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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その7、両面観のものの見方を身につける。物事にはプラス面の裏には、必ずマイナス面が隠れています。その両方を過不足なく見ていかないと、物を見たことにはなりません。例えば、神経質性格ですが、森田理論学習で「神経質の性格特徴」を学習した人は目からうろこの学習になったのではないでしょうか。私の場合でいえば、神経質性格は小さなことが気になって毎日不安な日々を送ることになり損な性格だと思っていました。さらに、執着性が強く、不安を増悪させてしまう性格が嫌でした。社交的で小さな心配事は気にもかけないで、笑い飛ばして、自分の好きなことに積極的にチャレンジしている人がうらやましくて仕方がありませんでした。できたら自分もそのような性格に変えてしまいたいと思っておりました。この考えは、神経質性格のプラス面とマイナス面を過不足なく分析することで考え違いをしていたことがよく分かりました。心配性というのは、不安にとらわれやすい面もありますが、プラス面としては鋭い感性の持ち主であったということが分かりました。これはたとえてみれば、神経質者はハッブル宇宙望遠鏡を標準装備しているようなものです。今までの地上望遠鏡ではよく分からなかった超新星爆発した星の残骸なども詳しく分かるようになりました。また爆発の残骸の中から新しい星々が誕生していることもはっきりと分かるようになりました。鋭い感性を持っているという特徴は、小さなことにこだわりやすいというマイナス面を補って余りあるものがあると思っています。高性能レーダーや高性能の魚群探知機を生まれながら持っていたことは喜ばしい事なのです。機微な感性は、芸術や文学や料理などの分野には欠かせないものです。すぐれた作品を生み出している人はほとんど神経質性格者です。神経質性格は、自己内省性が強いと言われます。これは失敗の原因をとことんまで分析して、原因を特定し、改善策を立てる上においては欠かせない性格特徴となります。野球の解説者でも、投手や打者の心理を的確に分析している方は、神経質性格を持っておられます。その他、真面目で責任感が強い。粘り強い。簡単にあきらめない。よりよく生きたいという生の欲望が極めて強い。森田正馬先生は形外会という名前をつける時に、「神経質礼讃会」にしたらどうかと言われていたそうですが、それだけの値打ちのある性格なのです。ですから、神経質性格のマイナス面ばかり見て、性格否定をしていると罰が当たると思います。よくぞ神経質性格者として生まれてきたものだ。「神経質性格に生んでくれてありがとう」とお父さんお母さんに感謝してもし過ぎることはありません。プラス面に光を当てて、さらに磨きをかけるのが私たちの務めです。私もこの性格をとことんまで活かして生きていくぞという決意を新たにしているところです。この性格は、外向的、社交的、発揚性気質の人がいくらお金を積んでも、お売りすることはできない代物なのです。こういう見方ができるようになったのは、森田理論の両面観を学習したおかげなのです。「かくあるべし」を前面に押し出す人は、この両面観の考えをとることができない人です。田原総一朗さんの「朝までテレビ」という討論番組では、真反対の意見を持っている人を両方とも招待して徹底的に討論し尽くします。それを見ている人は、正反対の主張を聞いているうちに自分の意見を確立していくのです。将棋の加藤一二三名人は、打つ手が皆目見当がつかなくなった時、おもむろに対局相手の後ろに回り、相手の立場から見つめ直すことをされていたそうです。真剣勝負をしている時に、そんなことが許されるのかどうかは分かりませんが、視点の違う見方を取り入れることが勝負を決することになるということが分かっておられたのだと思います。両面観の見方を身に着けるためには、集談会を利用するとよいと思います。例えば、「人間関係はごく親しい少人数の人間関係作りを目指す方向がよいと考えているのですが、この方向で間違いはないでしょうか」と問題提起するのです。この質問に対して、賛成する人、反対する人様々な意見が出ることが望ましいと思います。ご自分の体験を踏まえて、多くの人に自分の考えを述べてもらうのです。喧々諤々の議論の中で、多くの人がそれなりの答えを見つけ出すことができれば、集談会に来たかいがあったというものです。すぐには答えられない次のようなテーマをいくつか用意しておくと、学習の中身が飛躍的に向上すると考えています。・不安はすぐに取り除いた方がよいと思いますが如何でしょうか。・頭で納得できないことは、安易に行動しない方がよいと思いますがどう思われますか。・嫌なことから逃避することは、リスク回避につながると思いますが、この方向で間違いはないでしょうか。など。このような考え方の癖をつけることは、日常生活の中で両面観の見方が自然に磨かれていくのではないでしょうか。これは森田理論の中では、精神拮抗作用の活用にあたります。ここでのポイントは、性急に一つの考え方に固執すると、それが間違っていた場合、どんどん横道にそれていき、最後には取り返しがつかなくなるということです。
2021.07.19
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その6、「あなたメッセージ」を「私メッセージ」に変更する相手と会話する時、「あなた」を主語にするのではなく、「私」を主語にして会話するということです。例えば、妻が夫に、「あなたはどうしてゴミを出してくれないの。結婚する時に、あなたは家事を分担してあげると言ってたじゃないの。あなたはきちんと約束を果たすべきよ」この言い方ですと、自分の頭で思い描いている夫像とは程遠い態度を批判、否定しています。これを「私」を主語にすると、「私はあなたがゴミ出しをしてくれると助かるのだけどね」という風な言い方になります。これだと言い争いになりません。夫はこれに対して、自分のことを非難、否定されないので、反発する態度には出ません。冬の寒いとき、子供が炬燵に潜り込んでいつまでも転寝をしていることがあります。そのとき、お母さんが「あなたはいつまで寝ているのよ。早く風呂に入りなさいよ。後から入る人がつかえているのよ」これでは、子供もつい反発をしたくなります。こんな時も「私メッセージ」応用したいものです。「お母さんは、すぐに風呂に入ってくれると、うれしいのだけどね」「あなたメッセージ」では、自分の考え(かくあるべし)を相手に押し付けることになります。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りの言葉が多くなります。ちなみに、母親がよく使う「あなたメッセージ」は、「それは絶対ダメですよ」「すぐにあきらめないで、がんばりなさい」「もたもたしないで、早くしなさい」だそうです。上司が部下に使う「あなたメッセージ」は、「その考え方、やり方は間違っている」「言い訳しないでノルマをこなせ」「失敗したときに責任をとれるのか」などです。「私メッセージ」は、自分の素直な感情や考えたことを、そのまま「私」を主語にして話します。私はこう思います。私はこういう考えです。私はこう感じました。私にはこう見えます。私はこうしてくれたらうれしいです。最初の素直な感情は、恐怖、不安、心配、悲しさ、嬉しさ、嫉妬、驚き、イライラ、心細さなどでしょう。私メッセージは、相手に自分の考え方や行動を強制しません。私メッセージによって、相手がどう感じ、どう行動するかは相手に任せることになります。当然自分の思惑通りに行動してくれないことが多くなります。それが普通です。それはあらかじめ想定済みなのです。それから先どうしても自分の意見を通したいならば、相手と交渉することになります。その場合も、相手の意見を尊重しながら、ある程度のところで妥協に持ち込めればオッケーという気持ちで構えることです。「私メッセージ」を生活の中に取り入れてみてください。人間関係がよくなります。それは、他人に対して「○○してはいけない」「○○しなさい」「○○しなければならない」という「かくあるべし」を押し付けることが激減してくるからです。ただしこれは無自覚に連発していることですから、自分では気づきにくい。親しい人に頼んでおいて、「あなたメッセージ」を使った時は教えてくださいと頼んでおくことです。集談会はその訓練の場と捉えて切磋琢磨したいものです。
2021.07.18
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その4、観念による先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りをしない。事実確認を怠り、先入観や思い込みによって事実を捏造してしまうことはなんとか避けたいものです。また相手や物事をネガティブに判定して、否定的に見る態度は不幸をおびき寄せます。国立国語研究所で話題となった実話があります。ある方が、一人の女性のことを、「目がパッチリして、スリムだ」と言いました。ところが別の人は、「目がギロッとしていて、電信柱が歩いているようだ」と言いました。実際に彼女を見ていない人は、どちらの人から話を聞いたかにより、女性への印象が全く違ってしまう。一方ではモデルのような美人だと思い込んでしまう。別の人は、栄養失調気味で不健康な印象を持ってしまう。とても美人という発想は出てこない。福井商工会議所が県内の企業人348人を対象に、言葉のイメージを調査したことがあるという。大勢というと、何人ぐらいの人のことを指すのか。これに対する答えは、最多が1万人でしたが、最小は4人でした。おじさんというと何歳以上の人のことを指すのか。78歳という答えがあった半面、22歳という答えもあった。長電話は時間でいうとどれぐらいのことを指すのか。最大は10時間、最小は2分でした。人それぞれ頭の中でイメージしていることは違うことが多いということです。それなのに、他人も自分と同じようなことを考えて行動しているはずだという先入観は何の役にも立たないということになります。御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落して500名の尊い命が失われました。これは、はっきり言って人災でした。安易な決めつけが招いた取り返しのつかない事故になりました。どんな決めつけがあったのか。このジャンボ機は7年前に尻もち事故を起こして圧力隔壁が壊れて修理していました。その影響からか、事故前の6か月間に後部化粧室のドアの開閉の不具合が合計33回も報告されていました。この不具合を、機体整備係がどのように取り扱ったかが問題になります。気になる人は、当然圧力隔壁との因果関係の調査に乗り出すのではないでしょうか。少なくともボーイング社に再整備を依頼していたはずです。現実は、圧力隔壁の近くにコート収納庫があり、そこに機内誌を大量に詰め込んでいたことが、後部化粧室のドアの開閉の不具合につながっていると結論づけました。あまりにも安易な決めつけが、大惨事を招いてしまいました。蚤のジャンプ力は、人間でいうと霞が関ビルを軽々飛び越えてしまうぐらいだそうです。その意欲、積極性、能力を奪い去ってしまう方法があります。それは、一匹の蚤をコップに入れて蓋をします。蚤は逃げようとジャンプしますが、蓋に突き当たって落ちてしまいます。蚤がフラフラになり、小さな心を痛め、まさに落ちようとするときに、「何をやっているのだ」「おまえは何をやらせてもダメだ」「救いようのない奴だ」などと罵声を浴びせかけてやるのです。疲れた蚤に「もっと気力を奮い立たせて、何回もチャレンジしなさい」とけしかけてやるのです。そのうち蚤は、「ああ、ぼくはダメだ」と意気消沈して、自己嫌悪で苦しむようになります。劣等感の塊になり、少ししか飛べなくなります。こうして、自信を失い、不安でおろおろし猜疑心の塊になってしまうのです。そういう先入観で洗脳しておいて、蓋を取って「さあ君は自由だ、自由に飛んでもいいよ」と優しく声をかけてやるのです。蚤はもう決して自由に飛ぶことはありません。飛ぶ意欲が根こそぎ奪い取られてしまったのです。マイナスの先入観や決めつけ、レッテル張りは、子供や部下の伸びる力を根こそぎ奪い取り、無気力、無関心、無感動な人間へと追いやってしまうのです。森田理論をかなり学習した人でも、ネガティブな先入観、決めつけ、レッテル張りを手放そうとしない人が多いように思います。観念の世界で分かったようなつもりになる事は、犬も食わない代物なのです。この態度は放棄する必要があります。この点は心して事実に向き合う態度を高めていく必要があると思っています。そういう能力を獲得した人は、安易に他人を非難、否定しなくなります。もちろん自分自身も、自己嫌悪、自己否定することはありません。森田を学習した人でそんな人がまれにいます。この人たちは、森田道の頂点に達した人だと思います。
2021.07.16
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その3、事実観察を徹底する。事実は具体的、赤裸々に取り扱う。三重野悌次郎さんは、地図で現地のすべてを網羅することはできない。地図と現地を混同する人はいませんが、事実と観念を混同する人はたくさんいますと指摘されています。例えば、専門医が心臓に欠陥がないと断言しているのに、心不全の発作を恐れて電車に乗れない人がいます。あるいは、ガンにかかっているに違いないと思い込んで、長期の療養生活に入る人もいます。人前で緊張するのは、自分の精神が脆弱なためだと判断して、精神強化のために座禅を組んだりします。いずれも事実よりも観念を優先して、一人で苦悩を作り出して格闘しているのです。森田先生は疑問な点は、自ら現地に出向いて、自分の目で確かめる方法をとっておられます。必要ならば自ら観察や実験に取り組んでおられました。五高校時代には、夜中に一人で幽霊屋敷の探検をしておられます。熱湯の中に手を突っ込むという大道芸を見て、実際に自分の手で実験もされています。大正13年9月1日に発生した関東大震災の時は、各地に出向いて流言飛語がどのように発生してどのように拡散していったのかという調査を念入りに行っておられます。森田正馬全集第7巻の315ページから340ページにその詳細が説明されています。事実は具体的に話さないと間違いが起こりやすくなります。森田先生は、電車道を横断する子供に対して、「注意せよ」とか「気をつけよ」とかの助言よりも、「決して走ってはいけない。静かにゆっくり歩きなさい」と具体的に指示されていたそうです。子どもは、「注意せよ」「気をつけよ」と言われても、何に気を付けたらよいのが分からないからであると言われています。対人恐怖症とうつ状態で苦しんでいますと自己紹介されても、他人にはその内容はほとんど分かりません。いつどんな時にこんな症状が出ましたと、具体的に包み隠さずに話すことで初めて共感してもらえます。都合の悪いことが拡散しても、それは事実だから仕方ないという人の方が治りがよいようです。神経症の人は、自分の都合の悪いことは、隠す、捻じ曲げることが習性になっています。自分の都合の悪いことは開示しないで、手っ取り早く神経症の苦しみだけを取り除いてもらいたいなどと虫のよいことを考えているものです。うっかり開示した秘密(?)を、「これは外部に漏れるようなことはありませんよね」と確認しているような人は、事実の隠蔽体質が強すぎて、症状の回復には程遠いのが事実です。事実を積極的に赤裸々に開示することに徹することを実践するだけで、神経症はよくなっていくものだと思います。この手の情報開示は、自分の恥をさらけ出すことだと勘違いしている人が多いように思います。実はその方法をとることで、人間関係は改善してきます。三重野悌次郎さんは、「いつも」「みんなが」という言葉を使う人は、要注意だと言われています。「私はいつも失敗する」という人に、「では最近の失敗がいつ、どのようなことであったのか」と聞くと、たいていすぐに思い出せない。事実は、何日か前に一度仕事の失敗があった。その前にもいくつか失敗をしている。それが事実であり、それ以上のものではない。ところが本人は、自分はいつも失敗をしている。自分は能力のないダメ人間だと決めつけているのです。これは事実ではありません。私の妻はこの「みんな」という言葉を使う名人だった。「みんながそういっている」というのが口癖だった。そこで誰が言っていたのかを聞くと、親戚の女の人が一人言っていただけで、それに自分も賛同したので、いつの間にか「みんなが言っている」ことになってしまったのである。実態は本当の事実とは程遠いと言わざるを得ない。他人の話を鵜呑みにしないで、必ず事実の裏をとる。事実に基づいて、具体的、赤裸々に話すように心がける。この2つを徹底するだけで、あなたの人生は大きく変化してきます。
2021.07.15
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その1、「かくあるべし」の弊害と事実本位の利点について理解を深める。これは生活の発見会に入り、地区の集談会に参加して、学習することになります。ここでは、概略を説明しておきます。「かくあるべし」の弊害・・・観念優先で事実を軽視するということは、事実を批判、否定しているということです。批判や否定を繰り返していると、お互いが対立関係になります。喧嘩になります。また事実を隠蔽する、ごまかす、捏造する、他に責任転嫁をするようになります。事実を観念の世界に引き上げようとすると、事実の抵抗にあい、なかなか思っている方向には向いてくれません。そこで葛藤や苦悩を抱えてしまうのです。いわゆる思想の矛盾に苦しむことになります。私たちでいえば神経症に陥ってしまうのです。この件については、イソップ物語の狐と葡萄の話が有名ですね。ある日、狐がたわわに実っている葡萄を見つけました。ところがいくら全力で飛び上がっても葡萄まで届きません。すると狐は、「きっとあの葡萄はまずくて食べられるようなものではないのだ」と自分の気持ちをごまかしてしまいました。そして、もともと自分は葡萄なんか食べたくなかったのだと言い聞かせようとしました。また、ブドウを獲るこのできない自分に劣等感を抱いてしまいました。そんな自分を生み育てた親を恨みました。すぐに葡萄を手に入れる超能力を得たいと考えました。事実を素直に認めないとこのような展開になるのです。事実本位の利点・・・ではここでの事実とは何か。「自分は葡萄を獲って食べたい」「でも自分の力では葡萄を獲ることはできない」この2つです。この事実を素直に認めると、事態は急展開します。自分を否定するのではなく、葡萄を手に入れるためにはどうすればよいのかと考えられるようになるのです。これは生の欲望に向かう出発点になっているということです。例えば、脚立を用意する。葡萄を叩き落す棒を見つけてきて、挑戦してみる。あるいは、仲間に声をかけて、知恵を借りて共同作業に取り組む。など。苦しい困難な現実に直面したとき、動物であれば、四方八方手を尽くして、力及ばなければ、そのままその事実に服従します。だが人間の場合は、事実をあるがままに認めようとしないで、観念で事実をごまかし、自分の気持ちを欺いてしまうのです。これが人間の苦悩の始まりとなるのです。事実優先の態度は、無駄なエネルギーの消費を抑えることができます。そして、今度はその貴重なエネルギーを生の欲望に投入することができるようになります。良寛さんに、「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という句があります。人間誰でも弱みや欠点があります。病気を抱えて体調を崩している人もいます。人間関係や経済的な問題を抱えている人もいるでしょう。ミスや失敗は生きている限り永遠と繰り返されます。これらを隠す、ごまかす、言い訳をする、他人のせいにするのではなく、あるがままにすべてを開示する。表も裏も包み隠さずにありのままに開示して生きていく。そのときは気まずい思いをしても、長い目で見れば、その方向がよいと思います。その手法は、葛藤や苦悩でのたうち回ることを避けることができます。防御態勢をとっていないので、周りの人も安心して近寄ってきます。何よりも、エネルギーの無駄遣いが無くなり、エネルギーを効率よく使うことができるようになります。観念優先の態度を事実優先の態度に切り替えるためには、先ずその弊害と利点を森田理論学習に取り組み理解することから始まります。
2021.07.13
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昨日の続きです。観念優先の態度を抑制して、事実、現状、現実主導で生活していく態度を養成するためにどんなことを心掛けていけばよいのか。その手法はいろいろあると思います。自分が取り組んでいる手法があれば、引き続いて取り組んでみてください。とっておきの方法は、私もぜひ教えてもらいたいところです。ここでは私が取り組んでいる9つの方法をご紹介してゆきたいと思います。1、「かくあるべし」の弊害と事実本位の利点について理解を深める。2、自分のなかにいる二人の自分を一つに統一する。3、事実観察を徹底する。事実は具体的、赤裸々に取り扱う。4、観念による先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りをしない。5、物の性を尽くすことに専念する。6、「あなたメッセージ」を「私メッセージ」に変更する。7、両面観のものの見方を身につける。8、直観、第一の感情、初一念の感情を大切にする。純な心の態度の養成。9、否定語から肯定語の活用を心掛ける。これらはいきなり全部に取り組む必要はありません。「二兎を追うものは一兎も得ず」という言葉もあります。私の学習仲間は、5番の「物の性を尽くす」に取り組んで、人生観を確立した人がいます。富士山への登山口は5つあるそうですが、どの登山口を選んでも最終的には、頂上に立つことができます。これと同じことがいえると思います。それでは何日かにわたって、順次説明してみたいと思います。1番目ですが、森田理論の中の「かくあるべしの発生と苦悩の始まり」「事実本位の生活態度を養成する」を学習することです。手っ取り早いところでは、「これで納得!実践的森田理論学習のすすめ」というテキストで説明しています。「かくあるべし」の弊害はご自分の経験を振り返ってみることが有効です。事実本位については、三重野悌次郎さんの「森田理論という人間学」(白揚社)が詳しい。それから事実をどう取り扱うかという点になると、「状況が人を動かす」(藤田英夫 毎日新聞社)をお読みになる事をお勧めいたします。目からうろこの本でした。さて「かくあるべし」というのは、観念の世界で作り出されます。人それぞれのモノサシを当てはめて、是非善悪の判定を下して、自分や他人に押し付けるわけです。特徴としては、硬直的で変化対応力に乏しい。人それぞれ多様な価値観で生活していますので、一方的に「かくあるべし」を押し付けると、対立が生まれます。この態度は、観念重視で、事実を軽視しているわけです。観念と一致しない事実は、非難、否定の対象となります。事実を隠蔽する、捻じ曲げる、捏造する、言い訳をする、平気で他人に責任転嫁をするようになります。そして最終的には、事実を観念の世界に合わせてしまおうと考えるようになるのです。人間の思い上がりも甚だしいと思わざるをえないところまで来ているわけです。この態度が、神経症を生み出し、人間の葛藤や苦悩を生み出しているのです。ですから森田理論の事実唯真、事実本位の考え方が大事になるのです。その9つの手法はこれから順次説明してゆきます。ここではその前提として、「かくあるべし」の弊害、事実本位の利点について理解してほしい。NHKの番組に「逆転人生」があります。この番組の冒頭部分で青い矢印がどんどん下降していきます。ところがある時点を境にして、赤い矢印に変わり、方向も上昇軌道に乗り始めます。森田理論でいうと、神経症と生きづらさを抱えてのたうち回っていた状態から、生きていくのが楽しいという心境と行動の変化が訪れるということです。それは「かくあるべし」を抑制して、事実本位の生活態度を身につけることで可能となるのです。この態度を身につけると2つの利点があります。事実唯真の生活態度は、葛藤や苦悩が少なくなりますので、エネルギーの無駄遣いがなくなります。また、事実を素直に受け入れるという態度になると、生の欲望の発揮に向かって、その出発点に立てることになります。オリンピックの出場権を得るようなものです。有り余ったエネルギーを集中投下できるようになるので、やりがいの持てる人生へと昇華してくるのです。本日はここまでです。明日以降の投稿にご期待ください。
2021.07.12
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私は宇野千代さんの考え方に共感を覚える。私は固く信じているが、人の中には、駄目な人は一人もいないものである。人と人との相違は、その人が自分の良い芽をひらかせるような気でいるか、或いは摘み取ってしまうような気でいるか、その違いである。誰にでも、その人の持っている芽、と言うものがある。その芽を太陽のよく当たるところへ出して、ときどき水をやり、肥しもやっているか、或いはそこら中へおっぽり出して、まるで構わないでいるかで、勝負は決まる。私の一番嫌いな人は、「私駄目なんです。生まれつき文章なんて書けないんです」という人です。これは恐ろしいことであるが、つい、今しがた、その気もなくて言ってしまった自分の言葉の、「私駄目なんです。生まれつき、文章なんて書けないんです」と言った自分の言葉が自分の耳に反射して、ほんとうに、自分のことを自分で駄目だと思うようになるのではないだろうか。噓にでも冗談にでも、自分は駄目だなどと言ってはならない。自分は書ける、とそう言い切ることである。その言葉の反射によって、自分では思わず、自分は書ける、と思い込むようになる。謙遜は美徳ではなく悪徳である。人の持っている好い芽は決して摘み取るものではなく、伸ばすことが大切である。芽は手当次第でどんどん伸びる。伸びない、などとは夢にも思ってはならない。伸びる、伸びる、どんどん伸びる。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫 55ページより引用)集談会で「自分が好きになれない」「自己肯定感が持てない」という話を聞きます。その最大の原因は、事実、現実、現状と絶えず敵対しているからだと思います。観念的に考えると、物足りないこともあるでしょう。決して見逃すことのできない欠点や弱みもあるでしょう。理想主義、完璧主義、目標達成第一主義を標榜し、コントロール欲求の強い人、征服欲の強い人は、自分や他人の現状を、理想や完全な状態に引き上げることを願っているのです。犬も食わないような代物を、むりやり口にくわえようとしているようなものです。その発想が根本的な誤りなのです。そのことに疑いをもっていないことが不幸を招き入れているのです。空高く雲の上の自分が、地上に降りてきて、悪戦苦闘している自分や他人に寄り添うようにすれば、事態はすぐに好転換します。どんなに問題があろうとも、現実を踏まえて、そこにベースキャンプを張って行動を開始することです。簡単なことのように見えますが、観念優先の人にとって、かなりの難題です。宇野千代さんが言われていることは、自分の持っているプラスの面に焦点を当てて、それを活かす生き方をしている人は素晴らしい人であるということです。それしか生きる道はないのではないかと言われているのです。
2021.07.02
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エジソンは、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」といったそうです。バンダイミュージアムの金井正雄館長は、これは「1%のとっても大切なひらめきがなければ、99%努力しても無駄になってしまう」と訳すのが正しいと述べられています。エジソン研究所では、エジソンがひらめきをスケッチし、それをもとに助手がデザインし、5000人のエンジニアが製品化していました。いずれにしろ、エジソンはひらめきの天才であったということです。もっと言えば、ひらめきの持つ意味についてことさら関心を寄せていた人であったのです。森田理論では、「ひらめき」のことを「気づき」とか「発見」と言います。気づきや発見に至るためには、目の前の物や出来事を、素直な気持ちになって「見つめなさい」と言われます。そうすると何らかの感情が動き出すといわれています。しだいにやる気が出てきて、積極的な行動に発展してくると説明されています。私は、見つめているだけで、「ひらめき」や「気づき」は出てこないのではないかと思っています。見つめている時に、問題点や課題、改善点や改良点が見えてくることが大切になる。それを何とか改善・解決したいという気持ちが湧き上がることが必須だと思います。でもその時は妙案が浮かばない。仕方なく、そのままにして目の前のなすべきことに取り組んでいく。すると、その時の問題点や改善点、疑問点は無意識の領域に降りていく。それは全く忘れてしまったのではなく、無意識の領域では解決すべき課題として生き続けているということだと思います。人間には顕在意識と潜在意識があるといわれています。潜在意識とは無意識と言われています。顕在意識はほんの数パーセントで、ほとんどは無意識の領域に埋もれている。たとえば、パソコンはキーボードを打つことで、字となってモニターに映し出されます。あるいは、ホームページの閲覧もできます。様々なアプリケーションが起動できます。しかしその裏では、私たちは全く気が付きませんが、デジタル信号が高速で飛び交ってソフトを立ち上げているわけです。私たちの顕在意識というのは、モニターに映し出された文字や画像のようなものです。その裏には膨大な量の無意識が縦横無尽に動き回っているというのが真実ではないのでしょうか。その無意識が「ひらめき」とか「気づき」といった形で、突如顕在意識となって浮上してくるということかもしれません。エジソンの場合は、その潜在意識が顕在意識として表面化したとき、きちんとキャッチしていたのでしょう。そしてそれを温めて、多くの発明に結びつけていたということです。「ひらめき」や「気づき」は、実は様々な場面で、泉のようにこんこんと湧き出ているのです。それを宝物として取り扱っている人とすぐに忘れてしまう人がいるのです。「ひらめき」や「気づき」は、捕まえようと構えている時には、でてこないことが圧倒的に多い。「三上」という言葉があります。馬上、枕上、厠上のことです。馬にまたがって移動している時、寝入りばな、トイレで用を足している時に、突然「ひらめき」や「気づき」が出てくるというものです。さらに言えば風呂に入っている時などです。いずれの場合も、メモを取ることはできません。そのうち用を済ませたころには、そのことをすっかり忘れてしまう。実に残念なことになります。地団駄踏んでどうにもなりません。森田理論の考えでは、「ひらめき」や「気づき」を確実にキャッチするという習慣を身につけないと、モチベーションを高めて、生産的、建設的、創造的な行動につながりません。どうすれば、きちんと掴まえることができるのか。とっておきの方法については、明日の投稿でご紹介いたします。
2021.06.29
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今日の投稿は事実を先入観や決めつけでみてしまうと大変なことが起きるという話です。ある学校で、プログラミングの誤りから、コンピューターが秀才の子供をすべて学習能力が低いと表示し、逆に成績の悪い子をすべて優秀と表示してしまった。そのデータが、子供たちの基礎資料として先生たちに手渡された。5か月半後、その間違いが発見された際、事実を公表する前に、学校側は子供たちにテストを実施した。すると、驚くような結果が出た。秀才とされていた子供たちのIQ指数が著しく低下していたのである。つまり、彼らは、この数か月間、学習能力が低く、教えにくい、非協力的な生徒とみなされていたために、先生たちの誤ったパラダイム(ものの見方や考え方を支配している認識の枠組みのこと)が自己達成予言となってしまっていたのである。その一方で、もともと学習能力が低いとされていたグループのIQ指数は上がっていた。つまり、先生たちは、こちらの子供を賢い子として接し、その子供たちへの希望、楽観的なものの見方、期待感が、子供ひとりひとりの心に高い期待像と自尊心を植えつけていたのであった。先生たちは、最初の数週間がどのようなものだったのかと訊かれて、「それまでの教育手法がなぜだかうまくいかなかったので、教え方を変えてみました」と答えている。与えられた情報では、その子供たちは優秀だということになっていた。だから、うまくいかないのはきっと自分たちの方が悪いと考え、教え方を改善することに専念した。(7つの習慣 スティーブン・R・コヴィー キングベア出版 454ページより引用)もともと学習能力が低いとされていた子供にとっては、この上ない幸運でしたね。事実は学習能力が低く、やる気のない、授業をかき乱すような生徒だった。しかし先生たちは、この子たちは学習能力が高く、何事にも積極的に取り組む優秀な生徒だという強い先入観を持っていた。プラスのレッテルを貼って、ていねいに指導していった。もともと学習能力が高く、積極的で、協力的な生徒を放置してまで、それとは逆の子たちに期待をかけてその能力をもっともっと伸ばしてあげようと思っていた。成績が伸びないのは、自分の教え方のせいだと思って、教え方の方を改善していくようになった。元々出来が悪い子供たちにとっては、望外にも、高評価され、親身になって指導してくれる先生の期待に何としても応えたいと思うのは人情です。相乗効果が発揮されて、元々出来の悪かった子供たちは、どんどん伸びていったということです。可哀相なのは、元々学習能力が高く、積極的で、協力的だった生徒たちです。自分たちは勉強はできると思っていたのに、熱心に指導してくれない。なんか見放されているような気がする。誉めるよりも、注意されることが多くなる。期待されていない、自分たちは大切にされていない。こういうことは、先生の言葉や態度に現れてきます。すると先生に対する信頼感はどんどん失われてしまいます。本人の学習意欲も落ちてきます。なかには、先生に対して反抗的な態度に出てくる生徒も出てくる。そしてあらゆるところでその先生の悪評を拡散させる。卒業してからも「箸にも棒にもかからない先生だった」と噂する。同窓会に行ってみれば、罵声をあびせ、恨みつらみの合唱となる。悪い方の相乗効果が増幅されてしまうのです。森田理論を学習されている人は、事実を色眼鏡をかけて見ることの弊害はよくお分かりだろうと思います。事実を確かめないで、他人の話を鵜呑みにする。先入観、決めつけ、マイナスのレッテル張りなどで行動を起こしてしまうことは、自他ともに不幸の種をまき散らしているということになるのです。ですから、幸福な人生を送りたいと思うならば、事実以外のものには安易に近づかないという信念を持つことが大切になってくるのです。森田理論は、事実の取り扱いに詳しい。これを学ぶことができ、最終的に「事実本位」の生活態度を身につける事ができたならば、前途洋洋の人生が待っていると思う。
2021.06.24
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森田先生のお話です。歌でも、具体的と抽象的とでは、ちょっとした関係で、非常に感じが違う。啄木の歌に、次のような和歌がある。かくかくに 渋民村は 恋しかり 思い出の山 思い出の川渋民村がどんな所か知らないままに、なんとなく実感に共鳴するものがある。これを、「かくかくに我故里は恋しかり」といっては、抽象的で、なんとなしに感じが薄い気がする。落ち葉掃く 男に問へば 海安寺という句がある。海安寺がどんな寺か知らないけれども、さてはここがあの紅葉の名所かという感じが深くなる。「紅葉掃く 男ありけり 山の寺」では面白くない。(森田全集 第5巻 675ページ)森田先生は事実を具体的に話した方がよいと言われているのである。これは簡単なことのようであるが、徹底することは難しい。集談会の自己紹介で、「私は強迫神経症です」で終わってしまっては、アドバイスをもらえなくなる。強迫神経症でも、対人恐怖症、強迫行為を伴う強迫神経症、神仏恐怖、不眠障害、ガンなどの疾病恐怖症などと種類が多いのです。いつどんな時にこうした不安で頭がいっぱいになります。症状に振り回されて、家事、育児、勉強、仕事が手につきません。症状について具体的に話せば話すほど相手に伝わります。自分の症状を人に話すと、軽蔑されるかもしれない。家族や会社や知人に知れ渡ることになるかもしれない。こういう態度で、自分の症状についてはなるべく隠しておきたい。集談会で、自分の症状は封印したままで、効率よく神経症が治る方法だけを教えてらいたいという気持ちでは、神経症を克服することはできないと思います。私は初参加の人がいなときの集談会では症状のことは一切しゃべりません。話す内容は、ここ1か月の生活の中で、挑戦したこと、やってみたこと、失敗したこと、面白かったこと、うれしかったこと、苦しかったこと、悲しかったことなどです。これらを、家で事前に日記を見ながら思いつくままにあげていきます。そしてその中から一つに絞ります。それを具体的に、相手に関心を持ってもらえるように話を組み立てています。私の話にいかに共感してもらえる人を作り出すかに苦心しています。でも初参加の人が一人でもいる時は、この準備した話は自己紹介では封印しています。初参加者の人に対しては、私が35年前にもがき苦しんでいた対人恐怖症の話を具体的に詳細に話すようにしています。思わず感極まって声が詰まるときもあります。そういう時は相手にもよく伝わっているようです。その時に話す内容は推考を重ねて、いつでも分かりやすい話になるように整理しています。ノートにきちんとまとめてありますので、毎回同じ展開になります。いつも参加している人からすると、また同じ話をしていると思われるでしょうが、私は初参加の人だけに焦点をあてて、包み隠さず話しているのです。自己紹介では、基本的に2つの方法を、その時の状況に合わせて、使い分けているということになります。それぞれ、具体的で詳細な話になるように、事前の準備が欠かせないと思っています。話すことが苦手な人は、具体的で丁寧に話すための事前の準備が大切になります。これだけでも集談会に行くことが楽しくなります。
2021.06.20
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今日は森田理論が目指している3つの視点について投稿してみたい。1、私たち人間は生きていくために、やるべきことややらなければならないことはいくらでもあります。それに向かって努力し続けることは我々に与えられている宿命です。このことを、森田理論では、「生の欲望の発揮」と言います。しかし、この欲望を追求しようとすると、必ず不安がでてまいります。欲望と不安はコインの裏表にあたります。車でいえば欲望はアクセル、不安はブレーキです。目的地に向かうためには、アクセルを踏み込むことが欠かせません。しかし一旦走り始めたら今度はブレーキを活用して、状況に合わせてスピードを調節する必要があります。神経症に陥ると、アクセルを踏み込むことを忘れて、ブレーキの効き具合ばかり気にしているようなものです。もっとプレーキの効き目をよくするために全エネルギーを投入しているようなものです。これでは本来の目的を果たすことはできません。この間違った努力を生涯にわたって続けるという事は、失意の人生で幕引きとなります。2、人間は動物と違って大脳が高度に発達しています。特に思考力、創造力、分析力、想像力、問題解決力に絡んでいる前頭前野の存在は特質すべきところです。人間はこの大脳を大いに活用して、文明や文化を築いてきたのです。そのうち人間は、そこに胡坐をかいて、驕りや慢心が生まれてきました。自分たちの頭で考えたことが、事実よりも優先されるべきであるという驕りを持つに至ったのです。強大な「かくあるべし」を持って、自分や他人をコントロールしようとし始めたのです。そして事実を隠蔽・無視・否定・捏造するようなことが平気で行われるようになりました。この態度が人間の葛藤や苦悩を生み出しているのです。そして神経症を生み出す一つの原因となっているのです。森田理論では、このことを「思想の矛盾」を抱えて苦しむといいます。これを打破するために、「かくあるべし」を減少させて、事実本位の態度を身につけることが森田理論学習の目標となってきます。3、人間は事実を目の前にしたときに、事実を見極めようとするよりも、短絡的にそれが良いか悪いか、正しいか間違いか、白か黒かという価値の判定をする習性を持った生き物です。これは普段の生活を振り返ってみると思い当たることが沢山あると思います。「あなたの方が正しい」「あなたは間違っている」などという裁定を毎日繰り返しています。しかし元々自然現象には良いも悪いもないはずです。地震、津波、噴火、ゲリラ豪雨、雷などは、ひずみの拡大という原因があって、そのひずみの解消に従って発生しているわけです。決して人間を困らせてやろうと思っているわけではありません。それらの出来事に対して、是非善悪の価値評価の判定をすることに何の意味があるのでしょうか。子どものけんかにおける親の仲裁や刑事裁判の裁判官を思い出してみてください。自分の立ち位置は、第三者という安全なところに身を置いています。そして双方の意見をある程度聞いて、上から下目線で是非善悪の判定を下しています。裁判官の場合は法律に基づいて裁定をしています。たとえば以前の日本では、治安維持法という法律がありました。それに違反した人は処罰するという裁定を下していました。しかし、その法律が人権を無視した法律であった場合は、後で振り返ると、下した裁定そのものが間違いであったという事になります。しかし処罰した後ではすでに後の祭りです。事実に対して、人間が勝手に是非善悪の判定をするモノサシを作り、それを振りかざしてよいか悪いかという判定をしようしていることは人間の思い上がりも甚だしいということだと思います。森田先生は、この問題に対してどう説明されているかというと、価値判断するよりも、また自分の意にそわない事実であっても、安易な価値判断は抑えた方がよい。クラゲや空に放たれた風船のように事実と一体となり、自然の流れに身をゆだねるという態度になればよいといわれているのです。暑いときは暑さに身をゆだね、寒いときには寒さに身をゆだねるといった態度です。価値判断が入り込む余地がなく、つねに自然の流れと一体化しているというイメージです。そこに是非善悪の裁定が入ると、事実の取り扱いに間違いが起こります。ですから事実を人間の力で裁定するということは、差し控える態度が大事になります。事実に対して、是非善悪の価値判断しなくなった人は、大学卒業のレベルに達した人であると言われているのです。
2021.06.19
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森田先生のお話です。私はすべての治療に関して、どんな迷信的な事でも、これを排斥する前に、必ずまずなるたけ、これを実験する事を心掛けている。今も時々灸をしているが、昨年は、106回灸をした。しかし私は、まだ灸が、私の咳や腸のほうに、効があるのか・ないのか、区別はつかない。常に様々な条件において、疑いをもって実験を続けるのである。私が常に考えている事は、特に学者は、自分の研究問題に対して、常に疑い深くて、すべての条件を考え尽くして、これを証明する事を怠ってはならない。修養の浅い・思想の浅薄な人ほど、何事にも直ちに信用して、迷信などにも陥りやすい。医者の間にも、注射やある治療法が、直ちに非常に効能のあるように妄信する一方には、通俗療法といえば、頭から排斥して顧みないとかいう風の気の軽い人もいる。(森田正馬全集 第5巻 667ページ)森田先生は、他人の話を鵜呑みにして、事実確認を怠ることはあってはならないことだと言われている。事実の裏付けが取れないものを、事実として取り扱うと、それに基づいて立てた解決方法は間違いになることが多い。また一からやり直しとなることが多くなる。それまでの努力が無駄になる。時間とお金の無駄遣いが発生する。その間違った対応が他人に苦痛を強いることにもなる。他人の話をすべて鵜呑みにしないで、自ら現地に足を運び、事実確認怠らないという姿勢が厳しく問われているのです。決して早合点して、短絡的な行動に走ってはいけない。少し前に、国会では外国人に土地を売ることについて規制を緩めるべきだという法律が審議されていた。これは明らかに中国を念頭に置いたものだと思われる。中国は日本の国土を虫食い状態に買いまくることを画策しているようだ。この法案の背景には、中国の意向を忖度しようとしているのである。私はこの法律には反対の立場です。まず日本の国土が外国人によって買いまくられている実態を詳細に調べ上げることを提案したい。特に北海道は悲惨な状態だ。空港周辺の土地など、3分の1はすでに中国のものになっているという。将来北海道は中国の食糧基地にしようという構想がある。北海道で作った食料は日本人の口に入るのではない。中国に送ることを優先する。北海道に移り住んだ中国人と日本人との間で紛争が起きると、人民解放軍が中国人保護のために正々堂々とやってくるという事態が想定される。今や親中派の国会議員がほとんどであるが、その人たちは中国のエイジェントとして政策立案にあたっているのだろうか。決して日本国民の幸せを増進することを第一目標に置いているとは思えない。これで日本の国土と日本人の生活を守り抜くことができるのだろうか。本来の目的を見失っているのではないか。私の田舎でも、農地は二束三文である。売れる土地はまだいい。田舎の人の話では、都会に移り住んでいる人は、田舎の農地は固定資産税もかかる。畔草を刈らないと近所から苦情の電話がかかってくる。もらってくれる人がいればただでもあげるという人がいるのが実態です。30m×100mに整備されている農地が買い手がないというのが残念です。もらう方は登記費用がかかる。それを負担するのは嫌だという。それを負担してくれるならもらってもよいなどと言う。中山間地の大切な農地が戦略的に買われてしまったあとではどうすることもできなくなる。このような実態を国会議員は知っているのだろうか。政府はコロナ対策も大事だが、それとともに国防、外交、治安の維持から手を抜いてはならないはずだが、如何なものだろうか。そんな土地を野放しにしていると、中国人に虫食い状態で買いたたかれることになるのではないか。それを仲介する会社が日本にある。日本では有名な会社である。インテリア大手の会社です。さらに北海道の知事や自治体の長が親中派では手の打ちようがない。それが全国各地で展開されると、日本は虫食い状態で内部から崩壊していくはずだ。中国は尖閣諸島を侵略した後は、台湾、石垣あたりを間違いなく侵略してくるだろう。本音としては、米軍が沖縄に駐留していなければ沖縄を狙っているという人もいる。台湾、南沙諸島と合わせて中国固有の領土にすれば、太平洋はすべて中国の支配下に入る。そんな状態を指を加えてみていてもよいのだろうか。そんな実態を調査もしないで、自国の領土を簡単に外国人に売り渡すような法律を作ってしまってもよいのか。それでも日本を愛し、日本の国の自立と日本人の生活を守り抜くことが可能であると思っているのか。そういう政党や政治家をのさばらせている私たちが、その事実に対して無頓着であることが一番の問題ではないのか。これでは私たちの子孫に対して申し訳ない気持ちでいっぱいである。
2021.06.12
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西郷隆盛さんが次のように話している。過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思ひ付かば、夫れにて善しこの意味は、「過ちを改めようとするのであれば、まず自ら間違いを犯したことに気づけば、それでよいのである」ということです。それ以上のことをする必要はないし、してはならないということだと思います。事実を素直に認めることができる人は、過去を思い出して後悔することがなくなる。反対に、事実をいつまでも受け入れられない人は、精神的に苦しくなるばかりだ。恥ずかしい過去の思い出、ミスや失敗を引きずっている人は、時々悪夢でうなされて、夜中に目が覚めてしまうようになる。そして夜が明けるまで、悶々とした時間を過ごす。誰でもミスや失敗をした場合、最初は「しまった。大変なことをしでかしてしまった」と思います。その事実を素直に認めて受け入れることができれば、ただちに事後処理に取り掛かることができます。思い煩う事がなくなる。これだけで実に安楽な心境になれる。ところが観念優先の思考が身についている私たちは、事実にたいして「かくあるべし」という物差しを当てて、裁判所の判事になり代わって厳しく裁く。その予想される判決に怖れをなして、素直に認めることができなくなる。予期不安に振り回されて、事実を隠す。ごまかす。言い訳をする。捏造する。他人に責任転嫁する。こちらのほうに、エネルギーを投入してしまう。森田を学習していないと、これが自然の流れとなります。これは東京から大阪に向かおうとしていたのに、間違えて東北新幹線に乗ってしまったようなものです。この方向へ進むと、他人に迷惑をかけ、自分を責めるようになる。事実を軽視する。事実よりも観念を優先する態度は葛藤や苦悩を増長させて神経症に陥る大きな原因となっています。森田では不安への対応方法の誤りと事実を軽視する観念重視の態度が神経症発症の原因とみているのです。事実を認めないと、下降基調から上昇基調へのきっかけを掴むことができません。逆に事実を認めると、無駄なエネルギーを使わなくて済む。省エネにつながります。そのエネルギーは、目の前の問題のある事実の修復、解決に投入できるようになる。問題や課題に取り組むことは、やる気やモチベーションを高めることにつながります。森田理論学習によって事実の取り扱いを十分に学びたいものです。森田理論学習をしている人は、もし「事実の取扱主任者」という国家試験があれば、ぜひ合格を目指していただきたい。そして実生活に存分に応用・活用してほしいものです。
2021.06.04
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「でもね」「どうせ」という言葉を普段からよく使っている人がいます。反対意見を述べることは、物事を多面的に検証できるというプラス面もあります。プラス面があるということは、必ずマイナス面もあります。この点は森田理論が指摘しているとおりです。今日は、これらの言葉に含まれているマイナス面に焦点を当てて考えてみたいと思います。こういう人は、目の前の事実を素直に認めないことが多くなります。相手の話を十分に聞かない。話の途中で腰を折る。短絡的に、先入観、決めつけ、風評、常識で自分が思いついたことを口にする。取るに足らない話だと判定して、相手の気持ち、考え方、意見を批判する。エスカレートして、相手を否定、攻撃し、責めたりする。このような態度を持っていると、人間関係は対立するようになります。相互の信頼関係が無くなり、人と交流することはむしろ苦痛になります。ビクビク、オドオドしながら交流するようになります。その時の意識は、責めるか責められるかという二者択一になりやすい。責められると相手に自由自在にコントロールされてしまうので、それだけは避けたいと思うようになります。そのためには一にも二にも、専守防衛に傾倒していくようになります。注意や意識が内向きになり、外に向かって解放できなくなります。こういう人は、他人ばかりではなく、その矛先が自分にも向けられます。欲しいものがあっても、でもお金がないから。目標が見つかっても、どうせ失敗してしまうから。やりたいことがあっても、でも才能や能力がないし。問題解決のために話し合う必要があるが、でも分かってもらえないし。こんな仕事をしてみたい。でもこの仕事では食べ行くことはできないし。これらは「でも」「どうせ」という言葉で、自分の気持ち、欲望、考え、意見を否定しているのです。「でもね」「どうせ」「しかし」という言葉を口癖のように使っていると思う人は、親しい人に聞いてみることです。それが自覚できたら、修正に向けて切り替えていく必要があります。相手が話しする前から、否定するという態度を改める必要があります。まず相手の話の内容、気持ち、考えを先入観なしに正確に理解することに努めましょう。「なるほど」「確かにそういう見方もありますね」「そうなんですか」「よく分かりました」「あなたはそういう考え方をされているのですね」「あなたはそういう気持ちを持っておられたのですか」「あなたの言いたいことはこういう事なのですね」ここで注意したいことは、相手の気持ちや考え方や主張をそのまま受け入れなさいということではありません。自分はこうしたい、こう考えているという気持ちも当然あるはずです。相手の気持ちや意見を受け入れるかどうかは、私の自由だという認識を持つことです。そうしないと相手の言いなりになってしまいます。それを「私メッセージ」という手法を使って、相手に伝えることです。「私の気持ち、考え、意見も聞いてもらえますか」「私はこんな風に感じています」「私はこういう考え方、見方をしていますが如何でしょうか」意見の対立があれば調整していくという態度が大事になります。責めるか責められるかという専守防衛の気持ちが強いと、勝つか負けるかにこだわって妥協点を探るということはできなくなってしまいます。戦うかしっぽを巻いて逃げまくるというのは、自ら葛藤や苦悩を背負って生きていくということになります。
2021.06.03
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ジャーナリストの堤未果さんによると、日本人の「マスコミを信じるランキング」は断トツで世界一だそうです。公益財団法人「新聞通信調査会」の全国世論調査によると、全面的に信頼しているを100点とした場合、NHKが73.5点、新聞が70.9点、民放テレビは63.6点 インターネットは58.2%であった。日本の次に、フィリピン、中国、韓国などが続いている。堤未果さんは、これはよい事なのでしょうかと疑問を投げかけておられます。もし報道内容に、真実が隠蔽、脚色、捏造されていたとすると、何も知らない国民は間違った事実を信じ込まされることになってしまいます。実はそういう報道がなされている場合があるのです。森田では事実に基づかないことを鵜呑みにすることは、あってはならないと言います。逆にテレビや新聞を全く信用していない国としてアメリカ、オーストラリアなどがある。アメリカの大手テレビ局は国際金融資本にほぼ買収されているという。ABCはディズニーに、NBCはGE(ゼルラルエレクトリック)に、CBSもどこかの投資会社に買収されている。彼らのビジネスにとって都合のよいニュースしか報道しない。たとえ真実を伝えたいキャスター、記者がいても、真実を伝えると即座に解雇されてしまう。ニューヨーク・タイムズの社内では、もはや自由に発言できるような雰囲気にはないという。今回の大統領選挙では、マスコミはかたよった報道しているということが、日本に住んでいる我々にもよく分かりました。たとえば、トランプ氏を非難する報道は、小さなことでもすべてのメディアが大きく取り上げていました。トランプさんは、国際金融資本の敵なので、再選されることは何としても避けたい。目を覆いたくなるような、かたよった報道を貫いていました。それで7000万以上の票を獲得したにもかかわらず落選したのです。イラク戦争以降、アメリカの大手メディアの信頼度はどんどん低下しているそうです。アメリカでは戦争を起こすことで、国内経済を立て直すことができるといわれているそうです。戦争によって莫大なもうけを上げる多国籍企業が出てくるのです。イラク戦争では、ミサイルをつくる軍事産業、石油会社、戦地に傭兵を送った派遣会社や傭兵会社、兵士の備品や食料、薬などを提供した民間会社、復興支援としてイラクの国営企業、金融機関、農業組織を解体して、その後二束三文で買収した多国籍企業などは笑いが止まりませんでした。戦争によって多くの兵士や民間人やが亡くなりましたが、そんなことはお構いなしです。むしろ、戦争が長引けば長引くほど、彼らには利益がもたらさられる仕組みが出来上がっているのです。だから政治家に献金して、戦争予算に賛成するように働きかけるのです。ロビーイストというのはそういう仕事です。そして買収したメディアを通じて、戦争をあおるようなことをどんどん報道していくのです。愛国心を煽り立てて、戦争に突き進ませようとするのです。イラク戦争の発端を思い出してみてください。クウェートの少女がアメリカ議会公聴会の席で泣きながら「イラクの兵士がクウェートの赤ん坊を保育器からだし、次々と床にたたきつけて殺した」と証言しました。この証言の報道がきっかけとなり、当時反対の強かったアメリカの国内世論が一気に戦争支持にひっくり返したのです。ところが、1年後に、ニューヨーク・タイムズが、この少女は、実は駐米クウェート大使の娘で、証言はアメリカの広告代理店演出の芝居だったと報道しました。つまりアメリカ国民はまんまとでっち上げられた報道に騙されていたのです。時すでに遅し、アメリカはイラクを相手に悲惨な戦争に踏み切っていました。その結果、アメリカ兵の多くが亡くなり、帰還してからも精神障害などで苦しんでいます。それ以上にイラクの国民に犠牲を強い、イラクの国は国際金融資本の都合に合わせて解体・再編されました。国民が犠牲なって、国外の多国籍企業だけが法外な利益を手にしたのです。このように真実は闇に葬られて、捻じ曲げられた報道で、国民を洗脳していくのです。そして自分たちのビジネスチャンスを拡大し、法外な利潤の獲得を目指しているのです。やり方が巧妙で事実がオブラートに包まれているのです。人間の欲望の暴走がここまできたかという感じです。そこには最大多数の国民の幸せを願う気持ちは全くありません。真実の報道を隠蔽、捏造して、国際金融資本の利益を最大限に追及しようという野望が暴走しているのです。私たちが真実を知る権利を放棄して、無知でいることは、国際金融資本の思うつぼです。西側諸国は、まだまだ表現の自由があるといわれていますが、その実態は表現の自由を抑圧している国とあまり変わらないようです。私たちは事実をつかみ取るという不断の努力を怠ってはならないと思います。今の日本はかろうじてyou tubeチャンネルなどで真実が伝えられているように思います。アメリカは自由な表現をする人は、命の危険と隣り合わせという国になってしまったのだそうです。しかし日本もうかうかしていると、すぐに茹でガエル現象が起きてしまいます。なんとか真実にアクセスできる道だけは残しておきたいものです。
2021.05.27
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親鸞聖人の言葉に「悪人正機」説というのがあります。難しい言葉です。森田理論に近い言葉なので、あえて取り上げてみました。ここでいう「悪人」というのは、オレオレ詐欺やひき逃げ事故、殺人事件などを起こした極悪非道な人のことではありません。他の動植物の生命を無理やり奪って、生きながらえている人間そのもののことです。さらに欲望に目がくらんで、自己中心を前面に押し出して生活している人間のことです。親鸞聖人の言葉でいえば、煩悩を持って生きている私たち自身のことです。どこまでも我利我欲にまみれながら生きている私たち自身のことです。そういう意味で、この世で普通に生活している私たち自身のことです。人間というのは他の生き物を殺生して、初めて命がつながるという宿命を持った生き物です。是非善悪の価値判断する以前に、そういう存在としてしか存在できないということです。そういう意味では、少し手を抜くと、自己中心的な欲望は暴走してしまいがちです。どうすることもできない欲望に縛られて生きている私たち自身が「悪人」なのです。「正機」というのは、阿弥陀様はこの悪人こそ、精神的に救うべき対象としているということです。悪人いうのは、自分は多くの動植物や、他の人に迷惑をかけながらこの世で生きながらえているという自覚をもっている人のことです。そういう心掛けの人は、精神的に安定した境地に達することができるということだと思います。このことは森田理論に照らして考えると、欲望はどんどん弾みがついて暴走する危険性を孕んでいます。生の欲望の発揮と言いますが、無制限に追い求めてはいけない。私たち人間には、精神拮抗作用という欲望を制御する機能も標準装備されています。それを活用して、無制限な欲望の追及は制御していく必要がある。つまり欲望は不安を活用して、バランスや調和を目指していく必要があるということです。浄土真宗の場合は、念仏を唱えることで阿弥陀様がその方向に導いてくれます。私たちの場合は、森田理論を学び、生活に応用することで可能になります。親鸞聖人の思想は、「他力の思想」だと言われています。他力の思想は、他人に依存することを連想させます。イメージが悪い言葉です。森田では、自力の思想で運命を切り開いていくと教えています。ただ親鸞聖人は、そのことをおっしゃっているのではありません。自分の頭で考えた思想や主張を前面に押し出して、現実、現状、事実を否定するような態度は如何なものかと疑問を投げかけておられるのです。これが親鸞聖人のいう他力の思想なのです。これは森田理論でいうと「かくあるべし」を振りかざして、現実や事実を否定してはいけないということです。事実に対しては、どんなに承服しがたい事案であっても、服従する方がよいということなのです。どこまでも観念の世界、自分の立場を押し通そうとするのではなく、もっと謙虚になって事実本位に生きていきましょう。大自然に溶け込んで無理のない生き方を目指していきませんかという提案をされているのです。森田でいう事実唯真の世界のことをおっしゃられているのです。「他力の思想」は極めて森田の神髄に近い言葉なのです。
2021.05.22
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今日は木曜日放送の「プレバト」という番組を紹介したい。ファンの人が多く改めて紹介するほどのことはないと思いますが、森田の事実本位の態度を養成するうえで格好の番組である。俳句では、夏井いつき先生と俳句名人の梅沢富美夫さんのやり取りが面白い。それに加えて、浜田雅功さんの突っ込みも面白い。そして昇段、降段、現状維持の査定にハラハラさせられる。特に夏井先生の的確な講評にはいつも感心させられる。こんなにはっきりとものが言える女性には頼もしさすら感じる。いつも夏井先生にやり込められているが、梅沢さんの俳句の実力は相当なものである。事実の観察、感情の高まりを、季語を絡めて5・7・5の言葉で表現する。感受性の鋭い人でないと言葉の奥に隠れている感性は表現できない。自然と触れ合って、豊かな感性のほとばしりを楽しむ高尚な芸術だと思う。この点、神経質性格者は、元々鋭い感性が備わっている。俳句の基礎を学び、自然観察力を磨いていけば、優れた俳人になれる可能性がある。続いて野村重存先生の水彩画である。水彩画というのは、自然観察から始まる。自然をよく観察しないとそもそも絵は描けない。絵を描く人は、生活の中で四方八方にアンテナを張って緊張感を持って生活している人だと思う。森田ではそういう習慣を作ることを目指しています。事実本位の態度を身に着けるためには、事実を正確に把握することから始めるのです。それには、水彩画はうってつけです。さらに野村先生は濃淡のつけ方と構図の取り方を評価の対象とされている。構図というのは、森田でいうとバランスのとれた水彩画かどうかということだと思う。バランスが悪いと何かすっきりしない。違和感のある絵となってしまう。それは空間の取り扱い、対象物の配置の方法に問題を感じるからだと思う。森田でもバランス、調和のとれた考え方や行動をお勧めしています。森田理論の「精神拮抗作用」「不即不離」の教えは、このバランス感覚の大切さのことを説明しているのです。私は熊本で開催された森田療法学会に特別参加したことがあります。そのときに刺激を受けたことがあります。それは、歌う森田、踊る森田を実践されている先生がおられるということでした。観念中心の生活から、身体を動かす行動への呼び水として、歌や踊りを取り入れている。これはリズム感を養成することにも役立つ。森田では規則正しい生活を目指しています。規則正しい生活を続けている人は、無意識の行動がリズムよく繰り返されているということになります。森田先生もダンスを楽しみ、このバランスのとり方の研究をされていました。森田では緊張状態と弛緩状態の波を上手に作り出していくことを目指しています。「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」という有名な言葉がありますが、これは一つのことをやり続けて飽きがくるときがあります。その時精神状態は弛緩状態に陥っています。それを解消する方法として、それを中断して、全く別なことに取り組む。そして新たな精神や行動の緊張状態を作り出すというものです。森田理論は、理解したことを、生活に応用することが重要になります。理論学習だけにめり込んでいる人は、思っているような成果はあがらないようです。俳句、水彩画、生け花、歌唱、カラオケ、社交ダンスに取り組むことで、事実本位の態度が知らず知らずに身についてくるとすれば、捨てたものではないと考えます。
2021.05.21
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加藤光一さんがハワイで水上スキーに挑戦されたそうです。モーターボートに引っ張ってもらい、海上をさっそうと滑る遊びです。私も経験がありますが、見た目と違ってとても難しい。最初はボードを足に装着して海の中に沈んでいます。モーターボートが動き出すと、しだいに海上に浮き出てくる。足をバランスよく突っ張っていないと、うまく立ち上がれない。ここでみんな苦労する。一旦立ち上がれば、水上スキーを楽しめることになります。スピードは40キロぐらいです。次はモーターボートの後ろには大きな波がたちます。その波を乗り越えて右に行ったり、左に行ったりするのが難しい。バランスを失うとすぐに転倒する。下手をするとボードが自分に衝突してけがをすることがある。自由自在にボードあやつり楽しめるようになるまでには、結構時間がかかります。加藤さんはインストラクターを頼んだ。その人の教え方が凄かったという。彼は、初歩的なことが出来ずに何度も同じ失敗を繰り返す私を叱ることもせず、「誰でも最初はそんなものだ。ナイストライ!」「今のは惜しかった。もう一回やればきっとできる」と励まし続けてくれました。やっと体が起こせるようになったものの、姿勢を維持できずにすぐ転んでいたときも「体の起こし方はばっちりだから、今度はもう少し足を突っ張れ!」「今の体の動き方はいいぞ。もう一度だ」と、できた部分を繰り返しほめてくれます。うまくいかないときでも「お前の年齢でこんなに早く体が起こせるようになるやつはいないぞ」「こんなにトライするなんてすごい」と励まし続け、しまいには転んだ時にまで「今のコケ方はよかった」とほめてくれます。そのうちわずかながら、ついに水上に立って滑ることができるようになりました。彼は、「今のはよかった。完璧だったぞ」と言ってくれた。そして笑顔で握手を求めてきた。いつもなら1時間も動き続けていれば休みたくなるところですが、疲れも忘れて「もう1回」「もう1回」と自分から練習に向かっていくことができたのは、きっとほめられ続けていることがポジティブに働いたのだと思います。日本ではミスや失敗をすると、「ドンマイ」(気にするなとか心配するな)といいますが、彼は「ナイストライ」(勇気を持ってよく挑戦した。その態度が素晴らしい)を連発した。(「ほめちぎる教習所」のやる気の育て方 加藤光一 角川書店 44ページより引用)この話は森田理論と関係がありますね。私たちは他人がミスや失敗をすると、あざわらい軽蔑することがあります。そして人のミスを見ると、優越感に浸り、急にやる気が出てくるという人もいます。仕事の場面では叱責、非難、始末書の提出、左遷、降格、退職勧奨へと進みます。相手は取り返しのつかないミスや失敗で意気消沈しているのに、それに追い打ちをかけるようなことを平気でします。この態度は火に油をかけるようなものではないでしょうか。ミスや失敗した人を非難・否定することはよいことは何もないのに、どうしてもその方向に流されてしまいます。これは森田理論でいうと、事実をありのままに認めることができない。理想や完璧という観念の世界にどっぷりと身をおいて、事実を否定する出来事を注意深く監視しているようなものです。そしていったんそういう出来事が発生するとサイレンを鳴らして、突撃しているようなものです。そんな人が全く気づいていないことがあります。そういう事実軽視で他人を攻撃する人は、反対に自分がミスや失敗をしたときは、格好の攻撃材料を相手に提供しているのだということです。今まで相手を追っかけていたのに、反対に相手から追い回されるようになる。すぐに立場は逆転するということがよく分かっていないのです。事実を軽視する人は、生活態度が常に防衛的になります。建設的、生産的、創造的な方面に投入すべきエネルギーを自己防衛に投入せざるを得なくなるのです。もったいないというか、その努力はむなしくなります。そして無気力になります。最後には、ミスや失敗を恐れて積極的な行動ができなくなります。また、ちょっとしたミスでも隠すようになります。ごまかすようになります。他人に責任転嫁するようになります。「かくあるべし」を前面に押し出して、他人を非難・否定を繰り返す人は後悔の多い人生を送ることになります。人間に生まれたことを怨むようになると思います。
2021.05.12
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こどもの教育相談の昌子武司さんのお話です。広一君のお母さんから聞いた話です。ある日、広一君の家にとなりの芳夫君のお母さんが苦情を言いに来ました。広一君が芳夫君とけんかをして、けがをさせたというのです。芳夫君の頭にはコブができて、血がにじんでいました。芳夫君の言うところによると、広一君は芳夫君にかなわないと思ったのか、石を持ってぶったというのです。広一君のお母さんはすっかり逆上してしまいました。すぐに広一君を玄関に呼んで、芳夫君にあやまらせようとしました。ところが、普段はすなおな広一君なのに、その時だけは、「だって・・・」といって、謝ろうとしません。「だっても何もないでしょ。あやまりなさい」お母さんは、いやがる広一君をおさえつけるようにして、あやまらせたそうです。もちろん芳夫君親子が帰ったあとも、クドクドとお説教したのはいうまでもありません。それでも、その日のことは一応それでおさまりました。それから何日かたってからです。夕ごはんを食べながらおしゃべりをしているとき、何かのきっかけで広一君が話しはじめました。「芳夫君はひどいんだよ」「どうして」「だって、ユーちゃん(弟)に草を食べさせたんだよ」「ええ、どうして」広一君はトギレトギレに次のようなことを話したそうです。広一君一家は半年ほど前に、いなかから越してきたばかりでした。芳夫君と広一君兄弟が遊んでいるとき、芳夫君は「お前はいなかからきたから、草が食べられるはずだ」といって、小さな弟の口に草をつっこんだのです。弟が泣き出したので、広一君は「やめろ」と何度もいったのだけれども、芳夫君はいっこうにやめようとしなかった。それで腹をたてた広一君が、そばにあった石を取って、芳夫君の頭を叩いたというのです。お母さんは、先日の自分のしかり方を思い出して、ゾッとしたといいます。まさか、こんな事情があるとは思わないで、いちずに広一君が悪いときめつけて、無理やりにしかりつけた自分のやり方が、広一君をどれくらい傷つけたかを思うとたまらない気がした、と言います。いつもすなおな広一君が、なかなかあやまろうとしなかった理由もよく分かったので、その場で、「ごめんね」とあやまったそうです。もしこのような対応を、2度3度と起こすと、子供はひどく傷つくことになるでしょう。そしてひねくれものになって反抗的な子供になるか、ウソをつく子供になるに違いありません。(逆効果の心理 昌子武司 あすなろ書房 117ページより要旨引用)この話は森田理論学習をしている人に参考になります。真実を調べないで、表面的な出来事に基づいて、相手を非難・否定してしまうことがどんなに問題を複雑にし大きくしてしまうかということです。先入観、決めつけ、レッテル張りで価値判断をする人は、自他ともに、とてもつらい人生を送ることになります。事実を認めない人は、非難、否定、叱責、脅迫、指示、命令の天才ですね。そういう人は犬も食わない人柄を持ち合わせています。誰でも他人から敬遠されるような人間にはなりたくないでしょう。森田理論は、「観念優先の態度を事実本位に切り替えなさい」と教えてくれました。生きる喜びを味わいたい人は、「かくあるべし」という態度を改めて、事実に素直に従うことですぐに変身できます。デール・カーネギーは、名著「人を動かす」という本の最初の部分で「盗人にも5分の理をみとめよ」と言いました。どんなに凶悪犯であっても、まず相手の言い分を十分に聞いた後で、対応策を議論しないと大変な間違いを犯すことになると警告しています。これをキャッチフレーズとして、事実本位の獲得を目指していくことをお勧めしたいと思います。
2021.05.09
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この連休中に田舎で森田の「事実本位」に関する貴重な体験をした。今日はその話を投稿したい。私は田舎に1町歩の田んぼを持っている。この田んぼは長らく小作に出していた。その方が昨年度で小作契約を解除したいと言われた。昨年の夏の頃の話だった。その理由は、ある田んぼの水はけが悪く、コンバインがめりこんで立ち往生するので、作業効率が悪いからということだった。事実この田んぼは5年に1回くらいしか作付けされていなかった。その話を聞くと、妙に納得できる話だった。そこで新たな引き受け手を見つける必要があった。なにしろ、トラクター、田植え機、コンバイン、乾燥機を持っていないのだ。それらを全部取りそろえると、700万から1000万円の投資となる。幸い、地域には営農組合集団があり、依頼するとすぐに引き受けてもらえることになった。営農組合の人も、水はけが悪く、ぬかるむ田んぼが含まれていることは十分知っていた。私は、この田んぼは、今までと同様耕作放棄地にされるのではないかと予想していた。営農組合の人は、引き受けるからには当然作付けしますという。私は驚いた。しかし水はけの悪い状態のままで作付けすることは、作業効率の面でおおいに問題がある。作付けしないほうがよかったという結果になることが目に見えている。あるメンバーは、早速水はけの悪い原因究明に取り掛かるということだった。湧水が湧いてくるのか、地盤に問題があるのか、高低に問題があるのか、今の段階ではよく分からない。あらゆる面から検討して対策を打つといわれた。頼もしく感じた。そして試行錯誤の上で一つの仮説を立てられた。たまった水の逃げ道を作ればぬかるむことがなくなるのではないかという話だった。その仮説を基にして、冬から春先にかけてユンボーという機械を使って田んぼの端に40mくらいの溝をつくられた。田んぼにたまった水を、いったんその溝に集めて排水してみるといわれるのだ。その結果を見て、もしうまくいかなければ、暗渠排水も考えてみるということだった。私は以前の受託者と今度の受託者の違いをまざまざと見ることとなった。それは森田理論の事実をどう取り扱うかということと大いに関係することだった。両者とも水はけが悪く、ぬかるむ田んぼがあることは認めている。問題はその先だ。以前の受託者はその事実を受けいれることができなかったのだ。その事実に向き合うことをしないで、始末の悪い、いわば敵とみなしていたのです。毛嫌いして無視しようとした。つまり事実を否定していたということです。長らく敵対関係にあったのです。その結果5年間も耕作放棄地にしていた。そのうちチェーンソーで切り取らないと取り除けないような草木が生えてきた。事実を無視して、戦いを挑むようになると、こういう結果になるという見本のようなものです。これから考えられることは、家族、友人、親戚、仕事などの人間関係にも同様の対応をされているのではないかと思われます。一方、営農組合の人は、水はけが悪く、ぬかるむ田んぼに対して敵対していない。ぬかるむ田んぼを上から下目線で否定していないのです。両者の関係が事実という面において対等な関係にあるのです。決して「かくあるべし」でぬかるむ田んぼを悪者と決めつけていないのです。先入観や思い込みで是非善悪の価値判断をしていない。事実を事実のままに見ているということです。森田でいう事実本位の態度が出来上がっているということです。こういう関係を築いている人は、家族、友人、親戚、仕事などの人間関係にも好影響を与えていると思います。また、この態度は次の建設的、生産的、創造的な行動へつながります。水はけの悪い田んぼ、ぬかるむ田んぼをどうすけば、解消できるかという出発点に立つことができるということです。この出発点に立てるかどうかが、その後の展開を大きく左右します。一方事実をどうにも始末の悪いものだと決めつけて敵対関係に入った場合はどうでしょうか。次から次へと問題点が発生してきます。最後には破れかぶれとなって、自滅してしまう方向に向かいますね。この差は実に大きいと思います。また人間としての器の大きさの違いを感じます。事実を観念でいい悪いと価値判断しない。事実をそのままに認めるという態度を身につけたとき、その人の下降人生は、上昇人生へと逆転してくるということが実感として分かります。森田の達人というのは、この態度を身につけた人だと思っています。森田理論学習と応用によって誰でも身につけることが可能になります。
2021.05.05
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5月号の生活の発見誌に、水谷啓二先生の言葉の紹介があります。自己改造の努力をやめたとき、自己改造が実現した。今日はこの言葉の意味を考えてみたいと思います。神経質性格者は、小さなことにビクビクオドオドして、不安にとらわれる自分が受け入れられないのだと思います。そこで、性格改造を画策するようになるのです。発揚性気質の人、外向的で陽気で明るい人、社交的な人、交渉力のある人、リーダーシップのある人、小さなことは気にもとめない人、考える前に手や足が動いている人などを目標にしています。神経質性格者は、生の欲望が強く、負けず嫌いの面がありますので、挑戦することになるのです。またこれは自分の努力次第で実現可能だと信じて疑いません。性格というのは、他人が自分の言動を見て、あの人は社交的な人だと判断していることなので、表面的にはある程度可能になります。しかし、根本的に神経質性格を発揚性気質に入れ替えてしまうことは不可能だと思われます。持って生まれた神経質性格は、一生涯変わることはないと考えることが正解に近いと思います。神経質性格をきれいさっぱり無くしてしまうことは、ほぼ不可能だと思います。それに挑戦することは、実現不可能なことに無駄なエネルギーやお金を投入することになります。ではそのまま泣き寝入りするのか。そうではありません。もともと持っている神経質性格の分析をして洞察力を深めることが肝心です。私たちは神経質性格のマイナス面ばかりを取り上げて、悲観してきたわけです。どんな性格もプラス面とマイナス面が同じ割合で入り混じっています。マイナス面ばかりを取り上げて、否定しているとバランスが崩れてしまいます。ですから、マイナス面はそのままにして、プラス面に光をあてて、調和を目指す作業に取り組むことが肝心です。神経質性格者は豊かな感性を持っている。好奇心が旺盛である。生の欲望が強い。分析力がある。真面目で努力家である。責任感が強い。創造性がある。このような優れた面が沢山あります。自分がもともと持っているものを改めて再評価する必要があるのです。これは森田理論学習の「神経質の性格特徴」の学習で明らかになります。つぎにこれらを仕事や生活の中でどう生かしていくのか考える必要があります。これは集談会に参加することで、そのヒントはいくらでも見つかると思います。この段階に至りますと、自己改造を目指す意味はなくなります。元々持っている自分の優れた面を再評価して、それを最大限に活用することを考えるだけのことですから無理がなく、自然ではありませんか。その路線にのって生活を送ることは、人生が実り豊かになります。つまり無理なく自己改造が実現するということになります。
2021.05.04
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深谷純子さんのお話です。ある経営者の話です。彼は幼い頃、継母から壮絶ないじめを受けて育ちました。いじめに耐えられなくなって、高校生の時に家出しました。着の身着のままで東京に出てくると、建設作業員や水商売などあらゆる仕事を経験しました。その間、彼の頭から離れなかったのは、継母に対する恨みです。「あの人さえいなければ、自分は家出することもなかったし、高校も卒業できたかもしれない。高卒であれば、仕事だってもう少しましなところにもつけた。ひとりぼっちの東京でこんなに苦労することもなかった・・・」しかし、あるとき、ふと気づくのです。そうやって恨んでいても苦しい現状は何も変わらない。恨んでいる暇があれば、未来のために努力すべきじゃないか。いつか成長して、あの憎い継母を見返してやるんだ。彼は歩合給の厳しいセールスの世界に飛び込むと、猛烈に働きます。トップセールスになるとヘッドハンティングされて、さらにキャリアを積み重ねていきます。最終的には自ら会社を起こして大成功しました。(ひきずらない技術 深谷純子 あさ出版参照)この話は森田理論学習を続けている人には教訓となるお話ですね。継母を怨んでいた時は、何ともやりきれない無為の日々を過ごしておられました。でもこの状態で生活していると、自分の将来はない。そうだ、理不尽極まる現実を認めて受け入れてみよう。そして誰もが嫌がる完全歩合制の飛び込みセールスの世界に入り、懸命に努力されました。まさに背水の陣を敷いて、不退転の覚悟で仕事をされたのです。この経営者は、いままで理不尽極まる現実を否定ばかりしていたのです。それをやめて、現実を受け入れる方向にシフトされたのです。そのとたんすぐに風向きが変わってきました。自分に運が向いてきたのです。下降人生から上昇人生、つまり逆転人生の幕が切って落とされたのです。この話は、「かくあるべし」振りかざして、他人への恨みを増悪されることは、何もよい事は起きない。事実を認めて受け入れると現状打破に向かっての出発点に立つことができる。エネルギーの無駄遣いがなくなり、未来に向かって建設的な行動がとれると、自他ともに幸せになれるということだと思います。幸せというのは、気持ちの持ち方を変えることで手にすることができるということが分かります。この経営者は、会社を成功させ、社会的な地位や名誉も得たとき、彼の中から継母への増悪がいつの間にか消えていったそうです。憎しみは、同情や共感に変わっていったそうです。いまでは、「あの継母がいてくれたおかげで、いまの自分があるのだ」と感謝の気持ちでいっぱいだと話してくれたそうです。あんなに嫌っていたのに、事実にしたがう事で人間は大きく変われるものなんですね。森田理論を深めて、事実本位の態度を身に着けていきましょう。
2021.04.26
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森田理論の眼目の一つは、「かくあるべし」を振り回さないということです。「こうであるべきだ」「こうでなくてはいけない」という観念主義の立場に身を置いて、目の前の現実、事実を批判、否定する態度を弱めていくことが肝心であると言っているのです。分かりやすく言えば、自分は空高く安全なところに身をおいて、現実や事実の価値判断を行っているのです。これは人間だけに見られる現象で、動物にはありません。大脳が高度に発達しているからこそではありますが、人間はその使用方法を間違えているのです。事実は観念によっていかようにも取り扱うことができる。そうしなければならないと思っているとすれば、甚だしい人間の思い上がりです。人間に葛藤や苦悩がつきものなのは、現実や事実をあまりにも軽視しているということになります。観念優先から事実本位の切り替えに成功した人は、人を引き付けてやまない魅力的な人になれます。また精神的にとても楽な人生に切り替わります。「かくあるべし」に取りつかれている人は、職業でいえば、横柄な裁判官のようなものです。自分が裁かれることはない。六法全書を手がかりにし、いつも人や物事の是非善悪の判決を下して、すべての人を納得させようとしているのです。国家権力というものを後ろ盾にしているので、その力は強大です。せめて大岡越前の「三方一両損」のような裁定をしてほしいものです。観念主義を打破し、事実本位の態度を意識づける言葉として、「それはさておき」があります。この言葉は、「岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと水は流れる」という言葉に近い。いろいろと言いたいことはあるでしょう。批判、否定したいこともあるでしょう。でもそんな観念先行の言い分は封印して、まず現状や事実に向き合いませんか。そのためにはよく観察して、正確に現状や事実を掴むことが欠かせませんね。いままではほぼ100%、観念主義の立場にいたのでしたら、せめて20%くらいはその態度を改めませんか。最終的には事実を最優先する態度に切り替えることを目標にしましょう。そういう気持ちを持っていたとしても、常に観念優先に陥ってしまうのが人間の宿命です。でも努力するという気持ちがないと何も始まりませんね。天才バカボンは「これでいいのだ」が口癖でした。どんな弱みや欠点があっても、その自分を自己嫌悪、自己否定することはしない。自分はどんなことがあっても、自分自身を守り通してみせるのだ。自分は自分の最大の理解者なのだ。自分は自分の最大の味方なのだ。天才バカボンはステテコを履いて、腹巻をしてとんでもないキャラクターの人でしたが、その漫画を描いた赤塚不二夫さんの普段の人間関係を見ていると、事実本位に生きていた我々の手本とすべき人だったようです。事実本位の生き方は、人間本来の生き方を提案してくれているのです。
2021.04.24
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阿久悠さん作詞の「北の宿から」を、森田理論を踏まえて考えてみたい。あなた変わりは ないですか日毎寒さが つのります着てはもらえぬ セーターを寒さこらえて 編んでます女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿吹雪まじりに 汽車の音すすり泣くよに 聞こえますお酒ならべて ただ一人涙唄など 歌います女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿あなた死んでも いいですか胸がしんしん 泣いてます窓にうつして 寝化粧をしても心は 晴れません女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿この歌詞について、歌手の淡谷のり子さんが怒っていたという。「何なのよ、あれ、別れてしまった男のセーターをまだ編んでるなんて、みっともないでしょう」辛口審査員として鳴らした淡谷のり子さんらしいコメントです。阿久悠さんは、このコメントを聞いて、全く反論しなかったという。普通この歌詞を見ると、別れた男性に未練たらたらで、なんとかよりを戻したいという耐える女性を連想させます。私の思いを推し量ってどうか私のもとに戻ってきてください。私はどうしてもあなたのことをあきらめきれないのです。どうか私の願いを聞き届けてください。私はいつまでもあなたが私のもとに戻ってくるを待っています。この見解に対して、阿久悠さんは「饒舌の世代と寡黙の世代」と題するシンポジュームで反論している。この女性がセーターを編むのも、寝化粧をするのも、徳利を並べるのも、すべてセレモニーなのだ。一時は分かれの悲しみに身をやつそうとも、セレモニーを終えれば、悲しみと決別して新しい人生に旅立っていく。すべてこの女性は自分で判断し決断し、過去の人生をリセットするのだ。この歌詞の中で、「女心の未練でしょうか」とは書いていません。「女心の未練でしょう」と書いている。ここがポイントです。歌詞に「か」があるのとないのは大きく違う。歌詞に「か」が入ることで他者に答えを求める依存する女になるが、「か」がなければ自己判断する女性になる。ここでは、「女心の 未練でしょう」と自己判断する自立した女性をイメージしているのです。一度でも心を通い合わせた男女が分かれることは、辛いことだと言っているのです。特に女性の場合はそうです。阿久悠さんは、この女性を決して過去の男性に未練たらたらで、悲壮感に満ちた女性として描いているのではない。セーターにしたところで、編み上げたらポイとだれかにあげて気持ちにケリをつけることを想定していた。心の整理をつけ、けじめをつけたいという女性を想定していた。今までの楽しかった彼との生活にきっぱりと決別するためにはセレモニーが必要だったということです。すべての過去を断ち切って、新たな人生を切り開いていくための儀式を一人で行っていたということです。彼女の頭には、いまだに断ち切りがたい思いも確かにある。しかしそれにすがってばかりでは、自分の人生は終わってしまうかもしれない。切なく苦しいけれども、彼との関係は終わったという事実を改めて受け入れて、明日からは新たな旅立ちにしたい。そういう内容の歌詞なのです。淡谷さんのように表面的なところだけ見ていると、この歌詞に含まれた深い内容は分からないのです。森田理論と突き合わせてみましょう。彼とはどういう理由で分かれることになったのかはわかりません。性格の不一致、自分勝手な行動、金銭トラブル、生活の行き詰まり、相手の背信行為など様々な原因が考えられます。このような場合、普通は相手の非を訴えて示談にする。あるいは家庭裁判所の審判を仰いで、慰謝料で解決という流れになるかもしれません。自分のことは棚に上げて、相手の上げ足をとって、自分の有利な展開に持ち込むことばかりを考えるようになります。最終的にはそういうことも必要になるでしょう。ただここで森田が言いたいことは、別れることになったという事実にどう立ち向かっているかということです。将来の生活や子どものことを考えると、受け入れがたい事実かも知れません。でもそういう現実をつけつけられたとき、覚悟をきめ、けじめをつけて、その理不尽な事実を受けいれることができるかどうか。ここが運命の分かれ道です。その事実を受けいると、相手を罵倒し続け、いつまでも相手に未練を抱いたりすることはなくなります。そのエネルギーを自分の将来の生活設計、子供の養育などに振り向けることができるようになります。離婚という試練を乗り越えてもう一回り器の大きな人間として成長できることになります。下降ばかりの人生が、事実にきちんと向かい合うことで、上昇に転じるというきっかけとなります。反対に事実に反旗を翻すことになりますと、自分の人生は恨みつらみで暗澹たるものになります。(阿久悠 詞と人生 吉田悦志 明治大学出版会 159ページ参照)
2021.04.21
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考えただけでも怖いと思うことは誰でも持っています。これに出くわすと、すぐに目をそらす。絶対に避ける。早く逃げ出したい。先日の集談会で出し合ってみました。・歯医者に行くのが怖い。・獰猛な犬が怖い。蛇が怖い。特にアナコンダやハブやマムシが怖い。・クモが怖い。ムカデが怖い。猿が怖い。クマが怖い。カエルが怖い。・MRI検査で閉所に監禁されるのが怖い。胃カメラを飲むのが怖い。注射が怖い。・胃透し検査の時、ドロドロのパリュームを飲むのが怖い。・バリューム検査で、頭を下にして台を回されるのが怖い。・散髪屋、美容院に行くのが怖い。・自動車の運転が怖い。・バイクの運転が怖い。特にトラックが後ろから迫った時が怖い。・交通事故の現場に遭遇することが怖い。・高速道路でトンネルに入るときが怖い。・高速道路のトンネルの中で車が渋滞して止まるのが怖い。・上司が怖い。同僚が怖い。異性の社員が怖い。部下が怖い。・親や配偶者や子供の言動が怖い。・ホラー映画が怖い。戦争映画が怖い。テレビドラマで殺人現場のシーンが怖い。・カラオケでみんなの前で歌うのが怖い。・新幹線に乗るのが怖い。特急電車に乗るのが怖い。飛行機に乗るのが怖い。・バンジィジャンプ、ジェットコースターが怖い。・マンションの屋上に上がるのが怖い。・包丁を持つのが怖い。色々出てきました。これ以外にもあなた独自の怖いものがあるかと思います。人それぞれに恐怖の対象物が違うというのが面白いところです。そしてそれを精神交互作用で増悪して、信念として固着してしまっているのです。誰がなんと言っても、私は拒絶して逃げますという気持ちが強いのです。「私の怖いもの」の発言を聞いていて、「実は私もそうです」と共感する人もいます。特にあらゆることにとらわれやすい私たちには共通点があるのかもしれません。しかし共感できないという人もいます。他人の怖いという気持ちが、どうもよく分からない。そんなことにどうして恐怖を感じるのか不思議だというのです。そんなものを怖がらなくてもよいと言って、笑っている人もいるのです。あなたは頭が少しおかしいという態度がありありなのです。その人たちの言い分は次のようなものです。歯医者に行くことや検査をすることは、自分の健康に役立つことなのだから、それは進んで受けるべきことだ。診察台に固定されることぐらいは我慢しなさいよ。まむしドリンクやハブ酒は強壮剤ですよ。ニシキヘビの皮は三線になくてはならないものですよ。ドライブすることは楽しいことですよ。気分がすかっとします。飛行機の離発着の時は緊張するけど、水平飛行に入れば大丈夫ですよ。それよりも機内食が楽しみだ。酒もある程度は飲める。外の景色を見るのも楽しい。カラオケは無条件に楽しい。目標が持てるし健康維持には最適ですよ。他人と付き合うことは楽しみ以外の何物でもない。孤独で一人だけの生活は考えただけでもぞっとする。包丁を使わなければ、料理なんかできませんよ。この例から分かることは、自分が恐ろしいものは、他人も同じように怖いはずだと決めつけることは認識の誤りということです。みんなそれぞれに怖いものは、微妙に違っているということです。ただとらわれる対象が違うだけで、とらわれやすい体質を持っている点は共通性があると思います。神経質性格は、根本的なところはほぼ同じなのです。つぎに、自分の怖いものはどうして生まれたのでしょうか。何かのきっかけで恐怖の対象物に出くわした。その時確かに怖かった。あるいは他人からパニックになった時の話を聞いた。もし自分がそんなことになったらどうしようと考えた。そのとき、「そんなこともあるさ」とすぐに水に流せればよかったのだ。とらわれた人はそうはならなかった。それがトラウマとなって、逆に頭から離れなくなったのだ。そして注意と感覚の相互作用、つまり精神交互作用で、恐怖を恐怖するという強迫観念で苦しむようになってきたのです。始末が悪いことに、次から次へと予期恐怖するようになった。集談会で聞いてみると、パニック発作で救急車で病院に運ばれた人は数多いのが実態です。でも、パニック発作でそのまま入院したという人は一人もいませんでした。それこそ2時間から3時間後には、ウソのように収まっていたというのです。気分もうろうとなって、突然会社で倒れるのでないかと心配していた人もいました。でもそう思っていた人が、会社で倒れたことは一度もなかったといわれるのです。不思議なことですが、これが事実です。自分はパニック発作でいつか倒れる、死んでしまうというのは、ほぼ事実ではありません。それは自分が捏造して作り上げた「妄想」にすぎません。森田理論では気分や観念の世界で考えたこと、つまり妄想を優先してはならないと言います。倒れたことがないという確かな事実に気づいて、その事実を受け入れて行動することが肝心ですよと教えてくれています。森田を学習して事実の持つ重みに気づいた人は、パニック障害を克服しています。そして、さらに森田理論を深めた人は、その段階に留まってはいません。人生というのは、事実の上に成り立っている。事実に基づかないで、観念優先の態度や行動が、精神的な葛藤や苦悩の原因になっていたのだということをはっきりと自覚できるようになるのです。ここまでくると、目にする世界が全く違ってきます。例えていえば、霧の中でおっかなびっくりで車を走らせていた状態から、いつの間にか霧がなくなり、視界良好になり、安全運転ができるようになるようなものです。私は森田理論を学ぶ前は、事実の持つ重みに全く気が付きませんでした。森田理論に巡り合った幸せをしみじみと感じております。
2021.04.09
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神経症の渦中にいる人にとっては、ホッとする言葉になります。神経症を治そうとしなくてもいいのですよとお墨付きをいただける言葉だからです。でもそのままでいいなんて、症状の解消はできないですよね。なんかあきらめに近い言葉みたいですね。実はそうゆう事ではないのですよ。今日はこの言葉から症状を乗り越えるということを考えてみましょう。神経症というのは、もともと自分が自分自身に対して、解決困難な問題を考え出して、答えを導きなさいと迫っているようなものです。普通の人でしたら、そんな課題に真剣に取り組もうとしていないのです。興味や関心がないのです。時間の無駄だと思っているのです。そんな難しい課題や問題に取り組むよりも、目の前の解決可能な問題に取り組んだ方がましだ。学校のテストでいえば、やさしい問題を見つけて、確実に点数を稼ぐという戦法です。実を取る作戦、実利主義、現実主義を徹底しているのです。難しい問題はみんなもできないはずだから、大勢に影響はないはずだと思っているのです。また気になっても、目の前の仕事、家事、育児、勉強、付き合いなどに忙殺されて、かかわりあう時間的余裕がないのです。この方法は生活が好循環に向かうのです。神経質性格者は、真面目で責任感が強い。一旦食いついたら決して離さないという粘り強い面があります。これらは神経質者の長所ですが、反面短所もあります。気分本位になって、気が進まないことからすぐに逃避する。日常茶飯事のような価値のない事よりも、もっと意味のあるクリエイティブで、他人から称賛を得られるようなことに取り組みたい。誰でもできることは、人に頼るほうがよい。理想主義、目標達成第一主義、コントロール至上主義に陥ることがあります。そんな状態で生活していると、行動力が低下して、自己内省的になります。極めつけは、観念上の言葉遊びを繰り返すようになります。その時考えることはネガティブな事ばかりで、行動することはますますおっくうになります。そして精神交互作用で神経症の泥沼に落ちていくのです。これは学校のテストでいえば、やさしい問題はいつでもできるので、後で時間の取れたときにやればよい。それよりも誰も解けないような難問を見つけ出して、全エネルギーを投入している。その難問が解けないうちに時間切れとなってしまう。当然よい点数はもらえません。でもそのやり方は、別に悪い方法ではないと確信しているようなものです。実際には生活の悪循環で行動が停滞しています。「悩むあなたのままでよい」というのは、神経質性格者が、様々な不安、恐怖、違和感、不快感で葛藤、苦悩してのたうち回っている状態を見て、それを意志の力で無くさなくてもいいのですよと教えてくれているのです。それらは取り除く必要はありません。また取り除くこともできません。また心配性という神経質性格も、発揚性気質、社交的で外向的な性格に転換することはできませんよ。その必要もありません。つまりいくら現状の自分に不満であっても、非難、否定してはいけないということです。他人と比較して、才能や能力面で劣っている。容姿が悪い。貧しい生活をしている。などと思っても、自分を嫌悪・否定してはいけない。それらは放置しておけばよいということです。目の付け所を変えていけばよいのです。あるがままに受け入れて、目の前のなすべきことに全エネルギーを振り向けるのです。神経質性格は、理知的、分析的、真面目で責任感が強い、粘り強い、生の欲望が強いという優れた特徴がありますので、それらに磨きをかけていく方が得策ですよと教えてくれています。どんな状況に陥っても、自分は自分の敵に回ることは決してしない。自分というかけがいのない身体と精神を持った存在に、優しく寄り添って守り抜いてみせるぞという決意を固めて実践する態度が求められているのです。誰しもよく考えてみると、自分という一人の人間の中に、現実で苦しみのたうち回っている自分とそれを上から下目線で眺めて自己嫌悪している自分が同居していることに気が付きます。「悩むあなたのままでよい」というのは、強力な「かくあるべし」押し付けているもう一人の自分を自分の頭の中から追い出してしまいなさいと言われているのです。そして事実にしっかりと基盤を築いて生きていきましょうということなのです。現実の自分という立場をわきまえて、そこから少しだけ目線を上にあげて生活していくことが大切なのではありませんかと教えてくれているのです。
2021.03.19
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森田先生のお話です。「心頭滅却すれば、火も亦涼し」という事があるが、思うにこれは、洞山禅師の「暑さ寒さになりきれ」というように、苦痛・不快は、そのまま苦痛不快になり、あるがままになりさえすれば、そこに差別はなくなり、絶対になって、心頭のはからいがなくなり、苦痛も消滅するということであろう。苦痛はそのまま苦痛する。やはり絶対である。しかもそれは事実であるから、なんの策略も・骨折りも・修行もいらない。ただこれだけの事で、神経質の頭痛・不眠・耳鳴り・胃アトニー・心悸亢進発作やなんでも極めて簡単に全治する。耳鳴りは苦しいままに、その耳鳴りに明け暮れ聞き入ればよい。心悸亢進発作は、恐ろしいままに、静かにその発作を見つめていればよいとかいう風である。(森田全集 第5巻 667ページ)普通に考えると、不安、恐怖、苦痛、不快などは、きれいさっぱりと取り除いてしまいたいと考えます。その方法が有効な場合があります。この一面を無視してはなりません。むしろこれを第一優先順位とする。いつ大きな地震が襲ってくるか分からない。大津波がやってきたらどうしよう。ガンになったらどうしよう。くも膜下出血になったらどうしよう。その他、いろんな不安や恐怖が次々と湧きあがってきます。これらの予期不安は、ありがたく受け取ることが大切です。不安に学び、対応策をたてて、即実行することが求められます。「不安は安心のための用心である」ということです。不安の元がなくなるとともに、葛藤や苦悩が解消されます。現実的な不安は積極的に手を出していきましょうということです。基本的に将来に先送りすることで、問題解決を遅らせ、問題をますます大きくするような事は、不安解消に向けて積極的に動く必要があります。また他人に役立つことは積極的に行動に移した方がよい。さて、森田先生が言われている不安、恐怖、苦悩、不快は、今述べたものとは全く異質なものです。神経症的な不安の特徴は、手を出すことで問題解決に役立つ不安ではありません。葛藤や苦悩があるというけれども、それは自分の頭の中で作り出したものです。現実的な問題点や不具合があって、改善や修正できるものは何もないのです。自分の身の回りの状況にはあまり関心がなく、自分の作り出した不安と戦っているのです。一人で相撲を取っているようなものです。自分の心の中に仮想の敵を作り出して、それを倒さないと自分は安心して生活することが出ない。何としても仮想の敵を倒して、平穏な生活を取り戻そうとしているのです。その状態は傍から見ると、精神異常者に見えてしまうほどです。ここで有効な対応は、仮想の敵を無くしてしまえばよいのです。自分という一人の人間の中に、自分を守ろうとする自分とその自分を破壊してしまおうとする自分が同居しているわけです。自分をとことん守ろうとする自分だけに統一できればよいのです。つまり自分自身を破壊してしまおうとしているもう一人の自分を追い出してしまうのです。自分は自分の最大の味方であるという方向で一本化していけばよいということです。そのためにどうするか。「かくあるべし」を自分に押し付けることをやめる事です。減少させていく努力を開始することです。最終的には、どんなに問題がある自分だと思っていても、すべてをまるごと許してあげることです。暖かく包容力のある手で寄り添ってあげることです。そして事実、現実、現状にしっかりと根を張った生き方を開始することです。森田先生の言葉をじっくりと見直してみると、観念の世界で思いついたことを前面に押し出すやり方は間違っている。それより事実、現実、現状の世界で起きていることをよく観察し、そこを基地にして生活するという方向に転換すればたちまち神経症はなくなる。事実の世界を無視して、観念至上主義に陥っているのは大きな認識間違いをしているのですよと教えてくださっているように思います。
2021.03.15
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阿久悠という作詞家がいた。この人の作詞した曲に「ジョニーへの伝言」というのがある。ジョニーが来たなら 伝えてよ2時間待ってたとわりと元気よく 出て行ったよとお酒のついでに 話してよ友達なら そこのところうまく伝えてジョニーが来たなら 伝えてよわたしは大丈夫もとの踊り子で また稼げるわ根っから陽気に できてるの友だちなら そこのところうまく伝えて今度のバスで行く 西でも東でも気がつけば さびしげな町ねこの町は友だちなら そこのところうまく伝えて今度のバスで行く 西でも東でも気がつけば さびしげな町ねこの町はジョニーが来たなら 伝えてよ2時間待ってたとサイは投げられた もう出かけるわわたしはわたしの 道を行く友だちなら そこのところうまく伝えて うまく伝えて場所はアメリカのど真ん中にある町の、バス停を兼ねたドライブインのようなところです。この町で一緒に暮らしていた男女が、生活のために新天地を求めてこの町を出て行くことにしました。このドライブインで待ち合わせをしていたのですが、相方のジョニーはやってきません。ジョニーがやってくるのを待ちながら、彼女が顔なじみのバーテンダーかウェイターかと話ししている場面です。彼がやってくるのを、もう2時間も待っているのに、一向にやってこない。そう多分私はジョニーに捨てられたのです。わたしは、2時間待って、ジョニーに対しては、充分すぎるくらいな誠意は尽くしました。それは今でも未練はあります。今まで一緒に暮らしていたのですから。でももう来ないなら来なくてもよい。きっぱりと未練を断ち切って私は一人で生きていきます。男手なしで、女一人で生活していくことがどんなに大変なことはよく分かっています。でも私を見捨てたジョニーに未練がましく電話をする事なんか決してしません。また彼の不誠実さを攻め立てることもしません。それが私の運命だったのですから。例えそれで無理やり元のさやに納まったとしても、またすぐに気持ちが離れていくことは目に見えています。だからネチネチと彼に追いすがることは止めようと思っているのです。私は幸いダンサーとして生きていくあてがあります。東に行けばニューヨーク、西に行けばロスアンゼルスあたりでしょうか。風来坊の大変な生活が待っていますが、私はその道を選んでこの町を出て行きます。もう決して会うことはないでしょう。「気がつけばさびしげな町ね この町は」という言葉は、ジョニーと過ごした楽しかった過去の生活とは、もはや決別しなければならない時だということを暗示しています。私はその覚悟を固めました。もう決して後ろを振り返ったりはしません。自分の力で新たな道を歩んでいきます。わたしはこの話を聞いて感じたことは、森田理論の「事実唯真」です。名前は書いてないですが、登場人物の彼女は、ジョニーのために精一杯尽くしていたのでしょう。ところがジョニーは自分に対してはつれない態度をとった。ジョニーは、別な女性と暮らすことを選択したのかもしれません。女性の立場に立てば、決して笑って許せるような事ではありません。普通なら誰でもそんな事実を素直に受け入れることはできないでしょう。多分離婚訴訟を起こして、できるだけ多くの慰謝料をふんだくることを考えるでしょう。登場人物の彼女はその理不尽極まる事実を仕方なく認めて受け入れています。そして過去の未練を断ち切って、視線をこれから先の生活に向けている。ここが凄いところです。これは、「かくあるべし」という観念の世界にどっぷりと身を置いていては決してできないことです。事実を事実として正しく認識することで、初めて可能になるのです。どんなに受け入れがたい事実でも、それに反旗を翻すと、一時的にはすっきりするかもしれません。でもそうすればするほど、自分が益々みじめになることが体験的に分かっているのでしょう。彼女のような方向に舵を切ると、初めて逆転の人生が幕を上げるということになるのです。阿久悠さんは、今までの歌謡曲というのは、女性が男性に捨てられて、嘆きかなしむ「怨歌」だった。あるいは未練たらたらでドロドロした男女関係を歌った「艶歌」だったと言われている。そういう歌詞は私は書かない、書きたくないと言われている。みじめで、キズをなめ合うことになってしまうからだ。共依存の関係に陥ってしまう。不幸や理不尽な出来事を逆手にとって、自立する女性を応援する歌詞を書きたいと言っておられます。事実を認めて受け入れるという事実唯真の立場に立つと、たちまち「怨歌」や「艶歌」が、前向きな「援歌」に変わるのだと言われているように感じる。(阿久悠 詞と人生 吉田悦志 明治大学出版会を参照しています)
2021.03.06
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水谷先生のお話です。会社がひけて、私は同僚と一緒に帰る途中、ふと、あのイソップ物語で、「葡萄と狐の話」を思い出しました。それは葡萄を取ろうとした狐が、その葡萄を取る事ができないので、負け惜しみにケチをつけて、あの葡萄は、まずくて食われるものではないといった話です。(森田全集 第5巻 619ページ)この話は、事実本位の説明をするときによく聞く話です。具体的にはどんな話なのでしょうか。「おなかがすいたよう」と、狐が森の中を歩いていました。すると、おいしそうな葡萄が葡萄棚からたくさんぶら下がっていました。それを見つけた 狐は、なんとかして取ってやろうと思いました。何回も飛び上がって取ろうとしましたが、葡萄棚が高くてどうしても手がとどきません。そこで狐は、「あの葡萄は、まだすっぱいのさ」と、ひとりごとをいって、あきらめてどこかへいってしまいました。事実を確かめないで、葡萄が欲しいという気持ちを欺いたのです。自分の頭で「こうなってほしい」「こうでなければいけない」などと言う考えが強く出てくると、事実、現実、現状の取り扱いが雑になります。事実をそのまま潔く認めて、受け入れるという態度がなくなってしまうのです。事実を目の敵にして、その事実は最初からなかったものとして取り扱ってしまおうと考えるようになるのです。実際には、事実を隠蔽する。捏造する。ごまかす。言い訳をする。取り繕う。自分や相手を非難するようになります。よく政治家が賄賂などは絶対にもらっていませんなどと、テレビで釈明しています。火のないところに煙は立たず。検察やマスコミなどに追及されて、最後に切羽詰まってその事実を認めてしまうケースがあります。隠蔽することに耐えきれなくなったのです。最初は証拠は上手にひねりつぶしてあるので、絶対に真実が暴かれることはないと思っているのでしょうか。世の中の人はのど元過ぎれば熱さを忘れるのが常である。それまでのらりくらりとかわして、その不祥事はなかったものとしてうそをつき通してしまおうと考えているのです。事実を隠して不正を働いている人はとても醜いことです。国民は事実をごまかしている政治家はすぐに見抜いています。政治家以前に人格に問題がある人だと判断してしまうのです。こういうごまかし体質の人は、次の選挙で当選する確率は少なくなります。私たちは、普段事実を隠す。ごまかす。取り繕う。言い訳をしても大事に至るはずはないと思っています。確かにテレビで取り上げられて問題視されることはありません。しかし事実を隠蔽する体質には大きな問題があります。1、事実にはよいも悪いもありません。それなのに是非善悪の価値判断をしています。よくないと判断したものに対して、隠す、ごまかすということが起きます。非難、否定を繰り返して対決しているわけです。他人否定だけではなく、自己否定に陥っているのです。このような態度で生活をしていると、心身ともに疲弊してきます。攻撃的になり、反面では自己防衛にエネルギーを投入せざるを得なくなります。2、事実を認めないで否定していると、事実の中に含まれている問題点、課題、改善点、改良点、課題などが見えてこなくなるのです。事実を認めて受け入れる態度で生活していると、それらが泉のようにこんこんと湧き出てくるようになるのです。興味や関心が高まり、工夫やアイデアなども生まれてきます。行動すれば、それが生きがいとなり、問題解決となれば自信も生まれます。それを足がかりにして新たな課題や目標なども手にできるようになります。狐の話では、脚立を探す。ブドウを獲る棒などを探す。仲間を呼んでくるなどを思いつくことができるようになるのです。事実本位に生きる人とそうでない人ではどんどんと差が広がっていきます。事実本位に生きている人は、味わい深い人生を送っています。そうでない人は対人関係で悩み、やることなすことが裏目に出て、体調不良に陥り、神経症などの精神疾患を抱えるようになるのです。人生を心の底から楽しんでいません。事実本位の態度は、仲間とともに森田理論の学習を続けて、試行錯誤を繰り返すことで手にすることができるのです。
2021.02.26
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青木薫久先生は神経質者には3つの幼弱性があるといわれている。「依存的」「自己中心的」「観念的」の3つである。神経質のとらわれから脱出するためには、幼弱性を打破することが大切であるといわれている。依存的・・・自分自らするべきことを、親や他人に肩代わりしてもらおうとする。いくつになっても経済面で親の援助を当てにして生活している人がいる。精神的にもいつも親に甘えて親の指示に従う人もいる。経済的に余裕がある人は、食事、家事、運転、子育てまで他人に頼ろうとする傾向がある。これは日本の国防についても同じことがいえる。日本は外国からの侵略に対して、自助努力を怠り、アメリカにほぼ依存している。その結果、あらゆる面でアメリカの言いなりになるしかない。依存すると、エネルギーの温存ができる。頭を使わないで休ませることもできる。浮いた時間で好きなことに取り組むことができる。それが嫌なら横になって寝っ転がってテレビを見ているだけでよい。身体を動かさないで、刹那的な快楽に身をゆだる生活はこの世の天国だという考えである。この考えは一見合理性があるように見える。しかし砂を噛んで生活するようなもので、人生の醍醐味は味わうことはできない。ただ植物人間として生命の維持をしているだけになる。無為の人生を送ることになる。人間として生まれたからには、経済的にも精神的にも、一人前の人間として自立し、課題や目標、希望や夢に向かって行動することがまともな人間のすることである。自己中心的・・・2つの意味がある。一つは他人を踏みつけ、痛めつけて、相手から財産を奪い取り、精神的にも服従させてしまおうとする態度のことである。当然反発を受けることが予想されるので、絶えず監視や警戒して、反乱分子を抑圧しようとする。これは隣国を観察すればすぐに分かる。2つめは、注意や意識が絶えず自己内省面に向かう人のことを言う。普通の人は、注意や意識はほとんど外向的な方面に向いている。外向き、物事本位になっているのである。自己中心的な人は、注意や意識の向け方や方向性に問題があるのです。自己内省力は外向面のエネルギーが暴走しないように、制御する役割を果たすだけでよいのだが、ミイラ取りがミイラになっているのである。これは神経症の発生原因となっている。観念性・・・頭で考えたことを現実に当てはめてしまおうとする態度のことである。上から下目線で物事を見つめている。森田ではこのことを「かくあるべし」を押し付けているという。現実は絶えず変化流動している。考えたように現実は動いてくれない。現場、現実、事実を無視する態度は、そのギャップによって葛藤や苦悩を生み出す。反対に、どんなに理不尽な現実、現状、事実であっても、素直に認めて、受け入れることができれば全く違った生き方ができるようになる。この方面を森田理論は目指しているのです。こうしてみると、次のような生き方が大切なのだと理解できる。・全面的に依存しないで、ある程度は自立して生きる。・他人に役立つ人間になる。・注意や意識を外向きにする。・凡事徹底で物事本位に生きる。・「かくあるべし」を減らして、事実本位に生きる。
2021.02.12
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私たちは森田理論学習によって、「かくあるべし」を減らして、「事実本位」の生き方が大切だと学びました。その方向で自助努力されている方が多いと思います。私は最近、詐欺を仕掛ける人、学者、言論人、マスコミ、国などが事実を捻じ曲げて、私たちを洗脳しているのではないかと思うようになりました。相手の発言や報道内容を、鵜呑みにしていると、間違った方法へ洗脳・誘導されてしまうのではないか。自助努力だけでは、自分たちの生活はとんでもないことになるのではないかと考えるようになりました。第三者が仕掛けてくる事実の隠蔽、ごまかしを無視できない時代に入っているのです。今日は、その一端を投稿してみます。昨今、なりすまし詐欺、オレオレ詐欺、ワンクリック詐欺などが増えてきました。私はアマゾンを語った偽メールにまんまと引っかかってしまいました。個人情報を語らせてその日のうちにクレジットカードから多額の引き落としがありました。幸い、クレジット会社の方から問い合わせがあり、なんとか難は逃れることができました。それ以降、ネットを通じた買い物は恐ろしくなりました。今でもフィッシングメールが毎日のようにたくさん届きます。それでクレジット決済は現在中止しております。これに対して騙された方が悪いという人がいます。自己責任の問題だといわれるのです。でもこれは明日は我が身の問題だと思います。騙されて、放り出されたら目も当てられません。何しろ救済措置はないのですから。この手の話はいくらでもあります。2,3紹介してみましょう。第2次世界大戦の時、日本軍はミッドゥェイ海戦で敗れて以降、敗退続きでしたが、ラジオを通じて事実は捻じ曲げられて連戦連勝と伝えられていました。その間違った放送を多くの国民は信じて疑いませんでした。いずれ日本はアメリカに勝つはずだと信じていたというのですから驚きです。事実が捻じ曲げられて伝えられていたので、疑いようがなかったのです。そして、最後は沖縄攻撃、続いて本土空襲を受け、広島と長崎には原爆が落とされました。間違った情報を信じて疑わなかった結果、最後は罪もない人たちが殺されたり、貧困に苦しめられることになったのです。シベリアで強制労働させられた人もいました。最近国の借金について経済通という有名な方がテレビで解説しています。池上彰さんは、国民一人当たり800万円以上の借金を背負っているというのです。国全体では1000兆円を超える借金があるというのです。この借金を先送りしてはならないといわれています。そうしないと子孫が不幸になるといわれるのです。こんな話を信じ込まされると、日本という国は自己破産してしまうのではないかと思うようになります。その結果、国の破綻を防ぐためには増税はやむなしという考え方になります。政府は、支出を減らしてプライマリーバランスの維持を達成する目標に向かって突っ走ることになります。その結果、デフレ対策は手付かずとなって、国民生活はますます悪化しています。それでなくても、日本を見捨てて中国に進出する企業が後を絶ちません。国内産業は空洞化して、国民の所得はどんどん下がり、少子化が加速しています。550兆円のGDPが350兆円台に落ちてくると、生活困難者が激増しますよ。その穴埋めとして、東南アジアなどからどんどん移民を受け入れていくのだそうです。人件費が安いのでその方がよいというのです。そうなれば、日本人の所得はますます下がってきますよ。今後防衛費、教育費、公共投資、インフラ整備、医療費、年金などはどんどん削減されるでしょう。竹中平蔵さんの提言によると、年金制度、生活保護、健康保険制度はすべて廃止して、新たに国民一人当たり月約7万円支給して、後は自己責任で対応してもらうといわれるのです。これをベーシックインカムというそうです。高額医療費も自己負担ですから、自己破産しかありません。そしてその利権は外資に門戸を開いていくのだそうです。アメリカの圧力で日本の国民が苦しめられるのはごめんです。国民皆保険制度や年金が廃止されると。私たちの生活は成り立たなくなるのではないですか。すべての国民を豊かにするために政治があるのではないですか。ほんの一部の人たちだけがとてつもなく豊かになり、その他大勢の人が苦しむ姿は見たくありません。私は最近、とり急いで経済や金融の仕組み、外交や政治、国際情勢などの学習をしています。その過程で、自由化、規制緩和、移民の推進などは、グローバル化を目指している人たちが、国民を騙して、自分たちの利益を無限に獲得するために洗脳しているのではないかと思うようになりました。現代貨幣理論によれば、自国通貨建ての国債発行は国の借金にはならない。ハイパーインフレにもならない。日本が破綻することにもならない。それどころが、積極的な財政出動は国民の生活を豊かにするものであると学びました。国の借金についてテレビで声高に発言している人たちは、この考え方は無視しています。どうして幅広く学習して、この理論が間違いならば反論しないのでしょうか。多分まともな理論なので反論できないのだと思います。反論すれば自分の学説が根底から崩されることになり、自分たちのアイデンティティはなくなります。悪いことに、こういう人たちが経済諮問会議や政府の中枢に入り、日本の政治、経済、外交、国防に大きな影響を及ぼしているのです。アメリカ大統領選挙は、数々の不正については明らかにされないままに、バイデン氏が正式に大統領に指名されました。これによって、トランプさんは、過去至上最高の7000万票から8000万票を獲得したにもかかわらず、落選してしまいました。果たしてバイデンさんがそれ以上の票を取っていたのでしょうか。ドミニオンの集計マシーンによる票の付け替え、郵便投票の不正、外国の選挙介入などの疑惑はどうして明らかにされないのでしょうか。これでは民主主義の破壊につながります。次の選挙でも同様の不正が行われると、アメリカという国は選挙しても意味がないということになります。このことはアメリカの国民の多くが気づいていると思われます。現代の社会では、事実の隠蔽、捻じ曲げるやり方は実に巧妙になされています。疑いを持たないで、なんでもすぐに鵜呑みにする人は簡単に騙されてしまいます。特にテレビの報道、新聞の論説を鵜呑みにしている人は大変危険です。革新的新聞といわれていた朝日新聞は、発行部数を減らして赤字に転落しています。もっとも朝日新聞の経営は、現在は不動産事業で成り立っていると言われています。真実は今のマスコミの報道にはないとみるべきです。今はかろうじて、インターネットを通じたチャンネルサイトが真実を伝えています。これもいずれアカウント停止に追い込まれる可能性があるといわれています。何を頼りにしてよいのか、ほんとうに途方に暮れてしまいます。あとで後悔するのは、騙され洗脳された私たち国民なのです。森田では事実は両面観で見ないと見たことにはならないといわれています。一方的な考え方や出来事は、反対のものの見方、考え方で検証していく必要があるのです。森田理論を学習した人が、事実にこだわる生き方を貫徹しようとすれば、この方面にも注意を払う必要があると思います。森田で症状を克服した人は、政治や経済の真実から目を離さないで、監視してゆきたいものです。森田先生は、太平洋戦争前に亡くなられましたが、戦争には反対されていました。その結果、特高に逮捕されそうになったこともあったのです。森田先生が現代に生きておられたら、政治や経済、日本国や日本人の自立の面から疑問を投げかけておられるはずだと思います。私はそれを支持したいと思います。
2021.02.06
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森田先生が目指していた3つの方向性について投稿します。ここは森田理論の中でも、ポイントとなる部分です。この部分は、森田全集第5巻 652ページから653ページで説明されています。治るための、3つの段階として説明されています。小学校卒業程度、中学校卒業程度、大学卒業程度の3つです。少し難しい部分です。特に大学卒業程度が難しい。できるだけ分かりやすくかみ砕いて説明してみます。森田理論の核となる部分ですので、しっかり理解していただきたいと思っています。1、小学校卒業程度 気分の悪いままに、目の前のやるべきことに取り組んでいく。気分本位に振り回されないで、不安を持ちこたえたまま、仕事や勉強、家事や育児などに取り組むことと説明されています。ここは森田学習を取り組み始めた人は真っ先に取り組みます。知らない人はいないでしょう。でも症状はそのままにしておくので抵抗がある人もいます。素直な人はすぐに実践課題などに取り組んでいます。そして当面の蟻地獄から地上に這い出てくる人は多いです。ここを通過しないと、基本的には、つぎの段階には進めません。ここは確実に身につける必要があります。余裕を持って次に進みたいものです。森田先生は、これができだしたら神経症は治るといわれています。私は第一段階の治癒と考えています。ここで森田から離れる人が多いのですが、実にもったいないと思います。それは、もう少し掘り進めばビックリするような金鉱があるからです。注意したいのは、「我慢してやっていれば、そのうちに治る」という理屈があった時は、それが人為的な作為となり、楽になろうとする予期があるため、病気は治らなくなると言われています。むしろ神経症はひどくなります。この点は気をつけたいところです。2、旧制中学卒業程度 今では高校卒業程度です。この段階は、例えば、自分の不可抗力でミスや失敗をしたとき、その事実をそのまま認めることです。人が見ていないうちに隠してしまう。ごまかす。ねじ曲げてしまう。否定する。責任転嫁する。言い訳をする。などということは極力避けなければなりません。不安、恐怖、違和感、不快感などのネガティブな感情に対しても同じことが言えます。湧きおこったマイナス感情は、理不尽でどんなに受け入れがたいものであっても、イヤイヤ仕方なしに素直に受け入れるのです。「かくあるべし」の立場から、事実を否定する態度は改める必要があります。今までの習慣を改めて、事実に寄り添う方向に変えるためには、よほどの意識変革が必要になります。いきなりは難しいですが、方向性はしっかりさせておく必要があります。実行は、仲間の援助を受けて、ある程度時間をかけて行うことになります。いろんな手法があり、集談会に参加していれば、いずれ教えてもらえます。事実を受けいれると、どんなよいことがあるのか。まず、現実、現状、事実をごまかすためのエネルギーの無駄使いがなくなります。これが大きいのです。葛藤や苦悩が格段に少なくなります。そのエネルギーを別な方面に有効活用できることになります。隠したり、ごまかしたりしていると、あちこちにほころびが見えてきて、次々に隠蔽工作をしなければならなくなります。これが悪循環の始まりとなります。以上が一つ目の大きなメリットとなります。二つ目のメリットは、自分の課題や目標に向かってのスタート地点に立つことができます。長い階段を登るとき、そのスタート地点に立ち、そこから一段一段と頂上を目指す足がかりができたということになるのです。「かくあるべし」で上から下を見下ろしていた状態からすると、180度視界が違って見えるはずです。事実を素直に認めることによって、素晴らしい「逆転人生」の始まりとなるのです。3、大学卒業程度 2の段階は事実に対してよい悪い、好ましい好ましくないなどと価値評価をしているのです。納得はできないが我慢して事実に服従している段階です。つぎには、これを解消する必要があります。地震はプレートのひずみが溜まって、それを元に戻そうとする圧力が加わって発生しています。その他の自然災害も、大自然の摂理に基づいて発生しているものです。自然現象は、因果関係により必然的に発生しています。人間が自然現象に対して、是非善悪の価値判断をしているのは越権行為なのです。そこでの是非善悪の価値判断はほとんど意味がないものです。仮にそれに基づいて行動すると、ますますこじれることになります。事実はそういうものです。ところが人間はそれを自分たちにとって都合が悪いと判断して、反抗心をむき出しにしているわけです。自然を敵に回して勝つことはできないのに、もしかするとなんとかなるかもしれないと勘違いしているのです。自然を敬い、畏れるという気持ちがないのでしょうね。是非善悪の価値判定をしているどうなるか。正岡子規を思い出してみてください。晩年は脊椎カリエスでのたうち回っていました。耐えがたい痛みがある。膿が出てくる。寝たきりで、身体を自由に動かすことができない。到底受け入れることはできない病気を抱えて悶え苦しんでいました。どうして自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか。神様は血も涙もないのか。モルヒネでも打って楽にしてくれ。運命を呪い殺してやる。そう思っても無理はありません。誰でもそうなると思います。事実に対して反抗的な気持ちになるのが普通です。そして最後には精魂尽き果てて衰弱してしまうでしょう。力尽きてしまうでしょう。投げやりな気持ちで、無気力になり、みじめな人生で終わってしまうでしょう。人間なんかに生まれてこなければよかったと思っても不思議ではありません。正岡子規はそうなりましたか。違いますね。確かめるために、松山の道後温泉の近くに「子規記念館」がありますので行ってみてください。正岡子規は、普通の人は受け入れがたいと思うような病気なのに、痛みに耐え、苦しみながらも、理不尽な事実を自然体で受け入れていました。価値批判はしていなかったということです。苦しみと一体化していたといった方が適切かもしれません。耐えがたい痛みにだだ苦しんでいただけです。するとどんなことが起きたか。痛みが少しだけ軽くなる瞬間が訪れたというのです。激痛ではあるが、その中にも波がある事が分かったのです。子規は、その少し楽になる瞬間を逃さないで、すぐに創作活動をしていたのです。苦しみの極限状態で生み出された作品は、真に迫って我々を勇気づけ感動させるのです。これはどんなに理不尽な事実であっても、それをよい悪いと価値判断しないという姿勢を取ることで初めて可能になったのです。そういう意味で、正岡子規は森田先生の言う大学卒業程度の域に達していたということです。森田先生は、クラゲのように波に漂って生きていく方がよいといわれています。あるいは空中に漂う風船のように風の吹くまま、気の向くままの生き方の方がよいとも言われています。風船を無理やり固定させていると、強風など少しの刺激が加わるだけで、すぐに破裂してしまうではありませんかと言われています。これは、事実に対して反抗的な態度とは真反対です。事実と一体になった生き方です。大自然に反旗を翻すわけでもなく、自然に溶け込んで、自然と一体化して生きていくという態度です。森田ではこの態度を最終目標としているのです。森田先生は、神経症で苦しんでいる人に、以上3つを指針にして生きていきませんかと提案されているのです。いずれも一筋縄ではありません。私個人今の時点で振り返ってみたとき、1は70%、2は60%、3は40%くらいかなと思っています。目標にはまだまだ先のようです。でも神経症で苦しみながら、目指すべき方向性が見つかったことは何物にも替え難いと思っています。この方向で頑張ろうという意欲が湧いてきます。
2021.02.05
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西郷隆盛の言葉です。間違ったときに改めるにあたっては、自分が誤ったと思いついたらそれでいい。そのことをさっぱり思い捨てて、ただちに一歩前進することだ。間違ったことを悔しく思って取り繕うとして心配するのは、例えば茶碗を割って、そのかけらを集めているのと同じことでどうしようもないことである。(南洲翁遺訓を読む 渡部昇一 致知出版社 176ページ)これは森田先生の「純な心」のことを説明されている。西郷さんは、間違った考え方や行動に気づくことが大切だといわれています。これは、ミスや失敗という事実をそのまま認めることですから、たやすいことにように思われます。ところが現実は難しいというのが実情です。ミスや失敗、能力や力のなさが白日の下にさらされると、自分の存在価値なくなるようで心もとない。周りの人たちから非難されることはどうしても受け入れることができない。自分が今まで苦労して築いてきた財産や名誉、信頼や地位などを失いたくない。不都合な事実がばれなければ、それらを今まで通り守ることができるはずだ。なんとかして不都合な事実が公に広がらないように努力しようと考える。事実はごまかすしかない。見つからないうちに隠した方が身のためだ。取り繕うしかない。事実を捻じ曲げて自己防衛するのである。事実を捻じ曲げることに成功する場合も確かにある。でもほとんどは失敗する。またエネルギーの消耗が激しくて心身ともに疲れ果てる。そしていくら本人が事実を上手に隠したと思っていても、周りの人はきっとうそをついているなと感じてしまう。直観的に信頼できない人だと判定されてしまう。事実は隠せば隠すほど、周囲の視線が集まってくる。政治家や芸能人などの事実隠蔽が大きく報道されるようになると逃げようがない。いかに上手に事実をごまかしていても、ほころびが出てくることがある。そのほころびをごまかすために、また別のうそついて整合性を保とうとする。いかにうまく整合性を取ったとしても、全体を見渡せば不自然なことになる。第3者の証言や監視カメラなどで事実が明らかになると形勢はにわかに逆転する。そして最後には、「こうするしか方法がなかった」と白旗を上げざるを得なくなる。その時点で今まで築いてきた数々のものを失ってしまう。最初はちょっとしたボタンの掛け違いのような状態だった。それが最終的に当初自分が考えていた方向とは真逆の方法に向かうことになった。この時点ではもう手遅れです。最初のこの事実は受け入れたくないなと思った時が肝心なのです。事実は事実のままに認めて受け入れる習慣を身に着けことが大切になります。そうなると、次回から不本意な事実を招かないように手を打つことができるようになります。同じようなミスや失敗を防ぐことができるようになるのです。事実を認めないで、事実を捻じ曲げることが習慣化してくると、次にまた同じようなミスや失敗引き起こします。それは反省やフィールドバックが行われていないからです。森田理論は事実を事実のままに認める態度を身につけましょうという理論だと思います。
2021.01.26
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森田先生は西郷隆盛を高く評価しておられます。そこで私は、現在西郷隆盛の研究をしています。ここでは気が付いた3点を紹介したいと思います。こんなエピソードがあります。西郷さんは漢詩をたくさん作られて、揮毫されている。なんでも鑑定団などでよくお目にかかるが真筆のものは高値が付く。ある時永田さんという人から漢詩を頼まれて揮毫している。それを永田さんは、元薩摩藩士で後に京都府知事などを務めた中井弘さんに見せた。その中に、「子孫に美田を買わず」という文言があった。この文言に中井氏は「こんな馬鹿なことがあるものか」と異を唱えた。むっとした永田さんは挨拶も早々に辞去してしまう。そしてそのことをさっそく西郷さん本人に話してしまった。普通は自分の考えを真っ向から否定されると苦々しく思うのではなかろうか。後日、中井弘氏は西郷隆盛に会った。気まずかったに違いない。しかし、その時、西郷さんは次のように言い放ったという。「あなたは、先日私の漢詩の内容について強く非難したそうだが、私は元々漢詩を作るのは下手なんだよ」と鹿児島弁で話したという。漢詩の内容について、中井さんにこんこんと説明するわけでもない。相手の言動を真っ向から非難するわけでもない。身分から言えば、西郷さんは新政府の陸軍大将まで上り詰めた人だから、そうであっても不思議ではない。それなのに相手を批判することもなく、ユーモアというオブラートに包んで返答したというのである。このエピソードのような対人関係が西郷さんの普段の態度なのだ。つまり「かくあるべし」を前面に出して、相手とやりあうことがなかったということなのです。喧々諤々の議論の時は、静かにみんなの話をじっくりと聞いていることが多かった。自分の意見を持っていないわけではない。むしろ先見の明があり、自分の考えはしっかり持っていた。ただそれを前面に出すということはされなかったということだ。流れに身を任せていたということだ。しかし衆目一致した結論が出ると、意に添わなくても今度は自分がリーダーとなって先頭に立って行動する。それが間違いかも知れないと思っても、立場上責任を全うするべく最大限の努力をする。これはなかなかできることではないと思う。次に、明治維新の時は、数々の実績を上げておられます。そのまま政治の中枢にいて最高権力者として存分に力を発揮できたはずです。ところが西郷さんは、征韓論で敗れると、いつの間にかいなくなり鹿児島に帰ってしまう。帰省してからは、学校を開いて教育をはじめる。また農業と開墾に精を出す。私は農業始めたというところに共感が持てる。西郷さんは、「命もいらず、名誉もいらず、官位もいらず、金もいらない」という気持ちが強かったようです。欲望が暴走している人に、国家の大業はなし得ないとまで言っている。欲望を抑制する中に本来の人間の生き方があることを見抜いていたのではないかと思う。3点目として、「我が身は天物なり」と言っている。「敬天愛人」というのが西郷さんの思想の根幹にある。私なりに解釈すると、天を敬うということは、2600年も続いてきた天皇制を中心とした日本の国体、日本人の心意気を大切にするということではないか。一人一人の人間の存在や国民の生活を第一にするという考え方である。自然の変化に服従する生き方である。「我が身は天物なり」というのは、自分の心身は、神様からの預かりものであるという考え方ではないでしょうか。預かりものであるからいずれお返ししなければならない。預かりものだからこそ大切に取り扱い、精いっぱい活用させてもらう。そして預かったときよりもさらに磨きをかけてお返しするのだという強い決意が感じられます。森田理論に照らし合わせてみても、素晴らしい人物であると思います。さらに西郷隆盛研究を続けていきたい。
2021.01.25
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森田先生のお話です。婦人などに、よくある事ですが、例えば昨日からの予定で、一緒に松坂屋とか・花見とかに行こうというときになって、気が進まないでいやになったとき、「頭痛がする」とか「気分が悪い」とか、直接に自分の実際を言うことができないで、言を左右に托して、「天気が悪いから」とか「着物が間に合わなかったから」とか、いろいろの口実を設けて取りつくろうとする事がある。自分でもあえて、虚偽をいうつもりではないが、自分のいやになった根本的の理由に、自ら気がつかないのである。そして、その口実が曖昧であるから、かえって相手の感情を損ないやすいのである。これもみなその本心は、自己弁護の心から起こるのである。(森田全集第5巻 596ページより引用)森田先生は一旦やろうと決めたことを、途中で取りやめたいと思うのは一向に問題はないと言われているのだろうと思う。問題はそこにあるのではない。ついさっきまでは、そのつもりだったが、時間が経過した結果、行動する気持ちが萎えてきた。それを相手に向かって、発言することは、いかにも子供じみている。子供でもどちらかというと幼児並みである。相手からそのように判定されては、自分の人格を否定されることになる。どうしようもない人間だとみなされると、風評が広まり、ますます自分の立場が悪くなる。そこでとる態度は、自己弁護、言い訳、ごまかし、事実の捻じ曲げである。これらは森田先生が最も嫌う行動です。事実を認めて、受け入れるということが森田理論の眼目なのです。それに真っ向から逆らう態度が、事実を無視、事実の捻じ曲げ、捏造、言い訳、自己弁護にあるのです。皆さんの周りにも、気分本位の塊のような人で、いったん決めた事なのに、ころころと態度を豹変される人がいらっしゃると思います。一旦約束しても相手からドタキャンを食らい、やむなく予定を変更させられる。そういう習性の人は神経質性格よりも、意志薄弱性気質の面が強い人かもしれません。いったん約束したことは、それを第一優先順位とする。自分の都合で勝手にその約束を反故にすることはまずいのです。さらにその気持ちを隠蔽するために、表面的にうそをついて、隠蔽工作を画策することになると、森田理論で目指している事実本位の態度からどんどん離れて行ってしまうのです。森田先生はチャンスの神様は前髪はあるが後ろ髪はないといわれる。チャンスと判断すれば、できるかできないか判断できなくても、イエスといって引き受けなさいと言われています。そうしないと後で後悔することになる。これはいったん引き受けたからには、何が何でも成功させるという不退転の決意があってのものです。背水の陣を引いて自分を追い込んでいくということはそういうことです。気分本位で意志薄弱性のタイプの人は、このような安請け合いは禁物だと思います。自分にも他人にもうそをつかなくてはいけない状況に追い込まれることが多くなるからです。自分の素直な感情に対してうそをつくということは、森田の目指している方向とは真反対になります。この態度が改善できれば、森田でいう「事実本位」に近づくことができます。
2021.01.23
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私は友人とカラオケ店に行ったとき、自分の歌唱のどこに問題があるのか把握するためにビデオを撮りました。後で見返してみると、音程と安定感をそれぞれ2点程度高めることができると、全国平均に達することが分かりました。ここでいう安定感は、音程が不安定に震えてしまっていないか、まっすぐに発音できているかどうかを採点しているということでした。自分ではどこに問題があるか分かりませんが、ビデオに撮って第3者の立場から客観的に観察すると改善点ははっきり分かるようです。対策としては、腹式呼吸とビブラートをかけることを意識する事でした。それ以外に、ビデオを見ていてショックを受けたことがありました。歌唱の最後に歌唱力の採点が発表されるのですが、そのときに「ああ、ダメだ」「悪すぎる」「最低だ」という言葉を、曲が終わるたびに連発していたのです。85点以下の時はほぼ間違いなく否定的な言葉を発している。今日はこの否定語の弊害について考えてみたいと思います。このような否定的な言葉を聞かされた友達はイヤになったのではないかと思いました。私が反対の立場だったら、否定語を連発するような人と付き合うと、こちらまで滅入ってしまう。次回から付き合う頻度を下げようと考えるような気がします。否定語には、「ダメだ」「悪い」「最低だ」以外にどんなものがあるか。「間違っている」「改善しなさい」「限界だ」「これ以上はできない」「能力不足だ」「馬鹿だ」「耐えられない」「我慢できない」「もう打つ手がない」「救いようがない」「難しすぎる」「厳しすぎる」「運がない」「ついてない」「あきらめるしかない」などがあります。国語辞典によると否定語は、そうではないと打ち消す言葉とある。反対することです。それに対して肯定語は、その通りで間違いないと認めることです。賛成することです。この方が人生に対して前向きになれます。希望が持てます。明るくなれます。否定語を使うことが多い人は、それが習慣となっていて、物事の良し悪しを判断するときに、ほぼ毎回ネガティブ、悲観的、否定的に見下している場合が多いように思います。始末が悪いことに、この実態が自分では全く分からない。無自覚です。これが問題です。他人が親切心でそのことを忠告してくれても、「そんなことを言われる筋合いはない。そんなことを平気で指摘するあなたに、その言葉をそのままお返しします」などと言う。それが自分だけならまだしも、配偶者、子供、友達、同僚、上司などにも向けられています。それが習慣化している人は、人間関係が悪化します。葛藤や苦悩を抱えて苦しむことになります。そのうち、煩わしくなって、他人との交流を避けるようになります。この否定語を無意識に使いこなしているということは、森田理論の世界では無視できません。それは、事実、現実、現状を「かくあるべし」という観念で価値判断して、絶対に容認しないという態度につながるからです。素直ではない。天邪鬼な態度です。否定語を連発する人は、事実本位になれないので、益々神経症の克服から離れていきます。苦渋に満ちた人生に甘んじることしかできなくなります。これを実感するために、自分の会話などを録音や録画して第3者の立場から見ることが有効です。あるいは配偶者や親や子供や友達に、自分はどんな否定語をよく使っているか、素直な気持ちになって聞いてみることです。すると普段いかに否定語と親和性があるのかよく分かると思います。人間関係がぎくしゃくする理由の一端が垣間見れるようになると思います。ついでに言えば、みっともない何気ない仕草も見えてくることがあります。そういう人は、意識して肯定語を使うように心がけることです。森田でいう形から整えていくようにするのです。肯定語を使い慣れて習慣化することを目標とするのです。「ありがとう」「感謝しています」「この次はきっと大丈夫だ」「成功するまであきらめないぞ」「頑張ってるよ。今のままで大丈夫だ」「またチャンスはやってくる」「たいしたもんだ」「課題がはっきりしてきた」「失敗の中に成功のヒントが見つかった」「ここは改善してみよう」「あきらめるには早すぎるぞ」「家族のためにも頑張るぞ」「英気を養って出直そう」「ここはよかった」「いいところもあった」「神様は乗り越えられない課題は与えない」「ここを乗り越えれば自信になるはずだ。自分は成長できる」「自分ならきっとできるはず」「運命を切り開いて、つきを呼び寄せるぞ」「力になってくれる人がいる」「絶対できる」「そうなんだ」自分なりにそれぞれに納得できる肯定語をいくつか持っておくことです。それを日常会話の中で使えるようになるまで繰り返すのです。肯定語が習慣的に口をついて出てくるようになればよいと思います。さらに、否定語が出る時は、事実を軽視している場合があります。否定語が出てきそうなときこそ、事実だけを述べることを心掛ける。決めつけや先入観や思い込み、感情やイメージはご法度とする。「かくあるべし」で良し悪しの判断を慎むようにする。私のカラオケの場合でいえば、「85点か。全国平均は89点だ。平均まであと4点だ。ロングトーンは満点に近い。得点をアップするためには安定感を改善すればよいのか」誰が見ても能力もお金も知識も力もないからダメだろうと思われるような人でも、物事を肯定的に捉えている人には何とか応援してあげたいと思うものです。それは相手が、一緒になって人生の困難に立ち向かおうというエールを発していることを感じるからかもしれません。
2021.01.14
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私が購読している新聞には、日曜日になると「7つの間違い探し」というのがあります。これは楽しみながら事実の観察ができますので紹介します。右と左イラストには7つの間違いがあります。この部分を切り抜いて、家族の人数分拡大コピーします。あるいは集談会で行う場合も人数分コピーします。数名でいっせいに始めて順位を競うのです。ゲーム感覚です。楽しみながら、事実本位の体験ができるのです。何気なく見ていると気づきませんが、注意や意識を向けているとなんとか見つけることができます。このゲームのよいところは、イラストの違いを比較することで、事実にこだわる態度が多少なりとも身に付くということです。コツがつかめると早くなります。そしてさらによいことは、その違いに気が付いても、是非善悪の価値判断はしません。ただひたすら間違っているという事実を観察するだけです。これがよいのです。普段の生活の中では、他人と比較することで、価値判断を行い、劣等感や優越感に陥ります。人それぞれ違う物差しをあてて、価値の判定を行ってそれぞれの立場で、一喜一憂しているのです。優越感を持つことは自信となり、むしろよい事ではないかという人がいます。しかし優越感は他人を見下ろすということであり、見下ろされた人から見ると傲慢な人に見えてしまいます。また優越感を味わうことを好む人は、反面で劣等感に苦しむ人でもあります。それは優越感と劣等感がコインの裏表の関係になるからです。劣等感は自己嫌悪、自己否定につながります。それは自己肯定とはまるで反対の事態を招きます。つまり神経症の発生原因となっているのです。森田理論は、「不安は安心のための用心である」といいます。慎重であるという性格を活かして、取り掛かる前にあらゆる問題点やリスクをつぶすように準備をします。しかし、その後はどんなに理不尽な事実が目の前に突き出されても、イヤイヤ仕方なしにでもその事実を認めて受け入れるほうがよいという理論なのです。不安を持ったまま、目の前の課題や問題解決のために努力するという態度の獲得を目指しているのです。7つの間違い探しはインターネットで探すといろんなものがあるようですので、集談会や家族みんなで楽しんでみてください。
2021.01.05
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シドニーオリンピックの女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子さんの話です。高橋さんは、小出義雄監督の指導を受けて成長した選手です。最初は、練習ではいい走りを見せても、試合に行くと結果を残せないという選手だったそうです。それを打開するために、小出監督はいろいろと試行錯誤を繰り返しました。例えば、全力走とジョギングを交互に繰り返すインターバルトレーニングを取り入れました。また、トラックや平地ではなく自然の中を走るクロスカントリーにも取り組みました。その他、考え得るさまざまな練習方法を試してみました。ところが、それらの試みはすべて失敗したそうです。途方にくれました。万策尽きた小出監督は、高橋選手の走りを、練習方法や技術面だけでなく、精神面、調整方法を含めて、先入観を排除してゼロベースで見直すことにしたそうです。森田でいう両面観、多面観で分析することにしたそうです。その結果、正確に原因を究明することができたそうです。それは、従来の常識では考えられないところにあったそうです。つまり森田でいう「かくあるべし」に凝り固まっていては、とうてい到達する事はできなかったと思われます。通常、マラソン選手は、試合の前になると調整期間を設けて猛練習をストップさせます。試合に向けて、身体の疲労を取り除き、栄養の補給やメンタル面の強化に力を入れる。そして試合当日に体調と精神状態をピークに持っていこうとするのが常識とされています。調整期間を設けると、練習でつけた筋力は当然落ちてきます。でも常識的に考えて、そのスピードはごくわずかなものとされてきました。普通は短期の調整期間程度で、本番に影響するほど落ちるようなものではない。高橋さんの場合も、そうに違いないという先入観と決めつけがあったそうです。小出監督は、事実はそうではなかったということを発見されたそうです。高橋さんの場合は、他の選手に比べると筋力の落ちるスピードがあまりにも早かった。筋力の測定で初めて明らかになったそうです。原因が分かった段階で、トレーニング方法をがらりと変えたそうです。それは、調整期間を気にしないで、負荷をかけつづける練習方法にしたそうです。他の選手が調整期間に入っても、高橋選手には練習をさせた。高橋さんが大学を卒業するまで、誰もこの事実に気づかず、記録を出すことができなかった。高橋さんが小出監督の指導を受けることがなかったとしたら、二流の選手で終わっていた可能性が高いそうだ。(超一流の自己再生術 二宮清純 PHP新書参照)常識、先入観、決めつけで、その人の能力や実力を判断することは、その人の将来の成長を台無しにするものだということがよく分かります。ですから安易にそういうものに頼り切ってはいけないということです。森田先生のように実際に現地に行って自分の目で確かめる。実験をして事実確認を行う。せっかちに結論を出すのを急ぐのではなく、両面観、多面観で検討してみる。事実こそが私たちがよりどころとすべきことなのです。そういう態度で生きていくことが、自他ともに将来の可能性を広げるきっかけになるということを、森田理論学習でつかみ取っていきたいものです。
2021.01.03
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日本の女子マラソンの監督に小出義雄さんという方がおられました。指導した選手の中に有森裕子選手がいました。オリンピックの2大会でメダルを獲得した選手です。有森さんは5000mの標準タイムは16分台だった。一流選手は15分前後で走るので、一流と呼ぶには程遠い。それでもオリンピックでメダルを獲得できたのは、負けん気の強さだったといわれている。その気持ちの強さはちょっと信じられないほどだったという。この一見長所に見える負けん気の強さは、こだわりの強さ、頑固さと紙一重である。神経症の原因にもなるものです。性格には両面性があるのです。アトランタ五輪の前にこんな出来事があった。有森選手は、レース本番にはソックスを履かずにシューズを履こうとしていた。小出監督は、これに対して反対した。素足にシューズでレースをしたら、絶対に靴擦れを起こす。痛くて走れなくなる。靴下は履いた方がよいと何回も説得したが、彼女は頑固だから、自分がそうと決めたら絶対に聞かない。小出監督は、いかにして有森選手を説得するかに腐心した。そこで採った作戦は、実際のコースを靴下なしで試走させることだった。ところが1回目は完走しても靴擦れは全く起こらなかった。小出監督が思ったような結果が出なかった。有森選手の考えを変えることはできなかった。そこでもう1回だけといって試走させた。2回目の時は、靴擦れが起きたそうです。「監督、痛くて走れません」ということになりやっと納得してくれたという。これがもし本番で靴下なしで挑んでいたとすると、銀メダルは幻に終わっていたかもしれない。小出監督は自分の考えを無理やり押し付けるようなことはされていない。有森選手の考え方を頭ごなしに否定するという方法も採られていない。つまり「かくあるべし」を押し付けるという方法はとられていなということです。もとより意思の強い性格の有森選手をそんな方法で説得できるとも思われない。そんな事をすれば監督の指導に反旗を翻して、仲たがいになることも十分に考えられる。小出監督は有森選手に本番を想定した試走をさせることで、体験的に分からせようとしたのである。このやり方は森田先生のやり方と同じである。森田先生は、事実を確認しないで、先入観で決めつけるという態度を避けようとされている。疑問があれば、現地に出向いて真偽のほどを確かめる。実験をして事実を確かめるという姿勢で貫かれている。事実確認できたことだけを信頼する。それをよりどころとして行動する。対策を立てることを心掛けておられる。頭の中で思いついたことを、事実として早合点することはなかったのである。観念優先の行動は、常に事実によって裏切られることが多くなるということを指導項目に掲げられていたのである。事実唯真というのは、森田理論の中でも核心部分となっている。逆に言えば、考え方や出来事を、事実に基づかないで、観念の世界で判断することで神経症は生み出されているということなのです。これが理解できて、生活面に応用できるようになると、生き方が変わってきます。
2021.01.02
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プロ野球の黒江透修氏は現役引退後、巨人、中日、西武、ロッテ、ダイエーのコーチ、二軍監督、助監督などを歴任されている。ダイエー時代は、王貞治監督の参謀だったという。ミーティングの席では、時々監督と意見が衝突したという。例えば、王監督は2ストライクの後にヒットエンドランを好んで使った。ヒットエンドランというのは、カウントによって、ここはストライクが来る確率が高いというときに出す。バッターはストライクが来るはずだと予想して必ずバットを振る。ランナーは、バッターがヒットを打つはずだと予想して迷わず盗塁を仕掛ける。打ちごろのストライクが来てバッターがヒットを打つと、スタートを切っていたランナーは3塁に到達する可能性が高くなる。一挙にチャンス拡大となる。しかし黒江氏は、ヒットエンドランは失敗する確率が高いという。なぜならボール球に手を出してしまうケースが多いからだ。黒江さんは、「ヒットエンドランよりもランエンドヒットでどうでしょう」と提案した。これだと失敗の確率が低くなる。しかし王監督は頑として聞かなかったという。黒江氏はその危険性を知ってもらうために、練習であえてピッチャーに2ストライク後、ボール球を放るように指示したことがあった。バッターはワンバウンドのボールを空振りして三振ゲッツー。それでも王監督の考えを変えることは容易ではなかったそうだ。黒江氏は、試合前までは監督の方針に異議を唱えてもよいといわれる。チームを強くするために、あえて反対意見を言うのが参謀の務めである。ところがいったん試合が始まったら、監督の作戦に反対し、批判するようなことは絶対にあってはならない事だといわれる。「コーチたる者、いざ試合においては絶対に監督に逆らってはいけない。対立なんてもってのほか。監督が黒と言えば、白のものでも黒になるんだよ」試合においては、たとえ失敗の可能性が高いとはいえ、監督が2ストライク後に、ヒットエンドランのサインを出せば、なんとしてもそれを成功させなければならない。そのために練習でワンバウンドになりそうなボールを当てさせたこともある。選手には「不満があろうが監督のサインは絶対だ。最善を尽くしてくれ」と口を酸っぱくして言っていました。(超一流の自己再生術 二宮清純 PHP新書 99ページ参照)この話は森田理論を学んでいる私たちにとって大変参考になります。人間に生まれたこと、生んでくれた親、生まれた国、生まれた時代は、どんなに不満があってもどうすることもできません。現実の境遇や環境などは、決して受け入れることができないといくら反発しても、どうにもならない事です。そのようなことに反旗を翻して意地を押し通そうとしても自滅していくだけです。現実には自分の置かれた境遇や運命や宿命を目の敵にして戦いを挑んでいる人が多いのではないでしょうか。不平や不満だらけです。それを言葉や行動に出しています。納得できない事、理不尽なことは絶対に受け入れることはできないと反発しています。森田理論はそういう納得できない事実、状況、現実を素直に認めて、受け入れていきましょうという理論です。そこを出発点として考えましょう。しっかりと足をついて、そこから一歩前を向いて歩んでいきましょうという理論です。そうすれば、目の前に見えてくる景色が全く違ってきますよという理論なのです。野球でいえば、与えられた活動範囲の中で、自分の持っている力や能力を精いっぱい発揮して、チームの勝利に貢献していく。その方が自他ともに幸せになる道です。境遇や運命に反発して嘆き悲しむことにエネルギーを費やすよりも、それらを受けいれ、与えられた活動領域の範囲内で運命を切り開いていくという姿勢を持つことが肝心なのです。
2020.12.31
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「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」夏目漱石の「草枕」の冒頭である。小説家というのは実にうまい表現をするものである。ところで、夏目漱石は精神性の胃炎で49歳という若さで亡くなっている。相当なストレスを抱えていたと思われる。これは、一般的には「知情意」ということで説明される部分である。今日は森田理論をもとにして、「知情意」の意味するところを考えてみたい。「知」とは、事実に基づかないで、頭で考えたことである。知識、智恵という人もいる。今までの人生の中で自然に身に着けて来た、思想、価値観、理想、かくあるべしを持ち出して、問題点を抽出し、現実をより良い方向に改善していこうという態度のことである。人間には高度に大脳が発達しており、分析力、理解力、論理性、創造性に優れている。それを大いに活用していけば万事うまくいくという考え方である。人類の文化、文明が発達してきたのは、「知」「智」の部分のおかげである。しかしこれが暴走すると、究極的には人類の滅亡につながる可能性も生じる。「情」というのは、自然に湧き上がってくる感情のことです。自然現象であり、もともと人間の自由はありません。これは森田理論の感情の法則で学んでいます。感情には不安などの不快の感情と感動などの快の感情の両方があります。感情はコントロール可能であり、人間の意思の力で制御することが可能であると誤解している人が多いようです。これは認識の誤りであり、神経症の原因となります。「情」という言葉は、同情、共感、人情という使い方もあります。感情には家族や相手、他国のことを思いやり、自己中心が暴走するのを抑制している面もあります。人情などが自然発動しないと人間同士がすぐに対立関係になります。「意」というのは、やる気、情熱、意欲のことです。行動力のことです。困難や目の前に立ちはだかる壁を乗り越えて、問題点や課題、目標や夢を達成しようとする意思のことです。これはいきなり持てるものではありません。目の前の課題に取り組んでいる中で、問題点、改善点などに気づいた後に出てくるものです。森田理論を学習すると、「知情意」というのは、優先順位が問題になると思うようになりました。「知」が「情」の前に取り上げられることに違和感があるのです。私は、「情」あって、次に「知」を活用していくことが大切だと考えています。この関係を説明しましょう。前提として事実を踏まえない観念優先の態度は問題を引き起こすと考えています。どんな場合でも、事実を前提として「感情」から出発する必要があると思います。そのためには事実を正確に把握することが大切です。事実が見えてくると、自然に「感情」が動き出してきます。気づきや発見、問題や課題、興味や関心が生まれてきます。この段階を過ぎた後で、大脳の前頭前野の出番がやってきます。事実をあらゆる角度から分析し、問題解決や目標の達成に向けてどう行動すればよいのか試行錯誤を始めます。つまりこの段階で、「知識」「智恵」が大いに役立つことになります。その蓄積が大きくて多いほど的確な判断が下せるようになります。ここまでくれば、やる気や意欲も同時に高まっています。しかし意欲を持って行動しても、ミスや失敗、障害や壁にぶつかって跳ね返されてしまいます。それはうまくいくかどうかが全く読めない仮説に取り組んでいるわけですから、当然のことです。ミスや失敗の体験を積み重ねていくことが、成功への唯一の近道であると信じて、粘り強く挑戦していく態度か重要になります。こうしてみると、「知情意」というのは、「情知意」という順序に変更しないといけないのではないでしょうか。まずは徹底した事実確認を行う。次にさまざまな感情が湧きおこる。それを多方面から理知で調整していく。最終的に一つの行動を選び、執着性を発揮して目標に近づく。森田先生も感じから出発して理知で調整するのが順序であると指摘されています。
2020.12.30
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変化に対応する生活を心掛けるということは、事実本位の生活に近づいていくことにつながります。事実本位の生活を習慣化するということは、森田理論が目指しているところです。そうした態度が身に付きますと、「かくあるべし」による思想の矛盾を防止することが可能になります。「かくあるべし」の態度は、神経症を発症させる大きな原因となりますので、神経症の発症が抑えられることになります。ではどうすれば変化に対応した生活態度を身に着けることができるのでしょうか。その一つとして、カラオケを利用した方法について提案させていただきたいと思います。歌を歌うときの音感というものは、天性のものがありますので、音感の良い人は元々音程がほとんどずれていません。この方法はカラオケが苦手で、カラオケのお誘いはいつも断っているという方に有効であると考えています。歌の苦手な人はまず挑戦する歌を選曲します。最初は1曲か2曲にします。その時、楽譜を見て音程が比較的安定しているものを選ぶようにします。そういう曲は探してみるとかなりあります。私でいえば渥美二郎の「夢追い酒」、千昌夫の「君がすべてさ」です。自分が選曲した曲を、いきなり歌うのではなく、最初は歌手の歌声を録音して何回も聞きます。その際、小節ごとに区切って、リピート機能を活用して聞くようにするのです。全体を通して聴いていると、細かいところがよく分からなくなるのです。何回も聞いてから実際に歌ってみましょう。そっくりまねて歌う練習を繰り返します。違和感がなくなるまでじっくりと歌いこみましょう。注意点としては、歌うときにこぶしはつけないようにします。歌声はビブラートをかけたり、こぶしをつけると聞きずらくなるそうです。それは歌声は元々デジタルなものだからです。素直に歌声を一定にして伸ばすようなイメージです。一音一音を丁寧に一定の高さで歌うように心がけるのです。ここまで出来たらカラオケ店に行きます。カラオケ店に行ってジョイフルサウンドの機種を指定してください。この機種には採点機能があります。これをセットしてください。その中に音程というのがあります。配点は40点になっています。歌を歌うときに音程の枠が表示されます。歌の進行につれて、音程はどんどん変化していきます。歌声が枠内に入っているかどうかが表示されます。音程が取れていないときは枠外に表示されます。85%以上この枠に入っていれば音程の取り方がよいということになります。ここまでいけば音程は35点以上はでると思います。総得点は85点から90点近くはでると思います。85%以下になると赤色の注意信号が付きます。枠からはみ出る度合いが多いと点数は低くなります。ですから歌うときはその枠内に入るように、声の高低を調整するということになります。音程の枠をよく見て、その枠に合わせるという気持ちで歌わないと、いつまで経っても枠内に収まりません。お勧めなのは、自分の歌声の画像を、一緒に行った人に、スマホかビデオカメラで撮影してもらうのです。それを後で何回も見るのです。どこで音程を外しているのか確認します。その部分を修正していくのです。そして再度挑戦して、修正されているかどうか確認していく作業を繰り返します。すぐに改善はできませんが、いずれ平均して2点くらいは得点がアップするはずです。これが励みになり、意欲が高まります。音程を合わせるということは、自分が気分よく歌えばそれで十分だという考え方ではうまくいきません。自己主張は中止して、機械が指定している音程に合わせるという態度でないとうまくいきません。これで「かくあるべし」を前面に押し出すという態度から、事実に服従するという体験が無理なくできるということになります。事実本位の生活態度の養成は、頭で考えているうちは難しそうに思えますが、こんなところから始めてみてはいかがでしょうか。
2020.12.26
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森田先生のお話です。「笑って青山を望めば、山もまた青く、泣いて碧水に臨めば、水もまた泣く」という句があるが、なかなか面白いではありませんか。世の中は万事、自分の心持によって、青い眼鏡をかけて見れば青く、赤い眼鏡では赤く見ゆるものです。また自国人の表情は、平常見慣れているから、微細な観察ができるが、異国人のは、それがよく分からない。私共は、西洋人の年齢なども、随分見違いのことが多い。また、近きを疎んじて、遠きにあこがれるということもある。自分の庭は、細かに埃が眼につくけれども、遠い山は、綺麗に見える。身近い人は、その欠点も、いやな忠告などもされるが、他人は欠点も見えず、親切らしく思われるという風である。この心理は神経質にもあるが、ヒステリーには、非常に著明に現れる。(森田全集 第5巻 602ページより引用)目の前の出来事や事実を色眼鏡をかけて見ると見間違いが発生するということだと思う。事実を十分に観察しないで、先入観、思い込み、決めつけなどでせっかちに理解してしまおうとする態度は問題が多いということである。そういう態度はよくないということは誰でも観念の上ではよくわかります。しかし実際には、事実に素直に向き合おうとしない人が後を絶たない。先入観や思い込みの裏には、誰でも今まで生きてきた経験をもとにして、自分独自のモノサシを持っており、その目盛りを押し当てて事実を計ろうとしているからである。この物差しは100人の人がいれば、100通りのモノサシがあるとは考えていない。みんな自分と同じの目盛りのついたモノサシを持っていると信じている。真実はみんな違うものの見方や考え方をしているということが分かっていないのである。そして、自分のモノサシ自体は、普遍性があり、正しいのだから、問題が起こるはずはないという身勝手な考え方をしている。その傲慢な態度が表面化すると、事実の取り扱いかたが軽視されることになります。事実に取り組む態度が甘くなるのです。するとしだいに真実とはかけ離れてしまう。人間は誰しも、事実を曖昧にして、勝手な解釈で事実をつかんだと思い込みたいのである。真実を掴みたくはないのかもしれない。真実を掴むことが多少曖昧になっても、早く判断して、対策を立てて、実行に移さないと大変なことになると思ってしまう。これは大変大きな誤解で、その後の展開を悪化させる原因となっているのです。森田理論学習をすると、そのことがよく理解できるようになります。例えば、プロのピッチャーが150キロのストレートでバッターと勝負しようとしているのに、バッターが「ここはスライダーを投げてくるにほぼ間違いはない」と早々と決めつけて対応すると、振り遅れてバットは空を切ることになります。決めつけるのではなく、いくつかの仮説を立てて勝負しなければ、勝ち目はないと思います。間違った先入観、決めつけ、思い込みからの行動は、最初から失敗を誘発して、問題を表面化させることが目に見えています。私たちはぎりぎりまで事実を見極めるという態度を崩してはならないということだと思います。事実を見極めようとしている人は、ギリギリのところで正しい行動の選択を発揮できるようになるのではないでしょうか。事実を無視する人は、無駄なことにエネルギーを投入している。また、他人との軋轢を生みだして、人間関係の悪化に拍車をかけているように思えてならない。よく犬猿の仲といって、犬も食わない人間関係で苦しんでいる人がいるが、最初は事実を軽視するというボタンの掛け違いが、思いもかけない巨大な溝となって立ちはだかってきたのである。こうならないためにも、森田理論を理解した人は、事実にこだわった生活を目指してもらいたいものです。
2020.12.17
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森田先生のお話です。ここで皆さんに十分注意してもらいたい事は、自分自身を、そのあるがままに認めることです。自分は5尺何寸であるとか、体重は幾貫目とか、貧乏に生まれたものとか、人前では、ぎこちなるもの、自分は小人であって、飾り・言い訳し・取りつくろいたくなるものとか、何かにつけて、利害得失に迷い惑うものなど、素直にそのまま、正直に認めておくことです。(森田全集 第5巻 600ページより引用)いくら頭が禿げていても、アデランスしたり、植毛してはいけないということです。顔の形が悪いとか顔にほくろがあると言っても、手術はしないほうがよいということです。背が低いのを少しでも高く見せるためにもシークレットブーツを履いてごまかしてはいけない。太ってきたのをごまかすために脂肪吸引をしてはいけない。コルセットで締め付けてごまかしてもいけない。学歴詐称をしてはいけない。税務申告をごまかしてもいけない。仕事でミスや失敗したのに、言い訳をしてはいけない。ごまかして何も問題なかったかのように隠蔽工作をしてもいけない。他人に責任転嫁をしてもいけない。事実を無視する、否定する、敵対視する、ごまかす、捻じ曲げる、責任回避するなどということは、百害あって一利なしといわれているのです。本人はうまく隠し通したとしても、第三者は真実をよく見抜いているものです。それは夜、灯を付けてある部屋の様子は何となくわかりますが、中から外にいる人のことは全く分からないのと同じことです。事実をうまく隠すことで評価されることはありません。反対に、あの人は何かにつけて、事実をごまかす人だから、常に監視を怠ってはいけないと警戒されるようになります。事実をごまかす人は人格に問題があって、信用できないと思われているのです。こうなると親密な人間関係に発展することはないでしょう。自分欠点、弱点、ミス、失敗を堂々と公開している人の周りには、人が集まってきます。例えば学校で平均点よりはるかに低い点数を取ったとします。その採点用紙を周りの人に隠すことなく公開できる人は、それだけで人気が高い人です。不本意な事実をごまかすことなく、事実のままに受け入れることができることは、一つの素晴らしい能力を兼ね備えていると考えられます。これはあまりエネルギーを使わなくても、実行可能なのですが、これに積極的に取り組もうとする人が少ないのが現状です。残念なことです。森田理論は、ここに焦点をあてて、この能力を獲得しましょうという理論なのです。事実を受けいれることは、磁石のプラスの極に、マイナスの磁石が自然にくっつくようなものです。放っておいても、自然にそうなります。もし自分の欠点、弱点、ミス、失敗が公になると、周りの人から嫌われて、自分の居場所がなくなるはずだと考えているとすれば、大きな誤解をしているということになります。その誤解をもって生活している人が、圧倒的に多いのではないかと思われます。どんなに不都合な事実であっても、事実を事実のままに認めて受け入れることができれば、精神的には楽になれます。理想的な観念と事実の差を埋めて、理想に近づこうとしなくなるからです。無駄なエネルギーを使うことがなくなります。葛藤や苦悩の発生がなくなり、エネルギーの効率がとてもよくなります。その現実やからくりを森田理論でよく学習して、事実本位の態度を身につけ実行すれば、人生90年時代を心穏やかに過ごすことが可能となます。一朝一夕で獲得できるようなものではありませんが、その方向に向かっているかどうかが肝心です。
2020.12.16
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森田先生のお話です。まず私の自覚について、一例をあげてみれば、私にとっては死ということは、いかなる場合、いかなる条件にも、常に必ず絶対的に恐ろしいものである。私はたとえ私が125歳まで生きたとしても、そのときに死が恐ろしくなくなることは、決してないということを予言することができる。私は少年時代から40歳頃までは、死を恐れないように思う工夫をずいぶんやってきたけれども、「死は恐れざるを得ず」ということを明らかに知って後は、そのようなむだ骨折りをやめてしまったのであります。(森田全集 第5巻 113ページ)誰でも死は恐ろしい。死の瞬間は息もできなくなって苦しむのではないか。ガンやくも膜下出血などでは、耐えがたい痛みが出てくるのではないか。飛行機の墜落、自動車事故、戦争などでの死は考えただけでも身震いする。この世から自分が完全にいなくなってしまうというやるせない気持ちも湧き上がってくる。でも死は避けられない。どう対応すればよいのか。人は穏やかで安らかな死を迎えるために、さまざまなやりくりをする。安楽死を考える人もいる。苦しまないためにモルヒネを打ってもらいたいと考える人もいる。あるいは精神を鍛えて、死を恐れない人間になろうとする人もいる。宗教などに救いを求める人もいる。来世に生まれ変わることを心の支えにして、死を乗り越えたいと思う人もいる。なんとか死の苦しみから逃れるために、色々とやりくりをしているのだが、確信にまで至ることは極めて難しい。森田先生は、「死が恐ろしい」という感情は誰もが持つ自然な感情である。自然な感情は、人間の意志の力で操作することは不可能である。死に対して心身を鍛えたり、救いを求める行動は、精神交互作用により、ますます自分を苦しめていく。自分にできることは、「死が恐ろしい」という感情を素直に認めて受け入れることである。感情の事実に抵抗しないで、その恐怖の感情に浸りきってしまう方法を勧められているのである。 「死が恐ろしい」という感情を無条件に受け入れると、なんだか自分が敗北してみじめになるような気がする。森田理論で考えていることはそうではないのです。不安、恐怖、違和感、不快感などに抵抗することをやめるということは、事実唯真の世界に入るということになるのです。不安などと過度なかかわりを持たなくなるということは、事実本位の世界に自分の立ち位置を決めるということになるのです。この部分が重要なのです。事実本位の世界は、不安をやりくりする必要がなくなる。「かくあるべし」という観念中心の世界からも解放されていく。今、現在、現実、現状の世界にしっかりとした足場を築き、これから柱を組み込んで家を建てていくという作業に入ることができるようになるのです。その基礎ができていない状態、例えば砂地に家を建てるとどうなるか。波に洗われ、大雨でいとも簡単に壊れてしまいます。自然現象である不快な感情をやりくりするということは、このことを言っているのです。ここで大切なことは、「死が恐ろしい」という感情の事実を受けいれるということは、生の欲望の発揮に向かって行動が開始できるという分岐点になっているということです。反対に「死が恐ろしい」という感情にとらわれている状態は、目の前の日常茶飯事、課題、目標、夢や希望に視線が向かっていないということです。森田理論は「生の欲望の発揮」をことさら重要視しています。「努力即幸福」という言葉かありますが、生の欲望の発揮に邁進している状態が、人間が一番活き活きとしているのだと教えてくれているのです。
2020.12.14
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森田先生のお話です。苦しい事は誰も苦しいというのを平等観と言います。ただ自分一人が、特別に苦しくて、他の人はみな平気であるという風に考えるのを差別観と言います。神経質は自己中心のために、なかなかこの平等観の修養ができにくいのであります。(森田全集第5巻 572ページより引用)この自己中心については次のように説明されています。神経質は船酔いも・疲労・足痛も・勉強して頭がぼんやりすることも、みな自分独りの異常・病的の事と独断し、誰もみな同様であるという事の思いやりはなく、すべて自己中心的のわがままの判断になり、したがって人をうらやみ・自分をかこち・世を呪うということにもなるのである。(森田全集第5巻 567ページより引用)私が考える平等観は、人間には耳や目は2つある。鼻や口は一つである。手や足は2本ずつある。内臓としては心臓や胃や肝臓や膵臓は1つしかない。肺や腎臓は2つずつついている。それを認識して、ははあ、人間というのは基本的には同じような体つきになっているのだなと考えることを平等観という。富士山を飛行機から眺めて、きれいな円錐形をしているのだなと認識するようなものです。いずれにしろ細かいことは言わない。遠目で大局的に見て、同じように見えれば、同じくくりとして考えるのを平等観という。これに対して差別観という考えはどんなものなのか。顔かたちが同じというのはおかしい。イケメンもいれば美人もいるではないか。3枚目の人もいれば、美人でない人もいる。頭の回転のいい人もいれば、悪い人もいる。性格も違えば、運動能力の違いもある。それを遠目に見て、数や機能が同じだから、同じと取り扱うことは、あまりにもおおざっぱすぎるのではないか。もしろ、その微妙な違いをことさら比較し、良し悪しの評価をしている状態にある。他人と比較して良いと判断すれば優越感を持つ。悪いと判断すれば劣等感で苦しむ。差別観にどっぷりつかりながら、我々人間は生きているのだという考え方です。それを無視して平等観を持てというのは、机上の空論に過ぎない。この考えを推し進めていくと、森全体を見ることを忘れて、いきなり森の中に入り木々を観察するような事になります。森田理論のキーワードの解説はできるが、横のつながりは考えることが少ない。この考え方で森田理論学習に取り組むことは弊害が多いと考えています。こうした態度はつい学習目的を見失うことになりやすい。人生観を確立するという目的を達成するためには、森田理論全体像を時々頭に思い浮かべながら、学習に取り組むことをお勧めしています。ただ、自分と他人の違い、日本人と外国人の違いを明確に分析することは必要だと考えています。これは事実を事実のままに見つめるということです。違いが分かれば次にどのように対応すればよいのかという出発点に立つことができます。事実確認が不十分ということは、観念によって、まちがった対応に手を染めていくことになります。事実を正確に判断するために、比較対照はとても役に立ちます。ところが、比較した後に、早計に是非善悪の価値判断を下すのが人間の習性です。つまり、自分では気づかないうちに、事実本位の立場を忘れて、「かくあるべし」の世界に入ってしまうのです。これが葛藤や苦悩の原因を作り出しているのだと思われます。最初はちょっとした違いですが、後には取り返しのつかない大きな差となって表面化してきます。
2020.12.11
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形外会で森田先生の一番弟子といわれている古閑先生が次のように発言されている。我々の生活には、一つ一つの事に必ず良い方面と悪い方面とが相対的になっている。「善悪不離・苦楽共存」とかいうものである。その善い事にのみ目をつけて行けば、その日が好日、悪い事ばかりに目をつけて、良い方面に眼をつぶれば、日々が悪日であるかと思います。この意見に森田先生は異を唱えておられます。明るい方を見ればよいとか、暗い方を見れば悪いとか、そういう相対的なものではない。つまり自己批判や判断ではない。ただ「その日その日を生きているという事実」そのものである。良いも悪いもその時々に「なりきる」という絶対的の感じである。自己本来の面目である。(森田全集第5巻 559ページより引用)むずかしいところですがとても大切なところです。これだけでは何を言われようとしているのか分かりませんね。できる限り分かりやすく説明してみたいと思います。古閑先生は一つの事象を見た場合、それぞれの人が観念の世界で是非善悪の価値判断をしているという前提に立っておられます。良いとか悪いとか、その人なりの物差しを持って、価値判断を下しているのです。人間というのは、放っておくと、勝手に価値判断する生き物ですね。例えば神経質性格の人は、上司からの評価をとても気にします。そういうことに振り回されると精神状態が不安定になります。良い評価ならいいのですが、悪い評価をされるといつまでも気になります。こんなことが続くとストレスとなります。胃腸の調子にも影響してきます。こうなりますと、小さいことをいつまでもクヨクヨと気にする性格はよくないと判定してしまいます。自分の小さなことが気になるという性格をよくないと価値判断しているわけです。本来その価値判断は一面的すぎます。小さなことを気にする性格は感性が豊かであるというプラスの面もあります。古閑先生の考え方を推し進めていくと、プラスの面を活かしていけばよい。マイナス面は無視すればよいという考えになると思います。森田先生は、そもそも一つの事象を見て、是非善悪の価値判断することは問題であるといわれているのです。自然界には良いも悪いも存在しないということです。良い悪いというのは、その人のものさしで勝手にレッテル張りをしていることなのです。自然界には事実、現実、現状があるだけなのです。別の人が判定すればまるきり反対の評価が出てくることはよくある。ですから価値判断すること自体があまり意味がないのです。事実を是非善悪の価値判断なしで素直に見る態度が大切だといわれているのです。これが森田理論でいう「純な心」のことです。森田先生曰く。正岡子規が7年間、寝たきりで動くことができず、痛いときは泣きわめきながら、しかも俳句や随筆できたというのは、これが「日々是好日」ではなかろうかと思うのであります。正岡子規が身体の痛みに対して価値判断していたらどうなっていたか。どうして自分だけがこんな目に合わなくてはならないのか。神様は血も涙もない冷たいものなのか。自分は苦しみ悶えながら死んでいくしかないのか。阿鼻叫喚とはこのことだ。世の中を呪い倒して怨みつくして死んでやろう。そんな心境に支配されて、投げやりになっていたとしても不思議ではありません。無為の人生で終止符をうっていたでしょう。しかし、正岡子規は痛みにのたうちながらも、この病気が良いとか悪いとかの価値判断は一切していません。痛み苦しみながらも、しぶしぶ現実を受け入れていたのです。「自然に服従し、境遇に柔順」の態度を貫いたのです。そうするとどんなことが起きたか。大変不思議なことですが、少し楽な時に創作意欲が湧きおこってきたのです。これは是非善悪の価値判断が先行していては起き得なかったことだと思われます。極度に困難な状況の中で絞り出された作品が、多くの人に共感と感動を与えているのです。ですから、安易な価値判断をする前に、良いも悪いも、すべての事実を受け入れながら、そこを出発点にして立ち上がるという態度が大切になるのです。森田先生は、イヤとか好きとかの名目を超越した事実の世界に足を踏み入れることができたら、その人は大学卒業程度の実力であるといわれています。是非善悪の価値判断をやめて、自然を素直に受け入れるという態度は、考えただけでも素晴らしい世界だと思います。地球に生まれて、歴史作りに参画できたことを心の底から喜べるようになります。
2020.12.08
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第54回形外会での水谷氏の発言です。対人恐怖の者は、そねむ事が非常に多いと思います。この間私の会社に、若手の課長がいまして、こちらから挨拶してもろくに挨拶をしてくれなかったから、こちらも不快に思って、話をしなかったのであります。しかるに私の同僚には、交際上手な奴がいて、朝も早くから、その課長と親しく話をしているのです。そんなことで私もその同僚をそねみ始めたのです。(森田全集 第5巻 618ページ)水谷氏という人は、後に自助組織NPO法人生活の発見会の礎を作られた方です。この方の存在無くして、森田理論学習の自助組織は存在していません。さて、こちらが挨拶をしているのに、無視する人が時々います。ムカッとして腹が立ちます。衝動的な怒りを抑えるために、つい相手を攻撃する人もいます。水谷氏のようにわざと嫌がらせをすることもあります。その後の人間関係に遺恨を残してしまいます。こういう場合は、発作的な怒りはとりあえず抑制することが大切になります。これはこれで機会を見て考えてみたいと思います。ここでの問題はその次にあります。そういう相手と親しく会話している同僚に対しても、「ねたむ」「ひがむ」「ひねくれる」という気持ちになるということです。人を軽々しく扱う若手の課長に対しては、部下は一枚岩になって反抗したほうがよいのにと思っているのに、抜け駆けをしているような同僚は許せないという気持ちになっているのだと思われます。同僚と自分の行動の違いを比較して、そのような課長と親しくできている同僚を快く思っていないのです。自分の頭で考えていることと反対の出来事が目の前に起きているわけですから、心中穏やかではありません。無意識的に同僚を無理やりにでも自分の考えている方向に引き込みたいと考えているのです。森田理論でいうところの思想の矛盾に陥っているということです。思想の矛盾は相手を非難、否定するだけではすみません。その矛先は自分にも向けられてしまうのです。最大の味方であるべきはずの自分自身を攻撃してしまうのです。自己嫌悪、自己否定に陥ります。自己肯定感は全く感じることができなくなる。どうしてこのような事態を招いてしまうのでしょうか。若手の課長と同僚の会話を事実として目撃した後にあります。その事実を自分のモノサシでよいことなのか悪いことなのか価値判定をしているということなのです。その事実は決して認めることはできない。無意識のうちに、事実は観念の世界で考えた方向で修正されるべきものだと考えているところにあります。これが他人との間に軋轢を生みだしているのです。同時に自分の心の中で自分自身を攻撃しているのです。この事実を目撃したとき、事実を事実として認める。事実を素直に受け入れるということになると、事態は全く違った展開になります。同僚も課長から挨拶を返されないこともあるかもしれない。仕事では聞きたくない批判や叱責を受けているかもしれない。それなのに不快な感情を持ったまま、普通の人と同じように対応できている。普通の人とは違う何らかの能力持っているのかもしれない。あるいは、悪いイメージを封印して、本来の目的を果たすという方法を身に着けているのかもしれない。それは自分でいくら考えても見当がつかない。よし、今度居酒屋にでも行ったときに、そのコツや考え方を聞いてみよう。自分も相手と同じように、対人関係をそつなくこなせるようになりたい。事実を価値判断しないで受け入れることができると、無理がなくなります。そして事実を足掛かりにして、より良い方向へ舵を切りなおすことができるようになるのです。事実を自分勝手に捻じ曲げる、言い訳をする、よく確かめないで行動に移す。これらが思想の矛盾となって私たちに立ち向かってくるのです。少しは戦えるかもしれませんが、いずれみじめな敗北を味わうことになるのです。言葉でいえば事実を事実として認めて受け入れるということになりますが、これはかなりの修養が必要になります。森田理論学習はその態度を身に着けるために応援してくれているのです。そして私たち先輩も全力でアシストしていきたいと思っているのです。
2020.12.03
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正法眼蔵の現成公案の中に次のような言葉がある。仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇(ごしゅくのきゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。仏教を学ぶということは、自分とは何か、私はなぜ死ぬのか、なぜ意地悪をしてしまうのかなどを学ぶことである。そして、自己がわかるということは、無我になることである。無我とはあらゆる物事の真実(万法)に突き動かされる(証)ことである。それは自分と対象との対立を忘れることである。その時、悟り臭さの跡がない(悟迹の休歇なる)という生き方があり、臭みのなくなった悟りをいつまでも、どこでも、だれにでも(長長出)働かせ行くのである。(道元百話 中野東禅 東方出版 152~154ページ引用)ちなみに「身心脱落」とは心底こだわりのない世界に安住することである。別の言葉に言い換えると、柔軟心を持つことである。柔軟心というのは、柔らかい心であるから、拘らず、自我に硬直せず、対象とつかず離れず接して行ける自由さのことである。(同書 119ページ)道元禅師の唱えた世界観と森田先生の目指していた考え方はほぼ一致している。つまり観念の世界を優先して、世の中のことや人間関係を推し進めようとする態度に疑問を投げかけているのである。頭で考えたことを現実に当てはめていこうとする態度をとり続ける事こそが、人間の心身に悪影響を与えている。葛藤や苦悩を生み出しているとみているのです。観念優先の世界観から、現実、現状、事実優先の世界に転換することが大切になる。事実にしっかりと足をついて、そこを出発点として実践・行動する態度を身に着けようではありませんかと訴えかけられているのです。「身心脱落」という言葉は、聞きなれない難しい言葉ですが、森田理論の「事実唯真」という言葉を別の言葉で表現したものなのです。森田理論の言葉は、別の考え方を学ぶことによって、さらに磨きがかかり、凄みを増してくるものと考えます。
2020.12.01
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今日は女優の芦田愛菜さんの「信じること」についてのコメントを考えてみたいと思います。これはSNSで発信されていました。ちなみに芦田愛菜さんは、現在16歳だという。次のようなコメントをすること自体、大変な驚きであった。1、「(私は)その人を信じようと思います」2、「(信じることでよくありがちなことは)その人自身を信じているのではなく、自分が理想とする人物像に期待してしまっている」3、「(相手から)裏切られたとか期待していたとか言うけれど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけであって、見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められる。揺るがない自分がいることが信じられることと思いました」4、「揺るがない自分の軸を持つことは難しいからこそ、人は「信じる」と口にして、不安な自分がいるからこそ、成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」この考え方を材料として、森田理論をさらに深めていきたい。1番目では、最初から相手を非難、否定しないで、まず相手の理不尽な言動であっても、その事実を受け入れたいといわれている。森田理論では、「かくあるべし」を相手に押し付けることを封印して、とりあえず事実、現実、現状を素直に受け入れるという考え方です。2、相手を自分の持っている物差しで、安易な是非善悪の価値判断はしませんといわれている。普通は、相手が自分の持っている期待や理想からかけ離れていると、我慢できなくなってつい批判、否定してしまう。これは方向性が間違っていませんかといわれている。肯定、激励、評価、称賛することに重きを置かないのはどうしてなのか。そうすることで人間関係はうまくいくのに、実践・実行しない人が多い。自業自得に陥っている。3、相手の態度、性格、容姿、能力、言動などを、価値批判しないでそのまま認めていくことが大切だといわれている。そうした一貫した態度を持ち続けることが、自分を信じる事だといわれています。それが揺ぎない自分を作り上げることだといわれている。芯ができると、自信を持って生きていくことができます。そして「かくあるべし」に重きを置いた生活態度を、事実に重きを置いた生活に変えていきたいと高らかに宣言されています。4、そうはいっても、人間はどうしても、観念中心になりやすい。完全主義、完璧主義、理想主義、目標達成主義、コントロール欲求に流されてしまう。これは人間のサガのようなものです。でも、いつまでもそこに固執する態度は如何なものか。たしかに「かくあるべし」人間から、事実本位の人間に転換することは大変むずかしい。しかしそこを目指していかないと、「揺るがない自分の軸」はいつまで経っても確立することはできない。葛藤や苦悩から解き放されて、精神的に安定的で豊かな人生観を確立するためには、事実本位にこだわる姿勢を保ち続けることが一番であると思う。これは生涯森田で、森田理論にかかわりあうことで、徐々に近づいていけます。
2020.11.23
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