと、緩衝地帯に見える角に道標が立っています。「左 京大津ゑ」つまり今歩んできた旧宇治街道を示しています。「右 みむろみち」と読めそうです。三室戸寺の方向に行く道ということでしょう。 南に回り込んでみますと、背後からは緩衝地帯のように見えたところに大きな石仏像が安置されています。正面から眺めた左方向、府道に近いところに写真を撮り忘れましたが、「莵道稚郎子尊宇治墓」への道標が設置されています。 正面石段の右側にこの銘文碑「東屋観音移転之記」が嵌め込まれています。もとは現在地から南西20mのところにあったそうです。宇治橋の架け替え、道路拡幅のためにこちらに移し、現状の形に整備されたのです。(銘文より)「東屋観音」は通称、俗称です。江戸時代に出版された『都名所図会』には、「蜻蛉石」の項で、この石を説明した続きに、「椎が本の社は彼方(おちかた)の町に鎮座し、四阿屋(あづまや)の観音はこの左にあり」と説明しています。四阿屋の観音が東屋の観音に相当するのでしょう。(資料1)よく知られた観音像だったことがわかります。 「東屋観音」の両側を囲む石柵の柱がおもしろい。あまり見かけない形です。 観音像の形式としては、聖観音菩薩像です。 宇治市指定文化財に登録されていて、その案内板が設置されています。 この石造聖観音菩薩坐像は花崗岩製で厚肉彫りです。鎌倉時代後期の作で像高115cm。別石で作られた蓮華座に結跏趺坐されています。宝冠をつけ、右手は施無畏印の印相で、左手には蓮華を捧げています。光背は二重円光の形です。(案内板より)施無畏印は衆生の畏(おそ)れを去らせるという本誓を示しているそうです。(資料2) 東屋観音に向かって右側に宝篋印塔が置かれています。この宝篋印塔や石灯籠もまた東屋観音と一緒にこちらに移転したそうです。 東屋観音の左側にこの小祠があります。細かな格子扉は内側が板張りであり、内部が見えません。何が祀られているのかも不詳です。 この傍に、「源氏物語 宇治十帖(六)東屋」という題名の駒札が立っています。「東屋の古蹟」と見なされているのでしょう。 違う形の石灯籠が石段の左右、生垣の内側に1基ずつ置かれています。今回探訪の最終目的地はこの東屋観音のところです。旧街道から府道7号線に入り、右折しますと宇治橋東詰に到ります。上掲道標にあるとおり、昔もこのあたりで2つの道が合流して宇治橋東詰に到ったのでしょう。 (2015.6.18撮影)宇治橋東詰の南側の景色 景色を撮った地点から北方向を眺めると京阪電車の宇治駅です。 左の景色のすぐ川畔には「通圓茶屋」があります。景色に写る大きな道標の側面には、平等院・あがた神社・浮島十三塔の名称が刻まれ、「橋を渡り左へ」という説明と距離が明記されています。正面には「宇治川ライン」と刻され。下部に説明があります。調べてみますと「滋賀県大津市南部外畑から京都府宇治市の天ヶ瀬ダムまでの宇治川の峡谷部」を宇治川ラインと説明されています。宇治川の中流部です。(資料3)今では大津南郷宇治線を通称「宇治川ライン」ととらえる見方もあるようです。また、宇治川には、「宇治川ライン」と呼ばれる観光船が、宇治川汽船により1926年(大正15)に就航していたそうです。1975年(昭和50)に廃止となり、宇治川汽船は解散したと言います。(資料4)序でに、1964年に天ヶ瀬ダムが完成する以前の宇治川についてです。1950年から60年には、現在の天ヶ瀬ダム(宇治市)付近から上流の大峰堰堤までの約3.6kmを宇治川に沿って「おとぎ電車」が走り、宇治川遊園地があり、旧志津川発電所のところを発着点として上流にむけて遊覧船が運行されていたと言います。(資料5)つい、脇道に逸れてしまいました。元に戻ります。道標の西隣りに「宇治橋」の案内板が設置されています。 最後にこの説明文を掲げておきます。六地蔵から宇治橋まで、「宇治街道」として寄り道を繰り返しながら探訪記を綴ってきました。この名称は手許にある『京の古道を歩く』(増田潔著・光村推古書院)で使われている見出しを参考にしました。豊臣秀吉が宇治川を付け替えて、太閤堤を築造し、伏見の豊後橋から最短距離となる大和街道を設定するまでは、奈良への本道として奈良街道の一部となっていた街道です。大和街道ができた以降は、たぶん宇治に至る街道として利用されることに重点が移ったことでしょう。探訪としては、宇治橋を終着点とすると手頃な距離におさまりますので、宇治街道という名称を利用しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『都名所図会』 竹村俊則校注 角川文庫 p1162) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p3113) 宇治川ライン :「コトバンク」4) おとぎ電車 :ウィキペディア5) ダムに沈んだ「おとぎ電車」 遊園地跡地をたどる 2018.11.10 :「京都新聞」補遺夢幻コラムⅥ【おとぎ電車の走った頃・・・昭和の宇治川ライン】 :「洛雅記」大津南郷宇治線(通称:宇治川ライン) :「京都welcom」宇治川観光遊覧船 :「じゃらん」宇治川『鵜飼』(宇治川観光通船)|宇治市 :「ニッポン旅マガジン」宇治市観光協会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ
2020.06.01
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京阪電車宇治線の線路を左に見ながら進むと、「三室戸」駅が見えます。 ホームの先の踏切を左折してこの道を東に向かうと、府道7号線と交差し南東角には三室戸寺を示す大きな標識が立っています。道路の南側は川が道沿いに流れています。このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 旧街道を進みます。 道路の西側に小さな区画ですが生垣に囲まれ、鉄柵の門扉が見えます。これは南側から撮った景色です。 生垣の葉が繁茂しています。ここには「宇治墓倍塚塚」の駒札が立っています。宮内庁の管理地で陵墓の一環ということなのでしょう。この辺り、昔は大鳳寺村と呼ばれた地域です。この村域は中世の近衛家領羽戸院の一部にあたると言います。そして宇治街道(奈良街道)のこの辺りは羽戸畷(はどなわて)と別称したそうです。「羽戸という名は、波戸場すなはち港津を意味するといわれ、羽戸院は、13世紀の初め頃に存在が確認される宇治川右岸の港津の一つ、三室津と深いかかわりを有していたと思われる」(資料1)地域です。尚、近衛家羽戸院について十分なことはわからないようです。この倍塚にはもと羽戸浮舟(はどうきふね)社があり、『源氏物語』宇治十帖の「浮舟」ゆかりの地と伝えられています。(資料1)2014.1.9にこの倍塚を撮っています。塚の景色はこちらの方がイメージしやすいでしょう。 更に旧街道を先に進むと、路傍に「莵道稚郎子尊 宇治墓参道」と刻された石標が見えます。 参道を東に進みますと、御陵が見え始めます。 御陵正面右側の石柵前に「応神天皇皇子 莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)尊宇治墓」の石標が立っています。この墓は宇治川右岸に近接した位置にあります。現在の地図を見ますと、「丸山」という地名が確認できます。字丸山には小丘があり茶園として開かれていたところだそうで、この小丘が円墳とみなされていたようです。この地が、明治22年(1889)6月に『延喜式』(諸陵寮)に記述されている場所だと治定されて、「莵道稚郎子の墓」として現状のように前方後円状の樹林として造成されました。(資料1,2)ウヂノワキイラツコ(莵道稚郎子)と兄のオホサザキ(後の仁徳天皇)の関係については既に木幡のところで少しご紹介しています。『古事記』には、応神天皇の死後、ウヂノワキイラツコとオホサザキとの間での皇位の譲り合いの記述の後に、長兄・オホヤマモリとウヂノワキイラツコとの戦のことが詳しく語られます。そして、「しかしながら、譲り合うていた二人の御子のうち、ウヂノワキイラツコはその後じきに亡くなってしもうたのじゃ」と記すだけです。どこに葬ったのかということには触れていません。(資料2)一方、『日本書紀』巻十一「仁徳天皇 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)」の冒頭に「莵道稚郎子の謙譲とその死」に関連して全現代語訳では5ページにわたり記述があります。そこには、「太子がいわれるのに『自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない』といって、ついに自殺された。」(資料4)と記され、大鷦鷯尊がこれを聞き、難波宮から莵道宮に駆けつけたのが死後3日と記しています。不思議なことに、太子莵道稚郎子は一時的に蘇生して、大鷦鷯尊との問答の後に、ついに亡くなったと記述しているのです。この記録の最後に「骸を莵道の山の上に葬った」(資料4)と明記しています。この莵道の山とは、近世に朝日山の山頂がその所在地とされて、「五畿内志」を著した並河五一郎が1733(享保18)に山頂に墓碑を建立しています。(資料1)以前朝日山に登り探訪した折りに墓碑を見ています。明治維新後に陵墓の治定が行われていますが、その場所の特定に疑わしさの残るものが数多いようです。その一つがこの莵道稚郎子の墓です。それはさておき、史資料からみて宇治と莵道稚郎子との関わりが深いことは疑いのない事実でしょう。江戸時代に出版された『都名所図会』(1780年出版)には、「宇治里」という項で次の様に説明しています。原文を引用します。(資料5)「(あるひは莵道ともかけり)都より行程四里にして、宇治橋の東は宇治郡、西は久世郡なり。むかし応神天皇第五子の親王、莵道稚郎子に帝位をゆづり給ふをかたく辞してここに閑居し給ひ、宇治宮と号し、兄大鷦鷯皇子に譲り給ふ。これもまた父帝の勅なきを位に即くべきやうなしと互に辞し給ひ、天子なき事三とせが間なり。遂に宇治宮みづから薨じ給ふによって、兄の親王即位し給ふ。これを仁徳天皇と申すなり」と。また、「朝日山」の項には「離宮の後山をいふ。莵道尊陵、朝日観音。(この山腹にあり)」と説明があります。江戸時代には、当時の観光ガイドブックと言える本書を通じて、この程度の認識が形成されていたことになりますね。 陵墓域の外側になりますが、西側前方に石碑があります。 陵墓から外に出て、正面に回ります。「浮舟宮跡」と刻された碑です。雑草が生い茂り、基壇側面に嵌め込まれた銘板の説明文が読みづらくなっています。上掲の「陪塚」で触れていますが、かつて浮舟宮と呼ばれた社がこのあたり一帯にあったことを示すための碑です。「榎の大木が茂り、浮舟の森とも呼ばれた」とも記してあります。銘文の後半には、『源氏物語』宇治十帖の「浮舟」との関連として、「浮舟の古蹟」として知られていたことに触れています。(銘文より) この古蹟巡りは以前に探訪しています。 陵墓の南側道路を挟み、「浮舟宮跡」碑の南西側に立つ石標 この太閤堤跡についても、既にご紹介しています。この辺りの観光資源としての整備が今も続いています。宇治川右岸傍のこの莵道稚郎子尊宇治墓まで来ましたので、右岸の堤防上に北方向から回り込んで、堤防上に行ってみました。 右岸の堤防上に立ち、上流側を眺めた景色です。宇治の街が対岸に見えます。堤防上の歩道を下流側に散歩してみましょう。陵墓の位置から少し北方向に進みます。 宇治川の右岸堤防の東側にかなりの広さで奥まった入江状になった個所があります。地図をご覧戴くとこの場所の東方向に、京阪宇治線の三室戸駅があります。三室戸駅の踏切から東に向かう道路の南側を流れる川について上記しています。その川が宇治川に注ぐ手前がこの入江状の個所なのです。たぶん、三室津とかつて称された場所がこのあたりなのだろうと思います。 さらに、下流側に進むと、目の前に「アル・プラザ」が東北側に見え、その手前に宇治川に流れ込む川があります。これが戦川ともう一つの川が合流した後の川の下流です。ここに架けられた橋は「典藥田横道橋」と名づけられてます。古代に律令制下の官司には「典薬寮」というのがありました。「宮内省に属す。医薬をつかさどり、医師・医博士らを管轄した。くすりのつかさ」(『日本語大辞典』講談社)です。この典薬寮は明治維新までは組織として存続したようです。藥園の管理も管轄の内にあり、藥園師もいたとか。典藥田という名称は、たぶんその藥園を意味するのだと推測します。(資料6)『有職故実』によりますと、典薬寮に属する「藥園師は、二人。藥園の諸草を種採し、藥園生六人を教授するを掌る。相当、正八位上」だそうです。(資料7)この南には国道1号線の大きな橋が架かっています。 この先には、右岸沿いに宇治茶の茶畑が続いています。旧街道を歩いていて茶畑はわずか1ヵ所で見ただけでした。また街道沿いに民家が林立し、宇治川までの展望はできません。宇治川沿いに茶畑が営まれていたのです。それでは、再び旧街道に戻ります。つづく参照資料1) 『京都府の地名 日本歴史地名大系26』 平凡社 p233-2362) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p633) 『口語訳 古事記 [完全版]』 三浦佑之著 文藝春秋 p243-2484) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p225-2295) 『都名所図会』 竹村俊則校注 角川文庫 6) 典薬寮 :ウィキペディア7) 『有職故実 上』 石村貞吉著 嵐義人校訂 講談社学術文庫 p83補遺三室戸寺 ホームページ三室戸寺 :ウィキペディア宇治川太閤堤跡 :「文化遺産オンライン」太閤堤の恩恵 :「水土の礎」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-8 町家・東屋観音・東屋、そして宇治橋 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 源氏物語・宇治十帖ゆかりの地 -1 橋姫、椎本の古蹟 5回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都府宇治市 太閤堤跡発掘調査現地説明会と周辺散策 -1 2回のシリーズでご紹介しています。
2020.05.31
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十字路(広芝の辻)から南に進むと、京阪電車宇治線の踏切が見えます。電車接近の予報音がし、遮断機が閉まると電車が来ました。 踏切を横断した右手前方のコンクリート塀の上には塔が見えます。展望塔というか監視塔というか、そんな類いでしょう。 すぐに左(東)に向かう道路があり、京阪電車の黄檗駅が見えています。 旧街道の西側は、「陸上自衛隊宇治駐屯地」の正門です。上掲の塔はこの駐屯地の北東隅に位置します。 自衛隊の正門の南側は「東宇治幼稚園」の正門です。左の景色を見ていただくと、この辺りは旧街道から西方向はかなりの傾斜地になっていてぐっと下がって行きます。 南隣の東宇治中学の校舎も下方向に。少し、寄り道します。 東宇治中学のすぐ近く、旧街道から東に向かう道路があります。この道路を数十mほど入ると、右の景色が見えます。円柱に切り込みの入った奇妙な石柱が道路の両側に見えます。 南側の石柱にこの案内文が掲示されています。これ、実は前回ご紹介した五ヶ庄の許波多神社の一の鳥居が立っていた場所の遺構なのです。 この朱塗り鳥居を前回載せています。この鳥居の柱の下部をご覧ください。 鉄輪で締めてある個所です。この鳥居の遺構のある道が真っ直ぐ東に上っていく坂道の参道になっています。その先が五ヶ庄柳山と呼ばれ、許波多神社があった場所です。現在は「黄檗公園」になっています。元に戻ります。 東宇治中学の南隣は、かなり広いオープンキャンパスになっています。 「京都大学宇治キャンパス」です。右の景色に見える茶色の建物を眺めたときは、思わず「バベルの塔」を連想してしまいました。 京大宇治キャンパスの南側には京大職員宿舎棟が連なっています。旧街道を挟み、東側に墓地があります。その入口に「明暗寺開山 朗菴虚竹禅師之墓 在当所」と刻された石標が立っています。 北側の覆屋には石造六地蔵尊が建立されています。大きな墓所の入口によく見るパターンです。 ここにもきれいに化粧が施されたお地蔵さまが祀られています。観音菩薩立像も。 墓地に入るとすぐ、東に向かう通路傍に西面するこの小祠があります。 施無畏印・与願印の印相を示す石造阿弥陀如来立像が祀ってあります。 墓所の東端に築地塀で囲われた墓所があります。 入口から拝見すると、中央に石柵で囲われた塚があります。これが「普化(ふけ)塚」と呼ばれる「虚竹朗菴の墓」なのでしょう。虚竹朗菴は虚無僧の祖とされる普化宗の僧です。ここはかつての五ヶ庄岡本村南東にあたります。現在の地名は五ヶ庄折坂です。 墓所の左右には碑が幾つか建立されています。顕彰碑の類いでしょうか。不詳です。左の石柱には、「朗菴虚竹禅師苔徑標石」と刻されています。苔径というのはこけのむした小道という意味です。墓所への道を示すために立てられていたものが、今はここに移設されて残されているということなのでしょう。この「近傍に虚竹が止住したと伝える吸江庵があったが、近世初期の普化宗弾圧のために黄檗宗万福寺の塔頭に転じ、明治維新の頃に廃された」(資料1)と言います。普化宗は中国唐代の禅僧普化を開祖とする宗派で、東福寺の心地覚心により、日本に伝えられたそうです。永仁年間(1293-1298)に天外明普が虚無(こむ)宗を開き、京都の北白川で門弟を教導しました。尺八による虚無吹断を禅の境地としたのです。僧は尺八を吹奏し全国を行脚したので、虚無僧と呼ばれるようになったとか。ところが、江戸時代に、浪人が虚無僧の姿をとることで、弊害が続出した結果、天保の頃に特権を剥奪し、臨済宗の一派として取り扱うようになったと言います。明治4年廃止されます。その後、明暗・普化・法燈などの教会として再発足しているそうです。(資料2) この墓地から少し南に、東方向への道路があります。府道7号線との交差点が「五ヶ庄福住」です。 旧街道をさらに南へ 京滋バイパスの上を横切ります。南西方向に「平和堂」「アルプラザ」のロゴが見えます。この京滋バイパス付近を境にして、五ヶ庄地区から莵道地区に入ります。 この辺りに来ると、旧街道と京阪電車宇治線が並行します。道路の東側に石柵で囲われた一画が目にとまります。南面しています。 不動明王、楠玉龍王、地蔵菩薩立像を並べて祀ってあります。楠玉龍王は稲荷山にあるお塚の一種なのでしょうか。不詳です。地蔵尊の台座には、「光明地蔵尊」と刻されています。 その先、旧街道の西側で2つの川が合流します。 北側が「平町橋」、南側が「戦川橋」です。北側は地図を見ますといくつもの支流が順次合流してきています、一つは新田川と記されていて、他は不詳。南側は橋名になっている通り、戦川です。 戦川橋を越えた少し先、右側(西側)路傍に、小祠があります。 格子扉越しに拝見するとこの石仏像が祀ってあります。お地蔵さまと思うのですが、少し判断しかねています。煌びやかな衣を纏っておられるのがちょと異質な感じ・・・・。 その傍に、石造不動明王像が併せて祀ってあることも、判断しかねている一因です。今までにお地蔵さまと不動明王が並存する小祠を見た記憶がありません。大日如来と考えると、不動明王は大日如来の化身と考えられていますので、すんなりと理解できます。ところが大日如来だと髪を結い上げていて宝冠を頭部に戴く形が一般的・・・・。髪の有無を重視すると、この石仏像の頭部の判断がちょっと困難・・・・・・。一見、毛髪がなさそうに見えます。しかし、額の部分と耳の下部を見ると、毛髪を想定しているようにも見えます。というところで、課題が残りました。ご存知の方、ご教示ください。京阪電車の「三室戸」駅がすぐ近くになってきました。つづく参照資料1) 『京都府の地名 日本歴史地名大系26』 平凡社 p232 2) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房補遺バベルの塔 :ウィキペディア普化宗 :「コトバンク」虚霊山明暗寺 普化明暗尺八 ホームページ(明暗導主会)明暗寺 :ウィキペディア善慧院・明暗寺 [東福寺] (京都市東山区) :「京都風光」六地蔵尊 :「比叡山延暦寺大霊園」六地蔵尊 :「一願寺」大日如来 :ウィキペディア大日如来 :「仏像ワールド」不動明王 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-8 町家・東屋観音・東屋、そして宇治橋 へ
2020.05.30
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二子塚古墳から府道245号線、かつて「隠元の渡の舟場道」と言われた道に戻ります。道路の南側に五ヶ庄・野添団地があります。その団地の入口に「寺界道(てらかいどう)遺跡」の案内板が設置されています。このあたり一帯に広がる集落遺跡です。1985年(昭和60)に発掘調査が行われ、縄文時代晩期、古墳時代後期から平安時代まで重層的に発掘成果が見られるそうです。竪穴住居や掘立柱建物の住居跡、平安時代の住居跡などが発見されているとか。(案内板より)この寺界道遺跡は、五ヶ庄界道・古川・大林・野添・梅林の東西600m×南北480mの範囲に所在するそうです。(資料1)「現在のところ古墳時代中期以前の遺跡はほとんど五ヶ庄地域に集中している」(資料2)といいます。古墳時代には五ヶ庄は一つの地域として安定していたと推測できるそうです。道路沿いに西に進みます。 道路の北側に「許波多神社」の社号碑が立っています。 少し奥(北)に「許波多神社」と記された扁額を掲げた石鳥居が目にとまります。「許波多神社」という名の神社が木幡と五ヶ庄の二個所に存在するのです。北方向に向かう参道を歩み、こちらの許波多神社も探訪しました。 少しずつスタイルの異なる石灯籠が参道脇に 「宇治市名木百選 むくのき」と記された駒札が立つ大木の傍に、手水舎があります。高さ17m、幹周4.3m、推定樹齢500年と記されています。1981年(昭和56)3月1日指定。 手水舎の南側柱の前に駒札が立っています。手水舎の左右に横長の石があります。この石は「橋桁」を復元したものだという説明です。「左右の石は旧鎮座地(現・宇治市黄檗運動公園)の宮川に架かっていた橋桁です。株式会社庵石材店の奉仕で復元しました」(駒札転記) 元は現黄檗体育館のある五ヶ庄柳山付近にこの神社が所在していたのですが、1876年(明治9)に陸軍省が火薬庫用地として接収したことにより、神社が柳山からこの字古川に遷座したと言います。ここはもと御旅所だったところと言います。尚、『延喜式』神名帳には「許波多三座 並明神大月次新嘗」という記載があり、木幡東中と五ヶ庄古川の両社がともにこれに相当すると認定されているそうです。(資料3) 2つめの鳥居は朱塗りの明神鳥居です。 狛犬 朱塗りの鳥居を過ぎると、正面に割拝殿が見えます。 拝殿の手前に「神馬(しんめ)」が奉納されていて、駒札に神馬について説明されています。かつては神に祈願をする際に祈願成就のために馬を奉納したとい言います。これが絵馬の起源であるということは、他の神社での説明文で知りましたが、同種のことが記されています。元の鎮座地・柳山の社前から西の大池(巨椋池)に至る東西一直線の馬場道があったということは、この駒札を読み、初めて知りました。元の鎮座地である柳山は、旧五ヶ庄大和田村です。(境内に掲示の説明文より) 割拝殿の中央の土間を通り抜けると正面は朱色に塗られた拝所と左右に瑞垣が本殿を囲んでいます。 拝所から中を拝見すると幣殿があり、本殿は殆ど見えません。本殿も朱塗りの外観になっていることだけがわかります。本殿は柳山から移建されました。内陣厨子の銘によって、永禄5年(1562)の建造とわかっています。檜皮葺き・三間社流造です。この目で確認できなかったのですが、「正面蟇股には社名にちなんだ柳や馬の彫刻」(資料3)があるそうです。国重文です。(資料1,3)祭神は、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと 諡おくりな 神武天皇)です。木幡東中にある許波多神社と同様に、明治以前はこちらも柳大明神の名で呼ばれ、この地域一帯の産土神だったのでしょう。 瑞垣の上部から内側を拝見すると、東西の瑞垣傍に境内社が数多く祀られています。詳細不詳です。 瑞垣を左に回り込みますと、その外側に収蔵庫風の建物があります。この辺りが境内地の北西角のようです。本殿の檜皮葺きが少し見えます。 神社の杜という景色を眺めて、宇治川畔に向かいます。 道路の南側には茶畑があります。西側から撮影。 さらに進むと、道路の北側に大日如来の小祠が畑地の傍にあります。最初お地蔵さまと思ったのですが、手前の香炉の正面に「大日如来」と刻されています。 格子扉越しに内部を拝見すると、石仏が祀ってありますが像容は定かではありません。線刻像なのかも知れませんが不詳です。ふと、右下に目を転じると、少し不思議な石仏が安置されています。 道路の南側はかなり広い敷地が金網フェンスで囲われています。宇治川堤防に近いところに門があります。「陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処」の北西隅の門です。この一画はグラウンドになっています。 府道245号線と宇治川沿い道路の交差点を西側から撮った全景です。道路の右上側が、上掲の自衛隊敷地。右方向(南)の道路は宇治川堤防上の道路です。右下方向に、隠元橋が架かっています。 府道245号線の北側の景色です。 このあたりが「岡屋の津」です。 府道245号線側にこの石碑(亀趺きふ)が建立されています。 亀趺の正面に「黄檗開山隠元禅師登岸之地」と刻されています。 この碑の傍に、銘文碑が設置されています。主旨を箇条書きに要約しますと、*万治2年(1659)、徳川将軍家綱から隠元禅師は寺領を賜ることになった。*新寺の候補地探しのために、宇治川を溯り、この地で登岸された。*東方の山裾から二羽の鶴が舞い立つのを見て縁起良しとしてその地を寺地に定めた。*その風景が、渡日前に住持であった中国福建省の黄檗山とよく似ていた。*故郷を忘れぬように、新寺も同名の黄檗山萬福寺とされた。*隠元禅師の出身地から取り寄せた石材を使い、中国古来の伝統形式(亀趺)で製作した。 亀趺と称されるのは、碑の台石が亀の形をしていることによります。これが転じて、碑の形式の異称となっています。 そして、碑の頭部には竜が彫刻されています。一般的には2匹、つまり一対の向かい合う竜を彫刻する形式です。ここでは一匹の竜が彫刻されています。この竜は螭竜(ちりゅう)と称されるそうです。碑の頭部に彫刻されますので螭首(ちしゅ)とも言うそうです。(資料4) 「岡屋の津から隠元橋へ」という案内碑が設置されています。この地域が近衛家の所領となっていたことは既にご紹介しています。「御殿の浜」とも呼ばれたということが説明されています。「近代には蒸気船によって日常品など多くの物資がここに運ばれてきました」というのは、初めて知りました。もう一つ、「隠元の渡の舟場道」という言い方から、この辺りが渡し場になっていて、橋がなかったということはわかっていました。しかし、橋が架けられたのは最初が木造の橋で1949年(昭和24)4月だったというのも知らなかったことです。隠元禅師登岸の地という所から隠元橋と名づけられたのは知っていたのですが・・・。序でに、かつての岡屋津について、少しご紹介します。古代から中世にかけて、五ヶ庄西部に位置するこの河港は巨椋池の東端にあたり、西端が淀津(現京都市伏見区)と対向して栄えていたのです。宇治郡の大津として機能していたそうです。文書の記録によりますと、醍醐寺が1155年に前年設置の塩湯治の釜を使用するにあたり、岡屋津を経由して多量の潮(海水)を運び入れたそうです。また上醍醐山上の経蔵に宋版一切経を納入する際に、淀川-巨椋池を経由して運び、この岡屋津で陸揚したと言います。ところが、1594年、豊臣秀吉が宇治川の付け替え工事を行い、宇治川左岸の堤防を築きました。槇島堤です。これにより、岡屋津は巨椋池から切り離されてしまいます。河港としての機能は、伏見と六地蔵の両港に移ってしまいます。そして、岡屋津は急激に衰退していったと言います。地形も変容し、津の痕跡もとどめなくなったという次第です。(資料3) 隠元橋を東詰南側から眺めた景色です。上掲の案内文によれば、1956年に鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられたそうです。さて、再び旧街道に引き返し、十字路(広芝の辻)で右折して、旧街道を歩きましょう。つづく参照資料1) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p56-572) 『許波多 -歴史と文化-』 宇治市歴史資料館 p44-453) 『京都府の地名 日本歴史地名大系26』 平凡社 p2324) 亀趺 :「コトバンク」補遺寺界道遺跡 :「京都平安文化財」許波多神社 五ヶ庄 :「玄松子の記憶」割拝殿 :「藤森神社」桜井神社(堺市) :ウィキペディア神社の幣殿について :「終活ねっと」山城(宇治郡)の式内社/許波多神社 :「戸原のトップページ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-8 町家・東屋観音・東屋、そして宇治橋 へ
2020.05.29
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西方寺の参道を引き返し、旧街道を再び南に歩みます。お地蔵さまの小祠が目にとまりました。銅葺き屋根正面の鬼板に卍の文様が打ち出されています。 格子扉越に中を拝見すると、石仏ではなくて木造地蔵菩薩立像が祀られています。珍しいなと思いました。 その先は十字路になっています。南東角近くにもお地蔵さまの小祠が見えます。五ヶ庄は旧街道の東西に散在する8つの集落の総称だったと言います。それぞれの村は、広芝村・大和田村・岡屋村・谷村・新田村・畑寺村・岡本村・上村と呼ばれていて、近世ではそれぞれ領主が異なる地域だったそうです。この辺りは広芝村があったとことで、この十字路は「広芝の辻」と呼ばれる重要な分岐点だったとか。(資料1) 左が東方向へ、右が西方向です。東に進むと府道7号線と交叉します。そのまま道沿いに坂道を上っていけば、「黄檗山萬福寺」への道となります。逆に西に向かいますと、萬福寺を開創した隠元大師が宇治川を溯りこの地に上陸された地点です。この辺りは岡屋津と称された場所で、岡屋村だったところです。隠元の渡の舟場道は萬福寺への参道となります。(資料1)旧宇治街道歩きは真っ直ぐ道沿いに南に向かうわけですが、ここで右折して西方向を探訪します。まず第一に「二子塚古墳」を訪れるのが目的になります。序でに宇治川の畔まで足を延ばしてみます。 その前に、この南東角を確認しましょう。 手前に立つのは道標です。上部に、北・西という方位が大きく刻されています。その下の文字が判読できません。剥落がかなり進んでいますが、雰囲気的には尼僧像が彫り込まれている印象を受けます。 右側にあるのはかがみ込んで文字を読みますと、「宇治村道路元標」と刻されています。「標」の文字がアスファルトで隠される形になっています。「大正9(1920)年に施行された旧道路法と同法の施行令にもとづき,当時の市町村に道路元標が設置された」というもので、当時の宇治郡宇治村に設置された道路の起点を示すものです。「大正9年3月30日付京都府告示第150号によれば『大字五ヶ荘小字西浦五拾八番地ノ壱地先』に設置された」ものであるとのこと。(資料2) このお地蔵さまの小祠には、正面に「広徳地蔵尊」と記された扁額が掲げてあります。 格子扉越に拝見すると、少なくとも三体のお地蔵さまが祀られています。 お顔には丁寧に化粧が施されています。それでは、十字路を西方向へ進み、しばし寄り道します。 京阪電車宇治線の踏切を横断し、道なりに進むと、北方向に向かう道路があります。ここで右折し北に向かいます。宇治市立岡屋小学校の校門前を通り過ぎると、北西方向に少し入り込んだところに、「二子塚古墳公園」つまり「二子塚古墳」があります。 ここも、二子塚古墳の少し手前にお地蔵さまの小祠があります。 お地蔵さまが一体祀られています。大きく目を開き、左方向を眺めていらっしゃる。何をご覧なのでしょう? 小祠の右方向に、「二子塚古墳公園」の石碑が見えます。二子塚古墳の前方部周濠の一部が二子塚古墳公園として整備されていています。石段を上がりますと、一部分残る周濠の外堤が遊歩道として整備されています。 周濠の一部である池「濠(ダン)池」に面してテラスが設けてあり、古墳の現存する部分を眺めることができます。前方の竹薮が古墳で、古墳の西側・南側に濠と堤が残っているという状態です。 「五ヶ庄 二子塚古墳」の案内板が設置されています。この二子塚古墳は、全長約110mの前方後円墳で、宇治市内最大規模の古墳だと言います。かつては、立っている現在の堤の外側にもう一重の濠がめぐっていて、二重の濠を持つ古墳として全国的にもめずらしいものだとか。この古墳は6世紀前半のものと推定され、南山城一帯を支配した大豪族の墓と考えられているそうです。(案内板より) 案内板の左上にこの測量図が載っています。古墳の墳丘がダンノヤマ、周濠部分がダンノイケと呼ばれていたことから、「濠(ダン)池」と記されているようです。(資料1)まずはテラスから濠池を左方向から巡る形で対岸に見える東屋らしき建物の方に進んで見ました。 東屋まで回り込むと、その先に道が続いています。この奥まで探訪を続けます。 柵のところが遊歩道の北東端です。ここにもう一つの案内板が設置されています。 柵の左側が平坦な土地になっていますが、このあたりに前方後円墳の後円部があり、横穴式石室が存在したと言います。上掲の通り、大正年間に墳丘部とともに石室もまた消滅してしまったのです。1987年(昭和62)の後円部の発掘調査で、石室基礎以降が確認されているそうです。(案内板より)前回ご紹介した景色でいえば、西方寺前の踏切で北方向の線路の景色を載せています。あのあたりは後円部墳丘の東側部分があったということでしょう。上掲測量図で工場敷地になっている一部は後円部の北側部分にあたるように思います。鎌倉初期の山科郷古図(彰考館旧蔵)に「二子塚」と記載されていると言います。前方部の中腹には、笠塔婆形石塔があり関白近衛兼経の墓と伝承されていて、その場所は西方寺の境内地だそうです。なお、石塔は後世の作と言います。(資料1,3)「岡屋村は古代以来摂関家・近衛家に伝領された岡屋庄の中枢地であり、13世紀中葉には関白近衛兼経が別業岡屋殿を営んでいる」というところであり、「西方寺は昭和中期まで近衛家とのかかわりが深い寺であった」(資料1)と言います。余談ですが、この岡屋殿の所在地の南で、五ヶ庄村村域の西部、宇治川河畔は藤原忠実が営んだ別業富家殿の所在地に比定されているそうです。この富家殿は近衛家に伝領されたと言います。(資料1)古代に溯ってふれておきます。6世紀前半の二子塚古墳の築造を契機として、それ以降に木幡の丘陵には木幡古墳群が形成されはじめ、最終的にはおそらく150基程度築かれていたと推定されているようです。また、この二子塚古墳の西には岡屋津という宇治川・淀川水運の重要な港津がありますので、7世紀以降の古墳時代から陸路と水路の重要な地点だったのです。五ヶ庄岡屋付近に宇治郡衛が営まれた可能性が高いという指摘が以前からあるそうです。そのような要衝の地にこの二子塚古墳が築かれていたと言えます。(資料4) テラスの所に戻り、東側へ遊歩道を歩いてみました。東側にもこの公園への入口がありました。さて、それでは引き返し、舟場道をさらに西に歩きましょう。つづく参照資料1) 『京都府の地名 日本歴史地名大系26』 平凡社 p228-2332) 宇治村道路元標 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p56-574) 『許波多 -歴史と文化-』 宇治市歴史資料館 p44-45補遺宇治市文化財奉告<第3冊> 五ケ庄二子塚古墳発掘調査報告 :「宇治市」五ケ庄二子塚古墳 :ウィキペディア遺跡編(66)史跡 宇治古墳群(宇治市) 文化財保存の現場から :「京都新聞」 盗掘免れた副葬品多数 2020.2.6 二子塚古墳航空写真が掲載されています。黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ藤原忠実 :「コトバンク」近衛兼経 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-8 町家・東屋観音・東屋、そして宇治橋 へ
2020.05.28
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十字路を横断し、南に歩むと東側に「宇治木幡郵便局」があります。 その先に、東に抜ける幅の狭い通路があり、旧街道際にお地蔵さまの小祠があります。 格子戸越しに拝見すると綺麗に化粧を施されたお地蔵さまが二体安置されています。 東への路地を数十m入ると、ごく小さな規模ですが、宇治陵の一つが民家の間にあります。 少し先西側には、焼板塀の続きに昔ながらの町家が目にとまりました。二階には虫籠窓が設けてあります。かつてはこういう町家が並んでいたのでしょう・・・・。 先に進むと、東側に「不焼地蔵尊 能化院」と刻された寺号碑と山門が見えます。 少し先がT字路になっていて、左の景色が東に向かう道路で緩やかな坂道を丘陵地に上る形になります。府道7号線に到ります。右の景色が旧街道です。 このT字路の南東角は茶畑です。かつてこの辺りは茶畑が広がっていたところだと推測しますが、今は民家とマンションが旧街道沿いに連立しています。 東への道路を数十m進むと、能化院のお堂が道路から見えます。 こちら側に案内板が設置されています。説明を時系列で箇条書きにしてみますと、 802年(延暦21) 多聞山観音院本願寺創建 延鎮法師の開基 998年(長徳4) 藤原道長の本願により中興 惠心僧都自作の地蔵菩薩坐像を安置 1159年 平治の乱の兵火で堂宇全焼 地蔵尊のみ兵火の難を免れた →二条天皇が「不焼山能化院地蔵尊」の号を下賜 1195年(建久6) 源頼朝が再興 1221年 承久の乱で再び堂宇を焼失 地蔵尊像は焼失を免れた不焼(やけず)地蔵の名で火災厄除地蔵として知られている地蔵尊です。「関白藤原頼通・基通の北の方にまつわる安産地蔵、子安地蔵として多くの信仰を集めている」とか。 「本尊の地蔵菩薩像は火の中をみずから飛び出して2度とも難を免れたという霊験譚」(資料1)として伝えられているそうです。平安時代後期の作で、寄木造半丈六の地蔵菩薩坐像(国重文)です。序でに、この能化院のお堂を見て、さらに東に坂道を上って行きますと、JR奈良線の踏切があり、それを渡ると北側(左)に宇治陵第1号が見えます。道路沿いに「藤原氏榮域」の石碑が建立されています。少し先、西側の民家の角にブロック塀できっちりと区画がされたお地蔵さまの小祠があります。一体のお地蔵さまが祀ってあります。お顔の部分を白化粧して微笑まれたお顔に描かれています。 旧街道の北方向の景色です。T字路を自動車が北に向かおうとしています。その手前が茶畑です。旧街道の先が障壁のように見えるのは、六地蔵に建ったマンションです。道路左の電柱の先にも、比較的階数の少ないマンションのフラットな屋根が見えています。 東から西に流れる人工水路(と思います)を横切り更に南進します。旧街道は緩やかな上りになっていきます。 古い民家が取り壊され、角にお地蔵さまの小祠を残して、駐車場になった区画が西側にあります。 ここにも二体のお地蔵さまが祀られています。ここのお地蔵さまに化粧はみられません。 その先に、旧街道を横切り南東から北西方向に「弥陀次郞川」が流れています。この川は木幡池南池の少し南側を西に流れて、宇治川に繋がっています。地図を確認すると、この川を境にして北は木幡地区、南は五ヶ庄地区です。 東側にお地蔵さまの小祠があります。 ここにはたくさんのお地蔵さまが集合されています。そのお顔の部分が化粧され目鼻がくっきりと描かれています。楽しそうな感じです。 弥陀次郞川の少し先、西側に「東岡屋集会所」があります。 集会所の南側は西方向に見えるお寺への参道です。旧街道傍に石標が3つ。一番南に「二子塚古墳」、高さの低い石標に「西方寺」、そして集会所傍に「弥陀次郞西方寺」と記されています。江戸時代の『都名所図会』には、「西方寺弥陀次郞の旧跡」という見出しで説明されています。これは弥陀次郞と称されるようになった漁師の伝承に関係しています。(資料1)大凡次のような伝承です。淀の東、一口(いもあらい)に悪次郎と呼ばれる漁師が居ました。彼は猟による殺生を生業にし、常に邪見放逸の者だったと言います。ある時乞食する一人の僧が門口に立ったのです。すると次郎はその僧の額に焼鉄(やきかね)を当て追い返す行動に出たのです。ところが、その僧は激怒することもなく立ち去りました。次郎はなぜ怒らないのかと怪しみ、僧の跡をつけました。すると、長岡・粟生の光明寺に入ると見えなくなったのです。次郎は探しまわり、ふと堂内の釈迦像を拝すると仏像の額に焼鉄の火印が付いていたのです。次郎はこれを見て忽ち懺悔の心を発して仏道に入ったと言います。ある夜、次郎は霊夢をみて、淀川に網を投じると紫色を帯びた精良な黄金製の仏像を引き上げたと言います。西方寺の本尊はこの次郎が引き上げた仏像だとか。次郎は西方寺の常照阿闍梨とともに仏像修行をしたそうです。そして遂に同日同刻に二人は往生したと言います。世の人は悪次郎を名づけて弥陀次郞と言うようになったとか。西方寺に近く北側を流れる川が、いつしか弥陀次郞川と呼ばれるようになったのでしょうか。少し調べてみましたが、この由来を論考した資料を見つけることはできませんでした。序でに、久御山町東一口にある浄土宗の安養寺の本尊十一面観世音菩薩は鎌倉時代初頭に弥陀次郎という人物が夢告により淀川から引きあげた仏像であるという伝承を持つているそうです。(資料2)「海や川の中から霊験あらたかな仏像を引きあげ本尊としたという伝承はひろく見られるが,弥陀次郎伝承はとくに宇治川・淀川・巨椋池を舞台としたその一バリエーションである。」(資料2) 山門までの参道を京阪電車宇治線の線路が横切っています。ちょうど電車が通過するところでした。 踏切で北方向(左)と南方向(右)を撮ってみました。この線路、実は古墳のあったところを通過しています。それが二子塚古墳なのです。前方後円墳の後円部が1913年(大正2)に開通した京阪宇治線敷設時の土取りで全壊する結果になったのです。(資料3) 西方寺の山門 山門を入ると、左側(南)に「南無阿弥陀仏」と刻された名号碑と十三重石塔があります。 右側にはお堂があります。傍まで行きますと、お堂の柱に「弘法大師」と記された札が掛けてあります。像は厨子に安置されているようです。拝見できないのが残念。 正面に本堂が見えます。山門傍から眺めただけです。「無量山」を山号とする浄土宗のお寺です。弘法大師像が安置されているということは、いずれかの時代に改宗されたお寺なのかもしれません。このお寺の本堂の背後が現存する二子塚古墳部分になります。現在は「二子塚古墳公園」として整備されていて、地図にはこの名称で記載されています。 右の門の画像を見ていて、頭貫の背後に見える部分から、この門がたぶん高麗門の形式であることに気づきました。境内から眺めた門の全景を撮らなかったことが残念です。高麗門とは「城郭門で、本柱の上に切妻屋根があり、それに直角に本柱と控柱間に切妻屋根がある」(資料4)という形式です。頭貫の下に背後の切妻屋根の一部が見えています。頑丈そうで質実な感じの山門です。 獅子形の飾り瓦 山門前から旧街道と参道の合流箇所を眺めた景色です。旧街道に戻り、迂回して西方寺の背後に向かうことになりますが、二子塚古墳公園に寄り道してみます。つづく参照資料1) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p103-1042) 安養寺 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p544) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p107補遺京都府道7号京都宇治線 :ウィキペディア宇治陵って知ってますか? :「京都新聞販売連合会」安養寺と弥陀次郞 :「久御山町の今昔」釈迦堂 :「光明寺」 「頬焼けのお釈迦様」と呼ばれる釈迦如来立像を安置 淀の水次郎が悪次郎と呼ばれていたという伝承弥陀次郎川 :「AGUA」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-8 町家・東屋観音・東屋、そして宇治橋 へ
2020.05.28
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堂ノ川から更に南に歩みます。東側にお地蔵さまの小祠があります。 格子扉の覆屋の中に、小祠が納まっています。小祠内のお地蔵さまが少し見えました。 その先に、木幡東中に位置する「許波多神社」の社号碑と石鳥居が見えます。 社号碑の後に、「由緒」案内が設置されています。まずは、境内を探訪しましょう。 石鳥居をくぐり、参道を東に歩みます。正面の参道の東端で右折しますと、 第二の石鳥居があり、境内地が一段高くなっています。石段を上がると、 左側(北)に手水舎があります。 拝殿の手前には、簡略な茅の輪が設けてあります。 拝殿の南西側には、四隅に細竹を立て、注連縄を渡した結界が見えます。 結界の東に見える小屋は「古神札納処」です。 本殿前の狛犬 正面の拝所。本殿は菱格子窓の瑞垣で囲われています。その外周は保安目的でしょうが、金網の柵が巡らされています。風情が減殺されますが、管理上で仕方がないことかもしれません。 拝所の蟇股にはその中央に菊紋がレリーフされています。 南側から本殿の屋根を眺めますと、中央部にくびれが見えます。瑞垣の中には2つの本殿があるのです。西面する建物に向かって右側が、許波多神社の本殿です。 右側斜め前にこの駒札が立っています。祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)です。(資料1,由緒)上掲の由緒には次のとおり記されています。「皇極天皇はお夢の中で『吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ』との大神の御告げに恐懼され、藤原鎌足公に詔して木幡荘に神殿を造営し、大化元年9月16日(西暦645年)奉遷し式内木幡(許波多神社と尊称さる。天智10年10月大海人王子(後に天武天皇)は天智天皇と意見の相違が生じて大津の宮より吉野へ向かわれる途中当神社前で龍馬が進まず□□に柳枝を奉りしに、親王は御自らその柳枝を瑞垣の側土中に挿しこみ神明の冥助を祈願し賜いし処、不思議や龍馬が急に進みて無事に吉野に到着。大海人王子は『壬申の乱』に御戦勝後、白鳳2年11月飛鳥浄御原宮で即位し給う。兵草の患いなく天下よく治まると共に、彼の柳枝も大きく繁茂、是偏(これひと)へに神明の御加護と叡感あり、神柳に正一位官幣を寄進さる。よって柳大明神と奉称する。以後代々の天皇より勅使の御奉幣官幣の寄進度々あり。その間社殿の造営、修理等数度に渡りなされている。追記 明治42年1月田中神社を合祀して今日に到る」(由緒を転記:2文字判読不可) 拝所に向かって左側(北側)には、石灯籠の竿の正面に「田中神社」と刻されています。その前に、「許波多神社田中神社本殿」と記された駒札が立っています。由緒の追記の通り、元は字正中にあった木幡北部の産土神として祀られていた田中神社を明治42年(1909)にここに遷されたそうです。(資料1,由緒) 北側から本殿の屋根を眺めると、本殿の棟が少しズレていること、それぞれに千木・鰹木があることがわかります。両本殿ともに一間社流造で銅板葺の屋根です。 田中神社本殿の鬼板。銅板製のようです。 妻飾を眺めますと、懸魚は蕪懸魚の形式です。蟇股・虹梁・笈形という木組になっています。定かではありませんが大瓶束には文様が彫り込まれているようです。虹梁の彫り文様と蟇股・笈形の側面が白く漆喰が塗られていますので、華やかな感じです。 許波多神社の本殿側に戻って眺めますと、妻飾が異なる形式になっています。 蟇股・虹梁までは同じ構造ですが、蟇股の内側は菊の花が彫られて彩色されているようです。虹梁の上部が豕叉首(いのこさす)の形式です。また、こちらの懸魚は、猪の目懸魚の形式が使われています。(資料2)それでは、境内を巡ってみましょう。この本殿の背後、東側には前回ご紹介した鉄道の引き込み線跡が緑道として散歩道になっていて、その東側はJR奈良線の線路が敷かれています。 本殿の北、境内の北東隅には、「宇治市名木百選」に選ばれている「くすのき」の巨木が繁っています。側に立つ駒札には、高さ22m、幹廻り3.3m、推定樹齢150年と記されています。 境内の北辺には境内社が4棟並んでいます。 東端の小祠は三神社が横並びに祀られています。東側から、市杵島神社・稲荷神社・愛宕神社です。 天照皇大神宮 八幡宮社 毘沙門天碑 春日神社 境内社の前には、それぞれ形態の異なる石灯籠が置かれています。 本殿の右角の方に行きますと、何の変哲もない大きな石があります。その傍に駒札が立っています。「勝運が授かるお休み石」とあります。「大海人王子(後の天武天皇)が当神社前をお通りになった時大きな石に腰掛けてお休みになりました。この石はその後本殿前に安置されました」(転記)と説明されています。 こちら側にも、宇治市名木百選という「やぶつばき」の巨木があります。高さ16.0m、幹周0.95m、推定樹齢150年だそうです。平成10年(1998)3月6日認定。 境内の南西側にある石灯籠 上掲石灯籠の南側に宮内庁管理の一画があります。「宇治陵 第36号」と称されています。木幡地域に点在する「宇治陵」と称される陵墓域の一つです。この第36号陵は藤原基経墓と伝えられているそうです。(資料1) 復路、参道傍にもう一つ大木の傍に駒札が見えました。これも同百選の「くすのき」です。 高さ20.0m、幹周2.5m、推定樹齢150年。同上認定。 許波多神社を出て、旧街道に戻り南へ。西側に白い築地塀が見えます。 願行寺です。浄土宗のお寺で、山門の右手前に立つ石標には「木幡派祖 慈心上人遺跡」と刻されています。 その石標の背後、築地塀の前にこの案内板が設置されています。「願行寺はもと慈心院尊勝寺と称し、木幡の関守清水勝宗が一門の菩提寺として、暦仁元年(1238)慈心上人を開基として建立した寺で、以後、木幡流専修念仏の拠点として重きをなした。その後、延慶2年(1309)の火災や応仁の乱などで焼亡し、荒廃したが、天正4年(1576)に寺名を願行寺と改めて再興され、現在に至る。」(転記)木造阿弥陀如来坐像(平安時代後期)と木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代)の二体の画像と説明が続きます。付近の廃寺の遺仏だそうです。宇治市指定文化財に登録されています。 山門屋根の鬼瓦。獅子の飾り瓦も見えます。顔行寺の少し先は十字路になっています。 旧街道に面する側 東西の道路に南面する側北東角には、「(株)松北園茶店」があります。製茶工場のようです。少し、宇治街道らしさが出てきました。 南西角にある民家の築地塀。この辺りで歴史のある旧家のような佇まいです。この十字路を東に緩やかな坂道を上がると、JR木幡駅の踏切を経て、府道7号線にリンクします。西に歩めば京阪電車木幡駅の踏切を経て、堂ノ川が流れ込む木幡池に到ります。十字路を横断し、南進します。地図を確認しますと、道路を境にして、東側が大瀬戸、西側が内畑です。その南に続くのは、道路の東側が中村、西側が西浦です。「木幡」という地名が『古事記』に登場していることを最後にご紹介しておきましょう。それは、ホムダワケの大君が近淡海の国(近江国=滋賀県)を越えて、宇遅野(うじの)に立ち眼前広がる葛野(かずの)を眺めて歌を詠んだという記述のつづきに出て来ます。次の場面です。引用します。”そして、そこから木幡の村に到りいました大君は、うるわしいおとめと別れ道で出逢うたのじゃった。そこで大君は、そのおとめに、「そなたは誰の娘ごであるか」と尋ねるとの、おとめは、「丸迩(わに)のヒフレノオホミの娘で、名はミヤヌシヤカハエヒメと申します」と答えたのじゃった。すると大君はすぐさま、そのおとめに、「われは、明日ここを通ってもどる時に、そなたの家に立ち寄ることにいたそう」と言うた。”(資料3)ヤカハエヒメはその事を父に告げます。それを聞いた父は翌日、大君が帰路に立ち寄られる準備を整え、娘に大君にお仕え申せと言うのです。立ち寄ったホムダワケにヤカハエヒメは酒杯を差し上げます。この時、大君が酒杯を受け取りながら歌った歌が出て来ます。 このかにや いずくのかに このカニは どこから来たカニ ももづたふ つぬがのかに ずっと向こうの 敦賀のカニじゃ 横さらふ いづくにいたる 横歩きしながら どこに行くのか ・・・・・・・ こはたのみちに あはししおとめ 木幡の道端 出逢うたおとめごと続いていく有名な歌です。この歌は婚(まぐわ)いを言祝(ことほ)ぐ歌でした。ホムダワケとは第15代応神天皇です。ホムダワケとヤカハエヒメが結ばれて生まれた御子がウヂノワキイラツコです。莵道稚郎子と表記されます。応神天皇が皇位を継がせたいと思った皇子。応神天皇の死後に、兄のオホザザキとの間で、皇位の譲り合いを行い、莵道稚郎子が自殺するという結果になります。オホサザキは後の仁徳天皇です。古代において、木幡の地域にワニ(丸迩、和爾)の一族が住んでいたということでしょう。そして、応神天皇がワニの一族と婚姻関係を結び、勢力の拡張維持を図ったということかもしれません。木幡を通る道が古くから開けていたということでもあります。さて、それでは再び南に歩み始めましょう。つづく参照資料1) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p542) 『図解古建築入門 日本建築はどう造られているか』 太田博太郎監修 西和夫著 彰国社 p1083) 『口語訳 古事記 [完全版]』 三浦佑之著 文藝春秋 p234-236補遺皇極天皇 :「ジャパンナレッジ」斎明天皇 :ウィキペディア 2010/03/01(月) 「宇治市名木百選」シリーズ 第1弾 :「KCN京都通信」宇治市名木百選 統合型地図情報システム[GIS] :「宇治市」木幡村に到りましし時 :「日本神話・神社まとめ」菟道稚郎子 :ウィキペディア八幡、宇治の古墳、石清水八幡宮、菟道稚郎子 :「Forum_tokyoblog」松北園 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-8 町家・東屋観音・東屋、そして宇治橋 へ
2020.05.27
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宇治市六地蔵札ノ辻町にある「永谷宗円茶店」の建物傍に立つ石標を起点にして旧宇治街道を歩いてみました。「六地蔵宿立場高札場跡」という石標です。ここは東西の道路と南北の道路の交点でT字路の突き辺りです。札ノ辻町が宇治市の北端になり、京都市伏見区との市域の境界になります。東西の道路を西に向かえば、旧奈良街道であり、山科を経て追分に至り、逢坂の関にリンクします。 西に向かうと、現在の道路は山科川に突き当たる手前で左折して六地蔵橋を渡り、伏見区に入っていきます。 道路は山科川に突き当たったところで、堤防に石段があり、山科川を渡ることができる歩道橋が架かっています。この橋を渡って左方向は京阪宇治線の六地蔵駅に向かいます。一方、右上方向の建物の背後、少し先が「京都アニメーション放火殺人事件」という悲惨な事態が引き起こされた場所です。嗚呼・・・・合掌。この橋を渡り、西方向の道をそのまま道沿いに進んで行けば、六地蔵にある「大善寺」の表門に到ります。京都六地蔵巡りの発祥寺院です。大善寺の山門前を通り過ぎ、道沿いに西へと進めば、かつての伏見の城下町の南辺を通過することになります。そして、現在の「観月橋」北詰に到着します。ここは、かつては豊後橋があったところです。豊臣秀吉は伏見城を築くために、宇治川の付け替えという大土木工事を実行して、豊後橋の南方向に巨椋池東部を分断して南に延びる太閤堤(巨椋堤)を築き、それを大和街道としました。京都・伏見・奈良を結ぶ最短ルートを作ったのです。かつて伏見の南には広大な巨椋池が広がっていました。そのため、奈良街道は六地蔵に到ると、巨椋池を大きく東に迂回して、木幡をまわり宇治を経由するというルートでした。それがこれからご紹介する旧宇治街道です。平安京遷都後は、京~宇治を結ぶ重要な道筋となりました。勿論、それ以前から大和と近江を繋ぐ道として開けてきた道筋です。太閤堤、新大和街道ができてからは、奈良への街道はそちらがメインになっていきます。江戸中期の『五畿内志』(日本與地通志)には、「六地蔵至宇治橋一里 歴木幡五個荘等」(六地蔵より宇治橋まで一里、木幡・五個荘等をへる)と記されているそうです。(資料1) その前に、上掲の橋を対岸に渡ってみましょう。対岸の石段を下ると、堤防の傍にこの道標が立っています。「左 おぐりす道 指さす浮彫 だいご一言寺是より十七丁」山科川沿いの道(北方向)が小栗栖街道につながり、川を渡って西方向に奈良街道を行けば、一言寺、善願寺、三宝院・醍醐寺、随心院、一里塚を経て、音羽を通り追分に到るのです。一言寺がまず目印になるということでしょう。 山科川右岸の堤防上から眺めた南北方向の景色左は山科川の北方向(上流側)。右は下流側で、六地蔵橋の向こうに、京阪電車宇治線の列車が渡橋するところが写っています。 それでは、橋を渡り起点に戻ります。 戻り道の右側(南)に道路に面してお地蔵さまの小祠が道路に面して祀られています。南に少し奥まって「極楽寺」(浄土宗)があります。 旧宇治街道の起点、右角に「長坂地蔵」の道標が立っています。 それでは、宇治街道を歩き、その周辺で寄り道をしながら、宇治橋手前まで南進します。おつきあいください。 まず西側で目にとまるのが、「正行寺」という小規模なお寺(浄土真宗本願寺派)です。 その少し先にお地蔵さまの小祠。 お地蔵さまが二体安置されています。 さらに先には、町内の集会所があり、その手前に東方向への道路がありますが、南東側に道標が立ち、左の道をとれば、「長坂地蔵」と表記されています。 道標の側面には、この道標に天保15年5月、伏見京橋濱という文字が刻されています。最下段に名前が列記されていますので、共同で寄進されたものでしょう。つまり、この東方向への道が長坂峠・長坂地蔵に至る道になっていたのだと思います。長坂峠は木幡から炭山に抜け、炭山女人堂、岩間寺へと通じる峠道だったそうです。その長坂峠に祀られていたのが長坂地蔵です。女人巡礼の道として賑わっていたようです。(資料1)長坂峠の位置を調べると、現在は京都府道7号京都宇治線から242号二尾木幡線を経由して、長坂峠の入口に至ります。(資料2)上掲の道標は、大凡この二尾木幡線に相当する道に至る分岐点を示すものだったのでしょう。 早速、寄り道してみました。北面する形で「正覚院」と称するお寺(浄土宗)があります。事前に調べていた情報では、もとは長坂峠にあったお地蔵さまを参拝者の便宜を図って、明治10年(1877)にこの寺に移されたと伝えられているそうです。(資料1,3) 表門の東側にお堂があり、ここに祀られているのかと思ったのですが、こちらは観音堂です。 格子戸越しに拝見すると、前に吊された提灯に、日乃出観音・初寅毘沙門天と墨書されています。 これらの仏像は宇治市指定文化財に登録されているそうです。木造聖観音菩薩立像は平安時代、木造毘沙門天立像は鎌倉時代に造立されたものだとか。境内に地蔵堂があるのでしょうか。門は開いていますが柵があったので観音堂の仏像を見仏するだけに止まり、長坂地蔵は拝見できませんでした。もとに戻ります。 檜皮葺き入母屋造の屋根の小祠です。 お地蔵さまのお堂で檜皮葺きは珍しいと思います。右上の柱に、「六地蔵紺屋町」の住所標が取り付けてあります。 道路を横切って高架になった巨大な築堤箇所があります。その手前、東側のフェンスの傍に小さな石標が残っています。そこに記されているのは、「陸軍用地」という文字。 通過して、少し先から振りかえって眺めた景色です。この高架は元は戦時中に築堤された鉄道貨車の引き込み線だったそうです。「明治39年に完成した宇治火薬製造所分工場への引込み線として、昭和15年に工事を開始し昭和16年に完成しました。当時の火薬需要増加による資材輸送に使用されていた」(資料4)といいます。 堂ノ川です。引き込み線跡の少し先に、東から西に流れる比較的幅の狭い川が道路を横切っています。地図を確認しますと、木幡平尾台の丘陵地を源として、京阪宇治線の西側に位置する木幡池の北辺側に流れ込み、その先は宇治川につながります。一級河川として位置づけられているようです。(資料5,6)地図によれば、この堂ノ川が境界となり、北側が正中、南側が東中で、さらに大瀬戸、中村という地区が街道沿いに南に連なっていきます。つづく参照資料1) 『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古書院 p102-110,p152-1602) 長坂峠 :「Road Quest」3)「15.御蔵山聖天・木幡コース」マップ4) 木幡駅から延びる巨大築堤:「引込み線」の遺構 :「京都高低差崖会」5) 堂ノ川 :「AGUA」6) 堂ノ川 :「川の名前を調べる地図」補遺日本煎茶元祖 永谷宗圓茶店 ホームページ京都アニメーション放火殺人事件 :ウィキペディア浄土宗太子山極楽寺 ホームページ旧長坂峠/京都府宇治市、旧道の200mで変わる風景 :「バイクと峠」陸軍宇治火薬製造所引込線? :「我が家の近所の鉄道廃線跡」東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 :「大日本者神國也」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-8 町家・東屋観音・東屋、そして宇治橋 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・伏見 大善寺-六地蔵めぐりの原点 -1 道標、本堂、六地蔵堂スポット探訪 京都・伏見 大善寺-六地蔵めぐりの原点 -2 観音堂・様々なお地蔵さま・鐘楼・正門スポット探訪 [再録] 京都・伏見 小来栖 明智藪と光秀供養塔ほか
2020.05.26
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これは阿字池の南辺から眺めた観音堂をズームアップで撮った景色です。寄棟造瓦葺きの屋根ということがまずわかります。 こちらは阿字池をぐるりと一周した後で、観音堂に向かい藤棚の近くから観音堂の南西側を眺めた景色です。竹垣で通路が設定されていて観音堂のすぐ傍までは行けません。通路沿いに右へ進みます。 観音堂の南側に通路を挟んで藤棚があります。 南東側から観音堂を眺めた景色です。このお堂の正面は宇治川に面しています。つまり東面しています。観音堂は重要文化財で非公開です。鎌倉時代前期に創建当時の本堂跡に再建された建造物とされているそうです。(資料1)観音堂という名の通り、このお堂には本尊として十一面観音立像が安置されていました。通常の十一面観音とは異なり、後頭部の大笑面がないという点が特徴と言われています。現在は鳳翔館に保管展示されているようです。(資料2) この境内案内図の右下よりをご覧いただくと、鳳凰堂・阿字池及び正門(表門)との位置関係がおわかりいただけると思います。 南東側に、手水鉢が設けてあります。 ほぼ同じ立ち位置から藤棚の方を撮ってみました。藤棚越に鳳凰堂中堂の屋根が見えます。 藤の花がほんの少し残されていました。名残の花という風情です。(拝観業務停止期間のためか藤の花が切り取られていることは事前に知っていました。) 通路を戻り、時計回りに観音堂の西面を見ながら、北側に向かいます。観音堂の正面が宇治川つまり東に面していて、桁行7間、梁行4間の建物であることがわかると思います。建物背面の中央部に扉があり、その左右3間が漆喰壁になっています。 北側面は南側面と同様に東端に扉があり、その背後3間が漆喰壁で連子窓が設けてあります。 降棟・稚児棟の鬼瓦 観音堂の北側、平等院境内の北東隅に源頼政ゆかりの「扇之芝」があります。ご覧のとおり、扇形になっていて、石柵で囲われています。 築地塀傍に駒札が立っています。ごく簡単な説明です。この扇之芝で3つの石碑が目にとまりました。 北東隅にある石碑には、「相伝 三位源公之・・・・・・」という書き出しで漢文が刻まれています。碑面はかなり判読がむずかしくなっています。 扇の要に近い位置にこの石碑があります。「扇之芝」と刻されているようです。 北西隅に位置するのがこの歌碑です。「扇芝」の詞書の後に和歌が刻まれています。 花さきてみとなるならば後の世に もののふの名もいかで残らむ天保年間(1830-1844)に源頼政の子孫が建てた歌碑と言われています。 「扇之芝」を扇の要側から眺めた景色です。現地で眺めていたときには気づかなかったのですが、木の傍に第4の石があります。このご紹介のまとめをしていて気づきました。石碑なのかどうか不詳です。『平家物語』の記述について前回少し触れています。駒札の説明する背景を『平家物語』から拾いだしてみましょう。(資料3)巻四の「橋合戦の事」の続きに「宮の御最後の事」が語られます。源三位入道(頼政)は76歳で以仁王の令旨を奉じて平家打倒の戦に加担しました。源三位入道は、「弓手の膝口を射させ。痛手なれば、心静に自害せんとて、平等院の門の内へ引き退く所に、敵襲ひかかれば」というシーンになります。次男源太夫判官兼綱が父を逃すのに防ぎに入りますが矢を射られ、さらに取っ組み合いとなり討たれます。伊豆守仲綱も痛手を負い、平等院の釣殿で自害。三位入道が不便と思い養子にした六条蔵人仲家とその子蔵人太郎仲光もまた討ち死にます。「三位の入道、渡辺長七唱(となみ)を召して、『我が首討て』と宣へば、主の生首(いけくび)討たんする事の悲しさに、『仕つとも存じ候はず。御自害候はば、その後こそ賜り候はめ』と申しければ、げにもとや思はれけん。西に向ひ手を合わせ、高声に十念唱へ給ひて、最後の詞ぞあはれなる、 うもれ木の花さく事もなかりしに身のなるはてぞ悲しかりける これを最後の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、俯しざまに貫かせてぞ失せられける。その時に歌詠むべうはなかりしかども、若うよりあながちに好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七唱が取って、石に括り合わせ、宇治川の深き所に沈めけり。」源頼政の最後の場面がこのように語られています。渡辺長七唱に頼政が己の首を切り落とせと命じたら、長七唱はまず自刃していただければ仰せの通りにと応えたのです。なるほどと、頼政は辞世の歌を詠んだあと、太刀を腹に突き刺し、うつ伏せになると、刃が体を突き受けた。それを見て、長七唱が介錯して斬首し、その首に石を重石としてくくりつけて、敵に首をとられぬように、宇治川の深い所に沈めたという次第です。頼政がこの場所で自刃して果てたということです。 浄土院をご紹介した時に、『都名所図会』に載るこの挿画をご紹介しました。(資料4) これを部分拡大したのがこちらです。右に大門つまり正門(表門)があり、その左に「扇芝」が描かれています。その左に「釣殿観音」と明示されています。本文には、「釣殿・観音堂は最勝院と号す。本尊十一面観音は立像にして春日の作なり。地蔵尊・不動明王を左右にして脇檀に安置す。(この所宇治院の釣台を建て給ひて、釣を垂れたのしみ給ふ所なり)扇芝は源三位頼政、治承4年5月26日このところに於て自殺す。」と説明されています。脚注には、釣殿は今は観音堂に合併されたこと、観音堂は鎌倉時代の建造・重文であると付記されています。(資料5)治承4年には、この辺りに釣殿があり、すぐ傍に宇治川が流れていたということになるようです。また、江戸時代には既に扇芝の周囲に柵が設けてあったことも、この挿画からわかります。さらに、この図が当時の様子を正確に描いているとするなら、現在の観音堂正面には向拝がありませんので、どこかの時点で改築がなされていると推測できます。対比的に眺めると興味深いところがあります。平等院が創建され、藤原一族により伽藍が整備された当初の伽藍配置の復元図はないのでしょうか。あれば一度眺めてみたいものです。創建当時の平等院と宇治川の位置関係にも興味があります。こんなところで、平等院境内の散策・探訪を終えました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 見どころマップ :「平等院」2) 彫刻・工芸 :「平等院」3) 『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p217,2184) 都名所図会 6巻[.5] :「国立国会図書館デジタルコレクション」 5) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p132補遺源頼政-歴史と伝説の交叉- :「平等院」源三位頼政像 :「MOA美術館」源頼政鵺退治の図 :「二本松市」曲目解説 頼政 :「銕仙会~能と狂言~」ようこそ能の世界へ 能 頼政 :「白翔會」曲目解説 頼政 :「大槻能楽堂」謡蹟めぐり 頼政1 よりまさ :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」「軍記物語講座」によせて(6) :「花鳥社」中村文「頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景 ―」源頼政ってどんな人?わかりやすく紹介!以仁王との関係や妖怪伝説など :「まなれきドットコム」頼政の子孫たち :「ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて」亀岡の頼政塚(源頼政の子孫) :「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」頼政塚 :「まるごとeちば」源頼政「源三位頼政和光尊儀」 :「日蓮宗法華道場 光胤山本光寺」頼政祭(4月) :「にしわき 西脇市」頼政神社 :「茨城県古河市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治・平等院 -1 道すがら、そして、鳳凰堂の正面・疫病退散の塔婆 へ探訪 宇治・平等院 -2 鳳凰堂外観細見(1)へ探訪 宇治・平等院 -3 鳳凰堂外観細見(2)へ探訪 宇治・平等院 -4 鳳凰堂外観細見(3)へ探訪 宇治・平等院 -5 浄土院・羅漢堂・石造層塔・竹庵の碑誌ほか へ探訪 宇治・平等院 -6 最勝院 : 不動堂・源頼政墓所・池殿地蔵尊・玄関 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。平等院の外周辺を探訪したご紹介です。スポット探訪 [再録] 宇治を歩く 蓮華周辺 -3 芳春園・浄土院の裏手・平等院ぐるりスポット探訪 [再録] 宇治を歩く 蓮華・東内周辺 -4 平等院ぐるり補足・源氏ミュージアム観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2020.05.19
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阿字池の対岸から撮った景色から進めます。浄土院を出て、白い築地塀沿いの坂道を下って行くと、山門が見えます。それがこの山門で、右の入母屋造りの屋根が不動堂、左に少し低く宝形造りの屋根の一部がみえていますが、ごれが地蔵堂(池殿地蔵尊)です。 山門を入ると右側にもう一つの白い築地塀が見え、通路の真ん中に「源三位頼政公墓所」の道標が立っています。境内案内図と合わせると左方向にありますという表示意図でしょう。 築地塀の傍に、手水鉢が見えます。 その先に「不動堂」があります。不動堂は最勝院の本堂です。(資料1) 降棟と隅棟・稚児棟の鬼瓦 不動堂の本尊は、「災難除け不動明王」です。 向拝の柱に木札が掛けられ、提灯が吊してあります。 正面の格子戸が一部開けてありますので、堂内を眺めつつ参拝することができます。 正面の内陣に不動明王像が安置されています。 向かって左の外陣には役行者像が安置されています。 右の外陣には厨子が複数安置され、不動明王像も安置されています。扉を開かれた厨子内の仏尊は説法印のようですので、阿弥陀仏立像ではないかと思います。 不動明王像を拝見して、左方向に進みます。 まず源頼政墓所の駒札が目に止まりました。 笠が苔蒸した石灯籠が立ち、墓所が竹垣で囲まれています。 その区画の奥に宝篋印塔が建立されています。入口には鎖で立入禁止の表示がされています。 駒札には、「源三位頼政公の墓 宝篋印塔」と記されています。以仁王の令旨を奉じて平家追討の兵を挙げた頼政が、治承4年(1180)5月26日に、この平等院境内にて自刃したと歴史は伝えています。後にここに墓が設けられたということでしょう。前回ご紹介していますが、江戸時代に出版された『都名所図会』の挿画、「平等院」図には、「頼政墓」と頼政がそこで自刃しとされる「扇芝」の場所が描き込まれ明記されています。江戸時代には明確に墓所として認識されていたのです。 この宝篋印塔の塔身には四方仏の一面の種字が見えるだけでそれ以外何も刻されていないように見受けました。隅飾突起が外側に少し開いていますので、仮に鎌倉時代でも時代が下がって造立された宝篋印塔のような気がします。後の時代に源頼政の墓域に供養として宝篋印塔を建立したのかあるいは移設したのか・・・・墓所としての整備がなされた。私はそんな想像をしたくなります。源頼政は辞世の和歌を残しています。この辞世の和歌は『平家物語』の巻四中、「橋合戦の事」の次に記される「宮の御最後の事」の文中に残されています。(資料2) 埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける毎年5月26日には「頼政忌」の法要が営まれているそうです。(資料1)源頼政は歌人としても名を残しています。勅撰集に59首が入集されている他、家集『源三位頼政集』を残しているそうです。(資料3) 頼政の詠んだ歌をいくつかご紹介します。 深山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり (詞花17) 近江路や真野の浜辺に駒とめて比良の高嶺の花を見るかな (新続古今130) めづらしき人にも逢ひぬ早蕨の折よく我と野辺に来にけり (頼政集) 一こゑはさやかに鳴きてほととぎす雲路はるかに遠ざかるなり (千載159) 今宵たれすずふく風を身にしめて吉野の嶽に月を見るらむ (新古387) 都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関 (千載365) 月清みしのぶる道ぞしのばれぬ世に隠れてとなに思ひけむ (頼政集) 不動堂の南で、頼政墓所の西側に宝形造りのお堂があります。 露盤宝珠 降棟・稚児棟の鬼瓦 正面の右側の柱に「池殿地蔵尊」と記された木札が掛けてあります。つまり地蔵堂です。正面に格子が嵌め込まれています。内側の障子戸の中央部が開けてありましたので、堂内を拝見できました。 格子越しに撮った堂内の景色です。 地蔵菩薩坐像は厨子の中に安置されています。脇侍として掌善童子・掌悪童子が蓮華座の前に控えています。厨子の手前の長押には、蓮華座の上に地蔵菩薩の種字が記された華鬘が掛けてあります。向かって右には僧像、左には如来立像が安置されていますが、不詳です。 坪庭様空間の美不動堂の南側は建物が張り出した形で拡張されているようです。そして、その拡張された建物が西側奧で地蔵堂の背面と繋がっています。その結果、二つの建物の間は長方形の坪庭のような空間ができいていて、不動堂側の側壁に設けられた丸窓と白壁とのバランスが美しいのです。 不動堂の前を戻り、 白い築地塀沿いに北方向に進みます。 境内外側の築地塀越しに北翼廊の楼閣が樹間に見えます。 築地塀に囲われた区画の北西角に、「最勝院開祖澄栄師之碑」と刻された碑が立っています。 北側に「最勝院」の玄関があります。「平等院塔頭2ヶ寺の1つで天台宗系の単立寺院」とのことです。「承応3年(1654)京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始まります。中世末以来、平等院と疎遠になっていた天台宗が復帰しました」(資料1)とのことです。右側、唐破風屋根のところが、公の玄関で、敷石伝いに斜め右に進んだ先が普段使う庫裡への入口のようです。 唐破風屋根の正面の兎毛通はごくシンプル。その背後の彫刻が簡素ですが素敵な透かし彫りです。 長押の上は全面唐破風の曲線に合わせて厚板が嵌め込まれ、一見蟇股の木組をしているかのように枠が彫刻されています。その内側を透かし彫りの質実な彫刻で2頭の獅子が戯れています。 その両側を藤の花が透かし彫りにされているのです。こちらも簡素な造形ですが、伸びやかに咲く花を十分に表出しています。 最勝院のこの切妻造屋根の妻の形式にご注目ください。前回、浄土院の隣の大書院の妻の形式と対比していただくと一目瞭然です。こちらは禅宗系寺院の庫裡に見られる形式と同様に虹梁大瓶束を使う方法で小屋組がされています。くにゃりと曲がった海老虹梁が使われています。建物の細部に目を向けますと、対照的でおもしろさを発見します。 最勝院の玄関口に近いところに駒札が立っていますが、剥落がひどくて判読できません。残念。この玄関に向かう本来の表門から阿字池の方に出ました。残るのは観音堂とその周辺です。余談です。ここまでのご紹介で出て来たことです。鳳凰堂は阿弥陀堂であり、阿弥陀如来坐像が安置されていて、その背後に浄土院(浄土宗系)と最勝院(天台宗系)の塔頭が並存しています。江戸時代に出版された『都名所図会』は「平等院」の項の末尾に次のように説明しています。「そもそも当院は天台・浄土の二流ありて台家は三井寺に属し、寺務は円満院門主なり。浄家は宇治関白の御菩提所にして、心誉上人より世々浄土宗を以て当院を守る」と。 (資料4)また、「平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものであった。」(資料5)と言います。現在はどうなのか。平等院は1953年(昭和28)以来特定の宗派に属さない単立寺院となっているそうです。宗派の系統としては、17世紀以来天台宗と浄土宗が兼ねられている形は変わらないのでしょう。両系統が並存しているわけですから。最勝院(本山修験宗聖護院系)と浄土院(浄土宗系)が年交代制で平等院を共同管理をしていると言います。(資料5)江戸時代以降にも平等院には運営管理面での変遷があるようですね。つづく参照資料1) 見どころマップ :「平等院」2) 『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p2183) 源頼政 :「千人万首」4)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1235) 平等院 :ウィキペディア補遺平等院 ホームページ 宝篋印塔 :ウィキペディア地蔵菩薩像のお話 :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治・平等院 -1 道すがら、そして、鳳凰堂の正面・疫病退散の塔婆 へ探訪 宇治・平等院 -2 鳳凰堂外観細見(1)へ探訪 宇治・平等院 -3 鳳凰堂外観細見(2)へ探訪 宇治・平等院 -4 鳳凰堂外観細見(3)へ探訪 宇治・平等院 -5 浄土院・羅漢堂・石造層塔・竹庵の碑誌ほか へ探訪 宇治・平等院 -7 観音堂・藤の花の名残(藤棚)・扇の芝 へ
2020.05.18
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阿字池の南辺を西側に回り込もうとしますと、前方に白い築地塀が見えます。 その入口のところにこの境内案内図が設置されています。現在地と白抜きの文字の記されたオレンジ色の丸が示す箇所に設置されています。 入口から真っ直ぐ西に向かう参道の正面に「浄土院」があります。 築地塀で区切られたこの境内地に入り、南方向を眺めるとこんな景色です。パノラマ合成をしましたので、少し歪んでいますが全景のご紹介には分かりやすいと思います。右側の浄土院の南隣から浄土院の背後に広がる建物が「大書院」です。その先は石段道になっていて、道なりに進むと「南門」に至ります。石段に沿った築地塀の途中に「香林庵書院」への入口があります。石段の東側一帯に平等院の宝物を展示する「ミュージアム鳳翔館」があります。拝観業務停止の期間中は、この石段道手前から先は通行禁止になっています。 逆に、振り返り北方向を眺めますと、北に分岐した参道の先に「羅漢堂」が見えます。 まずは、正面の浄土院を境内から拝見しました。 降棟の鬼瓦 参道の両側に一対の石灯籠が奉納されています。竿は中央に節のある円柱ですが、それ以外の各部は六角形の形式です。 特に関心を寄せたのは火袋の下の中台の格狭間です。一辺を二区画に分けた格狭間には様々な文様がレリーフされています。 北側の石灯籠も同様です。南側石灯籠の斜め左の先に、浄土院の案内板が設置されています。「浄土院は平等院の塔頭で、浄土宗の栄久上人が、明応年間(15世紀後半)に平等院修復の為に開創した寺と伝わり、『都名所図会』には『平等院奥院』『浄閣』などと示されている。江戸時代には養林庵や知学庵など浄土院の子院が鳳凰堂西南を中心に多数存した。」(案内文転記)とのこと。この後、浄土院に関連する文化財について、以下の説明が続きます。「浄土院には平等院に関する多くの文化財が残されている。そのうち、養林庵書院(重要文化財)は桃山城の遺構と伝えられ、障壁画は、床の間の図が雪景山水図、襖は籬に梅図、天袋は花卉図で構成され、作者は、その作風から狩野山雪と考えられ、京狩野の代表的作家の特色を著した作品として、その価値は極めて高い。 また京都府指定文化財として平等院修造勧進状一巻・平等院旧起二巻、細川三斎作庭と伝わる養林庵書院庭園があり、宇治市指定文化財として、木造帝釈天立像(平安時代後期)、木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期~南北朝時代)、和漢朗詠集巻下断簡[平等院切](平安時代末期)がある。 帝釈天立像は、やさしい着衣にやや重い感じを付加され、程よい量感のなかで、少年相の清純な感じの相貌や、浅く柔らかな衣紋表現に、10世紀末から11世紀前半にかけて活躍した、仏師康尚(定朝の師)の特色がはっきりと滲みでている。阿弥陀如来立像は、ヒノキ材を用いた寄木造りの堂々たる大作の像で、両手首先から台座を含めて当初のまま残っている。うつむきぎみの頭部、生々しい感触を持つ指先などに当代の特色がよく示されている。 和漢朗詠集巻下断簡は、巻下雑部のうち、禁中・古京の全文15行文である。古来筆者を源頼政(1105~1180)と伝え、平等院切という名称も頼政との関係で付されたと思われる。本稿は平等院切の中でも、全15行文の断簡として大きく、古書研究はもとより、国文研究などの資料としても貴重である。 また、古図によると平等院山内で最も古い書院として大書院(非公開)があり、蘭香斎玉寶の獅子図四面や後醍醐天皇が三種の神器を納め平等院に逗留したと伝えられる御座所などが残されている。」(案内文転記) 浄土院に近づくと、正面に「朝日山」と記された扁額が掲げてあります。障子を少し開けてあり、堂内を拝見、参拝できるように配慮されています。 手前に、厨子に納められた「救世船乗観音」が安置されています。かつては浄土院子院の観音堂の本尊だったそうですが、船に乗る観音像本体は戦後間もなく盗難に遭い厨子と波形の台座、守護札が残されていたとか。平等院開創950年記念事業の一環として、仏師村上清氏により復元され、開眼・安置されるに至ったそうです。旅の安全と無事を祈願する人々の篤い信仰を受けてきた観音像だと言います。 お堂の内陣に安置された本尊の阿弥陀如来坐像を遠望し拝することができました。 向拝の蟇股。優美な造形です。 頭貫には草花文様が彫刻されています。木鼻はごくシンプルな形状です。 南側の大書院の玄関前を拝見しました。 屋根の鬼瓦が鳳凰堂と同様にちょっとユニークです。妻飾(つまかざり)に猪目懸魚が使われています。 切妻の屋根の側面の三角形の壁面の妻飾は、上端で合わさる左右2本の斜めの材(叉首さす)と中央に立つ束で構成された「豕(いのこ)叉首」と称される小屋組の形式のようです。前回ご紹介した尾廊の妻は「二重虹梁蟇股」形式です。(資料1)また、下部の大瓶束やその上の装飾を兼ねた造形もおもしろいところです。一見騙し絵的-動物や人の顔のようーにも見える意匠です。 部分拡大してみるとわかります。 玄関の屋根の鬼板には植物文様がレリーフされています。蓮華文のようです。南方向は通行止めですので、境内の北方向に向かいます。 浄土院の外縁部分で目にした蟇股と木鼻。ごく質実な造形です。 まずは真っ直ぐ浄土院の前を北端に歩みます。正面に「羅漢堂」があります。 羅漢堂の左手前には、六字名号板碑(板石塔婆)が立っています。基盤の板碑には蓮華座が線刻され、その上に供養者名と紀年銘が刻まれ、その上に「南無阿弥陀佛」の名号が大きく刻まれています。頂部は山形です。 向かって右側には、石灯籠や水鉢、その背後に不詳の石碑が見えます。 羅漢堂は入母屋造瓦葺きの屋根、桁行三間、梁行二間で、桟唐戸と花頭窓、菱格子が設けられたお堂です。江戸時代、寛永17年(1640)に建立されています。(案内板より)上掲板碑の傍に、この「浄土院羅漢堂 一棟」の案内板が設置されています。写真を撮りましたが、こちらも読むづらい画像ですので、転記します。「棟札からは、この堂は寛永17年に建立され、大工は京の善衛門、仏師が京の伊兵衛、播主(施主)は星野浄安斎(宇治茶師)とその息子たちであり、肝煎は藤村昧斎・井上九左衛門であることがわかる。また、江戸時代の地誌「都名所図会」巻五などによると、堂全体の形式や、その位置が変化していないことが知られる。 主要部材は、建立当時そのままに保存され、内部の鏡天井に描かれた龍の彩色画の保存状況も良好で、なおかつ和様が主流の平等院内の建物群にあって禅宗様を主体とした特異な存在で、美術的・歴史的価値が極めて高く貴重である。 なお、寛永17年の記がある棟札と銘札1枚、羅漢堂の扁額1面、須弥壇1基、十六羅漢像一括も、羅漢堂の価値をさらに高めるものとして附指定になっている。 また建立時の勧進名簿や願文約千紙近くが長押上小壁に木箱にて残され、当時の風俗を知ることができる。」 羅漢堂の西側に、「宇治茶祖 竹庵の碑誌 元禄12年」が建立されています。碑誌の最初の行に「上林竹菴政重碑誌」と記されています。 その西側に、同じ形態の石碑があります。こちらが「上林竹菴碑」のようです。少し脇道に逸れます。この名前をキーワードに調べてわかったことの要点は、次のとおりです。京都綾部地域の豪族出身の上林加賀守久重を始祖として、その子4人がそれぞれ4家を興します。末弟政重が竹庵家(又兵衛家)で、この家系が久重の長男である久茂の峯順家(六郎家・門太郎家)とともに、お茶頭取として宇治郷の代官家になったそうです。かつて宇治茶の生産・管理・運営の総元締め的存在として徳川幕府への窓口にもなった一家の系譜の始まりが竹庵政重であるということになります。つまり、宇治茶祖ということなのでしょう。茶祖となった上林竹庵政重は、1600年(慶長5)8月1日の伏見城の戦いで討死したと言います。明治維新は宇治茶生産地にも影響し転廃業・途絶という変動をもたらしたのだとか。結果的に、久重の三男秀慶(春松)の春松家は徳川将軍家等への御用を担う「御物茶師」となり、現在上林春松家だけが茶業を営むに至っているそうです。(資料2,3) さらに西側には鎌倉時代(13世紀)に建立された「石造 層塔」一基が竹垣に囲まれています。総高378.5cm、基壇80.0cm、角厚22.2cmという大きさの層塔です。駒札が立っています。剥落もあり読みづらいので、判読した範囲で転記します。 (なお、□は判読不明文字。・・・・・も同様で文字数不明、を意味します。)「花崗岩の一柱に統一した精巧な均整美をほこり、民間伝来の石塔として随一の造形美を有す。かつて近代日本に「鉱山王」の異名を取り、政治家として活躍した久原房之助<1869~1965)が惜愛したもの。『・・・いわゆる都ぶり』を遺憾なく□□しながら層数の変化など、□□にして優美、純美可憐さをあわせもった絶妙な塔と評される。 平成22年8月25日 センチュリー文化財団□□ 」この種の石造層塔を見ますと、五重塔、九重塔、十三重塔をまず連想するのですが、これは数えてみると十一重塔です。層数の変化というのはこの点を意味するのでしょう。余談ですが、石造十三重塔は、すぐ近くの浮島に巨大な十三重塔があります。京都市上京区の閻魔堂と称される引接寺、東山の東福寺、木津川市の岩船寺、天神社、辻墓地、京田辺市の法泉寺、亀岡市の延福寺、精華町の神殿神社などが京都府の国指定石造文化財になっています。同じく左京区の来迎院には三重塔、亀岡市には金輪寺五重塔、宝林寺九重塔があるそうです。(資料4)このうちいくつかは現地探訪で拝見しています。 初層軸部の四面には四方仏の種字が刻されています。 層塔を囲む竹垣の西側にはその北奥に生垣で囲われた一画があり小祠が見えます。 近くまで歩みよりますと、小祠の蟇股から、お地蔵さまを祀る小祠だということが分かりました。格子扉の内部は石仏の輪郭だけで、よく見えませんでした。 向かって左側にも石仏が安置されています。舟型の墓塔でしょうか。白い涎掛けの上に見える頭部の形から、両端を錫杖の一部と想像すると三体のお地蔵さまが刻されているように見えます。再訪する機会があれば、改めて細部を見仏したいと思う石仏です。 羅漢堂の東側は築地塀で、鳳凰堂の背面に面しています。北寄りの塀際の景色です。 向かって左側には「太敬菴通圓之墓」とあり、右側には「南無阿弥陀佛」と名号を刻し、基壇に先祖代々・戒名・俗名などが列挙して記されています。こちらは一族の集合墓のようです。2つの墓石の間に駒札「通圓家初代太敬菴通圓の墓」が立っています。通圓家というのは、宇治橋を渡る人なら必ず目にしている名称です。江戸時代に出版された『都名所図会』の巻之五・前朱雀に載る「宇治橋」の項に、「通円が茶屋 橋の東詰にあり、いにしへよりゆききの人に茶を調(た)てて、茶茗(さめい)を商ふ。茶店に通円の像あり。(昔より宇治橋掛替のときは、この家も公務の沙汰として造りかへあるとなり)」と紹介されています。(資料5)この駒札も剥落があります。調べた情報を参照しつつ案内文の判読をして転記します。(資料6)「通圓家の初代は古川右内といい源頼政の家臣でした。頼政から『政』の字を賜って、太敬菴通圓政久と名乗り、平治の乱の直後宇治橋の東詰に庵を結びました。 治承4(1180)年頼政が以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げると、頼政のもとへ馳せ参じて宇治橋の合戦で平家の軍と戦い、討ち死にを遂げました。この主従関係を物語りにしたものとして『通圓』があり、たびたび公演されています。」 鳳凰堂の尾廊と中堂を背景にして、この宝篋印塔が建立されています。 浄土院境内地の入口に戻ってきました。入口の傍に、この石碑が立っています。石碑の上部を見ますと「源三位頼政卿禮讃之碑」と読めそうです。篆書体で刻されているように思います。(「禮讚(礼讃)」の二文字を「顕彰」と記す記事もありますので、私の誤読も考えられます。) これで、前回ご紹介した、鳳凰堂の背後を眺めながら坂道を下り、最勝院・不動堂の境内地に向かいます。 『都名所図絵』で、平等院がどのように描かれているかを引用してご紹介しておきましょう。(資料7) 本堂と表記してあるところが浄土院に該当するようです。つづく参照資料1) 『図解古建築入門』 太田博太郎監修 西和夫著 彰国社 p1082) 上林春松家の歴史 :「上林春松本店」3)歴史と伝統 :「お茶のかんばやし」4) 『新版 石仏 探訪必携ハンドブック』 日本石仏協会編 青娥書房 p94,955)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1236) 通圓とは :「通圓」7) 都名所図会 6巻[.5] :「国立国会図書館デジタルコレクション」 補遺上林、茶の天下をとる :「綾鷹物語」上林春松本店 ホームページ久原房之助 :ウィキペディアお茶の通圓 ホームページ源頼政 :「コトバンク」センチュリー文化財団 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治・平等院 -1 道すがら、そして、鳳凰堂の正面・疫病退散の塔婆 へ探訪 宇治・平等院 -2 鳳凰堂外観細見(1)へ探訪 宇治・平等院 -3 鳳凰堂外観細見(2)へ探訪 宇治・平等院 -4 鳳凰堂外観細見(3)へ探訪 宇治・平等院 -6 最勝院 : 不動堂・源頼政墓所・池殿地蔵尊・玄関 へ探訪 宇治・平等院 -7 観音堂・藤の花の名残(藤棚)・扇の芝 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2020.05.17
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今回はこの境内案内図から始めます。阿字池の南辺から鳳凰堂の背後に回り込んだ際、鳳凰堂の背後に位置する浄土院の境内地を先に訪れてから、鳳凰堂の背後を巡りました。ここでは一旦、鳳凰堂の外観細見を優先させてまとめておきたいと思います。 鳳凰堂の背後は少し小高くなっています。鳳凰堂自体は東に面した中堂の左右に翼廊が広がり、中堂の背後、西側に尾廊と称される西廊がついています。この景色はその尾廊の南西端側から中堂を撮ったものです。 尾廊は切妻造の屋根ですが、その降棟の鬼瓦と角の軒丸瓦の上に置かれた桃の飾り瓦を撮ってみました。 尾廊の西端部です。出入口の扉の上部分です。頭貫・大虹梁・虹梁と上部が組み上がって行きます。それを支えるのは大斗・肘木や蟇股・斗などです。壁の白さと紅殻の少しくすんだような色合いが落ち着いた感じのコントラストとなり美しい。 尾廊の北側面から北翼廊と中堂の屋根を眺めた景色です。州浜の形がよくわかります。 中堂の屋根は入母屋造瓦葺です。鳳凰堂が建立された当初の屋根は檜皮葺きだった可能性があるそうです。(資料1) 尾廊屋根の鬼瓦の向こうに、中堂の鬼瓦がチラリと見えています。 築地塀沿にこんな坂道を下っていくことになります。 この2枚は景色を撮ったアングルが少し違うため合成ができませんので、トリミングして並べてみました。阿字池の北西側、北翼廊と尾廊とでできるL字部分の池の形状などがイメージしていただけるでしょう。 尾廊の全景です。花頭窓と格子窓が組み合わされています。尾廊の一部は床下が池面になっています。尾廊の屋根の東端は中堂の側面に完全に接しています。両翼廊の屋根が中堂の下に重なるという形とは異なることに気づきました。 坂道を下り、尾廊を北から眺めた景色です。こちらから見ると、尾廊の床面はかなり池の水面から高いことがわかります。 阿字池の北西畔から北翼廊・中堂・尾廊を眺めた景色です。 北西側から眺めた反り橋の景色と阿字池北西側の池畔の景色 これでほぼ鳳凰堂の建つ阿字池を時計回りに一周してきたことになります。 一周して起点に戻ると一羽のアオサギ(と思います・・・)が平橋の傍で出迎えてくれました。ご覧いただいた通り、阿字池の中島に建つ鳳凰堂は、四囲を小石敷き(円礫)の州浜に縁取られています。これは発掘調査により確認された創建当時の遺構の姿が再現されているそうです。州浜は平安時代の寝殿造邸宅の池や浄土庭園に特に採用された意匠です。(資料2)浄土庭園とは、「極楽浄土をこの世に再現すべく、阿弥陀堂と園池とを一体的に築造した仏寺の庭園様式」(資料3)です。この平等院の庭園はまさにそのものズバリです。州浜で良く知られているのは、京都御所内の御学問所・小御所に面してそれらの東側にある御池庭です。この池の州浜はゆったりと広がっていて豪快さすら有する印象を受けます。京都御所を拝見した時の記録としてご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。(「探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭」:2016年)余談です。手許の一書では、州浜について次のとおり解説しています。(資料3)「本来は、土砂の堆積により出入りの多い海岸線を持つ浜辺を指すが、庭園では池の水辺にゆるい勾配をつけて小石を敷き詰めた護岸手法をいい、これは庭の景観の重要な構成要素ともなる。」奈良時代に既に州浜の手法が確立していたそうです。発掘調査により、平城宮佐紀池庭園遺構、平城宮東院庭園がその実例です。「平安・鎌倉時代には、園池護岸処理の中心的な手法となり、石組護岸が主流となる室町時代以降も、有力な手法であった」と説明されています。中国・唐代の上陽宮庭園遺構に卵石護岸と呼ぶ類似の手法がみられるそうですが、「州浜の定着・発展は日本独自のものとみなすことができる」とのこと。鳳凰堂外観細見はこれで終わります。次回から、平等院境内での庭園散策と併せて外観を拝観できた諸院諸堂等をご紹介します。つづく参照資料1) 『平等院創建と浄土思想 王朝貴族の夢』 村井靖彦著 宇治市民大学運営スタッフ会2) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p703) 『岩波 日本庭園辞典』 小野健吉著 岩波書店 補遺平等院 ホームページ 京都の庭園の歴史 菅沼 裕 氏 :「京都市文化観光資源保護財団」日本庭園の様式 :「別府梢風園」日本庭園の歴史・様式まとめ :「NAVERまとめ」京都の日本庭園 #1 -寝殿造り庭園、浄土式庭園- :「ぶらり散歩」小説・源氏物語の中で出てくる日本庭園:「寝殿造庭園」とは :「タウンライフ」浄土式庭園 :ウィキペディアアオサギ :「日本野鳥の会」アオサギ :「SUNTORY」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治・平等院 -1 道すがら、そして、鳳凰堂の正面・疫病退散の塔婆 へ探訪 宇治・平等院 -2 鳳凰堂外観細見(1)へ探訪 宇治・平等院 -3 鳳凰堂外観細見(2)へ探訪 宇治・平等院 -5 浄土院・羅漢堂・石造層塔・竹庵の碑誌ほか へ探訪 宇治・平等院 -6 最勝院 : 不動堂・源頼政墓所・池殿地蔵尊・玄関 へ探訪 宇治・平等院 -7 観音堂・藤の花の名残(藤棚)・扇の芝 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -3 御池庭・小御所・蹴鞠の庭・御学問所ほか (2018年)歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -5 浄瑠璃寺 浄土式庭園の事例として良く知られています。
2020.05.16
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阿字池の西辺の突き出た部分で池越しに西方向の南翼廊を眺め、目を南に転じます。 阿字池の水面には睡蓮でしょうか。咲き始めています。 池畔を時計方向に回り込みます。 樹間に中堂と南翼廊が見える形に。 少し南に回り込めば、 樹間に北翼廊も景色に入ってきます。 阿字池の東側の境内が視野に入ってくると、北端側に観音堂の甍が遠望できるように。 阿字池の南東辺から中堂と北翼廊をズームアップしてみました。 阿字池を回り込むと、池の北方に観音堂がはっきりと見えます。 咲き始めた睡蓮の池面を南側から眺めた景色 池の南辺に回り込みますと、左方向にこの建物が見えます。 回り込み、全景を眺めるとこんな建物。後で境内案内図を見ますと「六角堂」と記されています。柱を眺めると、以前の建物の廃材を利用して建てたように見えますが・・・・。ネット検索で調べてみますと、「1902年(明治35年)~1907年(明治40年)に行われた鳳凰堂の翼廊の解体・修理の際に出た廃材を利用し」て建てられたそうです。(資料1)六角堂の屋根は瓦葺、頂点に露台宝珠が置かれています。宝形造と同様です。 軒丸瓦には二種の文様が使われています。 六角堂の西側で目にとまりました。細竹が水の注ぎ口になっているようです。ならば、手水鉢でしょうね。 阿字池の南辺から北方向を眺めた景色。池の北辺の先に観音堂が見えます。 かつては、この池の東側に鳳凰堂を正面に拝する建物が建てられていたことでしょう。阿字池中に建つ阿弥陀堂の楼閣は極楽世界の造形化であり、西方浄土の阿弥陀仏を池越しに拝することで、この末法の世において、極楽浄土と一体化したいと願望したのでしょうから。かつては、現在の観音堂の付近に頼通は本堂を建立し、法華堂も建立したと言います。また子息女孫ら一門が、小御所・多宝塔・五大堂・護摩堂・経蔵などを建立したそうです。11世紀の平等院は宇治川に面して大規模で壮麗な伽藍だったようです。(資料2)『定家朝臣記』康平4年(1061)10月25日条に、平等院多宝塔供養の記事があり、「楽舟が阿弥陀堂北翼廊北辺から出る」との記述があるそうです。この池に舟を浮かべたということでしょう。多宝塔が建立されていたこともわかります。また、『中右記』元永元年(1118)閏9月22日条には、「鳳凰堂での十種供養時に僧が左右の廊に着座した」と記されているとのことですので、翼廊がどのように使われたかここからうかがえます。さらに、『中右記』長承元年(1132)9月24日条に「鳥羽上皇が西廊に御車を寄せて入堂した」と記されていることから、尾廊(西廊)の使われ方の一端もわかります。尚、これらの記述は、北翼廊・南翼廊・尾廊が文献に出てくる初出記事だとのことです。(資料3)さらに、平等院鳳凰堂ができた後に、「極楽いぶかしくは宇治の御寺をうやまへ」という童歌(民間のはやりうた)が生まれたと言います。歌意は「極楽というものが疑わしかったら、宇治は来なさい。そしたら極楽というものがあることが分かるだろう。納得できるだろう」です。(資料3) 南翼廊側から眺めた中島の州浜 南翼廊を傍から眺めて 南翼廊の鬼瓦 中堂の正面に置かれた石灯籠 石灯籠の高さは基台から約2m。 この六角石灯籠は「平等院型灯籠」と称されます。「基礎が平安時代末期、竿・中台・笠が鎌倉時代末期、火袋・宝珠が桃山時代頃、基台が近世頃に造られたとも言われています。」(資料1) 境内案内図に記載はありませんが、南翼廊側にも平橋が設けてあります。 鳳凰堂内の拝観をスムーズにするための順路設定として設けてあるのかもしれません。 平橋の西側に「阿弥陀水 宇治七名水之一」と刻された石標が立っています。大昔に平等院を訪れたときには、気づきませんでした。 阿字池・中島の西側州浜の西に数カ所水が少し湧き上がっています。阿弥陀水の湧き水を阿字池に引き入れているように受けとめました。その先に見えるのが上記している西廊、つまり尾廊です。 南西側から眺めた南翼廊の景色です。 南翼廊の露盤宝珠 南翼廊の鬼瓦 阿字池の南西側から眺めた中堂 阿字池に関連して、少し脇道に。「阿字」を手許の辞典で引きますと、「サンスクリット(梵語)の字母の最初の文字。仏教、とくに密教で宇宙万有の根源を象徴するものとされる。」(『日本語大辞典』講談社)、また「梵語字母の第一字、およびそれによって表される音。密教では、阿字はすべての梵字に含まれており、すべての宇宙の事象にも阿字が不生不滅の根源として含まれていると考える。」(『大辞林』三省堂)と説明されています。「阿吽(あうん)」の阿です。「吽」は逆に梵字の字母の終音です。「阿吽」は「密教で、宇宙生成の本源と窮極」(前掲書)を意味するそうです。別書を引くと、阿は梵語aの音写といい、「梵語50字の最初の字なので、これを<ことば>の根本であると考え、いろいろの意義や功徳を説いた。密教では菩提心・法門・無二・法界・法性・自在・法身の七義をこの字に与え、また本不生・無常・無去・無来・無住・無本性など百義を数えるといわれ、密教の阿字観のような観法の対象ともなった」と説明しています。(資料4)阿字池という名称が、宇宙万有の根源、不生不滅の根源に関係することから、無量寿仏とも言われる阿弥陀仏と照応しているのだろうと思います。阿字池の南辺から鳳凰堂の背面を巡ります。つづく参照資料1) 平等院見どころ :「京都ガイド」2) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p693) 『平等院創建と浄土思想 王朝貴族の夢』 村井靖彦著 宇治市民大学運営スタッフ会4) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房補遺平等院 ホームページ 聴く モデルコース 浄土信仰 :「コトバンク」阿弥陀如来 :ウィキペディア 木造阿弥陀如来坐像(平等院・鳳凰堂) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治・平等院 -1 道すがら、そして、鳳凰堂の正面・疫病退散の塔婆 へ探訪 宇治・平等院 -2 鳳凰堂外観細見(1)へ探訪 宇治・平等院 -4 鳳凰堂外観細見(3)へ探訪 宇治・平等院 -5 浄土院・羅漢堂・石造層塔・竹庵の碑誌ほか へ探訪 宇治・平等院 -6 最勝院 : 不動堂・源頼政墓所・池殿地蔵尊・玄関 へ探訪 宇治・平等院 -7 観音堂・藤の花の名残(藤棚)・扇の芝 へ
2020.05.15
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この境内案内図からご紹介します。右斜め上に正門(表門)があります。門を入り参道を進んでくると、鳳凰堂拝観受付所があります(現在地が示している建物)。この側壁にこの境内案内図が掲示してあります。まずは、この受付所の傍を起点にして、鳳凰堂の外観を眺めて行きましょう。鳳凰堂は阿弥陀堂で、平安時代の仏師定朝作の木造阿弥陀如来坐像が安置されています。この丈六の阿弥陀仏坐像は国宝に指定されています。鳳凰堂は、阿字池中の中島に建立されていて、阿弥陀仏を安置する中堂の左右に鉤手状に北翼廊と南翼廊が配置され、中堂の背後(西側)に尾廊が配されて4棟の建物から構成されています。正面から眺めると池中に浮かぶ楼閣であり、阿字池を隔てて西方郷楽浄土の姿を現世に現出させるという願望がここに表れているのでしょう。 鳳凰堂の北翼廊と尾廊の北側面を北から眺めた景色です。小島を中継として平橋と反橋の小橋が架かっています。 北翼廊の側面をズームアップで撮ってみました。 左へ、阿字池を時計回りに巡ります。 反り橋の向こうに白い築地塀と門があります。北から最勝院、不動堂が並んでいます。 左側には阿字池の突き出た部分が見えます。背後の小高いところは、地図で確かめると槙ノ尾山(標高106m)のようです。 北翼廊の全体を正面左寄りから眺めた姿 阿字池の水面に映る鳳凰堂の姿の見え方が立ち位置により変化します。 中堂をズームアップしてみました。 阿字池を回り込むと鳳凰堂の正面です。平安京と南都(平城京)との間に位置する宇治は、平安貴族がその景観を愛好し、別業・別荘を営みました。この辺りは、もとは源融の別業で、それが宇多天皇の所領となり、六条家に伝えられていたものを、藤原道長が六条家から買い求め別荘としていました。それを頼通が受け継ぎます。頼通は末法の時代に入ったと言われる年(1052年)に、別業を寺に改めて平等院としたのです。その翌年(1503)に阿弥陀堂が完成しました。頼通の浄土信仰は、末法思想の流布した時代に、この世に極楽浄土をつくるという理知的な営みの側面を持っていたようです。(資料1)浄土三部経の一つ、『観無量寿経』は定善十三観という手順を踏んだ極楽浄土を観想する方法を説明しています。宝地、宝池に宝樹が繁り、宝楼閣があり、無量寿仏が宮中に住立されている姿を観想せよと言うのです。これを具象化したのが「当麻曼荼羅図」です。こういう極楽世界のイメージが背景にあるのでしょう。(資料2)「鳳凰堂を正面から見た姿が、翼を広げた鳥のように見えることと、屋根上に1対の鳳凰が据えられていることから、江戸時代始め頃より『鳳凰堂』と呼ばれるようになりました」(資料3)とのことです。元に戻ります。中島の周囲は州浜が広がっています。このことは1994年から約5年間の中島発掘調査によりわかったそうです。ここには青く扁平なごぶし大の円礫(れき)が敷き詰められています。(資料4) この辺りから見ると、州浜の感じ、様子がわかりやすいでしょう。 中堂外観の細部を眺めて行きましょう。 中堂の甍には1対の棟飾金銅鳳凰が羽を休め、燦然と輝いています。実物の金銅鳳凰(国宝)は、鳳翔館に展示されていて、現在の屋根の棟上にあるのは複製です。1968年(昭和43)に取り替えられました。(資料3,5) 降棟の鬼瓦 隅棟と稚児棟、それらの鬼瓦 獅子姿の飾り瓦 北翼廊です。少しズームアップして撮ってみました。 宝形造の屋根の頂点には露盤宝珠が置かれています。これも金色に輝いています。下から露盤・伏鉢・宝瓶・法傘・宝珠という形で構成されているように思われます。 降棟の鬼瓦 北翼廊の屋根を正面から眺めた景色 北翼廊と中堂の繋がり具合を観察してみてください。翼廊の屋根の左端が中堂の屋根下内側に少し入り込む形で重なりを持たせてあります。 南翼廊。北翼廊と相似形です。つづく参照資料1) 『平等院創建と浄土思想 王朝貴族の夢』 村井靖彦著 宇治市民大学運営スタッフ会2) 『浄土三部経 下』 中村元・早島鏡正・紀野一義 訳註 岩波文庫3) 平等院 ホームページ4) 遺跡編(29)史跡及び名勝 平等院庭園(宇治市)頼通が創った極楽再現:「京都新聞」5) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p69 補遺京都)純白の「平等院蓮」が開花 7月末まで見頃 宇治 2017.6.28:「朝日新聞DIGITAL」当麻曼荼羅 :「奈良国立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治・平等院 -1 道すがら、そして、鳳凰堂の正面・疫病退散の塔婆 へ探訪 宇治・平等院 -3 鳳凰堂外観細見(2)へ探訪 宇治・平等院 -4 鳳凰堂外観細見(3)へ探訪 宇治・平等院 -5 浄土院・羅漢堂・石造層塔・竹庵の碑誌ほか へ探訪 宇治・平等院 -6 最勝院 : 不動堂・源頼政墓所・池殿地蔵尊・玄関 へ探訪 宇治・平等院 -7 観音堂・藤の花の名残(藤棚)・扇の芝 へ
2020.05.14
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4月から1ヵ月余引き籠もっていました。ゴールデン・ウィークの週も過ぎ去った後ですので、少し散歩を兼ねて平等院を訪れてみました。5/12(火)の午前10時半近くに、宇治橋東詰の通圓茶屋前あたりから宇治川の上流側歩道を眺めた景色です。観光客の姿なし。こんな宇治橋を見たことがありません。 宇治橋から上流側を眺めた景色。朝日橋と塔ノ島を遠望しつつ歩みます。 橋上で振り返ると、人影がやっと視認できました。道路を通行する自動車も普段よりは少ない感じです。 宇治橋西詰の傍にある紫式部像。右手前に「夢浮橋之古蹟」と刻まれた石碑と石標が建てられています。ここも普段なら平日でも観光客が屯するスポットですが、待つこともなく風景写真を即座に撮ることができました。 平等院に向かう表参道もまた、人の姿がありません。開店と閉店が入り交じった状態です。こんな通りの状況を目にするのは初体験です。 平等院の正門近くに来ました。正面の白い築地塀のところを左折すれば、宇治川の堤に至ります。道路の手前を右側、平等院の正門へ向かう通路に入ります。 通路の入口、右方向に世界遺産登録の説明碑があります。 「古都京都の文化財」(京都市・宇治市・大津市)の一環として平等院が世界遺産に登録されています。 ちらりとこの碑を眺めて、正門へと歩みます。 ここで初めて、数m先に前を歩む親子連れを見ました。 正門に向かう石畳道の右側奧に巨大な石碑「宇治製茶紀念碑」が建立されています。1879年(明治12年)、横浜で第1回製茶共進会が開催されました。この時、宇治茶の製法に特別賞が与えられたとのことです。この時の賞金をもとにこの記念碑が建立されたと言います。(資料1)毎年10月1日には、この巨大石碑の前で、「宇治市宇治製茶記念式典及び茗魂祭」が宇治茶商工業協会と宇治地区茶生産組合により行われます。「茶祖への報恩感謝供養と茶業界の発展の祈願」(資料2)のためです。そして、10月の第一日曜日には、興聖寺にて「宇治茶まつり」、この日に合わせて「宇治茶まつり消費イベント」が橘島・塔ノ島、周辺商店街で行われます。(資料2)今年は新型コロナ感染の影響でどうなることでしょうか・・・・・。早く終息することを願うばかりです。 正門寄りには、「辻利右衛門翁之像」が建立されています。 平等院の正門。赤門とも称されるようです。普段なら観光客の行列ができるのに・・・・。現時点で平等院は5/31まで一般拝観が中止されています。ホームページで告知されています。ただし、正門だけが開かれていて、境内での参拝と庭園周辺の散策は自由にできるように配慮されています。ということで、運動を兼ねて境内を散策しに出かけました。一般拝観中止中ですので、境内の樹木の剪定作業などが手広く行われていて、トラックが正門の先に止められています。これもたぶん平常ならあまり見かけることのない光景かも知れません。 正門をフリーパスで通過して境内に入り、振り返った景色です。 (一般拝観業務停止ですが参拝は自由、つまり無料です。)正面の端に見えるのが上掲の世界遺産登録説明碑です。この時は、後に続いてくる人が居ませんでした。境内に入り、やはりまず眺めたいのが鳳凰堂です。 一般拝観は中止ですので、鳳凰堂の扉は閉じられています。散歩を兼ねて訪れてみたかったのは、鳳凰堂の正面、池の手前に立てられたこの塔婆のことを先日新聞報道で知ったことも動機になりました。(資料3) 現在の新型コロナ感染の終息や感染者の治癒などを祈願して立てられたと言います。正面に「世界疫病病魔退散無辺功徳畢意圓満」と墨書されています。左側面には「被災者復旧復興三界満霊平等利益」と。 こちらは右側面です。5文字判読できませんが「一切□□□□□安楽抜苦与楽福寿無量」と記されています。この傍で、鳳凰堂に向かって祈願、参拝してきました。報道記事の末尾を引用します。「神居文彰住職は『病を治すだけでなく、人との精神的な結びつきを強めないと、乗り越えられない。祈りを続ける寺のメッセージとして安置した』と語る」(資料3) 池前の境内の南側から眺めると、池畔にこんな感じで塔婆が立てられていることになります。この時に境内を訪れていたのは十数人程度でした。あちらこちらに人々が点在する感じでそれぞれ庭園を散策されていました。さて、庭園と境内散策に入る前に、帰路の景色を併せてここで記録を兼ねてご紹介しておきます。 宇治橋上から下流側のJR奈良線の鉄橋を眺めたところです。右端に、京阪電車宇治線の宇治駅が見えます。JR奈良線は現在、各所で複線化の工事が進行しています。クレーンの見えるこの景色もその一環だろうと思います。 宇治橋下流側の歩道から上流方向を撮った(11:36AM)景色です。瞬間的にでも自動車が途切れいて写らないくらいに、自動車の通行量も減っています。 宇治橋を渡りきる手前で取った京阪電車宇治駅前の景色。「一級河川 うじがわ」の掲示が右側手前に見えます。それでは、鳳凰堂の外観を眺めて行きたいと思います。つづく参照資料1) 宇治茶 :ウィキペディア2) 全国イベント情報 :「公益社団法人日本茶業中央会」3) 朝日新聞 2020.5.9(土)朝刊の京都版記事補遺平等院 ホームページ お知らせ すべて平等院 :ウィキペディア宇治川 :「京都に乾杯」宇治川 :「京都通百科事典」宇治茶まつり :「京都府」宇治茶まつり :「宇治市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治・平等院 -2 鳳凰堂外観細見(1)へ探訪 宇治・平等院 -3 鳳凰堂外観細見(2)へ探訪 宇治・平等院 -4 鳳凰堂外観細見(3)へ探訪 宇治・平等院 -5 浄土院・羅漢堂・石造層塔・竹庵の碑誌ほか へ探訪 宇治・平等院 -6 最勝院 : 不動堂・源頼政墓所・池殿地蔵尊・玄関 へ探訪 宇治・平等院 -7 観音堂・藤の花の名残(藤棚)・扇の芝 へ
2020.05.13
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華頂道が神宮道に合流する手前から東端にある知恩院の黒門を眺めた景色です。 後ほど境内で見つけた「浄土宗総本山知恩院 境内案内図」を一部補足修正した図を最初に掲げておきます。赤丸が東西方向の華頂道、黒丸が南北方向の神宮道になります。赤丸自体の位置が冒頭の景色を撮った場所になります。マゼンタ色の丸のところが黒門です。石柵で囲われた中に石が見えます。これが「瓜生石(うりうせき)」です。「むかしこの石の下から一夜にして胡瓜(きゅうり)のつるが生え、花が咲いて、瓜が実った。しかもその瓜に『感神院』(或は牛頭天王ともいう)としるされていたので、粟田神社へ奉納された。いま粟田祭に出る瓜鉾と称する劔鉾は、この石から生じた瓜をかたどるという」(資料1)と説明されている石です。 黒門の左手前に桜が咲いています。 白い築地塀が北方向に延び、その前に桜の木が並び、満開です。右の門柱には「総本山知恩院」と白墨で記された大きな寺標が掛けられていて、側面に「知恩院黒門」と小さな木札も掛けてあります。 黒門を入るとすぐ石段で、正面は石垣が積まれ石段道は北に左折します。 石垣手前から黒門を振り返った景色 左折すると、幅が広い石段の道が石垣に沿って延びています。道は上で右折します。 上りきった位置から振り返えった眺めです。 左は東に向いて正面を眺めた景色。右は少し歩み、南側の斜面沿いの築地塀を眺めたところです。 石段道は再び右折して、2つめの門に向かいます。 右折して、2つめの門を正面に眺めた景色です。門の修復工事が行われています。境内案内図に紫色の丸を付けた場所がこの門、「北門」です。 北門の手前から西方向、京都市内を眺めた景色です。ここまでは、まさに城の縄張り感覚で築かれているといえるようです。現在の知恩院の伽藍は、浄土宗徒だった徳川家康を筆頭に、徳川家の庇護の下に寺域と諸堂が整備されて行ったそうです。徳川幕府は、有事の際にはこの知恩院を城の代用として使うことも想定していたのではないかと思います。 右側の門柱には、「北門」と記された木札が掛けてあり、右に通用口の扉があります。左の門扉を見上げると、厚みのある大きな板蟇股が見えます。頑丈そうな四脚門です。 境内案内図に青色の丸を付けた建物が、大庫裡で、南側に唐破風の玄関があります。「総本山知恩院 新玄関」の大きな木札が掛けてあります。 新玄関の南側は五本の定規筋が入った築地塀で囲われた建物(黄緑色の丸のところ)があります。「集会堂(しゅうえどう)」です。江戸時代、1635年(寛永18)に再建された建物で、450畳敷の大集会所です。俗に千畳敷きと呼ばれるとか。本堂での法要前に僧侶たちが参集する場所だそうです。(資料1,2)御影堂(本堂)が大修理の期間中は、この建物が仮の御影堂となっていました。右の写真の石畳の先、左に提灯が見える所が門です。正面の門は御影堂のある境内地との境の門で、案内図に黄色の丸を付けた所です。 鬼瓦 猪の目懸魚 再建された集会堂は幾度も修理を重ねてきていますが、2005年(平成17)7月に、半解体工事に着手し、2011年(平成23)2月に落慶しています。この後12月に増床工事が集会堂の外陣を広げる形で施工されたと言います。その結果、御影堂とほぼ同じ広さのお堂になったそうです。この後に、御影堂の大修理へと移行していったようです。(資料3) 門の左柱に「法然上人御堂」の木札が掛けてあり、提灯も同様に記されています。御影堂の大修理は終わり、落慶法要待ちでしたが、今回の新型コロナウィルス感染騒動により、4月13日から予定されていた落慶法要が中止になりました。しばらくは、大修理期間中と同じ状態が続くのでしょうか・・・・。右柱には、「武家門」と記された木札が掛けてあります。この門の形式を示すのでしょう。 門の正面に見えるのは、御影堂と阿弥陀堂(茶色の丸のところ)を繋ぐ渡り廊下です。境界となっている築地塀の門(黄緑色の丸のところ)を通り抜けて、御影堂のある境内地に入ります。 阿弥陀堂は東面する形で建っています。南東側に大きな桜の木がありますが、桜の花は五分くらいは散ってしまった感じです。堂正面に「大谷寺」という勅額が掲げられています。現在の阿弥陀堂は1910年(明治43)に再建されたもの。(資料2)もとは知恩院第二世勢観房源智上人により、勢至堂の前に建立された建物ですが、1710(宝永7)に現在地に移築され、荒廃が進んだため明治期に一旦取り壊されたという経緯があるそうです。(資料4) 阿弥陀堂正面のガラス障子に、御影堂に張り巡らされた五色の幕が吹く風に揺らめく姿が映されていて、あたかも抽象画の雰囲気になっています。さて、それでは大修理の終わった御影堂(本堂)の外観探訪に移りましょう。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2442) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p122-1253) 集会堂(法然上人御堂) :「知恩院」4) 阿弥陀堂 :「知恩院」補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 京都・東山 知恩院 -2 御影堂・唐門・経蔵・池と納骨堂、そして鬼瓦 へ観照&探訪 京都・東山 知恩院 -3 鎮守八幡社・真葛庵・三門・小鍛治井 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -4 黒門・瓜生石・[元大谷]崇泰院・良正院・先求院・松風天満宮ほか
2020.04.11
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山科神社から岩屋寺の石段下に戻り、山門前の参道を少し下がると、この石造観音菩薩立像が道路の南側に建立されています。この観音菩薩像から参道を挟み北側は、緩やかな斜面地です。この斜面には歌碑や句碑が点在します。碑面はくずし字や書体により、残念ながら私には判読出来ないものもあります。ご覧いただき、判読できましたら□の文字を教えてください。 左の句碑は私には判読できません。右は歌碑です。「義士祭は申し訳ほど雪降れど」でしょうか。下の句が判読できません。 死にざまも母に教はる□菊濃し □子 雪がきてなにもなき野をかざりけり 都峰 斜面地の北東側の高みに、石碑と十三重塔が見えます。 ここが大石良雄宅址だそうです。通称、大石内蔵助が赤穂城を明け渡した後、姻戚にあたる進藤源四郎の縁故により、この地の田地を買い入れ、邸宅を新築し、表面は永住を装って隠棲した場所と言われています。討ち入りの快挙後、その旧宅は大野木常右衛門(山科郷士)が購入したとか。明治34年(1901)に、三代京都府知事北垣国道の筆になる「大石良雄君隠棲旧址」と刻された石碑が建立されました。(資料1,石碑傍の掲示文) 石造十三重塔平成20年(2008)4月、岩屋寺七世白鳳珠心の代に寄進建立されたそうです。(建立碑より) 基壇には蓮形に格狭間が薄く彫り込まれています。軸部の南面に仏像がレリーフされ、 東面 北面四方仏が刻まれています。 この2面には色調補正の画像処理を加えました。 左が西面、右は南面(上掲の正面)です。 いずれも部分的な判読しかできません。どこかに案内説明でもあればいいのですが・・・・・。残念。 砂時計返せば原点夏来る 作句者名は不詳満開の桜を眺めて、かなりの歌碑や句碑を読めないままにこの旧跡を後に去ることに。 岩屋寺の参道入口「大石大夫閑居址」と刻された石柱と岩屋寺の案内板が目印として出ています。この掲示で、岩屋寺は尼寺であることがわかります。もう一つ、角に道標が立っています。 これは既にご紹介している大石神社の石鳥居傍の案内図です。赤い丸を追記したところが、現在地点・大石閑居址です。この後、大石内蔵助と縁がある極楽寺と福王寺を帰り道の途中で巡ってみることにしました。この道標のある地点で道沿いに北方向に戻ります。 北上していくと、こんな道標も目に止まりました。 西方向の道路を上りきったところに、「極楽寺」があります。浄土宗のお寺です。 降り棟の獅子口と飾り瓦 山門を入ると、 左斜めに石畳の道が延びていて、本堂が見えます。 本堂正面に「蔡華山」と記された扁額が掲げてあります。「蔡」の字は、サイ、サツと読むようです。山号でしょう。「本尊は阿弥陀如来。大石内蔵助が西野山に隠棲していた時、浅野内匠頭の位牌を納め、香華料として田畑を寄進したとされる」(上掲案内図より) 木鼻はシンプルな造形です。蟇股には、蓮の花がレリーフしてあるようです。 本堂の先に中門がありその先は境内墓地になるようです。 中門を入ったところに、石造の六地蔵が祀ってあります。 境内の東側には、石造の観音菩薩立像が建立されています。 永代供養塔という感じです。 近くでこの五輪塔が目に止まりました。極楽寺を出て、道を戻ります。 道の南側に、「浄土宗福王寺」があります。山門が開いていましたので、門を入りすこし境内を拝見しました。小規模なお寺という感じです。 門を入ると、すぐ右側(西)に本堂があります。「ご本尊の地蔵菩薩は、平安時代の公卿小野篁の作であり、大石内蔵助が隠棲していた時の大願成就像である。」(上掲案内図より)とのこと。一説には「大石内蔵助が陰住の地としてこの福王寺を使用していた。当時は主君仇討ちの為、密会の場となっていた事もあり、隠し扉等忍者屋敷の様であったという。・・・・昭和の戦災で本堂は焼失したが 大石内蔵助が当時この場所に住んでいた事を証明する彼直筆の書籍や着物等が再建された本堂に残されています。」(資料2) 左側斜め前方に、お地蔵さまが沢山安置された覆屋があります。 ここは、赤よりも白い涎掛けが主流です。 お顔の様子がイメージできそうなお地蔵さまが目にとまりました。福王寺を出て、新十条通との交差点に出ます。 この交差点の南西角にこの道標が立っています。この交差点は、「大石神社前」交差点の一つ西側の交差点になります。地図を見ますと、もう一つ西側の交差点が「滑石新大石道」交差点です。新大石道は北方向、清水焼団地への道路です。つまり、道標の「右 京都大仏三十三間堂」とは、交差点で分岐して西方向に向かう合う滑石街道(滑石越)を示していることになります。この交差点からは、新十条通を西へ外環状線との交差点まで歩くだけです。新十条通は、外環状線に至るまでに、旧安祥寺川と山科川を横切ることになります。今回の探訪をこれで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p3232) 浄土宗福王寺 :「のうこつぼ」補遺やましなを歩く西野山と大石良雄遺跡 :「山科区」四方仏 :「Flying Deity Tobifudo 飛び不動」大石良雄君隠棲旧址 :「フィールド・ミュージアム京都」大石大夫閑居址 :「フィールド・ミュージアム京都」滑石街道 :「きょうとwel.com」滑石街道 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ こちらもご覧いただけるとうれしいです。(重複する部分もありますが・・・・。)探訪 京都・山科 勧修寺・西野山を巡る -3 大石良雄寓居地・遺髪之塚、岩屋寺、大石神社
2020.04.06
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大石稲荷、お地蔵さまの前を南に向かいますと、山科神社への坂道があり正面にこの建物が見えます。山科神社の社務所のようです。右折して、坂道を上ります。岩屋寺の南西方向で、さらに高い位置にあります。 振り返ると、このような景色です。 石段を登り切ると、正面に拝殿があり、右側斜め奥に手水舎と受付所と思える建物が見えます。 手水舎の寄進された水鉢の正面には「岩屋大明神」と刻されています。 間口三間、奥行二間、入母屋造本瓦葺で、質朴な感じの拝殿です。本殿側の桁が緩やかな円弧のアーチ状になっているという特徴が見られます。 拝殿屋根の鬼瓦 拝殿を回り込み、一段高い位置にある本殿に向かいます。 石段の両脇には狛犬が配置されています。本殿は菱格子窓の瑞垣で囲われ、朱塗りの外観です。 正面扉の前に弊束が立てられ、支持台に御鏡(円鏡)が置かれ、三方に瓶子が供えてあります。神社は岩ヶ谷の山腹にあり、旧西野山村の産土神です。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)とその御子稚武王(わかたけるのみこ)。社伝によれば、寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創祀されたと伝えられています。この地の豪族宮道氏の祖神とも。むかしは山科一ノ宮と呼ばれ、西岩屋大明神とも呼ばれたと言います。たびたびの兵火により旧記が失われ、由緒沿革はあきらかでないようです。(資料1,案内板)明治維新後に、山科神社と改称されました。(資料1) 本殿は東に面して建ち、三間社流造で、細部の彫刻の作風などから「室町時代後期造営の可能性もあるが、一部に後補材が認められ、江戸時代前期には現在の形態になったものと考えられる」(駒札より)そうです。1984年6月1日、京都市指定有形文化財に指定されています。 蟇股は透かし彫りで極彩色です。 本殿の南側面 本殿の北側面 本殿瑞垣の右側前に立つ石灯籠の竿の背面には、寛永20年(1643)の刻銘が読み取れます。 石段下の傍に立つ駒札 本殿の北側には、境内社がずらりと一列に配され、全体に覆屋が設けてあります。 東端に三社 左から稲荷社・山王社・夷(えびす)社。 中央に位置する春日社(左)、その東隣は竃社(右)。 弁財天社(左)、春日社の西隣は天満宮社(右)。 西端に愛宕神社が祀られています。 本殿の南側に権殿が祀られています。権殿とは「社殿を造営・修理する間、神体を仮に奉安する場所。仮殿」(「デジタル大辞泉」)を意味します。 権殿の南東側に、護国社があります。これで、境内地を一巡したことになります。「西岩屋大明神」と呼ばれていたと記したこと及び、上掲由緒の案内板に、赤穂浪士の大石良雄が「当社奥の院岩屋神社に参篭して、・・・・」という記述があることの疑問から少し、ネット検索で調べてみました。この山科には、近世に岩屋三社と呼ばれ、西岩屋・東岩屋・上岩屋という三社があったそうです。西岩屋が現山科神社です。上岩屋は現在では不明になっています。そして、東岩屋が現在の岩屋神社(山科区大宅中小路町)だそうです。(資料2,3)石段を下り岩屋寺の山門前石段まで一旦戻り、今探訪の最終段階になります。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p3232) 由緒 :「岩屋神社」 3) 岩屋神社 平成祭礼データ :「神奈備」補遺やましなを歩く西野山と大石良雄遺跡 :「山科区」 山科神社についての記載あり。岩屋神社 ホームページ宮道弥益 :ウィキペディア宮道列子 :ウィキペディア宮道神社(京都市山科区) :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・山科 勧修寺を歩く -4 宮道神社・八幡宮
2020.04.05
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石段を上り、山門を入ると正面に本堂があります。山の斜面に建てられていますので、山門から本堂の向拝までの距離は十数mという感じでしょうか。間近にあります。向かって右の柱に、「近畿三十六不動尊第24番霊場」の木札が掲げてあります。本尊として大石良雄の念持仏と伝える大聖不動明王像が安置されています。この像は智証大師の作とされているそうです。創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つに数えられた寺だったそうですが、岩屋寺の南隣りにある山科神社の神宮寺として建立されたのではないかと言われています。現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺であり、神遊山金地院と号します。中世以降、岩屋寺は久しく荒廃していたようです。大石良雄(通称大石内蔵助)がこの岩屋寺のすぐ下辺りを一時期の隠棲地としたのです。そして、討ち入りの謀をこの地で巡らしたとされています。大石良雄は討ち入りが成就すると、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進したそうです。岩屋寺が大石寺とも呼ばれると言います。一時荒廃しますが、嘉永年間(1848~1854)に京都町奉行浅野長祚等の助力を得て堂宇を再興したと言います。(資料1,駒札)赤穂浪士の仇討(四十七士の討入り)は、歴史年表を確認すると元禄15年(1702)12月ですので、150年近く後になってからの再興ということになります。今は「忠誠堂」と称される建物は、以前は木像堂と呼ばれて明治34年(1901)に建立されたお堂です。(駒札) 駒札 「境内案内図」を再掲します。堂宇の位置関係がイメージしやすいでしょう。 本堂正面の桟唐戸には、連子窓様の彫刻の中に浅野家の違鷹羽の家紋が浮彫にされています。扉の上の欄間には、菊水の文様が浮彫にされています。(資料2) 彫りが深い文様の頭貫に対して木鼻はわりとシンプルな造形です。 本堂正面の左手前には石造不動明王坐像が安置されています。本堂に向かい、南東側に「毘沙門堂」があります。以前、訪れた時に本堂や毘沙門堂内部を拝観しました。今回は内部の拝観はしませんでした。この毘沙門堂には、四十七士の像が雛壇形式で安置されていたと記憶します。 山門を入ると、すぐ右側に石鳥居が見えます。 その先に池があり、弁財天を祀る小祠が見えます。池は「忠」字型の池で、弁財天像は大石内蔵助自作だとか。「大石弁財天」と称されています。小祠の背後に見えるのは、茶室「可笑庵」です。この茶室には大石内蔵助の屋敷の古材が使用されているそうです。(境内案内図より) 山門を入りすぐ右側、石鳥居の右斜め前に置かれた手水 石鳥居の前から眺めた山門傍の桜毘沙門堂の戸口に案内係の人が居られたのでお堂の写真は撮りませんでした。ふと、左り斜め前、山門寄りを見ると、この童地蔵風のお地蔵さまが目に止まりました。前回訪問時には全く気づいていませんでした。 アングルによって、お地蔵さまの趣が変わります。 笑みがなんともいえません。一つ一つ微妙に表情が異なります。 山門を出る時、桜の木の幹をふと眺めました。 幹の窪みの部分に、こんな花が群生しています。こんな光景は初めてみました。 小鳥が種子をこの幹に運んだのでしょうか。石段を下ります。 石段の左側の斜面に、「正一位稲荷大神」と記された扁額を掛けた朱塗りの鳥居があります。 「大石稲荷大神」を祀る小社が斜面を少し上った上に祀られています。 覆屋には、「正一位大石稲荷大明神」と記された扁額が見えます。 対の狐像が大小5対並んで置かれています。にぎやかです。 大石神社の本殿と同様の屋根形式。銅葺き屋根の立派な小社です。 小社の向拝の蟇股のところには龍が彫刻されています。木鼻は象の頭部が深い彫りで造形されています。正面の獅子も同様です。 小社の正面階段の装飾金具もまた本格的なものです。円鏡の支持台も波濤や渦流文(たぶん)が深く彫られています。 大石稲荷社の左側(南側)には、お地蔵さまを安置した覆屋があります。 様々な形のお地蔵さまが集まっていらっしゃいます。背後に駒札が見えます。南町地蔵会が維持管理されているそうです。いずこかからここに集まって来たお地蔵さまでしょうか。元々、ここに祀られて、その数が増えたのでしょうか・・・。大石神社と岩屋寺は稲荷山の東麓に沿った南北に細長い西野山桜ノ馬場町に所在します。この付近の地図を見ても、南町という地名は見当たりません。南町は桜ノ馬場町の南地域を意味するのかもしれません。 この位置からだと、地蔵堂、大石稲荷、岩屋寺が高台地の斜面に建っている位置関係がイメージしやすいでしょう。余談です。大石良雄の辞世歌は、 あらたのし思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし (資料1)討入りが成就した後、大石内蔵助を含む17名は肥後熊本藩細川家の下屋敷に収監されました。翌元禄16年(1703)1月20日過ぎに徳川綱吉が「切腹申しつけよ」と断を下したと言います。2月4日、八ツ刻(午後2時頃)上使が切腹命令書を持参し、切腹を申し渡したのです。同日午後4時に大石内蔵助は上の間にて、馬場一平を介錯人として切腹して果てます。17人の切腹は午後6時頃に終わったと言います。他三家の収監者も申し合わせたように共通していたそうです。細川家では、収監中17人の接待役を勤めた堀内伝右衛門は『赤城義臣対話』という筆記した預り記録を残しています。赤穂市刊の『忠臣蔵』第三巻に収録されているとか。(資料3,4)この後、山科神社に向かいました。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p321-3232) 浅野内匠頭長矩の生涯と浅野家 :「赤穂義士」3) 元禄赤穂事件の詳細その5 :「赤穂においでよ!」4) 『「忠臣蔵事件」の真相』 佐藤孔亮著 平凡社新書 p146-163補遺赤穂においでよ! 赤穂浪士の一部始終 ホームページ 山科隠棲から江戸下向まで ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ
2020.04.04
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大石神社境内の南端にある「義人社」を前回ご紹介しました。その南側に、「大石大夫遺髪塚 厳屋寺近道」と刻された道標が立ち、ゆるやかな山道が見えました。以前に岩屋寺・大石神社を訪ねてきていますが、この山道は知りませんでした。今回はこの近道を歩いてみることにしました。山道を上って行くと、 左側にこの石仏群があります。 左は不動明王像 右は地蔵菩薩立像 両石仏像の間に、前後する位置に、お地蔵さまが安置されています。手前の涎掛けを付けた石仏は、じっとみつめているとお顔が何となく浮かび上がる感じです。後の石仏はお地蔵さまが二体仏となっています。 通り過ぎてから振り返った景色です。 少し先に歩むと、左側に石柵で囲われた「大石良雄遺髪之塚」があります。 正面の鉄門扉の右斜め前に「遺髪塚碑」と題する駒札が立っています。「播州赤穂藩主浅野家の家老大石良雄(1659~1703)は、江戸城内での刃傷沙汰で領地召し上げとなったため、縁戚で浅野家に仕える進藤源四郎の縁故により、進藤の出身地である山科に居を構えた。この石碑は、大石の遺髪を埋めた塚に建て、その隠棲の跡を示すものである。 建立年 安永4年(1775) 建立者 宮部義正 上田正並 寸法 高88cm 直径34cm」(駒札転記) 先に、岩屋寺山門前石段下に設置されている「境内案合図」を掲げておきます。全体がわかりやくなると思います。赤字Sが今回の出発地点です。「遺髪塚」が赤い丸を追記した場所になります。 遺髪塚の南西方向に「忠誠堂」があります。大石内蔵助の坐像が安置されるとともに永代供養のお堂として使われているそうです。(案内図より) 忠誠堂の前に置かれた台の円柱には地蔵菩薩立像が四方向に丸彫りされています。 忠誠堂は東に向かって建てられています。参道を挟んで東側に石灯籠があります。興味深いのは、基壇の部分の形状と石灯籠の竿部分がその上の火袋の大きさとのバランスです。竿の高さが短めであるように思います。火袋より上部が大きく、重そうに見えます。傾斜地の上に設置されていますので、ひょっとしたら傾斜地の下から眺めると感じが変わるのかも知れません。これを書きながらふと思ったことです。 忠誠堂の南は、石の階段を挟んで南側が苔蒸した山裾の斜面地になっています。そこに句碑が点在して置かれています。 元禄乃 雪乃深さや 里ごもり 染□ (右) ちりぬるは をとこのはなと うち入りそば □水 (左) 私には判読できない箇所が多い句碑です。右の句は、「季名草の 外の身□□ をとこへし □」、左の句は「夫と経し □□□□道や 棕櫚の花 白穂」という具合です。くずし文字は読めません。残念! 塵ほどの 時雨に逢ふも 京の寂 照海岩屋寺を訪れられたら、これらの句碑を眺めて、私の判読できなかった箇所を教えてください。 昭和忠霊供養塔 句碑群の南側にあります。 そして、岩屋寺の山門前の石段下に至ります。神遊山と号する曹洞宗のお寺です。 石段下左側に掲示板が立っています。この時は、「陳去新来」の掲示が出ています。「陳(ちん)去り 新来る」(古いものが去り新しいものが来る)と説明が添え書きされています。この語句をインターネットで検索してみますと、中国の漢魏六朝時代の『淮南子(えなんじ)』に由来する四字の漢語だそうです。めでたい言葉(吉語)として書になることが多いことがわかりました。(資料1)そこで、手許の一書(事典)を引くと、『淮南子』は漢の高祖の孫、淮南王(わいなんおう)が漢代の様々な思想の中から撰した二十一巻の書とわかりました。「人間万事塞翁が馬」という語句はこの書に撰せられています。(資料2)同書からいくつかご紹介しましょう。 火を乞(こ)うは、燧(ひうち)を取るに若(し)かず ⇒ 人の力にたよらず、自分の努力に待つがよい 年五十にして四十九年の非を知る ⇒だからこそ、年を追い徳行も進歩した 遠きを知って、近きを知らず ⇒他人のことはよく見えるが、自分のことは見えない 禍の中に福あり ⇒禍のなかにも必ず幸福がある 禍と福とは門を同じくす。利と害とは隣を為す ⇒禍と福は人がこれを招くのである。利と害は常に表裏をなすものである。 一隅を守りて万方(ばんぽう)を遺(わす)る ⇒一部にこだわって大局を忘れること脇道に入りました。元に戻ります。 石段を見上げると、山門の右側手前の桜の木が満開でした。つづく参照資料1) めでたい言葉(吉語)/四字/ :「書作品と漢語」 2)『中国古典名言事典』 諸橋轍次著 講談社学術文庫探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ
2020.04.03
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駒札の部分図から始めます。黄色の丸を追記した交差点が「大石神社前」です。大石道と新十条通との交差点です。ここからまず、大石神社に向かいました。 路傍でみかけたお地蔵さま 1本の木が見事に満開でした。 道路傍の大きい石鳥居をくぐると、傍にこの案内図があります。現在地から少し坂道を上ると、大石神社の一段高い境内地になります。 坂道を左折したところで目にとまった石碑です。左は、三世吉田奈良丸之碑と刻され、「耐雪梅花香」という詩句が刻まれています。吉田奈良丸というのは、浪曲の名跡だそうです。(資料1)また、刻されている詩句ですが、調べてみますと類似の詩句として、西郷南洲(隆盛)の「外甥政直に示す」に「雪に耐えて梅花麗しく、霜を経て楓葉丹し(耐雪梅花麗、経霜紅葉丹)」という詩句があると言います。耐雪梅花香は耐雪梅花麗と同じ詩境にあるのではないかなと思います。(資料2)右の歌碑は残念ながら、私には刻された歌を判読できません。 参道に架かる橋を渡ります。右は橋詰めに配された狛犬です。 まず目に飛び込んできた「大石桜」が満開でした。 振り返えれば、手水舎が見えます。 手水鉢の縁から流れ落ちる様に苔蒸している様がいいですね。 手水舎の前から南方向を眺めた景色です。太い竹を使って鳥居が作られています。 石鳥居に満開の桜の枝がしなだれかかる風情がいい! 拝殿この神社は意外と新しい創建です。昭和10年(1935)浪曲家二代目吉田大和之丞(奈良丸)をはじめとした多くの崇敬者の特志により、赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するために創建されたと言います。(資料1,駒札) 拝殿に入り、正面を眺めると本殿が見えます。三間社流造ですが、屋根には本来は神明造の屋根にある千木、鰹木が載っています。一種のハイブリッド型建物です。祭神は大石内蔵助良雄です。 拝殿からは左右の回廊が本殿に繋がっています。 拝殿には、大石良雄を象った額が掲げてあります。 境内を眺めます。 拝殿から眺めた石鳥居の右側(南)に、「天神うし」が安置されています。 さらにその右側には、討ち入り装束の大石内蔵助の坐像が本殿の方に向かって建立されています。 境内の南端、本殿からは南東方向になる位置に「義人社」が祀られています。「義人社 天野屋利兵衛命 赤穂義士討入りに際し必要な武器を調達した。大坂の本町橋に店をかまえ北組惣年寄の大坂の豪商であり、『商売の神様』と言われ現在も(商売繁盛)の信仰があつい『天野屋利兵衛は男でござる』 平成20年12月吉日 高峰書 」(駒札転記) 木鼻や蟇股はシンプルな意匠です。 義人社の西側に記念碑が建立されています。詳細不詳。 境内は2,300坪の広さで、稲荷山の東麓に位置します。毎年、山科では12月14日に「山科義士まつり」が行われています。四十七士などに扮した総勢300人の大行列が毘沙門堂を出発し、この大石神社まで山科区内を行進するというまつりです。(駒札より)この神社の近くに、大石内蔵助がしばらく隠棲した山科の旧居がありました。つづく参照資料1) 吉田奈良丸 :ウィキペディア2) 梅花和雪香 :「茶席の禅語選」補遺大石神社 ホームページ浪花節 勧進帳 (1)(2) 三世 吉田奈良丸 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ
2020.04.02
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上花山バス停傍の分岐点で西側のほぼ真っ直ぐな道を下っていきますと、山科区上花山久保町で、国道1号線を跨ぐ陸橋を越えます。 その後すぐ、東海道新幹線が横切るために、再び陸橋を越えることになります。上花山地区から川田地区に入ります。川田バス停傍で地図に記載の大石道と合流します。川田地区には大石道の西側に南北に並行して「新大石道」があり、その西側に清水焼団地があります。 大石道沿い西側に角柱石が数多く立っています。角に道標らしきものが立っていますが、「いまく満・・・・」と推測できる程度で判読できません。 西方向の景色 東方向の景色 さらに、南進して東西方向に流れる川を渡ります。その傍に、西方向の百々小学校に向かう道路との交差点があります。 道路面に一体化した橋を渡ると、東側のすぐ傍にコンクリートブロックづくりのお地蔵さまの小祠が目に止まりました。地図を確認すると、この川の東方向に「花山稲荷神社」が位置します。川沿いの道は途中までです。さらに南進すると、「花山稲荷」バス停があり、その少し先が「花山稲荷」の交差点です。ここで、大石道を一旦逸れて、花山稲荷神社を目指します。わかりやすいのは、花山稲荷の交差点で東への道を真っ直ぐに進み、南北方向の川田道とT字路になりますので、左折して北上し神社に至るルートです。 川田道を北上しますと、西側に石鳥居が見えます。花山稲荷神社は山科区西野山欠ノ上町に所在します。 参道を西に進むと北側に「花山稲荷公園」があります。 公園の前を進むと、公園の西端に数多くのお地蔵さまを安置した覆屋が見えました。面白いと思ったのは、五輪塔の残闕である「笠石・受花・宝珠」が置かれていて、お地蔵さまと同様に涎掛けをしてあることです。お地蔵さま扱いされているのがほほえましい。左端が何の残闕か不詳ですが、同様に涎掛けが付けられています。 さらに、朱塗りの鳥居とその先に石鳥居が見えます。 朱塗り鳥居の傍に、本殿方向を正面にして、この小祠が祀られています。何かは不詳。 石鳥居の左斜め前の桜が満開でした。 石造明神鳥居 最後に、石造黒木鳥居があります。 拝殿拝殿のところには、「花山神社」と記された提灯が吊りさげてあります。 拝殿の先に本殿が見えます。 瑞垣越に眺めた本殿 祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、神大市比売大神(かむおおいちひめのおおかみ)、大土之御祖大神(おおつちのみおやのおおかみ)です。(資料1)古い地図や書籍では「花山神社」で載っています。延喜3年(903)醍醐天皇の勅命により創建したと言われています。(資料1,2)また、社伝によれば、永延2年(988)一条天皇の勅によって社殿を再建したと伝えるそうですが、あきらかではないとか。(資料3)江戸時代・元禄年間に山科に隠棲していた大石良雄もこの神社を崇敬し、所願成就を祈って鳥居を寄進したと伝えられ、この鳥居は本殿の背後に保存されていると言います。近世には、大石良雄に因んで「大石稲荷」と呼ばれたと言います。(資料2,3)さらに古くは、西山稲荷とも呼ばれたとか。(資料2)「特に宇迦之御魂大神の母神である神大市比売大神をも合わせ祀ることから『稲荷の元宮』としての信仰も篤い」そうです。(資料2) 花山稲荷神社の神紋境内を巡りましょう。 本殿に向かって、左側には熊丸神社があります。こちらの本殿前にも白狐像が配されています。祭神は速秋津比売大神(はやあきつひめのおおかみ)、佐田比古大神(さるたひこのおおかみ)とのこと。速秋津比売大神は水門神、潮荒い海の神で、佐田比古大神は大土之御祖大神と同じだそうです。(資料1) 本殿前の東南隅にこの石が置かれていて、傍に「大石良雄公遺物」と刻された石標が立っています。大石良雄の「腰掛石」あるいは「断食石」と呼ばれる遺物だそうです。また、上掲の本殿域の東南隅には、大石良雄の「血判石」と呼ばれるものがあります。(資料1) 本殿の北東側に、石鳥居に「達光宮(たつこうのみや)」と記された扁額が掲げられた小社があります。祭神は四柱です。市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)、金山比古大神(かなやまひこのおおかみ)、金山比売大神(かなやまひめのおおかみ)、天目一筒大神(あめのまひとつのおおかみ)。(資料1)本殿の北西側に回り込むと、 稲荷山に見られるような「御塚」が森林中に点在しています。 神社本殿の背後を巡る参道の脇にも御塚が並んでいます。合わせると八十余柱が祀られているとか。(資料1) 本殿の南西側には水分社(みくまりのやしろ)が祀られています。祭神は天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)、国之水分大神(くにのみくまりのおおかみ)です。水に関係する全てを司る神とのことです。(資料1)本殿前の石鳥居に戻り、一段下の境内地を巡ります。 「神馬由来記」を正面に掲げた神馬舎があります。「この神馬は京都神馬元祖と言う講中より寄進されたもので、本体はすべて全国各地の神社から頂戴したお礼・お守で造られております。昭和9年秋の第一室戸台風の時に神馬舎は全壊しましたが、神馬そのものには少しの損傷もなく無事であったと伝えられております。 京都の人田中氏大いに復旧につとめ昭和12年1月神馬差を再建し、さらに昭和46年10月京都の人益田氏神馬本体の修理を行ない昭和56年7月この所へ移築しました。 以上 社務所」(由来記転記) 神馬舎の北側には、御嶽山御塚と小社があります。 手水舎と薬丸大神 この境内には、「稲荷塚」と呼ばれる古墳(円墳)があったそうですが、正確な場所は未確認です。そこは、三条小鍛治宗近が、稲荷大神の神徳により、名刀「小狐丸」を鍛えたところという伝承があると言います。つまり、三条小鍛治宗近旧跡があるそうです。(資料2,3) 南北方向に往来して神社に参拝する参道です。川田道を北に進んで行くと、この北方向への参道につながる道路と合流する分岐点があります。 そこにこの石鳥居が北向きに建立されています。こちらが花山稲荷神社への正面の鳥居になります。 この辺りで、花山稲荷神社から元の大石道に戻ります。大石道を南に歩んでいくと、新十条通と交差します。その交差点が「大石神社前」です。大石道はこの交差点からさらに南進して勧修寺に至ります。一方、大石神社はこの交差点の南西方向に位置します。この後は大石道を外れて、大石神社とその周辺の探訪に移って行きたいと思います。つづく参照資料1) 花山稲荷神社 ホームページ2) 記事末尾に掲載の「花山稲荷神社」案内駒札 おこしやす”山科”協議会3) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p321補遺三条宗近 :ウィキペディア三条小鍛治宗近とお火焚 :「花山稲荷神社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ
2020.03.31
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「北花山」交差点から再び大石道を南進します。東側に朱色の鳥居が見えます。鳥居の右柱前に石標が立っていますが、撮った写真からは文字が判読できません。 小社が覆屋の中に祀られています。小社の正面に立ち、拝見すると「稲荷神社御祈祷守護」と記された木札が見えます。稲荷社です。 おもしろいと思ったのは、左斜め前にこの狸像が置かれていることです。稲荷社ですから、白狐像が対で置かれていますが、その傍に狸が居るという取り合わせがおもしろい! この稲荷社から少し先、右側(西側)に駐車場が見え、フェンスに京都市広報板が設置されています。下辺に「山科区市田町」と表記されています。この広報板が目印になります。通りを挟んで東側は北花山中道町です。こちら側で道路より少し東に入ったところが次の探訪地です。東側の建物の間に小径があります。右の写真はその小径側から駐車場と広報板を眺めた景色です。4665「遍照墓 宮内庁」と記された駒札が通りから最初に見えます。十数m、小径を入ると、大石道に面した一並びの建物群の東側に方形区画で陵墓に準じられた墓があります。元慶寺より西南に400mほどのところになります。 南面する門扉の左斜め前に、「桓武天皇 皇孫 遍昭僧正御墓」と刻された石標が立っています。 南西側の墓傍で撮った写真を合成しました。きれいな形の円墳墓です。 円墳墓の西側面と南東側から撮った景色です。ところで、今回ブログ記事をまとめていて気づいたことがあります。余談です。手許の『でか字まっぷ 京都』(昭文社)やインターネットの地図(マピオン、グーグル)を見ますと、この墓を「僧正遍照墓」(昭文社)、「遍照墓」(マピオン)、「桓武天皇皇孫遍照僧正御墓」(グーグル)というように、「遍照」と記しています。私自身も遍照と記憶し使っていた気がします。一方、昨日ブログ記事を書いていて、「遍昭」という表記に気づきました。手許の史跡関連参照資料及び百人一首に関する十数冊の本では、すべて「遍昭」で表記されています。また、国語辞典を「へんじょう」で引きますと、『広辞苑』(初版、岩波書店)は「遍昭」だけの表記ですが、『大辞林』(三省堂)と『日本語大辞典』(講談社)は「遍照・遍昭」と併記しています。遍昭と遍照が併用されているということを再認識した次第です。元に戻ります。遍昭僧正は六歌仙の一人、かつ三十六歌仙の一人です。『古今和歌集』冒頭の「仮名序」には、六歌仙の筆頭に僧正遍昭(昭の字が使われています)が挙げられています。そして、「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女(をうな)を見て、いたづらに心をうごかすがごとし」(歌の体(さま)は自分のものとしているけれども、真実な心の足りないところがある。たとえて言えば、絵にかかれてある美女を見て、その甲斐もないのに、空しく心を動かすようなものである)と、評されています。(資料1)前回ご紹介していますが、遍昭の俗名は良岑宗貞(よしみねむねさだ)で桓武天皇の孫。出家前に素性と由性という二人の子がいたようです。素性法師は前回触れています。仁明天皇に愛された宗貞は、嘉祥2年(849)には蔵人頭に昇進しますが、翌3年(850)仁明天皇の崩御にあたり、出家し遍昭と号します。「仁和元年(885)僧正。光孝天皇の信任を得、同年12月、仁寿殿に七十の賀を賜る。寛平2年没、75歳(816-890)。没年は74または76ともいう。」(資料1)古今和歌集への入集は17首です。872番に「あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ」の歌が入集されています。「五節のまひひめを見てよめる」という詞書きが付いていて、「よしみねのむねさだ」と詠者名が記されています。17首を調べてみると、俗名で詠んだ歌はさらに2首が入集(91,985)されています。つまり14首は出家後に詠まれた歌です。興味深いのは、僧正遍昭と明示されている歌と僧正へんぜうと明示されている歌の区別があることです。遍昭名が5首、へんぜう名が9首。意図的に使い分けたのでしょか。それとも、さして意味がないのでしょうか。いくつか抽出してご紹介します。僧正遍昭明示の歌より: 西大寺のほとりの柳をよめる あさみどりいとよりかけて白露を玉にもぬける春の柳か 27 深草のみかどの御時に、蔵人頭にてよるひるなれつかうまつりけるを、 諒闇になりにければ、さらに世にもまじらずして、ひえの山にのぼりて、 かしらおろしてけり。その又のとし、みな人御ぶくぬぎて、あるは かうぶりたまはりなど、よろこびけるをききてよめる みな人は花の衣になりぬなりこけのたもとよかわきだにせよ 847僧正へんぜう明示の歌より: はちすの露を見てよめる はちす葉のにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく 165 わがやどは道もなきまで荒にけりつれなき人をまつとせしまに 770こちらには、女郎花を詠んでいる歌があります。おもしろいので並べてみます。 題しらず 名にめでてをれるばかりぞ女郎花われおちにきと人にかたるな 226 秋の野になまめきたてる女郎花あなかしがまし花もひと時 1016 (資料1)遍昭僧正の歌いぶりは風流洒脱と評されているようです。(資料2)このブログ記事をまとめるにあたり、地図で確認していて気づいたのですが、冒頭の稲荷社は、僧正遍昭墓のある区画の北西角側に位置します。あの稲荷社の背後、南東側が僧正遍昭墓の所在地になります。 それでは、大石道をさらに南に歩みます。大石道の西側、北花山市田町の南隣りは上花山講田町です。 講田町区域の北東隅近くに、西方向の道路が先ず見えます。その先を眺めるとお寺の山門が開いていました。そこで、少し立ち寄って境内を拝見しました。山門前に、「遍照山福應寺」と刻された石標が立っています。應は応と同じです。 山門屋根の鬼瓦と菊花の飾り瓦 山門の屋根を支える蟇股はシンプルな形です。 山門を入ると、左側に鐘楼があり、その前に駒札が立っています。 斜め左前方に本堂が見えます。 本堂の正面に「遍照山」と記された扁額が掲げてあります。向拝の蟇股や木鼻はごくシンプルな造形です。駒札によれば、福応寺は遍照山清浄蓮院と号し、遍昭僧正の開基と伝えられるお寺ですが、創立は定かでないようです。六歌仙の一人である遍昭僧正が「かつてこの地で広く衆僧を集めて講席を開かれた。これが当山創立の由来である」(駒札より)とか。もとは天台宗に属したお寺ですが、改宗されて浄土宗のお寺になっていると言います。本堂外観を拝見しただけですが、浄土宗ですので本尊は阿弥陀如来ということになります。左脇檀には開山遍昭僧正の像が安置されているそうです。所在地は講田町です。「講田」とは、「中世、寺社で行う経典の講筵(こうえん)、祖師の讃仰などの講会の費用にあてるために設定された特定の田地」(『大辞林』三省堂)を意味します。この所在地名を考えると、当寺の開創の古さを推測することができます。 鐘楼前の駒札 本堂の屋根の獅子口の正面と棟の側面には、浄土宗の宗紋「月影杏葉(つきかげぎょよう)」のレリーフが見えます。(資料3) 本堂の左側前には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置されています。この像をなでて病気平癒を祈る信仰の対象になり、なでぼとけとして知られています。おびんずるさまと呼ばれたりします。賓頭盧とは、サンスクリット語の音写で、不動を意味するとか。「釈迦の弟子で、十六羅漢の筆頭。バラモン教の出身。涅槃の境地に入らず、この世で衆生を助ける存在とされる。」(『日本語大辞典』講談社) 本堂の右側前には、この歌碑が建立されています。 恋しくは たつねきてみよ福應寺 小松重盛 山しなの里 (恋しくば訪ね来て見よ福応寺小松重森山科の里)小松重盛とは平重盛のことです。平清盛の長子で、左近衛大将・内大臣になり、六波羅小松第にいたので、小松内府、小松殿と呼ばれ、また燈籠大臣とも呼ばれた人物です。後白河法皇が企んだ鹿ヶ谷隠謀事件のおり、清盛が後白河法皇を幽閉しようとしたときに、父清盛を諫めて、法皇の罪を不問としたと言います。治承3年(1179)病のために職を辞し出家します。同年7月29日に死去したと言います。平清盛よりも先に亡くなっています。(資料4) 本堂の北隣りに地蔵堂があります。 ガラスの嵌まった格子扉から拝見した地蔵菩薩像立像です。小松(平)重盛が福応寺に帰依した際に、念持仏としていたこの地蔵菩薩立像を寄進したと言います。(資料5)上掲の歌にリンクしてきます。境内を眺めてみます。まずは鐘楼の梵鐘です。 撞座の上の縦帯には、南無阿弥陀仏の名号が蓮華座とともに陽刻されています。 池ノ間には、下部には法名が列挙されていて、上部には雲上の天女がレリーフされています。 梵鐘をぐるりと巡って見ていて、一つの池ノ間に小さな孔が穿たれていることに気づきました。第二次世界大戦の折に、金属供出ということでこの梵鐘も供出されていた証拠です。その梵鐘が返却されたということでしょう。何故かと思っていたのですが、一つの説明を見つけました。梵鐘に当寺を開基した「遍昭の銘があったことから残され、戦後に寺に返却された」(資料5)とのこと。なるほどと思います。撮った写真を仔細に見ますと、小孔を穿たれた池ノ間の右斜め下に「開山 僧正遍昭」の銘が陽刻されているようにも思えますが、定かではありません。機会があれば再訪してみたい気がします。 山門を入った右側方向の手前に無縁墓を集めて祀った一画が設けてあります。中央には、小ぶりな阿弥陀仏石像が安置されています。 境内の北辺寄りに石造観音菩薩立像が建立されています。本堂前の境内をほぼ拝見したところで福応寺を出て、少し先の分岐点で左(東側)の下りの坂道が地図では大石道ですが、右(西側)の道路がほぼ真っ直ぐなのでこちらを下っていきました。北花山大林町を通り過ぎます。つづく参照資料1) 『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p3203) 浄土宗とは?~宗紋・宗歌について :「浄土宗」4) 平重盛 :「コトバンク」5) 福應寺 (京都市山科区) :「京都風光」補遺僧正 遍照 :「三十六歌仙・天井画(久城寺)遍昭 :「千人万首」福應寺◎浄土宗 :「全国善光寺会」 福応寺中興以降の略寺史も説明されています。平重盛 :ウィキペディア平重盛 :「ArtWiki」平重盛邸から池跡が初めて出土 清盛の長男 :「産経新聞」燈籠大臣 :「ArtWiki」遍照僧正墓【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ
2020.03.30
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渋谷街道から北方向への狭い道を歩むと、龍宮造りの山門が見えます。天台宗の寺院で、華頂山元慶寺(がんけいじ)です。天台宗としては珍しい形式の山門です。 山門に向かって右側には、「禁葷酒」と刻された石碑が建てられています。 山門屋根の棟と降棟には鯱瓦が置かれてます。 降り棟の鬼板には波文様がレリーフされています。右は棟の鯱瓦です。 降り棟の鯱瓦 山門には、仁王像ではなくて、向かって左に帝釈天像、右に梵天像が配置されているようです。現在、両像は京都国立博物館に出陳中という案内板が置かれていて、代わりに写真が掲示されていました。 千社札が一杯貼られています。梁は太くて頑丈そう、梁上の蟇股はシンプルな形です。 最近は千社札は貼付禁止となっていますので、これだけ貼られているのを見たのは久しぶりです。たぶんかなり古いものでしょうが、参拝者が多いことを物語っている気がします。私が訪れた時間帯では数名の参拝者を見かけただけでしたが。 山門を入って境内を眺めた全景です。本堂は左側にあり、参道を直進した先の建物の正面が納経所です。 参道の傍に「遍照僧正御墓」と刻された石標が立っていて、その傍に案内図が掲示されています。 本堂(薬師堂)は宝形造の屋根の建物で、本尊は薬師瑠璃光如来です。この薬師仏は遍昭作と伝えられているそうです。(資料1)また、遍昭自作と伝える木像も脇檀に安置されているとか。(資料1,2)障子に設定されたガラス窓から堂内を拝見できますが、細部までは見えづらいのが残念です。 この元慶寺は遍昭僧正が陽成天皇(57代)の降誕に際して発願し、天皇の母藤原高子により貞観10年(868)に定額寺と称して建立されたと伝えられています。遍昭僧正は、『古今和歌集』の序において、六歌仙の一人にあげられていることで有名です。元は現在地の西北にある花山山(かざんやま)の山上にあったそうですがその場所は不明とのこと(また、諸説あるとも)。元慶元年(877)に清和天皇(56代)の勅願寺となり、年号をとり元慶寺と改称されたと言います。寺格も高く、皇室の帰依もあつくて、多くの寺領をもち寺運が隆盛したそうですが、応仁の乱の兵火に遭い、衰退します。後に、現在地に元慶寺が再興されたという次第です。(駒札,資料1,2) 山門前に立つ駒札元慶寺が史上で有名になったのは、花山天皇が在位二年で、この寺にて出家されるという事件が発生したことによります。このとき花山天皇は19歳だったと言います。その経緯が『栄花物語』に記されているそうです。寬和2年(986)花山天皇が寵愛していた弘徽殿の女御忯子(ぎし)が死に、そのことを悲嘆した花山天皇は同年6月22日夜に宮中を忍び出て、この寺にて出家落飾してしまったのです。その背景には、外孫・懐仁(やすひと)親王の皇太子即位を画策する右大臣藤原兼家と道兼父子の策謀があったと言います。蔵人藤原道兼は、共に出家をと花山天皇が内裏から脱出するのを導き、花山天皇が落飾・出家したのを見届けると、己は前言を翻し理由をつけて寺から逃げ帰ったとか。藤原兼家は直ちに清涼殿の三種の神器を確保してしまいます。結果的に花山天皇は譲位し法皇となります。花山院です。その結果、幼少の一条天皇が即位し、藤原兼家が外祖父として摂政となるわけです。(資料1,2,3,駒札)元慶寺は花山寺(かざんじ)とも称されます。遍昭は元慶寺の座主となったときに、花山僧正と号したそうです。花山山の山上に寺があったからでしょうね。(資料1) 本堂屋根の鬼瓦と露盤宝珠 扉の上部左右に、薬師如来の御詠歌と花山院法皇の歌が掲げてあります。 薬師如来の御詠歌 南無薬師諸病なかれと願いつつ詣れる人ぞ平等にして (判読がまちがっているかもしれませんが。) 花山天皇の歌 有馬富士ふもとの霧は海に似て波かときけば小野の松風 向拝の木鼻と蟇股はシンプルな意匠です。寺紋は十六弁の菊花文で中央に元という文字が記されています。 本堂前の香炉の彫刻がおもしろい! 本堂の北隣りのお堂。その手前に「人皇六拾五代 花山院法皇 御落飾道場」と刻された石標がたっています。 屋根の鬼板と足元(鰭)の波濤文 納経所傍の竹垣前に咲く花々 本堂南側の景色です。 僧正遍昭の有名な歌の歌碑が建立されています。百人一首に入っている「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ」という歌(第12首)です。碑文の文字の使いかたは異なりますが・・・・。遍昭僧正がこの歌を詠んだのは、良岑宗貞(よしみねむねさだ)と名乗っていた出家以前の若い頃だそうです。桓武天皇の皇子大納言安世の子で、孫にあたるいわば名家の御曹司時代だとか。彼をかわいがってくれた仁明天皇が亡くなったとき、35歳で亡き天皇を弔うために僧になったと言われています。純情多感な時代に詠んだ歌だったのです。好色な僧侶ではございませんということですね。最後の地位や身分で作者名が表記されていることが、あらぬ誤解を生むことに・・・。(資料1,4) 右隣りも歌碑です。素性法師の歌が刻まれています。「今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな」というこちらも百人一首に取り上げられている歌(第21首)です。素性法師の父は僧正遍昭だそうですので、隣りに歌碑が立つのも納得できます。遍昭が出家する前にもうけた子だそうです。俗名を吉岑玄利(はるとし)と言ったそうですが、事実かどうかは定かでないとか。素性法師が出家したのは父遍昭の命令によるものだったそうで、出家後は雲林院に住み、歌合などで活躍した文化人です。三十六歌仙の一人でもあります。(資料4)雲林院(中世まで大徳寺境内にあった。紫野雲林院町の名が残る)もまた、僧正遍昭が創建したお寺だそうです。(資料1) こちらは、「元慶寺再興碑」です。獅子を台座とする記念碑です。「勅願所華頂山元慶寺再興碑記」という題名が記されて、漢文による碑文が綴られています。末尾に、寛政元年の冬12月25日という日付(寛政紀元歳次己酉冬十二月二十五日)が刻されています。「元慶寺再興第二世傳㳒大阿闍梨清淨金剛菩薩比丘亮雄謹撰」と記されていますので、元慶寺再興後の二世亮雄がこの撰文者ということになります。駒札によれば、寛政元年から同4年(1789~1792)にかけて、現在地に再興されたことになります。尚、本堂は江戸時代、安永年間(1772-1781)の再建とも言われています。(資料2) その南側、山門との間にこのあまりみかけない形の石造物があります。宝塔の一種かもしれません。 北側の面には、種子(梵字)が刻まれているようですが、私は判読できません。 花山法皇について、少し付記しておきたいと思います。出家して法皇となった後、修行の道を歩みます。書写山、比叡山、熊野などを巡歴し、また、兵庫県宝塚市に所在の中山寺を始め観音霊場の巡礼を行ったのです。奈良時代に徳道上人が西国三十三所観音霊場を創始しました。その後廃れつつあったのですが、花山法皇が観音巡礼を行うことにより、西国三十三所観音霊場巡礼が復興することになります。そこで花山法皇による中興という伝承が生まれたと言います。これが縁で、元慶寺は西国三十三所番外札所という扱いになっています。(駒札,資料5)元慶寺の御詠歌: 待てといわばいともかしこし花山にしばしと啼かん鳥の音もがな花山法皇が隠棲生活を送り崩御されたところは兵庫県三田市尼寺(にんじ)にある花山院菩提寺で、阿弥陀峰の山頂に所在するお寺だそうです。ここも西国巡礼番外札所の扱いになっています。(資料5,6)花山院菩提寺の御詠歌は上掲の花山天皇の歌だそうです。京都市北区に「花山天皇 紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」と治定された天皇陵があります。(資料7) 境内から眺めた龍宮造りの山門正面の建物の寺務所までの間の境内を拝見して、元慶寺を出ました。渋谷街道を北花山交差点まで戻り、大石道を南下します。つづく参照資料1) 『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 p59-602) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p319-3203) 花山天皇 :「ジャパンナレッジ」4) 『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人著 PHP文庫 p56-57,p805) 西国三十三ヶ所巡礼ガイド 番外・お礼参り :「札所0番」6) 花山院菩提寺 ホームページ7) 花山天皇紙屋川上陵 :「天皇陵」(宮内庁)補遺千社札 :ウィキペディア寺社への参拝記念「千社札」に迷惑の声も 「禁止」の明示がなければ貼って良いの? :「livedoor' NEWS」花山天皇 :ウィキペディア花山天皇 :「コトバンク」女性関係の事件にびっくりの奇行。わずか2年の天皇「花山天皇」の生涯とは?:「tabiyori」花山法皇の熊野御幸 :「み熊野ねっと」西国番外 華頂山 元慶寺 :「古墳のある町並みから」西国巡礼の中興の祖、花山法皇 隠棲の地 花山院菩提寺 :「寺社巡り.com」花山天皇 紙屋川上陵(京都市北区) :「京都風光」徳道 :「コトバンク」徳道上人 :「法起院」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ
2020.03.28
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23日(月)、快晴でしたので、地下鉄東西線の御陵駅を起点にして、運動不足の解消を兼ねて大石道を歩いてみました。日ノ岡の道路標識があるところに、三条通から大石道への分岐点があります。西野山地区にある大石神社、岩屋寺に至る道です。この道沿いに更に南下すると、勧修寺に至ります。今回は、大石神社・岩屋寺まで、この大石道を中軸にして探訪してみました。大石道(大石街道)とは、京都市道185号勧修寺日ノ岡線の別名です。(資料1) まずは日岡地区を道沿いに南下します。 最初に目に止まったのは、大乗寺への方向を示す標識です。右折し西方向に坂道を上る形ですが、この道が「旧東海道」です。赤矢印の下に明記されています。 さらに、少し進むと日ノ岡石塚町で道が分岐します。ここから北花山寺内町までバイパスができていて、車両は西側(右)の道路を迂回していくことになります。これが「新大石道」です。道路標識には、「この先車両通り抜け不可」と明記される道と国道1号へと明記される道との分岐で表示されています。この景色では左端になりますが、南へほぼ直進する道(旧大石道)を歩きます。(資料1) 南進してその理由がわかりました。北花山北部町のところで、JR琵琶湖線の線路の下を潜る地下道に突き当たるのです。山科エリアの旧東海道を探訪した最後にここを通り抜けたことを思い出しました。 地下道を通り抜けると、北花山東部第二町です。 少し進むと、石塚町で迂回した道路との合流点に至ります。 そこから少し先が「北花山」交差点です。ここで渋谷街道(府道116号)と大石道が交差しています。(資料2)この景色は交差点の南東側から撮りました。北西角に「花山交番」があります。余談です。渋谷街道(渋谷道)は、かつては「渋谷越」の名で平安の都への出入口として大きな役割を果たしてきました。渋谷は、滑谷(しるたに)、汁谷、瀋谷とも表記され、苦集滅路とも久々目路とも書かれたと言います。保元の乱(1156)では信西入道が固めるべき関宣旨した折、「・・・粟田口をば宗判官資行、久々目路をば平判官実俊、各々宣旨にしたがって、関々へこそむかはれけれ」という記述が『保元物語』のあるそうです。鎌倉幕府の六波羅探題が渋谷越入口付近に設けられたことから、この道の重要性が高まっていくことになったと言います。渋谷通は鴨川と平行する南北の通りの一つ、本町通が五条通に至る少し手前を起点としています。そして、五条~清閑寺~北花山~厨子奥~御陵まで一里十町の道だったそうです。御陵で三条通と合流して、江州大津へ通じる「東国路」となっていました。一方、花山からは、来栖野~勧修寺~小野~醍醐への別道がありました。『京羽二重織留』(元禄2/1689年)によると、三条、粟田口からの道よりも、むしろ渋谷越のほうが本来の順路であったとも記されていると言います。(資料3)「花山の地名の由来は、天智天皇時代には、華頂(かちょう)と呼んでいたが、平安京遷都の際に花山(華→花、頂→山)と称したと言われている。京都大学の花山天文台のある山(221・1メートル)は、今でも華頂山と言われたり花山山と言われたりもする。なお地元では通例、「花山(かさん)中学」と言うように、花山(かさん)と称する場合が多いが、文献で見る限りでは花山(かざん)と呼ぶことが多いようである。」(資料4)とのことです。元に戻ります。 この交差点の北東角に阿弥陀寺が位置します。このあたりが北花山寺内町です。 等光山を山号とする浄土宗のお寺です。知恩院11世の円智により創建されたと言います。(資料5) 本堂の正面には、この扁額が掛けてあります。「倶□堂」、中央の文字を私は判読できません。 山門を入ると、正面に本堂があり、これはその左側(西)の前庭部分です。ここで、一旦、大石道から阿弥陀寺前の渋谷街道を少し東に向かいます。 北花山交差点から渋谷街道を東に歩くわずかの距離の間、道の両側で3箇所お地蔵さまの小祠を見かけました。渋谷街道と大石道の辻に近いところですので、お地蔵さまが多く祀られているのでしょうか。 そして、道路の北側にこの案内標識を見つけました。めざすは元慶寺です。左側が渋谷街道から北方向に元慶寺へと向かう道になります。つづく参照資料1) 京都市道185号勧修寺日ノ岡線 :ウィキペディア2) 渋谷街道 :ウィキペディア3) 『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古院 p111-1134) 山科 地名物語(15)花山 :「鏡山次郎ホームページ」5) 山科・阿弥陀寺 :「神殿大観」探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都 山科を歩く -1 日岡:名号石・題目碑・京津国道車改良工事記念碑・車石関連諸史跡ほか探訪 京都 山科を歩く -2 日岡峠の旧東海道(地蔵尊の小祠・光照寺・大乗寺・量救水と亀の水不動尊ほか)探訪 京都 山科を歩く -3 崋山寺
2020.03.27
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酬恩庵(一休寺)の総門前から始めます。酬恩庵は薪と称する地域にあります。所在地で言えば、薪里ノ内102で、酬恩庵は西が高くなる傾斜地にあります。左の景色は総門に向かい右側(西側)の石垣です。北面の石垣から西方向への上りをイメージしていただけるでしょう。酬恩庵の前、北側は住宅地になっています。北東方向のエリアから「薪遺跡」が発掘されています。この辺りは古くから人々が定住し、開発されてきたようです。縄文時代:中期の竪穴式住居や土坑を検出し、近畿地方最大規模の石棒が出土した。古墳時代:古墳や竪穴式住居跡を検出。古墳の周濠から円筒埴輪や盾形・家形・甲冑形埴輪が出土した。古墳は奈良時代に削平され埋め立てられている。つまり、古墳は消滅。奈良時代:掘立柱建物や土坑を検出し、銅製帯金具や円面硯が出土した。13世紀 :大量のカワラケ皿や外来青磁・白磁、瀬戸内海や鎌倉で使用された石鍋などが出土している。薪荘を管理する石清水八幡の神人の館があった可能性がある。と言います。(資料1)石垣の前に立つ右の石標が目にとまりました。「能楽発祥の碑 → 西100米」と刻され、右肩に「薪神社」とあります。後で調べていて知ったのですが、酬恩庵総門前の道路の北側に、「薪能金春芝旧跡」の碑が建立されています。金春禅竹(1405~1470)がこの付近で、一休禅師に猿楽の能を演じ観覧に供したと伝えられていることによるそうです。また、応仁の乱で難を逃れて一休禅師が酬恩庵に居たとき、禅竹もまた薪の多福庵に移り二人の間に交流があったとされるとか。(資料2) 酬恩庵前の西方向への道が、薪神社への参道でもあるようです。 緩やかな坂道を上りきると、薪神社の境内地です。この境内地は通過点となり、神社の本殿までは行きませんでした。 この駒札が設置されています。明治40年(1907)に、この地にあった天神社と酬恩庵(一休寺)の地主神だった八幡宮が合併されて、「薪神社」となったそうです。(資料1,駒札)そのため、祭神は天津彦根命(天照大神の子)と応神天皇が祀られているとか。天神社の時代には、神宮寺として光通寺があったそうですが、明治初めの神仏分離令で廃寺となり、この寺の仏像等は「西光寺」に移されたそうです。(駒札より) 境内地に「能楽発祥の碑」が建立されています。台座の岩(右横)に碑文が刻されています。「能楽は薪能即ち金春能に初まり 次に宝生能 観世能は大住に 金剛能は大和に発祥した 昭和六十一年十一月文化日 文学博士 志賀 剛」古くは神事芸能として出発した猿楽・田楽から、平安時代以降に演劇・歌舞を中心に猿楽能・田楽能が発展します。各地で競い合うように演じられたようです。15世紀以降は、大和猿楽四座が急速に他のすべてを圧し去ることになります。室町時代に結城座(後の観世座)から出た観阿弥・世阿弥親子が将軍足利義満に見出され、将軍家の保護をうける過程で芸術性の高い能(能楽)の確立へと発展していくことになります。その結果、能は北山文化を代表する芸能になります。(資料3)薪能は元は神事能の一つです。「毎年、陰暦二月、奈良興福寺の修二会で演じられ、室町時代には大和四座が勤めた。明治維新で廃絶したが、第二次大戦後復活。近年は、夏の夜、篝火をたいて行う各地の野外能もこうよばれる」(『日本語大辞典』講談社)大和四座とは、興福寺を本所とした観世座(結城座)、宝生座(外山座)、金春座(円満井座)、金剛座(坂戸座)を言います。結城座の興隆とともに他の三座も栄えていきます。江戸時代にはこの四座が公認された流派となり、後に喜多流が加えられ5つの流派となります。現在もこの5流派が能を演じています。(資料3,4)脇道に逸れます。以前に、京田辺市の大住を探訪しました。月読神社の境内に「宝生座発祥の地」の碑が建立されています。こちらからご覧ください。また、ネット検索で調べてみて知ったことをご紹介します。(資料5) 薪能金春発祥地碑 奈良県奈良市登大路町 興福寺境内 宝生流発祥之地碑 奈良県桜井市大字外山 宗像神社手前の小公園内 観世座発祥の碑 京田辺市大住虚空藏谷 観世発祥之地碑 奈良県磯城郡川西町結崎 面塚公園内 金剛流発祥之地碑 奈良県生駒郡斑鳩町龍田1丁目 龍田神社境内元に戻ります。 薪神社の北方向に位置する西光寺に向かいます。 西光寺は山号を霊松山と称し、浄土宗のお寺です。1575年(天正3)に西光比丘(さいこうびく)により中興開山されたと伝わるそうです。(資料1,6) 本堂は1933年に再建。(資料6)上記の光通寺が廃寺になるのに伴い、木造十一面観音立像・不動明王像・毘沙門天立像他が当寺に遷されたそうです。今回堂内は拝見していません。(資料1) 直接の探訪目的は、境内墓地の一隅に置かれたこの石造層塔を拝見することでした。 初層の塔身には金剛界四仏の種子が彫り込まれています。金剛界四仏とは、阿弥陀如来(西)、阿閦(あしゅく)如来(東)、不空成就如来(北)、宝生如来(南)です。(資料7) 13世紀に建立された層塔と推定されています。(資料1) 墓地には無縁墓が集められてピラミッド状に置かれた中央の高みに石造地蔵菩薩立像が安置されているのが目に止まりました。 この探訪最後の目的地に向かう時に目に止まった「甘南備山案内板」です。この案内板の掲示地点から甘南備山(南西方向)-この図では右斜め上-の山頂まで2kmと表記されています。マゼンタ色の丸を追記した辺りに西光寺が位置します。最後の目的地は、この案内板からほど近いところでした。 薪小学校の校門傍がその最終探訪地点です。 校門のコンクリート壁のすぐ内側にその目印となる石標が立っています。 この小学校が建つ小高い場所が「堀切古墳群跡」でした。薪神社の南側に位置します。 石標の背後にこの駒札が立っています。古墳時代後期から終末期(6世紀後半~7世紀前半)の円墳10基、横穴墓10基からなる古墳群跡だそうです。1号墳は直径22mの円墳で主体部は横穴式石室。床面に排水溝があり、礫床から家形石棺破片が出土したそうです。7号墳からは顔に直弧文の入れ墨がある人物埴輪が出土。11号墳は直径11m以上の円墳で、こちらも横穴式石室。土師質亀甲形陶棺の破片がみつかっていると言います。(資料1)駒札には、横穴墓から出土した凝灰岩製の組合式家形石棺は、現在市立中央公民館裏庭に展示されている旨記されています。薪小学校と東に位置する酬恩庵(一休寺)との間から南にかけての丘陵地は今では住宅地域が広がり、一休ケ丘と称されています。この住宅地域のメインロードを南に下り、左折して道沿いに東に進みます。府道22号との交差点、尼ヶ池の側を通り、甘南備寺に向かう時に天井川の手前で見たお地蔵さまの小祠のところに戻ってきました。 田辺西垣内の一隅です。ここからJR京田辺駅まではあと少しの距離です。この探訪の田辺・薪エリアの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 龍谷大学REC「京都の歴史散策38 ~田辺を歩く~」 講座レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成 2020.2.27)2) 薪能金春芝旧跡 :「京田辺道中記」3) 『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥飼編 山川出版社 p1974) 『謡曲集 上』日本古典文学大系 岩波書店 p55) 発祥の地コレクション ホームページ6) 西光寺(京都府京田辺市) :「京都風光」7) 『図説歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p339補遺京田辺市 ホームページ 観光パンフレット 京田辺市内の指定文化財薪遺跡 遺跡ギャラリー :「京都府埋蔵文化財調査研究センター」薪遺跡発掘調査概報 :「全国遺跡報告総覧」堀切遺跡発掘調査報告書 :「全国遺跡報告総覧」薪神社 :「京田辺道中記」薪神社(京田辺) :「戸原のトップページ」金春禅竹 :ウィキペディア金春禅竹 :「コトバンク」円満井座(えんまんいざ) :「コトバンク」外山座(とびざ) :「コトバンク」結崎座(ゆうざきざ) :「コトバンク」坂戸座(さかどざ) :「コトバンク」喜多流 :ウィキペディア金春円満井会 ホームページ宝生会 ホームページ観世流 KANZE.net ホームページ金剛能楽堂 ホームページ喜多能楽堂 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -1 新田辺駅から棚倉孫神社に へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -2 西念寺・安養寺・薬師堂・田辺城・甘南備寺 へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -3 酬恩庵(一休寺) 総門・浴室・一休禅師墓所・本堂・開山堂ほか へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -4 酬恩庵(一休寺) 虎丘庵・東司・庫裡・方丈と方丈庭園・鐘楼 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -1 天神社、仲谷古墳群、女谷・荒坂横穴群、松井横穴墓群 4回のシリーズでご紹介。その第3回に上記の月読神社を掲載しています。
2020.03.10
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方丈と庭園を拝観するために、中門(No.13)まで戻ります。中門を内側から撮った景色です。中門(京都府有形文化財)は江戸前期のものだとか。 中門の表には、左側に「名勝 酬恩庵庭園」と刻した石標が立ち、右側に庭園の案内板が設置されています。 中門を入ると、下りの石段道が続きます。正面の一段低いところに庫裡(No.14)が見えます。丘陵地の斜面に境内地が広がっていることが一番わかりやすい場所です。 右側に目を転じると、築地塀の向こう側に「虎丘庵」(No.7)の檜皮葺きの屋根が見えます。一休禅師が応仁・文明の乱で避難するときに京都の東山のふもとから移した建物。かつては、一休禅師が森女と住んでいたといいます。今は茶室となっているそうです。二畳の水屋と、六畳、三畳の小部屋だけの小さな茶室だとか。京都府有形文化財に指定されています。前庭は村田珠光の作庭と伝わる禅院枯山水庭園だそうですが、この一画は非公開になっています。(資料1,2) 虎丘庵の北側は境内地が一段下がり、唐門が見えます。ここが方丈(No.15)への玄関です。方丈及び玄関は国の重要文化財(以下国重文)に指定されています。 庫裡の手前、左側にこじんまりしたこの建物があります。「東司(とうす)」と称され、禅寺ではお手洗いのことを意味します。昔の状態そのままの姿で現存し、国重文に指定されているのは全国でも数が少ないそうです。勿論今は立入禁止で、保存されている建物です。(資料1,3) 庫裡(国重文)の入口から入ります。前回ご紹介した浴室と同様に、海老虹梁が目にとまりました。庫裡に入りますと、土間には竃(かまど)や水甕があり、あがると正面に囲炉裏があります。(資料4)庫裡から廊下伝いに方丈に向かいます。 方丈は南面していて、正面の観音開きの桟唐戸の上部に、「酬恩庵」と記された扁額が掲げてあります。建物内部は撮影禁止。方丈は入母屋造、檜皮葺きの大きな建物です。間口(東西方向)18.01m、奥行(南北方向)11.85m、背面中央部に3.52m四方の張出部分があります。東西に3間、南北に2間の6部屋構成で、回廊と外縁が廻っています。中央部の奥が仏間です。(資料5)方丈に進むと、南東側の最初の間には、一休禅師が晩年に使用したとされる輿(こし)が展示してあります。方丈中央の内陣に一休禅師木像が安置されています。また、方丈の襖絵は狩野探幽筆によるものですが、ゆっくりと眺めているゆとりがありませんでした。方丈の南・東・北の3方向を庭園が囲み、国の名勝庭園に指定されています。ここからは、この方丈庭園を中心にしたご紹介です。 方丈の前庭(南庭)の西端に、上掲の唐門の玄関から続く瓦敷きの廊下が設けられています。南東角に立って眺めますと、正面に虎丘庵の檜皮葺き屋根が見えます。 廊下は唐破風の屋根になっていて、鬼板には菊花が浮彫にされていて、蟇股にも菊を透かし彫りにしてあります。 南庭は白砂が敷き詰められ、ソテツが植えられた禅苑庭園です。サツキが刈り込まれ、サザンカが植えられています。宗純王廟と虎丘庵が前方に並びそれらの屋根だけが見える位の高生垣が南庭の背景を兼ねた仕切りになっています。方丈・庫裡・東司・鐘楼と前回ご紹介した浴室は、慶庵3年(1650)から5年をかけて、加賀藩主前田利常が再建あるいは新築したものと言います。この方丈庭園は、同じく江戸初期に造庭され、文人の松花堂昭乗、詩仙堂を建てた石川丈山、淀藩家老で文人の佐川田喜六の3人が合作で作庭したと伝えられています。(資料1,5,6) 甎(せん)を四半敷きにした上掲廊下に立って南庭を西から眺めた景色です。 南庭の東端手前に井戸があります。この白砂の筋目は水の流れを表象しているのでしょうか。 方丈の南西隅の回廊に佇み、方丈玄関の方向を眺めた景色です。 東庭は、築地塀と方丈との間の細長い空間です。ここは、石組みを多用することで、十六羅漢の遊行を表しているそうです。(資料1,6)お釈迦様の16人の弟子が巡り歩いて修行する様を表象しているということでしょう。遊行は行脚と同じ意味あいです。 東庭の北端は、北庭の東の始まりです。 北庭はその北東隅に約2mの巨石を使った石組みで枯れ滝落水が表現された枯山水庭園となっています。この雄大な石組みを蓬莱島・蓬莱山と見立てることもできるでしょう。小ぶりな石塔が目に止まります。(資料1,6) この北庭の遙か遠くには木津川が流れ比叡山が位置します。それらが雄大な借景に取り入れられているのかもしれません。庭の構図は大きく広がります。 方丈北面中央部の張り出し部分です。位置的には仏間のさらに奥側ということになります。何に使われている空間なのでしょう・・・・。 張り出した外縁の角から眺めると、また北庭の景色が変わります。 張り出し部分の外縁を回り込むと、北庭の西半分に移ります。 北庭の上掲東半分の続きでもあり、こちら半分が独立した庭空間にも見えます。 方丈の西面と庫裡の東面との間の空間です。 庫裡側から、方丈の北西側を眺めた景色です。 庫裡の入口に戻る途中で撮った庭空間の景色。正確な位置関係は覚えていません。 そして庫裡を出て、順路の指示に沿って行きます。 袴腰の付いた鐘楼(No.17)の傍を回り込んで、最初に歩んだ参道のさらに南側を東に進み、浴室の近くに戻るというルートになります。 逆に、西の方向に進む通路も見えます。こちらは「旧墓地」に至る道です。「能楽観世流三代音阿弥元重、十五代元章、十九代清興、江州観音寺城主佐々木承禎、茶人寸松庵等禅師の遺徳を慕ってこられた名士の墳墓がある」(資料7)とのことです。 この鐘楼は上記の通り新築されたものだそうです。(資料7) 鐘楼を回り込むと、少し先にこの像が置かれています。まさに「ひとやすみ」というところでしょうか。 道沿いに進むと、浴室の傍に出て来ました。これで酬恩庵(一休寺)の探訪が終わりました。今回の探訪も、いよいよ最終段階になります。つづく参照資料1) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p42-442) 虎丘庵 :「酬恩庵一休寺」3) 東司 :「酬恩庵一休寺」4) 庫裡 :「酬恩庵一休寺」5) 龍谷大学REC「京都の歴史散策38 ~田辺を歩く~」 講座レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成 2020.2.27)6) 方丈庭園 :「酬恩庵一休寺」7) 境内案内 :「酬恩庵一休寺」補遺一休宗純 :「ジャパンナレッジ」薪の里の一休さん :「酬恩庵一休寺」一休宗純 狂雲集 :「松岡正剛の千夜千冊」一休さん(一休宗純) :「仏教ウエブ入門講座」[一休宗純と女]人気の僧侶は型破りな破戒僧だった!? :「歴人マガジン」「一休宗純」の生涯とは?人物像と漢詩・著書から名言も紹介 :「TRANS.Biz」住吉大社で森女と邂逅 溺る一休 :「きままな旅人」松花堂昭乗 :「コトバンク」松花堂昭乗という人 :「石清水八幡宮」石川丈山 :ウィキペディア石川丈山の草庵「詩仙堂」 :「KYOTOdesign」佐川田昌俊 :「コトバンク」「佐川田喜六昌俊〜没後370年」イベント :「歴史探訪京都から-旧木津川の地名を歩く会-」前田利常 :ウィキペディア前田利常 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -1 新田辺駅から棚倉孫神社に へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -2 西念寺・安養寺・薬師堂・田辺城・甘南備寺 へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -3 酬恩庵(一休寺) 総門・浴室・一休禅師墓所・本堂・開山堂ほか へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -5 薪遺跡・薪神社・能楽発祥の碑・西光寺・堀切古墳群跡 へ
2020.03.08
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地図に紫色の丸を追記したあたりに前回ご紹介した甘南備寺があります。甘南備寺の表門を出た後、一休とんちロードに出て、西に向かいます。府道22号の交差点を横断して西に少し進めば、酬恩庵(一休寺)です。 北向きの酬恩庵の総門。酬恩庵は臨済宗のお寺です。一休禅師が晩年を送った寺であることから「一休寺」と通称されています。 築地塀の壁面には、定規筋の白線が4本引かれています。総門に向かい右側(西側)は石垣が積まれています。緩やかな傾斜地にお寺の敷地があります。 総門を入ると、南に真っ直ぐ参道が延び、右側には「酬恩庵一休寺全景」図が設置されています。 探訪対象の位置関係をわかりやすくするために、全景図に番号を追記してみました。上掲の総門(No.1)を起点とします。 左側でまず目にとまったのが、一休禅師筆による「七仏通戒偈」の銘板を嵌め込んだ「一休和尚碑」(No.2)です。「諸悪莫作 衆善奉行」の偈が記されています。 傍にこの駒札があります。お釈迦様を含め、既に亡くなっている過去七仏が語り伝えた普遍的な教えが「七仏通戒偈」であり、上記の語句には、「自浄其意」(すると心は清らかになる)、「是諸仏教」(これが仏様の教えです)という語句が続くそうです。(資料1) 碑の少し先に、手水舎(No.3)があります。 緩やかな坂になった参道を進むと、最初に目にするのが「浴室」(No.4)です。 「浴室」と陽刻された扁額の上部に見える蟇股の透かし彫りがいいですね。鴛鶯を表しているのでしょうか。 正面の扉は桟唐戸で、上部は菱狭間でその背後に格子が付けてあります。柱の下には礎盤が設けてあります。扉の上の欄間は一般的な波形ですがリズミカルな感じです。海老虹梁は禅宗寺院の庫裡でもよく見かけます。いつみてもおもしろいと感じます。 正面の右前に見えるのがこの駒札です。正面三間、奥行五間で切妻造本瓦葺の屋根です。屋根の合掌部が見える側面が正面ですので、妻入りの建物です。酬恩庵の所在地は「薪里の内」ですので、加賀の前田利常は大阪冬の陣にこのあたり一帯に布陣した時期があったということでしょう。その折りに、宿舎としてこの酬恩庵を借り受けたのでしょうね。大阪冬の陣は日本史の年表を参照すると、慶長19年(1614)10月です。1650年(慶安3)にこの浴室が新築されたということは、江戸幕府の基礎が整い、泰平の世に歩み出した頃に、前田利常がかつての御礼として寄進貢献したことを意味するのでしょう。加賀藩第3代藩主前田利常は、1650年から5年をかけて、室町時代の面影を伝えつつ、方丈や仏殿などを再建し、伽藍を整えたと言います。(資料2) 浴室の隣りに「絵馬奉納所」があります。 参道の突き当たりに、「三本杉」(No.5)があります。元は一休禅師手植の杉だそうですが、一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉という伝えもあるそうです。現在は1965年秋に植樹された二世の杉が大きくなっています。このところで右折します。 参道を少し進むと、右側(北側)に「一休禅師墓所」(No.6)の門が見えます。門扉に菊花の紋章が付され、宮内庁の文字が見えるのは、一休禅師(一休宗純)が後小松天皇の皇子であることにより、ここは陵墓として管理されているからです。 菊花の花弁越しに見える建物は駒札によると現在は「法華堂」と称されると記されています。内部に一休禅師の卵塔が安置されているそうです。前面の庭は村田珠光の作庭と伝わるとか。尚、酬恩庵一休寺のホームページを見ますと、境内案内に「宗純王廟」と表記されています。一休禅師は文明7年(1475)に、先立って寿塔を建立し、文明13年(1481)11月21日に当寺で示寂されたということですので、さすがですね。(駒札より) 次回にご紹介する中門(No.13)の少し先から、参道を振り返り浴室の方向(東)を眺めた景色です。右側に見える指示板は「帰り道」を表示しています。順路が決めてあります。春秋には訪れる人が多いのでしょう。まずは、本堂に向かいます。本堂の区域は白壁の築地塀で区切られていて、まず門(N0.8)が見えます。 門を入ると、正面に本堂(no.9)が見えます。 本堂大徳寺を開山した宗峰妙超の師が大応国師南浦紹明です。南浦紹明が正応年間(1288-1293)この地に妙勝寺を開山しました。ところが、元弘の兵火(1331-1334)で焼失してしまいます。元弘の変が、後醍醐天皇と鎌倉幕府の間での政争確執の始まりです。つまり南北朝時代の幕開けです。1331年9月には楠木正成が後醍醐天皇方として挙兵しています。一休禅師は紹明の6世の法孫にあたるそうです。そこで、焼失した寺を康正2年(1456)までに再興し、大応国師の恩に報いるために、「酬恩庵」と号したとされています。(資料2,3)一休禅師は81歳で大徳寺47世を継承し、この寺から通ったそうです。(資料4)この本堂(重文)は、一休禅師による再建期、永享年中(1429-1441)に将軍足利義教により建立されたと言われています。(資料3) 本堂内部 正面の扉上に、この扁額「祈祷」が掲げてあります。 屋根は入母屋造、檜皮葺きの禅宗様建築です。正面中央に桟唐戸、両脇に花頭窓を付け、両側面にも桟唐戸があります。組物は出組の形式です。柱上には台輪が付いています。 本堂に向かって右側の奥には、一休禅師立像(No.10)が建立されています。 本堂の背後で、一休禅師像の近くだったと思いますが、この石標が設置されています。「開山大応国師妙勝寺𦾔蹟」と判読しました。このあたりに、元の妙勝寺が建立されていたということでしょう。 本堂の北西方向に「開山堂」(No.11)があります。重層入母屋造瓦葺きのお堂です。堂内には、木造大応国師坐像(京都府登録)が安置されていて、像の裳裏には、一休禅師が1456年(康正2)に造立したことが刻まれていると言います。(資料2) 開山堂の南西側に、この橋が架けてあり、一休さんの話にでてくる文言「このはしわたるべからず」と記した駒札が立っています。たぶん中央を渡ればお咎めなしですよね・・・・。時間がなくて、試してはいません。 橋の手前左側にこの「一休さん」像(少年一休像)も建立されています。 本堂の西側、池垣の向こうには長方形の池があります。このあたりが境内地の端になるようです。 少し興味深い石標を近くで見かけました。 「採火地 一休寺 火の名称 甘南備の火 採火方法 灯明 」と刻されています。これは何を意味しているのでしょう・・・・・。少し調べてみましたが不詳です。 開山堂の東側に「宝物殿」(宝蔵)があります。内部はこじんまりした広さですが、酬恩庵の寺宝ほかが展示されています。一休禅師の頂相(肖像画)や遺偈(京都府指定文化財)などの墨蹟他を拝見できます。一休禅師の遺偈として己の境地を述べた漢詩は次のとおりです。(資料5) 須弥南畔 須弥の南畔 誰会我禅 誰か我が禅を会す 虚堂来也 虚堂(きどう)来るもまた 不直半銭 半銭に直(あたい)せず 東海純一休 東海純一休この大意は、「この世の中で誰が一休の禅を理解できるものがあろうか。たとえ私が最も尊敬している虚堂和尚が一休の前に来たとしても半銭の値打ちもないだろう。一休の禅は一休だけのものであって、自分が死んでしまえば誰もその禅を本当に理解することは出来ない。つまり、今の私の境地には虚堂和尚もかなわない。」(資料6)だそうです。虚堂とは、虚堂智愚(1185-1269)のことで、中国・南宋時代の禅僧です。晩年に径山万寿寺第40世住持となり、臨済宗松源派の高僧だそうです。上記の南浦紹明は、虚堂の印可を受けて帰国し、大徳寺・妙心寺の禅の直系の祖となった禅僧です。つまり、一休にとっては、師のさらに師にあたるわけです。(資料7)一休禅師が遺偈でどれだけスゴイことを言い放っているかがわかります。 本堂のある境内地から参道を戻り、方丈の拝観に向かいます。 本堂への門を出る前に、築地塀の外側にある鐘楼(No.17)が目にとまりました。つづく参照資料1) 七仏通戒偈 :「Flying Deity Tobifudo」2) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p42-443) 龍谷大学REC「京都の歴史散策38 ~田辺を歩く~」 講座レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成 2020.2.27)4) 『京都府の歴史散歩 下』 山本四郎著 山川出版社 p173-1745) 遺偈 :「24hr Donuts」6) 一休寺の名勝・文化財 :「酬恩庵一休寺」7) 法語(破れ虚堂):「e國寶」補遺酬恩庵一休寺 ホームページ酬恩庵一休寺 :「京田辺道中記」一休宗純 :「コトバンク」#38 風狂の破戒僧 一休宗純 :「BS-TBS番組表 THE 歴史列伝」一休宗純 ?とんちで知られる一休さんの生涯 :「京都トリビア× Trivia in Kyoto」前田利常 :ウィキペディア蜷川新右衛門 :ウィキペディア「一休 その破戒と風狂」:「分け入っても分け入っても本の山」虚堂智愚 :「コトバンク」虚堂智愚(きどうちぐ) :「遠州流茶道 綺麗さびの世界」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -1 新田辺駅から棚倉孫神社に へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -2 西念寺・安養寺・薬師堂・田辺城・甘南備寺 へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -4 酬恩庵(一休寺) 虎丘庵・東司・庫裡・方丈と方丈庭園・鐘楼 へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -5 薪遺跡・薪神社・能楽発祥の碑・西光寺・堀切古墳群跡 へ
2020.03.07
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棚倉孫神社を出て、交通量の多い道路を避けて、住宅地の中の道を辿って「西念寺」に向かいました。その途中でお地蔵さまを見かけました。ここもコンクリート製の小祠です。ま新しい感じの供花です。地元の人々のお心が伝わってきます。田辺の町並みを南北に通る旧奈良街道は京都府道22号八幡木津線でしたが、今は府道22号が薪茶屋前で南西に迂回し手原川橋の所でJR学研都市線とほぼ平行に南下するバイパス道路に変更されたようです。田辺地区の地図を見ますと、奈良街道(歌姫越)の西に府道22号、東に学研都市線が並行している形になります。そして、JR京田辺駅の南を東西方向に通じる道路は東に進むと宇治田原に至る「田原道」です。また、府道22号と奈良街道は、京田辺市役所の南側で東西に通る国道307号と交差します。この国道307号はかつての河内街道に相当するそうです。(資料1,2)奈良街道と田原道の交差する辻の南西側に、二番目に訪れた「西念寺」が位置します。交通の要衝地に位置するお寺になります。地図(Mapion)をご覧いただくと、位置関係がわかりやすいでしょう。こちらからご覧ください。 西念寺は向旭山という山号を持つ浄土宗のお寺です。文禄4年(1595)の創建と伝わります。(資料3)本堂は近年再建された新しい建物です。それに合わせて本尊の阿弥陀三尊像も修復されていて輝いていました。お話では、以前は左右の脇陣に千躰佛が安置されていたそうですが、本尊の修復後は光背の後方に二つ目の光背のような形に安置されています。西念寺のホームページのトップページをご覧になると、本堂の全景と本尊等が開示されています。(資料4)今回の探訪では、本堂の左脇陣に安置されている阿弥陀如来立像を拝観するのが、直接の目的でした。明治の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたせいでしょうか、近隣寺院が西念寺に併合されたようです。その本尊とみられ、鎌倉時代14世紀の造立と推定される像です。京田辺市文化財に指定登録されています。この仏像もホームページに開示されています。(資料3,4,5) 本堂に向かって、左側に宝形造の屋根のお堂が並んでいます。 お堂の前方にある鐘楼。梵鐘の浮彫はなかなか興味深いものです。 記憶では境内の一隅だったと思いますが、お地蔵さまの小祠です。 西念寺を出た後、南側に隣接する安養寺の前を通り、京田辺市役所の方向に向かいます。安養寺は西山浄土宗のお寺です。天正年間(1573-92)の開基と伝わるそうです。 住宅地の中を南下していくと、竹ノ脇池があります。けっこう大きな池です。池の東辺を歩いている時に撮った写真をパノラマ合成してみました。後で地図を確認しますと、左の建物は中央体育館です。 こちらは池の南辺に回り込み、東側を眺めた景色。池の南側を馬坂川が流れています。右の景色がその川です。 市役所などが集合した区域にほど近いところにある「薬師堂」を訪れました。もと東光寺の仏堂だったそうです。堂名の通り、薬師如来坐像が祀られています。(資料3) 私にとり印象深かったのは、地蔵石仏などが数多くこのお堂の傍に安置されていることでした。京都市でみられるように、ここもこの京田辺市の市街化、宅地開発などにより、同様に石仏が集まってきた場所になるのでしょうか。 京田辺市役所の傍を通り過ぎ、多目的広場への石段を上がる時に目にとまったのがこの手水鉢です。 この案内板が設置されています。 この広場から西方向にある丘陵地を眺めました。この尾根上に2郭以上が連なる「田辺城」があった場所だそうです。探訪時間の関係で現地には行けなかったのですが、発掘調査が行われていて、その報告書が作成されているとのこと。「堀切・土塁が確認でき、発掘調査により排水遺構や石組遺構、礫敷遺構などが確認され、遺物から15~16世紀に機能したと推定される」(資料3)とのことです。また興福寺の記録には、文明2年(1470)「田辺武藤之館」攻撃と自焼記事があると言います。(資料3) 中央体育館の西側を通ります。東の方向に池を眺めた景色です。地図を見ますと、通路の西側には、南からスケートパーク、健康広場、野外ステージが設けられているエリアです。 その北側の丘陵地の通路を上ると、墓地があるようです。デジカメでズームアップすると入口に六地蔵の一部が見えます。 田辺西垣内の住宅地域を抜けて北に歩むと、再び高津神川の天井川を越えることになります。天井川の手前にもお地蔵さまの小祠がありました。ここもコンクリート製の小祠です。 高津神川甘南備寺の境内には南側(裏手)から入りました。 境内で最初に目に止まったのがこの地蔵堂です。 北方向には龍宮門が見えます。こちらが表衛門になります。 甘南備寺の本堂です。黄檗宗のお寺です。 禅宗のお寺ですが、この本堂の内部は禅宗様になっていますが、建物の外観は禅宗様式がみられない建物です。正面の右側に「かいせつ」が掲示されています。写真を撮りましたが鏡面反射があり読みづらいので、解説文を転記してご紹介します。「奈良時代の僧行基の創建と伝える元甘南備寺は、甘南備山頂東側にあった。甘南備山は、雌雄ニ山よりなる二上(にじょう)形式の山で、古来より神の御座所とされ、延喜式で小社に列せられた甘南備神社がある。この神社の神宮寺と称される元甘南備寺は、堂塔伽藍を供え、『今昔物語』にも『甘南備寺の聖人の話』が記されている。しかし、創立以来久しく風雪に耐えた堂塔も自然不朽し、交通不便で維持困難なため、元禄2年、薪の住人吉川政信氏らが協議し、黄檗二代木庵恵明国師の法系鉄堂禅師を請じて現在地に移転した。 現在、黄檗宗医王山甘南備寺として、瓦葺き宝形造の本堂に、平安初期の天台僧慈覚大師の作と伝えられる本尊薬師瑠璃光如来坐像、日光・月光菩薩他多くの仏像を祀る。 本尊は耳の仏として今も信仰が厚い。尚、昭和初期、十一代大雄和尚は黄檗宗管長となられ、また『薪騒動』の三村五郎の墓の墓もある。」 境内から眺めて 龍宮門を正面から眺めた景色 禅宗寺院の山門前にある警告文「不許葷酒入山門」碑がここにも設置してあります。葷酒(くんしゅ)山門に入るべからず!!葷酒とは「にら・にんにくなどと酒」(『角川新字源』)のことです。 北側の正面からこの寺を訪ねると、最初にこの駒札を目にすることになります。最後に、甘南備山についてです。「かんなび(神奈備)」は「かむなび(神奈備)」であり、その意味は「神道で、神の鎮座する場所。山や森、小さな茂みなどの神聖な場所をいう。かんなび。」(『日本語大辞典』講談社)です。神南備とされる場所は各地にあります。甘南備山もまた、神奈備であり、神山とされています。なぜか?この山は平安京朱雀大路の延長線上に位置する山であることから、神山と見做されたと言います。(資料3)上記のとおり、甘南備山は二上形式で、東の「雄山」が221.0m、西の「雌山」が201.6mで、山頂には展望台が設置されていて、京田辺市が一望できるそうです。現在はハイキングコースも設置されています。「かつて平安京が定められるとき、この山を南の基点として、北の船岡山と結ぶ直線を都の中心軸に、大極殿、朱雀門、朱雀大路、羅生門などを建設したといわれている。」(資料6)とのこと。調べてみますと、甘南備山は 北緯 34度48分38秒45 東経 135度44分41秒21 です。(資料7)一方、船岡山には、三等三角点が設置されていて、 北緯 35度2分8秒756 東経 135度44分40秒417 です。(資料8)この後、いよいよ酬恩庵(一休寺)に向かいます。つづく参照資料1) 京都府道22号八幡木津線 :ウィキペディア2) 京田辺市田辺の町並み 3)龍谷大学REC「京都の歴史散策38 ~田辺を歩く~」 講座レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成 2020.2.27)4) 西念寺 ホームページ5) 京田辺市内の指定文化財6) 甘南備山(かんなびやま) :「京田辺道中記」7) 京都府京田辺市薪甘南備山 :「MapFan」8) 京都・船岡山公園の頂上は「大文字が見える三等三角点」:「kikoがスタート」補遺京田辺市 ホームページ 観光パンフレット 奈良街道 :ウィキペディア奈良街道(京都府) :ウィキペディア宇治田原道の碑 :「おがちい散歩」河内街道 :ウィキペディア河内街道コース 枚方市 :「localwiki」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -1 新田辺駅から棚倉孫神社に へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -3 酬恩庵(一休寺) 総門・浴室・一休禅師墓所・本堂・開山堂ほか へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -4 酬恩庵(一休寺) 虎丘庵・東司・庫裡・方丈と方丈庭園・鐘楼 へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -5 薪遺跡・薪神社・能楽発祥の碑・西光寺・堀切古墳群跡 へ
2020.03.05
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2月下旬に、「田辺を歩く」という歴史散策講座に参加しました。その記録のまとめを兼ねたご紹介です。集合場所はJR学研都市線「京田辺駅」なのですが、近鉄の新田辺駅から向かいました。駅前には冒頭のモニュメントがあります。「とんちばし」「たなべいっきゅう」と刻された円柱石が左右に立ち、ちいさな子供姿の一休さんがちょこんと円弧状の基壇のてっぺんに立っています。 その近くに、「京田辺市 ええとこマップ」が設置されています。他にも詳細な地図がいくつか設置されています。 部分拡大したこの中央あたりが今回の探訪域になりました。山城国綴喜郡の田辺、薪と称されるエリアが歴史散策の対象地となります。この部分図の中には、真っ先に訪れた「棚倉孫神社」と途中で訪れた「酬恩庵(一休寺)」が明示されています。新田辺駅の西口を出て、通りを西方向に真っ直ぐ進むと、JR学研都市線の東口側に突き当たります。 駅前に、「C11324」という番号札と説明銘板が嵌め込まれた石碑と大きな動輪がモニュメントとして置かれています。 次の銘板に詳しい説明が記されていますが、「C11形タンク機関車」の動輪だそうです。 このC11形蒸気機関車は1972(昭和47)年まで貨物列車を牽いて働いた機関車だったと記されています。 こちらは京田辺駅の西口側と、駅前に立つ一休象です。 その近くにこの案内板が設置されています。酬恩庵(一休寺)までは約1.2kmの道のりで、その一部は「一休とんちロード」となづけられ、案内板が掲げてあるそうです。今回この道は通りませんでした。 集合時刻より少し早めに着きましたので、南方向に少し歩いてみました。南に下ると、田辺小学校があり、右折して府道22号線沿いに南下すると国道307号線との交差点「京田辺市役所東」に至りました。交差点の北西側で目に止まったのが、「目印の樹 クスノキ(楠) 京田辺市興戸」という表示板が置かれた大きなクスノキでした。後で地図を見ますと、ここから南のエリアが興戸と称される地域になるところです。クスノキは京田辺市の「市の木」に制定されています。(資料1)それでは、歴史散策に出かけましょう。今回もできるだけ幹線道路を避けて探訪地を巡ることになりました。先導する講師の後について進みますので、どの道を歩いたのかは正確には覚えておりません。まず最初に向かったのが京田辺駅の西方向に位置する「棚倉孫神社」です。 道沿いで目に止まったお地蔵さま。堅牢なコンクリート製のお堂内に端正な容貌のお地蔵さまが安置されています。 天津神川という天井川を越えた西岸側に「棚倉孫神社」があります。大木の幹に「京田辺の未来に継ぐ古木・希木」と記された札が取り付けてあります。この木は「クロガネモチ(黒鉄黐)モチノキ科 常緑高木」で推定樹齢が250年だそうです。「葉柄(葉と茎をつなぐ部分)が黒いのでクロガネといい、樹皮からトリモチを作ったのでモチという」(転記)とか。 道には大きく道標が描かれています。「水辺の散策路 手原川 一休みルート」と明記され白矢印がルートの方向を示しています。ここ棚倉孫神社が一休みの観光スポットということでしょうか。 この案内板が設置されています。この神社の由緒は「相楽郡の棚倉ノ庄から推古天皇三十一年に勧請したとされる高倉下命(たかくらじのみこと)を祀ったことによる」(案内板より)とのこと。 参道の左側に古くて大きな建物があります。現在は神社の社務所になっていますが、入口脇には「松寿院跡」と刻された石標が立ち、駒札が設置されています。かつてはここが棚倉孫神社の神宮寺として建てられた松寿院で、江戸時代には真言宗智積院の管下にあったそうです。山号は梅香山。建物は江戸後期、天保15年(1844)に現在のものに建て替えられたと言います。安政5年(1858)~明治4年(1871)まで寺子屋として使用されていたそうです。松寿院は明治初期の神仏分離政策により廃寺となりました。(資料2,3) 石段下の手水舎 石段の上に石鳥居が見えます。石柱には元禄15年(1702)に淀藩主石川憲之が奉納した旨が刻されています。石段・石橋も同藩主により奉納されたものとか。淀藩の4代目藩主だそうです。 一段高い境内地から眺めた石鳥居。右端の石灯籠の背後に見える小社は「金比羅社」です。 参道の先に入母屋造の屋根に唐破風の向拝が付いた拝殿が見えます。 この狛犬、ねずてつや氏の調査によると、文政11年(1828)9月吉日奉納で、南山城地方の狛犬としては、御園神社の狛犬(寛政8/1796年)に次ぎ二番目に古い狛犬だそうです。(資料4) 本殿は、緑色に塗られた大きな菱格子窓を設けた朱塗りの瑞垣と中門で囲われています。 本殿は一間社流造、屋根は檜皮葺きの朱塗りの建物です。桃山時代に再建されたもの。京都府登録文化財です。祭神は天香古山命(あめのかごやまのみこと)。別名を高倉下命(たかくらじのみこと)・手栗彦命(たなくりひこのみこと)と称するとか。『延喜式』所載の棚倉孫神社に比定されていて、大社に位置づけられていたと言います。(資料2,案内板) 『日本三代実録』の清和天皇、貞観元年(859)正月27日に、畿内七道の267社の諸神に進階・新叙が行われた記載があり、その中に「棚倉孫神」が記されていて、従五位下から従五位上に叙されたとのことです。(資料3,案内板)別名で記されている高倉下命は『日本書紀』巻三・神武天皇のところに登場します。神武天皇が熊野の荒坂の津に着き、そこで丹敷戸畔(たしきとべ)という女賊を誅されたが、荒ぶる神の毒気に当り兵卒ともども気絶したのです。熊野の高倉下という人がその夜に夢を見ます。天照大神と武甕雷神が話し合い、その結果武甕雷神が、己の剣ふつのみたまを倉の中に置くからそれを取り、天孫に献上せよと高倉下に告げるという夢です。高倉下は「承知しました」と武甕雷神に答えて目が覚めたと。「庫を開いてみると、果たして落ちている剣があり、庫の底板に逆さにささっていた。それを取って天皇に差上げた。そのときに天皇はよく眠っておられたが、にわかに目覚めていわれるのに、『自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう』と。ついで毒気に当たっていた兵卒どもも、みな目覚めて起き上がった」(資料5)と。神武天皇とその軍を救ったという話。これは、神武天皇が八咫烏(やたがらす)の夢を見るという話の直前に出ているエピソードです。 本殿の蟇股や木鼻には、桃山建築の特色が表れています。 本殿の背面の眺め 本殿が色鮮やかなのは、1988(昭和63)年に修理が行われたことによるそうです。(資料3) 瑞垣の正面、中門の右斜め前に、竹筒様に象った円筒の石が目にとまりました。これは献花の花入れなのでしょうか・・・・。用途不詳です。境内を見て回りましょう。 瑞垣の右側で、少し離れたところに、この石燈籠が奉納されています。その竿の正面には中央に「奉天神御宝前、城州田辺南因幡守祐海」、右側下に「天正二年甲戌」(1574年)、左側下に「卯月吉日」と刻されています。近世にはこの神社が、天神社と呼ばれていたことがわかります。(資料2) 本殿に向かって左側で石鳥居に近い側に、「瑞饋神輿(ずいきみこし)」を安置した建屋があります。 1978(昭和53)年10月に京田辺市文化財2号に指定されています。「秋に収穫される26種類ほどの野菜や穀類で飾られる神輿で、屋根は瑞饋(サトイモの葉柄)で葺かれる。明治の中ごろから造られるようになった。昭和4年(1929)で中断していたが、昭和50年(1975)に一部の模型を製作。昭和53年に『瑞饋神輿保存会』結成、以後は隔年で製作、10月体育の日に田辺区域を巡行する。例祭 10月15日」(案内板転記)瑞饋神輿は2基あり、大人用は隔年、こども用は毎年製作されるようです。(資料3) 義山涼信筆 白川芝山筆 長沢廬鳳筆 未確認瑞饋神輿の建屋の隣り、本殿側には絵馬殿があります。上掲はその一区画だけを撮ったものです。時間のゆとりがなくて全てを拝見できていません。この建物の建築年代は不明。台風で被災後、2000(平成12)年に修理されています。「江戸中期の天保10年(1839年)に奉納された角力図(すもうず)に建物があることから、それ以前に建てられた」(資料3)建物と推定されています。上掲の義山涼信筆の絵馬が角力図です。 「京田辺の未来に継ぐ古木・希木」の駒札が立っています。「ツガ(栂)マツ科 常緑高木 別名 トガ 推定樹齢270年以上」(駒札より) 本殿に向かって右側、本殿に近い側に「五社殿」があります。境内社がずらりと並んでいます。本殿に近い側から眺めていきますと、1)正一位寶蓮稲荷大明神。2)紅梅殿・老松殿。3)春日大明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩。4)多賀神社。5)稲荷神社。以上の五社が祀られています。。 手前には三棟が並んでいます。石鳥居に一番近い建物には「式場」と表記された扁額が掲げてあります。中間の二棟は不詳です。境内を一巡して、次の探訪先に向かいます。この後、一旦南の方向へ進み時計回りの順で各所を拝見した後に、棚倉孫神社から近い酬恩庵(一休寺)へと向かうという行程になりました。つづく参照資料1) 市の概要 :「京田辺市」2) 龍谷大学REC「京都の歴史散策38 ~田辺を歩く~」 講座レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成 2020.2.27)3) 棚倉孫神社 :「京都府神社庁」4)『狛犬学事始』 ねずてつや著 ナカニシヤ出版 p825) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p94-95補遺棚倉孫神社 :「京田辺道中記」瑞饋神輿巡行 :「京田辺道中記」棚倉孫神社 ずいきみこし :「祭の日」ずいき祭・ずいき神輿 :「チューさんの今昔ばなし」棚倉孫神社(京田辺) :「戸原のトップページ」クロガネモチ :ウィキペディアクロガネモチ/くろがねもち/黒鉄黐 :「庭木図鑑 庭木ペディア」ツガ :ウィキペディアツガ/つが/栂 :「庭木図鑑 庭木ペディア」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -2 西念寺・安養寺・薬師堂・田辺城・甘南備寺 へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -3 酬恩庵(一休寺) 総門・浴室・一休禅師墓所・本堂・開山堂ほか へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -4 酬恩庵(一休寺) 虎丘庵・東司・庫裡・方丈と方丈庭園・鐘楼 へ探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -5 薪遺跡・薪神社・能楽発祥の碑・西光寺・堀切古墳群跡 へ
2020.03.03
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前回、東院の四脚門の築地塀沿いの北に位置する高麗門をご紹介しました。門は閉ざされていますが、この門を通ることができると、ほぼ真っ直ぐに東に歩めば、中宮寺の門に至ります。通用門が北側にあります。中宮寺は別名斑鳩尼(いかるがに)寺、または法興寺とも称されます。(資料1) 門柱には「中宮寺門跡」と記された木札が掛けてあります。屋根の獅子口、軒丸瓦には菊花紋がレリーフされています。 門の蟇股にも菊花文様が見えます。 門前から見えるのは「表御殿」への玄関口です。京都御所で言えば車寄せと称される建物と言えるでしょう。この南側には白壁の源氏塀が境内を区切り、本堂に向かう中門があります。 表御殿中宮寺は、元はこの探訪の最後に訪れる中宮寺跡の場所(大字幸前小字旧殿)に建立されました。それが寺運の盛衰を経て、永正年間(1504~1521)の頃に、法隆寺夢殿の東側に移ったそうです。天文年間(1532~1555)の頃に伏見宮貞敦親王の王女・尊智女王(慈覚院宮)が入寺され、それ以降皇女または王女が相次いで入門されることになり、門跡寺院となったそうです。そして、後に中宮御所とか、斑鳩御所と称されるようになったと言います。(資料1)入山受付でいただいたリーフレットの表紙の寺名の右肩に「旧斑鳩御所」と記されている由来と言えます。 表御殿の前の参道を進みますと、本堂の北西の参道傍に歌碑が見えます。 皇后宮御歌(きさいのみやのおんうた) 中宮寺乃(の) 都(つ)い地(ち)のイち尓(に) しつも利天(りて) さゝん久王(くわ)の花 清(きよ)ら可耳(かに)佐久(さく) (中宮寺の築地の位置に静もりて山茶花の花清らかに咲く と表記できるのでしょう。)皇后宮とは昭和天皇妃である香淳(こうじゅん)皇后のことだそうです。歌碑文は女官長・北白川祥子謹書と駒札に記されています。この人は北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう:明治天皇の孫)の妃だそうです。(資料2) 現在の本堂は昭和43年5月に落慶した御堂です。高松宮妃殿下の発願によりこの耐震耐火の御堂建立となったと言います。吉田五十八氏の設計で、「本堂と鞘堂と池を組み合わせ」、「桝組、蟇股等の組物を一切使わない簡素なつくり」という特徴を表しています。「門跡寺院らしい優雅さ、尼寺らしいつつましやかさに昭和の新味を兼ね備えた御堂」です。(資料3)本堂本体を覆う屋根が緩やかな勾配で大きく張り出し覆堂(鞘堂)風の屋根となり、本堂の外周を円柱で支えていることを本堂と鞘堂の組み合わせと称しているのでしょう。池の中に本堂が建てられているのも興味深いところです。(資料4) これはいただいたリーフレットの表紙です。池の廻りには黄金色の八重一重の山吹が植えられています。そして、周囲には四季折々の花木が配されているそうです。以前の本堂は西向きだったのですが、上代寺院の規則に従い南面する形でこの本堂は建立されています。(資料3) 本堂に上り、本尊菩薩半跏像を拝見しました。堂内では外陣から内陣の奥に安置されている菩薩半跏像を遠くから拝観することになります。丁寧な説明のアナウンスが行われています。拝観者の為に、同じアナウンスが繰り返されますので、便利なようで不便な面も・・・・。しずかに菩薩像と対座する静けさがありません。残念ですが仕方がないか・・・・。堂内は撮影禁止です。リーフレットの写真を引用します。(資料3)元治元年(1864)の『中宮寺縁起』によると「如意輪観音」と記されているそうです。それで、リーフレットにも「本尊菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)[国宝]」と表記されています。しかし、この仏像の半跏思惟の姿は通常弥勒菩薩として認識され信仰されています。中宮寺においても、当初は弥勒菩薩像として存在したものが如意輪菩薩として信仰されるように変化したのではないかと一説では考えられているようです。本尊は楠材製で現在は全身に黒漆が塗られていますが、像身には彩色の痕跡があると言います。また、榻座(とうざ)に懸けられた衣には截金(きりかね)線の一部がみられるそうです。(資料1) こちらは入手した別の資料からの引用です。(資料5)そのお顔は優しく微笑んでおられるような印象を受けます。「国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い『古典的微笑(アルカイックスマイル)』の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで『世界の三つの微笑像』とも呼ばれております。」(資料6)と中宮寺のホームページでは紹介されています。京都・広隆寺の有名な弥勒菩薩半跏思惟像は宝冠を戴いた姿ですが、こちらの半跏菩薩像は頭髪を頭上で丸く2つの宝髻に結った形に造形されています。また広隆寺には弥勒菩薩半跏像(宝髻弥勒)も安置されています。(資料7) 本堂正面に向かい、外陣の左側前方隅に、「天寿国曼荼羅繍帳」の複製品が展示されています。これもリーフレットからの引用です。中宮寺の伽藍は平安時代に衰退し始め、鎌倉時代には日浄(河内・西琳寺)や思円(奈良・西大寺)らが再建に努力したそうです。鎌倉時代後期、文永10年(1273)に奈良興福寺慈性院(じしょういん)の信如(比丘尼)により中宮寺の再興が企てられ、中興の祖となります。信如比丘尼が文永11年に西院の綱封蔵にあった「天寿国曼荼羅繍帳」を発見し、原本を中宮寺に迎える努力をされたのです。その修復を試みる一方、別に建治元年(1275)一帳の模本の繍帳も製作されたそうです。延慶2年(1309)に中宮寺は火災に遭い、再び多くの寺宝は法隆寺に移されています。その後、両方ともに破損し、安永年間(1772~1781)に飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とが縫い合わされて、一帳にまとめられました。それが現在の繍帳の原本になっています。ただし、脈絡なく縫い合わされて残されました。大きさは88.5cm×82.7cmです。その現存する原本からの複製品が展示されていることになります。いわば複製からの再複製品というわけです。(資料1)現存の天寿国繍帳には亀甲文が残っています。この亀甲文には四文字ずつ刺繍で縫い付けられていて、天寿国繍帳にはそれで銘文が記されていました。亀甲文が25匹で400字の銘文になります。その銘文が『上宮聖徳法王帝説』に掲載されているそうです。(資料1) 本堂を振り返ると、築地塀の手前に歌人・会津八一の歌碑が建立され、その傍に銘文碑が設けてあります。 みほとけの あごとひぢとに あまでらの あさの ひかりの ともしきころかも 中宮寺にて 秋艸道人 『南京新唱』「會津八一(あいづやいち 1881~1951)新潟市生れ 早稲田大学名誉教授。新潟市名誉市民 東洋美術史学者であり歌人、書家でもあった、秋艸道人または渾齋と号する 八一は大正9年12月に中宮寺ご本尊を拝する、朝の光がみ仏のあごとひじにほんのりと射していた 静寂で清々しい尊のお姿に心ひかれて、八一はこの歌を詠んだ 平成22年11月29日建立 」(銘文碑より転記) 「中宮寺會津八一歌碑建立の□」最後の一文字あるいは複数文字が土に埋もれて読めません。たぶん「会」の一文字でしょう。 本堂に向かって右側(南東)から眺めた北東側の景色境内図によれば、通路の先に見える茶色の建物の北側に「鳩和殿」が位置するようです。 会津八一歌碑から少し離れた西側には「中宮寺新本堂建造の碑」が建立されています。 その右側、境内の南西隅に鎮守社があります。法隆寺の鎮守社は龍田神社だと言いますので、もし同じなら龍田神社が勧請されていることになるのでしょうが、詳細は不詳です。中宮寺は「中世以来真言宗に属したが、明治維新に長谷寺の所轄に入って新義派となり、明治16年の宗規改正によって古義派となり、第二次世界大戦後は法隆寺と同じく聖徳宗を称するようになった」(資料8)という変遷を経ているそうです。さて、参道を戻ります。 東院との境の築地塀に設けられた門です。 一隅の築地塀に表層の剥落が見られます。ここにも版築の技法が使われているような印象を受けます。東院の四脚門から出て、門前の南北の道を南に進みます。 突き当たりに、この「斑鳩めぐり案内図」が設置されています。 その近くで見たのがこの門です。この門の東側に東院の南門が位置します。礼堂工事の関係で遮蔽されていました。 案内図を部分拡大して利用します。現在地の所で左折して、東に向かいます。めざすのは今回の最後の探訪地・史跡中宮寺跡です。史跡中宮寺跡は東院伽藍の東方約550mの生駒郡斑鳩町大字幸前小字旧殿(くどの)にあります。 中宮寺跡には、案内板が設置されています。一つはこの景色の中央左端に見えるものです。南側から中宮寺跡に入りました。 これがその説明文です。要点は次の諸点です。*中宮寺は聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の住居(宮)を寺にしたと伝えられる。*飛鳥時代のはじめにこの場所に中宮寺が建てられた。*発掘調査により、塔と金堂が南北に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」である。*南門、北門と想定される柱穴は見つかったが、講堂や回廊などの建物は確認できなかった。*寺域は東辺約190m、西辺約220m、東西幅約220mの台形。寺の周囲は、掘立柱塀(木製の塀)、築地塀(版築による)で区画していた。*法隆寺に伝わる「聖徳太子絵伝」に平安時代(11世紀後半)の中宮寺の伽藍図が描かれている。 説明文の右側にこの案内図が付けてあります。 併せてレジュメから最近の発掘調査の記録図を引用しご紹介します。 案内板の右側に掲載の写真です。 最初に目に止まったのが幡竿の支柱の柱穴に場所の表示です。説明板があります。 「史跡 中宮寺跡」の石標が立っています。この右方向に 中宮寺跡の説明碑が設置されています。 塔跡の礎石群の中央の石のところに表示された説明文「心礎は、まず旧地表面に一辺3.5m、深さ2.5mほどの心礎坑を堀り、その底に櫃形で上面は長方形をした花崗岩の心礎を据えている。いわゆる若草伽藍・西院伽藍などと同様に地下式心礎であった」(資料1) 上掲の説明碑を部分拡大してみました。7世紀前半の創建当時、中宮寺の塔は二重基壇で、三重塔の可能性があるそうです。17世紀前半に廃絶となりました。(説明碑より)「塔の基壇は、金堂と同様に砂利敷きの旧地表面から築成したもので、基壇は二重基壇となっている。下段は一辺約13.5mで、周囲を列石で画す。上段は約11.3mで、化粧石は不明である。」(資料1)とのこと。 景色の右下隅に塔基壇の北側が少し写っています。金堂基壇と塔基壇はわずか5.1mの隔たりだそうです。(資料1) 塔跡の北側に位置する金堂跡を西寄り、東寄りから眺めた景色です。 金堂跡の南側中央付近から北に眺めた金堂跡の景色「金堂の建物は現存の礎石一個と礎石抜取孔から、桁行五間、梁間四間、各柱間は2.6mの規模であることが判明した。」(資料1) 説明によれば、基壇は版築工法で作られ、当初位置に唯一残っていた礎石の下には礎石を安定させる根石があったそうです。また、中宮寺の創建、再建、改修の各段階で基壇も変化している様子が説明してあります。「現在の金堂の基壇は鎌倉期の改修時のものであるが、三回の改変が加えられていたが、礎石の位置は創建当時から変化していないという」(資料1)とのこと。 塔跡の南辺のほぼ中軸線位置に立ち、塔と金堂を眺めた景色です。金堂と塔との心心距離は19mと大変狭いという特徴があります。ちなみに、飛鳥寺は26m、四天王寺は29.6m、橘寺は26.7mという距離だそうです。(資料1)史跡中宮寺跡の現地見学と説明を拝聴した後、現地解散となりました。 せっかくの機会なので、法隆寺駅まで歩いて戻りました。法隆寺駅への歩道を北東側から撮った景色です。反時計回りに一周してきたことになります。これでこの探訪記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。法隆寺への誘いに役立てば幸いです。参照資料1) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 2) 北白川祥子 :ウィキペディア3) 「中宮寺」 拝観の折りにいただいたリーフレット4) 覆堂 :ウィキペディア5) 「Ikaruga no-Sato Souvenir du prince Shotoku」 Horyuji i Center6) 中宮寺の歴史 :「中宮寺」7) 『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p478) 『奈良県の地名 日本歴史地名大系30』 平凡社 p81補遺中宮寺 ホームページNo.51⌒★歴史的建造物を包み込む美術館【千葉市】さや堂ホール:「建築遺産のlog!」弥勒菩薩半跏思惟像 :ウィキペディア国宝データベース、中宮寺 菩薩半跏像・崇福寺 :「和楽」天寿国繍帳 :ウィキペディア龍田神社 :「じゃらん」龍田比古龍田比女神社 :「戸原のトップページ」斑鳩神社 :「狛犬見聞録・注連縄の豆知識」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -1 法隆寺への道・南大門・境内子院 へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -2 法隆寺・西院伽藍(1) へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -3 法隆寺:西院伽藍(2)・若草伽藍・聖霊院・大宝蔵院ほか へ
2020.02.08
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大宝蔵殿の前の通路を通り、東西の道路に出ます。東側の築地塀角にある門の屋根の鯱が正面に見えます。こういう角度で見ることがないのでおもしろい! 道路の南側には実相院の門が見えます。 西を見ると、中央部が石畳の道路が一直線に延び、遠くに西大門が見えます。 実相院の東隣りが普門院(右)、その東が観音院(左)です。 そして、東大門が見えます。東大門が西院の東側の境界となります。8世紀に建立された単層本瓦葺切妻造の八脚門です。三間一戸の形式は南大門と同じです。 この東大門は「珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つ」(資料1)だそうです。今回は東院に行くための通過門となってしまったため、時間をかけて眺めるゆとりがありませんでした。三棟造(みつむねづくり)は、門の内側に立ち、屋根裏を眺めないとわからないようです。調べてみますと、手許の一書には次のように説明しています。「門の一形式。東大寺転害門と法隆寺東門にその例が見られる。実質は三間一戸の八脚門であるが、内部の天井が前後に二棟になっているもの。二棟の上に大棟を覆せるから三棟となる」(資料2) 西側から眺めた東大門の全景です。両側を見て、一つ気づいたことは、頭貫の先の木鼻がないという点です。そういう目で写真を見直すと、中門にも木鼻はありません。南大門には左右に延びる頭貫にシンプルな造形の木鼻が見られます。建立の時代差でしょうか。新たな関心と課題が残りました。 ここで、東大門から東院伽藍・中宮寺までの部分境内図を掲げておきます。これからのご紹介をわかりやすくするためにも。 東大門を通過しますと北側に、西院伽藍の東側の築地塀と角地にある律学院の築地塀との間に北方向に延びる道路があります。西院側の築地塀は版築による壁であることが歴然とわかります。注目点はこの道路の方位についてです。前回、若草伽藍をご紹介しました。発掘調査の結果、金堂と塔が一直線に並んでいることがわかったと述べました。四天王寺式伽藍配置の大きな寺院が想定され、それが斑鳩寺即ち創建法隆寺と見做されるわけです。ここで、この金堂と塔の中軸の方位が西に20度ほど振れているとも記しています。正確には<21°58′33″>とのことです。この道路の方位が若草伽藍の金堂・塔の中軸の方位ときっちり一致しているということです。さらに、後にご紹介する斑鳩宮の方位とも一致しているという事実が発掘調査でわかったと言います。(資料3)そこに聖徳太子が斑鳩の地に移転した際のいわば都市開発構想がうかがえるといえるようです。 道路の先に夢殿の八角形の屋根が遠望できます。左側(北側)は律学院の門です。上掲の北方向への道路を眺めた景色では律学院本堂の屋根しか見えませんが、江戸時代、1627年に建立されたそうです。桁行七間・梁間五間・一重・入母屋造・妻入・向拝一間・本瓦葺です。内陣後方に唐破風を付けた桧皮葺の厨子が設けられていて、聖徳大師像が祀られているそうです。(資料4) 道路の左右に設けられた門を眺めながら、東に進みます。 左は宗源寺の四脚門(鎌倉時代)です。宗源寺の左隣りの門で、境内図に子院名が載っていません。左側の門柱に「法隆寺作業所」と記された木札が掛けてあります。 法隆寺作業所の左隣りは福園院、そして福生院が続きます。境内図では、道路の南側に4つの門が表示されていますが、子院名は特に記されていません。聖徳会館の他に、重要文化財となっている本堂は入手した資料をみると福園院本堂(室町時代)と判断します。羅漢堂というのは「旧富貴寺羅漢堂(平安時代)」のようです。この南側の境内地一帯は、現在は東側にある門が正門になっていると境内図から推測できます。現地は未確認。東大門から西に歩んできた道路の突き当たりが、東院の四脚門になります。ここで門前の南北の道路とのT字路になっています。 福生院の築地塀角には、「西院大伽藍 是ヨリ西三町」の道標が立ち、東院四脚門の傍には、「左 松尾道」「従是五町北三井法輪寺」と北方向への道標が立っています。 正面から四脚門を撮るタイミングを失しました。中宮寺跡に向かう際に、道路の南側から東院の西面築地塀の中間に四脚門が設けられているところを撮ってみました。いよいよ、東院伽藍の探訪に入ります。西院伽藍を眺めてきた後なので、東院伽藍は意外とこじんまりとしているな・・・というのが第一印象です。 手水舎 四脚門を入ると、東院西側回廊に設けられた門から回廊内に入ります。回廊はこちらも連子窓が大きなスペースを占めています。 門を入ると、目のまえに夢殿があります。花崗岩の八角二重基壇の上に建立された一重本瓦葺の八角円堂です。八角形の東西南北の四方に扉が設けてあります。堂内は撮影禁止です。西側の戸口から堂内を拝見し、反時計回りに基壇上を巡り、北面の石段を下るという拝観順路です。南側戸口の南には礼堂があるのですが、礼堂は修復工事が行われている状態で覆屋ができていています。残念ながら拝見叶わずです。この東院伽藍は僧行信が聖徳太子の遺徳を偲び、天平11年(739)年に発願したことによるものだそうです。ただし、夢殿は『法隆寺東院縁起資財帳』によれば天平宝宇5年(761)にはできていたとか。棟札によると寬喜2年(1230)に大修理が行われた結果、今日の姿になったと言います。(資料3,5)夢殿は、奈良県五條市にある栄山寺八角円堂とともに奈良時代の貴重な八角円堂の遺構です。興福寺にある北円堂も八角円堂です。北円堂は光明皇后が父・不比等のために作ったとされる建物です。時代が下りますが、興福寺南円堂も八角円堂で、こちらは藤原冬嗣が父・内麻呂のために建てたものです。夢殿もまた、聖徳太子の霊を追善供養するための気持ちで建立した堂舎ということになります。つまり、霊廟です。行信僧都が東院伽藍を建立した当時の夢殿は檜皮葺で掘立柱の建物だったようです。掘立柱では耐久年限が短いので、貞観年間(859~877)に道詮律師の発願により伽藍は礎石建物に大改修が行われました。そして、上記1230年の大修理の際に、夢殿が大改造されたのです。(資料3) 講座レジュメからの引用です。1230年の大改造によるビフォー、アフターを左右に対比した断面図です。緩やかな屋根の勾配が、建物が高くなり勾配が大きくなり、軒の出も大きくなりました。 その結果が鎌倉期から現在に至る夢殿の姿です。(資料3)夢殿は西院伽藍の金堂に相当することになります。建築家のブルーノ・タウトはこの夢殿を見て、”建築の真珠”とたたえたと言われています。(資料6)内部を眺めますと、凝灰岩の八角二重基壇が設けてありその上に厨子が置かれその内に秘仏救世観音立像が安置されています。明治17年(1884)、アーネスト・フェノロサが岡倉天心とともに法隆寺を訪れ、寺僧たちを説き伏せて、白布を何重にも巻き付けて隠されていた秘仏から白布をとりのぞき、この仏像を明らかにしたという有名なエピソードがあります。現在は春秋に一定期間、夢殿本尊特別開扉が行われています。(春季:4/11~5/18、秋季:10/22~11/22)機会をつくり、この開扉の期間に訪れて、幾度も写真で見ている救世観音像を実際に見仏したいと思っています。須弥壇には、東院創建の行信僧都の乾漆像と、平安時代に中興した道詮律師の塑像が安置されています。ともに坐像です。また、前立ちの聖観音菩薩像(平安時代)、聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)も安置されています。 夢殿を中心に南に礼堂があり、北側に一棟の建物が建ち、内部が絵殿と舎利殿として使われています。『法隆寺東院縁起資財帳』は橘夫人旧宅を施入されたものと伝えるそうです。奈良時代の貴族の邸宅を考える資料になっています。(資料5)この建物は「七間屋」とも称され、棟続きなのですが、その中央に馬道があり、西側が絵殿、東側が舎利殿として独立した部屋になっています。「創建時は太子が所有されていた経典や宝物類を納める建物ではなかったかとされているが、その後、延久元年(1069)に摂津国の絵師秦致貞が描いた障子絵「聖徳太子絵伝」が飾られて西側が絵殿となり、東側が宝物を納めた空間となったと考えられている。」(資料3)そうです。舎利殿には、「聖徳太子が2才の春に、合掌された掌中から出現したという舎利」を安置されているとか。(資料1)工事中のため回廊部分をほとんど見ていませんが、南側の礼堂の左右の回廊が東西の回廊となり、夢殿を囲む形で北側の絵殿・舎利殿の建物に繋がる北側回廊となっています。そして、絵殿・舎利殿が背後にある伝法堂に繋がっています。 回廊内から出て眺めた伝法堂(奈良時代)です。伝法堂は東院の講堂にあたります。このお堂は聖武天皇の夫人・橘古那可智の住宅を仏堂に改造したものと言います。(資料1)堂内には、組入天井形式の三組の天蓋を吊るし、それぞれに乾漆阿弥陀三尊像(奈良時代)が安置され、他にも多数の仏像が安置されているそうです。(資料1,5) 伝法堂の棟の鬼瓦 伝法堂の南西側傍に、東院鐘楼(鎌倉時代)があります。袴腰の形式の鐘楼です。 撞木のところにも窓があり、内部の梵鐘は全く見えません。「中宮寺」と陰刻(追刻)された梵鐘(奈良時代)が吊されているそうです。(資料1,5) 鐘楼の鬼瓦 鐘楼の北西側に上掲の南北の通りに面した高麗門があります。 北側の築地塀の手前に、「中宮寺」と記した駒札が立ち、傍に歌碑が立っています。末尾に秋草道人と刻されているのを手がかりに調べてみました。秋草道人とは、会津八一氏の雅号です。会津八一が夢殿の救世観音を詠んだ歌です。 あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむこの歌碑は当初、会津八一を尊敬、敬慕される斑鳩町法隆寺の歌人・原玉泉(與司明)氏が、自らの歌集を出すかわりに、この歌碑を自宅の庭に建立されたそうです。ご子息の思慮・ご判断により、2014年11月に法隆寺に移転されたと言います。(資料7)東院の区域内に中宮寺が隣接しています。この歌碑の前の境内地を東に進むと、中宮寺の表門に到ります。 中宮寺の手前で振り返るとこんな景色です。東院の区域の北側の築地塀は、東院伽藍の背後になり、右の表門から入る別の境内地が中宮寺の西側にあります。北室院です。北室院本堂と北室院太子堂(江戸時代)があります。上掲の境内図でご確認ください。最後に、斑鳩宮跡について触れておきたいと思います。『日本書紀』推古天皇の9年の箇所に、「9年春2月、皇太子(=聖徳太子)は初めて宮を斑鳩に建てられた」と記され、13年の「冬10月、皇太子は斑鳩宮に移られた。」とあります。そして、「29年春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された。・・・・この月、太子を磯長陵(しながのみささぎ)に葬った。」と記されています。(資料8)尚、一説に聖徳太子は飽波葦墻宮(あわあしがきのみや)にて崩じたという説があるそうです。飽波葦墻宮は法隆寺より南東方向に約1.2kmの距離に位置していて、発掘調査結果ではここの建物跡も北に対して約20°西に振れているそうです。(資料3)その後斑鳩宮は、長男の山脊大兄王に引き継がれ、蘇我入鹿により斑鳩宮が襲われ、焼失するまで38年間存続しました。昭和9年から18年にかけて、東院の各建造物の解体修理が行われることに伴い、地下遺構の発掘調査が行われたのです。 「伝法堂・舎利殿・絵殿の下から東院の礎石群掘立建物群とは異なる方位の建物を検出した。これが斑鳩宮に関する遺構と推察された」(資料3)のです。異なる方位の建物跡がこの図です。受講した講座のレジュメからの引用です。この発掘された建物群跡や溝跡(SD記号に箇所)などからわかる北に対する方位の振れが若草伽藍の金堂・塔の方位、上掲の西院と律学院の間の道路の方位と一致しているそうです。 その後の防災工事に伴う発掘調査の成果を加えると、斑鳩宮跡の範囲は大きい方形のエリアと推定されていて、「昭和9年からの調査において、東院伽藍の一画から検出された斑鳩宮推定遺構は、斑鳩宮の東南隅に存在していた建物群となる」(資料3)そうです。東院伽藍の現地に佇み、この場所に斑鳩宮があり、聖徳太子の一族が住まいしていた時代を想像してみてください。ここでは、少なくともかつて斑鳩宮が存在したその場所の一隅に自ら立つことができるのです。あなたの想像力でタイムスリップしてみてください。{2020.2.10追記] 今回の探訪で巡った際の「法隆寺一般参拝券」がこれです。法隆寺西院区域を南西側上空から撮った景色が使われていますので、西院伽藍の全景を一層イメージしていただきやすいでしょう。ご紹介しておきます。また、この拝観券は3箇所を巡るためなのでしょうが、めずらしくパンチ孔をあける形で拝観済みを確認するものでした。このやり方でちょっとレトロな気分を味わえました。昔は鉄道の切符なども改札口でパンチで切符の隅切りをするやり方だったことを思い出しました。これで、三番目の探訪先・中宮寺を訪れることになります。中宮寺は今では東院の中にあるという感覚です。つづく参照資料1) 「法隆寺畧縁起」 拝観時にいただいたリーフレット2) 『日本古建築細部語彙 社寺篇』 綜芸舎編集部編 綜芸舎3) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 4) 律学院本堂 :「文化遺産データベース」5) 『奈良県の地名 日本歴史地名大系30』 平凡社6) 『奈良県の歴史散歩(上)』 奈良県歴史学会 山川出版社 p2037) あ行の歌 :「会津八一の歌と解説」8) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p89,p97,p110-111補遺法隆寺 ホームページ三棟造の東大門 :「北道倶楽部」法隆寺東院夢殿 :「文化遺産オンライン」ブルーノ・タウト :ウィキペディア【国宝仏像】救世観音【法隆寺夢殿】の解説と写真 :「ART IROIRO」奈良・法隆寺の国宝「救世観音像」が特別公開(16/04/12) YouTube【第2話】 法隆寺夢殿・救世観音像 発見物語 :「日々是古仏愛好」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -1 法隆寺への道・南大門・境内子院 へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -2 法隆寺・西院伽藍(1) へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -3 法隆寺:西院伽藍(2)・若草伽藍・聖霊院・大宝蔵院ほか へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -5 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2020.02.05
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金堂内を拝観し、西面の出入口を出て、西側の五重塔を間近に見上げます。冒頭のこの姿は金堂の南側、回廊寄りから撮った全景です。五重塔の初層部分だけには、金堂と同様に裳階が設けてあり、こちらも板葺屋根です。なぜ裳階が付けられているかについては前回その推定理由をご紹介しました。五重塔は塔婆・率(卒)塔婆とも言われます。率塔婆はサンスクリット語のストゥーパを音写した言葉です。元々は古代インドで、土饅頭型に盛り上げた墓のことです。つまり、釈尊の遺骨を慰安するためのお墓ということになりますが、単なる墳墓ではなく記念物の性格を帯びるようになります。マウリヤ王朝期には特に多くの塔が建設されています。そして、次の段階として、この塔を中心にして新しい仏教運動が起こり、大乗仏教に発展していきました。インドのサーンチーに築かれているストゥーパがその一例として有名です。(資料1)そのストゥーパがシルクロードを経て中国に伝わり日本に到るまでの過程で、徐々にその姿が変容して行き、日本では三重塔や五重塔の形になりました。法隆寺のこの五重塔は我国に現存する最古の五重塔として知られています。基壇の上からの高さは約32.5mだと言います。(資料2)五重塔が何時建設されたのかについて、正確な時期は不詳です。金堂より少し遅く、西院伽藍の整地が終わった段階で開始されているようです。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には「持統7年(693)に仁王会を行う」という記録があり、この時には金堂がひとまず完成していたとされています。そして、「塔本塑像を和銅4年(711)に造る」という記録があると言います。後で触れますが、これは五重塔の初層に安置されている塑像群のことを意味しています。一方、法起寺の三重塔は慶雲3年(706)に建立されていて、この塔は法隆寺五重塔の1・3・5層と同じ規模とされていて、法隆寺五重塔と同じ図面を共有していると考えられているそうです。このことから、五重塔は693年~706年の期間のどこかの時点で完成したと推定できるようです。(資料3,4) 五重塔の初層には、金堂と同様に東西南北に扉があります。これは東面の出入口です。立入禁止ですが、石段を上り初層の内部を格子戸越しに拝見することができます。初層内部には、心柱を囲む壁のような形で須弥壇が築かれ、そこに土で須弥山が象られ、その四面に特定の情景が設定されて塑像群が配され祀られています。「東面は維摩居士と文殊菩薩が問答、北面は釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されています。」(資料2)この塑像群のリアルな表現は、中国の敦煌莫高窟の流れをくむものといわれているそうです。(資料5)「当初、須弥山のある仏壇は小さく、ほぼ四天柱の内側におさまる規模であったが、その後、須弥山は改造により拡張され、四天柱の外側まではり出している現状となった」(資料3)そうです。今回は講座の時間的な関係から東面の塑像群を垣間見るだけで終わりました。次回は個人的に訪れて四面をゆっくり拝見したいと思っています。また、初層の内部壁面にはかつて金堂と同様に美しく諸菩薩像の壁画が描かれていたそうです。鎌倉時代の記録に残っているとか。昭和18年(1943)、昭和22年(1947)に白漆喰の壁を剥がす調査で壁画が出現、発見されたと言います。元禄9年(1696)の大修理のときに、白壁に塗り込められてしまったとのこと。損傷壁画の存続よりも、塔そのものの存続が優先されたと推定されています。昭和の段階で、「これら6面の壁画は塔の修理のときに切りはずされ、収蔵庫の中に保管されている。この壁画は現在、その保存上、一般に公開されることがないため、塔に壁画があることを知っている人はごく一部の専門家に限られている」(資料5)といいます。 五重塔の屋根の相輪部分を撮ってみました。「五重塔の九輪(くりん)に四本の鎌がある」という法隆寺の七不思議の一つです。「法隆寺献納宝物の中に奈良時代の大鎌が残っていること」から、現在の法隆寺が建てられた当時から鎌が置かれていたらしいと考えられています。当時の人は雷を魔物と考え、刃物で落雷防止ができると考えたのではないかと想像されています。また、近在の人々の間には鎌が九輪を自然に登ったり下ったりするという伝承があり、鎌が上がれば豊作、下がれば凶作という占いをしたという面もあるとか。どうして鎌なのか、も謎と言えます。(資料5)現地で確認できなかったのですが、五重塔だけにはもう一つの雷よけの手段が講じられているそうです。鎌倉時代に雷が塔の三層目に落ちたので、その後西大寺の叡尊に依頼して、雷よけの祈祷札「避雷符」という木札を書いてもらったそうです。「五重塔の各層の四方の通肘木のところに、木札が四枚ずつ打ち付けられている」(資料5)とのことです。五重塔は二重以上の部分に床板はないそうです。(資料4)ストゥーパという機能を考えれば当然なのかもしれません。五重塔の心礎は地下3mにあり、舎利容器を納めていたそうです。また、1943~1954年に五重塔の解体修理が実行されていて、その時、輪切りにされた心柱の材が京大木質科学研究所に保管されていました。その心柱の年代が奈良国立文化財研究所で年輪年代法により分析され、594年に伐採された桧材であるとされています。(資料3)上記しましたこの五重塔の建立時期の推定と心柱の材の時期との隔たりが考察課題になってきます。 さて、五重塔と金堂は東西に配置されています。その中間に北に一直線に石畳の通路が延びています。 東大寺の大仏殿と同じように、建物の手前にはブロンズ製の大きな燈籠が一基据えてあります。その先にあるのが「大講堂」です。仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されたお堂です。単層・本瓦葺・入母屋造で正面(桁行)九間、奥行(梁間)四間の建物です。当初のお堂は、落雷によって鐘楼とともに延長3年(925)に焼失。正暦元年(990)に再建されたのが現在の大講堂です。(資料1)そこで、法隆寺西院の回廊との関係が出てきます。当初は五重塔と金堂とが、正面四間の中門の左右に繋がる回廊を南面として西回廊・北回廊・東回廊という形でロの字形に囲われていて、その北回廊の外側の西に経蔵、東に鐘楼が設けられていたそうです。そして北回廊の外、北側に延長3年に焼失する前の旧堂(講堂)があり、この時点までは旧堂の両脇に北室(僧坊)が約6mの距離を隔て東西の建物として建てられていたと言います。講堂で仏教を学び、北室に居住するという僧の生活空間が回廊の外側に存在するという形だったようです。そして、正暦元年に大講堂が再建されますが、北室は焼失後に再建されないままになったのです。発掘調査により、現大講堂の下に同規模の前身建物の遺構が確認され、北室跡も調査によりその建物規模が復元されているとのことです。(資料3)3437大講堂の再建後に、法隆寺の発展との関係から、西院伽藍の回廊は大講堂を回廊に組み込む形の凸型の回廊に変化したそうです。 北西隅に回廊と繋がった経蔵があります。その名の通り、経典を納める施設でした。現在は「天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正と伝える坐像(平安時代)を安置しています」(資料2)とのこと。 南東から眺めた大講堂。このお堂には再建の時に作られた薬師三尊像及び四天王像が本尊として祀られています。(資料2)(今回は講座の時間の関係で未訪) 北東隅に回廊と繋がった鐘楼があります。大講堂再建の時に鐘楼ができたそうです。鐘楼に吊されている梵鐘は白鳳時代のものと言います。(資料2) 東回廊を南側から眺めた景色。法隆寺は矢田丘陵東南麓に位置します。この西院伽藍は尾根を開削し平坦地に造成していると述べました。地山部分は一部で回廊の内側から東に落ち込む箇所があるそうです。発掘調査から、この東回廊は約40cmの整地土の上にさらに約60cmの版築が行われていることが確認されていると言います。(資料3)この探訪では滅多に見られない風景に遭遇しました。たまたま探訪日が1月25日だったことと、西院伽藍を訪れていた時間帯が重なったためでしょう。 翌日の26日が文化財保護のための防火デーであり、25日・この時間帯で防火のための放水リハーサルが短時間ですが実施されたのです。たぶん26日当日はもう少し大がかりに防火・放水訓練が行われたのだろうと思います。 回廊から外に出ます。出口は南面回廊の東端です。これは南面回廊の東側回廊側面と中門を眺めた景色です。 西院の境内に戻ると、南東方向に池が見え、手水舎があります。大きなブロンズ製の水瓶の口が、水鉢への水の注ぎ口になっています。いい風情です。手水舎の南に石碑が立っています。 近づいて見ると句碑です。 法隆寺の茶店に憩ひて 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺 子規茶店はどのあたりにあったのでしょう・・・・。 鏡池 鏡池の南、池垣の先は東西の道路です。その向こう側に実相院が見えます。東側に普門院・観音院と子院が並んでいます。発掘調査の結果若草伽藍が位置していたのは、今の境内図でみますと、実相院・普門院・観音院という子院のあるあたりになるようです。これら子院とその南一帯です。実相院のお堂が見える方向の先に、若草伽藍塔心礎があります。境内図を見ますと、現在そこは観音院の敷地になっているようです。若草伽藍と称される由来について引用しご紹介します。「若草とは旧観音院、普門院、実相院裏の広大な東西約160m、南北約60mの広い空き地を指し、平安時代以来『花園』と称され、仏に供える花や蔬菜を栽培していた場所であったという。若草の文献上の初見は、宝永4年(1707)の『普請方諸払帳』である。良訓が延享3年(1746)に編纂した『古今一陽集』に心礎の見取り図が描かれ、「若草伽藍」という名称が書き添えてある」と高田良信氏が述べられているとか。その心礎は明治34~35年ころ搬出され、北畠治房氏~久原房之助氏~野村徳七氏と所有が移動し、昭和14年に野村氏から法隆寺に返還されたと言います。(資料3)それを契機に昭和14年の調査が行われ、さらに昭和43年・44年の調査、昭和53~60年の調査、平成16年の南大門近くの調査が累積し、若草伽藍の全容が分かってきたと言います。一方で、出土瓦の寺院間比較研究から瓦の編年研究も進展し、傍証が累積しているようです。西に20度ほど振れる方向で、塔と金堂が一直線上にならぶ基壇跡が発掘調査により確認されています。金堂→塔の順番で築造されたことも判明していると言います。それでも現時点では回廊をはじめ他の建物遺構は見つかっていないとか。一方、平成16年の発掘調査から、彩色のある壁画の破片が多数出土し、壁画には下書き線があると言います。(資料3)『日本書紀』天智天皇8年の記述に「12月、大蔵に出火があった。この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺に出火があった。」とあります。さらに翌9年には、「夏4月30日、暁に法隆寺に出火があった。一舍も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。」と記録されています。(資料6)法隆寺は斑鳩寺、伊河留我寺・鵤寺とも呼ばれたと言います。聖徳太子と関係の深い寺です。若草伽藍の調査から、この金堂・塔跡が『日本書紀』に記された法隆寺(斑鳩寺)であり、火災により全焼したということが判明しました。創建法隆寺は若草伽藍の場所に建立された寺だったのです。(資料3)つまり、西院伽藍は、後に場所を変えて再建された法隆寺だということになります。明治20年頃から始まった法隆寺再建・非再建論争はこの発掘調査結果を踏まえて、これで一応の区切りがついたようなのですが、双方の伽藍の創建については、現在もまだ問題点を抱えていて、完全には見解が定まっていないと言います。(資料3)「『日本書紀』に法隆寺再建の記事がないこと」(資料5)自体が一つの謎になっています。上記の通り、法隆寺焼失の記載があるのにです。また、法隆寺の本尊である釈迦三尊像と薬師如来像の光背銘文から法隆寺創建の時期を確定しようとするとそこに史料等の比較研究から疑義が生まれているという実情だとか。法隆寺はまだまだ多くの謎を秘めたお寺であるわけです。おもしろいですね。 鏡池の傍には、異なるスタイルの常夜灯が奉納されています。 鏡池の前で振り返ると、北側に「聖霊院」があります。これは、東側回廊の外側にある南北に細長い建物「東室」の南端部が改造されたものと言います。鎌倉時代の聖徳太子信仰の高揚に伴い、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために改造されたそうです。この背後にその細長い建物が続いているのです。「東室」と称される僧坊、僧侶たちの住居でした。[2020.2.4追記]「聖霊院は桁行六間、梁間五間で一重・切妻造・妻入・本瓦葺・正面一間通り庇付・向拝一間・檜皮葺。同院は保安2年(1121)東室大改修の際、南の六間を堂に改めた。現聖徳院は弘安7年(1284)の造立(別当記)」(資料11) 「妻室」と称する建物です。これは東室と同様に僧坊としての建物だと言います。近世に大改造され用途が変わったことで改称されたのだとか。かつては、東室には高僧が住み、大坊とも呼ばれ、こちらは東室小子房と称し、高僧に使える者が住んでいたといいます。(資料7) 妻室から少し東にこの小堂があります。このお堂の東側を左折し、大宝蔵院に向かいます。次の探訪先がここです。[2020.2.4追記この小堂のことがわかりました。「馬屋」です。聖徳太子の愛馬・黒駒と手綱を引く舎人・銚子丸との像を造立しこの小堂に安置してあります。] 大宝蔵院に向かう通路の東側に、妻室と並行して、「綱封蔵」があります。寄棟造で高い脚柱の立ち並ぶ高床氏の建物です。大宝蔵院を拝見した後、東側から撮った景色です。どういう姿の建物かはおわかりいただけるでしょう。正倉院校倉を想像していただくとよいようです。この綱封蔵を開閉するときには必ず寺の要職である三綱職の僧が立ち会わなければならない決まりになっていたそうです。平安時代初期と推定される宝物庫です。(資料8)[2020.2.4追記]「桁行九間、梁間三間の高床・寄棟造・本瓦葺で平安時代のもの。中央三間を吹抜きとし、両端を蔵とした形式であるが、本来は校倉であったとみられる。」(資料11) 大宝蔵院の外観を東側から撮ってみました。この建物は平成10年(1998)に完成した北側の「百済観音堂」を中心とする大宝蔵院の伽藍です。飛鳥時代から近世に至る法隆寺の寺宝が展示されています。三間三戸の中門の西側の口から入り、西宝殿→百済観音堂→東宝殿という順路で様々な宝物類を鑑賞することができます。仏像愛好者、美術工芸品愛好者にとっては必見の館です。まず最初に夢違観音像に対面できます。そして、玉虫厨子、金堂阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子などを間近に鑑賞できます。 拝観時にいただいたリーフレットからの引用ですが、百済観音像とすぐ間近に対面できるのはやはり圧巻です。まず最初にその大きさに驚き惹きつけられました。像高209.4cmという大きさです。光背がありますのでさらに高くて圧倒されます。こんなに大きな仏像とは思ってもいませんでした。すらりとした八頭身の姿です。この観音菩薩像が、3月には、しばらく東京国立博物館に移られるのです。春に大宝蔵院を訪れるおつもりなら要注意!です。 法隆寺iセンターで、東博の特別展のPRチラシを入手しました。二つ折A4サイズの裏面に百済観音像が載っています。3月中旬から5月中旬は、大宝蔵院にはご不在ということになります。古風に申せば、東下りして花のお江戸で出開帳というところでしょうか。 大宝蔵院を出て、順路に従い東側の通路から東西の道路に戻ります。通路の西側には、食堂と細殿が並んでいます。食堂は単層切妻造で緑の連子窓と朱の扉を持つ建物です。右の写真がそれです。僧が儀式的な食事を行った場所だそうです。奈良時代の遺構で最古の食堂として貴重。細殿は左の写真です。食堂の付属建築だとか。見た感じ廊下のような吹き放ちの建物です。こちらは鎌倉時代の建築物のようです。(資料8)通路の東側には、収蔵庫と大宝蔵殿(北倉・中倉・南倉)が並んでいます。金堂の焼損壁画は、調べて見ますとここの収蔵庫に保管されているそうです。(資料9)また、こちらの大宝蔵殿は大宝蔵院が落成するまでは博物館相当施設の機能を持っていたそうです。現在は毎年春秋に「法隆寺秘宝展」という形で特別公開が行われていると言います。(資料10)西大門と東大門を結ぶ道路に戻り、東に歩みます。つづく参照資料1) 『新・仏教辞典 増補』 中村元 監修 誠信書房2) 「法隆寺畧縁起」 拝観時にいただいたリーフレット3) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 4) 『法隆寺の謎』 邦光史郎著 祥伝社ノン・ポシェット p465) 『法隆寺の謎と秘話』 高田良信著 小学館ライブラリー6) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p234-235 7) 東室 :「奈良寺社ガイド」8)『奈良県の歴史散歩(上)』 奈良県歴史学会 山川出版社 p1949) 法隆寺の収蔵庫、まるで博物館 金堂壁画を調査 :「朝日新聞社DIGITAL」10) 法隆寺大宝蔵殿 :「Internet Museum」11) 『奈良県の地名 日本歴史地名大系30』 平凡社 p79-80補遺ストゥーパ :「世界史の窓」サーンチーの仏教遺跡 神谷武夫氏法隆寺の七不思議? :「日本の宝物殿」法隆寺に2つの「七不思議」(謎解きクルーズ) :「日本経済新聞」法隆寺の七不思議五重塔の心柱、救世観音……聖徳太子と法隆寺の七不思議 川合敦氏:「PHP Online 衆知」法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告 :「全国遺跡報告総覧」特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」 :「東京国立博物館」法隆寺金堂壁画と百済観音 展覧会公式サイト法隆寺の見所 :「奈良観光」 ← 2/4追記 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -1 法隆寺への道・南大門・境内子院 へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -2 法隆寺・西院伽藍(1) へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -4 子院・東大門・東院伽藍ほか探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -5 中宮寺・史跡中宮寺跡 へ
2020.02.03
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法隆寺境内図(部分図)から始めます。南大門を入り、真っ直ぐに北に歩みます。西大門と東大門を結ぶ道路を横断し、中門に向かいます。 石段の右側手前に手水舎があります。石段のすぐ傍の石標は「東院大伽藍」への距離を示す道標です。西院伽藍の目の前に立っているのがおもしろい感じです。 石段を上がると、西院伽藍の廻廊との間にかなりの奥行きがあり、常夜灯が立っています。一方北西方向、つまり中門の左斜め前方を眺めると、「日本最初の世界文化遺産 法隆寺」と刻された石碑が建立されています。右下に「平山郁夫書」と刻されています。シルクロードの様々な風景を描いた有名な日本画家・平山郁夫氏の書による記念碑です。「法隆寺地域の仏教建造物」は1993(平成5)年12月に世界遺産に登録されました。法隆寺と法起寺がその具体的な対象となっています。 「中門」に近づきます。西院伽藍の中軸線上に位置し、正面四間(11.9m)、奥行三間(8.46m)の重層入母屋造の楼門です。正面が四間ですので、横に5本の円柱が並んでいます。これら円柱は胴が膨らみをもち、古代ギリシャ神殿の柱になぞらえて、エンタシスの柱と呼ばれています。柱が5本ですので、建物の正面中央に柱が位置することになります。その柱の両側に出入口(門扉)があります。つまり、四間二戸です。(資料1)中門は一戸の門扉だけあるいは三間一戸の形式がほとんどのようです。東大寺や薬師寺の中門は規模が大きくなり五間三戸の形式です。同様に、大門や楼門の多くも三間一戸です。前回ご紹介した南大門がこの形式です。さらに大きな楼門となると、五間三戸のものがあります。京都の南禅寺三門・知恩院三門・東福寺三門などがその例です。これらは正面の中央が出入口となり、柱が邪魔するということがありません。法隆寺西院伽藍の中門が他では見られない特異なものと見做されてきました。石田茂作氏は自選の法隆寺七不思議の筆頭に「中門中央の柱」を取り上げています。(資料2)その結果、この中央の柱の謎について、様々な説が生まれてきています。その一つが、梅原猛氏が『隠された十字架 法隆寺論』で「偶数性の建物は正面のない建物、それはいわば子孫断絶の建物である。それは死霊とじこめの建物である。偶数性の建物は、正面なき建物である。法隆寺に偶数性の原理が支配するのは、ここに太子の霊を閉じこめ、怒れる霊の鎮魂をこの寺において行おうとする意志が、いかに強いかを物語るのである」(資料3)と論じた見解です。中央の柱が太子の霊を封じ込めるためと論じたのです。一時期ベストセラーになったと記憶しています。(資料3)この学外講座では、建築史家の「鈴木嘉吉氏は金堂と塔との釣り合いから、中門の規模が定められた結果だとされている」(資料1)という見解を知りました。また、武澤秀一氏は、門の真ん中に立つ柱について、鎌倉時代の法隆寺僧が「聖人は子孫を継がず」ということを示しているという説を例に出した後、明治時代以降の代表的な見解を7つ列挙し、そのうちの一つに上記の梅原説を取り上げています。7つの見解の2番目に「中門の間口は通常、柱間の数が三だが、塔と金堂との規模のバランスを図って四にした結果とみる説(伊東忠太など)」があり、上掲鈴木氏の見解はこの2番目の見解と同類の考えかと私は受けとめました。7種の見解を論じた上で、武澤氏はインドのサーンチーの塔におけるめぐる通路を取り上げ、仏教世界に広がっためぐる祈りの作法を重視します。門の中央の柱は二つの口を作っていて、中門に接続する列柱回廊はめぐる道であり、プラダクシナー・パタ(直訳すれば右まわりの道)だと述べ、二つの口は囲まれた聖域への入口と出口と論じています。「回廊はめぐる祈りの通路、プラダクシナー・パタであり、中門は回廊を含む聖域への出入口であり、礼拝の場でもあったというのがわたしの考えです」と。その上で、中門の中央の柱は、この西院伽藍の配置を定める「隠れた中軸」となっていて、「聖域の中軸を背骨にたとえれば、法隆寺では背骨が消えて端部のビテイコツが残った。それが中門の真ん中、タテに連なる四本の柱にあたる」と伽藍配置における中央に位置する柱の必然性を論じています。(資料4) 明治以降の7つの見解の要点は参照資料の新書をお読みください。いずれにしても、法隆寺の中門の特異性を解く試みは興味が尽きない論点です。中門の上層も四間×三間だそうです。飛鳥寺・大官大寺の中門も同様に奥行三間であり、「奥行を三間とするのは重層門の安定感を示すためと言われている」(資料1)とか。 前回ご紹介した南大門との木組の違いを見比べてみるのも興味深いと思います。こちらはエンタシスの柱の上に皿付の大斗が据えられ、雲形肘木がのっています。肘木は桁と軒を支える横木です。 中門には紋帳が吊られ、寺紋の「多聞天紋」が使われています。 中門左右の隅間には金剛柵が廻らされ、金剛力士像が配置されています。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に和銅4年(711)に金剛力士像が造立されたと記録されているそうです。向かって右側の阿形は塑像金剛力士像です。吽形は同様に塑像だったそうですが、頭部は塑像のままですが、16世紀の修理で塑像であった部分の大半が木造に変わっていると言います。(資料1) 中門前から振り返ってみた景色中門から南大門にかけては、平均1mの段差を付けて造成し、平坦面が造られているそうです。 中門を眺めた後、伽藍内部に入るために西側にある通用門に向かいます。 通用門を入る手前で、回廊と中門の連なりを撮ってみました。回廊は連子窓になっています。 通用門を通り、回廊の拝観受付所付近から眺めた西面の回廊と東にある金堂方向の景色です。回廊は外側の柱間は大半が連子窓で、残りが漆喰壁になっています。内側は吹放しで、境内側は列柱の連なりです。 西院伽藍の創建当時は、経蔵・鐘楼の手前に北面の回廊があり、西に五重塔、東に金堂という配置を囲む形になっていました。その点は大正時代の防災工事に伴う浅野清氏の調査で明らかになっていたそうです。(資料1) これは西院伽藍の拝観受付の折にいただいたリーフレットの表紙です。中門の中央の柱とともに、中門と五重塔・金堂との位置関係がよくわかります。 リーフレットからの引用です。西院伽藍を南東側の上空から撮った全景です。金堂の右側に大講堂が見えます。創建時に「南に延びる尾根を大講堂の北側で大きく削り、大講堂から中門までの約120mをほぼ平坦に造成して」おり、「主要伽藍の回廊に囲まれた内部は、40cm~50cmの攪乱土(整地)がありその下層は地山となっていた」といいます。尾根の東西幅が東西の回廊部分の幅と合致するそうで、部分的に異なる谷地形の状況に合わせて、整地土やさらに版築を行うなどの整地層で平坦に造成しているそうです。(資料1) 中門内側の東側の口から南大門を眺めた景色です。 初層の天井は比較的目の細かい格子天井になっていて、奥行が三間ということがよくわかります。門扉は正面から2番目の柱に設置されています。円柱の上に皿付大斗が据えられ、頭貫の上面には円柱との間に楔がうちこまれています。 中門に繋がる東側の南面の回廊です。外側の柱間が大半は連子窓になっているのが一層よくわかります。回廊の床面は禅宗寺院でみられる瓦敷ではありません。 回廊の柱の礎石と柱の修復 南面東側回廊の一つの列柱に前に立つと、そこはちょうど金堂南面中央の入口の位置に相当します。中門の中央の柱を起点とすると、五間と六間の間の柱です。南面東側の列柱だけでカウントすると三番目の柱です。 西院伽藍内での講座の説明はまず東側に配置されたこの金堂からです。金堂には法隆寺の本尊が安置されています。上掲リーフレットには「ご本尊を安置する聖なる殿堂」「威風堂々としたこの建物」と記されています。二重基壇の上に建てられた入母屋造の重層建築で世界最古の木造建築です。金堂と五重塔の下層部には裳階が付いています。板葺の屋根です。(資料1)法隆寺よりも後代に創建された薬師寺の東塔は薬師寺創建当初から唯一現存する建物です。この東塔は三重塔ですが、瓦葺の屋根が6つあり、下から1,3,5番目が小さい屋根で裳階と称されています。ホームページには、この裳階を「飾りと風よけのための小さな屋根」と説明されています。(資料5)法隆寺においては、この金堂と五重塔にどういう理由で裳階が付いているのか、謎のようです。今は、この裳階が建立当初から付いていたという説が有力になっているそうです。高田良信氏は、「法隆寺では実用的なものに見える。おそらくは内陣にある壁画を風雨から保護するために必要であったかもしれない。また金堂にしても塔にしても、昔は堂内で法要をせず、建物の前で行われることを恒例としていたため、雨天の日などは法要もできないこともあって、雨の場合はこの裳階の中で略式の法要を行ったのかもしれない。」と解釈されています。(資料2) 二重基壇の総高は1.7mほどで、下段の高さは30cmほどだそうです。基壇は凝灰岩の羽目石だけを並べてあり、束石が使われていません。基壇は一部地山を造出し、その上に版築を重ねて構築されているそうです。(資料1) 上層に高欄が見えます。この高欄(勾欄)は屋根に直接据えてあります。高欄には卍崩しの組子が入れられ、腰組に人字形割り束が配されています。撥蟇股(ばちかえるまた)とも呼ぶようです。この撥蟇股の造形は中国で流行し、北魏から隋・唐まで用いられたとされるそうですが、建物は現存しないとか。ただし、この卍崩しと撥蟇股は中国北魏の石窟に見ることができるそうです。(資料1) 金堂では軒の出が4.4mにもなっているそうです。それが建物を立派に見せる効果となり、威風堂々という印象につながるのでしょう。屋根の四隅の軒?の先端には装飾金具が取り付けてあり、端部の保護にもなるのでしょう、また風鐸が吊り下げてあります。 雲肘木と雲斗が水平材(力肘木)を支え、その先端部に斜め材の尾棰が組み合わさり、それらが軒棰を前方に張り出させる形になります。二階部分には、尾棰の先端部には下層の屋根との間に柱が建てられて、その柱には龍が巻き付く形で彫刻されています。単なる飾り柱ではなく、たぶん実用的な機能を持っているのでしょうね。軒の出が深い故の工夫かと、素人考えで推測しています。龍は龍神=水の神といわれますので、火災除け的な意味合いもあるのかと想像してしまいます。 一方、一階の屋根と裳階との間には、小斗の支えにこんな丸彫りのちょっと奇怪な彫刻が施されています。獅子のような猪のような・・・。もう一方は牙と眺めの鼻から象のようなそうでないような・・・。想像上の邪鬼を造形したもののようです。さて、いよいよ金堂内部の拝観です。堂内は残念ながら撮影禁止です。 講座のレジュメから、金堂内部の構造と諸仏・壁画の配置図を引用します。 上掲図の仏像と壁画の配置状況は、この一覧の英字/数字と対応しています。余談ですが・・・。昭和24年(1949)1月26日に、この金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損しました。昭和15年以来続けられてきた解体修理のために取り外されていた24面の内陣小壁の飛天図を除き、壁画はすべて焼失したのです。(資料1,6)この法隆寺金堂火災が文化財防火デー(1月26日)設定の契機になりました。(資料6)「現在の再建金堂壁画は、昭和43年に日本画の画家14名による協同作業で完成した。この際、模写にあたっては、原寸大の精緻な復元を必要とする事から京都の便利堂の原寸大の写真とコロタイプ印刷が用いられた」(資料1)昨年末から年初にかけて、奈良国立博物館で「法隆寺金堂壁画写真ガラス原板」の企画展が実施されました。拙ブログ記事としてご紹介しています。また、3月13日~5月10日の期間、東京国立博物館では特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」が開催される予定だとか。さて、元に戻ります。 当日は金堂東面の口から入り、南半分の堂内回廊を巡りながら西面の口を出るという一方通行での拝見でした。写真で見ていた諸像の実物を現地で確認する程度の短時間しか堂内に滞留できなかったのが残念です。内陣側をガラス越しに眺めるというような印象だけが残りました。 堂内拝観の出口となっている金堂西面の出入口。北半分のところに柵が設けてありました。金堂の外観は上層と下層の二階建てになっていますが、内面は二階には床が張ってない構造で、一階に折上組入れ天井が設けられているだけだそうです。(資料1) 金堂南面の入口から少し南側に離れた場所に上面が平坦な石が置いてあり、簡易な柵で囲われています。駒札には「礼拝□」とあり、最後の一字は判然としません。たぶん、礼拝石と記されているのでしょう。かつて金堂は仏のための堂宇であり、僧といえども金堂内に入ることは許されませんでした。引用により上記で触れていますが、法要は建物(堂)の前で行われたそうです。堂の前庭で礼拝する、座って本尊を拝むために使われた石だそうです。建物の外で行われる儀式になりますので、「庭儀(ていぎ)」と称するそうです。(資料7)さて、金堂の西面出入口を出たところで、西側の五重塔に移ります。つづく参照資料1) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 2) 『法隆寺の謎と秘話』 高田良信著 小学館ライブラリー3) 『隠された十字架 法隆寺論』 梅原猛著 新潮文庫 p3104) 『法隆寺の謎を解く』 武澤秀一著 ちくま新書 p140-167、p197-2015) 東塔 :「薬師寺」6) 文化財防火デーの契機となった法隆寺金堂火災 消防雑学辞典 :「東京消防庁」7) 庭儀 :「コトバンク」補遺國宝 法隆寺壁画 焼く :「NHKアーカイブズ NHK名作選 みのがしなつかし」法隆寺(焼損から再現まで) :「新美術情報2017」法隆寺壁画焼損、あの日刻んで 26日は文化財防火デー :「朝日新聞」法隆寺金堂壁画 :ウィキペディア法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 -文化財写真の軌跡- :「奈良国立博物館」特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」 :「東京国立博物館」法隆寺金堂壁画と百済観音 展覧会公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -1 法隆寺への道・南大門・境内子院 へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -3 法隆寺:西院伽藍(2)・若草伽藍・聖霊院・大宝蔵院ほか へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -4 子院・東大門・東院伽藍ほか探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -5 中宮寺・史跡中宮寺跡 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術>
2020.02.02
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先日、ある講座の最終回、「聖徳太子と斑鳩の寺院と宮殿跡」というテーマでの探訪です。当日は、法隆寺iセンター前に集合し、法隆寺の西院・東院両伽藍~中宮寺~中宮寺跡を巡りました。その事後学習と記録整理を兼ねたご紹介です。JR大和路線の法隆寺駅で下車し、駅構内にある観光案内所で周辺マップをいただきました。法隆寺駅から法隆寺参道までは徒歩15分位とのことなので歩いて行くことにしました。冒頭の景色は法隆寺駅の北口です。駅前広場には電飾ツリーと鹿像などが設置されていました。夕刻以降に点灯されるのでしょう。まずは駅前の道を北に進みます。 道路の突き当たりに道路標識が数多く設置されています。法隆寺はここから1.5km、法隆寺iセンターはその手前で1.2kmです。標識に導かれて、左折し道沿いに進みます。 ほどなく県道5号線との交差点で、ここに大きく北方向への案内板が出ています。一番上の道標には法隆寺1.3kmと記されています。右折して県道5号線沿いの歩道を北上します。 「法隆寺東」交差点に到るまでに、大きな「斑鳩町案内地図」が設置されています。その地図から部分図を切り出し、カラーの丸印を追記してみました。マゼンタ色の丸がJR「法隆寺駅」、現在地と地図に記されているのがこの案内地図の設置場所です。その北側の紫色の丸が「法隆寺東」交差点で、緑色の丸が「法隆寺」のあるところです。法隆寺から東方向の黄色い丸が「中宮寺」で、さらに東側の茶色い丸のあたりが「史跡中宮寺跡」の所在地を示しています。これで今回の探訪地の位置関係がおわかりいただけることでしょう。「法隆寺東」交差点で道路を横断して国道25号線沿いに西に進むことに。 国道沿いに「法隆寺前」のバス停が少し先に見えました。国道の反対側にはかなり広い法隆寺観光自動車駐車場になっています。 国道を横断し法隆寺参道に向かうと、集合場所の手前です。参道入口の傍に大きな「斑鳩めぐり案内図」が設置されています。その斜め背後に見える建物が法隆寺iセンターでした。集合場所を確認してから時間のゆとりがあったので少し周辺探訪から始めました。それでは今回の探訪を始めましょう。 法隆寺iセンター前の歩道から法隆寺の方向を眺めた景色法隆寺南大門前は南北に幅広い参道域があります。これは参道域東側の舗装された道路とかなりの幅のある歩道を南大門の方向に眺めた景色です。 国道側に後戻りして、国道傍から参道を眺めることから始めました。「聖徳宗総本山 法隆寺」という寺号石標と「史跡法隆寺旧境内」と刻された石標が国道傍に東西に立ち、その間を松並木の参道が南大門の方向に一直線に200m余のびています。この参道の西側には、東側と同様の舗装道路があります。 中央の参道を北に少し進むと、東方向に「法隆寺iセンター」の全景が見えます。法隆寺に松がたくさんあるのは、聖徳太子にまつわる一つの伝説によるそうです。”太子が三歳のときに、用明天皇から桃の花と松の若木を示されて、「どちらが好きか」とたずねられたのに対して、「松のほうが好きです」と答えられた。そこで、「なぜ松のほうが好きなのか」と天皇が問われたのに対して、「桃はぱっと一時は美しいけれど、すぐ散ってしまいます。それに対して松は年中青々として変わることがありませんから、私は松の方が好きです」と答えられたという伝説によって、法隆寺の境内には松がたくさん植えられているというのである。”(資料1)とか。鎌倉時代の文応2年(1261)の記録に南大門前の左右に松の木を植えるという記録があり、また、江戸時代の記録では、この松並木を「松の馬場」と呼んでいたと言います。(資料1) 参道を直進し、南大門前にある東西方向の道路手前から南大門方向を眺めて、パノラマ合成した景色です。南大門は法隆寺の正門です。 道路を渡り、南大門に近づきます。両サイドの眺めです。左が西方向、右が東方向です。 そして、前方・北側に「南大門」があります。南大門の正面に立つと、開かれた門扉の先に「法隆寺中門」のほぼ全景が見えます。南大門は三間一戸八脚門で入母屋造です。現在の南大門は室町時代の永享6年(1434)に焼失し同10年に再興されたものだそうです。棟札の銘文により豊臣秀頼が慶長11年(1606)に修理をしていることが分かっています。(資料2)なお、永享7年に焼失という説(資料1)もあります。 南大門の左右には瓦葺築地塀の大垣が巡らされています。この大垣は文応2年頃に作られたそうです。文応2年は年号が変わり弘長元年になるのですが、その9月4日に後嵯峨天皇が法隆寺に行幸されることになり、その行幸に際し境内整備として新たに築地塀が作られたことによるそうです。(資料1) 南大門の少し手前に設置された案内板「史跡法隆寺境内」と「法隆寺境内図」です。境内図の左下に青い丸を追記した箇所が南大門のある位置です。南大門から真っ直ぐ上方向、北にあるのが「東院伽藍」になります。そして、境内図の右辺にあるのが夢殿の所在する「西院伽藍」と現在の「中宮寺」です。南大門を眺めましょう。 向かって右、東側の降棟の鬼瓦(左)と稚児棟の鬼瓦(右) 西側の棟の鬼瓦と降棟先端の鬼瓦 向かって左、西側の稚児棟の鬼瓦(左)と隅棟の鬼瓦(右)。鬼瓦はそれぞれに特徴があり、おもしろい。 南大門の柱を見上げますと、木鼻はシンプルな造形で、組物は二手先のようです。平三ツ斗や連三ツ斗が使われています。 正面を見上げると、漆喰で塗り固められた欄間部分は、蟇股ではなくて大斗の上に雲形と思える肘木がのり二つの小斗が組まれた形式です。二ツ斗が規則的に並び支えています。 控柱の礎石の形状が様々なのもおもしろいところです。 南大門の石段下をふと見ますと、おもしろい石が目に止まります。石段を上がるときは意識していませんでした。魚の形をした踏石です。「鯛石」と称される石で「法隆寺の七不思議」の一つに数えられるものです。”伝えによれば、大和一円が水害にあった場合、水が南大門に押しよせても決して寺内に入らなかったという。そこで南大門の下に魚の形をした石を据え、魚もここまで泳いできたということを示したものという。これはとりもなおさず、法隆寺が最高の立地条件のもとに建っていることを意味するものであり、この地を選ばれた太子の遺徳を讃える、太子信仰上の伝説であることを物語っている。”(資料1) 南大門を潜ると、中門の背後西側に五重塔の上部が見えます。この南大門と中門までかなりの距離があります。「創建当時は現在の場所から50mほど北にあった」(資料1)とされています。中門の前方の下辺りにあったという説があることから、多くのトレンチを入れて調査してもその証拠が検出できていないと言います。一方、防災工事の際に現在の南大門中央の断ち割りが行われ、その時の調査では、「現敷瓦の下に永享6年(1434)の焼失の痕跡があり、その直下に約9cmの漆喰層、その下にも焼土が確認できた」という所見があることから、創建当時も現在の位置と変わらなかったのではないかという意見もあるそうです。(資料2)未だ確定していない法隆寺の謎の一つと言えるのかもしれません。 南大門の内側を西側から眺めた景色。東側の築地塀の向こうは「宝光院」です。 屋根の棟には鯱が据えてあります。 南大門を入ると、西側に「地蔵院」の表門が見えます。 鬼瓦は阿吽、飾り瓦は左右が異なります。左(南)は兎で、右(北)は獅子です。 地蔵院の北隣りの門には「聖徳宗宗務所」の木札が掲げてあります。手前に「西園(さいおん)院」があり、その西側に寺務所があります。この門は現在では檜皮葺になっていますが、邸宅の単層門で「上土門(あげつちもん)」と称し、かつては屋根を土で葺いた門だったと言います。(資料2) 上土門のすぐ北側に、両側面が唐破風の平唐門があります。 この平唐門から西園院の客殿の屋根が見えます。私は初めて見る屋根の形式です。杉皮を竹で押さえた「大和葺(やまとふき)」だそうです。(資料2) ここの一連の築地塀は、版築という工法で作られている築地塀です。中国伝来の技術。「型枠を設けて中に玉石を敷き詰め、その上に石灰と小砂利混じりの粘土を混ぜ合わせて棒で突き固め、さらにその層の上に砂を敷き、また前の作業を繰り返しながら少しずつ壁を高くしていく」(資料3)という工法です。堅固な構造物ができる技術がここに使われているそうです。また、平唐門・唐破風の棟の獅子口に目をやると、そこには獅子像が見えます。この部分に使われるのはめずらしい・・・・そんな気がします。 参道の東側に目を転じますと、宝光院の北側には「輪堂」の屋根、さらに北側に「弥勒院」の護摩堂が見えています。 弥勒院・参道に面した門の屋根の鬼瓦 護摩堂の屋根に目を転じると、ここにも鬼瓦があちこちに。 棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦(左)と隅棟・稚児棟の鬼瓦 庇の鬼瓦 それでは、東西方向の道路を横切り、西院伽藍に向かいましょう。つづく参照資料1) 『法隆寺の謎と秘話』 高田良信著 小学館ライブラリー p9-13、p642) REC講座「聖徳太子と斑鳩」レジュメ資料(2019年11月~2020年1月) 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 3) 『木造建築用語辞典』 小林一元・高橋昌巳・宮越喜彦・宮坂公啓[編著] 井上書院補遺法隆寺 ホームページ 境内図 法隆寺iセンター ホームページ法隆寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -2 法隆寺・西院伽藍(1) へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -3 法隆寺:西院伽藍(2)・若草伽藍・聖霊院・大宝蔵院ほか へ探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -4 子院・東大門・東院伽藍ほか探訪 奈良・斑鳩の里 法隆寺・中宮寺を巡る -5 中宮寺・史跡中宮寺跡 へ
2020.02.01
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京都の四条大橋東詰で、四条通の南側には南座があります。南座に前進座公演の観劇に出かけた際、開演前に少し川端沿いを散策しました。先日、「七条から三条へ 寺と地蔵尊と町並ウォッチング」という探訪記をご紹介しました。その補足という位置づけにもなります。上掲の探訪記をまとめるにあたって地図を参照していて、改めて鴨川、川端通と琵琶湖疏水の位置関係に気づきました。冷泉通の北側沿いに西に流れてきた琵琶湖疏水は、鴨川のところで南に向きを変えて川端通の西側を南方向に流れます。鴨川と並行する形で流れるのですが、御池通に架かる御池大橋の少し先で、琵琶湖疏水は暗渠化します。御池通の先、三条・四条を経て、鴨川に架かる「団栗橋」に先までは疏水は地下に潜っています。そして、団栗橋の南から、川端通の東側に位置を変えて南に流れる形に変わります。松原通までは琵琶湖疏水が地表面を流れています。そして、疏水沿いの東側に道路が南に並行しているのです。通りに沿って、北から南に宮川筋1丁目~同5丁目が隣り合っています。この通りの一筋東側が、「宮川町通」です。こちらの通りは上記探訪記でご紹介しています。四条大橋から南側の川端を歩く事がなかったので、位置関係などを意識していませんでした。この点を現地確認してみたかったのです。冒頭の景色は南座の建物の西面で、川端通に面しています。南座西側出入口の階段南側に駒札と碑が立っています。「阿国歌舞伎発祥地」記念碑 慶長8年(1603)この辺りの鴨河原で出雲の阿国が初めてかぶきをどりを披露したと言います。歌舞伎発祥350年記念として、昭和28年(1953)11月吉例顔見世興行前に、この記念碑が建立されたそうです。(駒札より)さらに66年の歳月を経て、2020年を迎えていることになりますね。 川端通を挟み、西側には鴨川端に小径が遊歩道として設けてあります。この小径の東側は琵琶湖疏水が暗渠になっていて見えません。まずはこの遊歩道を団栗橋まで南に向かいます。 鴨川の西岸には、北側に「東華菜館」、南側に「ちもと」が見えます。老舗のお店が川端沿いに軒を連ねています。 (資料1)これは『都名所図会』に載る「四条河原夕涼」の模様を西側から眺めた挿絵です。左ページには鴨川の東側と河原の間にだけ橋が架けられています。東側には通りを挟んで、北側に2箇所、南側に1箇所、「芝居」という文字目にとまります。南側は「南座」で、北側に「北座」があった状況を描いています。右ページに目を転じると、一番右に「宮川町」、その斜め左上に「どんくりの辻」と記されています。右ページの右下角に「西石垣」と記されています。その左斜め上に、東側の流れに架けられた橋が描かれています。つまり、当時は四条通には、鴨川の全幅に架かる大橋はなかったことがわかります。四条河原での夕涼のこの風景は、旧暦の6月7日から始まり同18日に終わるという期間限定の一大イベントだったようです。その状況をかなり詳しく説明しています。これは天明6年(1786)に、安永9年刊の再板として出版された『都名所図会』に掲載されていて、安永9年刊の初版には載っていません。(資料1,2)では、四条大橋が架けられたのは何時か? 『花洛名勝図会』に挿絵が載っています。 安政4年(1857)に加茂川(鴨川)御浚が行われ、この時に四条橋が架けられたと記されています。長さ50間巾3間の石柱板橋で、高欄つき石柱が42本とその規模が説明されています。(資料3) 南に歩き始めて、小径の左側に目に止まったのがこの駒札です。 上掲探訪記に「宮川」の名の由来に触れています。この駒札が立てられていることを、今回の散策で初めて知りました。駒札の最後に、「なお、四条大橋から松原橋(旧五条大橋)までの間を、古くから特に『宮川』と呼ぶがこの『宮』とは祇園社(八坂神社)のことを指し、神輿を洗い清めたることに由来するとも伝わる。」と記されています。 四条大橋から小径を200mほど南に歩いた団栗橋のところで、一筋東側の道路の歩道をさらに南に歩みます。そして目に止まったのがこの地蔵尊の小祠です。小祠の前に立ち寄り、格子戸の内部を眺めてみましたがよく見えませんでした。 これは小祠の傍から、地表に現れた琵琶湖疏水を北方向に眺めた景色です。左側が川端通で、右側が疏水端の道路と歩道です。その左つまり東側が宮川町です。 疏水の上に設けられた地蔵尊の小祠を祀る一画で目に止まったのが擬宝珠のついた欄干の柱と石橋に使われていたのかと思われる丸い石柱です。疏水に架けられていた石橋の残欠なのでしょう。擬宝珠の下に「疏水」と刻されています。脇道にそれます。鴨川と琵琶湖疏水の間、かつての鴨川堤上が線路となっていて、京阪電車が地上走行をしていました。上記の場所より更に南に歩めば、松原橋です。その南を地上走行する1975年頃の写真が公開されているのを見つけました。こちらからご覧ください。ページの一番下の囲み記事に掲載されています。(「じつは京阪電車の田邉朔郎にお世話になりました」[京阪電車])もう一つ、「団栗橋」について。江戸中期、宝永6年(1709)の京大絵図にはこの橋が記されているそうです。その名は橋のたもとに大きな団栗の木があったことに由来すると言われています。上掲の挿絵に「どんくりの辻」とあるのは「団栗の辻子(づし、図子)」にあたるようです。辻子は次の通りまで通り抜けられるようにつけられた道をさします。その名称はたぶん団栗橋に近いという位置からつけられたのでしょう。(資料4)京都では、天明8年(1788)正月30日に起きた火災(天明の大火)が歴史上最大の火災と言われています。この団栗辻子の民家からの早朝の出火が原因で、東からの強風の影響で鴨川を越えて西、南北に拡大していき、二昼夜燃え続けたそうです。そこで、「団栗焼け」とも称されるとか。(資料5,6)元に戻ります。 疏水沿いの道路の反対側を見ますと、「宮川町歌舞練場」への入口です。宮川町通側で撮った景色は既にご紹介しています。疏水端の道路から、歌舞練場へのこのアプローチを進み、宮川町通を再び北上して、 上掲の探訪記の最後に掲載したこの地蔵尊のところに至ります。ここで右折して歩道を少し歩めば南座です。半時間程度の散策でしたが、四条に出ても普段歩く事のない所で幾箇所かのタウン・ウォッチングをでき、地図と現場が繋がりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)2) 『都名所図会』(安永9年版) 竹村俊則校注 角川文庫3) 花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 団栗橋 :「京都通百科事典」5) 天明の大火 都市史 :「フイールド・ミュージアム京都」6) 団栗辻子(どんぐりのづし) :「京都通百科事典」補遺出雲阿国 :ウィキペディア出雲阿国 :「コトバンク」出雲阿国の墓 :「出雲 観光ガイド」古美術をみる眼2 「歌舞伎の祖 出雲の阿国の墓を訪ねる・ 浮世絵の誕生前夜」:「愛知県共済生活協同組合」京阪三条駅が地上にあった頃、鴨川べりの懐かしい風景:「電車好きな元鉄道員のブログ」 四条駅付近の懐かしい風景も掲載されています。北京料理 東華菜館 ホームページ京料理 ちもと ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.01.23
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