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海上保安官でヘリコプターのパイロットをされている森公博さんという人がいる。2004年台風で大型帆船が富山で座礁した。167人全員の救助に成功したのも森さんの操縦技術が活かされていた。ヘリコプターでの海難事故は悪天候の中で発生することが多い。視界も悪く、強風吹きすさぶ中で人命救助に当たっておられる。下手をすればヘリコプターが墜落して、自分だけではなくクルー全員の命が失われるという危険極まりない仕事である。ヘリコプターの操縦で一番難しいのはホバリングである。これは機体を一定の場所に静止させる技術である。荒海に出て、遭難した船の上でじっと停止できないと仕事にはならない。ところがこのホバリングはとても難しい。強風が四方八方、上から下へ、下から上へと吹き抜けている。強風に合わせて常に出力を上げたり下げたり、絶えず風の変化に合わせて機体を静止させるのである。基準となる目印を見つけて、五感をフルに研ぎ澄まし、ミリ単位の操縦である。手や足だけではなく全身を使って操縦されている。訓練では1時間30分もホバリングを続ける。つまり体力勝負である。緊張する時間が長いので強い精神力も要求される。そして何よりも高い操縦技術が必要である。体力、精神力、技術の3つのバランスが取れていて、しかも高度に訓練していないと仕事にならない。我々はここから何を学んでゆけばよいのか。森田では自然の変化に対応することが大切だという。自然の変化に対応するというのは口で言うのは簡単だ。しかし実際には強い意志、体力、森田理論の深耕などで自分を磨き続けるということが不可欠なのである。
2014.11.30
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森田理論に、チャンスの神様には前髪はあるが後ろ髪はないというのがあります。チャンスがある時は、やれる自信があるとかないとか関係なしに素早く捕まえないといけない。よく考えてからと思っているとせっかくのチャンスが逃げて行ってしまう。せっかくのチャンスが与えられたら引き受けてみるという態度が必要です。その後おもむろにやり方を考えればよい。それと関連して、九州でアイガモ農法による稲作をされている古野隆雄さんがこんなことを言う。私はアイガモ農法にたどり着くまでに10年かかりました。それまでにニシキゴイ、カブトガニなどに挑んできましたがことごとく失敗しました。でも数々の失敗のおかげでアイガモ農法を見たときに、瞬間的に「これはいける」と確信しました。そういうひらめきがありました。これは数々の失敗をしながらも、常によい方法を模索していたからこそ目の前に現れたチャンスを素早く捕まえることが出来たのだと思います。失敗は文字通りの成功の母だったのです。失敗が次の成功の肥やしになっていたのです。日照りの時、根を地中深くに張っている植物と同じです。アイガモ農法は、雑草退治、肥料効果、害虫防除、稲への刺激効果のみならず、アイガモ肉の収穫もできます。一石二鳥どころか一石万宝ですといわれています。外国ではカモ、アヒルはどうしようもない鳥のように言われています。レームダックとか言われます。これは役立たず、死に体という意味です。マレーシアでは「彼はアヒルのような人だ」といわれると「何でもできるけど、どれも一流にはなれない」という意味です。泳ぐことも、走ることもできるけど、どれも中途半端だというのです。でもこのアイガモを見てください。器用貧乏かもしれませんが、それがむしろ長所になっているような感じがします。一旦田んぼに放つといかんなくその存在価値を発揮しているではありませんか。森田理論の存在価値を見つけて、高めていくことに通じるところがあります。どんな人でも存在していることに価値がある。その価値を認識して、活かしていくことが出来るようになると素晴らしい生き方に変わってきます。
2014.11.29
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東京下町で助産師として働く神谷整子さんという人がいる。この方がNHKのプロフェッショナル仕事の流儀で語られた言葉に感心した。赤ちゃんはお母さんが自分自身を受け入れた時に生まれてくるといわれるのだ。この言葉は森田でよく耳にする言葉だ。普通女性は出産に備えて、いろいろ本を読んだり、自分の母親や友人などから予備知識を持っています。でも知識はある程度必要ですが、一旦それらの知識を捨ててもらわないと出産はうまくいかない。出産が近づいてくるにつれて痛みが出てくる。その痛みも半端なものではない。体が溶けてなくなりそうな痛みだ。格好など気にしていられなくなる。その自分の最も弱く、みっともないところをさらけ出さないと、赤ちゃんは生まれてきてくれないのである。どんな自分でもいいと自分を受け入れた時にはじめて赤ちゃんは生まれきてくれるのである。この話は我々神経質性格を持ち、自分自身を受け入れることが出来なくて、葛藤や苦悩を抱えている人にとってはとても参考になる。私たちは自分の存在、性格、容姿、境遇、能力、才能などに不満を持っている。それらを「かくあるべし」でいつも価値判断している。また人目につかないように取り繕ったり、隠したりしている。つい人と比較して、人をうらやみ嫉妬している。劣等感に陥って苦しんでいるのである。神谷氏はどんなに人と比べて劣っていても、自分の存在自体を丸ごと受け入れないと前向きに生きていくことはできない。問題や課題に前向きに挑戦して創造的、生産的な仕事はできない。新たなものを作り出すことはできませんよと教えてくれているのです。森田理論は自分の存在価値そのものを高く評価していく考え方です。ミスや失敗をしてもその事実を認めて受け入れることの大切さを教えてくれています。この方向で間違いないのだと改めて認識させてくれる話でした。
2014.11.28
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人間関係の手法にティット・フォー・タット作戦というのがあるそうだ。ただしこれは夫婦関係や友達や同僚などに限られる。力関係のある上司や部下ではうまくいかないと思う。手法はこうだ。相手があなたにやさしく接してきたら、あなたも同じようにやさしく接する。逆に相手が高圧的な態度をとってきたり、批判的な行動をとってきたときは、あなたも高圧的な態度で臨み、また批判的に行動するのである。自然の流れにそって付き合うことである。相手の態度に合わせるのである。相手の変化に対応していくということである。実は森田理論の中にも柔道などで、こちらから積極的に技を仕掛けるのではなく、相手の動きに合わせていくというのがある。最後に相手の動きを利用して軽く技を仕掛けるのである。でもそんなことをすると、すぐに人間関係が破たんしてしまうじゃありませんか。いい加減なことを言わないでください。我慢したり耐えたりする方が正道です。などという反論が聞こえてきそうです。そういう人はよく思い出してみてください。相手が高圧的態度に出た時、自分がいつも下でに出たり、自分の気持ち抑圧したり、我慢したりすると相手は自分のことをなめてしまう。これが繰り返されると、相手はさらに強気な態度を見せるようになる。コントロールされたり、支配されてしまうようになる。相手の言いなりになることは、大きなストレスとなる。さらに自己嫌悪、自己否定の温床となる。最後には精神を病んだり、体の不調で悩むようになる。そして最終的に大噴火の可能性がある。すると人間関係は完全に破たんしてしまう。だから言葉は悪いが、「目には目を、歯には歯を」、「売り言葉には買い言葉」で応戦することが精神衛生上はとても大切なことだ。ため込まずに常に外に吐き出すことを実践したい。まずは言葉にして吐き出す。次には日記などに書いて吐き出す。それは食物を食べて、老廃物を体外に排出するのと同じことだ。便秘して体内にため込んでいると体中に毒素が蔓延してしまう。ただしやり方は工夫して考えなくてはならない。その際森田理論がとても役に立つはずだ。ずばり「純な心」の応用である。この見極めが大事である。コツを掴めば生活にすぐに応用できるようになる。さらに純な心を発展させていく。私メッセージの発信を心がけることだ。これで対等に渡り合えれば、精神的に穏やかとなると思う。
2014.11.27
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森田先生の所に入院すると第4期になって初めて読書が許された。ただし自分の部屋に戻って読むようなことはさせない。例えば二宮尊徳が山にたき木をとりにいきながら、道々本を読んだというように、仕事の合間とか、気が向いたときとか、そういうときにいつでも手軽に本に目を通す。そしてどういうときでも読みたいときに読む。そしてどこからでも二行でも三行でも読んで、それにあきたらまたやめる。書物を読むときでもとらわれないような読み方をするというふうに、自然に読むということなんですね。これが森田式の読書法でありまして、なんとかこれを読んで覚えてしまわないといけないという完全欲が強いのが神経質ですから、本を読むときもこれだけ読んだらこれだけ覚えてしまわなくてはいけない。どうも頭に入らない。困ったもんだというふうにとらわれた読み方ではなくて、分かろうと分かるまいと、まず手軽に読んでいくという読書法を繰り返す。そうすると自然に読んでいることにも興味を覚えて、いつの間にか時間も忘れて読むようなこともある。自然のままの読書法が、森田式の読書法でありまして、よく学生なんかにある読書恐怖というようなものも、これによって自然に治ることが多いのであります。(平成2年11月号の生活の発見誌、多田茂氏原稿より引用)変わった読書法である。読書は机に座って読むのではないといっている。仕事の合間に読む。細切れ時間を見つけて読書をする。分かっても分からなくてもとにかく読んでいく。反対によく空元気をつけて読書することがある。今日は何ページまで読まなくてはいけない。ここまではよく理解しなければならない。分かるまで何回も読む。何時までは読書に集中しなければならない。これらはすべて「かくあるべし」の入った読書法になる。そのように自分自身を叱咤激励すると、嫌な気持ちにことさら鞭打って無理に読もうとする。ますます理解できなくて嫌になる。すると読書して理解できない自分に対して自己嫌悪に陥ってしまう。そのうち本を見るのも嫌になるということになる。自分の興味のままに少しだけ読んでみる。興味がわかなければすぐに止める。または別の本を読む。また他の用事が入ればすぐに中断する。用事が終わればまた読書する。分からないところがあっても、無理に理解しようと思わずに飛ばし読みをする。こうなると読書とらわれるということがない。自然である。自由自在、臨機応変に読書しているのである。ここが肝心なところだと思う。ここで思い出すのは、森田先生は苦手な数学でもイヤイヤでもいい。とにかく教科書を開く5分だけ問題を解いてみる。嫌だったら止めてもいいというつもりで手を付けていくというのがよいといわれています。嫌だと思っていたのについ興味が出て来て時間がたっていたということもあるといわれています。頭の中でスッキリと整理がついて、意欲や気持ちが高まってきて初めて本格的に行動・実践に移すというのとはちょっと違うようである。
2014.11.26
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森田先生は神経症というのは器質的な病気ではない。本当の病気ではない。だから治そうとしてはいけない。と言われています。そうはいっても、神経症で苦しんでいる人からすると、本当の病気よりももっと苦しいというのが実態のようです。これに対して、森田先生は、神経症に陥るというのは、完全欲や優越欲などの強い「かくあるべし」があり、それが満たされない結果として症状のようなものに発展して、自信や希望を失って苦しんでいるのである、と言われています。ですから森田先生は病気を治すのではない。人間を治すのだといわれています。人生観を作り変えるのだといわれています。森田理論による人間教育というものを提唱されています。つまり認識の誤りを自覚して、事実に基づいて本来の行動、実践を身につけるというのが本意であります。病気を治すのは、その人が人生を全うするためであり、生活を離れて病気というのは何の意味もないといわれています。だから森田療法では人間というものを考えなくてはいけない。生活というものを考えなくてはいけない。また、精神的な症状を理解するためには、人間の自然な心理と精神病理との知識というものが基礎になければならないといわれています。このように考えると、森田療法は薬物療法や小手先の対症療法とは無縁のものと言えます。森田の世界は人間の本来のあり方を性善説の立場に立ち、人間愛にあふれた理論だと確信できます。だからこそ、症状から解放された後も、生涯学習として学び続けている人が多いのだと思います。生活の発見会の会員も大部分の方は症状を克服されている方です。生き方、人生を深めていく理論なのですから当然のことです。
2014.11.25
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普通大学受験というと試験科目だけを集中して学習する。特に私立有名大学などは3教科であった。私などは英語、現代文、日本史だけだった。だから他の科目はおろそかになる。単位さえ取れば高校は卒業できる。3教科のみ予備校などに通って集中して学習すれば、ほぼ誰でも合格できる。これに異議を唱える人がいる。京都堀川高校で指導されていた荒瀬校長である。この高校は、探究基礎という科目がある。これは各自研究テーマを決めて、突き詰めて学び研究成果を発表するという科目である。異色の科目である。大学のゼミでやるような科目である。普通に考えると、受験勉強期間中に関係のないことをするのだから他の受験生と比べて不利のような気がする。確かに偏差値では劣っているという。しかし探究基礎を学ぶことによって、大学に入ってこれをやりたいという意欲が出てくるという。これをやりたいからこの大学のこの学部に行きたいという気持ちの高まりが出てくる。普通は自分の実力で合格しそうな一番レベルの高そうなところを目指す人が多くなる。将来の自分のやりたいこととは無関係である。だから合格すると気が抜けて五月病にかかるのかもしれない。探究基礎という科目は取り組み自体一つの目標があります。そのために具体的に何をしなければならないのか。まず計画を立てます。工程表のようなものです。実施の途中では思わぬ想定外の事態に見舞われます。その時人の協力が必要になることもあります。止めたくなることもあります。でもなんらかの打開策を見つけてゆかねばなりません。探究を通じて、そうした段取りを組む力、人間関係づくり、困難をのり越えていく体験を身につけてゆけるのです。これは教科だけの問題ではありません。学校生活全体でも、例えば文化祭とか、説明会や研究発表をするとか、そういった場面をいっぱい経験することによって、多様な知性を身につけているというのです。イベントをとおして、人とどうやってコミュニケーションをとっていくのか、どうやって組織を作るのか、ミスや失敗をしたときどうしたらよいのかなどを考えることが自然に出来ているのです。このように考えると多種多様なことを学んだり、経験するということは、自分の人生を豊かにしてくれていることではないでしょうか。雑多の経験を数多く積み重ねることの大切さを教えてくれています。効率化だけではなく、まわりみちを体験することが意味があるのです。ところで私は、中学、高校の科目に「森田理論基礎」「ファイナンス基礎」の学習を必須科目とすれば、人間関係や生きがい、あるいは人生設計に大きく寄与するものだと思うのですが如何でしょうか。(プロフェッショナル仕事の流儀 日本放送出版協会参照)
2014.11.24
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森田先生は練習はダメだ。実際に当たれという。行動は練習ではなく実際である。と言われている。たとえば、畳の上でいくらクロールの練習をしても泳げるようにはならない。弓道でも2本、3本といるのではなく1本で仕留めないといけない。入院生で雑巾を作る時に裁縫の練習になったということを日記に書いている人がいる。また飯炊きしてよい経験をしたという風に書いている人もいる。これらはすべて練習という気持ちであり、実際ではない。練習するという気持ちでは神経症は克服できないといわれています。私のように楽器の演奏をしている者からしてみると、練習を否定されているようで納得がゆかない。1曲の曲をものにするためには、たゆまぬ練習は不可欠である。時間をかけて練習して初めて人前で演奏できるようになる。また演奏できるようになっても、絶えず反復練習していかないと腕が鈍ってしまう。プロ野球は今秋季キャンプ中である。基礎の反復練習、弱点の強化、長所を伸ばすことに取り組んでいる。これらはすべて練習である。これらは必要なものではなかろうか。この疑問を解く手がかりは、森田先生は何を説明しようとされているのかと考えてみることである。森田先生も練習というのは、全く必要がないといっているのではない。練習というのは真剣みが出てこないというのが問題なのであるといわれています。(森田正馬全集第5巻437ページ、203ページ)つまり森田先生は真剣みがないということを説明したいのです。この真剣みが出てこないというのは、森田理論の根幹にかかわる問題だからです。お使い根性ではいけない。ものそのものになりきらないといけない。なぜなら目の前の取り組んでいる家事や仕事などに真剣に取り組まないと感じが出てこない。感じの高まりが出てこない。気づきや発見、アイデアが出てこない。創意工夫が出てこない。すると成長や発展に結びつかない。さらに不安や恐怖などの感情が流れていかない。つまりとらわれやすくなる。そういう意味では練習といった逃げ道が用意されたような、行動・実践というのは意味をなさないのである。行動するときは物そのものになりきれ。このことを森田先生は声を大にして伝えたいのだと思います。
2014.11.23
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森田理論を学習していると、さっき言ったことと反対のことではないのかと首をかしげたくなることがよくあります。たとえば、森田先生はマキ割りの話で、割ろうとするマキの中心部に神経を「集中」しなければ、マキは割れないという。その時意識や注意が自分の心身の状態、たとえば斧の持ち方はこの角度でよいのか、あるいは自分のマキ割りを見て周りの人はどう思っているのだろうかなどに向けてはならないという。ボールを投げるとき、ボールを受けるときも気持ちが内省化してはうまくゆかない。意識の外向化が起きないとうまくいかない。つまり今取り組んでいることに神経を集中しなさい。物そのものになりきって一心不乱になりなさい。と言われています。しかしもう一方で、「集中」ということでは、一つのことに注意を向けることではない。とらわれるときは、次から次へと、とらわれていくのがよいといわれています。たとえば、森田先生が講義をしている。すると講義内容が気になる。聴講している人の態度が気になる。机の上のものが気になる。野外の物音が気になる。同時にいくつものことを気にしながら講義をしている。このようにいろんなことが気にかかり注意が分散している状態が集中していることである。とも言われています。森田理論を学習している人はいったいどちらが、「集中すること」の説明だろうかと混乱されるかもしれません。この混乱に陥らないためには、森田先生の言葉そのものを理解するという学習方法を改めることが重要です。そして森田先生はこの話によって何を伝えたいのだろうと発想してゆけばよいのです。先ほどのまき割りの話では森田先生は何を伝えたいのか。人から言われたことだけを仕方なくやるという気持ちではいけない。それはお使い根性というものであるといわれています。なぜいけないのかというと、そこには感じ、気づき、発見、アイデア、感じの高まりが全く発生しないからです。森田先生は、森田の修養の出発点は、物事に対する「感じ」を高めていくことであるといわれています。そのためには「物そのものになる」ということが欠かせません。これは森田理論の核心に迫るところです。次に講義の時の話ですが、これは「無所住心」の説明をされています。「無所住心」とは、全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねく行き渡っている状態のことを言います。この状態にあって我々は、変化に即座に対応して、臨機応変、適切な行動でこれに対応することが出来るのである。この態度で生活していると、一つのことにとらわれるということがありません。新しい行動・実践によって、新しい感情が次から次へと沸き起こるようになり、一つの不安に固執するということがなくなります。この例のように、森田理論学習は言葉にとらわれると、訳が分からなくなります。もう一歩踏み込んで森田先生はこの話で何を言いたいのだろうかと考えてみてください。そうすると目の前に豊かな世界が広がってくるはずです。
2014.11.22
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4、 認識の誤りが自覚できましたら、次に認識の修正をしてゆきましょう。これは自分の偏った考え方、物の見方の癖を直していくということです。簡単に習得できるものではありません。二歩前進一歩後退のような感じで少しずつ、修正されて身についてくるものです。・マイナス面だけでなくプラス面も見ていく。たとえば学校へ行っても無意味だという気持ちが起きたとします。学校へ行くことの利益と不利益について両面観で検討してみましょう。また反対に学校を退学することによる利益と不利益についても検討してみましょう。・逆の事実、別の考え方を書き出してみる。たとえば仕事が溜まり能率が悪く、自分は他人よりも能力がないと自己嫌悪していたとします。でもそれは、上司の仕事のやり方の指導に問題があるのかもしれません。業務の分担に問題があるのかもしれません。私生活の悩みを抱えているため仕事どころではないのかもしれません。確認恐怖で何度も確認しないと安心できないのかもしれません。決して自分の能力だけの問題に矮小化してしまうだけでは解決はできないかもしれません。・選択肢を増やして考えてみる。1つの見方だけではなく、多方面から検討する。対人恐怖のため、会社で営業活動がうまくいかないとします。自分の人生はもう終わったようなものだときめつけてしまう前にこう問いかけてみましょう。上司に相談できないでしょうか。神経質な人で営業成績の良い人に学ぶことはできないでしょうか。あるいは部署を変えてもらうことはできないでしょうか。最悪転職して違う職種の仕事を目指すことはできないでしょうか。その他いろいろの選択肢を書き出してみましょう。短絡的に自分の人生はもう終わったも同然と考えるのは、あまりにも痛々しい感じがします。・その考えが正しいとして、その結果引き起こると考えられるすべてを羅列してみる。会社や学校でみんなから嫌われていると思い込んでいる人がいます。みんなといっても全員かというと決してそうではないというケースがほとんどです。仮に正しいとして、みんなに嫌われるとどんな不利益がもたらされるのでしょう。学校から追放されて、勉強の継続が不可能になるのでしょうか。会社をクビになるのでしょうか。そして家族の生活を守ることができなくなるのでしょうか。学校では苦しいといっても一時期のことです。卒業してしまえばみんなバラバラです。職場でも嫌な人がいるといっても、転勤や退職によって人間関係はどんどん変わっていきます。自分の人生が八方ふさがりになり破滅してしまうということが果たしてあるのでしょうか。・最悪の事態が起きた時、それを引き受けるという覚悟をきめる。最悪のシナリオを想定して、それを受け入れるという気持ちを持っていると、行動、実践の足がかりができます。訪問営業の仕事は断られるのが仕事のようなものです。でも100人の人の冷たい断りを引き受ければ、その後、1件の成約を勝ち取ることが出来ると思えば勇気が湧いてくるのではないでしょうか。・完全主義、完璧主義、「かくあるべし」思考は、森田理論では最も大きな認識の誤りと言われています。第8章の「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり、第9章の「事実本位・物事本位の生活態度を養う」を参照願います。課題 あなたの認識の誤りを整理してみましょう。
2014.11.21
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3、 事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。・データの裏付けもないのに、自分勝手に否定的な結論ばかり出す。たとえば同僚が笑いながら雑談しているのをみて、きっと自分の悪口を言っているに違いないと決めつける。挨拶をしたら無視された。あの人はきっと自分のことを嫌っているのだと決めつける。多くの人から評判がよく、有能であると認められているにもかかわらず、たった一人からの評判をくよくよと悲観的に考えたりする。それに振り回される。・自分や他人に対してレッテルを貼って決めつけることです。たとえばスポーツで失敗をしたとき、「私は何をやってもいつも失敗する」と思ったり、他人が失敗をしたとき、「あの人は能力のない人」と決めつけてしまうことです。そういう先入観ですべてを判断してしまう。・確たる根拠もないのに、悲観的な結論を出してしまう。たとえば、あなたが大学の先生で、とても素晴らしい講義をしたとしましょう。しかしあなたは居眠りをしている学生を見つけました。実際にはこの学生は前の晩はコンパで飲みすぎて疲れていたのですが、あなたは、「どの学生も私の講義を退屈がっているのだ」と考えてしまうようなことです。・自分の感情を根拠に決めつける。自分の感情が現実を証明する証拠であるかのように考えてしまうことです。たとえば、「自分が何をやっても、うまくいかなくダメな人間のように感じる。その感情が湧くことが何よりダメな人間の証拠だ」や「私はあなたに対して腹を立てている。これは、あなたは価値のない人間であることの証拠のようなものだ」などのように考えてしまうことです。4、 完全主義、完璧主義、「かくあるべし」思考に陥っている。・「失敗してはならない」「すべての人に受け入れられなければならない」「間違い、失敗、ミスはなってはならない」などという考え方をしていると、現実との食い違いがあると、悩みや苦悩が発生する。自分自身が嫌になり、他人を許すことが出来なくなる。・絶えず人からよい評価をされ、褒められ、羨ましがられ、ちやほやされながら生きてゆきたい。そうあるべきだ。そうでなかったら生きている意味がないと考えるようになる。・いつも快適を求めて、すっきりと満たされた状況に身をおきたい。少しの不快でも絶対に放っておくことはできない。この項目は森田理論の重点学習項目です。第8章「かくあるべし」の発生と苦悩の始まりで詳しく説明しています。そちらで十分に学習してください。これらの認識の誤りに対して、どのように修正してゆけばよいのでしょうか。次の項目に従って整理してみましょう。1、 不安や恐怖に取りつかれた出来事や予期不安などについて、具体的に、詳細に書き出してみましょう。2、 その時に湧き上がってきた感情、考え、見方を、具体例を参考にして詳細に書き出してみましょう。先ほど見てきた1から4のどれかに該当していませんか。該当していれば、認識の誤りがあります。まずそれを認めることから始めてください。3、 「かくあるべし」は一時封印してしまいましょう。そして次の項目について比較検討して、書き出してみてください。ここは少し難しい部分です。自分一人で分析できない時は集談会などで、他の人の意見を聞いてみましょう。第三者からは比較的冷静に分析することが出来ます。・その考え方は事実に基づいていますか。事実を確かめましたか。普通は事実を無視して憶測から出発しています。・その考え方は具体的ですか。普通は「だいたい」「いつも」「みんな」とかの言葉が多く抽象的です。・その考え方には決めつけはありませんか。先入観はありませんか。普通は自分の思い込み、先入観、決めつけが多く含まれています。・その考え方は客観的に見て柔軟性、妥当性がありますか。普通は話が大きく飛躍しています。・その考え方は論理的で、整合性がありますか。普通は理路整然と説明できません。・その考え方は両面観で見ていますか。普通はマイナス面だけにとらわれています。
2014.11.21
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「認識の誤り」補足版です。「新版 これで納得! 実践的森田理論学習」のテキストをお持ちの方は、第4章4節「認識の誤り」の後に付け足してください。41ページの後ろです。神経症で苦しんでいる人は、客観的、妥当性のある考え方や見方ができなくなっています。その特徴は次のようなものです。1、 考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。2、 マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。3、 事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。4、 完全主義、完璧主義、「かくあるべし」思考に陥っている。具体的に見てみましょう。1、 考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。・ミスや失敗などをしたとき、「自分の人生はもう終わったも同然だ」と考える。たとえば、会社で事務処理の間違いを起こし、上司に叱られた。すると、みんなから、無能力者扱いされて、もうこの会社での居場所はない。くびになるだろうなどと飛躍して考える。・物事には完全かゼロしかないというような極端な考え方で結論を出す。白か黒と決めつけてしまう考え方。・自分に一つでも欠点があると、自分はすべてがダメで、生きている価値や資格がないと考えています。とるに足らないことがすぐに人生の一大事に発展してしまう。・自分の周りで良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合でも、自分のせいにしてしまう。罪の意識を抱く。罪を償わなくてはいけないと考える。たとえば学校や会社で物がなくなったと友達や同僚が騒いでいるとき、自分が盗まれたと思われているのではないかと気にしてしまう。2、 マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。・一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないはずだと決めつける。また、私は人と付き合っても、最後にはいつも嫌われて、飽きられてしまうと思ってしまう。・1つのミスや失敗から、それが何度も起きてしまうと勝手に決めつけてしまう。・テストでおおむねできているのに、間違ったところばかりを気にして落ち込む。・職場での考課表でプラスの面があるのに、マイナスの評価ばかりに目が向き、劣等感に陥る。・自分の欠点は過大に取り扱い、他人の欠点はたいしたことはないと過小評価する。自分の長所や才能、能力はとるに足らないと過小評価し、他人の長所や才能、能力は過大評価する。
2014.11.21
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フロイトは、神経症は悪い記憶を抑圧していると無意識の領域に押しやられる。この無意識の領域に押しやられたものが、症状として表面化してくるのだという。治療としては、治療者がクライアントの無意識の領域に踏み込んで顕在化させることによって治癒できるという。これに対してアメリカの認知心理学者の、エリザベス・ロフタスは、不快な記憶を思い出させるような治療を受けた人は、かえってフラッシュバックが起こりやすくなり、人間不信に陥るケースが頻発するという。離婚が増え、人生を悲観して自殺未遂も増えていった。また入院期間や治療期間も長くなる。森田では、どちらに言い分があるかというと、明らかにエリザベス・ロフタスのほうである。森田理論の感情の法則4を思い出してもらいたい。感情は、その刺激が継続して起きるときと、注意をこれに集中する時に、ますます強くなるものである。感情は刺激しないで流していくことが重要である。フロイトのやり方だと、症状に神経を集中して、原因を洗い出して、不安や恐怖を取り去ってしまおうという方法である。森田理論では、この方法は医者が精神交互作用を促進しているようなものである。これでは増々神経症を強化してしまう。森田理論はそもそも不安の取り扱い方が他の療法と全く違う。不安は欲望の反面であり、コインの裏表の関係にある。あるいは欲望を本体とすると、不安はその影であるという。神経症に陥っている人は、その影が気になり、箒で掃いて無くそうとしているようなものである。不可能で無毛な消耗戦にエネルギーをつぎ込んでいるのである。注意と感覚の悪循環が続き蟻地獄の底に落ち込んでいくことは明らかである。つまり不安は取り去る相手ではない。不安は役に立っている。不安はなくてはならない大切なものである。ここに森田理論の神髄を見ることが出来る。不安と共存し、不安に学び、不安を活用しながら生きていくという考え方は、世界に誇ってよい普遍的な考え方である。今や認知行動療法も、その森田の考え方を一部取り入れてきているようである。我々はその森田理論を学習できる機会を与えられていることに感謝したいものである。
2014.11.20
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ある方が森田生涯の所に相談に訪れました。相談者 人の思惑が気になって憂鬱です。仕事に身が入らず、会社でもみんなから浮き上がっています。何とか楽になりたいと思っているのですが、八方ふさがりの状態です。手を出せば出すほど底なし沼に落ちていくような感じです。どうしたらよいのでしょうか。森田生涯 あなたは人に注目されたい、人から称賛を浴びたいという強い欲望を持っておられると思います。そのための努力はされていますか。相談者 いいえ、特に何もしていません。森田生涯 それはちょっとまずいいですね。森田理論では、生の欲望が強いから不安があるのだといっていますよ。あなたはみんなから常に重要視され、尊敬されたいという強い欲望がありますよね。その方向で努力されれば、少なからず願いはかなえられたはずですよ。今はその気持ちを忘れて、不安をとることだけに神経を集中させていますよね。努力の方向性が間違っていませんか。相談者 そういわれれば、その通りです。森田生涯 ところで、あなたは森田理論でいう「生の欲望の発揮」から逃げだしたわけですが、その時あなたの注意はどこに向いたと思いますか。相談者 よく分かりません。そんなこと考えたこともありません。森田生涯 2つの方向に向いているんですよ。1つは、現実の世界から離れて、理想という観念の世界に向いているんですよ。その理想という観念の世界にどっぷりと身を置いて、現実でのたうち回っているもう一人の自分を嘲笑っているのです。同じ自分という一人の人間の中に相反する2人の人間がいていがみ合っているわけですから、悲しいことでね。2つ目は不安や恐怖におびえまくっている自分の心と、ぶるぶる震え変調をきたしている自分の身体に向いているのです。注意が内へ内へと向かい、その結果抑うつ状態や心身症で苦しんでいる状態ですよ。相談者 2つとも当てはまります。ではどうすればいいんですか。森田生涯 2つあります。まず日常生活を丁寧にすることです。規則正しい生活を続けることです。凡事徹底を心がけることです。次に仕事や勉強に打ち込むことです。さらに自分の課題や夢が見つかったらチャレンジしてみることです。もう一つは理想主義や完璧主義と縁を切ることです。どんなに苦しくても現状、現実、事実、物事にしっかりと足をついて踏ん張り、そこから一歩、また一歩と歩いていくことです。これは少し難しいですから森田を学習して、理論を学んでください。この2つが身について、行動実践できるようになれば、人の思惑が気になるというのは、あっても何ら気にならないようになるものなのですよ。相談者 なんとなく分かりました。アドバイスありがとうございます。その方向で学習を深めてゆきたいと思います。
2014.11.19
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名古屋市立科学館では、水中で揺れ動く酸化チタンの微粒子を顕微鏡で見ることが出来るそうです。生物でないものが絶えず揺れ動いているのは不思議です。この微粒子の動きをブラウン運動というそうです。脳科学者の茂木健一郎氏は、人間の脳にもこのブラウン運動に似た働きがあるといわれています。たとえば野球でキャッチャーがピッチャーに対して球種のサインを出します。その際どんな球で相手を打ち取ろうかいろいろと考えます。試合の局面、バッターの仕草、過去の対戦、バッターの特徴などを考えていくとすぐには結論が出ません。ああでもない、こうでもないと考えがまとまらずに揺れ動いているのです。実はこの揺れ動くという心理状態が重要な意味を持っているといわれているのです。この揺れ動く心というのは、森田理論の中で精神拮抗作用と言われているものです。我々も日常生活の中で、どうしたらよいのか判断がつかないことがよくあります。たとえば酒好きな人が、宴会などで酒を浴びるほど飲みたいという気持ちになったとします。すると以前二日酔いになって一日中体の調子が悪かったことが思い出されます。飲みたいけど飲み過ぎるとしんどくなる。気持ちが二つの間を微妙に揺れ動いているのです。それを無理やりにどちらかに決めつけてしまうとうまくいかない。明日は休みだからと思って、本能のままに飲むと確実に二日酔いになります。また酒を飲みたいのに全く押さえつけてしまうと、宴会が苦痛に変わってきます。揺れ動く気持ちのままに、おいしい料理に舌鼓をうちながら、加減して飲むということが出来ると二日酔いにもならず、楽しい酒を飲むことが出来ます。二つの気持ちの間を揺れ動きながら、生活をしていくというのが生きるということです。「かくあるべし」でどちらかに決めつけないとすっきりしない、落ち着かないというのは、自然の流れを無視した自分勝手な生きた方だと思われます。
2014.11.18
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仕事でわずかなミスや失敗をして落ち込む人がいます。「もう自分はこの会社での居場所はない」「首になるかもしれない」「自分は何をやってもうまくいかない」「自分の人生終わったようなものだ」こういう人の特徴的な考え方は次のようなものです。1、ミスや失敗は決してあってはならないという強い「かくあるべし」を持っている。2、事実を見ていない。だからすぐに一生を左右するように話が飛躍してしまう。3、悲観的、ネガティブにものごとを見る習性がある。4、不安に振り回されて、注意が自分の気分や体調の変化に向いてしまう。5、本来の生き方である「生の欲望の発揮」という目的が忘れ去られている。これに対して、ミスや失敗を糧にして成長してゆく人がいます。その人たちの特徴的考え方は次のようなものです。1、 人生はミス、失敗がつきものである。ミスや失敗は次の反省材料として活かせばよいのだ。ミスや失敗を素直に受け入れることが出来る。ミスや失敗をのり越える中で自分が鍛えられ、能力が高まり、人間としての成長があると思っている。ミスや失敗は役に立っているものだから排除してはいけないと思っている。2、 ミスや失敗があると原因の究明に乗り出す。原因が分かるまで丹念に調査する。3、 ミスや失敗を克服して将来の成功を夢見ることが出来る。考え方が楽観的、ポジティブである。4、 注意の向けどころが外向き、物事に向いている。決して自分の心身に向けられていることはない。5、 境遇をしっかりと受け止めて、その中で一歩上を向いて努力できている。こうゆう傾向のある方は、森田理論学習によって、認識の誤りを学習して自覚を深めていくことが大切です。さらに事実本位、不安と欲望など森田理論の要点を学習して、行動実践することによって変革することが出来ると思われます。
2014.11.17
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「42 世界を変えた男」という映画をDVDでみた。この映画はメジャーリーグ初のアフリカ系アメリカ人選手、ジャッキー・ロビンソンの物語です。かつて野茂選手が日本人のメジャーリーグへの門戸を切り開いた。これも偉大なことです。このジャッキー・ロビンソンは黒人のメジャーリーグへの門戸を開いた偉大な人です。現在アメリカではその偉業をたたえて、42番という彼のつけていた背番号は、メジャーリーグ、マイナーリーグ、独立リーグ、アマチュアリーグまで含めて永久欠番となっています。また毎年4月15日は、「ジャッキー・ロビンソン・デイ」として全員が42番の背番号をつけてプレーするそうです。 この映画でのジャッキー・ロビンソンは、聖人君子ではなく、むしろ、「反骨心をエネルギーにして野球をやっている選手」として描かれています。彼は最初の頃チームの中で受け入れられずに悩みます。相手チームや観客からの屈辱的ないわれのないヤジを浴びせられます。また頭にデッドボールを受けたり、わざとスパイクで踏まれたりしました。彼をスカウトしたブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャー・リッキーは、苦しんでいる彼にこんな言葉をかけています。 「やり返さない勇気を持った選手になってほしい」しびれるような言葉です。また彼はこの言葉の通りに行動しました。そして実績をだすことに専念しました。チームの勝利のために尽くすことに命を燃やしたのです。そして成果を出したのです。ひどい差別の言葉を浴びせるアメリカの、とくに南部の白人の人々は、最初の頃嫌悪感を抱くのだけれども、彼らも、ロビンソンのプレーを見ているうちに、変わっていくのです。彼がとった行動と、その言葉に、私は思わず不覚にも感激で涙が出てきました。彼が開けた「風穴」から、多くの黒人選手がメジャーリーグに羽ばたいていったのです。もっと言えば、中南米の人たちにも大きな夢を与えることにつながっているのです。森田的に言えば、どんなに困難な境遇にあっても、自分に与えられた課題に真剣に向き合うことの大切さを教えられたような気がします。それがどんな課題であってもです。これこそが人生の醍醐味なのだと語りかけてくれているようでした。
2014.11.16
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ガン患者の心理の研究で知られる精神科医エリザベス・キューブラー・ロス博士は、1960年代に200人もの末期ガン患者と面会し、死を告知された人間がどのような精神状態を経て自らの死に向き合っていくのか、本人へのインタビューを通じて明らかにしていくことにした。そして、ガンで死を告知された人間が見せる心の揺れを、五つの段階として整理した。第1段階 否認自分がガンである現実を否認する。「自分がガンになるはずがない」「エッ、うそだろう、何かの間違いだ」「この医者は誤診しているに違いない」最初に出てくる"自分が死に直面しているなんて真実ではない"という否定の態度は、衝撃的なニュースを聞かされたときに人間がとる、心の緩衝装置である。 第2段階 怒り自分はガンだという理解が始まると同時に、自分だけが死ななければならないことに対する怒りや、生き続ける健康な人々ヘの羨望、恨み、憤慨などさまざまな感情へと変化する。怒りはあらゆる方向(たとえば医師・家族・友人・果ては神にまで)へと向けられる。「どうして私ばかりがこんな目に!」 第3段階 取引神仏や超自然な力に対して『交換条件』のようなものを提示して、延命のための取引をし始める。「神に生涯を捧げますので、病気を治してください」「もし病気を治してくれたら、全財産を寄附します」「今は重量子線治療があるだろうしなんとかしてくれ」 第4段階 抑うつ病気が少しでも進行したり、体力が衰えてくると、自分がガンであることや余命いくばくもないことを実感せざるを得なくなり、取引は無駄と考え抑うつ状態に陥る。抑うつには、告知の衝撃のあまり落ち込んでしまう「反応抑うつ」と、末期患者が世界との訣別を覚悟するために必要な「準備抑うつ」の二つがあると博士は言う。この準備抑うつの時期を経過することによって、患者はその後の死の受容と平和の段階に至ることができる。 第5段階 受容死を自分のことと受容し、死生観が確立する。穏やかになり、いかに自分が幸福な人生であったかを知る。この受容の段階とは、死を受け入れた幸福の状態ではない。受容の段階とは、もはや自分の運命について抑うつも怒りも覚えず、嘆きも悲しみも終わり、ある程度静かな感情もって、近づく自分の終焉を見つめている状態である。そこでは、ほとんどの感情はなくなっている。患者は、そっとひとりきりにされたいと望む。患者は、親しい人の手を握り、黙ってすわっていてくださいと頼むだけである。(以上ブログのオレンジR+より引用しました)この話は我々が神経症の葛藤や苦しみ受け入れるという点で重要な示唆を与えている。神経症のもとになっている不安、恐怖、違和感は、やりくりしたり逃避するのではなく受け入れることが必要であるがなかなか難しい。森田理論を学習した人はみんなよく知っているが実践できている人は少ない。その原因として挙げられるのが、第一段階の否認、第二段階の怒り、第三段階の取引、第四段階の抑うつである。森田理論では不安、恐怖、違和感に対して否定してはいけないという。事実は受け入れるしかない。また怒り等の感情は抑圧してはいけないという。感情は自然現象であり受け入れる。十分に味わうことが大切である。また感情をやりくりすれば精神交互作用で目論見とは反対の結果を招くという。感情の法則どおりである。そして憂鬱な感情、イライラする感情に対しては受け入れるしかない。つまり不安、恐怖、違和感などの感情に対して是非善悪の価値判断をしてはいけない。そういういやな感情を持ったまま少しでも前向きに行動、実践していくことを勧めている。すると感情が流れる。不安などがあっても残された人生を精一杯生きることに注意が向いていく。すると最期の時を迎えるにあたって「ありがとう」と感謝の気持ちを持つことが出来る。家族に「行ってきます」と心の中で呟くことができる。つまり死を自然な形で受容できるということなのである。ここでいう受容というのは博士の言うあきらめという意味での受容とは違う。森田理論はつくづく素晴らしい考えなのだと思う。
2014.11.16
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東日本大震災では多くの家屋が倒壊し、多くの人が犠牲になった。ところが被害が驚くほど少なかった場所がある。宮古市の姉吉地区だ。2011年4月10日の河北新報は次のように伝えている。「此処(ここ)より下に家を建てるな」先人の警告を刻んだ石碑が立つ宮古市重茂の姉吉地区(11世帯、約40人)沿岸部の家々が津波で押し流された宮古市で、ここは建物被害が1軒もなかった。海抜約60メートルの地点に建立された石碑の教えを守り続けてきた住民は、あらためて教訓の重さを胸に刻んでいる。 姉吉地区は、明治三陸大津波(1896年)で60人以上が死亡し、生存者は2人だけ。昭和三陸津波(1933年)では100人以上が犠牲になり、生き残ったのは4人。2度とも壊滅的な被害に遭った。石碑は昭和三陸津波の後、住民の浄財によって建てられた。 津波は今回、漁港から坂道を約800メートル上った場所にある石碑の約70メートル手前まで迫ったという。海辺にいた住民らは地震後、坂を駆け上がって自宅に戻り、難を逃れた。 この事実は何を教えてくれているのでしょうか。津波の恐ろしさを身を持って体験した人が、失敗から学んだことを後世に教訓として残していたということです。また後世の人はその先人たちの教訓を忠実に活かして生活していたということです。二度にわたる災害は失敗ではなかったのです。高価な授業料についたが、教訓となって大勢の人命を救ったのです。災害は誰にでも起こりうることです。また失敗は誰でも経験することです。失敗に学び、失敗を活かすことが出来ればそれは断じて失敗ではない。貴重な成功をもたらすのである。今回は住民の命を救ってくれた。「災い転じて福となす」という言葉があります。この言葉の意味を噛みしめてみる必要があります。神経質な人は最初からミス、失敗を避けようとします。嫌がって逃げまくっています。その結果経験が不足してきます。失敗から学ぶという体験がないままに大人になってしまいます。そして大人になってそのつけは確実に襲ってきます。残念ですが、その時の反省はすでに時遅しです。姉吉地区の話は、常日頃から失敗を経験し、失敗を受け入れ、対策を講じることの大切さを教えてくれています。集談会で人間は3000回の失敗を経験して立派な大人になれると聞きました。我々は失敗の数が圧倒的に少なすぎます。小さな失敗の経験は、貴重な体験となります。そして、将来の大きな取り返しのつかない失敗の防波堤になっているということを忘れてはなりません。
2014.11.15
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多くの人の心の中には、事故や災害の発生時に「自分は大丈夫」と思っている。「まさか自分が被害者になることはないだろう」という心理があります。これを「正常化の偏見」というそうです。事態が裏目に出ると、ビル火災や地震災害の時逃げ遅れたりします。韓国の列車火災事故やフェリーの沈没事故なども、危険を察知して早く避難していれば多くの人は助かっていただろうと思います。御嶽山の水蒸気爆発も噴煙を見て一目散に逃げていればと思うこともある。このように災害時には「正常化の偏見」がかえって裏目に出ることがある。防災行動や避難行動を怠らせるといった方向に作用するのです。この「自分は大丈夫」という心理には、客観的な根拠は何もない。不安や緊張を和らげ、安心をもたらそうという自己防衛システムが、危機的な状況を正常な方向にゆがめて認知させているのである。でもこうした心理状態が働かないと、不安や恐怖に翻弄されて手も足も出なくなる。特に神経質者の場合に問題となることがある。例えば飛行機に乗れなくなる。以前巨人の選手で広島遠征の時でも、飛行機に乗らず新幹線で移動という人がいた。事故に遭うことを恐れるあまり、飛行機に乗れないのである。これでは生活に影響が出てしまう。海外出張の多いビジネスマンでは飯の食い上げとなってしまう。毎日飛行機に乗っている人で、事故に遭う確率というのは438年に1回の確率だそうである。人生を5回やり直してやっと一回の確率である。「正常化の偏見」という心理が全く働いていないというのは、不安や恐怖に振り回されているのである。すぐに精神交互作用への道に突き進んでしまう。これは森田理論の精神拮抗作用と関係がある。普通人間には、こうしたいという希望や欲望がある。反面でもうまくいかなかったらどうしようという反対の考えも同時にわいてくる。そのどちらか一方に偏って決めつけてはいけないということである。その状況に応じてバランスをとりながら、臨機応変に行動するという態度にならないと、社会に適応して生きていくことはとても難しい。私はいつも「やじろべい」を見ながら、バランスや調和のことを思い出している。人生はサーカスの綱渡りのようなものだと思う。長い物干しざおのようなものでバランスをとりながら、注意して一歩一歩前を向いて進んでいくしかない。(病的に自分が好きな人 榎本博明 幻冬舎より一部引用181ページ)
2014.11.15
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指揮者の佐渡裕さんは時間の使い方が上手な人である。私は「ながら族」で欲張りだといわれる。楽譜を勉強し、練習に行き、本番をこなし、その間に芸能ニュースまで見、インターネットをチェックし、海外にいるのに、日本の番組をよく見る。自分のホームページもチェックして、原稿を書き、会議をし、音を作るだけではなく、演奏会の企画からお金集めのことまで考える。すごく複雑な思考体型になっていますといわれている。少し空き時間を見つけるとゴルフの練習にも行きます。これらはすべて遊び感覚です。そんな風に生きていると、世界を飛び回ろうが移動と演奏会でスケジュールがぎっしりになろうが、全然忙しくない。佐渡さんの音楽の感性は、普段のこうした生活意識によってさらに高められているのであろう。森田先生もよく言われていました。勉強に集中しようとして静かな田舎に行っても、精神が弛緩してしまってかえって集中できない。街中の騒音があるような環境のほうが勉強ははかどる。それは感情が一つのところに固定されずに動き回っているからである。四方八方へと意識が動いているときのほうが、ちょっとした発見、新しいアイデア、ひょっとした思い付きが泉のように湧いてくるのである。このことを森田では「無所住心」と言っている。その時は精神や意識が弛緩状態から緊張状態のモードになっていて、感情が常に変化流転しているのである。一つのことにとらわれて神経症に陥る暇もないといった状態である。だから仕事でもゲームでも、同じことをだらだらと長時間続けることはお勧めできない。細切れ時間をどんどん活用できるようになるというのが森田的な生活である。
2014.11.14
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神経症に陥った人は、客観的で正しい考え方や見方ができなくなっています。物事をよく見ていない。先入観が強すぎる。思い過ごしが強い。マイナス一辺倒である。否定的である。無茶である。極端である。飛躍しすぎである。自分勝手に決めつけている。希望的観測が強いなどです。具体的な例で考えてみましょう。1、 ミスや失敗などをしたとき、「自分の人生はもう終わったも同然だ」と考える。たとえば、会社で事務処理の間違いを起こし、上司に叱られた。すると、みんなから、無能力者扱いされて、もうこの会社での居場所はない。くびになるだろうなどと飛躍して考える。これは考え方がものすごく飛躍しています。論理的に整合性が取れていません。2、 一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないはずだと決めつける。また、私は人と付き合っても、最後にはいつも嫌われて、飽きられてしまうと思ってしまう。自分勝手に悪い方に考えすぎています。3、 物事には完全かゼロしかないというような極端な考え方で結論を出す。白か黒と決めつけてしまう考え方。この友人は自分にとって役に立つ人かそうではないのかどちらかに決めつける。役に立つと思えればべったりと引っ付き、そうでないと思うと全く寄り付かなくなる。その中間をとった付き合い方は考えられない。4、 データの裏付けもないのに、自分勝手に否定的な結論ばかり出す。同僚が笑いながら雑談しているのをみて、きっと自分の悪口を言っているに違いないと決めつける。多くの人から評判がよく、有能であると認められているにもかかわらず、たった一人からの評判をくよくよと悲観的に考えたりする。それに振り回される。5、 自分の先入観で些細なことやネガティブなことばかりを気にする。物事を両面観でバランスよく見ることができない。テストでおおむねできているのに、間違ったところばかりを気にして落ち込む。職場での考課表でプラスの面があるのに、マイナスの評価ばかりに目が向き、劣等感に陥る。6、 自分の周りで良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合でも、自分のせいにしてしまう。罪の意識を抱く。罪を償わなくてはいけないと考える。たとえば学校や会社で物がなくなったと友達や同僚が騒いでいるとき、自分が盗まれたと思われているのではないかと気にしてしまう。つい言動に現れてしまう。7、 確たる根拠もないのに、悲観的な結論を出してしまう。たとえば、あなたが大学の先生で、とても素晴らしい講義をしたとしましょう。しかしあなたは居眠りをしている学生を見つけました。実際にはこの学生は前の晩はコンパで飲みすぎて疲れていたのですが、あなたは、「どの学生も私の講義を退屈がっているのだ」と考えてしまうようなことです。8、 自分の感情を根拠に決めつける。自分の感情が現実を証明する証拠であるかのように考えてしまうことです。たとえば、「自分が何をやっても、うまくいかなくダメな人間のように感じる。その感情が湧くことが何よりダメな人間の証拠だ」や「私はあなたに対して腹を立てている。これは、あなたは価値のない人間であることの証拠のようなものだ」などのように考えてしまうことです。9、 「かくあるべし」的思考。自分に対して、他人に対して「○○しなければならない」「○○してはならない」と規範で行動を規制しようとすること。現実、現状、事実を無視しています。森田でよく学習していることです。10、 自分や他人に対してレッテルを貼って決めつけることです。たとえばスポーツで失敗をしたとき、「私は何をやってもいつも失敗する」と思ったり、他人が失敗をしたとき、「あの人は能力のない人」と決めつけてしまうことです。そういう先入観ですべてを判断してしまう態度のこと。これらはほとんど認識の誤りです。事実からかけ離れています。こんな考えで苦しくなった時は、自分自身に次のように問いかけてみましょう。また自分で分からない時は、集談会などで他の参加者の意見を聞いてみましょう。1、その考え方は具体的ですか。2、先入観は入っていませんか。3、実際に真実を確かめましたか。4、客観的に見て妥当性がありますか。5、論理的で、整合性が取れていますか。6、両面観で、プラス面も見ていますか。
2014.11.13
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我々は心配性です。普通の人が感じないようなちょっとしたことが気になります。それは裏を返せば感受性が強いということになります。心配性を逆手にとって生活を楽しんでいる人がいますのでご紹介します。この方は「ビールをいかに美味しく飲むか」を実践されています。のどが渇くと格別においしく感じるという生理現象うまく利用して、仕事から帰っての晩酌のビールに焦点を合わせて、いかにのどを渇かして家に帰るかが、実践の最大のポイントであるといわれています。会社では、支給のお茶以外はひかえるということはもちろんですが、とにかく、体を動かす雑事があれば、喜んでやっております。なにしろ、のどを渇かすことを目的に働いておりますので、動くことは苦になりません。会社や役所に出向いたときなどにエレベータは使いません。階段を上り下りしています。またこの実践は尻軽く動くことで、結果的に人のために尽くすことにもなり、運動不足の解消にも役に立つという思わぬ副産物もあったりして、自分では大変気に入っております。このように活動して飲むビールはとてもおいしいものです。特に一杯目のビールは美味しい。なお晩酌はどんなに欲しくなっても1本までと決めております。明日の楽しみを残しておくためです。この話は、中東の砂漠に住んでいる贅沢三昧の富豪のこんなエピソードに重なります。「美味しいものはなんでも飽きるほど食べている。もっとおいしいものを食べたい。何かないのか」取り巻きの人が「分かりました。それを用意しましょう。その前にラクダにお乗りください」炎天下の砂漠のもとで半日動き回りました。その後たったコップ一杯の水を与えられました。その水を飲んだ富豪が言うには「こんなにうまいものがこの世にあったのか」我々の感受性をもっともっと高めるには、ほしいものを少し我慢すれば可能になります。そうすれば、我々に備わった鋭い感受性という長所は、増々磨かれていくということです。
2014.11.12
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森田理論は「事実に素直に従え」といいますがこんな例はどうでしょうか。高良武久先生のお話です。人間は正直であるべきだ。これは大切なことですね。しかし、いつも正直であるべきだということをう呑みにして、それを実践したら、変なことになりますよね。なるほど正直でなければ、人間はいちいち人を疑わなくちゃならない、用心ばかりしていては、取引も何もできないですね。人間関係が破壊されますよ。しかし、正直であるということにとらわれて、自分の心に思うことを、その通りに言うのが正直だということで、人に会ってですね、「あんた顔色がよくないですね、ガンでもできているんじゃないですか?」とか言うようなことを言うのは、これは変ですね。「もう長いことはないんじゃないかね」なんて言ったら、困るんだなあ、そういうことは。特に医者がそんなことを言ってね、「あなたはせいぜい、あと1か月ですね」とか何とか、あるがままを正直に言わなくちゃならんと思ったら、それは大変なことになるわけだね。「夕べあなたにいただいた団子はまずくてね、ようやく我慢して食べましたよ」なんて言ったら、それは事実であるから、言うのが正直だと、そういうことを言ったら、相手をただそこなうだけですねえ。反社会的だねえ、そういうことは。たとえまずくてもですね、「結構なものをいただきました。ありがとうございました」というのが礼儀だね。よく世の中には、そういう外界の事情に応じないで、一本調子にやるのが、正直な態度だと心得ている人があるんだな。そういうのは、まあ世間知らずとか、人を無視するような態度になりますね。森田先生も人情から出発しないといけないといわれる。事実を正直の言うというのは人情を全く無視しています。それは「かくあるべし」の世界の発想なんでしょうね。
2014.11.11
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外村仁さんのお話です。日本の企業が外国との交渉において気になることがあるといわれる。日本の企業の担当者はプレゼンの時自分の言いたいことはすべて言っているつもりになっている。ところが、外国人からしてみると、日本人は何を言いたいのか全く分からない。たくさんの選択肢は豊富に説明してくれるのだが、自分はこれをお勧めしたいというものの提案はない。私の仕事は豊富な選択肢を提供するのが任務である。その先の選択権はすべてあなたにあります。自由に選んでくださいという考え方である。これは海外企業を相手のプレゼンでは通用しない。サービス精神のつもりで、先方の意見をまず最大限に伺おういう気持ちなのかもしれない。でも外国人にしてみれば、情報だけ取って、自分はこうしたいというプラスになる提案は全くしない。仕事に対する真剣さに欠けているとみるのである。また自分の意見を述べないということは、責任回避ではないのかとみられる。情報過多のプレゼンをして「私はやることはすべてやった」ということで相手に丸投げする。そして相手がその中から一つを選択するとする。すると「私が勧めたのではなく、あなたが選んだのだから、どんなことがあっても自己責任ですよ」という言い訳を用意しているように感じる。さらに、責任回避を感じるのは「うちの会社はこう思っている」という言い方をする。自分はこうしたいというように、決して自分の意思を明確にしない。はたしてこの人は真剣にビジネスに取り組んでいるのだろうか。交渉相手として信頼できるのだろうかと懐疑的になってしまう。相手を思いやるということはとても大切なことです。これは日本人の良いところです。でもその前に自分の気持ち、意思、希望はしっかりと持っている。それをできる限り表現する。相手に伝えていく。という作業が重要なのではないか。相手の思いと自分の思いを双方で共有していく。そこから双方の食い違いをどう埋めていくのかを調整しあっていく。この流れがビジネスのみならず、コミュニケーションにおいて必要なのではないか。ここで日本人の思いやりの良さが存分に発揮されるとよいのではないでしょうか。(スティブ・ジョブズ驚異のイノベーション カーマイン・ガロ 日経BP社 373ページより一部引用)
2014.11.11
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「かくあるべし」の中に完全主義というのがあります。私は完全主義の上司と一緒に仕事をしたことがありました。その人はノートを見ると5センチぐらいのところに縦に線を引いてそこに見出しをつけています。字を見ると印刷したかのようにきちんと書いてあります。それは見事なものでした。とにかく几帳面を絵にかいたような人で、世間話をすることさえ緊張感を覚えました。完全主義が自分だけならまだいいのです。完全主義を周りの人にも押し付けるのです。息が詰まるような重くるしい雰囲気がありました。その後その人は部長になられて本社に呼び戻されました。地方営業所の所長10名ぐらいを取りまとめておられました。毎月行われる営業会議はとても緊迫したものだったそうです。営業所長は月々の販売予算を持っています。それが達成されていない所長はやり玉に挙げられるのだそうです。罵詈雑言を浴びせられたのです。どうしてこういう結果になったのか。月の途中でどうして改善できなかったのか。今後はどうして立て直していくのか。重箱の隅をつつくように追い詰めていくのだそうです。所長に言わせると、それが分かっていれば誰でも実行しています。でも解決の糸口が分からなくて苦しんでいるのです。アドバイスはしないで、批難ばかりするのです。あまりに追い詰められて、会議で泣き出すような人もいました。耐えきれなくなって退職する人もいました。ついに所長たちは、連名で社長にその部長の理不尽さを直訴したそうです。するとしばらく経って、社長はその部長を子会社に出向させました。いわゆる左遷です。各営業所の所長は集まって祝杯を挙げたそうです。この方は、結局その後1年ほどで退職してゆかれました。この方の信条は完璧に仕事をこなすことです。販売予算は必ず必達というのが自分の課せられた使命であると思われていました。この視点で部下を見た時とても我慢がならなかったのでしょう。部下は部下で「かくあるべし」を平気で押し付ける上司は鬼のように思っていたのです。完全主義、完璧主義という「かくあるべし」は双方を不幸のどん底に陥れてしまいました。これが、予算が達成できないという現実、現状、事実から出発できたとしたら事情は大きく変わっていたのではないでしょうか。森田理論学習でなかで「ほどほど道」という話を聞きました。私はこれを「事実本位」と読み替えて理解しております。
2014.11.10
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集談会で以前聞いた話ですが、ある方が妻の誕生日に感謝状を額に入れて渡したそうです。その額には真ん中に大きく「感謝」と書いてありました。そしてその周りに感謝していることが小さな字で100個書いてありました。普段思っていても、感謝の言葉を口にすることはありません。朝挨拶をしてくれる。いつも笑顔を絶やさない。おいしい料理を作ってくれる。掃除をよくしてくれる。洗濯をしてくれる。ユーモアがある。誕生日にプレゼントをしてくれる。健康である。時間を守る。あまり怒らない。悩みを聞いてくれる。励ましてくれる。子供にやさしい。家計を助けて働いてくれている。・・・・。これを渡したとき妻は、最初は笑っていたが、そのうち泣いていたというのです。私はこれにヒントを得て、自分のいいところ、妻のいいところ、子供のいいところ、父親のいいところ、母親のいいところ、妹のいいところを5つずつ日記に書いてみました。自分のいいところは神経質の性格特徴を学習しているのですぐに出てきました。家族のいいところはなかなか出てきませんでした。これを以前はパソコンの前の壁に貼っておりました。家族も常日頃その忘備録を見るわけです。私が毎日パソコンの前に座る時は「やじろべい」とこの「忘備録」が自然と目に入るのです。極端な考えになった時は「やじろべい」がその考え方はバランスが取れているのかと問いかけてくれます。ミスや失敗をした時は、「忘備録」がお前も捨てたもんではないと励ましてくれました。家族に対して腹が立つときはが、その腹立たしさを弱めてくれる役割を果たしてくれました。心なしか家族の人間関係が改善したような気がします。よかったら皆さんもぜひ実践してみてください。
2014.11.09
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森田では自分の長所を自覚して、その長所で勝負しなさいと言われます。古田敦也氏は、野球では一つの長所だけで勝負することは、負けを意味するといわれています。たとえば150キロの球を投げるピッチャーは、これを伸ばして155キロ、160キロに伸ばしたいと、そればかり練習するんですね。でも人間には限界があります。しかも、155キロ投げられるようになっても、力んでコントロールが悪くなっては全く意味がない。またプロのバッターにしてみれば、155キロのストレートが来ると分かっていれば打ち返すことができる。自分が自信を持っている球を打ち返されると少なからずショックを受けてしまうのです。次に投げる球がなくなってしまうのです。そういう人は、第2の長所を伸ばすことに力を入れるべきです。たとえば自分がコントロールしやすい変化球をマスターすることです。ストレートが145キロに落ちても、コーナーにきちんと決まったり、変化球があることで相手を抑えることが出来るのです。バッターにしてみれば、見え見えの155キロのストレートよりも、狙いが絞れない145キロの方が圧倒的に恐ろしいのです。このことは森田理論ではどう考えたらよいのでしょうか。例えば神経質者は心配性だから、いろんなことが気になります。普通の人が見逃すようなことに対していろいろと気づきがあります。ただ思っただけでは、その気づきや発見、アイデアはすぐに忘却の彼方へと飛んで行ってしまいます。すると長所は全く生かされません。それどころか、心配性が裏目に出て、注意が自己内省に向かい、自己嫌悪するようになります。いろんなことに敏感に反応するというのは我々の最大の長所なのですが、その長所を活かすためには、その気づき、発見、アイデアをきちんとキャツチするという作業が必要なのです。すぐにメモしたり、ボイスレコーダーに記録して残す必要があります。そして次に、気づきなどを行動・実践に結びつけていくという作業が待っています。対象物に向かって働きかけることです。このように気づきの発生は、その気づきをすかさずキャツチする。そして行動実践に結びつけるという一件の流れの中で初めて生きてくるのです。気づきそのものが長所となるわけではありません。それはただ単に心配性なだけです。これ以外にも、我々には、思慮深い、分析力があり、多方面から検討できる。好奇心が強く、夢や目標、課題を設定できる。粘り強くあきらめないで行動できる。等のきわめてすぐれた特徴があります。これらを単独ではなく組み合わせることによって強大な力を発揮するようになるのだと思います。(「優柔決断」のすすめ 古田敦也 PHP新書参照)
2014.11.08
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最近のプロ野球の選手を見ていると高校卒ですぐに活躍選手がいる。昔と比べて豊富な知識を持ち、身体能力が上がり、技術も高い選手が増えたのである。それはそれで楽しいものである。ただ古田敦也氏は、そんな彼らに経験がまだまだ少ないといわれている。経験がなくて頭で判断して、やる前から決めつけてしまう人が多いといわれる。経験する前から頭の中で結論が出来上がっていて、それが固定観念となっている。だから「どうせ無理」「やっても意味がない」「時間の無駄だ」などと挑戦したがらないのです。例えば、「ここに投げてみろ。そうしたらバッターだって怯むんだよ」「次の球を活かすためにも、こういうことをやってみろ」という。すると、「そんなところへ投げると絶対に打たれますよ」「そこはデーター的に打たれる確率が高いから」とか、「それよりも自分の得意なコースに投げたほうが打ち取れる」「確率から言うと、この方法が正しい」と反論してアドバイスを試してみようとしない。そうやって自分勝手に未来を予測し、結論を出しておきながら、壁にぶつかってうまくいかないと悩む。そこでアドバイスしても、やっぱり頭で考えて行動しない。小手先の情報に振り回されているのです。人間のすることなど、実際にやってみなければわからない。まして野球は対人間。押したり引いたり、相手との駆け引きで結果は大きく変わります。主力打者だってど真ん中のストレートを見逃すことだってある。高卒の新人がそんな球で勝負してくるとは想定していないからです。頭でっかちの人は、それが恐ろしいのです。頭で組み立てた通りの結果が出ないのが恐ろしいのである。結果として逃げの気持ちになる。でもプロは弱みを見せるとそこにつけこんでくる。特に相手が強大であれば勝ち目はないのである。この話は森田理論の「かくあるべし」に振り回されることと関係があります。我々は頭で考えた理想を第一にして、現実の自分をその「かくあるべし」に合わせようとしているのです。古田氏はその考え方では、野球の世界でもうまくはいきませんと言われているのです。頭で考えた決めつけや思い込みをゼロベースで見直して、実際に経験・体験した中でつかみ取った知恵を優先するべきだといわれているのです。我々は森田理論学習の中で、現実、現状、事実をもとにして生活しましょうと学んできました。決して「かくあるべし」から行動・実践を起こしてはならないのです。思想の矛盾で葛藤を起こし、神経症を引き起こしてしまうからです。古田氏は新人に対して、体験を積ませるために、「もし打たれても君のせいにはしない」「監督には自分のサインミスです」と言うから思い切って投げてみろと助言したということです。そこまで言って吹っ切らないと、なかなか「かくあるべし」は乗り越えることが出来ないそうです。(「優柔決断」のすすめ 古田敦也 PHP新書参照)
2014.11.07
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人間の寿命は125歳だという人がいる。でも実際にはそこまで長生きをしている人はいない。生まれた時はみんな125歳まで天寿を全うする力は与えられているのかもしれない。ところがその後の生き方によってどんどん命が短くなっているのではなかろうか。体の健康、心の健康の度合いが寿命に影響を与えているのである。体の健康では、食事の内容、適度な運動、体を温めるなどのケアが大切である。食事について言えば、日本人の場合は食べ過ぎによって病気が作り出されている。食べ過ぎ、飲み過ぎを抑制していくことが基本である。私は現在、朝は人参リンゴジュースが一杯とヨーグルトだけである。昼は玄米ご飯とみそ汁だけである。夜は缶ビールと自由な食事である。これは石原結實医師の考えに賛同したからだ。運動というのは激しい運動は控えている。なぜなら哺乳類の心臓の拍動数は約20億回になっているそうです。(長生きしたい人は鏡を見なさい 南雲吉則 朝日新書)心拍数が150を超えるような激しい運動は、心臓に負担をかけすぎているというのです。心臓は痛んだところが自然治癒で再生されるということはありません。南雲さんは日常生活や仕事の中でゆっくりと体を使うことによって、体力維持を心がけることを提唱されています。特にふくらはぎは第2の心臓と呼ばれています。これを鍛えるためには簡単なことです。歩くことです。現代人は車や電車に乗ることが多く歩くことが少なくなっているのは問題です。その他風呂にゆっくり浸かったり、腹巻などを使って体を温めてやるというのはとても大切だと思います。体温が1度下がると免疫力はかなり低下するそうです。心の健康では悩みやストレスを溜めこまない生活が大切である。生きていると悩みやストレスが全くないということは考えられません。またそれらが、意欲ややる気の源となっています。ただそれらに振り回されるというのは心身に多大な悪影響を及ぼします。悩みや生きづらさに対して明確な指針を示してくれているのが森田理論です。森田理論は神経質者にとっては必ず履修しなければならない、必須科目です。心身の健康を維持することは、森田理論でいう「己の性をつくす」ということにつながります。自分自身の心身の持っている力や能力を信じて、大切にして最後まで活用しつくしたいものです。
2014.11.06
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「陽はまた昇る」という映画がある。この映画は実名で企業名が出てくる。松下電器、ビクター、ソニーなどである。VHSという家庭用ビデオの開発の物語である。主人公の加賀谷静男はビクターの事業部長だった。西田敏行が演じていた。会社の経営は悪化しており、リストラの嵐に巻き込まれていた。会社の存亡がかかっていた。この分野ではソニーが一年も前にベーターマックスを発売していた。通産省もベーターマックスの1本化を進めていた。すでに時遅し。勝ち目がないように思えた。ただ唯一の欠点はベーターマックスは録画時間が1時間と短かった。そこでVHSは2時間録画を目指して開発を進めた。そして完成すると、開発技術を惜しげもなく公開していった。その後日立、三菱電機、東芝などの日本の電気メーカーを二分する戦いとなった。しかしその後松下電器がVHSを採用するに至り、ソニーはついにベーターマックスから撤退していった。この主人公には燃えるような情熱があった。脆弱な会社でリストラ、経営の黒字化、新商品の開発など大きなハードルが次から次へと襲い掛かった。自ら第一線の営業マンとなり販売の拡大に取り組んだ。さらにVHS開発を指揮していったのである。この映画を見ていてアップルのスティーブ・ジョブズと一緒だと思った。彼も燃えるような情熱を持っていた。そして強くて明確な目標、ビジョンを持っていた。自分のやりたいことに集中して妥協を許さない強い意思を持っていた。そして多くの社員に一つの目標に向かって努力させるリーダーシップを持っていた。どれひとつ欠けても成功はおぼつかない。これは生の欲望の発揮を目指している我々も参考になるのではなかろうか。
2014.11.05
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経済的に豊かになると外食が多くなります。自分では何もしなくてもよいのです。食材を切ったり、皮をむいたり、煮たり焼いたり蒸したりしなくてもよいのです。また最近は食材の配達をしてくれる業者もいます。献立は考えなくてもよいのです。材料がセットされています。簡単なレシピがついています。栄養を考えた弁当の配達もあります。自分は何もしなくてもいいのです。食材を作らなくてもよい。買い出しに行かなくてもよい。食器を洗わなくてもよい。配達してもらったビールやペットボトルのお茶を飲んで、食べるだけでよいのです。一見すると夢のような生活のようです。その気になれば現代人は煩わしい炊事から解放されました。洗濯もボタン一つです。掃除も自動ロボットが部屋の中を動き回っております。自由になったあなたはたっぷりの余暇時間ができました。さてあなたは何をしますか。テレビを見て過ごす。読書をする。映画を見る。観劇に行く。趣味に没頭する。友達とランチやグルメを楽しむ。ジムに行く。スーパー銭湯に行く。ドライブに行く。スポーツをする。旅行に行く。ボランティア活動をする。でも自由になって、いろいろと手を出してみたが何か満たされない。心の中にぽっかりと大きな穴が開いているように感じる。物足りない。充実感がない。むなしい。そんな気持ちになることはありませんか。これは贅沢な悩みなのでしょうか。きつくて煩わしい家事から解放されて、自由に人生を謳歌したいというのは間違いだったのでしょうか。もしそういう気持ちの人がいたら基本に立ち返ることをお勧めしたい。簡単なことである。毎日の食事を丁寧に、物そのものになりきって作ることである。気が向いたときに凝った料理を作るというのではない。毎日毎日献立を考えて、自分で買い出しをして、自分で下ごしらえをして、食べて、食器を洗って片づけるのである。これを継続することである。可能なら畑で自家用野菜を作る。漬物、梅干し、ラッキョウなどの加工食品を作る。その気になればワインなどもすぐにできる。これがどれだけ生きがいづくりに役立つことか。金があるから煩わしいことは人に任せる。このような安易な気持ちが自分を堕落させていくのである。脳を使わなくなってボケの道へ突き進むのである。体を使わないので筋肉が衰えて体調が悪くなるのである。お金のあるなしにかかわらず、自分でできることはできうる限り自分でする。すると感じが高まり、創意工夫が起こり、やる気が出てくる。これが森田理論の基本である。
2014.11.04
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生活の発見誌2014年11月号より生活の発見会の会員は再入会の人が多いという。3年前には再入会者が、新入会者の2倍近くに上っているという。若いときに神経症で苦しみ努力して行動で乗り越えた。ところが中高年になって再発を経験しているのだという。以前は行動によって神経症は治るといわれていた。これによって確かに蟻地獄から抜け出すことはできた。それを完治ととらえて発見会から退会する人が多かった。その方たちが再入会して森田理論の学習を再開しているのである。岩田真理さんの、「流れと動きの森田療法」によると治った人に3タイプあるという。1番目に治り過ぎの人である。頑強で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などお構いなく自分の言いたいことをいう人たちです。自分の「かくあるべし」を他人に押し付ける人です。2番目に目立った症状はないものの、何かすっきりしない。ミスや失敗をするとすぐに落ち込んでしまう。マイナス思考から抜け切らない。いつも憂鬱で生きていくことが苦しい。人生を楽しむことが出来ないという人。3番目に神経症から解放されて、自由にのびのびと生活を楽しんでいる人。再入会する人の多くは2番目の人だと思う。まれには1番目の人も、落ち込みを経験することによって再入会する人もいるかもしれない。再入会者のことからわかることは、行動実践だけでは容易に再発する。それは当面の苦しみのどん底から抜け出だすだけである。本当に神経症から解放されるためには次のステップに進まないといけない。つまり「かくあるべし」をはじめとする認識の誤りを学習して、事実に服従していく態度を身に着けていくことである。思想の矛盾を抱えたままでは神経質者に明るい未来がやってくることは考えられない。
2014.11.03
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神経症の人はどうもユーモアとは縁の遠い人が多いようである。生きがい療法ユニオンでは、がん患者さんなどが「ユーモアスピーチ」を作って披露しあっている。伊丹仁朗医師は、ユーモアスピーチの効用について次のように言われている。人の話を聞いて笑うことは、心が非常に愉快になる。これは建設的な前向きな心につながる。笑うということは、プラス感情を強くする効果があり、免疫力のアップにつながる。ユーモアトレーニングは、内向した意識を外向的に変える。一つのことに打ち込めて、目標が持てる。話の組み立てを考えることで創意工夫ができる。みんなの前で発表するのでビクビクハラハラする体験ができる。人を楽しませることが出来る。これに取り組むだけでも、十分神経症を克服することはできるのではないかと考えている。今年の5月5日の投稿で川柳、ユーモア小話などの紹介をしているので見てもらいたい。フランクルという人は、「ユーモアとは自分自身や自分の人生を異なった視点から観察できる柔軟性や客観性が生まれる」と言っている。そういう意味では、ユーモアを心がけることは、神経症を客観的に見て自覚を深めることにつながるということだ。柏木哲夫医師もユーモアとは愛と思いやりであり、死が近づいても人間は笑うことが出来るといわれている。緊張を和らげて、その場を楽しくする潤滑油の役割を果たす。そして次のような川柳や会話を紹介されている。お守りを医者にも付けたい手術前がん細胞正月ぐらいは寝て暮らせ患者さん あと一週間であの世に行けそうです。女医さん 天国へですか?患者さん 私、天国でも、地獄でもいいんで。きっとどちらにもたくさん友達がいると思います。医師 おかげんはどうですか。末期がんの患者さん 先生。お世話になっております。おかげさまで順調に弱っております。医師 いかがですか。風呂上がりの患者さん ちょっと海外旅行に行ってきました。医師 どちらへ?患者さん ニューヨーク(入浴)医師 時差ボケしてませんか?患者さん ちょっとふらつきますが2、3日でおさまるでしょう。認知症で、家と病院の区別がつかなくなった患者さんがいた。医師が患者さんの手をとって、少し振りながら「ここどこだか分かりますか」患者さんの答えは「手首の付け根でしょう」柏木医師 今日のおかげんは如何ですか。患者 病気のことを考えると憂鬱で。でも今日の青空を見ていると、少しはましですね。柏木医師はそんな時は、白衣のポケットにメモを持っている。メモには空と書いてある。そして四角が切ってある。そのメモを取り出して患者さんに見せる。柏木医師 こんな感じですか。患者さん えっ!何のことですか?柏木医師 角を切ってあるでしょ。患者さん ああ、澄み切った空ですね。この小さなユーモアが、うつの改善に役だったそうだ。自分でできない人は川柳やユーモア小話などの収集をして、一日一回は声を出して笑ってみてください。「死にざま」こそ人生 柏木哲夫 朝日新聞出版より一部引用
2014.11.02
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今日はいいものを見た。You tubeで紹介されているものである。一つは安保徹医師の2013年6月9日星陵会館での講演である。もう一つは薬を使わない精神科医、宮島賢也医師の2013年9月3日の講演である。それぞれ1時間10分を超える。お二人とも内容はよく似ている。ガンや精神疾患などの病気は、仕事や人間関係のストレス、食生活、考え方の誤りに起因するものだと言い放っている。頑張りすぎ、悩み過ぎ、イライラしすぎは重大な病気を作り出す元だといわれている。それに対して医者は、原因を掘り下げて根本的な治療をしているとは言えない。対症療法を行っているにすぎない。医師は対症療法の専門家に過ぎない。検査をして、病名を探り、ステロイドや抗不安薬などの薬を処方、あるいは手術、放射線治療などを行っているに過ぎないといわれている。生き方などの問題から病気が発生しているにもかかわらず、対症療法で対応しているだけで根本的な治療にはならないといわれている。普通我々は、森田理論学習対象者以外は、専門医を紹介している。ところが専門医がしていることは、たとえば薬漬けの患者を量産しているというのである。特に精神科の医師はその傾向が強いそうだ。薬を使わない精神科医は皆無である。宮島医師は保険適用にならないので自由診療だそうである。この生き方を考えるというのは、森田理論学習を掘り下げて学習している我々の得意とするところである。我々は神経質者の生き方として、一口に言えば「自然に服従し、境遇に従順なれ」ということで確固たる指針を持っている。この方向で進むことを安保徹医師、宮島賢也医師も目指しておられるということがくしくも一致していたのである。これには大いに触発された。明日、明後日と休みの方もおられることと思う。ぜひ視聴されることをお勧めします。
2014.11.01
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2014年11月号に強迫神経症の人の話が載っている。この方は高校への通学路にこぶしぐらいの石が転がっていて、それに人とか自転車がつまずいてケガをするのではないか、という強迫神経症だった。自分がけがをするのが恐ろしいのではなく、自分の責任で人がけがをするのが恐ろしいのだといわれる。これを治すには、まず受け入れることから始まりました。気になれば石をどけるということです。自分は心配性であるということを受け入れる。受け入れることが出来れば治癒したことになるといわれています。そんな自分を自己否定しているうちは、どんどん症状は強くなっていきます。次の段階で強迫行為に条件をつける。石を見つけると、急いでいるときには石をどけない。気になるががまんする。ヒマな時には石をどけてもよい。そんなことです。そんな経験を繰り返していくと、だんだん強迫行為をしても、しなくても、どちらでもよい状態になっていく。気になれば強迫行為をするし、気にならなければしない。その段階が過ぎて気が付いてみると、強迫行為はあってない状態になっていた。あってもなくてもどちらでもよいのです。このような心境は、ある意味では強迫観念が治ったということです。この方はまず森田理論学習で不安の正体と役割について学習された。不安は強い欲望の反面として出てきているのだということを自覚された。不安は闘う相手ではない。不安は受け入れて、生の欲望に目を向けていくことを学ばれた。そして学校に遅刻しないこと、電車に遅れないことを優先できるようになった。いちいち不安に振り回されないように、その場の状況に臨機応変に対応できるようになった。そして、不安に振り回され、心配性を持った神経質性格を、責める度合いが徐々に少なくなっていった。心配性の反面の感受性豊かな自分を自覚できるようになった方だろうと思います。森田理論学習をして45年経った今では、症状も消えて、放送大学で学び、町内会活動、登山などで頑張っておられるとのこと。強迫行為で悩んでいる人はぜひ読んでほしい記事でした。
2014.11.01
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