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それでは、青色ゾーンを一旦切り上げて、赤色ゾーンの「鉄道のあゆみ」に進みます。ここでまず目に入るのは大きな機械装置です。 近づいてみると、これは「ワットの振動式蒸気機関」を3/5に縮尺して、1987(昭和62)年に年に国鉄鷹取工場で再現製作されたものです。イギリスのグラスゴー大学で蒸気機関の研究をしていたジェームズ・ワットが1788年に発明、製作したと言います。 a・b・cの箇所はシリンダーです。シリンダー上部(a)にボイラーからの蒸気が入ると、ピストン(b)が押し下げられ、シンダー下部(c)に入っていた蒸気が下に位置するコンデンサー(凝縮器)に移動して冷やされ、bを下げる力になります。次にcに蒸気が送り込まれると、bは押し上げられ、aの蒸気はコンデンサーに移動して冷やされることで、bが引き上げる力となります。これが交互に作用することで、ピストンの上下運動が、歯車を用いたクランクにより回転運動に転換されていくことになります。 この蒸気機関は実際に上下運動を回転運動に転換する動きをデモンストレーションしてくれます。右側車輪の中央歯車に対して、遊星歯車が動いて上の方に移動していることが写真の比較でお解りいただけるでしょう。尚、ジェームズ・ワットは、「1765年、おもに鉱山などで使われていた蒸気機関を改良することに成功しました。それまでピストン運動だった蒸気機関を回転運動に改良したことで、同時に複数の作業が行えるように」(説明パネルより)したそうです。 背後の大きな写真パネルは、リバプールマンチェスター鉄道の遺構写真。ここではロケット号が活躍したとか。 ロケット号の縮尺模型。ジョージ・スティーブンソンが発明した蒸気機関車。彼は1781年、英国のノーサンバーランド州生まれ。17歳から炭鉱で働き始め、炭鉱の技師に。1823年には、息子のロバートとともに、世界初の蒸気機関車メーカー(ロバート・スティブンソン社)を設立しました。(説明パネルより) 世界の各地で活躍した蒸気機関車のイラストが例示されています。 こちらは1825年のロコモーション号の縮尺1/8模型です。鉄道の起源についての説明パネルがあります。鉄道の起源は「16世紀にドイツの炭鉱で木のレールを敷いた道の上を貨車で運んだこと」が起源だとか。手押しの貨車です。この時、既に車輪にフランジを付ける工夫がされていたとか。「18世紀の英国の炭鉱では、金属製のレールが登場し、馬に貨車を引かせたことが近代の鉄道の礎になったといわれています。」(説明パネルより) リチャード・トレビシックが開発した蒸気機関車についての説明パネルがあります。右上の図は1804年の蒸気機関車のレプリカの写真で、その斜め下はその走行想像図。リチャード・トレビシックは、明治時代に車両技術の指導者として来日したそうです。彼は、1771年、英国のコーンウォール地方の炭鉱作業員の家に生まれ、鉱山で働きながら蒸気機関などの技術を学びました。1804年に定置式の高圧蒸気機関の実用化に成功。「その技術を応用して蒸気機関車を製作し、世界で初めて約16kmの距離を約4時間で走行させることに成功しました。」(説明パネルより)世界の公共鉄道は、英国で、1825年9月27日に、ストックトン・ダーリントン鉄道が開業したことを最初とします。そして、1830年にアメリカ、1832年にフランス、1835年にドイツ、ベルギーでの開通という形で広がって行きました。(説明パネルより) 日本人は、江戸時代末期に、模型によって初めて蒸気機関車を知り、鉄道知識を得たそうです。1853(嘉永6)年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した際に、蒸気機関車の模型を披露したとか。また、上掲図は、アメリカのペリーが浦賀に来航した際に、横浜で蒸気機関車模型の運転を披露し、幕府に献上した蒸気機関車模型の図です。 1850(嘉永3)年にペリーが来航した際の船「サスケハナ号」の縮尺1/30模型が展示されています。船体に塗られた樹脂の色から「黒船」と呼ばれました。 「佐賀藩精練方 蒸気機関車模型」(複製)が展示されています。「ロシアのプチャーチンが持参した蒸気機関車模型をもとに、佐賀藩の中村奇輔、田中久重、石黒寬次が製作しました」(説明転記)佐賀藩精練方とは、佐賀藩主・鍋島直正が1852(嘉永5)年に設けた西洋技術の研究機関です。反射炉、大砲、蒸気機関などの研究・製造を行ったと言います。(説明パネルより) 「日本初の鉄道建設」は現在の新橋~横浜間です。明治政府が鉄道建設を決めたのは1869(明治2)年。1872(明治5)年に、鉄道開通式が行われました。 日本初の鉄道開業式が盛大に行われた写真を紹介する説明パネルもあります。パネルの右側には、「1870(明治3)年 民部大蔵省鉄道掛」から始まり、「1987(昭和62)年 JRグループ各社 分割民営化」まで、鉄道に関わる組織名がどのように変遷してきたかをまとめています。 「1号機関車と客車」縮尺1/20 「鉄道蒸気車駃走図」1871(明治4)年 複製 鉄道の開通は人々の時間感覚を変え、生活様式を変える原因になります。鉄道は分刻みで走ります。1日24時間という西欧の「定時法」が使われます。時間の単位が「分」となります。その時間感覚が人々の生活様式へ大きな変化を与えていくことに・・・・・。それまでは、日出から日没までを6等分する時間感覚だったのですから、当初は大変だったでしょうね。鉄道開初当時は、ホームに履物を脱いで汽車に乗ってしまった人がいたというエピソードがあるとか。(説明パネルより) 鉄道開業(1872年)当初の新橋駅と停車場の写真が右側に。駅舎は西洋建築です。開業当初は機関車、レール、切符などそのほとんどが英国からの輸入という形で始まりました。勿論、機関車の運転も外国人の機関士です。日本人が同乗して見習うことから始まり・・・・。駅舎は「ステンショ」「鉄道館」などと呼ばれたそうです。(説明パネルより) 制服 「鉄道会社規則書」所収「西京鉄道株券」の見本が展示されています。「1871(明治4)年かr民間の『鉄道会社』による京都~大阪間などの鉄道建設が計画されましたが実現せず、官設鉄道によって建設されました。」(説明文転記) 「京阪神間の鉄道開業」に関連した展示が続きます。 電気機関車の傍に、機関車の内部構造を示す縮尺模型も展示されています。 「旧逢坂山隧道石額」(旧逢坂山トンネルの西口にあった石額) 石額に刻された碑文 「7100形蒸気機関車『義経』」の模型(縮尺1/15)が石額の手前に展示されています。「1880(明治13)年にアメリカから輸入された8両のうちの1両です。大きなカウキャッチャーと先端が大きく膨らんだ煙突が特徴です」(説明文転記) 「西京大津閒鉄道測量絵図」1875(明治8)年東京に対して、京都が西京と称されています。おもしろい。西京という名称はいつ頃まで使われたのでしょうか・・・・。 「柳ヶ瀬トンネル工事写真」 明治10年代前半 日本人だけで建設した最初の鉄道は、京都~大津間の鉄道建設だそうです。急勾配が続く山岳地帯の難所での工事でしたが、外国人技師の力に頼らずに完成させたと言います。馬場(現在の膳所)~大谷間の逢坂山トンネルがその最初のトンネルになります。(説明パネルより) 1877(明治10)年、鉄道局は大阪に工技生養成所を設置します。日本人技術者に鉄道の建設技術などを指導するためです。選抜された鉄道局の工技生に対して英語・数学・力学・製図などの講義が行われました。写真は前列中央に京阪神建築技師長だったイギリス人のT.R.シャーピントンを囲む工技生養成所の人々。(説明パネルより)当時、鉄道頭の井上勝(1843-1910)は、神戸、大阪、京都での建設を指揮し、鉄道に携わる技術者を養成し、日本の鉄道発展に大きく貢献します。彼は、1843年、長州藩士の家に生まれ、21歳で英国に留学して鉄道技術を学んだ人。後に鉄道局長になったとか。 日本初の鉄道連絡船は、なんと、琵琶湖での太湖汽船の運航でした。大津~長浜間を結んだのです。1882(明治15)年から、1889(明治22)年の大津~長浜間の鉄道開業まで続けられました。 「私設鉄道の誕生と鉄道網の広がり」というテーマでの展示もあります。 日本最初の民間資本による私設鉄道は、1881(明治14)年に設立された「日本鉄道」だそうです。この鉄道の経営は当初から好調だったと言います。写真は上野駅の正面玄関。 1883(明治16)年 上野~熊谷間開業 1884(明治17)年 上野~前橋間開業 1891(明治24)年 上野~青森間開業 (説明パネルより) 明治時代における私設鉄道建設の機運の広がりを説明するパネルも設置されています。 「京都鉄道の車両と駅舎」(1890年代/明治30年代)の写真を展示「1893(明治26)年、京都~舞鶴間を結ぶことを目的に私設鉄道の京都鉄道会社が設立されました。1897(明治30)年、最初に二条~嵯峨間で開業し、1899(明治32)年に京都~薗部間で全通した」(転記) 1893(明治26)年の「鉄道線路図」 上中央は「神戸・新橋間汽車発着時刻表」(1891/明治24年)、下左は「私設鉄道乗車賃金割引券」(1903/明治36年)、下右は「関西鉄道汽車時間表」(1901/明治34年) 上は「東海道線全通時の写真」(1889/明治22年)、下左は「日本鉄道『定款議案文書』」(1880年頃)、下中央は「九州鉄道旅客便覧」(1893/明治26年)、下右は「奈良鉄道『鐵道法令集全』」(1900/明治33年)この辺で一区切りとします。展示品、説明パネルで省略しているものがあります。一方、見過ごしたものもあるかも知れません。大凡はイメージしていただけるかと思います。実物をご覧にお出かけください。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページジェームズ・ワット :ウィキペディアジョージ・スチーブンソン :ウィキペディアリチャード・トレビシック :ウィキペディアカウキャッチャー (鉄道) :ウィキペディアストックトン・ダーリントン鉄道 maintained by (浅井照明) 鉄道国有法 :ウィキペディア100年前、国有化の頃の鉄道 :「都道府県市区町村 hmtマガジン」鉄道の岐路 民営化35年 JRの試練 :「日経ビジネス」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.15
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本館入口前の左側壁面を見ますと、博物館館内の案内図が掲示してあります。 1F部分だけ参考に取り上げました。オレンジ色の屋外エリアは前回ご紹介しました。「トワイライトプラザ」と名付けられています。本館内の赤色ゾーンは「Ⅰ 鉄道のあゆみ」、青色ゾーンは「Ⅱ 車両のしくみ」、緑色ゾーンは「Ⅲ 鉄道の施設」をテーマとする展示です。灰色ゾーンは「車両工場」です。 本館に入るとまず目に止まる位置に同じフロアマップが展示されています。 拡大図です。 入口に近い赤色ゾーンのところで目に止まるのが「233」の銘板の付いた蒸気機関車。これは国産初の量産型蒸気機関車の「230形233号機」です。 この蒸気機関車の右側、建物の右端にエスカレーターが設置されています。「1902(明治35)年から1909(明治42)年にかけて、大阪汽車製造で41両も製造された国産初の量産型蒸気機関車です。日本人の体格を考慮した設計や、安定した運転性能が評価され、官設鉄道のほか北越鉄道と北海道鉄蔵にも納入されました。 本機は大正時代中期までは幹線で活躍しましたが、大型機関車の登場により地方線区で運用され、最後は工場の入換機として1959(昭和34)年まで使用されていました。2016(平成28)年には国の重要文化財の答申を受けました。」(案内板転記) 重要文化財(美術工芸品)に指定登録されたことの案内銘板が設置されています。 「製造年:1903(明治36)年度、製造所:汽車製造、全長:9.76m、自重:35.9t、軸配置:1B1」(案内板転記) 時代がうかがえます。「汽車製造合資會社」の社名が右から左に表記されています。「大日本帝国大阪」という時代を彷彿とさせる表記。「KWAISHIA」というローマ字表記法。今なら「KAISHA」と表記することでしょうね。 「鷹取工場 昭和42年10月 復元」という銘板が取り付けてありますので、修復が施されているということでしょうか。次に、入口に近い青色ゾーンの部分がやはり目に止まります。こちらは「車両のしくみ」の一環として実物車両を展示してある区域です。 まずこちらの新幹線電車に目が惹き付けられます。「500系521形1号車」です。 車両の傍に、この案内板が設置されています。 壁面に展示されているエンブレム 新幹線電車の右側には、車両正面の「月光 GEKKO」の表示で特急「月光」とわかります。「クハネ581形35号車」です。 高度経済成長期に万能型電車として開発され、昼は座席車、夜は寝台車として利用できたそうです。 さらに、右側には特急「雷鳥」が展示されています。「クハ489形1号車」ボンネット型の特急用交直流電車です。 特急「雷鳥」は富山に行く時に乗り馴れてきた電車なので、案内板を見過ごしてしまいました。「製造年:1971(昭和46)年、製造所:東急車輌製造、車両全長:21,60mm、車両全幅:2,949mm、車両全高:3,880mm」(資料1)500系新幹線電車、特急「月光」、特急「雷鳥」の車両の間はプラットホームのように一段高くなっていて、窓から車両内部を眺められるようになっています。このプラットホームを先頭側から反対側まで行くと、、 「たからコンテナ特急」「ヨ5000形5008号車」と、その後に貨車「ワム3500形7055号車」が展示されています。ワム3500形貨車は写真を撮り忘れました。ヨ5000形貨車は、宇都宮貨物ターミナルにて保存されていたものが、2015年3月1日にこちらに移設され、「たから」号時代の色に戻されたそうです。日本国有鉄道時代、1959(昭和34)年から1968(昭和43)年頃までに製造または改造により登場した事業用貨車だそうです。(資料2)この後は、まず赤色ゾーン「Ⅰ 鉄道のあゆみ」から見学していくことにしました。つづく参照資料1) 京都鉄道博物館 ホームページ2) 国鉄ヨ5000形貨車 :ウィキペディア補遺寝台特急月光◆データファイル :「愛称別トレインデータ館」寝台特急「月光」 :「夜行列車資料館」特急雷鳥 :「Blue Signal」サンダーバード :「JRおでかけネット 車両案内」サンダーバード (列車) :ウィキペディア貨車 :ウィキペディア国鉄ワム3500形貨車 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.13
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こちらも、京都駅から一駅のJR嵯峨野線「梅小路京都西」駅から始めます。この改札口から出ると、南西方向に この建物が見えます。 建物に近づくと、「京都鉄道博物館」の表示があります。館名の前に付けられたロゴは何を表現しているのか。その形からみて、京都鉄道博物館の建物と梅小路蒸気機関車庫の平面をデザイン化したものと推測します。白い壁面の背後に少し見えているのは「旧二条駅舎」です。 来館者が多い時の為の仮設入館導入路が設けてあり、ガラス面の入口が見えます。入口を入ると、左側に入場券売機が設置されています。セルフサービス方式です。 これが当日の入館券斜め右方向に進むと、まず目に飛び込んでくるのが、 「C6226」の銘板が正面に付いている大型高速旅客用蒸気機関車「C62形26号機」です。蒸気機関車の傍に案内板が設置してあります。「1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて49両が製造された日本最大の旅客用テンダー式蒸気機関車で、動輪の直径は1,750mmです。本機は特急『つばめ』『はと』などのけん引機として活躍しました。なお、C62形17号機は1954(昭和29)年に狭軌の蒸気機関車としては世界最速の129km/hを記録しました。」(案内板転記) この説明の他に、この蒸気機関車の仕様が併記されています。「製造年:1948(昭和23)年、製造所:川崎重機、全長:21.47m、自重:100.1t、動輪直径:1,750mm、軸配置:2C2、最高運転速度:100km/h」(案内板転記) C6226の右隣りには、「クハ86形1号車」が並んでいます。「80系直流電車は、東海道本線の旅客列車の電車化を図ることを目的として開発されました。15両編成という日本初の長大編成電車として、1950(昭和25)年から東京~沼津間で運行が開始されました。オレンジと緑の塗色は『湘南色』と呼ばれています。座席は4人掛けとなっていますが、乗降口付近は乗り降りがしやすいように前方は2人掛け、後方は3掛けのロングシートが設けられています。」(案内板転記) 「製造年:1950(昭和25)年、製造所:日立製作所、全長:20.00m、自重:32.4t、定員:155人 (座席79、立席76)」(案内板転記) クハ86形1号車の右隣りには、「0系21形1号車」(初代新幹線電車)が設置されています。こちらは大阪方先頭車だそうです。 ここで案内板の実例を載せておきます。トップの行は、いわゆるキャッチフレーズで的確に最重要点をアピールしています。左側に車両の型式が明示され、さらにその下に仕様が簡略に説明してあります。右側には総合的な説明が記されています。「0系新幹線は、1964(昭和39)年に東海道新幹線用として登場し、最高運転速度210km/hで運行を開始しました。そして翌年には、東京~新大阪を3時間10分で結びました。 0系21形は大阪方の先頭車で、社内は3人+2人掛けの普通座席と、和式トイレや男性用トイレ、洗面台が2組設けられています。」(案内板転記)「製造年:1964(昭和39)年、製造所:日本車輌製造、全長:25.1m、自重:57.6t、定員75人、最高運転速度:210km/h」(案内板転記)説明文の右上に、車両のイラスト図とQRコードが載っています。このQRコードにスマホのカメラをかざすと、ネット情報として車両についての知識を学ぶことができます。帰宅後に、QRコードの写っている上掲写真でQRコードをスキャンして試してみました。案内板の左隣りには、「機械遺産認定証」が設置してあります。この0系21形1号車は「機械遺産第11号」となっています。社団法人日本機械学会が発行する認定証です。記録写真を撮ったのですが、画像が見づらいものになったので省略します。現地でご覧ください。この車両が並ぶ間に階段があり、プラットホームに上がる感じですが、ここが本館に向かう「プロムナード」(散歩道)になっています。プロムナードは南の方向へ、列車の編成展示が、真っ直ぐになされています。つまり、本館入口に到るまでに、結構楽しめます。私は、まずこのプロムナードのエリアを鉄ちゃん気分で行ったり来たりして写真を撮ることから、見学を始めた次第です。 蒸気機関車C6226の後には、「マロネフ59形1号車」が置かれています。「皇族、貴賓専用のマイロネフ37290形として製造された1・2等寝台客車で、のちにスイロネフ38形と称号改正されました。戦後は日本に進駐した連合軍が接収し、返還後は当時の皇太子の非公式用車両・スイロネ37形となり、1955(昭和30)年にはマロネフ59形となりました。1等寝台部分は個室、2等寝台部分は通路両側に上下二段の寝台が配された『プルマン式』となっており、乗り心地を重視して3軸台車が採用されています。」(案内板転記)「製造年:1938(昭和13)年、改造年:1952(昭和27)年・1955(昭和30)年、製造所:鷹取工場、改造所:大井工場、全長:20.00m、自重:38.9t、定員:14人)」(案内板転記) 「マロネフ59形1号車」の後は、「スシ28形301号車」です。「当初は食堂車と2等座席の合造車であるスロシ38000形として製造されましたが、戦後、3等座席の合造車スハシ38形として急行『日本海』などに連結されました。乗り心地を重視した3軸台車が採用されています。1961(昭和36)年、旧交通科学博物館での展示時に、車内全室が食堂車に改造されました。このとき、座席配置が2人掛け+4人掛けテーブルから4人掛+4人掛テーブル、形式番号はスシ28形301号車となりました。」(案内板転記) 「製造年:1933(昭和8)年、改造年:1961(昭和36)年、製造所:日本車両製造、改造所:鷹取工場、全長20.00m、自重:37.8t、定員:44人」(案内板転記) 上掲食堂車の後には、「クハ103形1号車」。高度経済成長期の代表的な通勤形電車「クハ103形電車は、1964(昭和39)年から1984(昭和59)年にかけて3,447両が製造された103系通勤形電車の先頭車です。通勤客輸送の増大に対応するため、加減速性能や経済性に重点をおいて開発され、各線区ごとにさまざまな塗色が採用されたことも特徴です。関西地方では、大阪環状線のオレンジ色や阪和線のスカイブルーなどが代表例です。」(案内板転記) 「製造年:1964(昭和39)、製造所:日本車輌製造、全長:20.00m、自重:26.9t、27.4t、定員:136人(座席48、立席88)」(案内板転記) クハ86形1号車の後続は、「ナシ20形24号車」です。「ナシ20形は、1958(昭和33)年から運行が開始され、『ブルートレイン』の愛称で親しまれた20系寝台特急列車の食堂車です。ナシ20形24号車は、1970(昭和45)年に製造され、東京~九州間を結んだ寝台特急『はやぶさ』や、東京~東北間を結んだ寝台特急『あけぼの』などに連結されていました。」(案内板転記) 「製造年:1970(昭和45)年、製造所:日本車輌製造、全長:20.50m、自重:290.9t、定員:40人」(案内板転記) 上掲食堂車の続きには「DD54形33号機」が置かれています。案内板を撮り忘れました。京都鉄道博物館ホームページの情報によれば、「西ドイツのエンジンと液体変速機を採用したディーゼル機関車」です。プロムナードにある展示の最後は、初代新幹線電車「0系21形1号車」の後続部分です。 本館入口側は、後でよく見ますと少し形状が異なっていることに気づきました。こちらは「0系22形1号車」で先頭車です。また、両1号車の間には、0系新幹線のグリーン車と食堂車が展示されています。(これらの案内板も未確認です) こちらの先頭車は車両内部が展示室になっています。0系新幹線電車のパンタグラフとモーター、高速走行のための台車構造の模型(DT200型台車)、0系新幹線電車の模型などが説明パネルとともに展示されています。 0系新幹線電車の座席も一部展示 先頭車の運転室にも入ることができます。思っていたよりも狭い空間だなという印象でした。本館へと進む前に、この本館建物の東側にある この展示空間をご紹介します。切妻造の屋根を設けただけのシンプルな展示空間です。 向かって右側には、寝台特急「トワイライトエクスプレス」が展示されています。これは、「EF81形103号機」と称される電気機関車です。「近畿地方と東北地方を結ぶ日本海縦貫専用の貨客両用機関車として開発された車両です。直流区間と50Hz・60Hzの交流区間に対応できるため、東北地方から九州地方まで各地で運用されました。国鉄の分割民営化後、JR西日本の車両は敦賀運転所に配置され、本機を含む6両が寝台特急『トワイライトエクスプレス』の指定機となりました。」(案内板転記) 「製造年:1974(昭和49)年、製造所:日立製作所、全長:18.60m、自重:100.8t、軸配置:BBB」(案内板転記) 「スシ24形1号車」は「トワイライトエクスプレス」の食堂車「2015(平成27)年に引退した寝台特急『トワイライトエクスプレス』に使用されていた食堂車『ダイナープレヤデス』です。特急型交直流電車の食堂車サシ489形3号車から改造されました。内装はステンドグラス、電動シェードやじゅうたんなどが使われ、高級感のある車内ではフランス料理を味わうことができました。」(案内板転記) 「スロネフ25形501号車」は「トワイライトエクスプレス」の編成中でもっとも豪華な寝台客車だそうです。「車両の一角から景色を占有できるスイートルームや大型のベッド、ソファが設置されたロイヤルルームがあり、1両に5部屋しかなく、定員はわずか6人でした。」(案内板一部転記) 向かって左側に「EF58形150号機」 これは戦後を代表する電気機関車だとか。「1946(昭和21)年~1958(昭和33)年までに172両が製作された直流電気機関車です。当初は前後にデッキを備えた車体でしたが、1952(昭和27)年よりデッキを廃した流線形車体となり、東海道・山陽・上越・東北・紀勢などの直流電化区間で活躍しました。150号機は1958(昭和33)に製造され、1985(昭和60)年まで活躍して廃車となりましたが、後に車籍が復活され、2011(平成23)年までイベント列車等に使用されました。」(案内板一部転記)「製造年:1958(昭和33)年、製造所:東京芝浦電気、全長:19.90m、自重:115.0t、軸配置:2CC2」(案内板一部転記) 「オロネ24形4号車」は快適さを求めた寝台客車「24系寝台客車は、火災対策や快適性向上を実施した国鉄型寝台客車最後のグループで、533両が製造されました。オロネ24形は、中央の通路を挟んで上下2段の寝台が並ぶ開放型A寝台車(プルマン式)です。本車両は、寝台特急『あかつき』『彗星』の運転開始にあわせて製造され、その後もさまざまな寝台特急に使用されました。」(案内板転記)「製造年:1973(昭和48)年、製造所:日本車輌製造、全長:21.30m、自重:33.6t、定員:28人」(案内板転記) 「EF65形1号機」は電気機関車の黄金時代を築いたそうです。「EF65形電気機関車は電化路線のために設計されえ、その完成度の高さから日本の電気機関車で最多となる308両が製造されました。貨物用、旅客用、客貨両用などのグループがあり、現在でもJR貨物で活躍しています。本機は、貨物列車専用機として活躍していました。」(案内板転記)「製造年:1965(昭和40)年、製造所:川崎車両 川崎電気製造、全長:16.5m、自重:96.0t」(案内板転記) プロムナードの南端の先に、博物館本館の入口があります。では、京都鉄道博物館の本館に入りましょう。つづく参照資料京都鉄道博物館 ホームページ補遺寝台車(鉄道) :ウィキペディアプルマン(企業) :ウィキペディアA寝台 :ウィキペディアB寝台 :ウィキペディア車軸配置 :ウィキペディアブルートレイン(日本) :ウィキペディアトワイライトエクスプレス :ウィキペディアTWILIGHT EXPRESS 瑞風 MIZUKAZE 公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.12
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6日(月)の午後、京都鉄道博物館と梅小路公園の観梅に出かけてきました。JR嵯峨野線に「梅小路京都西駅」ができているのは知っていたのですが、利用したことはなかったので、下車してみたかったのも一要因。京都駅から一駅です。 改札口を出ると、すぐ目の前にこの「梅小路公園 案内図」が設置されています。 部分図を撮りませんでしたので、案内図から切り出した部分図に丸印を追記しました。黄緑の丸印が「梅小路京都西駅」で、赤の丸印が案内図のある現在位置。マゼンタの丸印が京都鉄道博物館です。これで大凡の位置関係がわかることでしょう。京都鉄道博物館を見学してから、梅小路公園を散策し観梅したのですが、ここでは先に梅小路公園と観梅を先にご紹介したいと思います。 歩道の傍に、道路標識(右:京都鉄道博物館、左:京都水族館)となぜか亀の銅像があります。 梅小路公園に入り、入口に「朱雀の庭 緑の館 レストラン」と表示した建物の前を通り過ぎ、散策路沿いに右折し公園の南辺部の散策路沿いに東の方向に進むことになります。上掲案内図で大凡はイメージしていただけるでしょう。 道路標識の上端には、デフォルメした列車像が置かれています。 赤丸印を追記した場所(現在地)に設置された案内図。案内図は要所要所に設置されています。さらに、 こんな道路標識も。この像はサンショウウオでしょうか? 先に歩めば、公園内に設けられた小川が流れています。 かつて平安時代後期には、この辺りに「西八条第(/八条亭)」と呼ばれる平清盛の六町を有する広大な邸宅があったと言います。『平家物語』に出てくる妓王・祇女や仏御前の物語に出てくる邸がここです。「その跡地は下京区観喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる」(説明文より)”治承5年(1181)閏2月4日に清盛は64歳で没し、その2日後、この邸で火災が発生した。『平安物語』巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜、にはかに焼けぬ。・・・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。 『玉葉』によると、のちに再建された建物も、寿永2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ、邸宅は残すところなく灰燼に帰した。文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦において安徳天皇は水死、平家はここに滅亡して、約400年間続いた平安時代は終わりを告げる。”(案内文の後半を転記) 公園の南辺、JRの線路側に咲く紅梅・白梅の木々。「南側梅林」と称されています。後掲の案内地図の説明によれば、「2月下旬が見頃。遅咲の梅が多い」と記されています。 道路標識の上端には、新幹線先頭車形の像が置かれています。 北方向を眺めると、広大な芝生広場の向こうに「京都水族館」が見えます。 京都水族館の建物をズームアップ! 「東側梅林」へ向かう手前に設置されている「梅林てくてく散策MAP」です。梅こみちを歩きつつ、「東側梅林」で観梅を続けます。(北側梅林はスキップしました。) この紅梅の木には「43 大盃(おおさかずき)」という品種名札が付けてありました。 冬至 冬至 新平家 新平家 新平家 54 見驚 54 見驚 春日野 春日野 緋の司 緋の司 春日野 春日野 豊後木の幹に「豊後」という名称札が取り付けてあります。 その傍に、「開智幼稚園の梅」という札が立ててあります。 幼な子の園より来たる開智梅 香りの中にしばし遊ばん 平成29年10月 開智自治連合会寄贈「梅のこみち」に沿って北に進むと、このこみちの入口傍に、 昔なつかしい京都市電が置かれていました。梅小路公園の北東隅に位置する「大宮入口」を出て、この後京都駅ビルに向いました。この「大宮入口」と公園の南東隅に位置する「大宮南入口」は、南北の通りである「大宮通」に面しています。久しぶりに梅小路公園の梅を眺める機会となりました。ご覧いただきありがとうございます。補遺梅小路公園 :「京都市都市緑化協会」朱雀の庭 :「京都市都市緑化協会」京都鉄道博物館 ホームページ京都水族館 公式サイト京都市立開智幼稚園 :「京都市」 ⇒ 平成29(2017)年3月閉園 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.03.08
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道路傍の案内板上大谷の古墳公園を出た後、幹線道路に戻り道沿いに西方向に進みました。下大谷バス停の先、信号のある交差点で左折して、南に方向を転じます。芝ヶ原地区を通過することになりますので、以前探訪した時の記憶を辿り、史跡芝ヶ原古墳に少し立ち寄ってみました。 ここは入口の傍に「史跡芝ヶ原古墳」碑が設置してあります。 入口を入った先にまず見える前方後方墳です。 古墳の傍に設置された案内碑。他にも案内板が設置されていますが、省略します。 上掲古墳は丘陵地の高台にあり、後方墳の北側は丘陵地の斜面となり、かなりの高低差のある凹地が広がり、遊歩道が設けてあります。 傾斜地を降りた凹地に城陽市域にある古墳群を立体化した模型地図が設置されています。 高台にある後方墳北辺側の遊歩道傍から、北西側を眺めると、住宅地の背後の森にみえる辺りが久津川車塚古墳です。 立体模型でこの地域を西側から眺めると、手前の青丸が久津川車塚古墳で、赤丸が芝ヶ原古墳のあるところです。芝ヶ原古墳の左(南)の灰色の方形区域が「正道官衙遺跡」の位置になります。 この後、下大谷橋に戻り、下大谷地区を歩いてみたのですが、スマホの地図アプリには下大谷古墳(1号墳)の表示がないので行き着けず失敗。ここも課題として残りました。周到な準備でなかったのが原因というところ。運動不足の解消にはなりました。再び、元の交差点を横断し、幹線道路沿いに南方向を目指します。 せっかくここまで戻って来たのだからと、「正道官衙遺跡」にも立ち寄ることに。 ここも北東側の入口は丘陵地の高台にあり、眼下に平らな方形の官衙遺跡を眺めることになります。 坂道を下ると前方に庁屋(ちょうや、左)と副屋(そえのや、右)の復元建屋が見えます。以前に探訪したときは、副屋の北側、かつて正倉があった場所の景色をほとんど撮りませんでした。そこで、折角の機会なので今回は補足としてその場所に着目しました。 副屋から北を眺めた景色。ここに正倉があったそうです。 この官衙の正倉遺跡地北辺から南を眺めた景色です。 庁屋を北西側から眺めた景色庁屋からはこの官衙遺跡の中央を南進し、この遺跡の南辺にある細い小径を西端まで試しに歩いてみました。西端には直立に近い傾斜度のコンクリート階段が設置されていましたので、何とか住宅地域の道路に出ることができました。まあ、この方向から正道官衙遺跡にアプローチする人はないでしょう。勿論標識は見当たりません。ここからはJR城陽駅まではあと少し。 終着点に戻りました。振り返ってみると、幾つか未訪古墳を残しました。三度目の正直じゃないですが、次の機会にはこの未訪古墳を踏破したいと思います。ご鸞いただだきありがとうございます。補遺城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 城陽市史跡巡りマップ :「城陽市教育委員会」 今回、探訪記事をまとめていて、入手した情報です。 この地図のことを知っていたら、もっとスムーズに史跡めぐりができたのに・・・・。 pdfファイルのダウンロードができます。次回は遅ればせながら利用しよう・・・・。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡探訪 京都府城陽市 歴史散策 -3 芝ヶ原古墳・丸塚古墳探訪 京都府城陽市 歴史散策 -4 久津川車塚古墳・芭蕉塚古墳・平川廃寺跡ほか
2023.01.22
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標識に従い、一筋目を南方向に左折します。右側にこのコンクリート階段が見えます。先ほどの古墳公園の感覚で、これがその入口と推測できます。 階段を上がりきると、「上大谷古墳群第14号墳」の表示があります。その傍に、さらにコンクリート階段が設けてあります。 さらに階段を上ると、比較的平らな場所になっています。西方向に歩むと、 右方向に、角柱の標識が建てられいます。「城陽市指定史跡 上大谷一四号墳」と表記されています。 西方向を撮った景色 西側から、上ってきた階段の方向(東)を撮った景色です。階段が二段になっていましたので、少し古墳らしい感じを受けるくらいで、標識がなければちょっと小高い削平地という印象だけになる感じです。さて、メイン道路に戻り、道路を横断して北側の3番目の古墳公園を目指します。 道路を横断すると、階段が前方に見えます。歩道面には左の画像の状態の標識がありました。右側は読みやすいように回転させたものです。十字路の横断箇所ではありませんので、十字路方向に14号墳への方向が示されていることになります。 コンクリート階段を上がり、途中で振り返って撮った景色です。メイン道路の反対側に見える石垣の箇所が、第14号古墳の位置です。3番目の古墳公園との高さの違いもイメージしていただけることでしょう。 古墳公園の入口近くには、今では判読がしづらくなってきた案内板が設置されています。「上大谷古墳群 城陽市指定史跡名勝天然記念物(史跡) 平成2年4月16日 指定 上大谷古墳群は、4世紀後半から7世紀の古墳時代を通じて築かれた古墳群で、20基の古墳からなる。円墳・方墳・前方後円墳などさまざまな墳形が集合し、各種の埋葬施設をもっている。出土品の中には、日本でも出土例の限られている虁鳳鏡(きほうきょう)、飛禽文鏡(ひきんもんきょう)などがあり、久津川古墳群の中でも特色ある古墳群といえる。 古墳群は、宅地造成計画の中で確認された。20基の古墳のうち1~5、8、14、18~20号墳の10基が現状で、17号墳の横穴式石室は移築され、宅地開発事業者の協力で保存が図られている。 保存された各古墳は、古墳群の中でも代表的な古墳であり、上大谷古墳群を理解する上で貴重である。 説明板は、18~20号墳の保存地区内に設置している。 城陽市教育委員会 」(案内板 説明文転記) 案内板の左上に「上大谷古墳群位置図」が掲載されています。色調補正の画像処理をしてみました。この古墳位置図を後で見て分かったことですが、最初の古墳公園での第1号墳は前方後方墳。第14号墳は方墳だったそうです。古墳分布図の右上側に▲印があります。その位置にこの案内板が設置されています。これで、位置関係がご理解いただけるでしょう。 案内板から一番近い最初の角柱標識見えます。近づくと「上大谷第18号墳」です。 東方向に、「上大谷第19号墳」の角柱標識が立っています。 更に東方向に並ぶ形で、「上大谷第20号墳」の角柱標識が見えます。この第20号墳がこの古墳公園の東端エリアになります。18~20号墳は円墳だったそうです。 古墳公園の中央寄りから東側方向を眺めた景色をパノラマ合成してみました。 第20号墳の北側からこの古墳公園の北辺を西方向に眺めた景色です。北辺に沿って、道路が通っています。 位置関係の目印になるものが写っていて分かりやすい方からアプローチしましょう。 上掲の景色の背後には、この案内板の裏面が写っています。古墳公園の入口側に案内板の正面が向いています。この石組はこちらに移築された第17号古墳の横穴式石室です。 第19号古墳の南方向に移築されています。 北側から樹林の向こうに石室石組の一部を眺めた景色 この古墳公園の西側から道路沿いの北辺の境界フェンスを東方向に撮った景色上掲の案内板の説明と古墳分布図、これまでの現地探訪をまとめます。上大谷古墳群は、20基存在していたようですが、現在は前方後方墳(第1,8号墳)、円墳7基(第2,3,4,5,18,19,20号墳)、方墳1基(第14号墳)の合計10基が保存されています。そして、第17号墳の横穴石室が移築保存されています。つまり、古墳9基が消滅したことになります。この整理をしていて、第8号古墳を探訪できていないことに気づきました。ネットで地図を見ていたとき、地図拡大のレベルにより、第14号古墳の古墳公園が隠れて古墳公園が3ヵ所に見えたのが記憶に残っていたのです。現地探訪では第14号古墳を訪れたことで、3ヵ所の探訪を終えたつもりでした。ところが、地図の拡大レベルを上げると、古墳公園は4ヵ所だったのです。第8号古墳が1つの古墳公園になっているのです。上掲の分布図を現地では詳細に確認しなかったので、第8号古墳の存在を見落としていたことも要因の一つです。先に探訪した戸塚古墳群について、再度資料を確認しますと、前方後円墳1基と円墳6基の合計7基からなる古墳群です。古墳公園として第6,7号古墳が保存され、戸塚古墳として墳丘の一部が保存されているそうです。(資料1)地図上では古墳公園と明示されるのは1ヵ所ですが、地図には表記のない「戸塚古墳」があったのです。合計3基とカウントしますと、戸塚古墳群では4基の古墳が消失したことになります。現在保存されている古墳では2ヵ所が未探訪地として課題に残りました。これは後で気づいたこと。さて、この2ヵ所の古墳公園を終えて、メインの道路に戻り、下大谷の方に下って行きます。つづく参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 補遺上大谷古墳群 :「古墳マップ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へ
2023.01.19
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戸塚6・7号墳のある古墳公園を出て、スマホの地図に次の古墳公園を目的地に設定して進みました。前回の最後の景色がその起点付近です。ナビの指示に従い、大谷地区の住宅地内の道路を進みます。冒頭の道路標識は大谷バス停の北にある交差点で撮りました。改めて地図で確認にしますと、交差点で右折し、大谷川沿いに道路を進めば、東城陽中学校に到ります。ナビに従い、交差点を横断して北に坂道を上ります。大谷川が境となり上大谷地区の住宅地に入ります。目的地のすぐ近くまで来ながら、ここで失敗をしました。スマホの地図で位置関係を十分確認せずに、ナビの指示に頼り進んだ折、一筋間違えて曲がったようなのです。お陰で戸惑う羽目に・・・・。ナビの指示は、本人の現在位置を起点に目的地への方向指示を出してくれるので、こちらが間違えば方向指示が変化し、逆にまた方向感覚が狂い始めた次第。丁度、坂道を下ってくるこの住宅地域にお住まいと思える人がいらっしゃったので、古墳公園について尋ねてみました。すぐ近くですよと、そちらの方向に行くからと、ご親切に古墳公園の入口まで案内していただけました。感謝! ラッキーでした。私は目的地よりそれて行き過ぎていたのです。ナビの使い方もコツがあるようです。良い経験になりました。正しくは、上掲の交差点から北に坂道を上り、最初の辻を左折して、一筋目を左(南)に入ったところが目的地でした。道路の右(西)側にこの階段が見えます。そこが古墳公園の入口です。 古墳公園の上まで案内していただきました。入口の写真を撮るために、一旦階段を下りて入口前に戻り気づいたのですが、道路面に設置された蓋の上に標識が貼り付けてありました。そこに「上大谷1~5号墳」の名称と階段方向への矢印が明記されています。上大谷古墳群は「市指定史跡」になっています。「3世紀前半から7世紀にかけてつくられた前方後円墳2基、方墳8基、円墳10基からなる古墳群です。現在は、横穴式石室1基を移築保存したものを含めた11基が古墳公園として保存されています。出土した銅鏡3面も市指定文化財に指定されています」(資料1) コンクリート階段を上がると、最初に見えるのが、「上大谷古墳群5号墳」です。近くに角柱の標識も設けてあります。 上大谷古墳群4号墳 上大谷古墳群3号墳 上大谷古墳群2号墳 上大谷古墳群1号墳 この古墳公園内の中央辺りから北方向を撮った景色 下段の右端のフェンスの先に石段の最上段が見えます。 古墳公園の南東側にもこの古墳公園への通路があります。 古墳公園の東側はフェンスで囲われ、道路側との間に一段低く削平された空間が広がっています。この1号~5号墳のある古墳公園から、今度は上記の通り気づいた案内標識をナビに使います。 北に歩み、住宅地のメイン道路に戻ると、歩道の角にも蓋の上に標識があります。メイン道路を西方向に歩めば、第14号墳に行けるようです。 南側歩道を進むと、一筋先で南方向に向う道路傍にこの標識を見つけました。方位が分かりやすいように再現するとこんな感じです。メインの道路を矢印の指示通り、東に戻れば先ほどの古墳公園になります。南への道路を入ると、第14号墳。メインの道路の反対(北)を眺めると住宅の間に階段道がかなり上まで伸びています。その道を上れば、上大谷17号~20号墳に行けるということです。まずは、上大谷14号墳のある古墳公園を探訪し、その後17号~20号墳にいくことにしました。つづく参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 補遺 改めてネット検索して入手した情報です。上大谷古墳群 :「古墳マップ」城陽の歴史遺産、上大谷古墳群を次世代に :「LIVING kyoto」城陽を歩こうシリーズ 第2弾 :「KCN京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へ
2023.01.16
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昨年10月初旬に、JR奈良線の城陽駅を起点にした歴史散策をご紹介しました。その時、地図を見ると表示される「古墳公園」を探訪できなかったという課題を残しました。そこで、1月11日(水)は天気が良かったので、コロナ禍での運送不足への補いを兼ねて、積み残した探訪課題を今年初の探訪として試みることにしました。まずは、新春からの失敗談。昨年記録のまとめをしているときに追加印刷していた地図を引っ張り出しておき持って出る積もりが、他のものを準備していてうっかり携帯するのを忘れるというポカミス! お陰で今まで使う事のなかったスマホの地図での目的地設定によるナビを利用しました。スマホの地図ナビもやはり使い慣れないと戸惑う部分があることも初体験でした。余談はさておき、城陽駅東口を出て目的地の古墳公園を目指します。地図上では、「古墳公園」という明記の場所が5カ所あります。まずは、駅から一番近い古墳公園を目的地にして出発です。 駅前の広い道路沿いにまずは東に歩み、城陽中学校前の道路を北に進みます。 その先はT字路になっています。正面の北側は正道地区です。右折してメイン道路沿いの歩道を進みます。 途中に雑木林風の一画があります。この先で、北方向への道路を進めば、「正道官衙遺跡」の方に行くことができます。さらに少し先へ歩めば、幅の広い道路が分岐します。ナビの指示通りに右側の道路沿いに進みます。 道沿いに進めば、「尼塚」のバス停があります。その先が「深谷郵便局」側のバス停。その先に信号機があり、そこを通り過ぎた先で道路の北側の住宅地内の道路、坂道を登っていくことになります。 スマホのナビは便利ですが、ナビの指示に集中して歩いていると、経路の目印となる周りの景色の確認を忘れがちになるという陥穽に嵌まって終いました。この辺り、地図を再確認しつつまとめています。地図をご覧いただくとお解りいただけますが、上記の分岐点付近からは住宅地内の道路が南北方向に近い形で平行に配置されていますので、目的地に到る経路は幾通りもあると言えます。 坂道を上って行った突き当たりが古墳公園への入口でした。 左の写真の生垣の向こうに見えるのが、地図で対比すると「友が丘第一集会所」です。右の写真が、車止めのある先の景色。手前の立て看板には、「大谷第一児童公園」と表記されています。 古墳公園の入口 フェンスを境界にして入口はオープンです。山道を上がると 平坦な丘陵地になっています。 西方向の眺め まず古墳公園を東方向に進んでみました。 ここは公園になっていて、遊具が設置してあります。 こちらの端からはこんな景色が西方向に展望できます。この公園の西方向を探訪します。 南方向への坂道 北方向への坂道 西方向に進む途中に、両側に丘陵地を下って行ける道がありました。 西方向に歩む公園内は平坦です。 その先にはこんな広がりになっています。 地理院と判読できる石標が建てられています。標準点になっているのでしょうね。 その先に進むと、案内板が設置されています。 この古墳公園は「尼塚6・7号墳」でした。「尼塚古墳群は、4世紀後半に作られた前方後円墳1基と円墳5基、8世紀初めにつくられた円墳1基の7基からなる古墳群です。現在は、6・7号墳2基が公園として保存されています。」(資料1)案内板には、6・7号の円墳の大きさが説明されていますが、古墳公園として保存されているこの円墳の発掘調査は行われていないそうです。現状を見る限り、私には円墳というイメージも抱きにくい感じの平坦さでした。ここの2基は、立地・規模から4世紀後半に築造された古墳と推定されているそうです。 石標の設置側を眺めた景色現存古墳の位置確認ができたところで、この丘陵の稜線を引き返し、もとの入口まで戻ります。 住宅地の道路に戻り、スマホのナビを次の古墳公園に設定し直し、東方向へ住宅地内の道路を進みます。続く参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡探訪 京都府城陽市 歴史散策 -3 芝ヶ原古墳・丸塚古墳探訪 京都府城陽市 歴史散策 -4 久津川車塚古墳・芭蕉塚古墳・平川廃寺跡ほか
2023.01.13
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七条通を起点に、通り名を大黒町通と知った道を北上して、京阪電車の三条駅まで歩くつもりでした。そこで、大黒町通が松原通で突き当りになったったことから、大和大路通に切り替えて北上することにしました。大和大路通のこの辺りは幾度も歩いていますので、今回は通り沿いに点描する形でまとめたいと思います。「むかしは大和国(奈良県)に通じる道筋にあたるので、大和大路といわれたが、古くは『祇園西大門の前の大路』といい、また『祇園横大路』とも『祇園西大門の大路』などともいわれた」(資料1)という道です。冒頭の山門は、松原通大和大路北入ると表現できる位置にあり、建仁寺の塔頭の一つ、「禅居庵」です。臨済宗大本山建仁寺の境内域では南西隅に位置します。摩利支天尊像を祀るお寺として知られています。建仁寺については、この禅居庵を含め拙ブログで既にご紹介しています。禅居庵の南側の築地塀は八坂通に沿っています。この八坂通を東に歩めば、東大路通を横断し、その先にある「八坂の塔」に至ります。 少し北に歩めば、大和大路通の西側に、「恵美須神社」の石鳥居が見えます。 石鳥居の前から、西方向に境内を眺めた景色です。 通りに面して、この駒札が設置してあります。 *祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、大国主神 *社伝では、栄西禅師は帰国の航海中に恵美須神の加護を受け、遭難を回避された。 *建仁寺の鎮守社として創建された。応仁の乱後に現在地に再建された。 *境内社の岩本社には平安時代の歌人在原業平が祀られている。 *1月10日の「十日ゑびす」の大祭で有名要点はこんなところでしょうか。 神社から少し先の東側、かなり奥まった位置に「建仁寺」の西門(四脚門)が見えます。「大本山建仁寺」の木札が掲げてあります。 この大和大路通でも、京町家の1つに、折りたたみ式の床几が設えてありました。これは今回の大和大路通歩きのタウン・ウォッチングで初めて気づきました。団栗通との辻を越えれば、その次は四条通です。地図の表記では、大和大路通は四条通が北端となり、四条通から先の道は三条まで「縄手通」と名を変えます。大和大路通の別称です。南北約550mの長さです。「もと鴨川東畔の堤防をひらいて道路としたことから、この名が生まれた」(資料1)とか。江戸時代、1666年頃に、この道の西側に水茶屋が発生し、「蛍茶屋」と呼ばれ、祇園新地の発展にともなって栄えたと言います。大正時代の初め頃に営業禁止となり、その後い現在の飲食街が生まれるもとになったそうです。(資料1)四条通の交差点を渡り、縄手通を北上します。 白川に架かる橋橋の長さは約6.5m、幅は7mの石橋です。「明治の末年に四条通の拡張に際して現在のように小さな橋に改修されたとつたえる」(資料1)とか。 江戸時代に出版された『花洛名勝図会東山之部』に載る「縄手通大和橋」図です。(資料3)もとは木橋でしたが、享保17年(1732)に石橋に架け替えられたと言います。当時の橋は現在の橋より倍以上に広かったとか。(資料1) 下流側川端通の向こう側の「琵琶湖疏水」(鴨川運河)に流入します。(資料2) 上流側 この白川沿いの左岸(南側)に並ぶ家並みは情緒があります。「祇園新橋」と称された一帯の内です。今は「祇園東部」と称され「京都五花街」の一つです。(資料4) 大和橋を渡ると、川端通に出る並木道があります。この道は観光客の通り道。 東方向への「白川南通」の景色です。この道沿いに歩めば、川縁に吉井勇歌碑「かにかくに」碑があり、さらに「辰已神社」があります。このあたり、観光客が沢山集まるスポットです。辰已神社から東に道沿いに歩み、白川に架かる橋を渡ると、「新橋通」に入ります。白川南通は川端通と新橋通とを結ぶ白川右岸(北側)の短い距離の通りです。 縄手通から眺めた「新橋通」「白川南通」の一筋北側の通りです。情緒ある京町家の町並みが維持保存されています。昼間はひっそりと、夕闇頃から華やぎが漂う町並みを感じられる通りの一つです。大和橋を渡り、北に向かって歩くと、飲食店の間に、古美術・骨董品を扱う店がけっこう目にとまります。それがこの通りの特色の一つです。 京阪三条の手前に到着。この空間も様変わりしています。地下化した京阪電車三条駅の昇降口とバスのターミナルは今まで通りですが、それ以外のスペースは駐車場エリアに様変わりして久しくなります。 京阪電車の三条駅に向かう前に、ズームアップして撮った如意ヶ嶽。左大文字の側面が見えます。大和大路通・縄手通の周辺を語る部分が多くなりましたがこれでご紹介を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p237-2392) 鴨川運河 :「日本遺産 琵琶湖疏水」3) 花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 / 木村明啓 編 :「古典籍総合データベース」4) 京都五花街 :「おおきに財団」補遺祇園新地 :「三都花街めぐり」かにかくに碑 :「京都観光Navi」かにかくに祭 (十一月八日) 舞妓の四季 :「祇園商店街振興組合」辰已神社 :「京都観光情報 丸竹夷」京都祇園縄手繁栄会 ホームページ「祇園で最も絵になる」京都・新橋通…弁柄格子に古都の風情がたっぷり:「トラベルjp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 歩く -1 大黒町通を七条通(起点)から松原通(終点)まで へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 初詣 京都ゑびす神社(恵美須神社) スポット探訪 京都・東山 初詣 建仁寺禅居庵 摩利支尊天探訪&観照 京都・東山 初詣の最後は建仁寺~祇園甲部歌舞練場~八坂神社を巡る探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に 5回のシリーズでご紹介探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院 探訪 京都・東山 白川沿いの散策観照 京都・東山 祇園白川の桜と火除地蔵
2022.11.23
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京都国立博物館を出た後、歩いた記憶がない通りを歩いてみることにしました。博物館の表門(西門)は大和大路通に面しています。冒頭の景色は、大和大路通と七条通との交差点の北西角、七条通に面する築地塀前の作庭景色。その先(西側)は「七條甘春堂」の本店です。大和大路通から一筋西側の通りを北に歩いた記憶がありません。コロナ禍での運動不足解消を兼ねて、この通りを北に向かって、タウン・ウォッチングしながら歩いてみました。 今まで通り名も意識していなかったのですが、懐古的な「仁丹」商標のついた住所表示板で、「大黒町通」だと知りました。後で地図を確認してみると、この通りの北端近くに「大黒町」があります。ナルホド・・・・。 大黒町通を進むと、最初に交差するのが正面通で、南東角に見えるのがこれ。 塚の頂部に大きな五輪塔が据えられている供養塔。「耳塚」です。 正面通の東方向を遠望すると突き当たりに豊国神社の大きな石鳥居が見えます。もとはその辺りに豊臣秀吉が建立した「方広寺」の門が見えたはずです。つまり、方広寺に至る正面の通りです。豊国神社と方広寺は拙ブログで既にご紹介しています。 大黒町通正面の北西角にあるのが、「専定寺(せんじょうじ)」。熊谷山と号する浄土宗西山禅林寺派のお寺です。「寺伝によれば、昔、専定法師という旅僧がこの辺りの松の木陰で休んでいると、二羽の烏が梢に止まり、『今日は、蓮生坊(熊谷直実)の極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないか』と語り合い、南の空へ飛び去った。法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、烏が話していた同日(承元2年(1208)9月14日)同刻に亡くなっていた。 このことから、ここを有縁の霊域と感じた法師が草庵を結んだのが当寺の起こりといわれている。 かつては、この故事を伝えるため、境内の松の梢に土焼の烏が置かれており、大仏七不思議(方広寺周辺に伝わる七不思議)の一つに数えられていた。 本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝えられ、金箔による像内化粧が施されているなど貴重なもので、京都市の有形文化財に指定されている。 京都市」 (駒札転記)通称「烏寺」と呼ばれているそうです。 大黒町通に面した築地塀の北端に地蔵堂があります。 通りを進むと、京町家の姿を残す町家があります。通り過ぎてから撮りました。 大黒町通は真っ直ぐの通りではなく、途中で少しズレています。意識的な道作りなのでしょうか、どうなのでしょう・・・。 通りの西側に鬼瓦が見えます。 門前に「称名寺」の木札が掛けてあります。後で地図を確認するとここは蛭子町北組。錦光山と号し、法音院という院名をもつ、浄土宗のお寺です。(資料1) 門前から拝見した境内の景色。本堂に向かう参道のアプローチが良い感じです。 その先の辻のところで再び通りが少しズレています。やはり意図的なのかな・・・。この辻の周辺は北棟梁町。 その北隣りの袋町に「常徳寺」があります。門の屋根の降棟には鬼板が使われています。常徳寺は真宗大谷派のお寺です。(資料2) お寺の北側に、古風な外観の町家があります。「はり清」という看板が掲げてあります。調べてみますと、なんと創業三百有余年という京料理一筋の老舗です。「はり清は江戸時代に入って間もない万治二年(1659年)、方広寺周辺や清水寺、鳥辺野を訪れる客のための小さな茶店として始まりました。江戸中期の明和年間に播磨屋清七と称した当主の名より『播清(はり清)』の屋号を揚げ、以来三百六十有余年、京料理一筋に歩んでまいりました」とのこと。(資料3) その先で五条通と交差します。大黒町通に横断歩道がありません。東側の大和大路通で交差点を渡り、大黒町通の北側に戻ります。通りの西側に建つビルには「五建ういろ」の表示が見えます。正式には「五建外良屋」というお店。「『五建ういろ』は、牛若丸と弁慶で有名な五条の地で安政2年(1855年)、建仁寺、六波羅密寺、清水寺など鳥辺野詣のお客様のために茶店を構えたのが始まり」(資料4)という、ういろ専門の老舗です。 北に歩むと、京町家があります。 この家の前に地蔵堂が祀ってあります。格子扉越しに拝見すると、堂内には厨子風のものがあるようで、お地蔵さまは見えませんでした。町中ではこの種の地蔵堂を最近所々で目にしています。 北隣りはこの建物。ここも町家風の建物です。ここは音羽町。入口の右側に掲げてある大きな木札に目がとまりました。「○○師」と刻されています。判読できたのは最後の文字だけ。文字の形から篆書字体ということは推測できました。後日調べてみて「表具師」と判明。さらに「今尾古今堂」という京都の伝統工芸、京表具のお店とわかりました。北側が東西方向の道路であり、東西方向に奥行の深いお店です。(資料5) まず目に留まったのは、しっかりと金属柵でガードされた小さな社です。京の町中の地蔵堂ウォッチングを兼ねていますので、つい目にとまります。屋根の形から地蔵堂ではありません。何を祀ってあるのかは不詳。ここは音羽町の北側、大黒町です。後で地図を確認しました。もう一つ、その傍に掲げられた「舞妓シアター」という看板。これって何?「『舞妓さんに、会える』をコンセプトとした、舞台と観客席を備えた小さなシアター。京都観光で姿を見かけることはあっても接する機会のない舞妓さんだが、ここでは間近に見ることができる。予約制」とか。(資料6)犬も歩けば棒にあたる、じゃないですが、いろいろと出くわすものです。さらに「真言宗醍醐派 八葉教会」という大きな木札を掲げてあるのにも気づきました。 少し北の辻でもおもしろいことに通りがズレています。辻を渡ってさらに北へ。 京町家が目に止まります。通りに面した切り落とし格子戸の前に、折りたたみの床几が設えてあります。町家に床几が取り付けてあるのをみかけるのはごくまれです。 表門に「寿延寺」と表札がでていて、併せて「あらいぢぞう」と記されています。後で調べますと、興福山と号する日蓮宗のお寺です。1616年(元和2)の建立だそうです。(資料7)北御門町に所在。 門前から境内を眺めると、参道の幅だけで、境内はかなり奥まったお寺です。たぶん、かつては境内地はもっと広かったのではないでしょうか。オープンな感じなので本堂前まで境内に入り拝見しました。 参道を進むと、右側に社があります。扉の前に吊るされた提灯を見ますと、稲荷大明神、大黒尊天が祀られています。(もう一つの提灯は読み取れず) 参道を跨ぐ形で、浄行大菩薩と墨書した提灯が一列に吊してあります。 右側を見ますと、「南無日蓮大菩薩」と刻された石塔が建立されています。石塔の右には「十禅大明神」と刻した石碑があります。「当地は十禅師の森の旧跡であり、参道には地主十禅大明神を祀っている」(資料8)そうです。 「洗心殿」の扁額を掲げたお堂に「あらいぢぞう」と呼ばれる石像が安置されています。通称が「あらいぢぞう」で、上掲の提灯に記されている「浄行菩薩」の石像です。上の厨子には初代の浄行菩薩像が安置され、この画像の石像は二代目の浄行菩薩石像だそうです。 「蛇形大辯才天女」と墨書した提灯と「辯才天」の扁額を掛けた、辯才天社も勧請されています。 一番奥(西)に本堂があります。本尊は一塔両尊(釈迦如来・多宝如来)とのこと。(資料7) 本堂手前、北東側に妙見大菩薩を祀るお堂があります。妙見菩薩とは、北極星を神格化した天部の尊。国土を守護し苦悩を除く功徳があるとして、信仰されています。(資料9) このお堂の傍に「南無妙法蓮華経」の題目と「法界」の文字を刻した碑が建立されています。法界は宗派により様々な意味づけがあるようです。日蓮宗での意味づけは知りません。課題が残りました。手許の辞書では、「<仏教語>①十八界の一つ。意識の対象となるものすべて。②真理のあらわれである全宇宙。ほうかい」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。 さて、寿延寺の門を出て、さらに北に進みますと、松原通に行き着きます。ここがT字路になっていて、大黒町通は、松原通に合流するところで終点となります。すぐ右側に、北に向かう道があります。これは七条通では一筋東にある大和大路通です。 突き当たりの一隅に祀られた地蔵堂を拝見して、大和大路を北に進むことにしました。ここの地蔵堂は、覆屋が設けてあるだけでなく、鉄柵の囲いで保護されています。繁華街に近くなるほど、防護柵を備えた地蔵堂が増える傾向にある気がします。いたずらをする人がそれだけ多くいるということでしょうか・・・・。つづく参照資料1) 称名寺 浄土宗寺院紹介Navi :「浄土宗」2) 常徳寺 :「八百万の神」3) はり清 ホームページ4) 五建外良屋 ホームページ5) 今尾古今堂 京表具 特選京都伝統工芸:「Luxury Cataalog ラグジュリー カタログ」6) 舞妓シアター :「じゃらん」7) 寿延寺(洗い地蔵)とは? :「京都に乾杯」8) 寿延寺 :「京都観光Navi」9)『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房補遺七條甘春堂 ホームページ耳塚 :ウィキペディア耳塚修営供養碑 :「京都市情報館」「表」(U+8868) 篆書字体データセット:「人文学オープンデータ共同利用センター」「具」(U+5177) 篆書字体データセット:「人文学オープンデータ共同利用センター」京都で身近に舞妓さんに会えるシアターが誕生! :「旅ぐるたび」十禅師 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 歩く -2 大和大路通・縄手通の点描 へ こちらもご覧いただけるとうれしです。探訪 方広寺と豊国神社、そして京博の庭から探訪 京都・東山 豊国神社 ふたたび -1 唐門・石灯籠・社殿ほか 2回のシリーズでご紹介
2022.11.22
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塔の島から対岸を眺めると、宇治発電所の放水路に架かる朱塗りの橋が正面に見えます。上流方向(右方向)に行けば「興聖寺」、下流方向には「恵心院」「宇治神社」があります。 かなりの水量が発電所から絶えることなく放流されています。その水源は琵琶湖です。 宇治川の下流方向。橘島(宇治公園)と東岸とに架かる「朝霧橋」の景色です。 塔の島から橘島に向かいます。両島に架かる橋の手前に、鵜飼に使われる「鵜」の小屋が設置されています。余談です。昨日(11/12)の新聞報道によると、現在人工孵化で育てられたウミウが12羽います。さらに、鵜匠がそのうちの9羽のウミウを5年にわたり特訓してきて、ウミウに綱をつけずに魚を捕らせる「放ち鵜飼」に成功し、去る10月22日に観客に初めて披露されました。新聞に、宇治川そばの人工池で、沢木万里子鵜匠が放ち鵜飼で池に鵜を放つ写真が載っていました。2014年に宇治市観光協会が国内で初めてウミウの人工孵化に成功。ウミウは、初めて見た生き物を親と思い込む「刷り込み」により、野生の鵜よりも鵜匠に懐くことに気づいたそうです。2017年9月から放ち鵜飼の訓練を始め、現在は0~8歳の9羽が特訓を受け、鵜匠と強い絆が出来ていると言います。今後は、春と秋の昼に「放ち鵜飼」を営業するそうです。(資料1)元に戻ります。 塔の島から橘島(宇治公園)に渡ります。 橘島の桜の木。これらの島の護岸工事が実施された際(2013~2014年)に、島の桜の木が伐採されかつての姿が消えてしまいました。今は少しずつ復旧されつつある段階。かつての姿を取り戻すにはまだまだ歳月がかかるでしょう。「宇治川サクラプロジェクト」という活動が平成25年(2013)からスタートしています。(資料2) 橘島と東岸とに架かる「朝霧橋」(長さ74m)橋を渡る前に、橘島の下流側(北部)を散策します。 「宇治川先陣碑」です。「1184(寿永3)年、木曽義仲軍を攻める源義経の配下佐々木四郎高綱(たかつな)と梶原源太景季(かげすえ)が、それぞれ名馬生喰(いけづき)と磨墨(するすみ)にまたがり先陣を争った」(資料3)という史実があります。これを顕彰して、1931年4月に当時の宇治町在郷の軍人会が建立したそうです。(資料3) この先陣争いを題材にして、歌川国芳が「宇治川の戦い」を描いています。(資料4) 同様に大塚春嶺が「宇治川の先陣争い」を描いています。(資料4)『平家物語』巻九では「宇治川の事」として、この先陣争いの場面を語っていますので、人々には良く知られた逸話だったのでしょう。「ここ平等院の艮(うしとら)、橘の小島が崎より、武者二騎引っかけ引っかけ出で来たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども、内々先に心をかけたるらん。梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる。」という語りから、両者の駆け引きを実況するかのように語り、「・・・・近江の住人、佐々木三郎秀義が四男佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや」とぞ名のったる、と語り終える場面です。梶原は川中で押し流されて一歩遅れをとったことが語られています。(資料5) 橘島の北端近くには、宇治川の西岸と橘島との間に「たちばな橋」が架かっています。 橘橋側から、宇治川西岸の上流方向を眺めた景色です。さて、朝霧橋を東岸に渡りましょう。 橋の上から宇治川上流を眺めた景色 振り返って、下流側、宇治橋を眺めた景色 朝霧橋を渡りきる前に、上流側を眺めた景色 東岸の下流側の景色 朝霧橋を渡ったこの東詰の下流側には、源氏物語に因んだ浮舟と匂宮との舟上場面のモニュメントが建立されています。 橋を降りた目の前に、宇治神社の朱塗りの鳥居が見えます。 鳥居の傍のこの木は「兎楽(うらく)の樹」と称され、駒札が設置されています。「河内の国から来られる莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を、兎が先導し、振り返りながらお連れした場所がこの宇治神社です。その兎達が、今も楽しく集い戯れる宇治神社を象徴する樹が、この楠の樹です。ほら、楠の足下に楽しそうな兎達が見えるでしょう。 宇治神社」(駒札転記)鳥居とこの兎楽の樹を眺めた後は、京阪電車の宇治駅に向かいます。東岸の道路を下流側(北西方向)に進むことになります。この道路は府道247号線。朝霧通とも称されています。 こんな碑も 東岸から眺めた朝霧橋 東岸から眺めた宇治橋 水槽に「離宮水」と刻されています。宇治上神社と宇治神社の社地のあたりは、応神天皇と莵道稚郎子の離宮跡であるという伝承から離宮八幡、離宮明神とも称されると言います。(資料3)離宮水と称するゆかりは、この伝承に由来するのでしょう。 この辺りからは両側に建物が建ち並ぶ道路に。 「京都府茶業会館」の扁額が正面の扉の上部に掲げてあります。建物の右側にある格子戸の入口には、「宇治茶道場」と記されて扁額が掲げてあります。 「宇治茶手もみ製法」は宇治市指定無形文化財に指定されています。その説明板が設置されています。*煎茶は、1738年に宇治田原町の永谷宗七郎(宗円)の創案と伝わる。*宗円は、蒸した茶の芽を培炉で乾燥しながら手でもむ青製煎茶製法(宇治製法)を創案*その後、技術改良を加え、今日の宇治茶手もみ製法が完成をみた。*毎年7月に宇治茶手もみ製法の研修会が行われ、保存に努めている。というところが要点になりそうです。 「さわらびの道」の石標が建つ分岐路があります。この坂道を上っていくと、宇治上神社に至ります。宇治神社を訪れ、境内を通り抜けて宇治上神社に行くのがもう一つの方法です。宇治上神社と宇治神社は、宇治郷一円の産土神で、『延喜式』神名帳には「宇治神社二座」と記され、かつては2社一体で「上社・下社」とも称されていたと言います。平等院が建立されると、その鎮守社として藤原一門の厚遇を受けたとか。(資料3) 「開運不動尊」の石標が立つここは「正覚院」で高野山真言宗のお寺です。 「橋寺放生院」の前に来た時には、はや門扉は閉ざされていました。16:30頃でしたので、当然ですね。「橋寺」という通称の方が良く知られています。正式には「雨宝山放生院常光寺」という律宗のお寺です。「寺伝では604(推古天皇12)年、秦河勝が聖徳太子の念持仏であった地蔵菩薩像を宇治川畔にまつったことにはじまるという」(資料3)7世紀中頃、宇治橋が架けられた後、橋や渡舟を管轄する橋守の役割を担う寺となり、橋寺と称されるようになったそうです。(資料3)境内には、有名な「宇治橋断碑」(国重文)が立っています。『源氏物語』を訳された瀬戸内寂聴さんは、その著書の一つに「橋寺は、紫式部が八の宮の山荘をこのあたりと設定したという説もある」と記されています。(資料6)橋寺までくれば、宇治橋、京阪電車の宇治駅はあとほんの少しの距離。 電車の窓にスクリーンがかけてありましたので、逆光ですが夕陽の景色が撮れました。ご覧いただだきありがとうございます。参照資料1) 綱なし「放ち鵜飼」復活 朝日新聞 2022.11.12(土)夕刊 7面 社会 4版2) 宇治川サクラプロジェクト :「宇治市観光協会」3) 『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p664) 宇治川の戦い :ウィキペディア5)『平家物語 下巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p596)『「源氏物語」を旅しよう 古典を歩く4』 瀬戸内寂聴 講談社文庫 p248補遺宇治紀行 -その1- :「鮎宗」宇治神社 ホームページ世界文化遺産 宇治上神社公式ホームページ放生院(宇治市) :ウィキペディア歌川国芳 :ウィキペディア(5) 大塚春嶺 :「古美術水山」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 講演会聴講後の帰路は違った経路にて -1 折居台から塔の島へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.11.13
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11月9日(水)午後、宇治市文化センターの小ホールに出かけました。目的は、宇治市源氏ミュージアムの企画記念講演会「女たちの源氏物語・宇治の橋姫」の聴講です。講師は国際基督教大学名誉教授のツベタナ・クリステワさんです。『源氏物語』に織り込まれた様々な歌を抽出し、「なほうとまれぬ」と詠み込まれた歌における「あいまいさの文法」が生み出す絶妙な心理的効果についての指摘。その後、「露の光」の「露」、「月影」、「契り」、「限り」をキーワードにした『源氏物語』の世界の読み解き方は興味深いものでした。この講演後、JR「宇治駅」から文化センターまでの往路をいつものように引き返すのも面白味がないので、ふと、折居台から直接、宇治川の畔に出られないか。歩いたことのない経路を試みることにしました。文化センターは折居台の中央部から西寄りにあります。折居台は宇治川西岸の丘陵地に開けた住宅地です。折居台の幹線道路では住宅地への入口に近い場所に位置します。スマホの地図で位置関係と道路を見ると、いわば低山越えという感じで宇治川の畔に抜けられそうです。そこで、文化センターの正面側、折居台を通る幹線道路沿いに坂道を上り、丘陵地の頂上から北東寄りに下る形で抜けることにしました。冒頭の景色は、丘陵地を下り始めた時に眺めた北東方向の景色です。舗装されてはいますが、途中でかなり急な坂道を下り、道沿いに進むます。 莵道小学校を示す道標と案内矢印板が設置された分岐点に出ました。更に坂道を下っていくと、T字路です。後で地図を確認すると府道3号線に出たことになります。 道路の突き当たりには、府道沿いの歩道の傍に地蔵堂があります。右写真の倉の方向に歩道を歩めば平等院の南辺を通り宇治川に出ます。 T字路の交差点から、下ってきた坂道を眺めた景色歩道を西に少し行けば、「縣(あがた)神社」です。ちょっと立ち寄ってみました。 府道に面した正面の石鳥居から境内地に入ります。平日の16時頃でした。境内では人影を見ず静寂そもののでした。 石鳥居を潜ると参道の左側に手水舎があり水槽には「縣井」と太い文字が刻されています。龍口から水が注がれています。 正面参道の右側には、宇治銘木百選の「いちょう」が見えます。推定樹齢200年の巨木です。高さ25.0m、幹周273mと駒札に記されています。 参道の右側奧には社務所 参道の両側に配された狛犬像 唐破風屋根の獅子口と正面の門扉には、桜の花が象られています。神紋なのでしょう。 拝所から眺めた社殿祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。古代は縣の地にまつられた神社と考えられ、『蜻蛉日記』には「あがた院」と記されているとか。平等院の創建以降は鎮守社となり、寺と一体的になっていたそうです。(資料1)明治維新後の神仏分離令より前は、大津市の三井寺円満院の管理下にあったと言います。(資料2) 拝所前から西方向の眺め。「木の花桜」と呼ばれる枝垂れ桜の木があります。(資料2) 傍に建立されている句碑 涼風となり神宇治をみそなはす 土田克己(「幡の会」主宰者) (資料2) 句碑傍からの眺め 新町通に面した石鳥居 新町通側の石鳥居のすぐ近くに「梵天(ぼんてん)」のモニュメントが建立されています。 その南隣りに建つ「梵天奉納所」「縣祭」(6月5日)の時に、この梵天に神移しが行われ、「梵天渡御」の神事が行われています。(資料2) 梵天奉納所の南側かつ手水舎の北西側に、境内社として稲荷社が勧請されています。 府道側の正面の石鳥居から北東側にこの「大幣殿(たいへいでん)」があります。6月8日の神事に使う「大幣」を収める建物です。「大幣神事」は、大幣を用い町の角々で「疫病」を祓う儀式を行い、最後に大幣を宇治橋から疫病とともに宇治川に流すという神事です。古代から伝承900年という歴史的な神事だそうです。(資料2)久々に縣神社の境内に立ち寄りました。府道沿いの歩道を東に進み、平等院の南辺に沿って宇治川の方に向かいます。南側にも、平等院拝観用の入口があります。こちらは府道3号線の南側に駐車場がありますので、マイカーや観光バスの団体観光客の出入口になっているようです。通り過ごしてさらに東に進むと、左側に広い空間が広がり、 この基壇が見えます。 平等院多宝塔の復元基壇です。今は平等院の敷地境界外になっています。平成6年(1994)の発掘調査で発見され、同じ場所に鳳凰堂の基壇を参考に復元されました。鳳凰堂建立の8年後(1061年)、藤原寛子(賴道の娘)による建立で、文献には多宝塔と記されているとか。発掘調査の成果からは、単層の塔(宝塔)の可能性が指摘されているそうです。(案内文より) 復元基壇を左方向に回り込むと、その先に宇治川西岸の畔に抜ける道があります。 西岸沿いの道路に出ます。宇治川中の橘島(左)と塔の島(右)とに架かる朱塗りの橋が正面に見えます。橘島は宇治公園になっています。 宇治川下流方向に目を転じれば、宇治橋が架かり、 上流方向を眺めれば、塔の島に架かる橋や上流の山々が谷を形成しています。塔の島に向かいます。 宇治川西岸と塔の島の間に架かるのは「喜撰橋」です。 わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり「百人一首」に登場するこの歌で有名な喜撰法師の名に由来する橋名です。この歌一首で後世に名を残したとされる謎めいた人物。本名、出自、履歴、生没年など一切不明と言います。歌に出てくる「うぢ山(宇治山)」は現在「喜撰山」と称されています。私ははるか昔に、ハイキングで一度登ったことがあります。「この歌もまさに、自分に対する世間の無責任な憶測を、洒落をまじえて皮肉ったものだ」(資料3)という点がおもしろいのでしょう。言葉をダブルミーニングとして使い、この一首から対照的な理解を生み出すという言葉遊びの巧みさの代表例のような歌。余談です。冒頭の講演会で、ツベタナ・クリステワ先生の講演で最初に聴いた『源氏物語』の藤壺の歌をご紹介しておきましょう。 袖濡るる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまと撫子 (藤壺)こちらは掛詞ではなく、「ぬ」という助動詞の使い方の読み解きでした。「うとまる」は「疎まれる」。この歌の「疎まれぬ」の「ぬ」は、打ち消しと完了の両方の意味として、文法的には成立するという説明でした。「疎ましく思わない」と「疎ましくおもう」の両方の意味でこの歌の解釈が成立するというのです。正反対の解釈ができる! 光源氏に対する藤壺の思いは如何に?? 私には新鮮な読み解きを拝聴できた思いでした。和歌っておもしろいんですね。元に戻ります。 喜撰橋の上から、宇治川上流を眺めた景色です。紅葉の美しさはもう少し先になりそう。東岸に渡ったら、上流方向に向かい、興聖寺の参道に立ち寄ってみようかと思ったのですが、今回はやめました。紅葉が綺麗さには今一歩かな・・・・との思いから。 下流側の眺めです。塔の島と西岸の間には、遊覧船を舫ってあります。西岸側に見える建物が、遊覧船の乗り場。鵜飼の季節の遊覧もここが受付所。 塔の島に渡れば、まずはこの高く聳える「浮島十三重塔」(国重文)です。 台座には、「浮島十三重石塔」と題した碑文が嵌め込まれています。文末には、「橋寺放生院」と記されています。碑文は、「宇治川大橋」「浮島(塔の島)」「十三重石造大塔」「浮島大塔の再建」という見出しのもとに説明されています。塔の島に行かれたら、実物の碑文をお読みください。この大塔は、南都西大寺律宗の高僧叡尊が建立した層塔です。中世石塔としては国内最大規模のもので、高さ15.2mだそうです。叡尊は、慈善事業の展開の一つとして新宇治橋を完成させるという事業を興すとともに、宇治橋周辺での殺生禁断という信仰上の宿願を推し進めたと言います。この二願が達成されたのを機に、この記念塔を建立したのだそうです。(資料1)人々にとって宇治橋の完成は大喜びだったでしょうが、殺生禁断に対して、ここで猟を生業としていた人々はどのように受けとめたのでしょうね。信仰上から素直に受け入れたのでしょうか。はた迷惑に感じたかも・・・・。生きる手段を取り上げられることにもつながるのだから・・・。当時の名もなき民衆側の思いは記録に残っているのでしょうか?この大塔、1756年の未曾有の大洪水で崩壊して、河底に埋没したままになったそうです。明治38年に大塔復興の動きが始まり、明治41年(1908)仲秋に再建されるに至りました。(碑文より) 塔身には、金剛界四仏の種字(梵字)が刻まれています。金剛界四仏とは、阿弥陀如来(西)、宝生如来(南)、阿閦如来(東)、不空成就如来(北)を言います。塔の島を少し眺めて、先に進むことに・・・・。つづく参照資料1)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p712) あがた神社 ホームページ3)『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人 PHP文庫 p45補遺世界遺産 平等院 ホームページ宇治川遊覧 :「miru-navi 全国観るなび」宇治川刊行通船 :「喜撰茶屋」 喜撰 :ウィキペディア叡尊 :ウィキペディア宗祖 興正菩薩叡尊上人 :「西大寺」3. 両界曼荼羅 「曼荼羅のおしえ」(小林暢善) ツベタナ・クリステワ :ウィキペディア本学のツベタナ・クリステワ名誉教授が古典の日文化基金賞を受賞:「国際基督教大学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 講演会聴講後の帰路は違った経路にて -2 塔の島から京阪電車宇治駅へ
2022.11.12
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四条東洞院から東洞院通を北に上り、錦小路通を越えて先に進むと、ビル前北東隅の石標が目に止まり「画家」という文字が見えました。後で地図を確認すると、元竹田町です。 この碑(いしぶみ)を正面から見ますと「画家呉春宅跡」と刻されています。「呉春」と言えば、いまでは日本酒のブランド名の方で良く知られているのかもしれません。インターネットで語句検索しますと、お酒の記事の方が沢山出て来ます。 「Shamaison呉春」と称するビルのところです。北側の看板「京裳庵」が目印になります。南北でいえば、錦小路通と一筋北の蛸薬師通との中間です。 呉春という画家を知ったのは、たぶん京都文化博物館開館十周年記念特別展「京(みやこ)の絵師は百花繚乱」を鑑賞したときだったと思います。1998(平成10年)10月です。これはその時の図録。副題は「『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」です。この図録には呉春筆「風雪三顧図」(掛幅、奈良県立美術館蔵)、「白梅図」(六曲一双、屏風、大阪・逸翁美術館蔵)が収録されています。直接該当する絵は載っていませんが、収録されている『諸家東山第一楼勝会書画帖』(奈良・大和文華館蔵)、『諸家大観画譜』(広島・王舎城美術寶物館蔵)、『諸家京都画苑』(兵庫・神戸市立博物館蔵)には絵が掲載されているそうです。(資料1) 『近世名画肖像』に載る伝谷文晁筆の呉春肖像です。(資料2)特別展の副題にある『平安人物誌』の安永四年版を見ますと、「松 月渓 字文蔵号蕉雨 四条高倉西ェ入町 松村文蔵」という一行で「画家」の一人として掲載されています。画家の項に応挙、若冲から始まり合計20人の名前が列挙されています。(資料3)俗姓は松村氏、通称が文蔵。1752(宝暦2)年生まれで1811(文化8年)没。墓所は金福寺(左京区一乗寺)。名も号も様々に名乗っています。天明2年(1782)春、客住先の呉服(くれは)の里に因み呉春に改めたと言います。京都金座年寄役の家に生まれ、金座の平役を務めつつ、初めは大西酔月に師事し、漢画学習から始め、安永2年(1773)に与謝蕪村門に転じ俳諧と画を学びます。そして、安永4年に上記『平安人物志』に名前が載ります。「明清画と蕪村画を折衷した堅実で情趣豊かな山水人物を描く」(資料1)安永末頃に金座を辞し、本格的に俳諧師や絵師として歩み始めたそうです。(資料1,2,4) (資料2)木芙蓉鵁鶄図 天明2年(1782) 黒川古文化研究所蔵 鵁鶄はゴイサギのことです。 金座に務めていた時代に島原の太夫を身請けして妻にしています。天明元年(1781)3月に海難事故で妻を亡くし、8月には相次いで父が亡くなり、傷心の呉春は剃髪し、現在の大阪府池田市に転地療養したそうです。池田の古名が「呉服の里」で、呉春と号するように。天明3年(1783)、師の蕪村を献身的に介護をしたものの、蕪村は同年末に病没します。蕪村没後、呉春は応挙へ接近、再び画風を変化させます。天明7年(1787)応挙一門による但馬(兵庫県)・大乗寺障壁画制作に参加し「群山露頂図」を描きます。寛政7年(1795年)、二回目の大乗寺障壁画では、呉春の代表作の一つになる「四季耕作図」を描きます。天明7年(1787)頃からは、妙法院真仁法親王のサロンに出入りし始め、寵遇を受けるようになり、側近の絵師になります。最晩年には応挙のモチーフ描写や写生的な筆法を平易化して自らの画風を打ち立てて人気を博することに。しかし、持病による衰弱もあり小品中心の制作だったそうです。門下から多くの画家を輩出し、「四条派」と呼ばれるようになります。その名は一門が四条付近に住んでいたことによるそうです。(資料1,2,4) (資料5)蘭亭脩契図 天明2年-寛政元年(1782-1789)頃 東京富士美術館蔵 (資料2)絹本淡彩 寛政12年(1800年) ヴィクトリア&アルバート博物館蔵 重複しますが、呉春の代表作と称されるものをまとめておきましょう。「白梅図」(六曲一双、屏風、大阪・逸翁美術館蔵)「四季耕作図」(襖絵、兵庫・大乗寺蔵)「柳鷺群禽図」(京都国立博物館蔵)「山水図」(白書院襖絵、妙法院蔵)たまたま出会った「いしぶみ」ひとつから、画家と作品をたどって楽しんでみました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 図録『京都文化博物館開館十周年記念特別展 京の絵師は百花繚乱』 京都文化博物館2) 呉春 :ウィキペディア3) 平安人物誌/弄翰子 編輯 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 呉春 :「コトバンク」5) 蘭亭脩契図 :「東京富士美術舘」補遺日本画 松村呉春 :「八光堂」柳陰帰漁図屏風 呉春 :「静岡県立美術舘 デジタルアーカイブ」絹本墨画淡彩白梅図〈呉春筆/六曲屏風〉 :「文化遺産オンライン」呉春 月稲螽 :「古美術 瀬戸」呉春 :「オリオン 美術館」柳鷺群禽図 :「e國寶 国立文化財機構所蔵」大乗寺円山派デジタルミュージアム ホームページ 「群山露頂図」 「四季耕作図」画家「呉春」―池田で復活(リボーン)! :「逸翁美術館」(阪急文化財団)四条派への道 呉春を中心として :「西宮市大谷記念美術舘」四条派への道 呉春(ごしゅん)を中心として/西宮市大谷記念美術館:「LIVING兵庫」呉春 特吟 1800ml :「日本酒博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.10.27
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「新選組 2022」展のご紹介でこの景色を冒頭に掲載しました。今回はこのレトロな建物そのものについて少しご紹介します。「旧日本銀行京都支店」です。 三条通には人の往来がけっこうありますので、人を入れずに建物の全景を撮ることは少し困難。南東側から眺めたほぼ全景です。三条通高倉の交差点、北西角にこの建物が所在します。中京区菱屋町です。 三条通に面したアーチ形正面入口の右側柱に「京都市 京都文化博物館」の銘板が嵌め込まれています。現在は京都文化博物館のシンボル、「別館ホール」として展覧会や音楽会などの催事の開催に利用されています。(資料1) 外観は赤レンガ造り、二階建で一部地下1階、屋根はスレート葺き、三条通に面した正面には屋根の両側に塔屋が設けてあります。明治39年(1906)に辰野金吾博士が設計した洋風建築・日本銀行京都支店です。明治時代の名建築として重要文化財になっています。(資料1,2)日本銀行京都支店は、1894(明治27)年に、東洞院御池上ルに本店出張所として開設されたことから始まるそうです。そして、1906年に今では一種レトロなこの建物に移転します。当時としては最先端の洋風建築だったことでしょう。そして、1965(昭和40)年に河原町二条に再移転します。(資料3)現在の所在地は、観光的に言えば、高瀬川一之船入りのすぐそばになります。 正面入口を入り、右寄りから眺めた1階内部。重厚な感じです。撮影禁止の掲示がなさそうでしたので、室内を撮ってみました。元は日本銀行京都支店の営業室です。カウンターとスクリーンが、来客者との境であり、応対窓口になるのでしょうね。 西方向の眺め 1階の中央部は2階部分まで吹抜になっています。 東西両側の2階部分には回廊が巡らされています。 天井の様式はかなりシンプルですが重厚な感じがします。この旧日本銀行京都支店の建物は、1967(昭和42)年に、財団法人古代学協会が譲り受け、内部を改装して、1968年に「平安博物館」として、平安文化を中心とする歴史博物館になりました。中央ホールには、実物大の清涼殿を復元していたそうで、研究博物館の性格が強かったそうです。(資料2)「京都文化博物館は、京都の歴史と文化をわかりやすく紹介する総合的な文化施設として昭和63年(1988)に開館」(資料4)されました。これは1994(平成6)年の平安建都1200年紀年を期しての創設だったそうです。 入口を入り、右折すると、東側に通路があり、京都文化博物館の本館に通り抜けて行くことができます。現在、この別館ホールへの入場は無料です。 建物を通り抜けると、本館との間に中庭があります。中庭から、建物北側の外観を眺めた景色です。 本館への建物北側の出入口 建物北面の窓 出入口と窓の上部にこの意匠が使われています。漆喰で文様が造形されているようです。 こんな扉も建物の北面には設けてあります。元銀行の建物という印象を受けます。 このキャラクタ-を初めて見ました。「まゆまろ」クンです。「この、『まゆまろ』は左官の漆喰壁で仕上げています。 漆喰は坑菌性能にすぐれ又二酸化炭素を吸収する事から、今建築の内壁、外壁で多く施工されています。」(駒札転記)背景に建つ新しい感じの方形造り屋根の赤レンガで外装された建物が目にとまりました。別館ホールと調和する外観で建てられたようです。何かと思えば、トイレでした。中庭を挟んで北側に建つ建物は、今は喫茶店になっています。三条通りからこの中庭へは通り抜けでき、そおまま本館に入ると、1階の総合案内のコーナーを挟んで北側エリアは「ろうじ店舗」があり、本館1階も入場は自由です。元日本銀行京都支店(現別館ホール)の正面入口から、京都文化博物館本館1階の北側入口まで、つまり、三条通から綾小路通まで建物内でいろいろなものを眺めながら通り抜けることができます。ちょっとおもしろく散歩を楽しめるルートになると思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 別館ホール :「京都文化博物館」2)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p285-2863) 建造物編(53)旧日本銀行京都支店(京都市中京区):「京都新聞社」4) 博物館について :「京都補遺旧日本銀行京都支店 :「文化遺産オンライン」京都文化博物館 ホームページ 旧日本銀行京都支店 建築小噺公益財団法人 古代学協会 ホームページ日本の漆喰の凄みを感じる超絶技巧と現代左官職人の技。"左官の神様"の作品が見られる「伊豆の長八美術館」 :「LIFULL HOME'S PRESS」漆喰鏝絵 :「さかんや」鏝絵 :「島根県太田市観光サイト」安心院の鏝絵 :「ようこそ安心院へ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・洛中 ふたたび高瀬川沿いに~四条から一之船入まで~
2022.10.25
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丸塚古墳から近鉄京都線の久津川駅に向かう道路に出て、西に進みます。JR奈良線の踏切から、「久津川車塚古墳」(下端の案内図、番号5の箇所)が北側すぐ近くに見えます。踏切を横断してすぐの交差点を右折すれば、道路沿いに古墳を囲むフェンスが伸びています。入れないのかと観察していると、史跡案内板が設置された傍に、門扉があり施錠されていませんでした。内側には遊具もみえましたので、立ち入れると判断して、敷地内に入りました。冒頭の景色は古墳域の南西側から、北方向と東方向を眺めた景色です。 この久津川車塚古墳には、この車塚古墳の被葬者で、地域を治めた大首長が甲冑を身に付けている姿をモチーフにしたキャラクター図板が設置されています。 フェンス傍の内側にこの「国指定史跡 久津川車塚古墳」案内板が設置されています。 左上の「久津川古墳群平川地域古墳分布図」を拡大してみました。この分布図内の最大の古墳がこの車塚古墳です。古墳はほぼ南北方向に築かれていて、南が前方部、北が後円部の形をした前方後円墳です。 この案内板は、前回ご紹介した「芝ヶ原古墳と周辺地形」モデルのところに設置されているものです。 この案内板も設置されています。 久津川車塚古墳は、大谷川扇状地のほぼ中央に位置する前方後円墳で、5世紀前半に築造されたと考えられています。山城地域最大の古墳で、墳丘長は推定約180m、周濠を含めた全長は約272m。埋葬施設からは長持形石棺が出土し、石棺から鏡や甲冑など多くの副葬品が出土しているそうです。この長持形石棺は京都大学総合博物館所蔵となっているとか。(案内板より)城陽市教育委員会は史跡整備に伴い順次調査を継続されています。(資料1)2013年度から測量調査2014~2016年度発掘調査 西造り出しの規模と構造、埋葬施設の存在が判明2017~2018年度発掘調査 後円部北西側に取り付く渡り土手の規模と構造が判明2019年度発掘調査 後円部の規模を明らかにする調査。4ヶ所の調査区(トレンチ)設定2021年度の発掘調査では、「くびれ部」で朝顔形埴輪を安置した平らな部分(テラス)が確認されたという報道がなされています。(資料2) キャラクター図板が設置された近くに、通路が設置されています。かなり荒れた状態でした。一応歩く事ができそうなので、通路を確認しながら歩いてみました。古墳を一周することができましたが、樹木が繁り森の中を歩む感じに留まりました。現状では古墳の外形はわかりづらい状態でした。古墳の規模を体感するにとどまりました。今後さらに史跡として整備されることでしょう。道路に戻り、北上します。この道路がかつての奈良街道です。めざすは芭蕉塚古墳。森の見える場所を目印に進みます。 位置関係からは、地図に該当しそうな森はこれだけです。「私有地」という看板の文字が遠望できました。道路沿いに表示もないので他にどこか案内表示があるかと、道沿いに巡り、西側の府道69号城陽宇治線側も見ながら歩き、一周する羽目に。どこにも入口らしきものがないので、ここに戻って、近づいてみることに・・・・。まあその結果、怪我の功名で古墳域を外周して遠望することになったわけですが・・・・・。 ここが「芭蕉塚古墳」(同、番号6の箇所)でした。城陽市平川茶屋裏に所在。 このキャラクター図板が設置してあります。ここも、久津川車塚古墳の被葬者に続き地域を治めた大首長が甲冑を身に付けている姿をモチーフにしたキャラクターが作られています。 キャラクターの傍に「国指定史跡 芭蕉塚古墳」案内板が設置されています。この古墳域は私有地のようです。案内板のところから眺めるだけにとどまりました。 左上の古墳形状図を拡大してみました。案内板の設置箇所は、たぶん前方部の右下付近(古墳の南東隅)になるのでしょうね。古墳の位置を現地確認するに留まりました。芭蕉塚古墳は、出土した埴輪から5世紀中頃に築造された前方後円墳と推定される。墳丘の東西に造り出しがあり、墳丘斜面には葺石が施されていた。周囲に周濠が巡る。墳丘長は114m、周濠を含む全長は161m。周濠幅は11.4~15.5m。墳丘は二段に築かれ、墳丘の高さは約10mと推定。墳丘の一段目の平坦面と造り出しに埴輪列が巡っていた。周濠の上縁から約10m外側に約3.4~4m間隔で円筒形埴輪が据えられ墓域の区画に。埋葬施設は、南北方向の粘土槨。北側の小口部の確認では幅は約1.5m。盗掘の痕跡あり盗掘坑から鉄製の甲冑片(副葬品の一部)や形象埴輪片(墳頂部のものか?)が出土出土した埴輪:円筒埴輪・朝顔形埴輪・壺形埴輪 形象埴輪(家形・蓋形・靫形・楯形・甲冑形・囲形)囲形埴輪は東側くびれ部の墳丘裾部に据えられた状態で底部のみ出土。 (案内板より)ここから旧奈良街道を南下し、JR奈良線城陽駅に向かうことにしました。久津川車塚古墳を傍を通り、この古墳を訪れる時に右折した交差点を今度は横断してそのまましばらく進むと、西側にちょっと気になるひっそりとした空間があります。 道路から少し西に入ったところが案内図に番号7を付けた「平川廃寺跡」でした。後で地図を確認しますとそこが古宮地区の東端に位置します。近鉄京都線久津川駅からだと、徒歩約15分の距離になるようです。(資料3) 平川廃寺跡碑 ここにはこのキャラクター図板が設置されています。この遺跡から出土した大型の菩薩像(塑像)をモチーフにしたそうです。産経新聞の報道によれば、奈良時代に粘土で作られたこの像は像高が約3mに及ぶ菩薩像が安置されていたと判明したそうです。「同大(追記:帝塚山大学)講師の戸花亜利州さんが、金堂跡周辺で出土した塑像片約30点を精査。今年(追記:2020年)3月に発表した論文で、十尺(約3メートル)前後の菩薩像を中心に、大型の塑像が複数並んでいた状況が明らかにされた。仏像群は8世紀中~後半に制作され、平安初期の火災で崩壊したと推定されるという。」(資料4) 石碑の西側に広がる廃寺跡 北東側から眺めた廃寺跡 キャラクターの南隣りに、この「史跡 平川廃寺跡」案内板が設置されています。「出土した瓦から、創建は奈良時代中ごろ(8世紀中ごろ)で、奈良時代末から平安時代初め(8世紀末)に修理が行われています。しかし、修理後まもなく塔と金堂は火災により焼失し、その後再建されることなく地上から姿を消してしまったようです。」(説明文転記)この廃寺跡の西側築地の外側で接するように赤塚古墳が発見されています。1943(昭和18)年頃、瓦の出土で寺院跡と注目され、1966年、1972~1974年の発掘調査で建物の瓦積基壇、塔と金堂の瓦積基壇、回廊、築地塀が確認されるに至り、1975(昭和40)年に「南山城地域の奈良時代を代表する寺院」として国指定史跡になりました。(案内板より) 伽藍配置は、西に塔、東に金堂を配置する法隆寺式と考えられているそうです。 寺 域 :東西約175m、南北約115m 塔・金堂を囲む回廊:東西約81m、南北約72m と推定されています。正門は南に面していたことになります。 史跡碑に近いところに、「金堂跡」の案内碑が建ててあります。金堂の瓦積み基壇は、東西22.5m、南北17.2m。基壇の南辺は、奈良時代末から平安時代初めに南側へ2.2m拡張されているそうです。基壇上で礎石の据え付け跡が2ヶ所みつかっています。(説明文より) 西側に塔跡の案内表示があります。塔の瓦積基壇は、直径20cm前後の河原石を建て並べた上に平瓦を横積みにしたもの。基壇は一辺が17.2mで、南山城地域では最大規模。礎石は抜き通られていたが据え付け跡は調査で確認されています。(説明文より)史跡碑と案内板がなければ、単なる空地として見過ごして通過してしまいそうです。さらに南に歩むと、東側に、 社号碑とその東奥に石鳥居が見てきました。このの探訪を始めた最初の探訪地「久世神社」の正式な産道入口は旧奈良街道に面していたのです。探訪前にネットで地図を見ていた段階では気づきませんでした。こちらの正面には神前灯籠が配置されています。 石鳥居をくぐると、すぐ左(北)に境内社が見えます。未確認ですが朱色の鳥居から推測すると稲荷社か・・・・。この辺りが丘陵地の麓であることが、この石段でわかります。 石段を上がると、JR奈良線の踏切「久世宮踏切」です。その先に、最初に久世廃寺跡探訪で見た東西方向の参道と両側の整然と並ぶ石灯籠が遠望できます。期せずして、これで現在の久世神社境内の全体がイメージできました。 道沿いに進めば、東側に「城陽市立寺田小学校」の表示が目に止まります。この先の交差点で左折します。JR奈良線の踏切が目に入ってきます。 線路の手前で左折します。北に城陽駅の西口が通路の先に見えました。その西側は寺田小学校です。これで、ウォーキングの途中で多少試行錯誤をした今回の探訪を終わります。地図では、数カ所の「古墳公園」と記される箇所を残しています。次の課題となりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 久津川車塚古墳2019年度発掘調査現地説明会 :「現説公開サイト」2) 久津川車塚古墳 くびれ部に朝顔形埴輪 東側屈曲基点に /京都 :「毎日新聞」3) 平川廃寺跡 :「コトバンク」4) 平川廃寺に3メートルの菩薩像 南山城の最新仏像調査紹介 帝塚山大博物館 :「産経新聞」補遺久津川車塚古墳2015年度発掘調査の概要 :「現説公開サイト」久津川車塚2015年度発掘調査現地説明会 :「有限会社 京都平安文化財」久津川古墳群 :「国指定文化財等データベース」(文化庁) 久津川車塚古墳を北側上空から撮った写真の掲載あり。久津川車塚古墳 現地説明会 資料 2017年 :「現説公開サイト」芭蕉塚古墳 :ウィキペディア4 南山城地域を治めた二代目の大首長 :「城陽市」 Google map とリンクされ、航空写真も見ることができます。平川廃寺跡 :「文化遺産オンライン」国指定文化財 :「城陽市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか へ探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡 へ探訪 京都府城陽市 歴史散策 -3 芝ヶ原古墳・丸塚古墳 へ
2022.10.11
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正道官衙遺跡を出て、北方向へ丘陵を上り、再び芝ヶ原地区に入ります。丘陵には住宅地が広がっていて、頂上付近の住宅の一画に「史跡芝ヶ原古墳」があります。「開園時間は午前9時~午後5時。冬期(11月~1月)は午前9時~午後4時30分。12月29日~1月3日は閉園。連絡先 城陽市教育委員会 文化・スポーツ推進課文化財係 0774-56-4049」という案内掲示が出ています。 入口を入り少し進むと、古墳が見え、その傍に案内碑が設置されています。 案内板の地図に紫色の丸を追記した地点から、南西方向に眺めた景色がこの古墳です。 古墳の形状図を部分拡大してみました。 もう1ヵ所にこの説明婢があります。これらの案内婢からの情報を総合しますと、 後方部の中心に、墓坑が掘られ、組合式木棺(くみあわせしきもっかん)が納められていたそうです。(説明文より)発掘当時の様子と復元推定図からこの古墳のイメージが湧きやすくなります。芝ヶ原古墳は、古墳時代初め(3世紀前半)に築造されたと考えられる前方後方形の古墳です。古墳の南側(前方部)は住宅地の道路で削られていて、現在は、復元された前方部の一部と後方部を見ることができます。「前方後方墳は、弥生時代末に濃尾平野に現れた突出部をつけた墳丘墓が、古墳時代に突出部をより大きな前方部へと発達させて生まれた墳形です。古墳時代前期を中心に全国で約二百数十基が確認され、東日本で数多く築造されますが、西日本にも及んでいます。 芝ヶ原古墳は、前方部の形状が不明ですが、まだ未発達で短く、前端に向けて開いていることから初現的な前方後方墳と考えられています。」(説明文転記)後方部は東西9m×南北21m、前方部は前端部が開いた比較的短い形をしていたと推定されるそうです。 古墳の大きさを比較した図が案内碑に掲載されています。左側がこの芝ヶ原古墳。中央が西山1号墳、右側が元稲荷古墳で、縮尺400分の1で対比されています。 後方部の北西側に、「古墳の被葬者で地域を納めた首長が、権威の象徴として銅釧(どうくしろ)をかかげる姿をモチーフにして」描かれたキャラクターの図が設置してあります。釧はひじにはめる古代の装飾品です。銅釧、つまり銅製であることが金属が貴重品の時代に権威を象徴したということでしょうね。 後方部の北側は、丘陵地の斜面がかなり下がって行きます。 後方部の位置から北方向を見下ろした傾斜地の広がりです。 一方、同じ位置から北西を眺めると、住宅地の向こうに南北方向に森が見えます。 この箇所が、「史跡 久津川車塚古墳」です。今回の探訪地の一つで、この地域では最大の古墳です。 傾斜地を通路沿いに下って行き、南に芝ヶ原古墳を見上げた景色です。 草地の中にあるのが「芝ヶ原古墳と周辺地形」モデルです。2014(平成26)年3月に城陽市教育委員会により設置されました。「芝ヶ原古墳を含めた久津川古墳群や、奈良時代の古代寺院と官衙(役所)を、古墳時代の地形を推定して表現しています。 縮尺は500分の1で、高さは2倍に強調しています。 城陽市教育委員会」(転記)円形に近い多辺形の地形モデルの外周部に各古墳と古代寺院跡の説明パネルが埋め込まれています。各探訪地の中で該当部分を利用してご紹介することにします。この古墳群と地形モデルは現地で実感していただく他はありません。ここでは部分図としてご紹介します。 久世廃寺跡の北側から北東方向に芝ヶ原古墳群が築かれていました。 左のモノクロ写真は、久世小学校内の中庭に保存されている芝ヶ原9号墳の景色です。第1回にご紹介した久世神社境内にある久世廃寺跡史跡指定地には、1~8号墳が所在するそうです。 第2回にご紹介した正道官衙遺跡の北側に、今回の「芝ヶ原古墳」が所在します。この古墳から東へ徒歩3分位の場所に「芝ヶ原13号墳」が緑地として保存されているそうです。見落としていましたので、次回探訪への宿題になりました。 正道官衙遺跡から北東方向に行けば、「上大谷古墳群」「上大谷東古墳群」があります。現在の地図を見ますと、大谷地区、上大谷地区に点在する4箇所の古墳公園として保存されているようです。ここが次回探訪の課題になりました。 この部分図は地形図の西方向から撮ったものです。この地形図で一際大きい古墳が久津川車塚古墳(前方後円墳)です。この車塚古墳の東側に見えるのが「丸塚古墳」です。この後の探訪目標です。その次に、久津川車塚古墳と芭蕉塚古墳を目指します。芭蕉塚古墳はこの部分図で2番目に大きな古墳です。 久津川車塚古墳の南に、「平川廃寺跡」があります。その西側に赤塚古墳。 近鉄京都線久津川駅の南方向に、東垣外古墳、箱塚古墳や北垣内古墳群が見えます。私は現在この辺りの情報は未収集です。 上空から見た現在残る久津川古墳群はこんな位置関係になります。下辺が北方向です。赤字表記がここ、芝ヶ原古墳で、久津川車塚古墳の一部を縦断する形でJR奈良線が走り、その西には平行する形で近鉄京都線が走っています。 北から見た久津川古墳群の推定復元図丘陵地を下り、下大谷バス停より一つ西側の交差点を渡り、交差点の北にある下大谷橋手前の道路を左折します。最初の三叉路を左折して道沿いに回って行くと、次の探訪地の森が見えてきます。 古墳に続く北隣には、城陽市第二浄水場があります。 「丸塚古墳」全景 (一番下の案内図、番号4のところ) フェンスに囲まれていますので道路傍から眺めるだけです。 ここには、このキャラクターがお出迎えです。「久津川車塚古墳の被葬者である大首長による地方支配を支えた有力な首長」(説明文より)であり、この古墳の被葬者がキャラクターのモチーフになっているとか。 この「国指定史跡 丸塚古墳」の案内板が設置してあります。説明の要点と言う形でご紹介します。*前方部が低く短い帆立貝形の前方後円墳で、周濠がめぐる。*墳丘の長さ 80m、周濠を含む全長 104m*後円部直径 63m、高さ:東側 8.3,、西側 9.6m、 後円部は二段式と推定。墳丘斜面に葺石を施す。一段目平坦部に埴輪列*前方部の長さ 17m、幅:前端 32m、クビレ部 26.5m、 高さ 約2m 前方部は一段に築く。墳丘斜面には葺石を施す。*周濠は墳丘と相似形、幅 16m*周濠の上縁から1.8m外側に、約6.6m間隔で円筒埴輪を据える。古墳の墓域の区画*埋葬施設は未調査。*出土した埴輪から3世紀初めの築造と考えられる。 この家形埴輪のほかに、蓋形(きぬがさがた)埴輪、甲冑形埴輪が出土。家形埴輪は5棟以上の破片が出土しているそうです。大型の入母屋造の家形埴輪の一棟は、桁行約72cm、梁行約60cm、高さ約1mの大きさ円筒埴輪・朝顔形埴輪も出土。形象埴輪も出土していますが据えられた状態での出土はなしとのこと。地図を見ると、JR奈良線の東側煮位置する丸塚古墳は車塚地区になります。上掲の航空写真の様子は、地名に痕跡を残しています。それでは、久津川車塚古墳に向かいましょう。つづく補遺芝ヶ原古墳 :ウィキペディア芝ヶ原古墳 :「文化遺産オンライン」史跡芝ケ原古墳 :「京都府南部(山城地域)の観光情報サイト丸塚古墳 :ウィキペディア国・府・市指定登録文化財 :「城陽市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか へ探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡 へ
2022.10.08
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芝ケ原地区の東隣が正道地区です。ここに「正道官衙遺跡」(下の案内図、番号2)が所在します。現地にはこの遺跡の南東角から入りました。主となる入口は北東角にあります。この丘陵地の高所側の地点です。全体がイメージしていただきやすいように、ここでは探訪結果を整理してご紹介します。 北東角の入口付近。この遺跡エリアで一番高所です。 このキャラクターの掲示がまず目にとまります。「正道官衙遺跡は、奈良時代(8世紀)の山城国久世郡の郡役所(久世郡衛)と推定されている遺跡です。キャラクターは、奈良時代に久世を統括した郡司をモチーフにしています。」(右上の説明文転記) このキャラクターの左手前に、「史跡正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき)」の案内碑が設置されています。1974(昭和49)年9月に史跡に指定されています。右上の「遺跡の発見」の項には、この台地西端の池畔で瓦片や土器が発見された時古代寺院と推定されていました。1973年2月からの大規模な発掘調査の結果、奈良時代の郡衙の中心部分であると確認されるに至りました。1974年に「正道遺跡」と改称されたことが記されています。その下の「国の史跡に」を転記します。「この遺跡は、5世紀の小規模な古墳と6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構、そして7世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構などが重なり合う複合遺跡です。 特に官衙遺構は歴史・地理的背景や出土遺構などから、奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定され、昭和49年(1974)9月、城陽市では最初の国史跡の指定を受け、翌年3月に史跡地全体の約10,850㎡が公有化されました。」「整備方法」は規模を想像できる「イメージ復元」だそうです。(案内碑より)1)発掘調査結果により、柱の位置や大きさを忠実に表現する2)柱の高さや柱組みは近い時代の建築様式を参考とする3) 遺構の樹木は在来植物の中から選ぶ。「万葉植物」には代表的な万葉歌を添付 案内碑に載る官衙のイメージ図です。 官衙遺跡を展望できる位置に、「イメージ復元」の案内図が設置されています。 案内図の傍から眺めた景色です。それでは遺跡を探訪しましょう。 「史跡 正道官衙遺跡」碑 坂道の途中から撮った「庁屋(ちょうや)」 庁屋の北側には「副屋(そえのや)」(左)が建っています。東側からの眺めです。副屋の案内碑が設置されています。「東西7間、南北2間の東西に長い建物。庁屋の北側に平行してあることから庁屋に付属する建物と考えられます。庁屋の後に副屋が建てられるのは、奈良時代の役所の一般的な建物の配置です。」(転記)右は、副屋内の中央から、北方向を眺めた景色です。 この場所には「正倉(しょうそう)」が建っていました。案内碑が設置されています。「東西4間、南北4間の総柱(そうはしら)建物と呼ばれるものです。柱穴の配置から、高床式で校倉造りの倉庫と考えられます。副屋に接近しすぎることや建物の方向が庁屋や副屋とは少しずれていることから、異なる時期の建物の可能性があります。」(転記) 北西側から眺めた庁屋 建物に西側から近づき、要所を部分撮りしました。 東側から 庁屋の前面の柱列を南東側から眺めた景色 庁舎を正面から眺めると、「庁屋柵」が設けてあります。庁屋柵の建てられた東側には「東屋」が設けられていたそうです。 庁屋から正面の道路を南に進みます。途中で振り返りこの遺跡を眺めた景色です。 道路の東側には「向屋」が建てられていました。「南門と庁屋の中間のやや東寄りにある東西8間、南北2間の東西に長い建物。庁屋と向かい合うような場所にあることから、役所の中心となる建物群(庁屋・副屋・東屋)に付属する建物と考えられます。」(案内碑より転記) 南門 門外の西側から撮りました。 南門の西側です。上掲のように築地塀が一部復元されていますが、築地塀の前には溝が東西方向に掘られています。 南門の柱列 南門の外側から庁屋を眺めた景色 北東側から手前から、東屋、向屋、南門という形でそれらの空間が展望できます。これらのイメージ復元と郡衙復元図を重ねて当時の状況を想像してみてください。庁屋から展望場所に向かう坂道に、万葉植物名と万葉歌の歌碑がいくつも点在します。 かはやなぎ(ねこやなぎ) 川楊・河楊・川柳 山の際(ま)に雪は降りつつしかすがにこの河楊(かはやぎ)は萌にけるかも 10-1848なつめ 玉掃(たまはばき)刈り来鎌麿室の樹と棗が本とかき掃かむため 長意吉麿 16-3830 もも 桃・毛桃 バラ科 春の苑(その)紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(おとめ) 大伴家持 19-4139たちばな 橘・橘花・多知波奈・多知婆奈 ミカン科 橘の蔭履(ふ)む路の八衢(やちまた)に物をそ思ふ妹に逢はずで 三方沙彌 2-12 まつ 松・待・麻都 磐代(いはしろ)の濱松が枝を引き結び眞幸くあればまた還り見む 有馬皇子 2-141 ゆづるは(ゆずりは) 弓弦葉・由豆流波 古に戀ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く 弓削皇子 2-111なし 梨・成 バラ科 黄葉(もみちば)のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折り挿頭(かざ)さむ 10-2188 あしび(あせび) 馬酔木・馬酔・安之妣・安之婢 ツツジ科 磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに 大来皇女 2-166ふぢ(ふじ) 藤・敷治・布治 マメ科 戀しければ形見にせむとわが谷戸に植ゑし藤波いま咲きにけり 山部赤人 8-1471 庁屋のさらに西端にもう一つの遺跡への入口があります。 こちらで「城陽市文化材案内図」を見ました。地図に番号が記されていて、右端に該当文化財の対応表がまとめてあります。正道官衙遺跡を一通り見たあと、メインの入口に戻り、「史跡芝ヶ原古墳」(番号3)に向かいます。つづく補遺正道官衙遺跡 :ウィキペディア正道官衙遺 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか へ
2022.10.05
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先月下旬(9/25)、天気が良かったので運動不足解消を兼ねて、JR奈良線城陽駅を起点にして、周辺の歴史史跡探訪をしてきました。その記録を兼ねたご紹介です。メインは久津川古墳群と正道官衛遺跡の探訪です。冒頭の景色はJR奈良線の城陽駅を東側に出て、南側から駅の側面と駅前ローターリーを撮った景色です。 駅から出ますと、ローターリーの手前に、「JR城陽駅 周辺案内図」「城陽市『緑と歴史の散歩道』」他の地域案内板が設置されています。 今回の探訪ルート地域を切り出した図に番号を追記してみました。現在地が城陽駅です。まずは久世神社(番号1)を目指します。 東部コミュニティセンターを東に見ながら、北に向かいます。芝ケ原地区に入ります。目印は神社の杜です。 道沿いに進むと、同じ形の石灯籠が参道の両脇に並ぶ神社の境内が見えてきます。 坂道を進むと少し先に境内へのオープンな入口が左側に見えてきます。 まずは「久世神社」拝見です。西に社務所があり、北方向に南向きの石鳥居が立っています。本殿のある境内は石柵に囲まれた一段高い境内地になっています。 石段の西側に手水舎があります。 本殿の境内地 瑞垣の手前に狛犬像が配されています。 本殿一間社流造、檜皮葺です。重要文化財に指定されています。後掲の案内板が設置されていて、本殿自体の詳細な説明を城陽市教育委員会が記されています。煩雑になるので省略します。現地でご覧ください 祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。この神社は久世芝原に所在しています。境内地の西側をJR奈良線が走っています。「旧久世村の産土神で、日本武尊を祭神としている。その創祀年代はあきらかでないが、本殿の建物が室町末期の建築であるところからみて、それ以前からの鎮座であることが想像される。 もとは若王社といったが、明治維新の時に今の名にあらため、明治7年郷社に列せられた。明治39年重要文化財に指定された。」(駒札より一部転記) 瑞垣前の駒札瑞垣の門前に切妻屋根の拝所が設けてあります。修復されたのでしょうか、極彩色が鮮やかです。拝所前面を見上げます。 頭貫の上に蟇股、虹梁、大瓶束と組み上がり棟木を支えています。蟇股には青獅子が描かれ、虹梁の前面には瑞鳥が描かれています。 門扉側の虹梁には一対の獅子が描かれています。大瓶束の両側の装飾は植物文が彫られています。 蟇股に描かれているのは緑色の獅子のようです。頭貫には、唐草文様の中央に菊花紋が描かれています。 門柱上の組物が色鮮やかに塗り分けられ、大斗と巻斗、方斗には、請花様の装飾がされています。 本殿前面の頭貫には龍が描かれています。木鼻は白象に象られています。柱に描かれた図柄はどのような名称なのでしょう・・・・。 東側から本殿の側面を眺めた景色。瑞垣の正面は連子窓が設けてありますが、側面は二重に対角線を交差させたシンプルな意匠です。 拝所の屋根の留蓋 瑞垣の屋根の両端に置かれた留蓋 境内には末社二社、龍王神社(左)と稲荷神社(右)が勧請されています。龍王神社の名称でネット検索してみますと、全国に同名の神社があります。基本は雨乞いの神様の様です。そのルーツになるのは、どこなのか? 確認出来ませんでした。どなたか、ご教示ください。 久世神社の境内地はかなり広いのですが、その境内地の北東側に上掲の社務所・本殿等が建立されています。それ以外の大半の境内域は「久世廃寺跡」(7世紀に作られた古代寺院)なのです。このキャラクターの案内板に記されています。発掘調査の結果、南門跡北側の瓦溜まりから像高6.9cm(頭頂~足裏)の金銅造の誕生釈迦仏立像が出土しました。(下掲案内板より)その出土像をモチーフにこのキャラクターが作られたとか。 境内にこの案内板が設置されています。「久世廃寺跡」も重要文化財に指定されています。 社務所と石鳥居の中間あたりから、西方向に広がる廃寺跡を眺めた景色 社務所前の参道を南に歩み、右折して西に進みます。南側から廃寺跡を眺めた景色です 廃寺跡の中央辺りに入り、東(社務所・本殿側)を眺めた景色。説明がなければ、単なる樹林の杜という印象です。 案内板の右上に載る「久世廃寺の伽藍配置」を拡大してみました。大きな古代寺院が存在したことがわかります。奈良時代前期に創建され、8世紀中頃に建物が整備され、11世紀前半に廃絶したと考えられているそうです。奈良の法起寺式伽藍配置で、寺域は東西約120m、南北約135mと推定されています。伽藍はそれぞれ瓦積基壇の上に建立されていたそうで、その瓦積基壇(南門だけは基底部)の大きさが説明されています。その大きさを簡略に表記します。 塔跡 東西13.7m、 南北13.4m 金堂跡 東西26.7m、 南北21.3m 講堂跡 東西23.5m、 南北12m 建物:7間(21m)×4間(10.5m)、四面庇 南門跡 東西8m以上、南北4.3m境内地から道路(坂道)に戻ります。道路に面した上段境内地の石柵の傍に、この案内が出ています。 南端に、「久世鷺(さぎ)坂旧跡」(旧は旧字体で)の石標が建てられています。その北隣には柿本人麿の歌碑。 山城の久世の鷺坂神代より春ははりつつ秋は散りけり 万葉集 巻第9-1707 この案内板では、人麿の詠んだ歌を万葉仮名で表記しています。それに続く説明で、「山城の久世の鷺坂は、神代の昔から、春はいっせいに若葉がもえ、秋はひたすら散ってしまうのだなあ。」という訳を付しています。ここ鷺坂一帯は和歌の名所だったそうです。序でに、手許の本を繙きますと、折口信夫は「山城の久世の郡の鷺坂よ。大昔から人の往来繁く、名高い山道であるが、山の木立ちは其頃から、春は芽が出て、秋になると、散ると云ふ様にして来た事だ。」(資料1) 近くにこの「古代城陽を詠んだ万葉集」の碑も設置されています。ここには、上記の柿本人麿の歌も第3首として取り上げてあります。人麿の歌以外を転記してご紹介します。括弧内は『万葉集』の所収番号です。 白鳥の 鷺坂山の 松陰に 宿り行かな 夜も深け行くを 柿本人麿歌集 (巻9-1687) (大意 鷺坂山の松の蔭に宿りしていきましょう。夜も更けてゆきますから。) 細領府(たくひれ)の 鷺坂山の 白躑躅 われににほはね 妹に示さむ 柿本人麿歌集 (巻9-1694) (大意 鷺坂山の白つつじよ。私の衣に染まりなさいな。 それを私は妻に示しましょう。) 山城の 久世の社の 草な手折(たお)りそ わが時と 立ち栄ゆとも 草な手折そ 柿本人麿歌集 (巻7-1286) (大意 山城の久世の社の草を手折らないでおくれ。 今こそ自分の時と繁っていても、その草を手折らないでおくれ。) 山城の 久世の若子(わくご)が 欲しというわれを あふさわに 我を欲しという 山城の久世 柿本人麿歌集 (巻11-2362) (大意 山城の久世の若子がほしいという私。 逢うとすぐ軽率にも私を欲しいといういう山城の久世の若子。) 玉久世の 清き河原に 身祓して 齋(いは)ふ命は 妹が為こそ 作者不詳 (巻11ー2403) (大意 玉久世の清冽な川の河原で身を清めて、命長からんことを願うのは、 ほかでもない、妹のためです。)坂をもう少し上ると、石垣の角になり、左に入る道があります。 その道を西に進むと、突き当たりが「久世小学校」です。坂道を上ったこの丘陵地の学校の場所は「久世廃寺の伽藍配置」の上部に「1号墳、3号墳、7号墳」と記されているエリア(久世小学校古墳)に相当するようです。小学校内には入れませんので、確認出来ませんでしたが、「国指定史跡として古墳の場所は一部保存されているようです。(資料2)この辺りは「久津川古墳群」の一部になります。ここから、一旦、東隣りの正道地区に所在する「正道官衙遺跡」をめざします。つづく参照資料1)『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫 p4502) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」補遺城陽駅 :ウィキペディア遺跡編(15)久津川古墳群(宇治市・城陽市) :「京都新聞」組物 :「コトバンク」伝統工法の真骨頂「枓栱」 :「社寺建築の豆知識」竜王 :ウィキペディア八大竜王/八大龍王とは :「神仏ネット」 祀られる神社や仏教世界での意味・ご真言を解説 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.10.03
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正面の石段より北側には、姿の異なる石灯籠が並んでいます。 春日灯籠の形式と思うのですが、全体に装飾は少なめです。(資料1) 六角形の火袋の正面は填め込みの障子窓が細竹で押さえてあります。余所でも見かけたことがあります。向かって左の面には蔵の扉で見た紋章がレリーフされています。右側の面には、円の内側を新月に穿ち、その下に雲形の浮彫装飾が施されています。円は満月を表象するのでしょうか。あるいは日(太陽)かも。 中台の格狭間には唐草文様の一種と思われる図柄がレリーフされています。その下部には大きな蓮弁請花が彫り込まれています。 二重の基壇上に灯籠の基礎がのり、そして請花と照応する反花(かえりばな)が刻まれています。 もう一つは、神前灯籠の形式です。こちらも基壇は二重です。竿の形に特徴があります。円柱でも角柱でもなく反り上がるような面形状です。装飾彫刻はほとんどなし。 中台の格狭間には菊文がレリーフされています。 正面の石段を上がると、両側に日吉社のシンボルでもある猿像が「狛犬」代わりの「狛猿」として配されています。猿は神様の使い、「ご神猿」です。新日吉神宮では、「真猿(まさる)」と称されているそうです。「まさる」は「魔去る」「勝(まさ)る」に通じる・・・・。狛犬と同様に、この一対の真猿像も阿形・吽形の像となっています。南側の猿は、立烏帽子を被っています。(資料3)金網で覆われているので、すっきりした絵にならないのが残念。 一段高くなった境内に社殿があります。唐破風屋根の拝所が設けられ、回廊で囲まれて内側に本殿があります。景色としては全体が撮れるだけです。本殿に八座、相殿に二座の神々が鎮座されているそうです。(資料4) 拝所前で見上げると、こんな感じ。頭貫、虹梁、木鼻などはシンプル。やはり目にとまるのは、 この蟇股です。 今回、大黒様の像と厨子に鎮座する真猿像が拝所の近くに置かれているのが目に止まりました。本殿の周りを、反時計回りに巡ってみました。 本殿の南側は広場になっていて、東の奥に境内社と石鳥居が並んでいます。 近づきますと、北側の石鳥居には「豊国神社」の扁額が掲げてあります。 本殿の傍には、「樹下社(このもとのやしろ)」の標題で由緒沿革を記した案内板が置かれています。豊国廟が江戸初期に廃され、新日吉神宮がこの地に再興されました。天明5年に境内社として社殿が造営され、豊国の御神霊をここに遷座されたそうです。社名を「樹下社」と称したとか。いわば、一種のカモフラージュ。樹下=このもと=きのした=木下藤吉郎=豊臣秀吉。徳川の世になっても、秀吉を敬愛する人々は絶えなかったのでしょうね。方便は許される?!武力の世界ではなく、信仰の世界なら、鎮魂、御霊信仰にもなり、天下泰平に影響はないということでしょうか。豊国神社の扁額を掲げたのは、明治になってからでしょうね。ふと思った感想です。 右隣り、南側には「愛宕神社・秋葉神社」が勧請されています。両者は火除け(火防)の神々です。傍の案内板には、「後白河上皇ご創建860年」と記されています。当時から境内社として継承されてきたということになります。 本殿の背後は、さらに少し高い境内地になり、そこにこのご神木がそびえています。 南からの眺め本殿の背後の境内地は、石柵が境内地の東辺の境界です。江戸時代には多分もっと東まで境内地だったのでしょう。 自然はおもしろい造形を生むものです。どのようにして、このような瘤状の部分ができるのでしょう。右の神石は磐座と称されるものだと思います。どこから移されたものか。もともとこの場にあったのでしょうか。不詳です。 社殿の周囲は一周できる通路があります。拝所と対象的に、東側にも唐破風屋根の門扉が設けてあります。この屋根は本殿につながっているように見えます。 本殿屋根の降棟その先端の鬼板には菊の紋章がレリーフしてあります。 北東角から眺めた本殿 本殿の北側を巡り正面に向かいます。境内の北側に流造りの本殿が見えます。 ここには、また別の形式の石灯籠、西之屋形灯籠が設けてあります。(資料5) こちらの境内社には「天満宮」と記された提灯が吊ってありますので、祭神は菅原道真です。この社には、菅原道真の御霊(天満宮大自在天神)と道真遺愛の飛梅の霊も祀られているそうです。 「飛梅天満宮」と称されています。後白河上皇が永暦元年(1160)に勧請して創祀されたと言います。(掲示の説明文より)一通り巡り終えたところで、適当な時刻となり、公開講座会場に向かうことにしました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 春日灯篭の火袋に彫刻されるもの :「(株)杉田石材店」2) 月齢とは :「理科年表オフィシャルサイト」3) 狛猿:ご神猿 :「新日吉神宮」4) 新日吉神宮の神々 :「新日吉神宮」5) 西之屋形燈籠 :「加藤石材」補遺新日吉神宮 ホームページ後白河天皇 :「コトバンク」後白河天皇 :ウィキペディア総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ秋葉山本宮 秋葉神社 ホームページ飛梅 :ウィキペディア天満大自在天神 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛東 新日吉神宮ふたたび -1 楼門・拝殿ほか へこちらも併せてご覧ください。スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -2
2022.09.28
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楼門(境内から) 9月17日(土)に、京都女子大学の一教室で開催された宗教・文化研究所公開講座を聴講に出かけました。事前予約制での講座です。東山七条の交差点から、久しぶりに通称女坂を上り、キャンパスを目指します。その折、講演の開始時刻までにゆとりがありました。そこで、女坂の途中、南側にある「新日吉神宮」を再訪してみました。「いまひえじんぐう」と読みます。2017年3月に、当神宮の探訪記をまとめてご紹介しています。具体的な説明はそちらを御覧いただくとして、ここでは少し部分細見をまじえ景色・景観を中心にご紹介します。 朱塗りの楼門は随身門の形式です。門の左右に矢大神・左大神を左右に配しています。三間一戸八脚門の形式です。八坂神社の楼門も随身門の形式は同じです。この新日吉神宮、元は後白河院の勧請により創建されたそうです。現在の地図で見ますと、東山七条の南にJRが東西方向に走っていますが、さらにその南、東大路通の西側に新熊野神社があります。新熊野神社から東大路通をはさみ東方向になります。東西方向の府道118号線を挟む南北に「今熊野南日吉町」が所在します。この辺りで、日吉坂と称されたところに創建されたそうです。応仁の乱にて破壊されてしまいます。江戸初期の天台座主、妙法院尭然法親王により、現在地に再建されました。(資料1)脇道に逸れます。東山七条から東への坂道(女坂)の北側には東大路通に面して「妙法院」があります。南側には「智積院」があります。智積院の東側に現在の新日吉神宮が位置します。この地に再建された当時は多分、神域はもっと広かったことでしょう。現在の京都女子大学や京都女子中・高のキャンパスあたりに境内地がかなり広がっていたのではと想像します。江戸時代初期から一時代溯れば、豊臣秀吉の時代です。安土桃山時代の洛中洛外図をみれば、現在の豊国神社と国立京都博物舘の辺りには、秀吉により大仏殿方広寺という大寺が創建されていました。智積院の所在地には、早世した秀吉の嫡子、捨君(鶴松丸)の為に草創された瑞雲寺がありました。女坂を上り詰めると、山につながっています。「阿弥陀が峰」という東山連峰の一山です。江戸時代に出版された『都名所図会』には、「阿弥陀が峰 は豊国の後の山なり。慶長3年、豊臣秀吉公をこの峰に葬り奉る」という一行だけの説明が記されています。秀吉没後には豊国廟が造営されていたのです。(資料1)祥雲寺は豊臣家滅亡に際して、妙心寺玉鳳院に移転し、祥雲院旧地は真言新義の徒の愁訴により、智積院が創建されます。この真言新義派は、かつて秀吉が滅ぼした紀州根来寺(新義真言宗大本山、江戸時代に再興)の系譜になります。(資料1)大仏殿方広寺を除き、東山七条地域の豊臣秀吉色は、徳川家康により政策的に巧妙に消されていったようです。直接的にか、間接的にかはわかりませんが・・・・。江戸時代にはもはや阿弥陀が峰と秀吉の繋がりも意識されない形になっていたのかもしれません。この辺りは、妙法院の支配地になりました。阿弥陀が峰の麓の太閤坦(だいら)、石段道と頂上にある豊国廟は明治時代に修復されたものだそうです。(資料2)その再興には、明治期のアンチ徳川が大きく影響していたのではないかと推測します。歴史の変転は興味深い。元に戻ります。 楼門1階の木組の構造です。二手先の組物になっているようです。円柱の頂部に大斗が乗り、肘木が十字に組まれ、肘木の上にさらに肘木を一方向に受ける巻斗が重ねられ、肘木・方斗・肘木・巻斗と組み上げられています。 八脚門の本柱を眺めてみます。本柱の頭貫の端に巻斗・肘木・巻斗・肘木と組み上げて、桁柱を支えています。 もう一つの組物のパターン場所により組物の姿にバリエーションがあるのを楽しめます。寺社建築のおもしろみです。 回廊の連子窓の緑と白壁の連続性が美しい。下部のX字形の木組がアクセントになっています。境内側の本柱と控柱でできる両側の空間は何も置かれていず、スッキリしています。八坂神社の楼門はどうだったか。ネット検索で調べてみると、西楼門の境内側もまた何もおかれていないようです。今度八坂神社に出かけた時、眺めて見ようと思います。幾度も西楼門を通り過ぎているのに、意識していないものですね。 表門を入ると、左方向に手水舎と蔵が見えます。 手前の蔵には、西面と南面に扉が設けてあり、 南面の扉 上部に右の紋章が見えます。神紋でしょうか。 東隣の蔵。こちらの紋章の方が見やすい。 右方向には境内の南辺に社務所が見えます。 正面には参道の先に拝殿が位置します。その手前、左右の樹木が繁っていて、 配置された狛犬がなんだか隠れん坊をしている感じでおもしろい。 拝殿を少し細見してみました。 吊り灯籠の火袋部分には、蔵の扉に象られた紋章と桐紋が唐草文の中に象られています。 拝殿の天井を見上げますと、折上格子天井です。一段格式を高くした天井ですね。 拝殿越しに、一段高くなった境内地に設けられた社殿が見えます。少し見上げる位置関係です。 拝殿正面の階段には擬宝珠付きの高欄が設けてあり、欄には錺金具が取り付けてあります。菱柄の中に十文字文様が線刻されています。四弁の花びらのようにも見えます。 高欄の先端正面は菊文様ですが、欄の先端を筒状に覆う形の胴部は上掲と同じ文様で統一されています。 見づらいですが、この部分の錺金具の文様も上掲と同じ文様で統一されています。拝殿を回り込み石段前に立ち、右(南)から目を転じていきます。 石段下の南端にはこの建物があります。 境内を南北方向に境内地が一段高くなっていて、石段が3箇所横並びに設けてあります。 南側の石段を正面から眺めた景色興味深いのは、南端に「新日吉神社」と刻された社号碑が立っていることです。現在は新日吉神宮という名称ですので、どこかの時点で改称されたのでしょう。ホームページを調べてみますと、この神社を創建した後白河天皇を合祀した時点で、「神宮」号を称されたと言います。(資料3) 正面石段 社殿正面の石段から北側の石段を眺めた景色です。パノラマ合成した写真ですが・・・・。正面の石段は両側の石段の倍の幅です。蛇足ですが、以前に掲載したブログ記事を確認しますと、2017年3月時点で既に正面の石段に手すりが設置されていました。次回は石段傍に一列にならぶ石灯籠を眺めるところから始めます。つづく参照資料*『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社1)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p131-1323) 新日吉神宮見所、知り所 :「新日吉神宮」補遺新日吉神宮 ホームページ新日吉神宮 :ウィキペディア真言宗智山派 総本山智積院 ホームページ妙法院 :ウィキペディア尭然入道親王 :「コトバンク」豊国廟 :「京都観光Navi」豊国廟 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛東 新日吉神宮ふたたび -2 石灯籠・社殿・境内社ほか へこちらも併せてご覧ください。スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -2スポット探訪 京都・東山 阿弥陀ケ峯と豊国廟
2022.09.27
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祇園祭後祭の山鉾建ての位置図から始めます。この部分図は今年の案内PRチラシからの部分引用です。四条通新町から新町通を南に入った「大船鉾」を山鉾巡りの起点にしました。四条通を北に横断し、新町通を上ります。 錦小路通を越えて北に進むと「南観音山」です。これは一見、鉾に似ていますが曳山です。「百足屋(むかでや)町」に位置します。 近づきますと、懸装品には透明のカバーシートを被せてありました。残念!波打つシートでは絵になりませんので、肉眼でざっと眺めるだけに留めました。「下り観音山」とも称されます。江戸時代は北観音山と隔年交代で巡行していたそうですが、明治以来は両山が毎年巡行することになったそうです。(駒札より) 新町通の北から眺めた南観音山です。屋根の上には真松が立ててあります。前祭のご紹介の折に説明していますが、真松が立つことから鉾ではなくて山だと判別できます。 新町通の両側が百足屋町です。東側のこの白い壁面前に駒札が立っています。「茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡」。近世初期に徳川家康の側近として家康の政権確立に大きな役割を果たし、朱印船貿易商・糸割符商人として活躍しました。次の新町通蛸薬師の四つ辻を渡ってそのまま進めば北観音山ですが、先に蛸薬師通を東に入って、室町通を横切ってその先に歩みます。 「橋弁慶山」が見えます。そこも道の両側が「橋弁慶町」です。 通りの北側、ビルの間に町家の会所があり、二階に御神体(人形)が道路から眺められるように安置されています。 牛若丸と弁慶が横並びに正面を向いています。見物客にとっては見やすい形です。 牛若丸 牛若丸は眉毛を剃り落として、額に八の字型に大きく眉毛を描いた姿にしてあります。天文6年(1537)仏師康運の銘があるそうです。(駒札より) 弁慶こちらには永禄6年(1563)平安大仏師康運の銘があるそうです。 階下には、町家の正面の格子がすべて取り外されて、1階の座敷全体に、この山を飾る立派な擬宝珠付欄干の五条橋と懸装品等が展示されています。謡曲「橋弁慶」より取材し、弁慶と牛若丸が五条の橋で戦う場面を表現します。「弁慶は鎧姿に大長刀を斜めにかまえ、牛若丸は橋の欄干の擬宝珠の上に足駄で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っている」(駒札より転記)という姿です。この牛若丸の人形は、足駄金具一本で支えられるという姿になります。その足駄金具には美濃国住人右近信国の銘があるそうです。 この五条橋は黒漆塗りの反橋です。橋板も欄干も磨かれて輝き、錺金具が豪華です。橋の両側には、同様に黒漆塗りで錺金具で全体を華麗にした欄縁が置かれています。 奥の壁面には、この山の巡行時に見られる弁慶・牛若丸の戦いの場面を描いた日本てぬぐいが展示されています。この手拭いは橋弁慶山グッズの一つになっています。 欄縁の向こうに、上半分しか見えませんが、昭和58年に新調された富岡鉄斎の作「椿石(ちんせき)霊鳥図」の前懸が展示してあります。(資料1) 左側の壁面には、旧前懸で、中国明頃の雲龍波濤文様の綴錦が掛けてあります。 こちらも旧後懸で、江戸末期の雲龍図刺繍だそうです。(資料1)新町通室町の四つ辻まで戻り、室町通を北に入ります。 鯉山山建てと駒形提灯他の飾り付けは完了していました。ここも通りの両側が「鯉山町」です。 会所のある町家の通路入口には表示板と屋根付きで提灯が設置されています。 会所の通路には、このポスター「時を超えて・祇園祭 2022」が壁板に貼付してありました。桝形模様は、山鉾の配置と山鉾の紋が記されています。白い桝形が前祭の山鉾、赤い枡形が後祭の山鉾です。駒形提灯に描かれた紋や、法被の紋がここに描かれているものと一致します。後祭で言えば、赤い桝形の「四」は四条町にある大船鉾の紋を意味します。同様に南観音山は百足屋町にあり、「百」という漢字、橋弁慶山は「橋」の漢字、鯉山は「鯉」の漢字がそれぞれ独特の書体で記されて居ます。提灯とこのポスターの文字を対比してみてください。 鯉山は会所の座敷より手前に懸装品等の収蔵庫が通路の北側に設けてあります。 通路の南側には細長い庭があり、石灯籠の基礎のところに、鬼板の瓦が置かれています。たぶん会所の屋根に使われていたものでしょう。 通路の突き当たりには、小社があり、細長い庭の東端近くには織部灯籠と手水鉢がありま。この小社に祀られているのが何かは判断できる手がかりがなくて不詳です。、ここで通路をUターンし、通路の北側の座敷の展示品を眺めながら、入口へ戻ります。 通路の北側は続き部屋の座敷が開放され一つの空間となり、その東端部には、「八坂神社」の扁額を掲げた鳥居と社が設けてあります。東の壁面に沿って、山の四隅を飾る房飾りと隅飾りの錺金具が展示してあります。 「見送」と滝を登る巨大な鯉の木彫像。鯉山のハイライトの一つがこの巨大鯉です。江戸時代の名工「左甚五郎」の作と伝承されている作品です。 胴懸「胴懸」の上部に、「水引」が展示されています。 前懸「前懸」の上には、「登龍門」の横長の額が掛けてあります。 胴懸鯉山を飾る懸装品となったタペストリーは、西暦1600年頃ブリュッセルで製作されたもので、約200年前に購入されたそうです。それが山組の大きさに合わせて9枚に切り分けられ、見送・前懸・胴懸・水引に仕立てられました。ベルギー王立美術歴史博物館の調査により、制作者が判明するとともに、ギリシャの詩人ホメロスの長編叙事詩「イーリアス」(トロイ戦争の物語)の場面を描いたものとわかったそうです。5枚連作のうちの1枚だと言います。このタペストリーは見送を始めにして、平成元年(1989)から平成22年(2010)の期間に順次復元新調され、今は復元新調品が巡行の山を飾っているそうです。(オリジナルは京都国立博物館にて保管) (資料2)会所の展示を見たあとは、鯉山町の町家の一軒で「屏風祭」の一端を、通りに面し開放された窓越しに拝見しました。 部屋の仕切りの襖などを撤去し、一つの広い空間にして、家伝来の屏風他が並べてあります。 座敷中央には曳山の精巧なミニチュアが飾ってあります。さて、ここで再び、新町通に戻り、北観音山を巡ります。つづく参考資料*山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)1) 橋弁慶山 ホームページ2) 「海を渡り日本へやってきたタペストリー」鯉山保存会 当日会所で入手した資料補遺橋弁慶山 ホームページ橋弁慶 演目事典 :「the 能.com」能楽 橋弁慶 (はしべんけい) 観世元正 YouTube鯉山町衆 ホームページ タペストリー登竜門/登龍門 :「語源由来辞典」登龍門 :ウィキペディア【祇園祭】南観音山・囃子方 ~巡行への山鉾町の思い~ 2021年アーカイブ YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -1 御旅所・冠者殿社・斎竹・大船鉾 へ探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -3 北観音山・八幡山・屏風祭 へ探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -4 鷹山 へ探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -5 役行者山・黒主山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・祇園祭・後祭 山鉾巡行 -1 橋弁慶山・北観音山・鯉山・八幡山・黒主山 2回のシリーズでご紹介観照 京都・祇園祭・後祭 御旅所(還幸祭の前に)観照 祇園祭 Y2018 後祭 -1 四条御旅所の神輿、鉾建ての位置決め 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 還幸祭を含めて、12回のシリーズでご紹介観照 祇園祭点描 -1 神輿渡御・八坂神社御旅所・冠者殿社 6回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -1 橋弁慶山 11回のシリーズでご紹介
2022.08.18
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拝殿の東側にこの「六角堂 十六羅漢」が思い思いの姿で階段状の岩場に立ち、一歩を踏み出そうとしています。鉢を抱える姿が大半ですので、托鉢の行の姿でしょうか。手前に案内板が設置してあります。以前のブログ記事で載せています。今回はこの内容も参照しつつ、このエリアに点在する十六羅漢ほかの像を細見してみたいと思います。 冒頭の十六羅漢全景の左下に座り込んでいるのは「邪鬼」です。仏教を理解せず、ひねくれて、信者にならない衆生の象徴となっています。仏像と邪鬼との関係でいえば、四天王像や執金剛神像の足下に踏みつけられているのが邪鬼です。この邪鬼が「天邪鬼」とも称されます。これは、邪鬼がわが国古来の天邪鬼と習合されて、敷衍化して呼ばれるようになったようです。(資料1)天邪鬼は「記紀に見える<天担女あまのさぐめ>に由来するとされる邪鬼の称。心がねじけ、人の心を見すかしては悪事を働くことから、人にさからうひねくれ者や、出しゃばって悪さをする者の称となった。」(資料1)毘沙門天像の鎧の前の鬼面がこの天邪鬼だそうです。 羅漢さんサンスクリット語アルハンの音写が阿羅漢。羅漢は阿羅漢の略です。羅漢とは敬われるべき人を意味し、仏の教えを護り伝える能力のある優れた僧を意味しています。もとは仏陀のことで、仏の十号の一つとされていました。羅漢は「のちに意義が転化して、アビダルマ仏教で最高位の修行に達した聖者のこと」(資料1)をさすようになったそうです。釈尊の入滅に際し、十六羅漢が仏法・正法を護持していくことを誓ったと言います。この16人の羅漢は、中国や日本では、釈尊入滅後、正法を護持し、弥勒の出現を待って覚りを得るとされているそうです。(資料2) 十六羅漢として挙げられる僧の名前は経典が漢訳される際に音写として漢字が当てはめられました。ここではカタカナで列挙してみます。1)ビンドラバラダジャ、2)カニャカバッサ、3)カニャカバツリダジャ、4)ソビンダ、5)ナクラ、6)バダラ、7)カリカ、8)バジャラバッタラ、9)ジュハクカ、10)ハンタカ、11)ラゴラ、12)ナカサイナ、13)インカダ、14)バナバシ、15)アシタ、16)チュウダハンタカ です。「十六羅漢図」として描かれるのがこれらの僧ということになります。第一尊者のビンドラバラダジャは、日本では賓頭盧(びんずる)尊者として知られる僧です。お寺の本堂の外縁に賓頭盧尊者坐像が祀られているのをよく見かけます。中国や日本では、十六羅漢信仰が生まれてきます。(資料2)「十六羅漢図」が数多く描かれてきたのは、多分、このことと関係があるのでしょう。 「托鉢」とは「僧侶が鉢を携えて町や村を歩き、食を乞うこと」です。「<托鉢>の語が用いられるのは、中国では宋代頃からである。托鉢はインドの修行者の風俗が仏教に取り入れられたもので、中国や日本の諸宗に伝えられ、特に禅宗では重要な修行のひとつとされている。なお、禅家では、鉢を持って、食事のために禅堂に行くことも<托鉢>という。」(資料1)こんな意味を持ちます。古くは、<持鉢><棒鉢><乞食>などとも称したそうです。 なぜ16という数が選ばれたのか? 説明文には、16は方位の四方八方の倍数ですので、羅漢さんがあらゆる場所に存在するという意味をあらわす象徴数字になっているとされます。余談ですが、16という数字は実際に仏典の中で他でも使われています。阿弥陀仏の浄土に生まれるための観法が『観無量寿経』に記されています。これが「十六観」です。16段階の観法が説明されています。また、般若経とその誦持者とを守護するのが「十六善神」とされています。(資料3) 羅漢さんをそれぞれ見てくると、その表情が一体一体異なっています。その大半は「ニコニコ」と笑みを浮かべた表情です。六角堂の十六羅漢さんは「和顔愛語」を実践していらっしゃる姿だと説明されています。それは「いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあるという教え」(資料4)だと言います。この言葉は、調べてみますと『無量寿経』上の「四誓偈」(重誓偈とも)に続く一節に、「和顔愛語 先意承問」(和顔愛語して、(衆生の)意(こころ)に先んじて承問す)という形で記されています。(資料5)「経文の説くところは、にこやかにほほえんで、やさしく話し掛けることに加えて、相手の心持ちを先んじて知り、その思いを満たしたいとの気遣いや心配りである」(資料6)という説明を読むとわかりやすいですね。十六羅漢を眺めていますと、素朴な疑問が湧いてきました。鉢を持っていない人が2人います。なぜ?羅漢さんが両手で捧げている鉢は2種類あります。鉢の違いに何か意味が含まれているのでしょうか。羅漢さんは、皆裸足のようです。履物を使わなかったということでしょうか。 2体の邪鬼が別の岩場に座っています。最初の邪鬼との違いは、何か祈りに近いポーズをとっているように見えることです。邪鬼は改心しますと、仏法の護り手に変身します。縁の下の支え手にもなります。 少し移動して視点を変えて撮った景色 「合掌地蔵」「このお地蔵さまはお参りに来られた方の願いを手のひらにやさしく包み込んで、その願いが叶えられるようにと、皆さんと一緒にお祈りしていらっしゃるお姿をされています。 手を合わせ、その手に願いをささやきながら吹き込んでください。お地蔵さまの力を信じ、一心に祈れば必ず力をかしていただけることでしょう。」(案内文転記)「合掌地蔵お守り」があるそうです。 僧が「不見、不言、不聞」のポーズ!少し離れたところで、これらの石像が目にとまりました。 「見ざる、言わざる、聞かざる」は三猿ともいわれます。日光東照宮の三猿像が有名ですね。「不見・不聞・不言」の教えは8世紀ごろ、天台宗系の留学僧がを日本に伝えたと言われています。(資料7)また、三猿は「伝教(でんぎょう)大師あるいは天台大師が天台の不見・不聞(ふもん)・不言の三諦(さんたい)を猿の形に託して表したのに始まるとの説がある」そうです。(資料8)六角堂は天台系のお寺ですから、僧と三猿のしぐさの組み合わせは、天台宗の止観の教えを示しているのかも知れません。このあたりで終わりとします。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「六角 十六羅漢」案内文1)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店2)『仏像の事典』 熊田由美子監修 成美堂出版 p80-81, p843)『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房4) その他見どころ :「六角堂」5)『浄土三部経 上』 岩波文庫 p1456) 和顔愛語 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」7) 三猿 :ウィキペディア8) 三匹猿 :「コトバンク」補遺No.31和顔愛語(わげんあいご) :「天台宗和顔愛語 仏教語豆事典 :「浄土真宗本願寺派」三猿 :ウィキペディア止観 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 久しぶりの六角堂 -1 お堂・境内を巡りて へ
2022.08.13
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祇園祭・前祭の山鉾巡り(7/13)を行った後、烏丸通から六角通を東に抜けて河原町通に向かうことにしました。六角通を歩くならと、久しぶりに「六角堂頂法寺」に立ち寄ってみました。山鉾町での観光客の数に比べれば、参拝者をみかけましたが、頂法寺境内は静かなものでした。六角堂頂法寺の説明は以前にご紹介した拙ブログ記事をご覧いただければうれしいです。できるだけ重複を避け、視点を変え記録を兼ねてご紹介します。 六角堂の宝珠 今や六角堂は、高いビルに囲まれた谷間にひっそりと存在する感じ・・・・・。 とはいえ、お堂の手前に「へそ石」と称される石があります。六角堂は平安京の中心地に位置します。もとは門前の六角通にあったそうですが、明治時代初期に門内に移したそうです。(資料1)いくつもの理由から三々五々の参拝者・観光客は絶えないことでしょう。 上掲の屋根の写真で手前の屋根は、正面参道の左側(西)に位置する「手水舎」の屋根です。手水鉢の正面には「六角堂」と刻されています。参道の右側には「六角柳」が茂っています。今では「縁結びの柳」として有名だとか。寺の縁起では、聖徳太子の時代には、この地は山城折田郷土車里(くしだのごうつちぐるまのさと)と称したとか。太子が四天王寺造立のための材木調達の一環で、この地に留まられた時に、太子ご自身が念持仏として隨身されていた小さな如意輪観音から「願はくばここにありて永く衆生を利益せん」との夢告を得ます。東から来た老嫗が、傍らの大木の杉は霊木であると太子に教えたとか。「太子これを見給ひ、即ちきらしめ、他木一株も交へず六角の堂を営み給ふ」というのが、この六角堂の由緒だそうです。(資料2)創建は用明天皇2年(587)と伝承され、現在の六角形の本堂は明治10年(1877)の再建です。(資料1) 参道の左右にブロンズ製の灯籠が配されています。 本堂(六角堂)の前(南)に「拝堂」が位置します。 拝堂の正面に「頂法寺」の扁額が掲げてあります。正式名称は「紫雲山頂法寺」ですが、「六角堂」という通称で知られ、親しまれています。私自身も「六角堂」として知り、呼び慣れていましたので、正式名称を当初は知りませんでした。以降、呼び慣れている六角堂という名称を使います。 扁額の下には、束の間の欄間に双龍の透かし彫りが見えます。金網がない方が鑑賞には良いのですが・・・・。鳥害回避でしょうかね。 拝堂には、大きく観世音菩薩と墨書された赤提灯が吊されています。西国三十三所観音霊場の第18番であり、京の七観音のひとつです。六角堂は現在、天台宗系の単立寺院となっています。(資料1) 拝堂の西側の柱のところに置かれた「ふれあいの像」(お釈迦様) 拝堂の柱と礎磐 拝殿内で、南東側から眺めた景色右側の柱には、「華道叢祥之地」と陽刻した木札が掛けてあります。 本堂(六角堂)の正面六角堂の本尊は如意輪観世音菩薩。ホームページにはその大きさ等について記されていません。江戸時代に出版された『都名所図会』は「金像にて長(みたけ)一寸八歩なり」と説明しています。(資料1,2) 本堂に向かって、右側には「見真大師」の扁額が掲げてあります。見真大師とは親鸞聖人のことです。明治時代の勅諡です。こちら側に、親鸞像が安置されているのでしょう。親鸞聖人は29歳の時、範宴と称されていました。比叡山での修行に悩みを抱き、この六角堂に参籠されました。95日目に如意輪観音が聖徳太子として示現され、範宴は夢の中でお告げを得たとされています。それが吉水に法然をたずねる契機となったとか。(資料1,3)六角堂は、浄土真宗の開祖となった親鸞聖人の足跡からは欠かせない場所になります。浄土真宗の宗派の人々にとっては、訪れたい聖地の一つになるのではないでしょうか。 左側には、このポスターが貼ってありました。本尊の如意輪観音像のお姿なのでしょう。「ご本尊の宝冠には、阿弥陀如来が配され極楽へと導く来迎印を結ばれている。 観音様と阿弥陀様の法力が合わされた御姿である。 建仁元年(1201)には、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の夢枕に観音様が立たれ『いつも傍に寄り添い助け極楽へと導く』と告げられた」(ポスター左端の文転記)こちら側には、聖徳太子が祀ってあるようです。それでは、境内を巡ってみます。 正面参道の左側(西)、一番近いところに北向きの「不動明王」を祀る小堂があります。「右手に剣をもち左手に羂索(けんさく)を握っておられます。これはふりかかる災厄を断ちきり、この世の迷いの世界で煩悩に溺れそうになっている私たちを引っ張り上げるため、しっかり握りしめておられるのです。」(説明文、部分転記) 不動明王像の西側に、東向きにあるのが、「石不動」のお堂です。 「そのお姿は大日如来が一切の悪魔を降伏せんが為に身を変じて忿怒の相を現し給える強い法力をもった佛さまです。」(説明文、部分転記)反時計回りに巡ります。 拝殿の南東側には、石段があります。 その傍に「一言願い地蔵」がいらっしゃる。「このお地蔵さまは、少し首を傾げられた姿をされていますが、これは悩んでいらっしゃるわけではなくお参りに来られた方の願いを叶えてあげようか、どうしようか、と考えておられるお姿なのです。 願いを聞き届けて頂けるかどうかは、あなたの信心次第です。欲張らず一つだけ願い事をして下さい。きっと叶えてくださることでしょう。」(駒札の案内文転記) 今回、お堂前までは行きませんでしたが、石段上の境内地に「親鸞堂」が見えます。「親鸞草履の御像」と称される立像が祀られています。 「十六羅漢像」です。次回に触れたいと思います。 本堂(六角堂)の東側には、ブロンズ製の立花像が建立されています。頂法寺二十世の専慶法師は立花を愛し、「木立興あるをば食をわすれ求め、深山幽谷のさかしきをもいとはず尋ね歩き、その心、切なるを当寺の本尊感じ給ひ、立花の秘密を霊夢に授け給ふ。これより代々その伝をつぎ、中興また専好といひしよりその風を改め、家本とす」(資料2)「池坊の立花」について、『都名所図会』はこのように記しています。つまり、六角堂は、華道の池坊流の本拠地です。自ずと訪れる人々が多いでしょう。 本堂の北東側、池の隅に浮かぶ形で「太子堂」があります。聖徳太子を祀るお堂で、「開山堂」とも称されるとか。(資料1)六角堂は、平安時代以降、京都で太子信仰が広まっていく拠点となっていきます。 このお堂の近く、池の中に石でできた井筒があります。そこは聖徳太子沐浴の古跡と伝えられる場所だそうです。その池の畔に僧侶の住坊が建てられていたことから、池坊と称されるようになったと言います。(資料1)現在、池は本堂の北側に長方形の形で広がっています。池の北辺に池坊会館のビルが建っています。 本堂の西側には多くのお地蔵さまが安置されています。これらお地蔵さんを眺めていきましょう。 こちらは「北向地蔵」と称されます。 「このお地蔵さまは京都御所を守るために北を向いておられます。当寺御所を守護することは人々の生活を守ることにつながっていました。このお地蔵さまは私達の生活を守っていただける霊験あらたかなお地蔵さまです。」(駒札転記) こちらは「わらべ地蔵」と称されています。「このお地蔵さまは特に小さな子供を守っていただく為このようなお姿をされています。ここに安置するお地蔵さまは寝たお姿をされていたり立ったり座ったりしておられますが、それぞれに行を修しておられ禅定のお姿で私達を常に守ってくださっているのです。」(駒札転記) 中央部分に五輪塔が安置されています。 様々な姿のお地蔵さまの大集合地です。今回は大凡のところを巡ってみるにとどめました。この辺りで区切りといたします。次回はちょっとマニアックな補足です。つづく参照資料1) 紫雲山頂法寺六角堂 ホームページ 2)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p803) 【第6回】六角堂での夢告(むこく) :「専修寺」補遺西国三十三所巡礼の旅 ホームページ 六角堂頂法寺 ← 六角堂真上からの全景を掲載洛陽七観音(比較) :「京の霊場」池坊 ホームページ 立花(りっか)池坊専慶 :「コトバンク」池坊専好(初代)とはいけばな :「フィールド・ミュージアム京都」太子信仰 :「コトバンク」太子信仰 :ウィキペディア北向地蔵 :「宇部市」北向地蔵 :「保土ケ谷区」北向きじぞう :「浪漫街道 那須」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 久しぶりの六角堂 -2 十六羅漢・合掌地蔵ほか へこちらも併せてご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・中京 六角堂頂法寺ふたたび -1 六角堂・ヘソ石・鐘楼堂 2回のシリーズでご紹介 ← 2019年の探訪スポット探訪 [再録] 京都・中京 六角堂頂法寺 ← 2013年の探訪
2022.08.12
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二条通を東進すると、琵琶湖疏水に架かる橋に至ります。西詰の欄干柱には平成11年3月完成と刻されています。 橋を渡った東詰には「二条橋」と名称が刻されています。 橋上から北方向を眺めた景色。橋の右側は、「ロームシアター京都」(京都会館)です。この地点で琵琶湖疏水は南から北に流れていて、この景色の突き当たりで疎水が西に方向を転じて行きます。冷泉通の北側を西に流れて行き、鴨川に合流する一方で、鴨川と平行して鴨川運河という形で南に方向を転じて行きます。 西詰に設置された地名表示と近辺の案内図です。ここは「二条通東大路東入」になります。 上掲写真から切り出した地図ですので、不鮮明ですが、位置関係をご理解いただく役には立つと思います。下辺が北になります。地図の中央部分の幅広の南北道路が「神宮道」です。中央の田の字部分の東西道路について、中央が二条通、上(南)側が仁王門通、下(北)側が冷泉通です。田の字の上辺から右辺、そして西へ転じている青色の線が琵琶湖疏水です。田の字の中央の交点から右下(北西)がロームシアター京都、右上(南西)が「みやこめっせ(市勧業館)、左下(北東)が「岡崎公園」、左上(南東)が「京都市京セラ美術館」です。そして、田の字の下(北)が「平安神宮」です。 すぐ傍にこのモニュメントと「延勝寺跡」の石標があります。平安時代、院政期には、この岡崎の地一体には、天皇や中宮の発願による6つの寺院が林立していました。この6寺院はいずれもその名称に「勝」という字が使われていましたので、「六勝寺」と総称されました。延勝寺はその一つで、近衛天皇(1139-1955)の御願寺でした。(資料1,2)余談です。現在の地図を見ますと、地名に六勝寺の名前が残っています。例えば、Mapionの地図をご覧いただくとよいでしょう。こちらからご覧下さい。寺院名が残っていますが、寺院跡地と地名にはズレがあるようです。序でに地名とその位置に所在するランドマークとなる施設名称等でご説明しましょう。岡崎西天王町 平安神宮 平安神宮とその南一帯が最勝寺跡。現冷泉通の南が岡崎最勝寺町岡崎最勝寺町 ロームシアター京都(尊勝寺跡)と岡崎公園(最勝寺跡)岡崎成勝寺町 みやこめっせ(延勝寺跡)と京都市京セラ美術館(円勝寺跡) 京都国立近代美術館(成勝寺跡)岡崎法勝寺町 京都市動物園(京都市京セラ美術館の東側、法勝寺跡)岡崎円勝寺町 仁王門通の南側。京都文教女子高・女子中、京都文教短大付属小 地名は残っていますが、「円勝寺跡」碑は美術館の北側に立っています。寺院跡地の石標が立つ位置は、「フィールド・ミュージアム京都」のいしぶみデータベースが便利です。(資料2)戻ります。延勝寺跡碑は「みやこめっせ(市勧業館)」敷地の北東隅に立っています。この近くには、異なる形の石灯籠が幾つか建てられています。 袖形灯籠 織部灯籠 植物の繁りに埋もれるように立つ石灯籠 ヴァラス噴泉複製パリの街角にあるシンボル。「1870年の普仏戦争、水の配給もままならないパリ市民の困窮を知った英国の慈善家リチャード・ウォーレス卿(Richard Wallace)により、“飲料に適した水を”とパリ市に噴泉が寄贈され」、1872年に最初の噴泉が据え付けられたと言います。(資料3) 「1988年、京都市・パリ市友情盟約締結30周年記念に合わせ、この複製がパリ市から贈られました。噴泉を囲む4体の彫像は、それぞれ純朴、善意、節酒、慈善を表しています」(資料3)とのこと。 みやこめっせの正面広場、西側には源氏物語に因んだモニュメントがあります。京都府石材業協同組合から寄贈された「源氏物語石像」と歌碑です。2008年は「源氏物語千年紀」でした。この年、京都では盛大なイベントが企画実施されました。その時、同組合結成30周年記念事業の一環として石青会より京都市に寄贈されたそうです。(資料3)『源氏物語』第十二帖「須磨」を題材としていて、光源氏と紫の上との一場面。朱雀帝の寵愛する朧月夜と光源氏が密会したことを原因として、26歳の春に光源氏は須磨に蟄居する羽目になります。紫の上を京に残し、何時までという期限もなしに須磨に旅立たねばならなくなります。その折、歌を詠み交わします。それが歌碑に刻まれています。光源氏 身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の 影は離れじ (訳:たとえこの身は、地の果てまでさすらいの旅をつづけても、あなたの 鏡の面にはわたしのおもかげがとどまって、あなたと離れはするものか)紫の上 別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし (訳:たとえあなたと別れても、恋しいあなたのおもかげがせめて鏡に残るなら 日がな一日この鏡を飽きずに眺め暮らしましょう)なぜ、この場面が選ばれたのでしょう・・・・。 少し東に、このオブジェ作品が設置されています。 抽象彫刻の第一人者・清水九兵衞(1922~2006)の作品で、アルミニウム合金を素材に使っているそうです。(資料4)また、1981年に七代清水六兵衞を襲名し、陶芸活動を再開した陶芸家でもありました。2000年に長男の清水柾博が八代清水六兵衞を襲名継承しています。(資料5) みやこめっせ(京都市勧業館)地下1階には、「京都伝統産業ミュージアム」と「日図デザイン博物館」があります。普段この館内に立ち寄ることがないので、私にとっては新たな気づきになりました。 みやこめっせ正面の東側には、市制100周年記念モニュメント「悠久」が設置されています。平成元年(1989)に建立され、モニュメント内にモニュメント設立協力金の協力者のメッセージが、モニュメント内のタイムカプセルに埋め込まれたそうです。このモニュメントは、京都市の自治の伝統、市民の連帯、その高揚を表しているとか。(資料3) 玄武(北) 朱雀(南) 白虎(西) 青龍(東)東西南北の四方位にデザインされた青龍、白虎、朱雀、玄武の四神が刻み込み描かれています。京都市は、明治22年が市制施行年です。一方、市民の手によって市長を選任し、専任の市職員を置き、市役所を開庁したのは明治31年だそうで、この明治31年を自治開始年としているそうです。(資料2) 北に目を転じますと、平安神宮の楼門が木の間越しに見えます。二条通と神宮道の交差点の南西側、歩道に近いところに、「ワグネル博士顕彰碑」の石標が立っています。少し南に下がったところに、 このモニュメントの全体が見えます。 ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener,1831~1892)はドイツの化学者で明治初期のお雇い外国人。明治元年に来日、明治11年京都府に招かれ、舎密局に新設された化学校の教授に着任。陶磁器、七宝、石鹸、ガラス等の製造を指導し京都の産業の近代化に貢献した人だそうです。大正13年(1924)にこの岡崎公園で開催された万国博覧会参加50年記念博覧会に際し、ワグネル博士の業績を顕彰するために建立されたと言います。(資料6)肖像の下には、銅鋳署名板が嵌め込まれていて、その下に横長の漢字カタカナ文で記された銅鋳碑文板が嵌め込まれています。カタカナ文は読みづらいのでひらがな漢字の文に変換し適宜句読点とルビを補い、以下転記します。(資料6)「ドクトル、ゴットフリード、ワグネル君は独逸(ドイツ)国ハノーヴェル州の人なり。維新の初、我邦に来り科学を啓導し工芸を掖(えき)進すること廿餘(二十余)年、主に本市に於て尤(もっと)も恩徳あり。明治十一年、君本府の聘(へい)に応じ来て、理化学を医学校に、化学工芸を舎密局に教授し、旁(かたわ)ら陶磁七宝の著彩、琺瑯(ほうろう)玻璃(はり)石鹸(せっけん)薬物飲料の製造、色染の改善に及び、講演実習並び施し、人才の造成、産業の指導、功効彰著(しょうちょ)。官民永く頼る。大正十三年本市東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会【「東宮殿下御成婚奉祝」小字双行】参加五十年記念博覧会を岡崎公園に開く。初め本邦斯会に参加するや君顧問の任を帯びて本市に来り、頗(すこぶ)る斡旋する所あり。是に至て、市民益々君の功徳を思ひ、遂に遺容を鋳て、貞石に嵌(かん)し、之を会場の一隅に建つ。庶幾(いく)ばくは後昆(こうこん)瞻仰(たんぎょう)して長に旧徳を記念せむことを。京都市長従三位勲二等馬淵鋭太郎誌す。」 交差点に至れば、南西側に「京都市京セラ美術館」が見えます。横断歩道を渡り、右折すれば今回の目的地に到着です。「ポンペイ展」の鑑賞は、稿を改めてまとめてご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 六勝寺 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」2) 左京区 地域別一覧 いしぶみデータベース :「フィールド・ミュージアム京都」3) みやこめっせ探訪 みやこめっせ館内 :「みやこめっせ」4) 清水九兵衞 / 朱鳥舞 :「@ART」5) 清水九兵衛 :ウィキペディア6) ワグネル碑 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺ロームシアター京都 ホームページみやこめっせ(京都市勧業館) ホームページ源氏物語石像 みやこめっせ :「ガイドブックに載らない京都」みやこめっせの源氏物語像 :「office34」(excite.blog)パリ ヴァラス噴水 :「京都市情報館」ゴットフリード・ワグネル :ウィキペディアゴットフリード・ワグネル :「明治有田の偉人たち」愛知万博記念特別企画展 2004 おすすめ展覧会近代窯業の父 ゴットフリート・ワグネルと万国博覧会 :「うまか陶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 三条から京都市京セラ美術館へ -1 鴨川風景、二条大橋、妙伝寺 へ
2022.07.19
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6月下旬、会期の終わるほんの少し前に、「ポンペイ展」を予約して見に出かけました。京阪電車の三条駅を出てから、岡崎公園にある京都京セラ美術館までの往路をまずご紹介します。普段美術館に行く時とは少し経路を替えて見ました。通常は川端通から仁王門通を経由して美術館に向かいます。今回は二条通まで北上してから美術館に行くことにしました。入場時刻が設定されているので、あまり早く着いても仕方がないので・・・・。それと、たまには違う経路も気づくことがあるかもしれないし・・・・ということで。 冒頭の標識は、三条大橋から北へ1つめの御池大橋の東詰北側に立つ標識です。その下部には、鴨川に架かる上流の橋名並びに橋間の距離が明示されています。左下の草の葉に接するように見える赤丸の小さな点が現在位置です。二条通には二条大橋が架かっています。二条大橋までは0.2K、つまり200mです。 鴨川沿いの遊歩道を北へ。 御池大橋と二条通大橋間の景色、対岸を眺めます。対岸側には鴨川の中に堤防があります。その西側が「みそそぎ川」です。対岸沿いに立つ多くの民家には、みそそぎ川の上に、納涼床が架設されています。 二条大橋の中程で、下流方向を眺めた景色です。二条大橋の往復は、美術館に行くという目的からは反対方向の寄り道になります。 みそそぎ川 二条大橋西詰、南側には「二条大橋」の銘板が嵌め込まれています。 北東方向に、東山連峰を眺めた景色です。 北側には「鴨川」の銘板 上流側 みそそぎ川と鴨川本流 鴨川左岸(東側)の遊歩道。その東には琵琶湖疏水が鴨川と平行に流れています。 二条大橋東詰 遊歩道の傍に二条通の一筋北、冷泉(れいぜい)通の地点が、琵琶湖疏水が東西方向から南へ転じる箇所になります。この地点から三条大橋までは琵琶湖疏水が見えます。三条大橋から南は団栗橋の少し南まで暗渠になってしまいます。鴨川に添って流れる琵琶湖疏水は「鴨川運河」とも称されます。(資料1)川端通を横断して、二条通を東に進みます。 二条通と東大路通の交差点「東山二条」の南東角の築地塀。妙傳寺です。御所の方角に向かって立つ銅像は日蓮上人像です。築地塀は交差点の角地ですが角切りがしてあり、その前が庭園になっています。これは初めてみた景色です。いつごろ作庭されたのでしょう・・・・。時間のゆとりがあるので、久しぶりに立ち寄ってみました。以前にご紹介していますので、できるだけ画像等が重複しないように心がけます。 表門は東大路通に西面しています。「日蓮上人御分骨之道場」碑が建てられています。 上掲碑と門との間に、初回の探訪で気づかなかった石標「維新七卿 四條隆謌(たかうた)卿之墓」と刻されています。幕末の動乱期、尊攘派公卿の一人として活動し、「七卿落ち」と称される事件に関わった一人です。夫妻の墓がこの寺にあるそうです。「1886年8月18日の政変で、公武合体派に敗れて失脚した、尊攘急進派の公卿三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世道禧・壬生基修・錦小路頼徳・沢宣嘉が、京都を脱出して長州藩へ逃れた事件。翌年、再挙を図って『蛤御門の変』が起こった。」(『大辞林』三省堂) 表門を境内から撮った景色 降棟の鬼瓦。そのそばに桃を象った留蓋が見えます。 本堂山号は法鏡山。1477年(文明9)に日意(身延山12世)が、豪商・薬屋妙善の帰依を受け、当初一条尻切屋町に創建しました。日蓮の舎利を分骨して関西身延山と称したそうです。寺地の移転を重ね、1708年の宝永の大火後に現在地に移ったと言います。本尊は勧進様式曼荼羅です。 (資料2,3) 向拝の中央、龍を彫刻した蟇股と南側の象の前部を丸彫りにした木鼻 左はこれも蟇股のバリエーションと言えるのでしょうか。かなり意匠化されています。右は組物(斗栱)の形の見映えがいいですね。 本堂の桟唐戸には、連子に取り付けられた五七桐紋が光っています。 向拝の屋根からの雨受けの大壺。金色釉の部分懸けは遊びこころか・・・・。右斜め後の石灯籠の竿は神前灯籠の竿の形式です。その趣向がおもしろい。 本堂の北隣りには鐘楼があります。鐘楼の形が独特です。 装飾の少ないシンプルで小ぶりな梵鐘が架かっています。鐘楼の下半分は四方に開口部があり漆喰で固められ、龍宮門の下部に似た形式です。(資料4)形式として一番近いのが滋賀県にある石山寺の鐘楼です。 鐘楼の北側には、正面に「高祖舎利」と記された扁額を掲げたお堂(廟堂)があります。 向拝の木鼻 正面階段の右側に「仏足石」の石板が奉納されています。「佛所遊履 國邑丘聚、靡不蒙化。天下和順、日月清明、風雨以時、災厲不起。國豐民安。兵戈無用。崇德興仁、務修禮讓。」と、偈が上部に刻まれています。「仏説無量寿経」の一節のようです。(仏の遊履したまうところの国邑丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災厲起こらず。国豊かに民安し。兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す)(資料5)表門を出て、二条通に戻り、東に進みます。つづく参照資料1) 鴨川運河 :「日本遺産 琵琶湖疏水」2)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p83) 妙伝寺 :「京都」4) 門紀行:龍宮門 :「山聲」5) p.078 仏説無量寿経巻下 :「真宗大谷派」補遺西身延 本山 妙傳寺本山 妙傳寺開山 円教院日意聖人について :「青年僧侶のシャカリキ奮闘記」身延山 :ウィキペディア身延山久遠寺 ホームページ仏足石 :「コトバンク」石山寺鐘楼 :「石山寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 三条から京都市京セラ美術館へ -2 二条橋、みやこめっせ、各種モニュメントほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -3 野風呂の句碑、旧武徳殿、妙伝寺、聞名寺 へ
2022.07.18
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八幡堀に架かる白雲橋から始めます。大杉町と日牟禮八幡宮の境内を結ぶ橋です。 橋上から八幡堀の東方向の景色です。この堀の岸辺を歩くとお堀の情緒を味わう事ができます。 反対に、西方向を眺めた景色です。 明治橋間近に向かう観光船をズームアップわかりやすい白雲橋を起点に、日牟禮八幡宮の周辺のぶらり探訪を最後にご紹介します。白雲橋を渡ると境内側には、右側に老舗「たねや」のお店があります。「たねや日牟禮乃舎」の南東側の道路を入ってみました。この辺りから東側は探訪したことがありませんので・・・・・。 日牟禮八幡宮の境内の南東隅にこのモニュメントがあります。 これは、「八幡祭」に、絵馬殿に展示されている松明と共に奉納される「太鼓」をモニュメントにしたものと傍に立つ案内板に記されています。由緒ある祭を地域の民俗文化財として保存していく目的で、多賀町自治会が作成されたものです。太鼓の台に、「平成8年度 創意と工夫の郷つくり事業」の銘板が取り付けてります。八幡祭は、「現在は上之郷(市井、多賀、北之庄、鷹飼、中村、宇津呂、大林、土田)と下之郷(船木、小船木、大房、南津田)12郷のまつりとされています。」(資料1)各郷が祭に太鼓を奉納するそうで、その太鼓は「大きさ・御幣の有無、縄の結び目など、細部に個性が見られる」(資料1)とのことですので、太鼓を見比べることも祭の楽しみの一つと言えるでしょう。 少し先に歩むと、右側の角地に鳥居と社号碑が見えます。ネットのMapion地図で確認すると、「幸福稲荷神社」と表記されています。滋賀県神社庁では「稲荷神社」で登録されています。(所在地:近江八幡市多賀町) 鳥居の先に、拝殿が見えます。 右側手前には、手水舎があります。 拝殿を回り込むと、社殿が見えます。正面は唐破風屋根の拝所です。この屋根がそのまま本殿の前まで延びています。一間社流造の本殿の前が、幣殿になっているものと推測します。おもしろいことに、拝殿と社殿の間が南北方向に通り抜けられる道路を兼ねているようなのです。歩行者用だけなのかもしれませんが。この神社は、伝承では元三ケ村と称した多賀の東部の天井田という所に社殿があり、三ケ村のお部落の氏神だったようです。「徳川時代信仰者の希望により、多賀町内興隆寺に迎え、明治初年現在の地に移した。明治41年社殿を全て改修して悉く新築した」そうです。(資料2)余談ですが、江戸時代の『近江輿地志略』を参照しますと、「○多賀村 八幡山の北にあり」と記し、その村に位置するものとして、「○興流寺 八幡山の、東の方にあり、聖徳太子の開基なり、本堂は織田信長安土へ引きたり。今の浄厳院の本堂是なり」という記述があります。この興流寺が興隆寺のことだろうと推測します。(資料3)稲荷神社とは道路を挟み、北側の分岐点の角地には塀などのないオープンな境内になっています。 最初に目にとまったのが道路に面したこの石鳥居です。どこにも案内の掲示がなく、後で調べてみて「琴平神社」とわかりました。 左側を見ると西側の道路との境のブロック塀の前にお地蔵さまを集めた覆屋があります。 前一列だけに涎掛けがかけてありますので、お地蔵さまと思います。幾つか双体像が見受けられます。 北側に、手水舎があります。その前後、ブロック塀寄りに石灯籠が並んでいます。変則的な配置の感じです。 本殿の前は唐破風屋根の拝所になっています。唐破風の兎毛通の箇所に鳳凰が彫刻されています。 頭貫の上部は蟇股が龍の透かし彫りに代替されています。 木鼻にはきっちりと獅子像が彫り込まれています。祭神が何かは不詳。滋賀県神社庁に登録はされていない神社です。 拝所の右側の建物格子戸越しに内部を拝見しましたがあまりよく見えません。何が祀ってあるのかも不詳。調べた範囲では適切な資料に出逢えませんでした。 覆屋形式の地蔵堂があり、石造地蔵菩薩坐像が安置してあります。琴平神社の東隣りには、表門としては珍しい形式の門構えのお寺があります。 石鳥居の所から表門の屋根の妻側を撮ってみました。 門前から撮った境内の景色。正面に見えるのがたぶん本堂でしょう。後で調べてみますと臨済宗永源寺派のお寺「円満寺」です。本尊は木造十一面観世音立像(平安時代、重文)で、井上靖の小説『星と祭』に採りあげられている観音菩薩像として知られているそうです。(資料4)ここまでにして白雲橋に引き返しました。円満寺から道沿いにもう少し先に歩んでいれば「叢林寺」、さらにその先に「興隆寺」があったのです。このあたりが事前準備なしにぶらりと探訪した限界です。まとめていてちょっと残念な思いに・・・・。探訪時間のゆとりもなくなってきていたことも一因でしたが。 境内側から白雲橋を渡ると、大杉町通りを挟んで正面にこの建物が見えます。 門を入り、「白雲館」と称される建物の外観を眺めました。 道路沿いの垣根にこの駒札が設置してあります。この白雲館は、明治10年(1877)に八幡商人や地元住民の協力で建設された八幡東学校だそうです。その後、役場、郡役所、信用金庫等様々な使われ方を経て、平成6年(1994)に建設当時の姿に復元されたと言います。 左側の建物の前に、この碑が設置されています。「民意を生かした英断」という題で、八幡商人の活動を支えてきた八幡堀が現在の姿を残すために、その背景にどのような転変があったかが記されています。利用の減少による環境悪化(ヘドロと悪臭)⇒1972年行政が堀埋め立て計画を推進⇒近江八幡青年会議所を中心に堀の姿の復活・保存修景運動⇒埋め立て事業の中止⇒建設省への陳情⇒1976年3月に保存修景工事に着手⇒八幡堀の蘇りこんな経緯があったそうです。ここでは、省略しますが、建設省が1973年に策定した湖中堤計画を中止に持ち込み、「八幡の水郷」という景観を残した経緯も記されています。白雲館の中には入りませんでしたが、入館は無料で、観光案内所が併設されているそうです。次の探訪機会には内部を探訪してみたいと思います。大杉町通りの北側歩道を西に歩きます。南側歩道から撮った写真でご紹介します。 今回、気付いたのですが、西川の暖簾が掛かっている建物の右側の入口に立て看板が置かれています。「西川甚五郎本店資料館」への入口になっています。2021(令和3)年10月14日に開館したという資料館です。(入館無料、火曜日休館)近江商人を広く知っていただくことを開館目的としているとのこと。(資料5) 垣根が途切れて、屋根が一段低くなったところに入口があります。白い球状の玄関灯が設けてあり、右の柱には「西川甚五郎」と記された表札が掲げてあります。西川甚五郎本店として、初代から12代まではこの地に暮らしてきたそうです。(資料5) 左端は塀が面取りした形になっています。この部分は大杉町通りと魚屋町通りとの四つ辻になります。 四つ辻の北東角を回り込み、八幡堀側から、つまり北から眺めた景色です。こちらに面した通用門の傍に、「西川甚五郎本店 西川文化財団」の掲示がドアホンとセットにして設けてあります。余談あるいは補足ということになりますが・・・・。西川家は八幡山城築城の時に工務監督を務めた旧家だそうです。初代仁右衛門が天正15年(1587)に八幡に蚊帳・畳表などを商う店を開設しました。当初の屋号は<山形屋>だったとか。仁右衛門の4男甚五郎が寛永5年(1628)に2代目となります。製造や販売保法に工夫を凝らし西川家の基礎を固めました。ここが本店となります。現在は布団の西川で知られています。(資料6)元に戻ります。 通りを進みますと、八幡堀です。明治橋が架かっています。 橋上から東方向(白雲橋)を眺めた景色 橋上で振り返り、西方向を眺めた景色 橋の近くで、住所表示が目にとまり、傍に「勤王家西川吉輔宅址」と刻された石標に気づきました。 近くに、「西川吉輔」についての案内文が掲示されています。近江商人の家系の中にも、倒幕尊皇の活動に奔走した人がいたということを初めて知った次第。西川吉輔が32歳の時に「帰正館」という塾を開いたとき、伊庭貞剛がいたということに私は興味を抱きました。西川甚五郎本店を挟んで西側にW.M.ヴォーリズのブロンズ像が建立されています。既にご紹介ずみ。 ヴォーリズ像に近いところに、この碑が設置されています。左に絵図、右に横書きの案内文。「近江八幡のまちは天正13年(1585)豊臣秀次が、おじ秀吉の命により鶴翼山(八幡山)に城を築いた際、城下町として開かれた。 碁盤目状の町並みは、合戦に備えられたものではなく、琵琶湖の水運と結ぶ八幡堀を利用した□濱都市への成長を期待されたことを示している。 文禄4年(1595)秀次の自害の後、城は無くなるものの、町人自治を背景に、商業を中心に発展をとげ、今日へとつづく町並みが形づくられてきた。 町家は切妻造桟瓦葺き、平入りの中2階建てが基本で、正面の構えは格子(こうし)、出格子、虫籠窓(むしこまど)、からなり、軒下の壁に貫を見せる形式が特徴となっている。また、道路に面する庭の『見越しの松』が周囲の景観の風格を高めている。 この一帯は、近江八幡独自の都市空間を形成し、文化庁から重要伝統的建造物群保存地区の剪定を受け、市民の誇りとなっている。 平成11年(1999)3月 近江八幡市 」(碑文転記)(□の箇所の一文字不詳)ぶらり探訪はここまでとして、JR近江八幡駅に戻ることにしました。 魚屋町通りを南進していて撮ったお寺です。「正福寺」という名称が目にとまりました。このお寺の所在地は宇津呂町30番地です。真宗木辺派のお寺です。(資料7)この先へもう少し南進すれば、八幡商業高校の校門前に至ります。余談ですが、魚屋町通りと一筋東の為心町通りの中間、東西方向の京街道に面して「正福寺」があります。このシリーズで少し触れています。こちらは魚屋町元に所在します。浄土宗に属する哀愍山玉念院正福寺です。そこで調べてみると、近江八幡市牧町961にも正福寺が所在します。真宗佛光寺派のお寺。私が確認した範囲では近江八幡市に少なくとも3つ正福寺と称するお寺が存在するようです。同名のお寺は結構あるようですね。この辺で、近江八幡をぶらりと探訪したまとめとしてのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 八幡まつり :「近江八幡観光物産協会」2) 稲荷神社(イナリ) :「滋賀県神社庁」3)『大日本地誌大系 近江國輿地志略 下』第六冊 大日本地誌大系刊行会 p534) 円満寺(近江八幡市) :「滋賀・びわ湖 観光情報」5) 西川甚五郎本店史料館 :「公益財団法人 西川文化財団」6)「滋賀近江八幡 水都八都 No.21」 特集近江商人 近江八幡観光物産協会7) 近江八幡市 :「セレモニーセンター双葉葬祭」補遺八幡堀 :ウィキペディア公益財団法人 西川文化財団 ホームページ絵図・地図一覧 :「近江八幡市立図書館」哀愍山玉念院正福寺 ホームページ正福寺 :「YAHOO! JAPAN ロコ」 滋賀県近江八幡市の「正福寺」 :「日本全国にあるお寺を調査・検索」西川吉輔 :ウィキペディア西川吉輔 :「コトバンク」伊庭貞剛 :「コトバンク」伊庭貞剛 その1 :「住友グループ広報委員会」高田義甫 近松文三郎著 :「国立国会図書館デジタルコレクション」たねや CLUB HARIE トップページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -4 池田町周辺、八幡堀、佛光寺八幡別院、図書館 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -5 町名駒札コレクション(一部)へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -6 日牟禮八幡宮 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -3 八幡堀
2022.06.11
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近江八幡を訪れた主目的であるヴオーリズ建築巡りの見学ツアーでは、この日牟禮八幡宮の鳥居を横目で見ながら通り過ぎました。そこで、見学ツアー終了後に、この鳥居を潜り、久しぶりに日牟禮八幡宮を訪れてみました。この木造明神鳥居は滋賀県指定有形文化財になっています。明治41年の修理工事において、元和2年(1616)造営と判明したそうです。(資料1)明神鳥居の形式ですが、柱頭に台輪が付いているところが稲荷鳥居や両部鳥居に通じます。笠木の上に屋根が設けてあります。特異な形式でもあります。建立後に修理を繰り返しているそうです。近くで見ますと、修理が行われているのがよくわかります。八幡堀に架かる白雲橋を渡り、境内を進みます。正面には八幡山が見えます。 この楼門(随神門)は西面しています。コロナ禍の関係でしょうか、「疫病退散祈願」の幟が立ててあります。三間一戸の楼門で、木造入母屋造、銅板葺です。滋賀県大津市にある園城寺(三井寺)大門や京都の八坂神社西楼門と同類の形式と思います。楼門を飾る彫刻は見応えがあります。オリジナルは、近江守護職・佐々木六角が延文4年(1359)に造営に造営し、左甚五郎の彫刻が施されていたと言います。ところが、江戸時代、安政2年(1854)に左義長で楼門を焼失し、翌年に再建。昭和45年(1970)には八幡まつりで上部を焼失。翌1971年に、檜皮葺を銅板葺の屋根に改めて再興され現在に至るそうです。(資料1) 正面に向いた獅子姿の木鼻は阿吽形式で彫像され、眼球は緑色に彩色されています。中央・横方向の木鼻はシンプルな形ですが、透かし彫りが施されています。中央・頭貫の上は全面に亀と流水文が透かし彫りにされています。 「八幡宮」の扁額 亀に乗る仙人像と、蛙と戯れる童女像の丸彫り像が左右の頭貫の上に見えます。 象が丸彫りで造形されているようです。一般には龍像が多いと思いますが・・・・。 境内側から背面を眺めてみました。 楼門を潜り抜け、左右を見ると一対の狛犬像が配されています。 正面にまず拝殿があります。その左右に石段があり、本殿は一段高い境内地にあります。この建物も木造入母屋造で屋根は銅板葺です。間口三間、奥行三間。鎌倉時代、文治3年(1188)源頼朝の命により、佐々木六角が造営したそうです。江戸時代の元文2年(1737)と文化2年(1805)に改築が行われているとか。1978年に本殿と共に檜皮葺から銅板葺に改められたそうです。(資料1) 楼門を入ると右側に能舞台があります。ここも、木造入母屋造で屋根は瓦葺です。明治32年(1899)に新築されました。鏡板の老松の絵は北垣光鱗筆によるそうです。(資料1)舞台の手前左隅に”「能舞台」と能楽「日觸詣(ひむれもうで)」”と題した案内の額が置かれています。「能舞台改築竣工に当り明治33年(1899)11月24日当神社の能楽日觸詣でが完成。この舞台で初演されました。観世流の能であります。その後能舞台にて能楽や謡曲の奉納は実施されながら日觸詣は久しく演じられませんでしたが、平成5年7月、93年振りに薪能として荘厳幽玄に演じられました。」(転記) 石段近くに神馬像 拝殿右側の石段を上がりました。石段脇に異なる姿の石灯籠が奉納されています。下から2つめの石灯籠が一番目にとまります。おもしろい形です。石灯籠の笠が苔蒸しているのは、歳月の経過を感じさせます。 本殿は三間社流造で前面に千鳥破風の向拝が付き、屋根は銅板葺。祭神は譽田別尊(ほむたわけのみこと:応神天王の神霊)、息長足姫尊(おきながたらひめのみこと:応神天皇の母である神功皇后)、比賣神(三姫神の神霊、玉依姫とも)です。三姫神とは田心姫神(たごりひめかみ)・湍津姫神(たぎつひめかみ)・市杵嶋姫神(いちきひめかみ)です。江戸時代に出版された『近江輿地志略』には「八幡社」、『新撰近江名所図会』では「八幡神社」の見出しでそれぞれ説明されています。昭和41年(1966)に神社本庁別表神社に加列した際に、「日牟禮八幡宮」と改称されたと言います。(資料2)由緒によれば、一条天皇の勅願により「正暦2年(991)法華峰(八幡山)に社を建て、宇佐の神を勧請して、上の八幡宮を祀り、寛弘2年(1005)遙拝の社を麓に建て『下の社と号す』とあり、現在の社は麓の社に相当すると解することが出来」るそうです。豊臣秀次が八幡山に築城する際に、「上の八幡宮を麓の社に合祀し替地として日杉山に祀る計画」があったようですが、文禄4年(1595)に秀次が高野山で自害するに及び、「日杉山に社は建設されず、現在の如く一社の姿となった」(資料2)という次第。それ以来、数回に及ぶ修復造替を経て、現在に至るそうです。(資料1)さらに伝記では「第13代成務天皇高穴穂の宮に即位(131)の折、竹内宿禰に命じて、この地に大嶋大神を祀られた(地主神・大嶋神社)」ところまで神の鎮座の始まりが溯られるようです。(資料2)この地に日牟禮八幡宮が創建され、八幡さまが祀られたことから、八幡という地名となり、市制移行の折に「近江八幡」という市名になる由来がここにあるようです。 本殿は、右隣りの建物と渡殿で繋がっています。緩やかな反り橋状の弧を描いています。 右隣りの建物。建物の正面には「御祈祷所」の扁額が掲げてあります。石段脇には、石柱型の石灯籠が立ち、「八幡宮」「太神宮」と大きな文字が陰刻されています。八幡宮の上部には小さな文字で「日觸」と刻されています。 近くに、「左義長祭の由来」「八幡まつり(松明太鼓祭)の由来」についての詳しい説明板が設置してあります。現地でお読み下さい。 拝殿の傍で目に止まった番の金鳩像。金婚式記念に奉納されたようです。反対側にも同種のものが奉納されています。拝殿の正面右側にも奉納されています。私が気付いたのはこの3ヵ所です。他にもあるかは不詳。他の神社で目に止まった記憶はありません。ここだけかな・・・・。 本殿の左側に「岩戸神社」が鎮座します。天照大御神の荒御魂を称え奉った神社で、祭神は「橦賢木厳之御魂天疎向津姫命」です。これはとてもじゃないが読めません。「しきさかきいつのみたまあめさかるむけつひめのみこと」と読むそうです。特に近江の人は毎年伊勢神宮に参拝するとか。それができない年はこの大神に代参したと言います。(資料3)伊勢に詣でることを考えると、ここに代参する人がやはり多いでしょうね。駒札が立っているのですが、経年劣化で文字が判読できない部分があります。末尾の文は読めます。「真の御柱といって社殿の柱を祭神として伊勢信仰が生まれている。」興味深い一文です。 一般的な境内社とは少し形式が違います。少し興味深い所です。 本殿屋根棟 鬼瓦岩戸神社の少し先に、かつての八幡瓦製の鬼瓦が保存展示されています。「平成30年9月4日 台風21号により鬼瓦片方が落下破損。八幡瓦であったと考察。現在八幡瓦製作が皆無のため銅製で復興。八幡瓦全盛期の鬼瓦と察し此処に展示供覧する。 令和2年4月吉日 宮司識す 施工 匠大村 」(掲示説明転記)さらに北に歩むと、 3つの社が横一列に並んでいます。 中央の大きな社は、「天満宮」です。祭神は菅原道真。 右側に駒札(といっても長方形)が立ち、左には定番ですが、臥牛像が奉納されていいます。「元宮内町に独立して祀った。慶長6年(1601)勧請。大正5年(1916)現慰霊殿敷地から移建。昭和28年(1953)より現在の姿で祀る。宮内天神、庄六天神とも伝え、文麟の灯籠と鉄斎の一筆の牛が名高い。大正5年慈元天満宮を合祀す」(転記、西暦年は追補) 向かって右は「宮比神社」で、祭神は天宇受賣命(あめのうずめのみこと)です。「安政5年(1858)より稲荷山に祀ってあったのを、明治8年(1875)に移建した。古くより百太夫神社を合祀している。天河枝比賣は当社に祀られ本社との関係をもっている。」(転記、西暦年は追補)日牟禮八幡宮のホームページには、「宮比・子安神社」と表記して説明されています。祭神に子安大神が併記されています。この社殿は、令和3年10月に篤志家より奉納され移築造営されました。この時、子安大神を合祀したとのこと。(資料3) 向かって左は「常盤神社」で、祭神は天照大神・豊受大神・熱田大神・津嶋大神の4柱です。「天保13年(1842)、八幡が尾張領となったのを機会に惣年寄建設祭祀することを誓い、嘉永元年(1848)城山に創建、尾張地方に関係の諸神を祀ったのも八幡の歴史の一つである。明治20年(1887)2月繁元稲荷と共に今の境内に移建された」(転記、西暦年は追補) これら三社の南西側で、この境内地の西辺に屋形石灯籠が奉納されています。とは言え、竿が円柱や角柱でないところがおもしろい。この竿の形はどう表現するのでしょう。不詳です。 三社と記念保存の鬼瓦との間、この境内地の東辺にこの社が鎮座しまです。「愛宕神社」と「秋葉神社」です。共に火除けの神です。祭神は、愛宕大神と秋葉大神。平成30年(2018)1月の積雪による被災で、翌令和元年7月に新たに社が造営されたそうです。ここに祀られていた子安大神は上記の通り宮比神社に遷座されたのです。(資料3)手前の石柱には「愛宕大神」(右)、「秋葉山」(左)と刻されています。今回のぶらり探訪では訪れていませんが、「大島神社」「繁元稲荷」「八坂神社」「恵比須神社」が併せて境内社として祀られています。(資料3) 楼門に引き返します。楼門を入ったところから見ると、左斜め前方に手水舎があり、その先に社務所があります。手水舎の背後(北側)で社務所の西側には、絵馬殿があります。 絵馬殿に絵馬が掲げてありますが、内部には八幡祭で使われる松明が展示されています。 もう一つ、左義長祭での左義長が展示されています。「火のぼり」と称される赤色の御幣が目に止まります。 案内文左義長祭と八幡祭の詳細は、日牟禮八幡宮のホームページ並びに補遺をご覧下さい。日牟禮八幡宮のぶらり探訪をこの辺で終わります。後は、この周辺の探訪を続きに少し行いました。つづく参照資料1) 本殿以下主要建物 :「日牟禮八幡宮」2) 「日牟禮八幡宮略誌」3) 日牟禮八幡宮の末社 :「日牟禮八幡宮」補遺日牟禮八幡宮 ホームページ天下の奇祭 左義長まつり ホームページ 近江八幡左義長保存会左義長まつり :「近江八幡観光物産協会」八幡まつり :「近江八幡観光物産協会」【解説】大接近&大迫力の火祭り!近江八幡まつり・松明奉火《4月開催》:「おおむね観光」八幡総本社 宇佐神宮 ホームページ宗像大社 ホームページ北野天満宮 ホームページアメノウズメ :ウィキペディア伊勢神宮 ホームページ津島神社 全国天王総本社 ホームページ総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ秋葉山本宮秋葉神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -4 池田町周辺、八幡堀、佛光寺八幡別院、図書館 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -5 町名駒札コレクション(一部)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -2 村雲御所(本丸)、二ノ丸、日牟礼八幡宮
2022.06.09
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今回の近江八幡ぶらりは、ヴォーリズ建築巡りの見学ツアーに参加する前後の時間に行いました。これまでに目に触れていて取り上げなかったのが、町名について説明した駒札です。ここではブラリ散策と建築巡りを併せた中で、目に触れる度に撮った町名駒札を一堂にまとめてご紹介します。町中に設置されている駒札をすべて撮ったわけではありません。また、2012.12.22に近江八幡に来ています。この時は八幡山にグループで登ることが目的でした。その折に通過経路となった町中の駒札を撮っています。これも併せてここに載せたいと思います。2012年のものには、☆マークを付記しました。今回撮った駒札が経年変化で読みづらくなっているのもあります。一部併載もしてみました。近江八幡の城下町は、大雑把に言えば、北に城跡が残る八幡山があり、その南の裾野を八幡堀が囲むように流れています。その南に、八幡山に対して南北方向と東西方向に、碁盤の目状に町割りが区画されて通りが貫いています。(ネットでMapionやGoogleの地図をご覧いただくと、南北の道路は実際は北西~南東寄りです。)観光案内の地図を見ると、南北方向の通りには名称が記載されていますが、東西方向の通りには名称の記載はありません。ネットの地図も確認した範囲では同様です。ここでは観光案内地図に載るエリアを中軸にして拡げる形でご紹介します。冒頭に取り上げたのが南北方向の通りで一番東に記される「池田町通り」に掲示の駒札です。「安土の池田町を移したもの。元々、安土でその名前は織田信長の家臣の名前によるものといわれています。一筋西の寺内町と合わせて遊女茶屋8軒が建ち並んでいた一方、四町目の町年寄をつとめ、日記などを残している薬屋五兵衛家の資料のうち『池井蛙口記(ちせいあこうき)』(=治世悪口記)は町政の刷新をめざした自治活動の詳細な記録として広く知られています。」(転記)池田町はヴォーリス建築の「洋風住宅街」がある通りです。ご紹介済み。この池田町通りを起点にまずは、東方向に順次ご紹介しましょう。(入手した資料に載る観光案内の地図では、池田町通りの西の通りに名称の記載がありませんので、ここから始めます。資料1) 前回、本町橋付近にふれました。池田町通りから一筋東は「本町通り」です。「八幡町の中心の町という意味。城の正面にあたり、商業街の中ではほぼ中央にあたりますが、本町筋よりも街道筋にあたる横筋の京街道の方が繁華街となりました。同町三丁目の近江屋内池宗十郎、四丁目の扇屋中村四郎兵衛などは全国的な商業活動で知られました。」(転記)(☆)「小幡町通り」は本町通りの一筋東。現在では近江八幡駅前から「ぶーめらん通り」から中村町交差点を経て、この小幡町通りが、幹線道路の1つになっています。「八幡城下形成時に神崎郡小幡村(現:東近江市五個荘)の商人がこの地に移り住んで成立した町と伝えられています。この地の有力者であった西谷家も小幡出身です。また、八幡商人御三家の一つに称された同町の扇屋伴伝兵衛は全国的な商業活動で知られました。」(転記)小幡町通りの一筋東は「新町通り」です。この駒札には出逢えていません。この新町通りの南端に八幡商業高校の校門が位置します。ご紹介ずみ。 (☆)「魚屋町通り」は新町通りから一筋東。「うわいちょう」と読むのですが、難読の部類ですね。「多くの魚屋が軒を並べた町。『うわい』は魚市が変化したものといわれています。同町元(もと)にある浄土宗正福寺(しょうふくじ)は、多くの八幡商人を檀徒とし江戸期の朝鮮通信使の来町にあたっては随行する対馬藩主宗(そう)氏の昼食場所にあてられました。」(転記)魚屋町通りの北端角は,W・M・ヴォーリズが英語教師として着任した時、最初に住んだ家があったところ。「創の家」跡地。今は(株)近江兄弟社の建物があります。ご紹介済み。(☆)魚屋町通りの一筋東は「為心町通り」です。「町名は、城下町時代、豊臣家に仕えた為心斎(いしんさい)が居住していたことに因むと伝えられています。同町は多くの近江商人を輩出しており、同町元には江戸期松前藩(現:北海道松前町)の下請けとして蝦夷地(えぞち 現:北海道)開発に従事した惠比寿屋(えびすや)岡田彌三右衛門家の邸宅跡を示す石碑があります。また、同町上・中の一部は、かつて桶屋町(おけやちょう)として独立していましたが、昭和29年の市政施行と同時に同町に併合されました。」(転記)為心町通りには面していませんが、為心町中にはヴォーリズ建築の一つ、アンドリュース記念館があります。ご紹介済み。 為心町通りから一筋東は「仲屋町通り」。これも難読の部類で、「すわいちょう」と読みます。「八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、町名は商売の仲買を意味する『すあい』に因みますが、後には他の商人町と変わるところはありませんでした。また、”市助町”とも呼ばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助直末が居住していたことに由来するといわれています。」(転記)仲屋町通りには、ヴォーリズ建築の一つ、「元八幡郵便局」があります。ご紹介済み。仲屋町通りから一筋東は「永原町通り」です。ここも駒札には出逢っていません。 「博労町(ばくろちょう)通り」は永原町通りから一筋東です。「軍馬を売買することを仕事とする人が住んでいた町。秀次公の掟には、近江国(現:滋賀県)中の馬の売買は八幡以外では禁じていたことから、近江の国の馬のすべてがここで売買されていたと考えられます。また、路上で馬をつなぐために特に道幅を広くしてあります。」(転記)この通りを横切るときは道幅を意識していませんでした。駒札を撮っただけでした。 「慈恩寺通り」は博労町通りから一筋東です。「安土の慈恩寺から移住してきた人々によって作られた町だと考えられています。宝永4年(1707年)頃には隣接する市井村と合わせて47軒が蚊帳(かや)の製造内職に従事していたという記録があります。」(転記)博労町通りと慈恩寺通りについて、私が入手した資料にある観光案内地図に通り名が載っていません。(資料1)起点とした池田町通りから永原町通りまでが明記されています。多分観光地図としての表記の都合によるのでしょう。とはいうものの、宝永3年に作成された「八幡町絵図」を見ますと、この慈恩寺通りの東は、市井村との境界になり、城下町としての南北の通りの東端が慈恩寺通りだったことがわかります。(資料2)北から慈恩寺町元、慈恩寺町中、慈恩寺町上と南方向に並び、慈恩寺町上の南辺が京街道に面していて、ここの四つ辻から東一筋のところの角が「札辻」で、ここから京街道は南に転じています。逆に京に行くためのこの街道は、鍵型に屈折しながら八幡城下を通るように設定されていたのです。慈恩寺町上の四つ辻からは仲屋町通りに右折して、二筋北上し、そこで左折して、西に進み、池田町通りから二筋西の通りを横切りその先で城下町を外れ京に向かうというルートでした。(資料2)城下町に幹線道路を通すことで往来のコントロールを行うとともに城下町の繁栄も狙っていたのでしょう。脇道に逸れました。元に戻ります。この慈恩寺通りには、慈恩寺町元にヴォーリズ記念館があります。現在の地図を見ますと、慈恩寺町元、慈恩寺町中の東隣りは市井町です。市井町に近江兄弟社中・高のキャンパスが所在します。ヴォーリズ学園です。慈恩寺通りから日牟禮八幡宮に向かう時に東西方向の通りを歩いていて出逢ったのが この東西の畳屋町の駒札です。「畳大工職人が集まり住んだところ。大工町と共に工匠の保護という意味からその地子すなわち年貢を免除されていました。寛政4年(1792年)には畳大工仲間が公認され、同年の作法帳によれば仲間は八幡町全体12軒で組織されていました。江戸時代末期には、西畳屋町の松前屋藤兵衛をはじめ八幡町全体で24軒の畳大工職人が住んでいました。」(転記、両駒札は同文)(☆)「間之町(あいのまち)」は、西畳屋町から西に進み、永原町通りを横断した先にあります。「永原町と仲屋町の中間の意味と考えられます。『元禄絵図』(徳川時代)では”相之町”、『輿地志略』には”相町一町”と記されています。他に”間町”と記されたものもあります。江戸時代中期以降の仲間商人として灯心屋仲間と質屋仲間に所属する畳屋伝左衛門がいました。」(転記)(☆) 八幡堀に沿う一筋目の東西方向の通りは、少なくとも西の新町通りあたりまでは「大杉町通り」と呼ばれています。「八幡堀の対岸は日牟禮社(現:日牟禮八幡宮)境内で、元禄町絵図では同堀に架かる宮ノ橋が描かれています。日牟禮社の門前町的性格を有しており、町名は同宮境内の杉の木に因むといわれています。また、久兵衛町とも呼ばれていたこともあり、これは豊臣秀吉・秀次に仕えた田中久兵衛吉政が居住していたことに由来すると言われています。」(転記) (☆)大杉町から八幡堀に架かる白雲橋を渡ると、日牟禮八幡宮の境内です。ここの地名が「宮内町(みやうちちょう)」です。「宮内は、日牟禮八幡宮の領地で、秀次時代には武家屋敷が多くありました。これを『宮内』と呼ぶようになったのは徳川末期頃からで、それまでは決まった呼び方はなく、『宮ノ内』『宮村』などと呼ばれていました。八幡城下形成時には宮ノ橋(白雲橋)・本町橋・幸円橋(清四郎橋)の三橋で八幡各町と結ばれていました。」(転記)ここで、池田町通りの西側地域に戻ります。池田町通りの西側には、元城下町としては2つの南北方向の通りがありました。調べた範囲ではこれらの通り名が確認出来ません。 池田町1丁目の西側の南北の通りを挟む町が「佐久間町」です。「八幡城下形成時に安土城下の佐久間町を移して成立した町で、それまでは小船木村に所属する地であったようです。元々、安土でのその名前は織田信長の家臣の名によるものといわれています。北が八幡堀に面する当町は八幡浦の一角として栄え、元禄13年(1700年)には丸小船2隻・船株高397石をもつ舟屋喜十郎ら八幡浦船株仲間に入る船屋3軒がありました。」(転記)佐久間町の南方向は、元玉屋町、北元町、北末町と一貫性のない町名が連なります。そのため、私には的確な推測もできません。(☆)佐久間町の西隣は、一筋西の南北の通りを挟んで、孫平治町1丁目です。その南には孫平治町2丁目、西元町、新栄町が続きます。孫平治町1丁目の北辺側に位置するのが前回ご紹介した「佛光寺八幡別院」、旧名西方寺です。この町名駒札を2012年に撮っていたのは、ある史跡探訪に参加し、孫平治町2丁目にある「洞覚院」まで直接、東方から町中の通りを進んでここまで来たことがあったのです。その時1丁目のエリアには行きませんでした。「豊臣秀次の補佐である大名で水口城の城主である中村一氏の通称『孫平治』に因んだ町名です。一氏の領内から移住した人が住んだ町だと思われます。二丁目の浄土宗洞覚院は豊臣秀次の息女玉姫の位牌を祀っています。」(転記) 孫平治2丁目の南側が「西元町」です。西元町の東側隣りが「北元町」です。「西元町・西末町・北元町・北末町の4町は、明治維新までは総じて『寺内(じない)』といわれていました。この地にある本願寺八幡別院金台寺の門前町の意味です。八幡城下形成時に、元々安土にあった同寺と東寺内・西寺内の両町の住民を移してできた町です。現在の名称は町政の便宜上4分してこのように呼ぶようになりました。」(転記、両駒札は同文)北元町には「本願寺八幡別院」があります。上記の洞覚院の続きにこの本願寺八幡別院を訪れています。ご紹介済み。 この「日杉町」の駒札は、上記の「佛光寺八幡別院」を探訪したとき、八幡堀傍で目に止まり撮った駒札です。孫平治町1丁目の北西側に位置します。「日杉山の麓にあることからこの名がつけられました。『檜杉』と書くこともあったことから日杉山の名の由来は檜や杉が茂った山であったことからだと思われます。元禄町絵図いは町名が見えませんが、『輿地志略』には『日杉町一町』と帰されています。」(転記)国土地理院の地図で確認しますと、孫平治町1丁目、同2丁目、西元町と続く町並みの南北の通りが元城下町の町割りの西端になっている理由が一目瞭然です。この三町の西側がわずかの標高ですが小山なのです。地図には140という数字が記されていますので、標高を示すのでしょう。これが「日杉山」と称される山です。この小山が八幡城の城下町西側の防御線の一部になっているとも言えそうです。(資料3)参照資料1)「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 2) 絵図・地図一覧 :「近江八幡市立図書館」3) 近江八幡 日杉町周辺 :「国土地理院」補遺中村四郎兵衛邸 :「4travel.jp」伴伝兵衛 :ウィキペディア岡田弥三右衛門 :ウィキペディア田中久兵衛吉政 :「コトバンク」近江八幡 八幡商人 :「近江商人のふるさと」八幡商人 :「小さな館 近江八幡」西川甚五郎本店史料館 :「西川文化財団」浄土真宗本願寺派 本願寺八幡別院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -4 池田町周辺、八幡堀、佛光寺八幡別院、図書館 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -1 ウォーターハウス記念館・吉田邸ほか 3回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 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2022.06.07
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西光寺から小幡町通りに戻り、少し北に歩むと、「八商前」のバス停があります。通りを横断します。通りの西側には「近江八幡市小学校」があります。 八幡小学校は、「小幡上筋」交差点の南西角に位置します。ここで、左折して西に進みます。 通りに北面する形で、小学校の正面の建物が見えます。こちらが正門なのでしょう。 民家の敷地内の角に地蔵堂が祀られています。地蔵堂を見つつ進みます。 池田町通りです。北方向、通りの正面に八幡山が見えます。右折して、この通りを北上し、ヴォーリズ建築巡りの集合地であるウォーターハウス記念館の場所をまず確認しました。集合時刻にはまだ少しゆとりがありますので、通りを北に進み八幡堀まで行ってみることにしました。 この建物の角の柱に「池田町四丁目」の住所表示板が取り付けてあります。左は池田町通りを振り返った景色です。池田町は八幡堀側が一丁目で、順次南方向に五丁目まであります。 八幡堀に至るまでの途中の民家傍の地蔵堂です。ここのお地蔵さまはお顔に化粧が施されています。京都府以外では、お化粧顔のお地蔵さまを見たのは初めてのような気がします。 池田町通りの突き当たり、八幡堀の手前に地蔵堂があります。 八幡堀を久しぶりに眺めました。堀沿いに歩いて、こちらまで来たことはありません。 まずは八幡堀沿いに西方向に歩いてみることにしました。八幡堀を観光遊覧船が行き来していました。進んで行くとお寺の建物らしきものが視野に入ってきます。 定規筋の入った築地塀に「仏光寺八幡別院」の木札が掛けてあります。オープンな正面に本堂が見えます。 (所在地:近江八幡市孫平治町1-16-1) 築地塀の前には幅の狭い堀が設けてあります。 本堂 真宗佛光寺派のお寺です。本尊は阿弥陀如来。 本堂の手前には、一対の石灯籠が奉納されています。竿の正面に「濱御堂」と刻されています。竿の形はあまり見かけない形状です。この佛光寺八幡別院は、旧称が西方寺、濱御堂と称されていたと言います。石灯籠の刻字がこれで理解できます。(資料1)旧称で調べてみますと、縁起によれば、推古天皇27年3月に四箇寺の1つとして建立されたと伝わります。室町時代、永正7年(1510)の乱にて放火により灰燼に帰したそうです。その後坊を建て、天正19年には魚屋町に寺が移転。元禄14年(1701)春に現在地に移転し、今日に至るようです。佛光寺派での江州第一の坊(寺)だとのこと。(資料2)現在の本堂は、1718年に再建されたそうです、(資料1)右斜め後ろに、後脚をぐっと立ち上げた獅子像が置かれています。これもまた珍しいスタイルです。 本堂の左斜め前には、この水鉢が見えます。 本堂の正面は、三間にわたり桟唐戸が設けてあります。その両側はガラス格子戸になっています。御堂の正面に額を掲げていないのが意外でした。逆にスッキリした感じではあります。奥行(梁行)は確認できていませんが、間口(桁行)は7間。入母屋造、本瓦葺です。 本堂屋根の留蓋瓦。後脚を立ち上げている姿は石灯籠傍の獅子像と似ています。 向拝の木鼻金網で囲ってあります。鳥害除けなのでしょうね。 本堂の左側には通路があり、その先に廻廊の建屋が見えます。廻廊の下を潜った先は境内墓地のようです。「仏光寺八幡別院浄苑」と記された大きな木札が掲げてあります。一方、本堂の右隣りには庫裡があります。 境内地の北東角、八幡堀に近いところにこの建物があります。仮設の保護屋根が設けてあります。推測では太鼓楼かと思いますが不詳です。 その西隣りに鐘楼があり、さらに西側に庫裡が見えます。 鐘楼自体は比較的実質本位の建物という印象です。梵鐘の撞座の上の縦帯に蓮華座がレリーフされ、その上に「南無阿弥陀仏」と六字の名号が陽刻されています。 池ノ間には宗紋がレリーフされています。こちらの縦帯には「佛光寺八幡別院法什物」と陽刻されています。「什物」とは「私人がかってに処分してはならない、お寺の備品」という意味です。佛光寺八幡別院を出て、左折するとすこし先が八幡堀で橋が架かっています。 橋の上から八幡堀の東方向を眺めた景色堀沿いに引き返します。八幡堀沿いに戻る時、池田町通りからさらに一筋東側の通りまで歩いてみることにしました。 八幡堀の傍に祀られているお地蔵さま。こちらはお化粧なしです。 池田町通りの一筋東側は「本町通り」。八幡堀に架かるのは「本町橋」です。 橋の南詰に地蔵堂があります。 格子戸から内部を覗くと、厨子が収めてあり、お地蔵さまは拝見できませんでした。地蔵堂の脇には、石仏が集められています。宝珠様の石造物もあります。それらにも涎掛けがかけてあります。 地蔵堂の傍から八幡堀の岸に降りてみました。右は八幡堀の東方向の景色、左は振り返って本町橋を眺めた景色です。 本町橋を渡るとその先はT字路で、突き当たりに彫刻像があります。台座には「みずうみの詩」と記された銘板が嵌め込まれています。 八幡山側に見えるのは、「近江八幡市立図書館」です。余談です。近江八幡市立図書館のホームページを見ますと、「近江八幡市歴史浪漫デジタルアーカイブ」があり、「絵図・地図一覧」のページがあります。(クリックしてご覧ください)そこに古地図が公開されています。(資料3)「八幡町絵図3」は元禄11年(1698)の地図で、「近江国蒲生郡八幡町惣絵図」は宝永3年(1706)の地図です。これを見比べますと、前者の地図には上記の西方寺はなく、後者の地図には西方寺が記入されています。こういう対比ができるのも、おもしろいものです。集合時刻が近づいてきましたので、ここで一旦探訪を切り上げ、池田町通りに戻ります。ヴォーリズ建築巡りを終えた後で、ぶらりと巡る探訪を続けました。つづく参照資料1) 仏光寺八幡別院 :「神殿大観」2)『大日本地誌大系 近江國輿地志略 下』 巻之五十四 蒲生郡第一 p503) 絵図・地図一覧 :「近江八幡市立図書館」補遺真宗佛光寺派 本山佛光寺 ホームページ近江八幡市立図書館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ
2022.06.06
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西光寺の正門(表門)から巡っていきましょう。大きな寺号標が門前に立っています。北側面に「天正8年 織田信長公開基」と刻されています。前回ご紹介しましたが、当初は安土の城下に建立されました。八幡城下の此の地への移転は天正14年です。(資料1) この表門は新町通りに面しています。築地塀沿いに堀が巡らされています。山門は通りより一段奥まった位置に建てられていて、よく見ると門の両側の凹型の築地塀部分だけに定規筋が見えます。これは当初からこの形式だったのかどうかは不詳です。 表門は四脚門の形式です。正面に向かって右側に脇門が設けてあります。控柱は木組みだけで装飾金具などはなく質朴です。 留蓋瓦 蟇股 木鼻 門前で、門の木組みの構造を見上げます。 頭貫と虹梁の間には蟇股の代わりに、その空間に龍と雲文が彫刻されています。山門を入ると、参道は正面の本堂に延びています。途中に右折して北方向に分岐する参道があります。こちらの参道を辿ると、北門に至ります。山門を入った右方向、築地塀の内側に「鐘楼」があります。分岐した参道を少し進みます。 基壇の上に鐘楼が築かれています。背後に築地塀が見えます。 梵鐘をまず観察しました。表面に意外と装飾文様がほとんどない梵鐘です。後で写真をみていて気づいのですが、下段の写真の乳ノ間のすぐ下、右から2列目の下に半ば埋め戻されている小さな孔が見られることです。勝手な推測では、戦時中に金属供出され、後に戻されてきた鐘ではないかと思います。 鐘楼の天井が折上小組格天井になっています。周囲に天井支輪があり、格縁の中に小組が施されています。凝った天井です。(資料2)鐘楼の四周の蟇股の浮彫は見応えがありまます。 鐘楼内の基壇面には、かつての時代の火消道具が置かれています。保存という主旨でしょう。江戸時代の「竜吐水」と称された火消し道具(手押しポンプ)でしょう。(資料3) 鐘楼から参道を挟んで反対側(西)は玄関口が石畳の先に見えます。本堂と繋がる客殿の玄関口と推測します。 屋根の鬼板 こちらがもう一つの北門です。こちらは向かって左側に脇門があります。地図で確認沁ますと、この北門の前の通りを左(西)に行けば、小幡町通りに出て「八商前」バス停です。右(東)に進めば、八幡商業高校の校門前、魚屋町通りとのT字路に至ります。 木鼻や蟇股はごくシンプルな造形です。 北門を入ると、参道の先、突き当たりには前回ご紹介した地蔵大菩薩の地蔵堂覆屋が位置します。 参道の左側手前に見える石鳥居がこちらです。 基壇が高く、前面に石段が設けてあり、覆屋の中に小社が祀られています。 鎮守社のようですが、祭神は不詳。判断できるようなものは見当たりません。 鎮守社と鐘楼との間にお堂があり、その西側には地蔵菩薩立像が中央に、左右に三躰ずつ並んだ六地蔵とともに鎮座します。これらはブロンズ製だと思います。 六地蔵像の傍から眺めた鐘楼 本堂の右前、北東側は緑豊かな庭になっていますが、その中にこの小祠が祀ってあります。鎮守社かと思われますが、不詳です。柵があるので近づくこともできません。これで一応自由に巡ることができる範囲を拝見しました。引き返し、駐車場側から小幡町通りに戻ります。 歩道に戻り歩き始めて目にとまったのがこの「西光寺領」と刻した石標です。この小幡町通りが寺地の境界になっていたということでしょう。つづく参照資料1)『大日本地誌大系 近江国與地志略 下』(大正4年8月) p46-47 2)『図説 歴史散歩事典』 監修:井上光貞 山川出版社 p1813) むかしの消防道具 :「京都市消防局」補遺竜吐水 :ウィキペディア江戸の三火消しと消防技術 :「お江戸の科学」消防博物館~江戸の火消し~ :「お江戸の科学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ
2022.06.05
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中村町の交差点を横断し、小幡町通りの東側歩道を進むと、この看板が目にとまりました。「織田信長」「地蔵尊」「西光寺」という言葉に引きつけられました。お寺の駐車場があり、そこから境内に向かう人を見かけましたので、境内地を訪れてみました。ヴォーリズ建築巡りの集合地にはかなり近づいていて、時間のゆとりがありましたのでぶらりと。後で、地図を確認しますと、西光寺の正面は小幡町通りから一筋東側の新町通りに面していて、通りを挟んで八幡商業高校の西隣りに位置します。(所在地:近江八幡市中村町)西光寺には裏口から訪れたことになります。境内の南東部はわりと大きな境内墓地になっていて、駐車場は墓地に近いところです。 本堂の南側を通り、 右側の墓地域との間を歩むと、前方に手水舎が見えます。 目にとまったのがその先の「織田信長公」と記された看板です。「織田信長公供養塔」と刻した石標が建てられ、石造五輪塔形式で供養塔が建立されています。 駒札京都の寺町通の北に阿弥陀寺があり、そこには織田信長の供養塔が祀られています。ここは以前に探訪記をご紹介しています。阿弥陀寺第二代貞安により分骨されたとの伝えでこの境内墓地にも供養塔が営まれたそうです。1931(昭和6)年、信長の300年遠忌に際して供養塔がこの現在地に移されました。(駒札より) まずは本堂からご紹介しましょう。 西光寺の正門となる新町通りに面した山門を入ると、正面に東面する本堂が見えます。龍亀山大雲院西光寺と号し、浄土宗のお寺で、知恩院に属するそうです。開山は貞安上人。後で調べてみてなるほどと思いました。開山の貞安上人は、天正7年(1579)5月27日、織田信長の居城安土城下の浄厳院で行われた「安土宗論」(浄土宗と日蓮宗との論争)に浄土宗側の一人として加わった長老僧です。安土宗論は「安土問答」とも称されます。(資料1,2,3)『信長公記』巻十二「法花・浄土宗論の事」の箇所に、「関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出でられる。・・・・・田中の貞安、早口にて、初問を置かる。其れより互ひの問答を書き付くる」と記し、問答の初めの部分が一部記録されています。貞安上人の名前が載っているのです。(資料4)貞安は最初は能登の西光寺に住していたのですが、乱を避け近江に移ってきていたそうです。そして、この安土宗論に加わることになります。「信長信敬也。西光寺を建立す。始安土城大手の前田の中に御建立。天正7年己卯年11月5日釿始。同8年庚辰年9月成就す。」(資料1)信長が開基となり西光寺を安土に建立したのです。天正10年6月、本能寺の変で信長が死に、山崎の戦いで秀吉が勝ち、その後秀吉は天下を掌握します。天正13年には、正親町天皇の勅願所となります。天正14年、豊臣秀次が八幡山に城を築き、安土の町を悉く引き遷して、八幡に城下町を形成します。この時、西光寺も宇津呂村大字中(現在地)に移りました。豊臣秀次が祈願所として、寺の造営に援助したそうです。天正18年には後陽成天皇の勅願所となり、同19年に大雲院の勅額を下賜されたと言います。(資料1,2,5)本尊は阿弥陀仏坐像。余談ですが、現在、西光寺は中村町、東隣りの八幡商業高校は宇津呂町にあります。かつての地名が名を留めています。 本堂正面の桟唐戸は閉められていました。 扉の上部の扁額「西光教寺の横額は安井門主の御筆也」(資料1)の記述がありますので、「西光教寺」と記されているものと推測します。 両側の扉は開けてあります。 この透かし彫りが見られるように扉を開放してあるのかもしれません。 向拝の木鼻 蟇股には波の間から龍が顔を出している構図が彫刻されています。 獅子を彫刻した留蓋瓦本堂は間口(桁行)7間、奥行(梁間)5間、入母屋造、本瓦葺です。3間幅の向拝が付いています。西光寺は享保7年(1722)に本堂等主要な建物が焼失したそうで、現在の建物はその後に再建されたものと言います。(資料5)また、「江戸時代を通じ中村地内に高一一石四斗余りの朱印地を有し、四箇寺の末寺を擁した。触頭寺院であった。」(資料6)とか。 本堂の手前、参道の左右に一対の大きな石造水瓶が建立されています。 基礎の格狭間に刻されたレリーフに惹かれます。 文久4年(1864)3月の刻字が読み取れます。 本堂の南東側、境内墓地の手前にこの覆屋があります。 覆屋の中には、「地蔵大菩薩」の扁額を掲げた地蔵堂が収めてあります。 「南無地蔵大菩薩」と墨書された赤提灯が数多く覆屋内に吊り下げられています。地蔵堂覆屋の東側に沢山の供花がみえます。 傍まで行ってみますと、愛玩動物慰霊碑として、「生類供養塔」が建立されています。供花の多さを見ますと、ペットを飼い愛しんでいた人々が沢山いらっしゃるということでしょう。動物たちの安息地になっているようです。 地蔵堂覆屋の西側には地蔵石仏群があります。織田信長公供養塔がこの石仏群の南側に位置します。 石仏群のさらに西側にも覆屋があり、 ここにもお地蔵さまが祀られています。 宝珠様の石造物にも涎掛けがしてあるのが微笑ましい・・・・・。 さらに西側には、石造六地蔵立像が祀られています。右背後には、数多くの無逢塔が並んでいます。たぶん西光寺歴代住職の墓所域なのでしょう。ずっと拝見してくると、境内墓地の北辺は地蔵尊像がたち並び、それが墓地との境界にもなっている感じです。この後、正門に当たる山門や鐘楼などを巡ってみました。つづく参照資料1)『大日本地誌大系 近江国與地志略 下』(大正4年8月) p46-47 2) 新撰近江名所図会 :「国立国会図書館デジタルコレクション」3) 安土問答 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」4)『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p257-2625) 滋賀県近江八幡市 西光寺 :「JAPAN GEOGRAPHIC」6) 西光寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」補遺西光寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」貞安 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」阿弥陀寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 阿弥陀寺 織田信長の本廟所
2022.06.04
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先月(5月)、ヴォーリズ建築巡りに参加する目的で近江八幡市に出かけました。その折、前後の時間に、ぶらりと近江八幡の各所を歩いてみました。近江八幡には市主催のウォーキングへの参加も含めて幾度か来ています。その折は一応の探訪先は決めていました。今回は主目的以外は全く思いつくままのぶらり探訪です。だけど、それが思わぬ発見、出会いになりました。無計画にぶらりと町歩きするのも良きかな・・・・です。まとめて、ご紹介します。 このモニュメントはJR近江八幡駅の南口前のロータリーにあります。改札口を出て、うっかり南口に出てしまったお陰で、こんなモニュメントがあるのを知りました。少し調べてみましたが、詳細は不詳。 改めて北口から降りて、駅前の通りを北方向に(~方位としては北西寄りなのです~)進みます。近江八幡駅前の道路標識が見えます。左は振り返って眺めた近江八幡駅。 通りの左側歩道を歩き始めて、あるビルの入口そばで出会った彫刻像です。 いいですねえ。ちょっと、オシャレな感じ・・・・。今回初めて知った場所。 いつ頃に設置されたのでしょう・・・・。 路傍には、「ぶーめらん通り」と刻した道標が立っています。ネットのMapionの地図で確認すると、駅前から「中村町」の交差点までは、県道502号と表記されています。この交差点で東西方向の県道2号と交差します。ブーメラン通りを北上し始めて気づいたことは、この通り沿いに彫刻像が設置されていることでした。そこで、まずここから。完撮したわけではありません。取り残しもあります。部分的に写真に撮った作品をここでは列挙してご紹介します。 よみがえる力 協調 通りの先に八幡山が見えています。城下町として町並みが計画的に作られたことが感じ取れます。 ふたつの力 ”近江八幡上空より市街地を望む”所々に、近江八幡の地理・歴史に関わる古写真の類いなどが紹介されています。彫刻像群とこれらを丹念に眺めていけば、このぶーめらん通りを往復するだけで、けっこう楽しめる時間が過ごせると思います。 「中村町」の交差点と道路標識交差点を横断し、さらに北方向に進みます。この先は「小幡町通り」と称されます。このときの私の第一目印は「八商前」でした。往路は目的があり、ぶらりと歩いているわけにはいかず、写真を撮るのをかなりはしょりました。帰路に反対側の歩道を意識的に歩きました。以下は、その時に撮った作品群です。 光と風の窓 石のあしおと ひだまりの詩 希望 楽しみ (不詳) 近江八幡駅前に戻ってきました。次回は、小幡町通りのぶらり探訪から始めます。つづく補遺近江八幡駅 :ウィキペディア近江八幡駅 :「近江鉄道(電車)」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -1 秀次館跡と秀次像、西ノ丸 5回のシリーズでご紹介探訪 [再録」 滋賀・近江八幡 琵琶湖の沖島と長命寺 -1 長命寺港、沖島(1) 6回のシリーズでご紹介
2022.06.02
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アンドリュース記念館を出て、仲屋町通り・永楽町通りを横切り、博労町通りとの辻に至ります。ここで左折して北方向に歩み、緑地の広場を斜めに横切って、さらに東側の慈恩寺通りに出ます。通りを少し北に歩むと、 この門扉が見えます。 門柱には、「財団法人 近江兄弟社一柳記念館」と記された表札銘板が掲げてあります。その下に「財団本部事務局・近江兄弟社湖声社・恒春園事務局・社友会事務局」という名称が併記されています。仕切り塀には「旧ヴォーリズ住宅」の案内板が設置されています。慈恩寺通りに面し、東側にあります。(所在地:近江八幡市慈恩寺町元11) 「旧ヴォーリズ住宅」、現在は「ヴォーリズ記念館」(滋賀県指定有形文化財)になっています。このヴォーリズ記念館の見学は無料とのことですが予約が必要と記されています。訪れる方はご注意ください。(TEL. 0748-32-2456) W・M・ヴォーリズの後半生の自邸となった建物です。1931(昭和6)年に建てられました。当初は幼稚園の教員宿舎として建築されたのですが、途中で自宅に変更され、引き続き和室部が増築されたと言います。洋室部は2階建、和室部は1階建です。外観は質素な感じですが、下見板張り、両開きの窓、暖炉の煙突があり洋風を感じさせます。(案内板より) 門扉から玄関口までのアプローチ アプローチの先の玄関は南面していて、すぐ傍に庭へと導くアーチ型の中門が設けてあります。 玄関前で、振り返って建物の南側面を撮りました。 玄関の左側に「一柳米来留(ひとつやなぎめれる)」と陽刻された表札が掲げてあります。内部をご紹介できないのが残念です。「広い居間と応接室をもち、全体に簡素なつくりであるが、奥に畳の和室二室を設けていることなどヴォーリズ夫妻の日常生活がみられるところである」と山形政昭教授は記されています。(資料1)1階の広い応接室には、ヴォーリズの日常生活に関連する様々な遺品や資料が保管・展示されています。メレル夫妻の写真も壁に掛けられています。ヴォーリズ自筆の書「神の國」の扁額も掲げてあります。これが「創の家」跡地の角地に建立されている「神の國」碑のソースなのでしょう。ヴォーリズは「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外装よりも、むしろその内容にある」という考え・信念で建築作品を次々に生み出していきました。その実践はこの建物全体にも具現化されています。玄関から広い応接室に入ると、反対側に左右に開く観音開きのドアがあります。そのドアの先は和室部につながっています。また、玄関を入ると左側に背もたれのあるベンチが備え付けてあります。ちょっとすわって靴を履くのに楽で便利なように背もたれの角度に工夫が施されているのです。ぜひ、坐って試してみてください、というのが館長さんのお勧めでした。勿論、実体験してみました。 ヴォーリズ記念館を出て、今回の最後の探訪先ヴォーリズ学園に移動します。 北方向に少し歩むと四つ辻です。右折して道沿いに回り込むと、近江兄弟社中・高のキャンパスの南西側になり、門が見えます。右の門柱に「学校法人 ヴォーリズ学園」、左の門柱に「近江兄弟社学園」と記された銘板が嵌め込まれています。現在は教育会館の正門です。 仕切り塀沿いに通用門へ 門を入りキャンパス内の広がりを眺めてまずは右の2つの建物の間の通路を通り、左折しハイド記念館に向かいます。 建物の入口の上部に「ハイド記念館」と表示されています。国の登録有形文化財(2000年)。 構内の中庭から眺めたハイド記念館の全景1931年にヴォーリズの設計により、清友園幼稚園の園舎が建設されました。これはメンソレータム社創業者アルバート・アレキサンダー・ハイドの夫人から建設費用の寄付を受けたことによるそうです。ハイド記念館の名称の由来です。2003年3月まで幼稚園舍として使われていました。現在は館内に創立者ゆかりの品や絵画、パネルが展示されて、一般公開されています。(資料2,3,4) こちらが「教育会館」。上記A.A.ハイド氏の寄付により、1931年に建てられたヴォーリズ建築です。同様に国の登録有形文化財(2000年)に指定されています。建物内部は大きなホールです。かつては、教育活動や講演などの様々な催し物に使われていたそうです。舞台があることと併せて、室内競技ができ、階段式の観戦用座席もあります。校歌が、大きな額に日本語と英語でそれぞれ作成され、掲げてあるのが印象に残りました。「ヴォーリズが日本に紹介したと言われる古いハモンドオルガンがあり、今でも健在です。」(資料5)とのこと。補足的なご紹介です。ヴォーリズは1919(大正8)年に一柳満喜子と結婚しました。9年間留学し教育問題に造詣の深い満喜子は、結婚した翌年、1920年に自宅の庭を開放しプレイグラウンドと称して幼児教育の場を設けました。2年後に正式の認可を受けて、清友園を開設しました。これが現在のヴォーリズ学園の淵源になります。清友園の開設が、上記の1931(昭和6)年の幼稚園舍と教育会館の建設に発展したわけです。(資料6) ハイド記念館の2階から眺めた教育会館 教育会館正門から真っ直ぐに入って来ると、教育会館の玄関口に至ります。 入口ドアの上部には文化庁発行の「登録有形文化財 第25-0138号」銘板が掲示されています。 教育会館は現在の近江兄弟社中・高の校舎に繋がっています。 最後に中庭に触れておきましょう。 樹木の傍に、この案内板が設置されています。「学園のシンボル樹・メタセコイアの由来について」1954年の春休みに、近江兄弟社中学3年生が先生に引率され、京都大学理学部植物園を見学しました。当時米国から戦後初めて日本の皇室に贈られたメタセコイアを植物園で育てていることを植物園長から紹介され、その苗木の1本を学園にいただいたそうです。この苗木は、日本最初のメタセコイアの樹の第三世に当たるとか。それが今や大木に成長し、学園のシンボル樹になっているとのこと。(案内説明より) 近江兄弟社学園創立者として、一柳満喜子(1884-1969)の胸像が建立されています。 そして、このヴォーリズの碑も。これにはおもしろいエピソードがあるそうです。「創の家」跡地に「神の國」碑があります。そのオリジナルが上記ヴォーリズ記念館の応接室に掲げてあることに触れました。石碑に刻された「國」という字をご覧ください。一点が記されていないのです。最後の点が欠けていると指摘されたヴォーリズは、丸を書いて、その中に点を書き加えたと言います。そして、その点は、日本の中心がこの近江八幡なんだ、それを示すための点に使うのだよ、と言ったとか。ヴォーリズ記念館で扁額を見て確認しました。ヴォーリズが1934年に墨筆した「神の國」の扁額には國の字に点が記されていません。「ヴォーリズ」とカタカナで署名したした左下に、小さな丸が記され、その中に点が入っています。尚、「創の家」跡地の「神の國」碑を注意深く観察すると、これには1934という漢数字の年号は刻されていませんがカタカナ表記の名前の左下に小さな丸の中に点が刻されています。丸の中に点を記した、その拡大版がここに建立された碑です。今回のヴォーリズ建築巡りがこの地で解散となりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「建築にみるヴォーリズと近江八幡」 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)2) ハイド記念館・教育会館 :ウィキペディア3) ハイド記念館 施設紹介 :「ヴォーリズ学園」4) ハイド記念館 :「滋賀・びわ湖 観光情報」5) 教育会館 施設紹介 :「ヴォーリズ学園」6)「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)補遺公益財団法人近江兄弟社(ヴォーリズ記念館) ホームページ学校法人 ヴォーリズ学園 ホームページ財団法人近江兄弟社湖声社より、当館所蔵の『湖畔の声』について問い合わせ。 :「レファレンス協同データベース」近江兄弟社グループ :「近江オドエアーサービス」ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 日本科学技術の旅:「OnLineJournalライフビジョン」近江八幡(近江八幡市) 通り名マップ :「まっちの街歩き」近江八幡の恒春園 :「ヴォーリズを訪ねて」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -1 ウォーターハウス記念館・吉田邸ほか へ探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -2 旧近江八幡郵便局、アンドリュース記念館 へ
2022.06.01
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「創の家」跡地から大杉町通り沿いに東に。「日牟禮八幡宮」の鳥居を左に眺めつつ進み、次の「仲屋町通り」との交差点で右折し、仲屋町通りを南に進みます。 「旧八幡郵便局」と刻された扁額が正面入口の上部に嵌め込まれています。1921(大正10)年に増改築された近江八幡郵便局です。平成6年、7年、9年と続けて近江八幡市主催でヴォーリズシンポジウムが開催されたと言います。その後、地域における実践と行動をめざし、「当時何に使われる事もなく静かにくちてゆくだけだったヴォーリズ建築の旧八幡郵便局の保存再生を試みようと6人の有志でスタートしたことが一粒の会のはじまりであった。」(資料1)とか。ヴォーリズ建築保存再生運動「一粒の会」が結成され、建物の保存並びに一般公開・活用を行い現在に至るようです。余談ですが、ヴォーリズは伝道活動を行うとともに、キリスト教徒やYMCA関係者らに配布する伝道活動報告記を「マスターシード」と命名して発行したそうです。その「マスターシード」はイエスの例え話に由来します。新約聖書の「マタイによる福音書」13章31~32節です。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」 a mustard seed (一粒のからし種) (資料2,3,4)「一粒の会」の「一粒」はたぶん「一粒のからし種」の一粒に由来するものと推測しました。近江八幡郵便局の建物の増改築にヴォーリズが携わり、建物前面をこのスタイルにしました。「日本で本格的なスパニッシュミッションスタイルを使って建てられた建物としては初めてかもしれないと、建築史家でありヴォーリズ建築研究家の第一人者である山形政昭も語っておられた」(資料1)と参照資料に記されています。当時の人々はさぞかし驚いたことでしょうね。 南隣りの町家この町家が当時から存在したものとすれば、商人町筋にある純然たる日本家屋とのコントラストが歴然としてきます。郵便局が目立ったことでしょう。 日曜日であり、日牟禮八幡宮に近いこともあるためか、この周辺には結構観光客を見かけました。人の出入りのない瞬間を狙って撮った正面入口です。人を入れずに建物全景を撮りたかったのですが、通りを往来する人々がいて時間の制約もありここでは無理でした。入口の左の扉には、この建物の活用状況案内が記されています。「旧八幡郵便局」は建物内部の撮影について特に制約が無く、ここはこの探訪では別枠。限られた時間ですが内部は自由見学でした。保存再生されている現状の建物内部等を一部ご紹介します。 入口を入ると、左側の壁面に木札が掛けてあります。「NPO法人 ヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会」です。ここに事務局が置かれています。郵便局の窓口カウンター部分が保存維持されています。 1階の壁面にはこの案内パネルが掲示してあります。「局長はヴォーリズの生徒でした」という題がまず関心を引きます。左下に当時の郵便局長・小西梅三氏(889-1965)について紹介されています。小西氏は学校を卒業し14年後30歳で、大正7年2月に現在地で三等郵便局長(特定郵便局長)として就任しました。在任中の大正10年(1921)にヴォーリズの設計により郵便局の増改築が行われました。小西氏は県立商業学校でヴォーリズより直接英語を学んだ生徒の一人だったのです。前回ご紹介した吉田悦蔵氏は同級生の一人だそうです。1947(昭和22)年11月まで局長を務められたと言います。(案内パネルより) 1階平面図この図を見ますと、玄関とその周辺、つまり建物の前面がヴォーリズによる増改築部分だとか。 当時の電話機が壁に。郵便局窓口の左側に電話室があったようです。元「集配室」は「珈琲 ひとつぶの種」としてそれぞれ活用されています。 1階の窓口カウンターの内部は「事務室」です。当時はこの事務室が郵便・貯金・保険と電信・電話事業などの事務作業場所だったようです。郵便局と電話・電信事業が分離された時に、電話・電信事業の事務室は局長室内に移ったそうです。現在はかつての事務室がホールとして「貸館」に活用されています。2階を拝見に行きます。 ホールを通り抜けて裏側に出ます。テラスの先に中庭が広がっています。これは右壁面を撮った景色です。昔なつかしい郵便ポストが置かれています。 まず、2階の平面図を引用します。この2階部分は電話交換室と宿直室に遣われていたそうです。電話交換業務で働く女性たちが仮眠をとる場所として使われていたのです。 一旦、建物外に出て、テラスの先から階段を昇降する形です。 平面図と対比してご覧ください。階段を上がると廊下が延びていて、突き当たりの扉は宿泊室への入口。左側は電話交換室の後方部分です。 部屋に入り中央部から入口側を眺めた景色 見学者が立っている方が、電話交換室の前方部分だったところ。床面を見ると2つの部屋の境がほぼわかります。当時は、この2階で10名あまりの女性が働く活気あふれた場所だっとと言います。今回見学した時には、この2階で、ヴォーリズ建築写真が展示されていました。 電話交換室の前方、見学者の見えた辺りまで行き、左側の窓から覗いた景色です。通りから眺めた外観と併せてご覧いただくと興味深いと思います。 建物外観の左の文様は何でしょう・・・・不詳です。右の窓の上部のアーチ型の装飾がいい感じです。ここから、アンドリュース記念館に移動します。 仲屋町通りにも、他の通りと同様に駒札が掲示されています。この「仲屋町」について、冒頭ではルビを振りませんでした。「すわいちょう」と読むそうです。難読地名の一つと言えそう・・・・。ここは仲買商人の住む町として形成され、「町名は商売の仲買(なかがい)を意味する『すあい』に因みますが、他には他の商人町と変わるところはありませんでした」(駒札転記)この駒札の一箇所の言葉を覚えておいてくださいと、ガイド役の館長さんから注意喚起がありました。駒札には次の文が続きます。「また、”市助町”ともよばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助(いちやなぎいちすけ)が居住していたことに由来するといわれています。」(駒札転記) このアンドリュース記念館は正面が東方向に向いています。ここでガイドを担当された当館館長のミニ講義を聴講した後、館内を拝見しました。仲屋町通りの一筋西、為心町通りに直接には面していませんが、近江八幡市為心町中に所在しています。 ヴォーリズは、1907年(明治40年)2月10日に、この地にヴォーリズ建築として最初の建物を建てました。当初の会館は、「アンドリュース記念近江八幡基督教青年会館(YMCA)」と称されました。なぜ、アンドリュース記念なのか?ハーバート・アンドリュース氏は、ヴォーリズのコロラド大学時代の親友だったそうです。彼はヴォーリズに導かれキリスト教信者になったそうなのですが、やがて間もなく亡くなったのです。ヴォーリズはアンドリュース家から資金を贈られたことで、自らの預貯金を全て合わせて、無償提供を受けたこの地に福音伝道の拠点となる建物を建て、アンドリュース記念という名称を冠したと言います。(資料5)現在のこの建物は、1935(昭和10)年6月15日、当初の位置から12m東方向の隣接地に移築されたものだそうです。外部と内部のデザインはその時変更されたものの、全体の面積は同じで、古い資材は再利用されたとか。1987年にYMCA会館としての使命が終わり、会館が使用されなくなりました。建物の老朽化もはげしくなります。そこで、2007年2月10日で、会館竣工100周年を迎えることから、「近江兄弟社創立100周年記念事業」として、会館の保存再生が行われ、現在の「アンドリュース記念館」に至るとのこと。(資料5)建設当初は2階に、保存再生後は1機の同じ方向に移された「祈りの部屋」と称される記念室があります。ここがハイライトでもあります。「ヴォーリズが建設当時から7年間過ごしたひと間続きの書斎と小部屋は当時のまま保存しており、この部屋で捧げられた創立者たちの祈りから近江兄弟社は生まれたのであります。」(資料5)「祈りの部屋」には暖炉があります。建物正面の前面にその煙突部分が見えています。 記念館の正面の左、2階部分の窓は和風の感じが漂っています。建物の右方向に八幡山が見えます。 デジカメのズーム機能で撮ってみますと、八幡山のロープウェーの山頂駅が見えます。 北側面の外観を眺めると、こちらには2階の暖炉用の煙突が設けてあります。 南側面の外観を眺めると、2階はほぼ全面がガラス戸になっていて、和風の欄干が設けてあります。和風建築と洋風建築を融合させたデザインです。 アンドリュース記念館の西側に、教会の塔が見えます。「近江八幡教会」です。「同志社の創立者新島襄ら宣教師たちの近江伝道に始まります。1879年、この町にプロテスタントのキリスト教が伝えられると、信徒たちは聖書を講義する『八幡講義所』を創り、牧師を招いて伝道をし」たという経緯を経て、1901年に「八幡組合基督教会」が設立されました。それがこの日本キリスト教団に属する近江八幡教会の由緒だそうです。W.M.ヴォーリズが愛した教会でもあると言います。(資料7)この現在の建物はヴォーリズ自身との直接の関係はないようですが、縁はあるようです。1961(昭和36)年に「一粒社ヴォーリズ建築事務所」が大阪に拠点を移し独立しました。この一粒社ヴォーリズ建築事務所による1983(昭和58)年の建築作品です。(資料8)さらに余談です。ヴォーリズは1919(大正8)年に一柳末徳子爵の三女満喜子と結婚します。満喜子の兄恵三が廣岡家に養子入りしていて、その恵三がヴォーリズに東京の洋館や神戸の本邸の設計を依頼したことが縁となったとか。満喜子は9年間の留学を経験し、「教育問題には造詣が深く、近代女性にふさわしい主体的な生き方と思想を身につけて帰国した女性」(資料2)だったそうです。父の一柳末徳は、播磨国小野藩の第11代藩主(最後の藩主)であり、一柳家の家系を辿ると、美濃国出身の氏族で、豊臣秀吉に仕えたと言います。上掲の駒札に記されている一柳一助は、一柳家の系譜にあたる人物だそうです。ヴォーリズと結婚した満喜子の家系もまた、奇しくも近江八幡といささかの縁があったようです。注意喚起の一言は、この微妙なつながりがオチになっていました。世の中、おもしろい・・・・・。ヴォーリズは戦争のはじまった1941(昭和16)年に日本に帰化し、名字は妻の「一柳」を、名前は「米来留」と改名しました。そこに「米国から来て留る」という意を込めたそうです。(資料2,6)次は、ヴォーリズ記念館を巡ることに。つづく参照資料1) 広報「ヴォーリズミーティング 冬号」を発行しました。 :「ヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会 BLOG」 ヴォーリズミーティング 2)「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)3) からし種 :ウィキペディア4)『新約聖書』 NKJ/新共同訳 日本国際ギデオン協会5)「アンドリュース記念館の由来」近江八幡観光物産協会(当日の配布資料)6) 一柳氏 :ウィキペディア7) 近江八幡教会のあゆみ :「近江八幡教会」補遺特定非営利活動法人ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会 Facebookヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会 BLOG トップページ近江兄弟社 :ウィキペディア公益財団法人近江兄弟社(ヴォーリズ記念館) ホームページ一柳氏(直家系) :「世界帝王事典」近江八幡教会 ホームページ ーヴォ―リスさん作詞、作曲ー 讃美歌 「地の上にまことの(神の国) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -1 ウォーターハウス記念館・吉田邸ほか へ探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -3 ヴォーリズ記念館、ヴォーリズ学園 へ
2022.05.31
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池田町洋風住宅街のレンガ塀以前に滋賀県の近江歴史探訪企画でブロガー募集があった時、参加し探訪記事をブログに載せました。楽天ブログに移った時に、以前のサイトでの一連の記事を再録しています。それ以来、近江歴史探訪案内メール配信サービス(おうたんメール)を受信しています。その一環で、「ヴォーリズ記念館館長とめぐるヴォーリズ建築めぐり 」の案内を受けました。その最終回(5/15)に参加を希望して、数時間の建築めぐりを楽しみました。当日、その前後に久しぶりに近江八幡市内を巡っています。ここでは、ヴオーリズ建築関係に焦点を絞り、ご紹介したいと思います。 これは池田町通りに設置された駒札に併載の地図です。緑色のエリアが池田町です。小幡町通りの「八商前」バス停が最初の目印です。そこから、小学校の前を通り西方向に進むと、二筋目が南北方向の池田町通りです。冒頭のレンガ塀が目印になります。レンガ塀で囲まれた区域が洋風住宅街です。(所在地:近江八幡市池田町5丁目) 1905年にアメリカ人のウィリアム・メレル・ヴォーリズは、YMCAを通じて来日しました。キリスト教の伝道という目的を持っていたのですが、滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)の英語教師として勤めることが直接的な目的でした。勤務時間外の活動は自由という契約になっていたそうです。そこで、ヴォーリズは自宅を利用してバイブルクラスを開催します。熱心にキリスト教伝道の活動をしたのですが、それが逆に大きく問題視されることになります。1907年に近江八幡YMCA会館(現、アンドリュース記念館)を建設します。しかし、同年、英語教師を解職されることになります。つまり、失業です。挫折と苦悩を感じる時が多分あったでしょうが、支援の手も差し伸べられました。1908年に京都三条YMCAの建築に関係して、現場監督依頼の仕事が入ったのです。当初大学に入り建築家を目指そうとしていたヴォーリズは、途中で海外宣教をめざす方向に切り替え、哲学科を卒業しました。元々建築に深い関心を持っていた人です。仕事の依頼を受けたヴォーリズは、建築設計管理事務所を開設します。この事務所が後にヴォーリズ建築事務所になります。これが建築家ヴォーリズとしての道を歩む契機です。(資料1,2,3,駒札)ヴォーリズは、1910年(明治43)、30歳でヴォーリズ合名会社を設立します。(資料2)この池田町の洋風住宅街は、ヴォーリズが大正期に手がけた初期の作品です。(駒札) 現在は、「ウォーターハウス記念館」という名称になっている住宅です。国登録有形文化財。 門扉は池田町通りに面し、通りの先、北方向に八幡山が見えます。ウォーターハウス記念館が今回の集合場所であり、建物内をヴォーリズ記念館館長に案内・説明していただき拝見しました。館内の撮影はOKだったのですが、私的利用を越えての外部への公開は禁止ということでした。そのため外観のご紹介だけになります。ウォーターハウスを巡りましょう。 玄関へのアプローチ 建物の南側面と北側面簡潔で明快なコロニアル・スタイルの住宅です。木造3階建、切妻造スレート葺き。門・塀はレンガ造。(資料4)建物が新しい感じでした。財団法人近江兄弟社が2008年6月より住宅の全面修復工事を行い、2009年1月竣工したとのことです。(資料2)1913年5月、ヴォーリズ合名会社はまず社宅2棟を建築します。その内の1棟に入居したのがウォーターハウス一家でした。「ウォーターハウス記念館」の名称の由来です。ウォーターハウス氏は米国のプリンストン大学文学科を卒業し、早稲田大学英語科の講師として来日したとか。ヴォーリズに出会って、彼の人格、活動に共鳴し、近江伝道に協力するために、米国ハートフォード神学校で3年間修行して、再来日して東京で1年間日本語を習得した後に、近江八幡に来たり、自給独立の近江ミッションに加入したそうです。 北西側から 南西側から ウォーターハウス氏は、4年半の伝道活動後一旦帰国、その後1922年に再来日して諸事情から1923年12月に帰国するまで、約6年間ここに居住したそうです。「神の国」運動の働き手となり、湖畔伝道船「ガリラヤ丸」の船長となり、巡回伝道をして福音の種を蒔いたと言います。(資料2) バックヤードのこの敷地にかつてはテニスコートが設けてあったと言います。建物の西側に、白ウサギの置物が残されています。ほほえましい・・・。 南隣りには、「吉田邸」があります。八幡商業でヴォーリズの教え子であった吉田悦蔵氏はヴオーリズの活動に参画して行った人です。現在もその子孫の方がお住まいと言います。住宅として現役の建物。この洋風住宅街(旧近江ミッション住宅地)における中心的建物です。(登録文化財)この吉田邸は1925(大正14)年、1930(昭和5)年の増築を経て今日に至るそうです。この洋風住宅街には、5棟の建物があったそうです。1914(大正3)年に建てられたヴォーリズ邸は現存しません。南の方に、1920(大正9)年、旧近江家政塾校舎が建ち、これは現存します。道路からその位置を確認するだけになりました。 池田町通りを北に少し歩むと四つ辻となり、東西方向の通りに面する側に、1921(大正10)年に建てられた「ダブルハウス」を見ることができます。この景色の左(南)側に見える建物です。この建物も、池田町通りとこの通りの交差する辻から眺めるだけに留まりました。木造2階建一部3階建、二戸一集合住宅。(資料4)中央のレンガ壁を境にして東西対象に計画された建物。現在も住宅として使用されています。このツアーで説明を聞き、おもしろいと思ったのは、こちらサイドにも続いているレンガ塀についてです。冒頭の景色のレンガが見やすいと思いますが、ここで使われているレンガはレンガ製造過程で生まれた不良品レンガが意識的に使われていると言います。合格した規格レンガだと、整然としたレンガ塀になるところです。凸凹として逆に風情がでている結果となっています。この不良レンガはどこで製造されたものか。不良品レンガ故にその解明が未だできていないというお話でした。コストをかけて遠方から搬入してきたとは考えられません。ならば、どこか。確定はむずかしいとか。この東西の通りを東に歩みます。道沿いに歩きながら、八幡山の方向の景色を撮ってみました。八幡山は北に、より正確にいえば北北西方向にあります。近江八幡は城下町であり、町は碁盤の目状になっています。 本町通り 小幡町通り 新町通り この魚屋町通りの四つ辻で、一旦、南の方向を眺めてくださいと言われました。 南端は突き当たりでビルが見えます。ヴォーリズとは深い関係があります。ヴォーリズが来日し、英語の教師となったのが八幡商業学校です。その学校が現在の八幡商業高等学校で、その建物という説明でした。この探訪ツアーを終えた後、個人的に建物の正面前まで行ってみました。 この建物は1938(昭和13)年に竣工した新校舎で、昭和62年に学校創立100周年事業として修復工事がなされたと言います。ヴォーリズは昭和9年に八幡商業学校の新校舎の設計を依頼を受け、翌年に新校舎建築計画を提案したそうです。「かつてのヴォーリズがよく用いた歴史的様式を払拭した手法は、当時主流となっていた機能主義的デザインによる」とのこと。一方で、「中央部を青磁タイルを使い垂直のルーバー状にデザインしたシッボリックなもの」にしています。(資料5) [2022.5.31 一部訂正と加筆]さて、その説明を聞いた辻から魚屋町通りを北に向かいます。県道多賀と魚屋町通りの大きな交差点に至ります。 交差点の南西角にあるのがこのビルです。右の景色は県道を北側に横断してビルの正面を撮った景色です。 角に「近江兄弟社発祥の場所『創の家(はじめのいえ)』と題する駒札が立っています。1905年2月2日に来日したヴォーリズは、県立商業学校の英語教師に就いたとき、この場所で日本の生活を始めたそうです。そして、放課後には上記のとおり、ここで「バイブルクラス」を開きました。ヴォーリズの人柄と熱心さに魅せられた多くの青年がキリスト教に導かれていったそうです。ヴォーリズの”「神の国」の理想郷”づくりについて語り合い町づくりに邁進していったと言います。(駒札より)「自宅を利用し開催したバイブルクラスでは着任わずか1週間で45名、2週間後に112名もの参加者が集いました」(資料1)とのこと。 魚屋町通り側に、ヴォーリズの書を写した「神の國」の文字碑が設置されています。ヴォーリズがウォーターハウスという賛同者を得て、拡げて行く「神の国」伝道活動です。 県道多賀の北西側にはブロンズ像が建立されています。 北東角には、この瀟洒な窓を適度に設けた下見板張り塀で囲われた屋敷があります。城下町の雰囲気が漂っています。西川甚五郎邸です。 上掲の駒札から切り出し拡大した地図です。少し見づらいでしょうが、位置関係をご理解いただくには便利でしょう。この地図では上辺が北方向です。 このブロンズ像は、この探訪ツアーが終了してから改めて写真を撮りに戻りました。ヴォーリズ関連として、ここでご紹介しておきたいと思います。ブロンズ像の建立とともに顕彰碑が建てられています。”名誉市民ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880年(明治13年)10月28日、米国カンザス州レブンワース市に生まれた。両親の感化により信仰心の厚かった彼は、1905年(明治38年)2月、24歳のとき、国際YMCAから日本の近江八幡に遣わされた。 以来、1964年(昭和39年)83歳で亡くなるまでこの地を去ることなく、キリスト教精神に支えられた、愛に満ちた理想社会実現のため、彼を慕う多くの人々と力を合わせて、医療や教育事業を進め、建築に卓越した手腕を発揮し、キリスト教を伝道し、福祉や文化を高めるなど、多彩な社会貢献活動を展開した。 そして、これらの活動を経済的に支えるため、建築設計会社をはじめメンソレータム(現メンターム)で有名な製薬会社を興し、企業家としても大いなる成功を収めた。 外観よりも内容を重視したヴォーリズの西洋風建築は、大丸の心斎橋百貨店や関西学院大学をはじめ、住宅、教会など国内外に1600にも及んだ。 多くの協力者とともに成し得た数々の偉大な事業とその精神は、今もなお引き継がれ、近江八幡市民に広く深く息づいており、その評価は衰えることなく、ますます強く私たちにその人となりを慕わせずにはおかない。 「世界の中心は近江八幡にあり」と唱え、すべての人が幸せになれるまちづくりを目指した彼の足跡を、かけがえのない宝として近江八幡市民の名において永遠に顕彰するため、ここ「ヴォーリズ創めの家」ゆかりの地に記念の像を建立し、これからの郷土づくりの糧にしていきたい。 1999年5月 近江八幡市 " (碑文転記) 1958(昭和33)年、ヴォーリズは78歳の時に、近江八幡市名誉市民第1号に推されました。 この一画に、この碑も建立されています。 銘板のタイトルは、Levenworth , Kansas, USA です。”William Merill Vories was born in Levenworth, Kansas, USA in the year 1880.Levenworth's earth pioneers played an important role in the settling of the American West. Omihachiman is the origin of the Omi Merchants who had an infuluential role in early local society. The spirit of those who came from each city has had a termendous impact on the larger society about them. Thisspirit was shown in the work of Vories, who later became an important memberof the city of Omihachiman. In 1997 the cities of Omihaciman and Levenworth established a brother city affiliation to promote a civic exchange in honor ofVoies. October 13, 2000 Vories Committee " (転記) ”米国カンザス州レブンワース 1880年、ウィリアム・メレル・ヴオーリズはアメリカ西部開拓史誕生の地、米国カンザス州レブンワースに生まれた。 開拓者精神が根付くこのまちと、進取の気象で知られる近江商人発祥の地「近江八幡」は、ヴォーリズゆかりの市民交流をきっかけに、1997年兄弟都市提携を結んだ。 ヴォーリズ委員会 ” (転記)現在、近江兄弟社の本社があるこの地・銅像から、旧近江八幡郵便局に向かいます。つづく参照資料1) 「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)2) 「ウォーターハウス記念館の由来」近江八幡観光物産協会(当日の配布資料)3) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ :ウィキペディア4) ウォーターハウス記念館 屋内展示の説明パネル5) 「建築にみるヴォーリズと近江八幡」 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)補遺ウィリアム・メレル・ボーリズ :「コトバンク」Merrell Vories Hitotsuyanagi From Wikipedia, the free encyclopediaヴォーリズ,W.M. 関西学院事典 :「学校法人 関西学院」ヴォーリズの生まれ故郷レブンワース市 :「近江八幡観光物産協会」Leavenworth, Kansas From Wikipedia, the free encyclopedia日本YMCA同盟 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -2 旧近江八幡郵便局、アンドリュース記念館 へ探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -3 ヴォーリズ記念館、ヴォーリズ学園 へ
2022.05.30
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烏丸通を南に下り、烏丸仏光寺の交差点で、烏丸通から西に入り、仏光寺通を進みます。通りの南側に昔ながらの京町家の外観を保つお店(京の老舗呉服問屋・啓明商事株式会社)があります。店を通り過ぎ、北西側から撮った景色です。(資料1)冒頭から余談ですが、「啓明とは『明けの明星(あけのみょうじょう)』の別名で、夜明けの東の空に大きく輝いている星を意味します。この星は、太陽系で地球の隣に軌道を持つ金星のことで、夕方西の空に見えるときは、『宵の明星』とも呼ばれ古代より世界の人々に広く親しまれ崇められてきた星です。」(資料1)とのこと。知らなかった表現です。手許の辞書を引くと、ハンディな『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)、『現代国語例解辞典 第二版』(小学館)には載っていませんが、『日本語大辞典』(講談社)、『大辞林』(三省堂)の大型辞書には載っています。『角川新字源』というハンディな漢和辞典には載っていました。 このお店の前に、「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の石標と駒札が立っています。所在地は仏光寺通烏丸西入ル釘隠町です。石標は平成10年(1998)5月に建立されています。(資料2) この駒札には、京都市の表記がありませんので、石標と併せて個人が設置されたものと推測します。42歳で京都に戻った蕪村は姓を谷口から与謝に改め、その後妻帯し、数カ所転居を繰り返したようです。”『平安人物志』明和5(1768)年版に居所を「四条烏丸東へ入町」と記し,安永4(1775)年版には「仏光寺烏丸西へ入町」と記す”(資料2)とのこと。「仏光寺烏丸西入町」がこの地(釘隠町)になります。駒札の後半を転記します。”蕪村の幻の日記に次のようにしるされている。「安永3年11月某日(蕪村59歳の時)近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通りにから南へ入って奥まったところに閑静の空家ありと、とも(妻)が見つけて、またその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話がきまって三日前移転する。 狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって、画絹ものびのびと拡げられる心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る。」” 昭和36年までここに路地があり、路地の突き当たりに地蔵尊があった。その地蔵尊の前、一番南に与謝蕪村宅が位置していたそうです。 現在のこの店の北西角、仏光寺通に面して地蔵堂があります。駒札には、「釘隠町町内会の総意で現在地に移転される」と記されています。地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、この地蔵堂もまた、内部にもう一つの扉がある形です。お地蔵さまは拝見できませんでした。更に西に歩むと、最初の辻が仏光寺通室町です。 南東角に見えたのが、この冠木門と源氏塀のある建物です。 開いている冠木門から中を覗くと、「日吉神社」の額を掲げた石鳥居が見えます。この探訪の目的地になります。現在は実にこじんまりした境内地です。この仏光寺通の南東角にある日吉神社から一筋南の高辻通まで、室町通の両側が「山王町」です。孫引きになりますが、『京羽二重大全』には、洛中に「庚申七ヶ所」が記載されていて、「山王宮(室町仏光寺)」として掲載されているそうです。それがこの日吉神社です。(資料3) ごく狭い間隔で、石鳥居、拝殿、本殿が東西方向に一直線に並んでいます。 本殿祭神は大己貴命、大山咋命、玉依姫命荒魂です。(資料4) 木鼻には獅子像が彫られています。かなり具象的です。本殿は一間社流造のようです。屋根裏の構造がすっきりと見やすい。白河天皇は自分がコントロールできないものが3つある。鴨川の水の流れ、双六のサイコロの目、比叡山の僧兵(山法師)だと語ったという有名な話があります。この神社の創建は白河天皇が白河上皇(1086~1129)として院政を始めた時代だそうです。「堀河天皇の御代(1086年~1107年)に、比叡山坂本の日吉大社の僧兵たちが強訴し、担いできた神輿を捨てた場所に、地元住民が祠を建てたことに始まるとされる」(資料4)と言います。神輿を破壊して処分するということはできなかったでしょうね。受け入れて祀りあげる。京の町衆が比叡山とWin-Winの関係を築くための外交的配慮を働かせた結果でしょうか・・・・・。五来重氏は、庚申と日吉山王神道との関係を考察して論じています。(資料5)日吉山王神道は「比叡山の地主神としての日吉社を中心とした神仏習合神道で、猿を神使とするが、同時に猿そのものを御神体とする場合もある。したがって庚申に結合しやすかったので、日吉山王二十一社の本地仏の二十一種字(梵字)を刻む庚申塔もできた。・・・山王二十一社は、上七社、中七社、下七社と七社ずつ分かれるところから、庚申と七の関係ができたと考えられるが、一説としては庚(かのえ)が十干の中で、甲乙丙丁戊己庚と七番目なので七を尊ぶともいわれる。しかしやはり庚申信仰の仏教化には、天台系修験の影響を考えるべきであろう。これは関西の庚申信仰の本寺が、天台宗の大阪四天王寺庚申堂だったことにも関係があるからである」と。とは論じながら、「しかしさればといって、庚申塔の三猿を天台教理の空仮中三諦に当てたり、山城西山金蔵寺の三猿を伝教大師作としたりするのは、行き過ぎであろう」と歯止めも述べておられます。いずれにしても、天台宗-日吉社-庚申信仰というつながりが日本で広がったのも事実のようです。この日吉神社もその範疇に含まれるということでしょう。なお、境内を拝見した印象として、私は庚申信仰絡みの雰囲気をあまり感じませんでした。 拝殿の屋根の獅子口が見えます。陽刻された文様はこの神社の神紋でしょうか。日吉大社の神紋は双葉葵ですので。(資料6,7) 「三ツ森稲荷」の額を掲げた朱色の鳥居が南面して立ち、稲荷社が勧請されています。 なぜか、稲荷社の東側に信樂焼の狸が居るところがおもしろい。 冠木門の北側に奥行の狭い地蔵堂があります。格子越しに内部を拝見しましたが、こちらも上掲の地蔵堂と同様です。堂内のお地蔵さまを見ることができませんでした。こんなところで、このアドホックな探訪を終わりにしました。太秦天神川の駅から地下鉄東西線で戻るとき、烏丸三条の駅で途中下車して、烏丸通を仏光寺通まで往復しました。お陰で、コロナ禍での運動不足をこの日はかなり解消できました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 啓明 ホームページ2) 与謝蕪村宅跡 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 京都三庚申 :「京の霊場」4) 日吉神社 :「神社人」5)『石の宗教』 五来 重著 講談社学術文庫 p206-2076) 日吉大社の神紋が知りたい。 :「レファレンス協同データベース」7) 山王総本宮 日吉大社 ホームページ補遺与謝蕪村 :ウィキペディア与謝蕪村 :「コトバンク」与謝蕪村:「都島区」 蕪村略年譜 「与謝蕪村と都島」のデジタルブック白河天皇が頭を抱えた「鴨川・サイコロ・山法師」 :「歴史上の人物.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 スポット探訪 京都・右京区 山ノ内 猿田彦神社
2022.05.25
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地下鉄東西線の西の終点、太秦天神川駅で降りて、地上に出ます。現在の京都三庚申の一つと称される、「山ノ内 猿田彦神社」を探訪するのが目的です。所在地は、右京区太秦山ノ内荒木町です。国道162号と府道112号が交差する天神川三条の交差点の南東側に位置します。太秦天神川からは、まず御池通を東方向に歩き、天神川御池交差点で右折して、天神川沿いに南に下ります。天神川三条の交差点で、冒頭の猿田彦橋を渡ればすぐです。 橋から社号を示す看板が見えます。道沿いに進むと、 道路沿いの右側、少し西寄りに奥まって東面する石鳥居と、その左手前に社号碑が見えます。 石鳥居手前の手水舎 石鳥居を通り抜けると拝殿があり、その背後(西)に社殿が見えます。 屋根の鬼板に「庚」の文字が陽刻されています。隅棟の鬼板はシンプルです。 まずは社殿を拝見。拝所前に立ち、格子扉越しに本殿を眺めようとしましたが、よく見えません。 拝所の左右に配置された狛犬石像 拝所の蟇股には猿の丸彫像が装飾されています。 脇の窓から、本殿側に提灯が見えます。墨書された神社名の傍に描かれた紋は、京都庚申堂(金剛寺)で目にした意匠と同種です。 拝所の右側には、当社の「由緒略記」が掲示してあります。「山ノ内庚申 猿田彦神社」と社名が表記されています。祭神は猿田彦大神です。洛西の旧社で、「山ノ内庚申」と呼ばれ、京洛三庚申の一社に数えられています。社殿はもとは安井村松本領(現・太秦安井松本町)にあり、明治18年に現在地に移築されたと言います。古図によれば、石鳥居は三条通り側にあったようです。いずれかの時に現地に移築されたということでしょう。(由緒より)庚申信仰に関連して次の事項が説明されています。(由緒より)*十干十二支で数えると、60日に1回、庚申の日が巡ってくる。*平安時代より庚申日に庚申祭りが行われて来た。*江戸時代より村人が集り、庚申待、庚申講を行った。 猿田彦大神、清面金剛の軸を掛け、七種の供物を捧げて夜を明かして萬福招来を祈願した 拝所の屋根の合掌部 大棟の鬼板 本殿の屋根 大棟の鬼板には、宝珠が陽刻されているようです。余談です。『古事記』上巻に記されているそうですが、猿田彦大神は、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が豊葦原中つ国(日本)に降りようとされたとき、天の八衢(やちまた)で待っていた猿田彦大神が光りを放ち先導することを申し出たと言います。「道を照らして先導した故事から、道祖神の信仰にも通じ、庚申の申をサルと訓ずるところから、猿に付会され、庚申信仰にも流れていき、道祖神、庚申に置き換えられて、集落や村などの道の辻に祀られたりしている。」(資料1)こんな経緯があるようです。これに加えて、庶民の庚申講には次のような説もあります。「猿田彦大神は『大田神』ともよばれて、『田の神』すなわち豊作の神とされることである。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願になった。そのために『田の神』と同格の猿田彦神を庚申講の本尊として拝んだ。」「日本人の固有信仰では『田の神』は山から降りてくるものであって、田圃の耕作が済めば山へ帰る神と信じられた。したがって冬は『山の神』となり、春から秋にかけては『田の神』として耕作を護る。これが『山の神・田の神交代説』という理論である。また猿は『山の神』の化身として山王ともよばれるので、猿田彦という神名は『山の神』と『田の神』の二面性をあらわし、豊作祈願の庚申講の神たるにふさわしいと考えられたのであろう」つまり、民衆は、庚申は豊作の神と信じていたと説いています。(資料2)本殿には木造の庚申猿が鎮座していると言います。(資料3)それでは、境内を巡ってみましょう。 拝所前からは、左(南)方向に大木(御神木)がそびえています。 「区民の誇りの木」(平成13年3月23日建設局決定)で、「庚申楠」称されています。樹令700年を経ているといわれ、高さ20m、幹回り360cmだそうです。 御神木を境内の南東側から眺めた景色です。 本殿の南側には、「大国主神社」の提灯が吊されたお堂です。 堂前に、大国主の石像が鎮座しています。 御堂の屋根の鬼板には中央に他とは異なった文様が陽刻されています。 その南側には、「役行者尊、聖観世音菩薩、不動明王、延命地蔵大菩薩」をズラリと並べて安置した覆屋があります。まさに、神仏習合の素朴な風景がこの境内に見られます。永年の間に培われてきた日本の宗教・信仰世界の原風景につながるのでしょう。顧みれば、明治の神仏分離というイベントこそ異常行動だったといえるのかもしれません。 聖観世音菩薩 役行者尊 延命地蔵大菩薩 つまり、お地蔵さま 不動明王 逆に、北側には朱色の鳥居が立ち 稲荷神社と秋葉大明神が勧請されています。 拝殿内を間近で見ると、白色の猿像の大きなパネルが置かれていました。祭神の猿田彦大神に仕える神使の猿像でしょうか。両手で御幣を捧げています。これは、普段は非公開とされている等身大の『白猿木彫像』のパネル写真だそうです。台風の被害で倒れてしまったご神木から彫像されたそうです。(資料3) 境内の一隅に、この碑が目に止まりました。「忠魂」と刻されているように見えました。定かではありませんが。神社の大小にかかわらず、境内地の一隅に忠魂碑をよく見かけます。明治以降の日清・日露戦争に出征し戦死した人々の霊を祀るという祈念(記念)碑が建立されているものと思います。(資料4)これで境内を大凡巡りました。一応、京都の三庚申の三つ目を訪れたことになります。ご覧いただきありがとうございます。地下鉄東西線の太秦天神川駅に引き返す途中で、折角東西線に乗るのだから、三条に向かう途中益で下車してみようとふと思いました。実は、この時一日券を購入していたのです。参照資料1)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 p3502)『石の宗教』 五来 重著 講談社学術文庫 p204-2073) 山ノ内 猿田彦神社 :「西院 春日神社」4) 忠魂碑 :ウィキペディア補遺京都三庚申 :「京の霊場」猿田彦神社 :「京都観光Navi」猿田彦神社 京都府京都市右京区山ノ内荒木町 :「神社と古事記」猿田彦神社 庚申祭 福岡市 :「祭の日」福岡の猿田彦神社、今年初の庚申祭でにぎわう YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口
2022.05.24
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青蓮院の北隣りは「粟田口 あおくすの庭」という空間になっています。神宮道に面して鉄柵で仕切られ、扉は開かれています。この庭はいつも通過点になっていたので、今回は中に入ってみました。神宮道に面して、駒札と名称碑が立っています。駒札には、「ここは、市民のみなさんの憩いの場として利用するための場所です」と記し、利用上の一般的な注意事項が書かれています。 庭の正面に見える景色 こんな緑の広場が鍵型に広がっていました。私が庭を写真を撮りつつ歩いているときは、男女2人を見かけただけ。鉄柵には、閉門時間帯「午後5時から翌朝午前10時まで」の掲示があります。この憩いの場の北隣りの角地にはお寺の門が残るだけで、境内は取り壊されて空地になっていました。再開発地になっています。どのように変身するのでしょう・・・・。その案内掲示は見かけませんでした。 東に向かう道路の北側に「尊勝院庚申堂参道」の道標が立っています。庚申堂が少し小さめの文字で刻されています。ここが今回の第3の探訪目標です。上掲道標が最初の目印。緩やかな坂道沿いに東に進みます。 南に入る道路 道路には北側に歩道があります。上掲の坂道の少し奥に、「元三大師」と刻した石標が立ち、歩道側には京都一周トレイルの順路標識が立っています。「元三大師」石標が尊勝院への道標になっています。南に延びる坂道を登り、 ⇒ ⇒ 将軍塚への経路でも道沿いに登って行きます。坂道の勾配は少しずつきつくなり、道幅は狭くなります。 そして、中腹に境内地が広がります。 石段を登ったところ、右側に正面に「手洗水」と刻された水鉢があり、左前方にお堂が見えます。「尊勝院」の本堂駒札が立っていますが、残念ながら判読困難な状態に劣化しています。この本堂一棟は京都市指定有形文化財に登録されています。この日は残念ながら御堂の扉は閉じられていました。青蓮院に属する天台宗のお寺です。青蓮院の飛地境内である将軍塚へ向かう途中、粟田口から徒歩5分ほど登ったところで、粟田神社の背後になります。 保延2年(1136)に陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことが始まりです。鳥羽天皇のために横川で尊勝法を修し、その恩賞として同地に尊勝坊(院)の号を賜ったそうです。僧行観の代に、尊称院の別院としてこの粟田口に尊勝院の別院として堂宇が営まれ同じく尊勝院と称され、青蓮院の院家筆頭の寺となったとか。応仁の乱で罹災し荒廃。文禄年間(1592~1596)に豊臣秀吉により本堂が再建されたといわれています。尊勝院の寺地がここに移転されたのは大正4年(1915)で、本堂のみが移築されたと言います。(資料1,2)本尊は元三大師が祀られています。上掲の「元三大師」石標がこの本尊を示すことになります。併せて地蔵菩薩像、青面金剛と庚申三猿像が安置されています。地蔵像は三条白川畔にあった金蔵寺の遺仏で、俗に「米(よね)地蔵」と呼ばれるそうです。体内に籾粒が納入されていることに由来し、この地蔵菩薩を信仰するものは米の食いはぐれがないと信じられたとか。(資料1,2)そして、今回の探訪目標とした「大青面金剛尊と三猿」です。三猿像(見ざる、聞かざる、言わざる)もまた金蔵寺の遺物で、俗に「お猿堂」「粟田の庚申堂」と呼ばれていたそうです、金蔵寺が廃寺となり、明治初年に尊勝院に合併されたと言います。江戸時代に出版された『都名所図会』(安永9/1780年)には「東三条金蔵寺御猿堂」という一項が記載されています。重複しますが、引用します。(資料3)「青蓮院御門跡の院内なり。三猿の像は伝教大師の作。当寺の本尊は米(よね)地蔵と号す。伝教大師唐土より将来し給ふとなり。(むかし貧女ありて、常にこの尊像を崇敬する事、年あり。菩薩これを感応し給ひて、糧乏しき時は米袋を持ち来つて夢中にあたへ給へり。故に永々貧窮をまぬかる。これによつて米地蔵と号すなり) 尊称院は南の丘にり。本尊は元三大師の坐像にして、自作なり」この記述で興味深いのは、庚申信仰という観点では、御猿堂と三猿の像という二語だけで人々には通じたということです。また、当時、一般庶民には、金蔵寺の方が有名であり、尊勝院は補足説明するという程度の比重だったような印象を受けます。この尊勝院が、八坂庚申堂(金剛寺)とともに、京都三庚申のひとつに挙げられています。もう一つが山ノ内庚申(猿田彦神社)です。(資料2、資料4)八坂庚申堂と尊書院は東山(洛東)にありますが、山ノ内庚申(猿田彦神社)は洛西に位置します。調べていて情報を得たのですが、『京羽二重大全』(1784)には、京都の庚申信仰霊場として上記3ケ所を含めて7ケ所が列挙されていると言います。(資料4) 北西側からの眺め桁行三間、梁行四間、本瓦葺の建物です。駒札によれば、「正面一間通りを外陣、奥寄りの方三間を内陣とし、内陣には中央に四天柱を立てて、背面に仏壇を間口いっぱいに設けて本尊元三大師像を祀る厨子を安置する。」(駒札より部分転記)内陣は常行三昧堂の形式であり、一間四面堂の構成で建てられているそうです。 本堂の棟の端部は獅子口です。 鬼瓦 蟇股 本堂前には、一対の石灯籠が配されています。なぜか神前灯籠の形式です。竿の正面には「常灯明」と刻されています。本堂内部は拝見できませんでしたが、小さなこの境内地を巡ってみましょう。 まず、本堂にむかって右(南)側の奥には、この覆屋が見えます。近づいてみると「水子地蔵尊」の木札が掲げてあります。 三体の異なるお姿の地蔵尊が安置されています。中央は合掌されている姿、むかって右側には右手は与願印、左手に宝珠を捧げる姿、左側は幼児を抱かれる姿です。足元に小さなお地蔵さまの奉納もみられます。 本堂の北東よりには小堂があります。 小堂内には7体の石仏と小さな五輪塔の残闕が納めてあります。お地蔵さまとして祀られているのでしょう。 ここが境内の北端だと思います。一旦下り坂となった道は、再び登り坂となり、東山山頂公園・将軍塚・清龍殿へ向かう登山道です。「清龍殿道 この先の木橋を亘ってお進みください 約30分」と記された駒札が近くに立っています。 本殿前から京都市内を眺めた景色 岡崎公園の平安神宮大鳥居や京都市京セラ美術館などが遠望できます。 ズームアップして撮ってみました。さて、この辺りで尊勝院探訪を終え、下山します。まずは、神宮道傍に立つ道標まで引き返します。 道標から少し北に、「京都市立粟田小学校」の新しい校門があり、その北斜め前に「粟田口」の道標と駒札が立っています。 奈良時代以前から開かれ、粟田氏が本拠地とし、粟田郷と呼ばれた地域です。平安京遷都以降、東国への交通の要衝地で、京都七口の一つに数えられました。三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広いエリアが粟田口と呼ばれます。青蓮院は粟田御所とも呼ばれる由来はこの地名にあります。 神宮道と三条通の交差点の南西側のビルの前に地蔵堂が見えます。 格子扉越しに拝見すると、お地蔵さまはすっぽりと涎掛けに覆われています。 涎掛けというよりも覆い布という感じです。 三条通を横断し、北側歩道を西に向かいます。ここでも地蔵堂が東面する形で祀られています。 こちらのお地蔵さまはいわゆる涎掛けで、お顔が見えます。 粟田口の西端になる白川(上流側)と現在の白川橋の東詰(南側)の景色です。これで、この探訪の当初の目標地を巡ることができました。最後に、余談です。白川橋東入ル(南側)にパークウォーク京都東山というマンションビルがあります。そこの北西角に、「坂本龍馬お龍『結婚式場』跡」という石標が2009年10月に建てられています。この辺りが、上記の金蔵寺が江戸時代末まであったところです。三条通南側歩道を歩かれたときにお確かめ下さい。(資料5)この時、時間のゆとりがありましたので、京都の三庚申の残り、猿田彦神社に足を向けることにしました。別項としてご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p31-322) 元三大師を祀る尊勝院 :「天台宗青蓮院門跡」3)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p2874) 京の三庚申 :「京の霊場」5) 坂本龍馬お龍「結婚式場」跡 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺あおくすの庭 ゆっくり桜を楽しむための穴場スポットNo.13 :「まいぷれ」粟田 尊勝院 尊勝院由緒記 ホームページ 米地蔵 庚申さま良源 :ウィキペディア疫病退散で知られる「元三大師」をご紹介します。 :「百済寺樽」第一第7話(7) 小田原教壊上人、水瓶を打ち破る事 付、陽範阿闍梨、梅の木を切る事 :「やたがらすナビ」京都三庚申 青蓮院院家 尊勝院 :「京の霊場」京の三庚申 ::「京の『ろうじ』を歩く」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 合槌稲荷明神・青蓮院塔頭金蔵寺跡(龍馬・お龍「結婚式場」跡)
2022.05.19
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青蓮院拝観の表門となる薬医門を入り、後で気づいたことですが、左折するとこの景色の左側の石段があります。石段を下ってから振り返った景色です。拝観受付は薬医門を入り、右折して坂道を少しのぼって行く方向です。つまり、これからご紹介するお堂は拝観受付をすることなく、自由に参拝・拝観できるということです。 境内地ですが一つの独立した寺域の形で、この「植髪堂」が建立されています。境外仏堂という位置づけになっているそうです。このふと立ち寄ってみた探訪まで、オープンにアクセスできるお堂があることを知りませんでした。 お堂の正面に立ち、堂内を拝見した景色です。堂内は自由に参拝できるようでしたが、堂内には入らず、正面からの参拝・拝見にとどめました。 正面の右側手前に「植髪堂の由来」についての駒札があります。このお堂が親鸞聖人に関連して建立されたお堂だということをこの駒札を読み初めて知った次第です。事後に手許の本を見ると「青蓮院」中に「植髪堂」の一項がありました。「養和元年(1181年)親鸞聖人が9歳の時、青蓮院第三世門主慈鎮和尚のもとで得度した時に剃り落とした髪を、親鸞聖人の親族が保管し、張り子で造った親鸞聖人の童形像の頭上に植え、常に自分逹の傍に置いていました。まもなくこのお像は青蓮院に移され、永く蔵せられることになります。 親鸞聖人の教えが広まるにつれ、このお像のことを伝え聞いて礼拝を願う人々が数多く訪れるようになったので、新たに一閑張りのお像を造り、法衣を纏い、当院の末寺で一番近くにあった金蔵寺(明治に廃寺)の御供屋に安置して誰でも拝めるようにしました。」(駒札冒頭の転記)というのが始まりだそうです。慈鎮とは、鎌倉時代前期の天台僧で、4度天台座主となった慈円僧正の諡(おくりな)です。(資料2)当初、金蔵寺(粟田口三条坊町)の御供屋に植髪の親鸞童形像を安置宝暦9年(1759)金蔵寺の御供屋の東側に信徒が「阿弥陀堂」を建立。別称「植髪堂」 阿弥陀三尊像を祀り、その傍らに植髪の親鸞童形像を祀るその後三条粟田口付近を転々と ⇒ 華頂山上、定法寺町(神宮道三条上がる東側)等文化8年(1811)新堂建立(正月に立柱、3月に入仏供養)。現在の植髪堂。なお2回移転明治13年(1880) 現在地に移築昭和54年(1979)8月 10ヶ月に亘る長期大改修工事実施 (駒札、資料1)この尊像を安置する厨子は宝暦10年(1760)に造られたものといいます。(駒札より)江戸時代に出版された『都名所図会』(安永9/1780年)には、「青蓮院」の項はありませんが、「華頂山親鸞聖人植髪の尊像」という見出しの項があります。「仏光寺の廟所の東に隣る。・・・・・近年(追記:明和4年11月)この地をひらき給ひ、堂舎を遷し、華頂山堂と称す。宗旨は天台にして、親鸞宗義を椄(まじへ)て正信偈文・念仏和讃・御文章等の勤行あり」(資料3)と記しています。「本尊は阿弥陀仏の坐像を安置し、右の壇上の厨子にこの尊影を安んず」と記し、その続きにこの植髪の尊像の姿を記述しています。「長三尺にして立像なり。小葵の直衣に薄紅梅の御衣を召し、紫の亀甲形の指貫(さしぬき)を着し、繧繝縁(うんげんべり)の褥(しとね)に在(ましま)して、児童の御影なり。」(資料3) お堂の北側の景色 「親鸞聖人遺髪塔」と刻した石碑が大樹の傍に建てられ、遺髪塔の右手前に犬の座像が置かれています。 親鸞聖人遺髪塔 裏面には、2万人以上の人々の寄進により、昭和15年(1930)5月に青蓮院門跡が建立された旨、並びに「親鸞聖人得度遺髪納之」と刻されています。 親鸞遺髪塔の右斜め後ろには、線刻された観世音菩薩像が建立されています。 北西隅には地蔵堂があります。 涎掛けが4枚重ねってかけてあります。 地蔵堂から少し南には、「西本願寺法主御手植」と刻した石標が立つ大木があります。 この石灯籠が、植髪堂境内地西辺の鉄柵の外側に設置されています。石灯籠の基礎には「粟田」、竿には「親鸞聖人うへかみの御影」と刻されていると判読しました。この鉄柵側がお堂の正面であり、ここから出入りができます。石灯籠の前は神宮道に面した駐車場になっています。神宮道に戻り、第3の探訪目標である「尊勝院」に向かいます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p272)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店3)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p291補遺天台宗 青蓮院門跡 ホームページ青蓮院 :ウィキペディア慈円 :ウィキペディア慈円 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」出家得度 :「浄土真宗 親鸞会」【第2回】得度は9歳青蓮院で :「真宗高田派本山 専修寺」わずか9歳で出家された親鸞聖人|幼くして両親と死別し天涯孤独となる アニメ動画を併載 :「1からわかる親鸞聖人と浄土真宗」一閑張家元 ホームページ一閑張りとは :「一閑張り たなの」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へ
2022.05.18
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第3の探訪目標地に向かうために、東大谷祖廟の参道を西に歩み、ねねの道に出ます。振り返って祖廟のある東山の麓を眺めた景色です。祖廟の南、雙林寺(双林寺)の南東方向には東大谷墓地が広がっています。ねねの道の脇には車止めの柵が置かれ、そこに「東大谷」と明示されています。東大谷祖廟は以前にご紹介しています。次に目指す第3の探訪目標について、少し触れておきます。最初にご紹介した京都庚申堂(金剛寺)のことを知ったとき、少し調べてみて、京都における庚申信仰の記事に出会いました。その折、京都三庚申とか、京都の七庚申霊場があることを知ったのです。粟田口にある尊勝院が三庚申の一つだそうです。ここはかなり前に東山の将軍塚から粟田口に下山する途中で境内地を抜けたことがあります。ここが庚申信仰にも関係することをその時には全く意識していなかったのです。ということで久しぶりに東山の中腹まで逆に登ってみようと探訪目標に加えました。目標地に行くには、青蓮院前の神宮道を通り北に向かうことになります。まずは目標地に向かう途中で副次的に探訪した箇所をご紹介したいと思います。 ねねの道西側に建つまだ新しい感じの建物です。道沿いの南西隅に「京都祇園堂」の石標が立っています。 入口の右側にこの案内文が掲示されています。この付近には、白河法皇の寵妃・祇園女御の屋敷があったと言います。祇園女御は法皇の崩御後出家し、屋敷の隣接地に阿弥陀堂を建てて法皇の菩提を弔い余生を送ったとか。その女御の菩提を弔う祇園女御塚が置かれていたそうです。 京都祇園堂の前面北東隅に「祇園女御塔」と正面に刻した供養塔が安置されています。京都祇園堂の1階奥には、祇園女御の菩提を弔うために阿弥陀如来が祀ってあると記されています。(建物内部は未訪です。)『平家物語』巻六には「祇園女御の事」が記されています。「又古い人の申しけるは、清盛公は只人にはあらず、実には白河院の御子なり」という一文から始まり、永久の頃に、この祇園女御の「栖所(すまひどころ)は、東山の麓祇園の邊(ほとり)にてぞありける」と記され、この祇園女御のことが述べられています。(資料1) 祇園女御館の北に、「長楽館」があります。ここは円山公園内の南西隅に位置します。通常なら観光客を多く見かける場所なので素通りしてしまうのですが、人をあまり見かけなかったので、表門から建物までの前庭エリアに立ち寄ってみました。 正面の建物の前庭は、中央に低めの円筒型に整備された島が設けられ、大木が繁り、大きな雪見灯籠が置かれています。 正面には鉄骨造り、4階建(地下1階)の洋館があります。現在は、デザートカフェやレストラン、ホテルとして利用されています。明治の実業家で煙草王と称された村井吉兵衛が別荘を兼ねた迎賓館としてこの地に建てました。村井吉兵衛は明治28年(1895)東山馬町に工場を建て、日本で初めて紙巻タバコの製造をおこなった実業家。建物は、アメリカ人ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが設計監督を行い、6年の歳月を経て明治42年(1909)に竣工しました。竣工後間もなく、木戸孝允の墓参のために入洛した伊藤博文は、この別荘に宿泊して名士を多数招き宴を催したそうです。伊藤博文はその4ヵ月後、ハルピン駅にて暗殺されてしまいます。村井家の別荘でしたが、明治末年から大正にかけては、国賓として来朝した外国人の宿泊所としても提供されたと言います。内部の客室は、ルイ15世王朝の様式を真似た豪華な装飾が施されているそうです。(資料2) 表門を入ると、南側にこの建物があります。洋館の傍に石灯籠や石造五重層塔が置かれていますが、違和感はありません。 円山公園を縦断して知恩院の南門を通り抜け、「知恩院三門」を右に見ながら通過します。知恩院は既に幾度か視点を変えながら、ご紹介をしています。 青蓮院の手前で、表門が開いているのに気づきました。幾度もこの北に向かう神宮道を歩いていますが、閉まっているという記憶しかありませんのであまり意識することのない単なる通過点でした。門が開いていることに気づき、傍の案内板を見ると「花園天皇十楽院上陵」と記されています。そこで、立ち寄って探訪してみました。 門扉は桟唐戸で、連子様の狭間の中央に菊紋がレリーフされています。板蟇股は簡略な陰刻が施されています。 表門の屋根の軒丸瓦の瓦当にも菊紋がレリーフされています。棟積みの丸瓦にも菊紋が見えます。 表門を入ると真っ直ぐ参道が延び、右手に小ぶりな水槽風の石造物が置かれています。目的や機能は不詳です。水源はなさそうですが、手水鉢に相当するのかも・・・・・。 北隣りは青蓮院です。こちらの門に近い位置で、青蓮院の南西隅に「鐘楼」が見えます。 参道は緩やかな坂道から少し急な坂道に変わって行きます。築地塀が低めのため、歩むにつれて青蓮院の庭や御堂が垣間見えます。 坂道の前方に、警備詰所が見えてきます。坂道の最後は陵墓への石段が続きます。 石段を上がって眺めた陵墓の景色。北面する陵墓です。 正面から眺めた陵墓。向かって右側に陵墓名を刻した石標が立っています。十楽院とは何かという疑問が湧きました。十楽院は「安元2年(1176)後白河天皇中宮平滋子が、亡父平時信の菩提を弔うために、その墓側に建立された寺である。のちに青蓮院の院家の一つとなり、道玄法親王以下歴代青蓮院門主の住房となった。」(資料3)十楽院は廃絶となったお寺です。花園天皇陵は十楽院の跡地に設けられたことからその名が付けられたと推測します。 さて、御陵から出て先に進みます。 神宮道に面して、表門石段の北側に「花園天皇陵参道」の道標が立っています。今まで気づかなかったのが不思議・・・・・。 すぐ近くの見上げるところにあるこの青蓮院の石標に目が行ってしまうせいだったのかもしれません。「史蹟 青蓮門院𦾔假御所」。𦾔は旧、假は仮の旧漢字です。 神宮道に面したこの石段の上には、「四脚門」があります。宸殿の庭に直接入る門です。 神宮道からこの「長屋門」が右(南西)側に見え、 東の奥まった位置にこの門(薬医門)が見えます。 この門の右側に、駒札が立っています。青蓮院は天台宗延暦寺派の三門跡寺院の一つです。天台座主行玄が青蓮院と号して当寺の一世になります。鳥羽天皇の皇子覚快法親王が二世となることで、門跡寺院となります。1167年に三世を継承した慈円が青蓮院の基礎を築き上げます。慈円上人は生涯4度天台座主をつとめた台密の巨匠です。(資料2)かなり以前に青蓮院を拝観したことがありますが、ここはまた別の機会に再訪して細見してみたいと思っています。一方、どこに受付があったのか記憶が定かでなく、試しにその手前まで探訪してみることにして、門を潜ってみました。 門を入り右折して南に坂道を歩みます。正面に見えるのは「大玄関」です。宸殿への玄関です。大玄関の右(西)側の垣根のところが拝観後の出口になっています。 大玄関から北東方向に見える建物が入口で、拝観受付所に至るようです。大玄関の東側に庭があります。 南側、つまり宸殿の北面が生垣で、大玄関の東面は光悦寺垣風の垣です。反対側は垣根代わりに樹木が並んでいます。この空間に枯山水の庭が作庭されています。(資料4)この庭を眺めた後、坂道を下ると北側に御堂があるようで、真っ直ぐに下る石段道が見えますので、そちらに進んでみました。そこにはオープンに拝見できる「植髪堂」という大きな御堂がありました。今まで知らずにいた御堂です。つづく参照資料1)『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p3012)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p2304)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p283) 境内と庭園 :「天台宗 青蓮院門跡」補遺大谷祖廟 東本願寺 ホームページ長楽館 ホームページ天台宗 青蓮院門跡 ホームページ青蓮院 :ウィキペディア村井吉兵衛 :ウィキペディア村井吉兵衛 :「コトバンク」ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー :ウィキペディアガーディナー ジェームズ・マクドナルド :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 大谷祖廟(東本願寺) 観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -1 名号松・納骨堂、層塔との出会い 4回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院・勢至堂境内細見観照&探訪 京都・東山 知恩院 -1 瓜生石・黒門・大庫裏・集会堂・阿弥陀堂前の桜 3回のシリーズでご紹介
2022.05.17
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西行庵・花月庵の前の道を東に歩むと、このお店・菊之井無碍山房があります。 店の手前に小祠があります。石仏に涎掛けがしてあります。お地蔵さまの祠でしょうか。近づいてみると、双体像の石仏です。双体地蔵尊のように思えます。(道祖神の可能性も・・・・)この店の東側の南に向かう小径に右折します。 石を敷き詰めた円形に近い広場があります。道なりに南に進むと、 もう一度右折して西方向に歩む小径になります。 その先はこんな景色です。右に鉄柵が設けられ、前方は行き止まりです。前方の先は高台寺墓地です。 現地で位置関係を観察すると、丁度前回ご紹介した双林寺花月庵(西行堂)の南に接する位置になります。萱葺屋根がそれです。菊渓川の畔にあります。鉄の扉は施錠されていましたので、正面から拝見できませんでしたが、大凡第2目標は達成です。 ここが道元禅師荼毘所址です。手許の参照本は1980年6月発行ですが、「西行庵の南に接する菊渓川の畔にあって、近年整地して石塔を建てられた」と記されています。脚注には覆い屋がない露天の景色の写真が載っています。(資料1)少し前に、西洞院高辻西入ルにある道元禅師示寂の地の探訪記をご紹介しています。探訪後に調べていて、この荼毘所跡のことをネット検索情報としてまず知りました。その後で手許の本に「道元禅師荼毘所址」の見出しで載っていることを知った次第です。 木の向こうに見える石標がまず探訪目標でした。 斜めからしか正面の刻字が読めませんが、西面に「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺跡之塔」と刻されています。その左側に、「永平七十一世遠孫比丘瓏仙教書」と印が刻されています。東面は残念ながら見られませんが、次の碑文が刻されているそうです。(資料2)曹洞宗高祖道元禅師は内大臣久我通親の子、十三才の春叡山に上り出家得度、天台の教学を修め、」更に内外の智識に道を訪ね遂に大宋国に渡って天童山の如浄禅師より釈迦年尼仏正伝の仏法を相続」して帰国せらる。後興聖寺、永平寺を開山日本曹洞の初祖也、建長四年秋病を発し翌年京に帰り西洞」院高辻の俗弟子覚念の邸に病を療ぜらるゝも八月廿八日御歳五十四才で遂に遷化せらる。直ちに」合龍を天神裏の小庵に移し遺弟等東山赤築地の当処に於いて荼毘に付す。爰に京都府下の法孫」報恩の微意を表し謹んで建之」 京都府曹洞宗宗務所長 維時昭和四十年八月廿九日 鷹峰龍乗この記述から整備された時期がわかります。垣間見る形でのご紹介です。 整備された遺跡塔の全容をこれで大凡イメージできると思います。道元禅師は、正治2年(1200)年生まれ、1253年に病気療養のために入洛し、同年に西洞院高辻の地で寂滅され、この地(東山赤築地)で荼毘に付されました。遺骨は永平寺に埋葬されています。(資料1,2) さて引き返します。元の道路に戻り、道路を挟んだ北側を眺めますと、 まず、「南無地蔵菩薩」の幟が目に入ります。ここは双林寺の境内になります。 地蔵堂に近づくと、「持病平癒地蔵尊」の扁額が掲げてあります。 格子扉越しに拝見すると、石造地蔵菩薩坐像が安置されていて、お地蔵さまその他の石造物も安置されています。 格子扉に「持病平癒地蔵尊」の由緒が掲げてあります。「そもそも、ここに安置し奉る持病平癒地蔵尊は、皇女綾御前が父、鳥羽天皇の菩提を弔うため自ら書写なされた金字法華経八巻を納める法華塔を建立されましたが、応仁の乱により、宸筆法華経と共に罹災したため、その跡地にその灰土を集めて一塊の塚とした『法華塚(本地蔵堂東隣石柵内)』を、明治5年8月、修繕したときに、地中より出現された地蔵尊であります。 その時、大阪の森田某なる人、永年に亘り持病にて難渋されていたので、持病平癒を一心に祈念されたところ、不思議にも数日を経て、全快を見られ、霊験のあらたかさを感得されて報恩感謝のために御堂を建立し、鷲尾町町内守護と共にこの地蔵尊をお祀りして、現在に至るのであります。 この地蔵尊は称号のように、一切の病気に霊験があり、ご利益を載かれた人数数知れず、今なお、御参詣の人絶ゆる日なく、難病も一百八編の御真言をお唱えすれば必ずご利益をいただけ、願望も成就させて戴ける有難い仏さまなのであります。 御真言 おん・かかか・びさまえい・そわか 」(説明文転記) 地蔵堂の東隣りが、雙林寺(双林寺)の参道入口です。右手前に石標が並んでいます。この刻字から、この地が「真葛ヶ原」と呼ばれていたことがわかります。真葛ヶ原はこの辺りから現在の円山公園を中心にして北は知恩院三門より南の東山山麓一帯の旧称でした。(資料1)その名の通り、真葛や薄、茅などが一面に生い茂るところだったそうです。 わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ヶ原に風さわぐなり 新古今集、十一、恋歌一と天台座主慈円僧正は歌を詠まれているとか。(資料1)序でに、孫引きですがいくつか歌をひろっておきましょう。(資料1) 風渡る真葛ヶ原の寂しさに妻とふ鹿の声うらむなり (家集) 鴨 長明 吹き返す真葛ヶ原の秋風も恨みそめたる鹿の声 (家集) 俊成女 秋風よ恨みは深し真葛原月をば霄(そら)に吹きも返へさで (挙白集、二)長嘯子この双林寺も以前に少しご紹介しています。重複しますのでご紹介は写真に留めます。 参道を進むと、「伝教大師童形像」が建立されています。 やはり、布袋像に目がとまります。 本堂 金玉山と号する天台宗のお寺ですが、その寺運は盛衰が大きく変転し、一時期は時宗として寺運が栄えたときもあり、再び天台宗のお寺に戻ったそうです。今は本堂一宇を残すだけです。寺地が縮小していく背景には次のような経緯があるそうです。「1605(慶長10)年に高台寺、1653(承応2)年には、東大谷祖廟の造営にあたり寺領を献上し、規模を縮小しました。明治維新のときに天台宗に復し、廃仏毀釈や1886(明治19)年、円山公園造営のため、さらに多くの寺領を上地し、今は僅かに本堂一宇と飛地境内にある西行法師ゆかりの花月庵(西行堂)を残すだけとなりました。」(資料3)この後、双林寺の寺号標の右側の道を歩いたことがありませんので、探訪を兼ねて歩いてみました。それで位置関係が明瞭に繋がってきました。東本願寺・大谷祖廟の正面の石段下に繋がる道でした。道沿いに北に進めば円山公園内です。地図を参照すると大谷祖廟を含めて円山町という町域になります。第3の目標は、粟田口の尊勝院の再訪です。目標にした意図は後ほどご説明します。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p207-2082) 道元禅師荼毘御遺跡塔 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 縁起書 :「雙林寺」補遺天台宗金玉山雙林寺 ホームページ祇園東山を流れた菊谷川・轟川・音羽川を求めて :「京都 失われた川」Kyoto Japan【4K】菊渓を歩く(東山山頂公園→菊渓→東大谷墓地→八坂神社)Walk from Higashiyama Mount Peak Park to Yasaka Shrine YouTube菊之井無碍山房 :「菊之井」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -2 芭蕉堂・西行庵・花月庵(西行堂)・双林寺スポット探訪&観照 京都・下京 道元禅師示寂の地
2022.05.15
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「ねねの道」は南から北に上がると突き当たりとなり、T字路で右折して、少し先のT字路で左折し、北に上がると円山公園に到ります。冒頭の景色は左折するT字路の西側角です。 「円山地蔵尊」が建立されています。この辺りは以前にご紹介をしています。 地蔵尊の北側が「大雲院」という浄土宗のお寺です。ねねの道に東面する山門前には埒が設置されています。そこから本堂を眺めた景色です。お寺は移転を重ねて、1973年4月に現在地に移建されました。本堂は鉄筋コンクリート造りです。この大雲院の境内には、冒頭右の写真の背景に見えますが、高さ36mの「祇園閣」があることと、境内墓地に「石川五右衛門墓」があることで知られています。(資料1)元は、烏丸御池に貞安上人が本能寺の変でなくなった織田信長・信忠父子の菩提を弔うために一宇を創建して、開山したのが始まりだそうです。信忠の法名に因んで大雲院と号したと言います。山号は竜池山で貞安寺とも称され、浄土宗系の単立寺院です。(資料2)地図を参照していて再認識したのですが、この大雲院が「祇園町南側」という町域の東端です。南端が東大路通に位置する東山安井の交差点の北西側であり、この町域の広さに初めて気づきました。この祇園町南側に接するのが「鷲尾町」です。探訪の第2目標はここに所在することだけが手がかりでした。そのため、鷲尾町巡りをすることになりました。そこでかつて訪れた箇所もこの際再訪しながら、目的地探しを行った次第です。第2の目標は「道元禅師荼毘所跡」です。そこに行き着く前に、再訪した箇所をまずご紹介すます。ねねの道を挟んで大雲院の前、東側にあるのが円山音楽堂です。 大雲院の南東側にこの「芭蕉堂」があります。表門を入ると、すぐ右側に位置します。萱葺屋根の四阿風の建物です。天明3年(1783)に俳人高桑闌更が双林寺より借地して、この地に南無庵と称する一宇の草庵を営み、次いで天明6年(1786)に南無庵の南にこの芭蕉堂を建立したそうです。 堂内には闌更が新調した芭蕉像が安置されています。この像の胎内に森川許六自作の高さ24.5cmの芭蕉像が納められているそうです。(資料1) 余談ですが、この芭蕉堂の南奥に、レンタルきもの岡本があります。芭蕉堂の写真を撮っている時に、衣裳をいれた大きなバッグを搬出入している担当者を見かけました。 芭蕉堂の東に、「西行庵」があります。 この地に西行法師が葵華園院(さいけおんいん)を営み、終焉の地であったところと伝えられていたのですが、荒廃を極めていたとか。明治26年(1893)に富岡鉄斎、宮田小文法師、当時の京都市長内貴甚三郎らの尽力で、浄財を募り再建されたと言います。この萱葺の母屋「浄妙庵」は大徳寺塔頭真珠庵の別院を移築したもの。南側に茶室「皆如庵」があります。(駒札、資料1)鳥羽上皇に仕えていた北面の武士、佐藤義清は突然に出家しました。西行法師です。西行は出家した翌年、永治元年(1141)から双林寺の塔頭葵華圓院に止住したと言います。(説明文、資料1)西行法師の実際の終焉の地は、大阪府南河内郡河南町にある弘川寺です。(資料3) 母屋の東側に、この表門があり、左の門柱に「双林寺花月庵」と記された門灯が備えてあります。ここは雙林寺(双林寺)の飛地境内です。南にむかって参道が延びています。 参道を進むと、正面にこの萱葺屋根のお堂があります。初めて訪れた時は、途中に青竹を渡して立入禁止が示されていました。 今回はそれがなくて、お堂の前まで進むことができました。花月庵(西行堂)です。 正面の扉の上部中央に、「花月庵」の横額が掲げてあります。 扉のところに、この案内の額「花月庵(西行堂)」が掲示されています。堂内の厨子に西行法師僧像と頓阿法師僧像が祀られているそうです。(説明文より、資料1)頓阿(1289-1372)は南北朝時代の僧侶で歌人。「20歳前後に出家して比叡山で修学,のち四条道場金蓮寺に出入りした。東山双林寺に住んだこともあるが,晩年は洛西の蔡花園 (さいけえん) に住んだ」(資料4)そうです。「この花月庵のもとは、葵華園院の跡地に建立され、その後、享保21年(1731)に摂津池田にあった李孟寺の天津禅師により、現在の地に移築再興された。その後、明和7年(1770)冷泉為村が修繕した」(説明文一部転記)そうです。そして、「為村筆の扁額『花月庵』が掲げられた」(資料1)。一方、手許の書には、「萱葺きの瀟洒な西行堂はもと洛西双ヶ丘の麓にあった頓阿法師の葵華園を移して再興したものといわれ」(資料1)という説明と、「冷泉為村によって修繕されたが、再び荒廃し、明治26年(1893)宮田小文法師によって再建された」(資料1)と説明されています。 「円悟山 葵華園院 西行庵」と題する額も掲げてあります。西行庵の由緒がわかります。「此処、西行庵は西行法師が出家し初めて開山開基した葵華園院が起源で、西向きに建立された三十畳の本堂に阿弥陀如来三尊を祀り、南に隣接する五十畳近くの居住空間を擁するという、平安末期に一個人が創建した寺院としては東山屈指の伽藍でございました。西行の遺徳を偲ぶ様々な宗旨の僧侶が入山し、多様な変遷を遂げて参り、やがて正式名称の葵華園院を略し俗称の西行庵として人々に親しまれる様になりました。時は流れ明治維新の頃の廃仏毀釈の影響で二十年以上無住の状態が続き、かつて遺風を誇った伽藍は崩壊し、更地に帰します。明治二十六年政府発表の勧業会万国博覧会京都開催を受け、京都市議会派は現平安神宮を主会場に定め、清水寺に至る経路に適した界隈の再開発を円山公園整備事業として可決し、その一環として現在の西行庵が富岡鉄斎と宮田小文法師により再興されました。」(説明文転記 末尾一部略)これら説明の文脈を捉えますと、頓阿法師は晩年を過ごした草庵を葵華園と称していたこと。その建物がここに移築されたこと。西行堂を修繕した冷泉為村が花月庵と名付けたこと。それも後に荒廃したこと。現在の花月庵(西行堂)は明治期の再建であると理解できます。上掲のま新しい横額は実物を保存するために新たに複製が制作されたものと推測します。 西行堂の東側の建物の入口に「花月庵」の表札が掛けてあります。 西行堂の前面周辺と小径の左右を拝見していきましょう。 お堂の前に置かれ、上縁部が苔蒸した石造物。正面に如来像がレリーフされています。香炉なのか供花を捧げる器なのか・・・・。不詳。 目に止まった石造不動明王坐像 西行堂前の西側あたりだったと思いますが、これらの石碑が建立されています。ひっそりと碑が佇むばかりです。陰刻された文字を判読できないのが残念。 参道を表門に戻る時、西側で、垣根越しに垣間見える建物が茶室なのかもしれません。 参道を戻る途中で撮った景色をパノラマ合成してみました。西行堂への往路の景色と復路のこの景色、それぞれに写る雪見灯籠で位置関係が大凡イメージしていただけることでしょう。左端の透かし戸の向こうに見える萱葺屋根が西行庵の母屋です。 復路、右側(東)に墓所が見えます。宝篋印塔の左側の墓石には「頓阿法師」と刻されています。 参道沿いにこれらの墓石が一列に建立されています。以前の探訪記で触れていますので省略します。こんなところで、花月庵の境内を出て、いよいよ第2目標地点の探索です。鷲尾町の北域が円山音楽堂、花月庵までの西域がこれで消去されますので、探索域がかなり絞り込めます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p205-2072)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1273) 西行法師 :「河南町」4) 頓阿 :「コトバンク」補遺芭蕉堂 :「京都観光Navi」芭蕉堂 :「京都通百科事典」特集・コラム 京都・芭蕉堂 :「レンタルきもの 岡本」西行庵 :「京都通百科事典」西行 :「コトバンク」西行 :ウィキペディア西行 :「千人万首」頓阿 :ウィキペディア頓阿 :「千人万首」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -1 大雲院と祇園閣、円山地蔵尊探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -2 芭蕉堂・西行庵・花月庵(西行堂)・双林寺
2022.05.14
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八坂の塔から八坂通を少し上ると、二寧坂(二年坂)への分岐点です。清水寺に向かえば、産寧坂(三年坂)を経て清水坂に到ります。二年坂入口のこのお店は、時季により色彩の異なる和傘を掲げているようです。以前に通り過ぎた時は、赤色の和傘だったと思います。 二年坂を下ります。GWの連休中は多分かなり混雑していたことでしょう。二年坂の中程、西側にある土産物店の一つは画家・詩人だった竹下夢二寓居趾(枡屋町)です。(資料1)寓居跡を示す碑が建ててありますが、意識せずに通過していました。 道沿いに下って行くと、「京の坂みち一念坂」(一年坂)の石標が立つ分岐点に到ります。左の景色は、一年坂への入口、南側角の景色です。このあたりの二年坂の東側はすっかり再開発されてしまいました。景観への配慮がなされていますが、まっさらという感じは否めません。初めての観光客はたぶんまったく気にはならないでしょうが・・・・・・・・。久しぶりに来たので、一年坂の小路を歩んで下ります。二年坂をそのまま下っても出るところは同じ道路。数十m東西に離れているだけです。 一年坂から東西の幅広い道路を横断し、「ねねの道」に向かいます。横断中に東を眺めた景色。幅広の道が分岐する地点です。北側のこの道路は高台寺の「霊山観音」に向かう道です。「高台寺」の大きな寺号標が立っています。南側の道路では石鳥居が東方向に見えます。「京都霊山護国神社」への道です。突き当たりで北に行けば護国神社境内、南に行けば「霊山歴史館」があります。また、護国神社の境内から、山に登れば「坂本龍馬の墓」があります。 「ねねの道」の北西角は「春光院」で高台寺の塔頭寺院。萱葺屋根の表門が特徴的です。「江戸時代初期、北政所の甥にあたる木下勝俊が、若くして亡くなった自身の娘、春光院万花紹三(しゅんこういんばんかじょうさん)の菩提を弔うために建立しました」(資料2)とのこと。また幕末に、この春光院にて尊皇攘夷派の僧・月照が西郷隆盛・有村俊斎・津崎矩子らと密議を重ねたとも言われています。(資料3)序でに、清水寺の南にある清閑寺の茶室郭公亭もまた、月照と西郷隆盛が密会した場所として知られています。(資料4) 表門の左側に石造摩利支天像が置かれています。「東山路傍の触れ仏」という案内板が傍に設置されています。「元はインドの神様。護身・得財・勝利などのご利益があり、武士を中心に信仰をうけました。勝負運などを上げたい方は右手もしくは両手で撫でてください。」(説明文転記)コロナ禍の現在、触れて撫でる人はいないでしょうね。余談です。摩利支天は梵名マリーチを音写したものです。漢名では陽炎・威光と訳出されます。元来はインドの民間信仰での神。猪の背に置かれた三日月の上に立つ摩利支天という姿で図像化もされています。東山では建仁寺禅居庵の摩利支天が有名です。平安時代に中国・唐に留学した密教僧により儀軌や図像が伝来されたと言います。「近世以降はとくに相撲界において土俵に臨むに際し、いずれも必勝祈願の神として信仰がなされた」とか。(資料5)現在の相撲界はどうなんでしょう。信仰も継承されているのでしょうか・・・・・・。元に戻ります。 門前から境内を眺めて。Mapionの地図を見ますと、左に見えるお堂に「勝利摩利支尊天」と尊名が表記されています。門前傍に、石仏像が置かれていることと呼応します。 ねねの道を北に歩みます。右側(東)は道路より一段高く、そこに「高台寺公園」があります。ご覧の通り、この道は御影石を敷き詰めてあります。スッキリした景色になっているのは、電線の地中化に伴う整備が行われ、1998(平成10)年にこの「ねねの道」となったそうです。(資料4) ねねの道を歩きはじめて、高台寺公園への石段傍で目に止まった顕彰碑です。 「京だんご 藤菜美」の入口南東隅で目に止めた水鉢(左)と高台寺公園へのメインの石段(右)です。石段手前左側に「高台寺公園」の表示碑があります。 公園入口の傍に、「高台寺塔頭全景図」が設置されています。色丸を追記しました。赤丸が全景図の設置場所。その右斜め上が公園です。茶色の丸が霊山観音、紫色の丸が高台寺のある場所です。マゼンタ色の丸が上掲の春光院の位置。これからご紹介するのは、青色の丸、空色の丸、黄色の丸という順番になります。 「圓徳院」(青色の丸)の入口です。これはたぶん長屋門形式の一つになるのでしょう。(資料6)この日は閉まっていました。圓徳院も高台寺の塔頭の一つです。(資料4) 門前から眺めた景色 北隣りにある門。幾度もこのねねの道を通りながら、この門前を素通りしていました。それはたぶん門前にお店の案内立て看板やお店の提灯が目に止まっていたせいでした。この時は往来する観光客がいず、「大黒天」の赤い提灯に目が留まり、ふと門を潜ってみる気になりました。犬も歩けばなんとやら・・・。門を潜ったお陰で、目標以外の探訪を広げることができました。 門を入ると右側(北)に宝形造の屋根のお堂があります。正面に「歌仙堂」と記された扁額が掲げてあります。堂内を拝見すると、手前の台上に「歌仙堂」についての説明が4枚の色紙に記されて立ててあります。文字が小さいので読みづらい。「『歌仙』とは安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名・歌人であった長嘯子(ちょうしょうし)のことです。 この歌仙堂には、彼の御位牌(大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士)がまつられています。 長嘯子は、名を木下勝俊といい北政所ねねの兄、家定の嫡男として、1569年尾張に生まれました。幼い頃から秀吉公に仕え、19歳の時に龍野城主となり、1594年26歳で若狭小浜城主となりました。しかし、関ケ原の戦いの際、家族の情を優先してしまい、武人になり切れず、徳川家康に領地を奪われてしまいました。その後、出家して東山に隠棲し、文人として生きることを選びました。高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営み、長嘯子と号しました。この隠棲地には『歌仙堂』と称する小閣があり、その二階には三十六歌仙図を掲げました。 長嘯子の歌風は感動の発露の中にいきいきとした清新さが息づき、近世和歌の革新の萌芽を内包していたといいます。ひとことでいうと、人としての感情、心の動きをありのまま奔放に表現していたのです。大名として最高の文化的素養を備えていた人物と言えます。これが木下長嘯子を『歌仙』と呼ぶいわれなのです。 1649年に死去しましたが、遺された和歌作品の数々は、弟子の山本春正らによって編集された歌文集『挙白集』に収録されています。[作品] *あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれかな *よしあしを人の心にまかせつつそらうそぶきてわたるよの中 *むらさきも朱もみどりも春の色はあるにもあらぬ山桜かな *枝も葉もかぞふばかりに月すめば影たしかなる庭のときは木 *露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり 」(説明文転記) 堂内の奥はこんな景色です。一番奥に木下長嘯子の位牌が安置されています。 歌仙堂の西側に手水舎があります。この西側に「三面大黒天」を祀るお堂があることと関係するようです。手水舎の背後が気になり、まずそちらに立ち寄ってみました。反時計回りに巡ってみました。 一番右にはこの句碑が建立されています。まず辞世と読めそうな文字。私には俳人名と句が判読できません。 建仁寺垣の前に、小祠が2つ。その左には石仏群。 涎掛けがかけてありますので、お地蔵さまとして祀られているのでしょう。 その左には、塚状にして石碑を集めたところがあります。右手前は句碑。私には判読できず、調べてみるとある記事に出会えました。(資料7) 大木の蔭をかなめの花うれし 文之助中央の大きな碑には、「扇□ 二代目 文迺屋文之助」と刻されています。二文字目は判読不可。調べてみますと、落語家の二代目桂文之助に関係する石碑のようです。明治33年に二代目桂文之助を襲名し、京都の寄席・笑福亭を拠点に活躍。高座を引退すると、高台寺門前で文之助茶屋を開き、茶店の主に収まったと言います。(資料8,9)「1910年、京都東山の高台寺に自身の扇子を奉納、1920年に完全に引退し高台寺に引退興行の代わりに石碑を建てた。」(資料8) この石碑がそれに該当するのだと思います。墓所はこの圓徳院にあるそうです。これもまた、調べてみますと、文之助茶屋は八坂の塔の東側、前回ご紹介した「八坂通り画廊」の東隣りのお店がそれでした。思わぬ形で繋がってきました。おもしろいものです。左側にあるのは扇を象った碑のようです。その背後には、碑文がありますが、私には判読しかねます。だけど、事後調査で大凡のことがわかり、探訪としては少しすっきりしました。この建仁寺垣の続きで、すぐ傍に「圓徳院」の出口用の門があります。 境内の奥(西)に進むと「三面大黒天御堂」が南面しています。(空色の丸のところ)三面大黒天の幟が立ち、正面から眺めると、唐破風の上に千鳥破風を重ねたような珍しい屋根になっています。唐破風屋根下の正面に「三面大黒天」の扁額が掲げてあります。 これは唐破風の方の獅子口ですが、五七桐紋がレリーフされています。上の獅子口も同様です。五七桐紋は豊臣秀吉の家紋です。 拝所前の香炉には、正面に菊華紋と五七桐紋が陰刻されています。 見上げるとこの扁額が掲げてあります。判読できません。残念。 正面奧に、小ぶりな三面大黒天像が安置されています。 豊臣秀吉は「三面大黒天」を出世守り本尊としました。大黒天・毘沙門天・弁財天の三天が合体した尊像です。圓徳院のホームページには三面大黒天のページがあります。それを参照すると、ここに安置されている三面大黒天は豊臣秀吉の守り本尊の模刻ではなさそうです。(資料10)別途造像されたものと思われます。余談ですが、私の探訪歴では、比叡山の大黒堂に祀られる三面出世大黒天と地元の宇治川の上流西岸にある興聖寺に祀られる三面大黒天が記憶にあります。 欄間にはこのちょっと不可思議なレリーフが見えます。龍に見えそうで、龍でもなさそう・・・・・・何を象っているのでしょう? 拝所に近い左側に置かれているもの。多分木魚だと思いますが・・・・。説明はありません。大黒天に向かって右面が毘沙門天という案内写真が傍に置かれています。三面大黒天の境内を出ると、道を隔てて東側に「月真院」(黄色の丸のところ)があります。ここは通常は非公開のお寺です。 山門前の右側には、「御陵衛士屯所跡」の石標や駒札が立っています。 慶長3年(1867)3月、伊東甲子太郎は新選組の隊長近藤勇と話し合い、新選組を脱退しました。同士14名とともに、この月真院を屯所に、禁裏御陵衛士として独立したのです。孝明天皇の墓を守護するという名目でした。だが、それは伊東甲子太郎が油小路木津屋橋で新選組により暗殺されるまでというわずか半年余の活動期間でした。彼らは「高台寺党」とも称されました。ここは維新史蹟の一つにもなっています。(駒札、資料1)中央に建立されている句碑を判読できません。調べて得た情報です。(資料7) 見あかぬよ 見ぬ日も無くて東山 芹舎八木芹舍(きんしゃ、1805-1890)という江戸時代後期から明治時代の俳人で、京都俳壇の実力者だったそうです。(資料7,11)右端に「鉄道先覚者 谷暘卿先生墓所」と刻された石標が立っています。調べてみますと、谷暘卿(ようけい、1817-1885)は「京都で漢方・蘭方折衷の産科,眼科を開業,九条家の典医もかねる」町医者だった人ですが、鉄道建白書を建議したという先覚者です。(資料12,13) 駒札の左側に布袋坐像が置かれています。 門を入り左折した先に庫裡が見えます。 その東側、仕切り塀の向こうが本堂のようです。 本堂には本尊として地蔵菩薩像が安置されていると言います。(資料1)「当寺は石見国(島根県)津和野の城主亀井茲政が亡父政矩の菩提を弔うため、元和元年(1615)三江紹益を開山として建立した高台寺の塔頭」(資料1)です。門前からは仕切り塀と中門が見えます。大木の傍の石碑の文字は判読できません。 中門から眺めた庭をパノラマ合成してみました。高台寺塔頭全景図と対比してみますと、庭の正面に見える不規則な石積みは池の縁になるようです。 表門を入ってすぐ右側には、石鳥居が立ち、「小稲荷大明神」と記された額が掲げてあります。稲荷社です。「名勝庭園 北政所御殿跡 圓徳院」の碑が築地塀の穴門傍にあります。ねねの道の西側で、三面大黒天御堂の北側になります。 「ねねの道」の道標が、この東に入る道とねねの道の角(南側)に立っています。この辺りで、ご紹介の一区切りと致します。この後が、この探訪の第2目標に関わってきます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p1702) 京都 高台寺春光院風情ある茅葺屋根が魅力の高台寺塔頭寺院:「TRAVEL MAR-KER」3) 春光院 :「京都 Kyoto」4)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p144,p1585)『仏尊の事典』 関根俊一編 学研 p1696) 長屋門 :「コトバンク」7) 歌碑・文学碑巡り 京都東山 その7 :「あべしんのブログ」8) 桂 文之助(2代目) :「コトバンク」9) 桂文之助 :ウィキペディア10) 三面大黒天 :「圓徳院」11) 八木芹舎 :「コトバンク」12) 谷暘卿 :「コトバンク」13) 町医 谷暘卿の鉄道建白書の原文 :「北山敏和の鉄道いまむかし」補遺竹久夢二 :ウィキペディア弥生美術館 竹下夢二美術館 ホームページ竹久夢二寓居跡 :「京都観光Navi」圓徳院 三面大黒天のお堂 :「絶景かな.com」木下長嘯子 :「コトバンク」木下勝俊 :ウィキペディア木下長嘯子 :「千人万首」豊臣秀吉の家紋の意味は?政府が使っている理由について! :「歴史をわかりやすく解説! ヒストリーランド」【家紋】秀吉の「桐紋」、実は皇室由来? バリエーション豊かな「日本国」のエンブレム :「戦国ヒストリー」三面出世大黒天 参拝案内 :「比叡山延暦寺」鉄道にゆかりの深い寺院のこと :「DRFC-OB デジタル青信号」京だんご 藤菜美 ホームページ文之助茶屋 ホームページ京料理 高台寺 羽柴 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 八坂神社前・霊山観音・利生堂を経て霊山歴史館へ、そして帰路に探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほかスポット探訪 [再録] 宇治 興聖寺細見 -3 ← 三面大黒天関連探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)
2022.05.13
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八坂庚申堂を出て、五重塔を見上げながら坂道を上ります。 正面の透塀(と称するのでしょうか?)に、「臨済宗建仁寺派 霊応山 法観禅寺」と「聖徳太子御建立」と記された2枚の木札が掲げてあります。ここは「八坂の塔」という通称の方がポピュラーだと思います。探訪当日は、五重塔の景色を数枚撮るだけで通過点になりました。この法観寺が特別公開された時に拝観して撮った写真を保存していましたのでそれをご紹介します。2003年2月に訪れた時の記録です。当時は撮影がOKでした。その後に特別公開された機会があったかは知りません。かなりの時が経っていますので、現時点では変化があるかもしれません。あくまで記録の整理を兼ねたご紹介です。法観寺の存続の長さに比すれば、ほんの少し前にしか過ぎないとも言えます。江戸時代の『都名所図会』は、「八坂法観寺」の項で、「上宮太子の草創なり。古は楼門・伽藍・鎮守等、厳重たり。破壊年経りていま僅かに残る。五重塔一基。・・・東のかたに太子堂あり。北のかたの小堂には薬師如来・弁才天・歓喜天を安置す。むかし浄蔵貴所この寺に住す。・・・」と説明しています。(資料1)この説明を読むと、この図会が出版された安永9年(1780)当時と現時点とを対比し規模的にはほぼ同じと言えそうです。「寺伝によれば、当寺は推古天皇の御代、難波の四天王寺建立の用材を求めて入洛された聖徳太子が、如意輪観音の夢告によって建立されたとつたえ、また一説に天武天皇の白鳳7年(679)の建立ともいわれる。いずれにしろ平安遷都以前の建立であることは間違いなく」(資料2)との説明があります。飛鳥時代様式の古瓦が当地から発掘されているそうです。参照書の著者は「おそらくこの地に蟠踞していた八坂氏が、その一族の菩提寺として建立したものであろう。往時は延喜式七ヶ寺の一つに加えられ、寺運も盛大であったが、平安末期に至って衰微した。はじめ真言宗であったが、鎌倉時代の仁治元年(1240)建仁寺の済翁証求の来住によって禅刹に改められた。」(資料2)と説明を加えています。 特別公開での拝観のメインは五重塔でした。五重塔は建立、焼失、再建を繰り返しています。現在の塔は永享12年(1440)足利義経により再建されたものと言います。(資料2) 外観の一部。連子窓風の意匠が施されています。 塔の外からまず見仏した阿閦如来坐像です。 塔内に入ります。阿閦如来坐像が安置される須弥壇の下に開口部があります。そこから五重塔の「心礎」と心柱の下端部が見えます。 心礎は創建当初の物。円形舎利孔、石蓋孔、四柱座のある三段式で飛鳥時代の様式を留め、丸い石蓋を今日まで残しているのは全国で僅か二例であり、その内の一つだそうです。長径九尺、短径七尺の松香石が据えられているとか。(説明文より) このとき、初層から急な階段を上り二層目を拝見できました。 二層目は塔の木組構造がストレートに見えます。 塔の中心に、心柱が通っています。心柱の説明文が掲示されています。「空高く聳える五重の塔、その中心を貫く『心柱』 初層の礎石から相輪の頂上まで通り、途中支えは一切使われていない。構造的には、この高い塔の重心をとっている。 機能的には、初層の礎石に納められた『仏舎利』と、頂上に据えられた釈迦の墓である『相輪』を結ぶ動脈である。 名刹、古刹と呼ばれるが、遠い昔、寺院の或いは釈迦の象徴として礼拝されていた棒杖ようのもの『刹苅』が五重の塔内で巨大化して奉られているとも思われる。故に飛鳥時代の創建は、初層の須弥壇、仏像はなく。この心柱を釈迦として奉られていたようである。」(説明文転記) 二層目の連子窓から、西側の夢見坂を見下ろした景色です。 こちらは東側の境内を見下ろした景色です。石鳥居が見えています。右は石鳥居の傍に立つ石標です。「八坂稲荷尊天」が祀られています。八坂稲荷社が鎮守社です。鎮守社の南側に庫裡があります。初層に降ります。初層の須弥壇は、大日・釈迦・阿閦・宝生・弥陀が安置されています。(資料2)残念ながら撮れなかった如来像があります。 釈迦如来坐像。五躰を金剛界五仏、五智如来ととらえると、不空成就如来が釈迦如来と同一視されるそうです。(資料3)塔の中央に心柱、その四方に四天柱があります。心柱と四天柱の間に須弥壇が設置され、心柱を囲む形で諸仏像が安置されてます。天井は小組格天井です。 大日如来坐像 天部の像が描かれています。 尾棰が突き出ていて、斗栱は三手先で組まれています。 風鐸と鰐口。ここも金の緒は備えてありませんが金環はあります。境内の北側を巡ります。 宝形造の屋根で正面に向拝があるお堂が南面しています。「太子堂」(京都市指定有形文化財)です。 正面扉が開かれ、半蔀の上部が内側に引き上げてあり、お堂の奥に厨子が安置されています。 聖徳太子の童形像が安置されています。 正面右手前に駒札が立っています。駒札によれば、太子堂は1663年に門前居住の町人の寄進により、当初は五重塔の東に建てられたとか。『都名所図会』の説明と一致します。明治時代に現在地に移されたそうです。 太子堂の東側に宝篋印塔が建立されています。 その東側に「薬師堂」(京都市指定有形文化財)があります。太子堂と薬師堂はともに、正面三間、側面二間、宝形造の屋根、本瓦葺という同じ規模、形式です。年代もほぼ同じで、当初から境内の仏堂として計画、造営されたと考えられいるそうです。薬師堂には、 薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、夢見地蔵菩薩、さらに十二神将像が安置されていると言います(資料4)。 当日は未見です。 正確な場所を覚えていないのですが、一隅にこれらの墓があります。石塔の右側に「延喜式八坂墓」と刻した石標が立っています。近くに駒札がります。文字が小さいので転記します。「光孝天皇の外祖母・藤原敦子の墓。『延喜式』諸陵寮に『在山城国愛宕郡八坂郷墓地十町、墓戸一烟』と記され、八坂郡の一隅に光孝天皇の外祖父・藤原総継の墓とともに奉られていたものであろう。」(駒札より転記) 中央の石標には、「朝日将軍木曽義仲塚」と刻され、その後に小さな一石五輪塔が安置されています。駒札には、「木曽義仲公首塚」という見出しで説明されています。「源義賢の二男。父を源義平に殺されたのち木曽の中原兼遠に養育される。 1180年、以仁王の令旨を奉じて挙兵、平氏の軍を倶利伽羅峠に破り、叔父行家と呼応して、北陸道から入京。征夷代将軍となり源頼朝・平氏と全国を三分したが、後白河法皇を諫めようとして衝突。範頼、義経の大軍に敗れて近江粟津で敗死する。その首は家臣によりこの八坂郷に手厚く葬られた。」(駒札より転記)左端の小碑は、「時面大神」と刻されていると読めます(間違っているかも・・・・)。不詳です。 「法華塔」と刻されています。 境内の一隅に安置された石仏群四体いずれも法界定印を結ぶ如来形の石仏です。右から2つめは少し異質で、双体合掌像のように見えます。これは道祖神像でしょうか。推測ですが・・・・。五重塔の東側だったと思いますが、建物の一画に茶室があります。 おもしろい置物その途中の露地に丸瓦が埋め込まれ、瓦当に陽刻された「八坂塔」の文字が見えます。ちょとしたアクセントになっています。 露地 木の傍に設けられた蹲 瓦当に「建仁」と陽刻されたものもさりげなく。 茶室の小窓越しに 茶室内の景色こんなところで、拝観可能なところを一通り巡りました。 これは多分、境内の南西隅だと推測します。角地に大きめの石を敷き詰めて、そこに石仏が安置されています。一種の結界を形成している印象を持ちました。最後に、興味深い霊験談が伝わっていることに触れておきましょう。「天暦2年(948)に塔が西北方に傾いたとき、雲居寺の浄蔵貴所が塔に向かって祈念したところ、塔は忽ちもとに復したという」(資料2)。さて、5月6日時点に戻ります。 法観寺の南側、八坂通から眺めた五重塔です。この五重塔は高さ46m、方三間、本瓦葺です。現地で気づかなかったのですが、この五重塔、五層目だけに勾欄があり、四層以下はないとのことです。ただし、それは修理しなかっただけにすぎないと言いますが。それが逆に一つの特徴になっているとか。(資料2)今度、傍まで行った機会に確認してきます。 八坂の塔の東側にある民家のおもしろい光景をご紹介しておきます。源氏塀に一見異風な面、あるいは異様な雰囲気の面が数多く展示されているのです。いわば野外ギャラリーです。この家の入口に「八坂通り画廊」と表示が出ています。一見の価値があるマスク群です。現地でご覧ください。この後、八坂通を少し上り、二年坂に左折して北に向かいます。つづく参照資料1)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p2582)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p171-1753) 五智如来 :ウィキペディア4) 法観寺 :ウィキペディア補遺法観寺 :「京都観光Navi」五智如来 :「コトバンク」第6回 五重塔 :「東京医科歯科大学」雲居寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」浄蔵 :「コトバンク」浄蔵貴所(じょうぞうきしょ) :「京都通百科事典」京都で発見した個性的なギャラリー【不思議】 :「JASPER & JINX」八坂通り画廊 (Yasaka Street Gallery) :「imachika」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へ
2022.05.11
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暦上の連休が途切れた6日(金)に、いくつかの目標を持ち、京都市内を探訪してきました。暦上は平日ですので、私が巡った経路に関しては、やはり東山の特定スポットをのぞき、それほど観光客等の往来で混雑することはありませんでした。意識的に人通りが多そうな道を避けた側面も一部ありますが・・・・。冒頭の景色は、祇園・花見小路通に西から入る時に、角地で目に止まった一時置きの防止設備。さすが祇園花街の一角だけに、これなら風情がありますね。普通なら、赤色コーンと黄色黒色縞模様の棒を連結し、駐車禁止・立入禁止の警告表示に使うところでしょう。それではやはり場所がら無粋に・・・・。京阪電車祇園四条駅を出て、四条通を東に。そのまま東進するのを避けて、大和大路に右折し、一筋南の道で左折して東に向かいます。お寺の築地塀の間の道路を歩めば、花見小路に出ます。花見小路は観光客の集う道。右折して最初の筋で左折し、突き当たりまで東進します。この辺り、住所表示で言えば、祇園町南側です。最初の目標は八坂庚申堂ですので、めざす方向は「八坂の塔」が目印になります。今度はT字路で右折して南進です。この道は「祇園甲部歌舞練場」の背面(東)の道路になります。 歌舞練場の丁度背後、道路の西側に「崇徳天皇御廟」があります。かなり以前に初めてここを歩いた時は、御廟があることに意外な気がしました。 この御廟傍の東への道を通り抜けることに。 その時目に止まった地蔵堂。お地蔵さまはすっぽり涎掛けと衣で覆われていらっしゃる。東に進むと、北側に道が見え、角地にもう一つ地蔵堂がありました。道の反対側の掲示板には「東山区祇園南側」の住所表記が見えます。 こちらのお地蔵さまは格子扉の内部に、さらに扉があり拝見できません。先日もこのタイプの地蔵堂が続くのを見た後なので、やはりこの形式も各所にあるのだな・・・と。 地蔵堂の左側に道標らしきものが立っています。残念ながら私には判読できません。この通りは南北方向の幹線である東大路通に到ります。南をみれば「東山安井」の標識と交差点が見えます。後で地図を確認すると安井北門通です。この通りを東に進み、下河原通に出ます。下河原通は八坂神社の南楼門から真っ直ぐに南下する通りです。ここまで来ると、八坂の塔の上部が見えます。下河原通を南に下ります。道は突き当たりとなり、八坂の塔に向かうための坂道に出ます。東大路通から「塔の下商店街」を通って上ってくる坂道です。八坂の塔の紹介では、定番のようにこの坂道の下側(西側)から撮った写真や動画がテレビで放映されています。 坂道の南側に、最初の探訪目標「八坂庚申堂」の山門がありました。八坂の塔には幾度か来ているのですが、そのすぐ近くに庚申堂があるということを最近まで知らなかったのです。庚申信仰に関心を抱いた関連で、このお堂のことを知った次第です。八坂庚申堂という名称で知られているお寺ですが、正式には「金剛寺」と記した標札が山門の左柱に掲げてあります。大黒山延命院と号する天台宗のお寺です。(資料1)この写真の右手前に「夢見坂」と刻された石標が立っています。この門前の「東大路通から『塔の下商店街』を通って上ってくる坂道」が「夢見坂」と称されているそうです。(資料2)地図には表記がありませんので、たぶん通称なのでしょうね。 石標の後に「庚申」碑 山門に向かって左側には、「日本最古 庚申尊」と刻された碑が建てられています。碑の上部には、三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)がレリーフされています。 山門を入ると、本堂に向かう参道の左手前に宝形造りの小堂があります。三方にはカラフルな球形上のものがびっしりと吊されています。正面上部に、「融通尊」と記された扁額が掲げてあります。 融通尊 この名称でネット検索して、いくつかのお寺のホームページを参照すると、如意融通宝生尊、如意融通尊、という名称が見られます。「融通さま」で親しまれている仏で、「融通」という言葉の由来になるそうです。境内の各所に吊されているカラフルなものはお守りで「くくり猿」と称されています。「くくり猿」は、「欲望のまま行動する猿の手足を縛ることで、わがままな自分の心を戒めるために作られたお守り」だとか。(資料3)余談ですが、このお守りについて、「ひとつひとつ手作りされていて、平日は100個、週末は300個の限定販売。なくなり次第終了」という説明を加えているサイトもあります。(資料4) 本堂の正面には「庚申堂」の扁額が掲げてあります。正面の扉は開いていますが、まるで衝立が置かれているように、様々なお守りがびっしりと吊されています。そのため本尊を見ることができません。ただ、本堂床面に、三猿像がこちらを向いて置かれています。江戸時代に出版された『都名所図会』は、「八坂庚申堂」の項で、「本尊青面(しょうめん)金剛にして長三尺五寸。大宝元年正月七日庚申に降臨し給ふ。日本三庚申中のその一なり。(摂州四天王寺・江戸浅草)脇檀に聖徳太子・大黒天を安置す。」(資料5)と述べています。 正面の階段手前に置かれた大型香炉・鼎を三猿が支える役割を果たしています。本堂床面に置かれた三猿像中の二躯が写っています。 拝所は唐破風屋根で、正面に鰐口が吊り下げてあります。鰐口の上部に円環が見えますので、鰐口の鼓面を打つための金の緒がたぶんもとは備えてあったのでしょう。木鼻はシンプルな造形です。 蟇股には、くくり猿のお守りを連想させる形が刻まれています。 こんな造形の蟇股も 拝所の左右、本堂正面の長押に額が掛けてあります。右側には「大聖歓喜天」、左側には7つの名称が記されています。「庚申青面金剛童子・天満宮・大辯才天女・大聖不動明王・大聖歓喜天・聖徳太子・浄蔵貴所」です。手許の資料には情報がありません。私はこの金剛寺に祀られている(/祀られていた)信仰対象が列挙されているのかなと推測しています。大黒天の名称がないのがちょっと不思議なのですが・・・・。現在は小規模な境内ですが、見るべきものは結構あります。 融通尊の小堂背後に石灯籠があります。 その火袋の各面に三猿が浮彫りに彫刻されています。 境内の西側にも石灯籠があり、この火袋にも三猿が刻まれています。 石灯籠の北隣りには、石仏のお地蔵さまを並べて祀ってあります。 その北側には、石造水槽が置かれています。手水舎に使われていたものかも・・・・。 水槽の北隣りに 干支を象った桟瓦が並べてあります。奉納されたものでしょうか。不詳です。 私はこの種の桟瓦を初めて見ました。また一つ、探求課題が残りました。 山門を入ってすぐ左側(東)だったと思いますがこの石碑が境内の隅に建立されています。 「青面金剛童子」と陰刻されています。つまり、庚申堂の本尊の名称です。過去の探訪経験で、「庚申」あるいは「青面金剛」と刻された碑を、数カ所で見ています。私は実像を未見ですが、路傍に立つ青面金剛の石仏像写真も見たことがあります。これらは「庚申塔」と総称されます。全国各地の路傍には、分布や密度にかなりの差があるようですが、庚申塔が祀られています。手許のいくつかの書を参照しますと、次のような説明があります。「青面金剛 庚申の日にまつられる夜叉(やしゃ)神」(資料6)「経軌に説かれる五帝夜叉のうち、東方をつかさどる青帝夜叉神を青面金剛と称する。悪病を流行させる神といい、このため病魔を退散させるために修される青面金剛法の本尊となる。」また『陀羅尼集経』中に青面金剛像の姿が記されている箇所が引用されています。(資料7)「庚申塔は『庚申』という文字を彫った石塔と『青面金剛』という忿怒形の密教的金剛童子を彫ったものとがある」(資料8)とあります。また、金剛童子については、「曼荼羅のなかの、金剛杵を持つ童子の姿をした忿怒尊で西方・無量寿仏の化身とされる。東密系の青色六臂の<青童子>と台密系の黄色六臂の<黄童子>がある。」(資料6)と説明されています。仏教経典の中に登場する青面金剛が中国の道教に取り入れられて、庚申信仰の本尊となり、それが日本にも伝来してきたという経緯があるようです。「庚申は中国の習俗として、十干十二支で年や日をかぞえる場合に、庚(かのえ)申(さる)に当たる年を60年ごとの庚申年とし、これに当たる日を庚申の日とした」(資料8)のです。中国の道教では、「人間の体には三尸虫(さんしちゅう)というものが棲んでおり、これが庚申の夜には体をぬけ出して天に上り、その宿り主の人間の60日間の行状を天帝に報告するという。そうするとたいていの人間は天帝の罰をうけるので、三尸虫が体からぬけ出さないように、一晩中睡らずに起きていなければならない。」そこで「庚申を守(も)る」または「守庚申」と言ったそうです。(資料8) 「日本では60日ごとの庚申の日に当番の宿に講中があつまって夜明かしをするのが庚申待ち」と称され、夜明かしで神をまつることを「待」と言ったそうです。貴族の間では「待」を話だけでなく詩歌管弦で過ごすようになり、庚申待が宗教行事でもなくなり遊びの口実に変容していくことにもなったと言います。(資料8) 『源氏物語』東屋の巻に、「よき若人ども集ひ、装束ありさまはえならずととのへつつ、腰折れたる歌合はせ、物語、庚申をし、まばゆく見苦しく遊びがちに好めるを」と記された箇所があります。「見目よい若女房が集まってきて、衣裳や身だしなみだけはなんともみごとにととのえては、下手な歌を合わせたり、物語や庚申の遊びに興じたりして、まともには見ていられぬくらいにみっともない有様で遊び事に熱中し風流がっているのを」と現代語訳される箇所です。(資料9) 清少納言もまた、『枕草子』の「五月の御精進のほどに」の中で「庚申させたまふとて」と、庚申にふれています。(資料10) 藤原道長は『御堂関白記』の寛弘元年六月七日庚申の条で、「御庚申待が有った。作文を行なっただけである。」と記録しています。(資料11) これらから、平安時代には庚申待が行われていたことがわかります。 山門を境内から眺めた景色です。 山門は高麗門の形式です。 桃を象った留蓋 お寺ですが、門が朱色に塗られているところはやはり特徴的な気がします。神仏習合が色濃く出ている印象を私は受けました。日本三庚申の一つに数えられるという大阪の四天王寺も伽藍は濃き紅色が基調になっていますね。屋根の棟の中央部に何かが置かれています。 正面からみると、三猿像です。なぜ三猿なのか。「伝教大師が三尸の虫に因み、天台の不見不問不言を猿に当てたものといわれ」ているそうです。(資料1)そして、この書の脚注にて、庚申待が「わが国では平安時代のはじめ頃、宮中においてすでにおこなわれた。庚申待は後世、申より猿を神使とする山王権現、また庚申塚より道祖神の信仰となり、仏教では青面金剛の信仰となって盛んとなった。」と著者は補足説明をしています。さて、この辺りで八坂庚申堂を後にして、「洛東を往く」を続けます。次の目標に向かう途中でのスポット探訪を重ねながら・・・・。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p174,1752) 夢見坂 :「坂のプロフィール」3) 金剛寺(八坂庚申堂) :「京都観光Navi」4) 「八坂庚申堂」とは?カラフルなくくり猿で京都一のインスタ映えスポットに!?営業時間や料金についても紹介 :「るるぶ&more」5)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p258,2596)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店7)『仏尊の事典』 エソテリカ事典シリーズ1 関根俊一編 学研 p2318)『石の宗教』 五来重著 講談社学術文庫 p179-2269)『源氏物語 6』 新編日本古典文学全集 小学館 p1910)『新版 枕草子 上巻』 石田穣二訳注 角川文庫 p13511)『藤原道長 「御堂関白記」』 全現代語訳 倉本一宏著 講談社学術文庫 p101補遺青面金剛 :ウィキペディア青面金剛 :「コトバンク」七福融通まつり (信貴山成福院) :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」和宗総本山 四天王寺 ホームページ小野照崎神社について ホームページ鰐口 :ウィキペディア庚申信仰 :「コトバンク」庚申信仰 :ウィキペディア【お城の基礎知識】高麗門 :「犬山城を楽しむためのウェブサイト」薬医門と高麗門 :「信州まちあるき」見ざる聞かざる言わざるの三猿の意味と使い方 :「おすすめ情報ランキングSite」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 崇徳天皇御廟
2022.05.10
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西洞院高辻から西洞院通を下り、五条通に出るつもりで歩いていました。万寿寺通と交差する辻の北東側には大泉寺、南西側にはマンションらしき建物。後で地図を確認しますと、こちらは八幡町です。このマンションの敷地の南東隅、西洞院通に面してこの小堂が目に止まりました。コンクリート造箱型の覆屋に鉄柵の扉が設けられ、その内部に、お地蔵さまの小堂が見えます。延命地蔵大菩薩と墨書した提灯が吊してあります。地蔵堂を確認するに留まりました。たぶん、マンションが建設される以前から、この辺りにお地蔵さまが祀られていたのでしょう。それでこの南東隅にきっちりとお地蔵さまが祀られたというところでしょうか。あくまで推測ですが・・・・。京阪電車の五条駅に出るつもりで五条通を東に歩き出しました。ふと思うと、京都駅に出てもそれほど歩く距離は変わらない。そこで方針変更。烏丸通の一筋西側の通りを南に歩くことにしました。普段は歩くことのない通りです。それが「諏訪町通」でした。後で地図を確認すると、室町通と烏丸通の中間にある南北の通りです。この通りは北端が高辻通、南端が花屋町通です。花屋町通は東本願寺の北辺の通りになります。五条通から南に2筋下がったところに神社が見えました。 北東隅の柱に、「諏訪町通鍵屋町下ル 鍵屋町」の住所標識が取り付けてあります。なつかしい仁丹のロゴが下端に付いています。 「諏訪神社」の石標と案内板 入口は黒木鳥居の形式で、ごく小規模な神社境内です。 鳥居の南側に駒札が設置されています。 鳥居を潜ると、右側に「忠魂碑」があり、その奥(西側)に手水舎があります。 左側に社務所があり、片流れの形でテントが参道上に設置されています。 拝所から、菱格子の扉越しに小ぶりな本殿が拝見できました。祭神は、案内板と後掲の駒札に記されています。建御名方神(たけみなかたのかみ)と八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)です。 征夷大将軍を拝命された坂上田村麻呂は蝦夷平定を為し遂げて801年に平安京に凱旋しました。御礼のために信州より諏訪大明神の分霊が勧請され、五条坊門の南に社殿を造営して祀られたのが、この神社の創始となるそうです。1864年の禁門の変(蛤御門の変)の兵火で社殿は灰燼に帰したと言います。孝明天皇より再建資金が下賜されて、1866年に神社が再建され今日に至るとか。 江戸時代に出版された『都名所図会』には「諏訪社」の項があり、「五条の南二町、諏訪町にあり。祭る所信濃国諏訪社と同神なり。」と簡明に記されています。面白いのは、その後に括弧付きで次の説明が補足されていることです。「(獣肉を喰ふものこの社の神箸(しんちょ)をうけて食す。汚穢(けがれ)なしとぞ)」(資料1)諏訪町通という名称はこの諏訪神社のあるこの地域の町名に由来するようです。「京都古地図」(1864年)を参照しますと、五条通から南には、「スワノ丁、下スワ、上柳丁、下田丁」と通り上に記され、下スワの西側の区画が色づけされて「スワノ」と記されています。これが当時の諏訪社ということでしょう。(資料2)『都名所図会』の脚注には、諏訪神社の所在地を下諏訪町と説明してあります。(資料1)現在の地図では、五条通から南に、上諏訪町・諏訪坊町・鍵屋町・下諏訪町・上柳町という町名が連なっています。ある時点で地名が変更されたということかもしれません。不詳です。 小さな境内ですが、弁財天を祀る小社が傍に設けてあります。普段歩く事のない通りを歩けば、神社に出会う。坂上田村麻呂という名前にこんな所で出会うとは思いもしませんでした。 これは七条烏丸の交差点脇に設置されている観光案内地図です。 部分図を切り出しますと、位置関係がおわかりいただきやすいでしょう。この地図では上辺が南で、下辺が北になります。諏訪町通を南進すると東本願寺に突き当たりますので、花屋町通を通って烏丸通に出て、京都駅を目指します。 京都駅前ビルの正面に、京都タワーが映じていました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1562) 「京都古地図」 元治元(1864)年 竹原好兵衛(京都) 所蔵地図データベース :「国際日本文化研究センター」補遺坂上田村麻呂 :ウィキペディア信濃之国一之宮 諏訪大社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・山科 勧修寺・西野山を巡る -1 勧修寺宮墓地・藤原定方墓・醍醐天皇御母小野陵・坂上田村麻呂墓・中臣遺跡
2022.04.28
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五条通を西に歩み、右折して西洞院通を北上します。 松原通西洞院に「五条天神社」があります。西洞院通に東面する形で石鳥居が立ち、四脚門と「五條天神宮」碑が見えます。松原通がもとの五条通ですので、五条天神という名称そのままです。 石鳥居を潜り、門を入ると、境内の正面に社殿が見えます。 拝所に近づくと、「五條天神」の扁額が掲げてあります。 拝所から眺めた本殿以前に、「探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -2 五条天神社、管大臣神社」としてご紹介しています。五条天神社自体については、こちらからご覧いただけるとうれしいです。あまり重複しない形で補足として書き加えます。 門を入ったすぐ左に手水舎があります。 社殿の南東隅手前に、この碑が立っています。この「皇國醫祖の碑」(皇国医祖の碑)は以前にご紹介しています。 今回、この案内が掲示してあることに気づきました。 読みづらいかも知れませんが、説明文を部分拡大してみました。 社殿の南西隅の近くに、「筑紫天満宮」の提灯を吊した小社が勧請されています。 松原通に面した門(北門)です。 門の傍に設置されたこの案内板の説明がご紹介事項と関係しています。 駒札の一部西洞院通の石鳥居の南側に立つ駒札の説明にも関連する記述があります。五条天神社は当初「天使の宮」(天使社)と称されていたと言います。ここがキーポイントなのです。また、駒札には「創社の頃は社域も広く」と記されています。江戸時代に出版された『都名所図会』の「五条天神宮」の項に、「古は宮殿巍々として東西四町、南北五町の神領なり。巡りには樹林森々たり」(資料1)と説明されています。それほど大きな社域が広がっていたのでしょう。さてそこで、現在の地図を見ますと、南北方向の西洞院通の西側2筋目が油小路通です。その中間に、北端が仏光寺通で南端が七条通までという1本の道路が通っています。手許の地図並びにネットのMapion地図には、この通りの名称が載っていないのですが、「東中筋通」と称するそうです。五条天神の北門を出て、松原通を西に進みます。 通りの左側(南側)に宝形造の屋根の地蔵堂が目にとまりました。 格子扉越しに内部を拝見すると、お化粧されたお地蔵さまが見えました。地蔵堂の少し先で左折して東中筋通を南に下ります。 五条通の少し手前まで一旦下り、この通りを引き返しました。南から北方向を眺めた景色です。 通りの東側に駐車場があります。そこに記されている地名が「天使突抜(てんしつきぬけ)」です。この奇妙な地名の現地を歩いてみるのがここに来た目的です。この地名にはあの豊臣秀吉が絡んできます。秀吉は京都の周囲に御土居を築くとともに、都の大改造を行いました。五条通を付け替えたのもその1つです。秀吉は都市改造の一環として、西洞院通と油小路通の間に、南北の通りを作ったのです。それが東中筋通になります。この道路は、このあたりに広大な社域を所有していた五条天神社つまり天使社の社域を突き抜ける形で設けられたのです。「天使突抜」という地名はそこに由来すると言います。(資料2,3)現在の地図を見ますと、五条天神社は天神前町に所在します。松原通の南北を挟んで町域が形成されています。松原通を左折し東中筋通を南に下ると、天神前町の南隣りが「天使突抜1丁目」、万寿寺通を境にその南側が「天使突抜2丁目」です。五条通を横断して南に下がると、さらに3丁目、4丁目が続きます。六条通が4丁目の南端になります。元治元年(1864)に出版された「京都古地図」(竹原好兵衛[京都])を見ますと、五条天神の西側の通り上に、松原通の北側に「天シツキヌケ」、南側に「一丁目」、さらに南に「二丁メ」「三丁メ」そして「金福寺」の西側に「四丁メ」の表記があります。(資料4)高辻通に出たいので東中筋通を北に上ります。 まずは天神前町まで戻り、さらにそのまま北上します。天神前町の北隣りが舟屋町、その北が高辻通の南側と北側を合わせて町域とする永養寺町です。 東中筋通を上り、高辻通に至る手前で見た掲示板の住所表記です。高辻通と油小路通を軸にして町名の表記が行われています。東中筋通という通り名が出て来ないのがおもしろい。京都の町中、洛中では、東西と南北の主要な通り名を軸としてその交点を述べて、そこから東(西)入ル、あるいは上(下)ルと説明する方がわかりやすいのです。町名すら知らなくても、場合によっては目的地付近までは十分にアプローチできます。例えば、大丸京都店なら四条通高倉西入ルです。高島屋京都店なら四条通河原町西入ルです。京都文化博物館なら三条高倉という具合です。勿論、それぞれ町名はありますが、意識したことがありません。今回は、おもしろい地名のご紹介でした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1582) 京都難読地名のひとつ「天使突抜」。その由来になった「五條天神宮」とは・・・?! :「ことりっぷ co-Trip」3) 天使突抜 秀吉のごり押しでできた地名? :「京都ブログガイド」4)「京都古地図」 元治元(1864)年 竹原好兵衛(京都) 所蔵地図データベース :「国際日本文化研究センター」補遺五条天神社 :「京都観光Navi」京都文化博物館 ホームページ トップページの最下段の住所表記をご覧ください。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.04.26
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京都国立博物館を出た後、運動不足の解消を兼ねて、少し京都の町中を歩いてみました。思いつきでのタウン・ウォッチングですので、いくつか個別にご紹介します。七条通を西に進み、今までに歩いた記憶がない鞘町通を五条通まで北上することにしました。鴨川に沿った川端通からは一筋東の通りです。通りを北上して行き、初めて知ったのは、西側に京都美術工芸大学の京都東山キャンパスがあることです(上堀詰町)。ここに大学のキャンパスがあることを今まで意識していませんでした。その先で、正面通を横断します。西に左折すれば鴨川に架かる正面橋。東に右折すれば道幅が段階的に広がり、耳塚を右に見ながら、豊国神社の石鳥居の前に至ります。かつてなら、方広寺の正面に至る道だったことでしょう。 通りの右側に小堂が見えました。 お地蔵さまのお堂です。格子扉越しに内部を拝見すると、内扉があり閉まっています。残念ながらお地蔵さまは見えません。正面通より幅の広い道路を横断します。 西方向の眺め。この道は川端通に合流するだけ。東に行けば本町通に合流するT字路で、本町公園に突き当たります。後で地図を確認すると、豊浦町・大阪町・鞘町1丁目を経て、五条通に出ます。五条通に至るまでに、 「地蔵大菩薩」の扁額がお堂の屋根より上に見える地蔵堂があります。 ここも、格子扉越しに内部を拝見すると、内扉がありました。お地蔵さまは見られず。 五条通に出る手前に、もう一つ地蔵堂がありました。こちらは地蔵堂に覆屋が設けてあります。これは比較的まれな形だと思います。 ここも、残念ながら内扉を設けた地蔵堂です。お地蔵さまは見られず。この形式の地蔵堂が3連続するのに出会うのは初めての経験です。五条通で左折し南側歩道を西に進みます。 川端通に出る前に、一筋南方向に延びる道路がありました。後で地図を確かめると「問屋町通」です。正面通が南端で、五条通が北端となる南北方向の道路です。五条通を越えた北側は「宮川町通」と名前が変わります。京都・五花街の1つ、宮川町の南端です。宮川筋4丁目まで北上すれば、「宮川町歌舞練場」があります。 五条大橋東詰、北側にはこの案内板が設置されています。五条大橋は、以前にご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 五条大橋を西に渡ります。 五条大橋上で北を眺めると見えるのは「松原橋」です。かつては、この松原橋の架かる通りが五条通でした。豊臣秀吉が京の都の大改造したときに、五条通を南に付け替えてしまったのです。そしてもとの五条通を松原通と改称しました。江戸時代に出版された『都名所図会』は明確にこの点を説明しています。「五条橋 は初めは松原通にあり。則ちいにしへの五条通なり。秀吉公の時この所に移す。故に五条橋通といふ。実は六条坊門なり。欄干には紫銅(からかねの)擬宝珠左右に十六本ありて、北の方、西より四ツ目に橋の銘あり。」(資料2)六条坊門小路が五条橋通となり、ここに石橋が築造されました。西詰には、現在「五条公園」が整備されていて、石橋の橋脚の一部が保存されています。西岸に見える和風建築は京料理の老舗「鶴清」という料理旅館です。 鴨川の流れに沿って、すぐ西側にあるのが「みそそぎ川」です。五条から三条にかけて、夏季にはこのみそそぎ川の上に「納涼床」が設けられます。今では常設の川床を設けているお店もありますが。 地図を見ますと、鴨川の西岸に整備された鴨川公園の下の暗渠を経て、二条大橋の北、末丸町で姿をみせるみそそぎ川が、二条・御池・三条・四条と南下して、この五条大橋西詰が南端となり、鴨川に合流します。「『みそそぎ川』の名の由来は、古くから鴨川そのものが「みそぎ」をする川でありそこからきているのではないかともいわれています。(京都府河川課編集発行「わたしたちの鴨川」から)」(資料3)序でに「『みそそぎ川』は鴨川の河川区域西側を流れる水路で鴨川の一部です。その水路を鴨川とは呼ばずに”あえて”「みそそぎ川」と呼んでいます。」(資料3)とのことです。今回少し調べてみて、私自身、初めてこのことを知りました。それでは、みそそぎ川の始点はどこなのか? 賀茂大橋下流に取水口があるのです。そこを始点に鴨川公園の園路の下がトンネルになっています。そして上記の説明にリンクします。(資料3) 五条大橋の西詰、北側には「扇塚」が設けられ、「扇塚の記」という説明碑も設置されています。「扇塚の記 扇は平安時代の初期この地に初めて作られたものである。ここ五條大橋の畔は時宗御影堂の遺趾であり、平敦盛没後その室、本寺祐寬上人によって得度し蓮華院尼と称し、寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている。 この由緒により、扇工この地に集り永く扇の名産地として広く海外にまでも喧伝されるに至った。いまこの由来を記して、これを顕彰する。 昭和35年3月15日」(転記)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 鶴清 京料理 鴨川納涼床 ホームページ2)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1333) 鴨川真発見記<37から42> :「京都府」 みそそぎ川に流れる水は何処から?(第38号) 補遺京都美術工芸大学 ホームページ豊国神社 :「京都観光Navi」京都 宮川町 公式ホームページ京都・宮川町の歌舞練場 ホテルと一体となって再開発へ 芸舞妓をホテルのレストランに招くプランも YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -4 京都大神宮、天野屋利兵衛、五条大橋、河原院跡探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -1 五条大橋、本町通を南へ探訪 方広寺と豊国神社、そして京博の庭から探訪 京都・東山 豊国神社 ふたたび -1 唐門・石灯籠・社殿ほか 2回のシリーズでご紹介。
2022.04.25
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黄檗山萬福寺の周辺として、萬福寺の東側は巡っていませんでした。そこで、別の日に図書館に行った時に、立ち寄ってみることにしました。これで萬福寺の四周を巡ったことになります。「黄檗霊園参道」道標の位置から始めます。北側を巡る時に触れています。この坂道を上ると突き当たりに「東宇治コミュニティセンター」があります。その中に東宇治図書館があり、しばしば訪れている図書館です。坂道を登り切ると右折して道沿いに進みます。 初めて気づいたのですが、このコミュニティセンターの南東隅に「黄檗山北界」の石標が立っていることでした。右折してさらに坂道を上るのですが、この道路が黄檗山の寺地の北辺なのですね。坂道の右側は幾つか黄檗霊園に入る石段道が設けてあります。 右折して坂道沿いに進み、ほぼ上り詰めると、右手前方に駐車場があり、その奥(東)に、黄檗山の境内東辺へのオープンな門(左の画像)があります。そこから振り返ると、駐車場の西に黄檗霊園の門がみえます。黄檗霊園の正門です。 黄檗山の山内への門を入りますと、ほぼ正面前方に、「メモリ-・ガーデン」が見えます。この辺りは以前にご紹介しました。 東辺に下る坂道坂道を築地塀沿いに南方向に下って行きます。築地塀が途切れて、開口部が設けてある境内地が右側に見えます。 境内地に入り、お堂を眺めると、そこが「威徳殿」(重文)です。元禄14年(1701)に建立されたそうです。 「徳川家の霊碑を祀っています。当山開基の大檀越である大将軍厳有院殿正一位徳川四代将軍家綱公の命日には、厳有忌が毎月行われています。」(資料1)桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、本瓦葺の建物で、前面に一間の向拝がついています。背面突出部があり桁行一間、梁間二間で寄棟造です。「伽藍の配置や堂舎の建築様式は、中国の明代末期から清代初期の仏教建築の影響を受けたもので、近世建築史上価値が高い」(資料2)そうです。 屋根を眺めますと、鬼板には三葉葵(徳川)の紋がレリーフされています。 坂道に戻り、少し下ると左(東)に「納骨堂」が見えます。 その屋上には、石造観音菩薩坐像が建立されています。基壇が納骨堂を兼ねているという方が相応しいのでしょうか。 その南側には、手前に「京都華僑墓地」の石標が立ち、 右斜め奥に「京都華僑霊園」の大きな門が見えます。門からは石段が真っ直ぐに丘陵斜面に延び上がっています。この石段を中央にして、丘陵斜面の南北に墓所が広がっています。以前に、こちらの霊園も拝見したことがあります。その時は、丘陵地の頂部側の出入り口から霊園を訪れました。その時初めて見る墓所の姿に異国情緒を感じた次第です。 「京都華僑霊園整備完成祈念碑(1989年~2004年)」 門の南側に「漢松堂」の扁額を掲げた建物があります。参道の両側は生垣です。松尾恒一氏の論文を参照しますと、この漢松堂には楊柳観音が祀られています。法要が行われた後で、「下げられた供物と供物に準じる酒食が用意され,子どもも交えた華僑の人々一同での食事となる」場所としても利用されるようです。(資料3)日本での法事の後に会食の席を設けるのと同じ主旨なのでしょう。萬福寺の東側に位置するこの京都華僑霊園は、京都華僑墓地委員会が運営・維持管理されているそうです。(資料4) 漢松堂前の参道から北を眺めた景色 漢松堂側の参道から西方向を眺めた景色 萬福寺境内との境界となる築地塀 威徳殿から下ってきた道路に戻り、南の方向に目を転じればに塔頭「長松院」が見えます。これで、前回のご紹介と萬福寺の周辺がリンクしたことになります。 上掲の築地塀傍から、遠望した萬福寺雄宝殿(本堂)の屋根です。大棟中央には火焔付き、二重の宝珠が置かれています。(資料1)これで黄檗山萬福寺とその周辺の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p312) 萬福寺 威徳殿 :「文化遺産データベース」3) 「日本華僑の共同墓地と后土・土地神の考察」 松尾恒一 p221 国立歴史民俗博物館研究報告 第199集 2015年12月 4) 京都華僑墓地委員会 :「京都華僑総会・京都華聯旅行社」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗霊園 :「(有)山本石材店」京都黄檗山華僑霊園 :「Life」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -2 萬福寺の放生池と三門ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -3 萬福寺の北周辺:獅子林院・真光院ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -4 青少年文化研修道場・慈福院 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -5 緑樹院、別峯院 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -6 聖林院、長松院、瑞光院、法林院、東林院ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -1 霊園のツツジ、北向地蔵尊、宝蔵国師開山塔と諸石塔探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -2 釈迦涅槃像を拝せる「黄檗の碑」観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて
2022.04.09
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別峯院前から道沿いに北に進めば、十字路に至ります。右(東)を眺めると、赤い幟が目にとまりました。「みみづく地蔵尊 心願成就」と記された幟です。 萬福寺の総門と同形式の表門です。「聖林院」の扁額が門扉の上部に掲げてあります。 塔頭の北東側から眺めた全景です。 門前の右側で道路傍に「みみづく地蔵尊」が鎮座します。基壇の正面には、地獄から天上界までの名称が、六道輪廻として刻されています。こういうのもまた初めて見た形式です。みみづく地蔵尊はこの聖林院が発祥の地で、黄檗宗長岡山中央寺(和泉市)と徳蔵院(奈良県香芝市)にもいらっしゃるとか。(資料1) 竹垣には「お参りのしかた」についての説明板と真言が掲示してあります。 聖林院は慧極禅師の開基により寶永7年(1710)に創立されたそうです。明治8年(1875)に現在地に移転しました。(資料2)慧極道明禅師は、木庵禅師の印可をうけた長門(山口県)出身の日本僧です。「河内(大阪府)法雲寺をひらき,のち江戸瑞聖寺3世。元禄5年長門(山口県)萩藩主毛利吉就にまねかれ,東光寺をひらいた」そうです。(資料3)道路沿いに東へ坂道を進めば、右折した先はかなりひろい駐車場です。この駐車場の北東側に 塔頭「長松院」が位置しています。(前回ご紹介した緑樹院の東側に黄檗公園プールがあります。その東側の道路を北に入ると、この萬福寺駐車場に南から向かうことになります。) 長松院は鉄牛禅師の開基により延宝6年(1678)に建立された塔頭ですが、現在の長松院は平成元年(1989)に再興されたと言います。(資料2)鉄牛道機禅師も長門(山口県)の人で、長崎崇福寺で木庵禅師の法をつがれたそうです。「相模小田原紹太寺,江戸弘福寺などをひらく。鉄眼道光の黄檗版大蔵経の刊行をたすけ,下総椿海(千葉県)の干拓事業にもつくした」人です。(資料4) 門前傍の案内板 長松院の西側に見える萬福寺境内内の建物。駐車場側の桜が満開。 道を引き返し、聖林院前から十字路まで戻ります。十字路の南西角にこの築地塀が見えます。西に少し進みますと、 塔頭「瑞光院」です。 門前の右側に「玉青苑」と刻された碑が立っています。 門前に立つと、正面に見える建物です。2階の円窓と白壁がいいですね。瑞光院は即非禅師の開基により、寬文5年(1665)に建立された塔頭です。明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料2)即非如一禅師は中国僧で、生国は福建省福州の人。「準世代」と位置づけられる3人のうちのひとりです。(資料2)1650年に隠元禅師より印可を受け、1657年に来日。長崎崇福寺に住し、福岡の福聚寺を開山されています。木庵禅師と即非禅師は、「二甘露門(かんろもん)」と称されたそうです。(資料5) 門前から境内の左(東)方向を拝見すると、奥の方に広がる庭園が見えます。 滝の石組みが遠望できますので、この庭園が「玉青苑」と称されているのでしょう。建物に対して少なくとも鍵形に築庭されているのではと推測します。 右側には、筆塚が建立されています。向かって右側の門柱に、右方向の赤色矢印付きの案内板が立て掛けてあり、「黄檗開山隠元禅師念持仏 持咒感霊祥 佛母準堤観世音菩薩」と記されています。右方向には出入口があり、自由に拝観できるようでしたので、通路を歩み、お堂前の拝所から拝見しました。 お堂の正面の奧、内陣に「佛母準堤観世音菩薩」が安置されています。 ふと、見上げるとお堂の天井に龍が描かれています。 左右の鴨居には、天女を描いた額が掛けてあります。 お堂前面の桁には、扁額が掲げてあります。私には文字を判読できません。残念!道路を挟んで北側、ここは十字路の北西角になります。 塔頭「法林院」です。 門前から眺めた正面の景色 門前から左右を眺めると、庭がひろがっています。法林院は喝禅禅師の開基により寬文9年(1669)に建立された塔頭ですが、明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料2)喝禅道和禅師は、中国僧で生国は福建省福州の人。元禄10年(1697)伏見に善福寺を創立されたと言います。(資料6)法林院は十字路の北西角地に位置します。この十字路を北方向に少し歩むと、黄檗山萬福寺の境内地に入ってしまうようです。大きな鉄柵の門扉が設けてあります。 道沿いの北東方向、道路の北側に表門が見えます。 手前の一角が、塔頭「東林院」です。門扉近くから塔頭を眺めるに留まりました。東林院は、大眉禅師の開基により、寬文2年(1662)に建立された塔頭ですが、明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料2)大眉性善禅師は中国僧で、生国は福建省温陵の人。隠元禅師に随行して来日されたそうです。(資料6)瑞光院・法林院から少し先に、 「全日本煎茶道連盟」の木札を掛けた建物が見えます。 建物の西側には、北方向への通路が窟門まで続いていますが、この景色を撮った位置に鉄柵の門扉が設けてあり、この通路側は萬福寺の境内地です。左(西)側の築地塀の先に見えるのが「文華殿」。右(東)側の建物の背後、北東側に、「有聲軒」や「売茶堂」が位置することになります。ここでも、萬福寺の境内とつながりました。 なぜ、黄檗宗の数多くの塔頭が明治8年に現在地に移転したのか?「明治の初期に陸軍省の火薬貯蔵庫建設用地として、寺地の大半が接収され、多くの塔頭は移転・縮小を余儀なくされた」(資料2)という背景があったのです。現在の地図をご覧いただくと、萬福寺の南には、黄檗公園が広がっています。このあたり一帯がたぶん接収された寺地に相当するのでしょう。余談ですが、黄檗公園プールの北側の道路から萬福寺駐車場/長松院に向かう途中、東側に、「旧陸軍火薬庫の土塁とトンネル」の遺構が保存されています。これで萬福寺南側周辺の塔頭巡りを終わります。萬福寺の東辺を後日訪れています。次回、少しご紹介します。つづく参照資料1) みみづく地蔵尊 :「黄檗宗長岡山 中央寺」2)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p433) 慧極道明 :「コトバンク」4) 鉄牛道機 :「コトバンク」5) 即非如一 :「コトバンク」6) 黄檗東渡僧宝伝 :「国立国会図書館デジタルコレクション」補遺黄檗山塔頭 聖林院 ホームページ禅宗[黄檗宗]吉祥山 徳蔵院 ホームページ黄檗宗護国山 東光寺 ホームページ【県指定】広寿山福聚寺 :「北九州市」崇福寺 :「ながさき旅ネット」准胝観音 :ウィキペディア准提観音経 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -2 萬福寺の放生池と三門ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -3 萬福寺の北周辺:獅子林院・真光院ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -4 青少年文化研修道場・慈福院 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -5 緑樹院、別峯院 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。
2022.04.08
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