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久々に瀬戸内さんの小説を読みました。その前に読んだ『謡曲 平家物語』では、白洲さんは世阿弥の作品のことを書きつつ、あるいは世阿弥そのものに迫って、なぜ平家物語を題材することが多かったかを解き明かしています。白洲さん、そして瀬戸内さんという、女性として、いい男を知り尽くしているお二人が、これほどまでに入れ込む世阿弥という人についての尽きぬ魅力を、この瀬戸内さんの小説で垣間見たように思います。作者である瀬戸内さんが冒頭に語り、そして世阿弥の語りとなり、最後は世阿弥の晩年の地、佐渡で遣えた沙江の語りとなっています。そしてもしかしたら、沙江は瀬戸内さんの化身なのかもしれないと、まるで能舞台をみるような変化がまた味わい深いのです。60歳で出家している世阿弥と重ね合わさる瀬戸内さん自身の人生。作家として、物を書くということの終わりのない探求。全部仕上がるまでに3年以上かかったそうですが、魅力ある味わい深い作品です。世阿弥と言う、この上なくいい男。男をも魅了してやまない男、そして女には限りなく優しい、知性と才能にあふれた、美しき日本の男、それはもう、イケメンなんてもんじゃない、絶世の美男子だった世阿弥にぜひお会いしてみたかったです。いくつか体験した能の舞台を思い出しつつ、また謡いの美しいリズムの流れに乗りながら、あっという間に読んでしまいましたが、とても爽やかで、至福感を味わえる小説です。これを機に、能の世界にふれてみていただくといいのかもしれません。能は人々に至福感をもたらすためにあるという、いかにも日本的な真髄を体験できる芸能なのですから。「秘すれば花」この言葉に秘められた美しき日本人の魂をぜひとも取り戻したいですね。
2008.01.21
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「能の物語」「お能・老木の花」に続く白洲正子さんの『謡曲平家物語』は、世阿弥という人が創り上げた、平家の人々への鎮魂歌としての謡曲の魅力を余すこと無しに伝えてくれます。白洲さんの語る能の世界は、幽玄の世界、世阿弥の世界でもあるのですね。非常に面白かったのが、白州さんは、幽霊を創り上げたのは世阿弥だとおっしゃるんですね。死霊、生霊、悪霊の類ではなく、夢幻能の幽霊を作品で創り上げたというのです。能の世界に実際に生きている本人を登場させるよりも、幽霊として登場させ、その幽霊が語ることで、生々しい描写はベールが覆われたように美しく表現され、そして最後にはその幽霊が成仏し、幸せになっていくことが能世阿弥の能物語の特長だということなんです。世阿弥の独壇場ともいえるこの幽玄の世界、非常に美しく、はかなくそしてあわれです。また世阿弥の出身地である伊賀と平家の関連性を示し、世阿弥が世に残した多くの平家の人々への鎮魂歌を読み進めていくと、おのずと世阿弥その人と、能への理解が深まってきます。今回の謡曲平家物語は上に上げた二冊の本とは違う側面から能の世界を理解できたような気がします。世阿弥その人への深い洞察と理解が素晴らしいです。まだまだ能の世界にほんのちょっと踏み入れただけですが、この能の世界を少しずつ理解してくことで、日本人に受け継がれている深い魂を呼び覚まされる気がして、心豊かになるひと時です。白洲さんの本はいつもいつも懐かしき、日本人の魂に触れる場所へといざなってくれる貴重な本なのです。どうぞ皆様もぜひお読みになってみてください。
2008.01.15
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今、未成年のケータイに強制的にフィルタリング導入を促進するための施策が行われようとしています。1月から新規の18歳未満のケータイ加入者にはデフォルトでアクセス制限が掛けられます。インターネットの有害情報が青少年を犯罪に巻き込む、そしてその事件がケータイを中心に起こっているということで考えられたことです。しかしこの一律のアクセス制限で、実はケータイ小説などを投稿できるホームページや日記やSNSなどのコミュニティサイトも有害サイトとみなされフィルタリングされてしまいます。このフィルタリングは、確かに子供たちを危険なものから守るという手っ取り早い施策ではありますが、事実上のインターネットへのアクセス制限でもあり、子供たちはやっと見つけた一筋の可能性さえも絶たれたと感じるのではないでしょうか。このままでは、数年後、もっと凶悪な犯罪が地方都市で起こるような気がしてなりません。大人たちが子供たちの未来をちゃんと考え、誇りや希望を持って生きていけるような社会を創っているなら、インターネットのアクセス制限をかけてもいいのかもしれませんが、現在のところ国の施策は子供たちにとって良い社会、希望のある社会を創っているようには思えないのです。格差社会は広がる一方です。今回のアクセス制限の施策は、もしかしたらこの情報化社会の先に生まれつつある新しいより良い世界という、子供たちが希望に感じる一筋の可能性が絶たれる気がして、asomeは残念でなりません。このフィルタリング対策というある種強制的アクセス制限を行う前に、もっとインターネット教育、Webリテラシーの教育を普及させるような政策が取れなかったのだろうかと大いに疑問に思います。今回の携帯フィルタリングについてのニュース記事を読んでいると、教育界も、携帯事業者も、総務省も、家庭も、サービス提供者もそれぞれがこの教育については及び腰で、互いに責任を押し付けているように感じます。どの立場の人にも、「本当に子供たちの身になって考えているのか」と投げかけたいです。自分たちの責任逃れだけなんじゃないかと。大人が混乱して、責任逃れをして、強制的に子供たちを制限すると、必ずや反動が生まれます。そのことがどのような結果を産むか、どの立場の大人たちもよくよく考えなければなりません。子供たちよ、どうか一筋の希望を失わず、賢く生きて行って欲しいと心から願います。ケータイ小説から少し話題がそれましたが、このテーマは今後の日本の将来に影響の大きいテーマであり、多くの大人たちが知恵を絞っていかなければならないことだと考えています。大人たちこそ賢く、そして本質を見抜き、未来の子供たちのためにしっかりと方向を示すよう動いていかなければならないのではないでしょうか。
2008.01.08
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最近になって、ケータイ小説について、多くの人たちがブログに書いています。だんだん骨太の分析がされるようになりとても読むのが楽しみになってきました。たとえば、猪瀬さんの『ケータイ小説をなめてはいけない』http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/inose/071211_20th/佐々木尚久さんの『ソーシャルメディアとしてのケータイ小説』http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2007/12/20/entry_25003250/雑誌文学界では特集『ケータイ小説は文学を殺すか』海部美知さんの『「銃乱射事件」と「ケータイ小説」の間』http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20071221/1198270733などなど。ケータイ小説が話題になり始めた初期の頃、悪貨は良貨を駆逐するとのたとえのように、ケータイ小説が悪貨と例えられました。ケータイ小説はお話にならないくらいレベルの低いものであるという言説から、少しずつちゃんと分析されるようになり、しっかりと語られるようになったなあという気がしています。11月にはいって、映画「恋空」のヒットは映画界にも衝撃が走りました。どうやらケータイ小説が底に秘めている力を無視できない状況になってきたのかもしれません。しかし世の大人たちにとっては、この『恋空現象』は全く理解が出来ない現象だったわけですね。このケータイ小説や「恋空」の映画は都心よりも地方での売り上げが良いということで、「ケータイ小説の文化を支えるのが地方の子供たちの閉塞感」であるという見方がされています。確かに地方は娯楽が少なく、やることもなく、未来にも希望が持てず、閉塞感が充満していると考えられます。最近では地方発の凶悪犯罪がニュースをにぎわしているというアメリカや日本の状況は、なるほどとうなずくものがあります。しかしasomeが思うに、確かに日本の地方都市の子供たちには未来への希望が持てない状況なのかもしれないのですが、ただそのことを紛らわすためにケータイ小説を読んだり書いたりしているのではないと思うのです。地方都市と都会ではやはり地域格差があります。その地域で生まれたということは、現在の都会中心の文化の場合、東京で生まれた子供たちよりずっとハンディがあります。子供たちにとって、最もそのハンディを感じさせないのが、このインターネットの世界なのではないでしょうか。インターネットにもともと国境はありません。地域差もありません。ある意味平等に人々に開かれた世界です。現在のCGMやUGCを支えるのは地方都市の子供たちという状況であるのは、そのことを考えると当たり前なのではないかと思います。娯楽がないということだけではなく、彼らにとってはもっともインターネットの世界は地域格差を感ずることなく活躍できる新しい可能性のある世界なのです。
2008.01.07
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