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元大リーガーのイチロー選手は、20代のころは「自分にも厳しく、他人にも厳しく」というのが口癖だったという。毎年200本以上のヒットを打つことを目標に掲げて、そのために過酷な練習を積み重ねていった。普段の生活もその目標達成のために、気を緩めるということは考えられなかった。規則正しい生活、自分の野球道具を大切に扱う。ルーティンを大切にされていた。他人に対しても、自分と同じような姿勢でストイックに野球道に取り組んでいる人以外は受け入れることができなかった。ちゃらんぽらんな気持ちの人を軽蔑されていたという。ところが30代に入るとその考え方は、「自分には厳しく、他人には寛容に」と変貌を遂げていったという。「他人の失敗が許せない」から「他人の失敗は見過ごす」に変わっていったという。自分に対しては、目標に向かって努力精進する気持ちは変わらなかったが、たとえミスや失敗をしても許せるようになったという。そのミスや失敗を糧にして、さらにモチュベーションを高めることができるようになった。(イチロー哲学 児玉光男 東邦出版 59ページより要旨引用)これは「かくあるべし」で自分や他人を上から下目線で眺めて、批判や否定していた態度がなくなったといわれているのだと思う。いかに理想とは程遠い事実、現実、現状であっても、それらを素直に認めて受け入れることができるように変貌を遂げたといわれているのです。「かくあるべし」で自分や他人を批判、否定する態度は、対立を生んで、事態はますます悪化する。現実や現状にしっかりと寄り添い、小さな日々の課題を淡々とこなしていくことに価値を見出した。他人に対しても、たとえ思うような成績をあげることができていなくても、そういう姿勢で努力精進している人を温かく見守り、励ましてあげることができるようになった。そうすると精神的な葛藤がなくなり、他人と対立することがなくなったといわれているのだと思います。自己嫌悪、自己否定、他人否定することがなくなり、余計なことで時間をつぶすことがなくなった。目の前の課題に向かって集中的にエネルギーを投入することができるようになったのです。これは「かくあるべし」の生活態度の弊害が理解できても、なかなか事実本位の生活態度が身につかない我々にとってとても驚くべきことです。私たちは森田理論学習によって、曲がりなりにも「かくあるべし」の弊害はよく理解できた。あとは森田理論が教えくれたいくつかの手法を生活面に応用して、少しづつその方向に近づいていくようにしたい。これは一人で習得することは難しいと思うので、自助グルーブの仲間と切磋琢磨し、励まし合って、ある程度の時間をかけてものにしてゆきたいものです。
2019.06.25
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今日は、自己肯定感を高めるためのノウハウを紹介してくださっている本を紹介しておきます。この本は、森田理論の「かくあるべし」を減らして、「あるがまま」「事実本位」の生活態度になるための道筋が示されています。著者は精神科医の藤井英雄さん。出版社は廣済堂書店です。今回はこの本の中から、私が感銘を受けた言葉を紹介します。1、あるがままの自分を愛せる人は、他人に肯定してもらう必要がなくなる。2、あるがままの自分を愛せるようになると、難題が課題に変わり、大いなる存在に感謝をささげることができるようになります。私の感想を書いてみます。1は、自己信頼感、自己肯定感が持てる人は、他人が自分のことを非難、否定しても、ひどく動揺しなくなるということです。イヤなことだけれども、それにとらわれ続けることはなくなります。反対に、自分を自己嫌悪、自己否定している人は、無理をして他人の承認や賞賛を得ようとします。自分の気持ちや、意志を抑圧して、他人の気持ちや意志に従おうとするのです。他人の人生を生きているわけですから、生きることがつらくなってくるのです。自己肯定感、自己肯定感を獲得するためには、「かくあるべし」を減らして、事実や現状を素直に認めて受け入れ、「事実本位」の生活態度に切り替えていくことが必要となります。これは森田理論学習で勉強している通りです。2は、問題が発生した場合、上から下目線で自分の解決能力のなさを嘆き悲しんだり、他人に責任転嫁しているようなものです。批判や否定することから何も生まれることはありません。あるがままの自分を愛せる人は、問題の発生を「課題を与えられた」と捉えることができるようになるのです。問題の発生は身近な自分の周辺で起こっていることがほとんどです。その問題を素直に認めて受け入れるということができる人は、そこを出発点にして、問題解決に取り組むことができる人なのです。森田理論に「努力即幸福」という言葉がありますが、その路線を着実に歩んでいくことができるのです。
2019.06.18
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「思考が感情を導く」という言葉がある。何のことか分からないと思う。説明してみよう。例えば、友達と旅行に行く計画を立てていたとする。航空券や宿泊ホテルも手配済みである。ところが、友達が3日前になって突然ドタキャンしてきた。普通の人なら、「この場に及んでなんで。どういう神経をしているの」と腹が立つだろう。ましてや何か月も前から、いろいろと調べたり、打ち合わせを繰り返し、楽しみにしていた旅行である。勢いあまって、怒りの感情を友達に向かって爆発させる人もいるかもしれない。もう絶交だと思う人もいるかもしれない。実はこの怒りの感情は、思考が生みだしたものであるということなのである。ドタキャンという出来事に対して、怒りの感情がダイレクトに生まれるのではない。出来事をどのように解釈したか、つまりどのように思考したかによって、感情はポジティブにもなるし、ネガティブにもなるということです。感情の発生にあたっては、思考が間に入っているのだ。では、この時の思考は何か。友達との約束は絶対に守らなければならないという考えを持っているということだ。約束したことを簡単に破ると、人間関係がぎくしゃくする。だから自分も一旦約束したことは、万難を排して遂行している。約束した時間に遅れないようにいつも気を使っている。そんなことが許されるのなら、交通法規なんか守らなくてもいい。赤信号でも、無視していいということになる。税金逃れをしてもよい。借金しても返さなくてもいいということになるじゃないですか。そんな考え方で、頭がいっぱいになり、つい感情的になって、そのうっぷんを晴らそうとするのです。森田でいうと「かくあるべし」が強くて、それを友達にぶっつけているのです。これはネガティブな思考です。ネガティブな思考からは、当然ネガティブな感情をおびき寄せてしまいます。ネガティブな感情は、自己嫌悪、自己否定、他人否定を招き、反発と対立の悪循環に陥ってしまいます。これに対して、ポジティブな思考もあります。まず友達のドタキャンの事実を認めて受け入れることです。受け入れがたい出来事ですが、まずは受け入れることです。ドタキャンがよいとか悪いとか評価をしてはいけません。その上で、相手の立場に立ってみることです。友達も楽しみにしていたのに、ドタキャンしなければならない事情が発生したのかもしれないと考えてみることです。それを相手に聞いてみることです。・気分的に行く気がしなくなった。・急に風邪を引いた。インフルエンザに罹った。・体調が悪くなった。・お金の都合が付かない。・飛行機に乗るのが怖ろしい。・体力的に自信が持てない。・今回の旅行先は何度も行ったことがあり、魅力を感じない。・配偶者が許可してくれない。・いびきがひどく、何回も夜トイレに行くので迷惑をかけるのではないか。・旅行中迷惑をかけるのではないか心配で仕方がない。・父や母が入院していて、最近急に具合が悪くなった。・犬や猫を飼っているが世話をしてくれる人がいなくなった。・子供の受験や発表会があり、旅行に行くことに後ろめたさを感じている。その他いろいろと理由をあげてくるだろう。その事情が自分が納得できるものであれば、残念ではあるが、同情することもできるだろう。ショックだが今回は中止し、別の日程に延期しようと納得することができる。すぐにキャンセルして被害を最小限に抑えるべく行動することもできる。相手と犬猿の仲にならない。相手と言い合いの喧嘩をするのとはえらい違いだ。また自分が協力して、何とかなることなら、その方法を考え合うこともできる。ポジティブ思考というのは、予想外の出来事をまずは価値批判しないで認めて受け入れる。そして相手の立場に立って、肯定的に理解してみようとする態度のことである。相手の置かれた状況が理解できれば、ネガティブ感情は湧き起こらなくなる。ポジティブ思考をすることで、ポジティブ感情が養成されるのである。そうすれば、自分肯定、他者肯定、存在肯定、協力的、思いやりが出てきて、友情をはぐくみ、共存共栄の人間関係を築くことができる。生きることが楽になる。生きることが楽しくなる。これは森田理論でいうと、「かくあるべし」を少なくして、「あるがまま」「事実本位」の生き方をしている状態なのです。
2019.06.15
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森田先生のところに入院していた人は、朝起きた時と夜寝る前に、 5分間くらいずつ「古事記」を音読する習わしになっていた。内容は分からなくても、ただ棒読みすればよいと言うことであった。水谷啓二先生は次のように言われている。それならば論語とか、お経とか、聖書とか言うもの読ませないで、なぜ「古事記」を読まされるのか。これが私にとってのひとつの疑問でありました。仕方なく、訳はわからないままに「古事記」を音読しておりました。ところが森田療法を終わって、その後だいぶ年月が経ってから、私には「古事記」を読まされた訳が、ふとわかってきました。「古事記」にいうところの神々とは、いわゆる多神論的な神々というのではなくて、純なる人間、かねて先生の言われる「真人間」のことである、と全身心を持って納得することができたのであります。先生は、その晩年の著書である「神経質療法への道」第1巻の初めに、次のように書かれておられます。「神経質は、自ら劣等感に駆られ、或いは種々の強迫観念に苦しんで、我と我が身をかこつのは、暗に劣等感のために自暴自棄となるのではない。この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたいとの憧れに対する・やるせない苦悩であるのである」この真人間、つまり純なる心に生きる人間こそ、「古事記」に言うところの神々でありました。森田先生が入院生に朝晩5分間「古事記」を読ませていたのはそういう理由だったのか。「かくあるべし」で現実の自分や他人を、裁判官のように厳格に判定して、ルール、規範、しきたり、法律、理想、観念、完全、完璧、目標に無理やり従わせようとしている人間。観念や理想が主導権を握って、現実、現状、事実を軽視・否定しまくっている状態が、人間に大きな葛藤や苦悩をもたらしている。その手法は間違いですよ。人間の再教育をしていかないと、苦悩だらけの人生を歩むことになる。また、長い目で見ると、早晩人類は絶滅の方向に向かっていますよ。現実、現状、事実が主導権を取り戻して、しっかりと事実に立脚した人間として生きていくことが大切なのですよ。それを森田先生は「真人間」という本来の人間に立ち返ることなのだといわれているのだと思います。理性が高度に発達した人間は、理性が暴走して、そのような当たり前のことは考えもしなくなっている。この考え方は森田先生の生きておられた時代よりも、現代人のより大きな課題となって目の前に立ちはだかっている。あるいは制御不能な状態に足を踏み入れているのかもしれない。欲望の暴走と「かくあるべし」の肥大化は、すべての人間に課されている近々に解決すべき問題となっている。森田を十分に学習して理解し、森田理論を存分に生活に活かしている人は、この2つの問題をできるだけ多くの人に向かって警鐘を鳴らしてほしいものである。森田先生がもし現代に生きておられたら、その方面の活動を積極的に進められているだろうと推察している。
2019.06.14
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先日森田理論を応用した貴重な経験をした。妻と一緒に大衆食堂に行った。自動券売機で先に支払いを済ます店だった。妻が一万円を投入して料理を頼んだ。そこまでは何ら問題はなかった。ところがお釣りを受け取らず案内された席についた。2分ぐらいすると、ウエイトレスがやってきて、「お客さんお釣りを受け取りましたか」という。妻はそういわれるまで、全く気がつかなかったのである。親切なウエイトレスだから、お釣りは戻ってきたが、もしものことを考えるとぞっとした。二人で1500円程度の食事代が1万円もかかってしまうことになるのだ。森田を学習する前だったら、いつものように妻の不手際を責めただろう。気丈夫な妻もすぐに応戦し、食事どころではなくなり、しばらくは犬猿の仲になったに違いない。私は相手のミスや失敗、不手際を非難して叱責して、その後の人間関係が悪化するという経験を数多く積み重ねてきた。完全主義を相手に押し付けて、相手を否定して最悪の結果を招いていた。そのうち弾みがついて、過去の不祥事を持ちだす。相手の人格否定をすることになると手が付けられなくなる。そういう苦い経験をしているにもかかわらず、凝りもせず同じ誤りを繰り返していたのだ。「かくあるべし」が強すぎるのだ。その弊害は森田理論の学習で嫌というほどわかっていた。今回はとっさにNHKのアナウンサーになりきって実況中継をしてみようと思った。ご存知のようにニュースのアナウンサーは、事実を淡々と説明するだけだ。それがよいとか悪いとかの評価はしない。是非善悪の価値評価はしないのだ。これは応用してみる価値がある。アナウンサーの○○です。現在現場に来ております。先ほど妻の△△が券売機に1万円を投入して二人分の料理を注文しました。ところがお釣りの8500円余りを受け取らずに案内された席につきました。差し出させたお冷を飲んでいました。すると女性店員があわててやって来ました。「お客様、お釣りはお受け取りになられましたか」妻の△△は恐縮して照れ笑いを見せております。お釣りを受け取らなかったことにたった今気づいた模様であります。間一髪でお釣りは戻ってきました。最悪の結果は避けることでできた模様であります。旦那の○○も、「お前は悪運の強い奴だな」と冷やかしております。以上現場からの中継を終わります。これは事実を詳細に再現しようとしているので、非難や叱責の言葉が入り込む余地がないのです。よい悪いの是非善悪の価値評価をしないというのがポイントです。「かくあるべし」少なくして、事実に寄り添うというのは、こういうやり方が有効なのだなと気づきました。これからはこの手法をどんどんと応用してゆきたいと思いました。次にもう一つ。私の過去の経験で妻と同じようなミスをしたことはなかったか考えてみました。するとありました。銀行のキャッシュコーナーでカードと支払明細書は受け取ったのですが、肝心の現金は受け取らずにその場を離れようとしていたのです。友達が「現金は受け取ったのか」と言ってくれたので、はじめて気づいたのです。同じようなミスをしていた自分を棚の上にあげて、妻の不祥事にことさら目くじらをたてて非難する資格はあるのか。そういうことを思い出せば、相手のミスを許してあげることができるのではないか。相手のミスや失敗を詰問しないで、許してあげるというのは包容力のある人なんですね。そういう人の周りに自然と人の輪が広がってくるのですね。たかが1万円程度の損失よりは、その後の気まずい思いを引きずることの方が高くつくような気がする。相手を批判、否定、叱責しそうになったときは、過去に自分も同じようなミスや失敗はなかったか振り返ることが大切です。大体同じようなミスをしているのが普通の人間です。「かくあるべし」を少なくして、事実本位の態度を身に着けるということは、実はそんな高尚なことではなく、ちょっとしたコツを掴むことだと思います。皆さんも気にいったら応用してみてください。
2019.06.08
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相田みつをさんだっら「かくあるべし」をこんなふうに説明するのではなかろうか。誰でも相手のことを信頼して付き合ったほうがよいことは分かっているんだな。でも実際はどうかな。批判や否定しまうことが多いのではないかな。相手の言動、容姿、存在、性格、能力、弱点、欠点、ミス、失敗など批判する材料は事欠かないからね。いつもしかめっ面をして、不平不満をぶちまける。怒る。叱責する。こんな人が多いのではないかな。相手はたまったものではないよね。相手は対抗措置として、非常事態宣言をして、戦闘態勢に入るんだ。ぎすぎすした人間関係は、潤滑油のない歯車を回転させているようなものだな。自分も苦しいが、同時に相手をも苦しめているんだな。このことを、森田では相手に「かくあるべし」押し付けているというんだ。自分の是非善悪の価値観で相手を裁いているというんだ。これは相手のためではないんだな。自分の不快感を払しょくするためにしていることが多いんだな。その結果、相手との人間関係がぎくしゃくしてくることは犬でも分かることだな。そんなことも分からずに、愚かにも同じことを繰り返しているんだな。そして自分も他人も生きずらを抱えてのたうち回っているんだよ。そんな人はどうしたらよいのだろうね。こんな苦しみを抱えている人は、森田理論を活用したらどうだろうかね。「かくあるべし」は自然現象のようなもので、次から次へと湧き出てくるものなんだよ。だからよいも悪いもないんだよ。これが人間の宿命みたいなものだね。台風が次から次へとやってきても、それがよいとか悪いとかいう人はいないだろう。ここで肝心なことは「かくあるべし」が出てきたことに気づくことなんだよ。「あっ! またかくあるべしがでてきたよ」これに気づいたときがチャンスなんだよ。そんな時、すかさず、自分に向かってこう叫ぶんだ。「その考え方、ちょっと待った」この言葉を自分に投げかけられるかどうかが境目なんだな。この言葉は魔法の言葉なんだよ。まず、相手に「かくあるべし」を押し付けることを踏みとどまる効果が出てくるんだ。相手に暴言を吐いて、批判、否定することを回避できるんだよ。そしてね。理不尽で不快な事実をとりあえず認めることだよ。そのためには、事実を事実のままに正確に把握するんですよ。よく観察しないと難しいね。他人の話をうのみにして、先入観や決めつけはご法度だよ。そしてね。難しいかもしれないけど、仕方なしにその事実を受け入れることだよ。これは森田理論でいうと、「あるがまま」というんだよ。事実本位、事実唯真、自然に服従、境遇に柔順ともいうんだよ。事実に立脚した立場に立つと、次の目標が見えてくるんだ。それは建設的、生産的、創造的なものなんだ。「かくあるべし」の態度は、雲の上に自分の立ち位置をとって、現実を批判、否定しているから、自分や他人を不幸にするばかりなんだよ。どっちがよいと思う。聞かなくてもすぐに分かることだよね。言われてみればすぐに分かることなんだけど、自分ではなかなか気づかないところなんだよ。森田は奥が深いし、面白い理論だね。なんとなく将来に希望が持てる話だね。
2019.05.30
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最近はマインドフルネスがブームになっています。森田とマインドフルネスを組み合わせて活躍されている臨床心理士の方もいらっしゃいます。これが森田理論とどういうつながりがあるのかはずっと疑問に思っていました。この疑問を岡田尊司氏が明快に説明してくださっているのでご紹介したい。マインドフルネスはもともと瞑想からきている心理療法です。その瞬間、瞬間のありのままの自分を感じ取っていくということが基本です。単に思考とか頭で感じるのではなく、身体で感じるというのを大事にする方法ですね。そういうところから、呼吸とか、身体の感覚とか、いま不安を感じているとか、このへんがだるいとか、かゆいとかね。そういう感覚もそのまま大事にして、受け入れることを普段からやっていく。そうすることで、たとえ何か苦しい体験をしても、「こんなふうになっているのはダメな自分だ」とか、「自分がダメだからこんな目にあっているんだ」とか価値判断せずに、ありのままに受け入れられるようになるという考え方ですね。たしかに、つねに「・・・ねばならない」で価値判断してしまって、自分の理想に比べたらダメだと思ってしまうような「かくあるべし」の弊害を抱えている人にとっては一つのよい方法だと思います。(絆の病 岡田尊司 ポプラ社 113ページより要旨引用)これを見ると森田理論の内容と非常に共通する部分があります。今現在の自分の身体感覚に注意を集中する。呼吸、感情、身体感覚などをよい悪いと価値判断しないで、そのままに味わう。すべての事実を事実としてあるがままに受け入れる。「かくあるべし」という完璧、理想主義は人間である以上は避けることができない。その「かくあるべし」は、次から次へと台風のように発生して、自分を苦しめています。また「かくあるべし」を他人に押し付けることで、人間関係がぎくしゃくしてくる。それが喧嘩、争い、テロ、戦争にまで発展することがある。森田理論を学習して、葛藤や苦悩を減らして自他ともに楽に生きていくためには、「かくあるべし」を減らして、事実に立脚した生き方を身に着けることが大切だということが分かった。事実本位、あるがまま、自然に服従した生き方のことである。ところがこれは口でいうことはたやすいが、身に着けることは大変難しい。私は「かくあるべし」に気がついたとき、「ちょっと待て」をキーワードにして事実に立脚した生き方に立ち戻ろうとしている。10個あれば1個か2個は立ち戻れているかもしれない。その他いろいろな手法を取り入れている。できるだけ事実をよく観察すること。事実を具体的、赤裸々に話す。マイナス感情に対しては、両面観でプラスの感情も見るということ。初二念の感情を感じたとき、「ちょっと待て」と言って初一念に立ち戻る方法。「純な心」の応用のことです。「あなたメッセージ」をやめて、「私メッセージ」の発信を心がける。相手の話を一旦はよく聞いて、そして妥協点を探る方法などである。マインドフルネスは、事実に立脚した生き方をするための一つの方法だと感じています。マインドフルネスのCDを持ってるので、早速試してみたい。
2019.05.29
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堀江貴文さんは、「炎上される人間になれ」という本の中で、「ひとつの熟考より、3つの即決」を大事にして仕事をしてきたと書いてある。課題や目標に対して、納得できるまで考えるよりも、ある程度のところで見切りをつけて、実際に動きだすほうがよい。課題や目標が大きいと、必ず問題点や壁が立ちふさがってくる。動き出さないと、それらは見えてこない。問題点や壁が見えてくると、それを解決したり、乗り越えていくための方法を考えるようにすればよい。そのうちやる気も高まってくるだろうし、目標への道のりも徐々に見えてくるのである。この態度は森田理論でいうと、現実、現状を素直に受け入れて、一歩目線を上にあげて行動している状態である。努力即幸福の状態になる。しかし私たちが往々にして陥りやすいのは、観念や思考で「絶対成功間違いなし」という確信が持てるまで考え続けることである。「ああだこうだ」と想定される様々な困難な状況を考えているだけで実際に手足は動いていない。そのうちタイミングを逃したり、ネガティブな思考にとりつかれて終わってしまう。これは森田理論でいうと、上から下目線で現実や現状を悲観的、批判的、否定的に見ているということです。「軽率な行動をとって、もし失敗でもしたらみんなの笑いものになるぞ。それでいいのか。イヤ、それだけは絶対に避けなければならない」などと、やらない、やれない理由を強固なものに構築しているような状態に陥る。本末転倒である。例えば、結婚相手を探す場合、相性、初婚か再婚か、性格、学歴、容姿、趣味、友人関係、家柄、仕事内容、財産、親と別居、マンション住まいか一戸建てか、田舎暮らしか都会暮らしか、専業主婦でも生活が成り立つかなど様々なハードルを設けている人がいる。それらをある程度クリアーしていないと、対象として考えられない。あまりにもパーフェクトを求めているので、なかなかお眼鏡にかなう人が出てこない。そのうち歳をとって婚期を逃してしまう。その時になって、私の選択は間違っていなかったのだろうかと後悔する。仮にこの人は間違いないと思って結婚してみたものの、会話が面白くない、持病を持っていた、性格が合わない、喧嘩が絶えない、一緒にいると息がつまる。結婚する前は、完璧だと思っていたのに、あちこちに不平や不満が噴出してくるのである。これらは観念や思考で「かくあるべし」を相手に押し付けているのだ。現実は思い描いたいた理想とは程遠い。こんなはずではなかった。もう私の人生は終わりだ。この責任をどうとってくれるのよと相手を恨むことになる。そして、離婚、家庭内別居に陥る。これがある程度のところで妥協して、現実を認めて受け入れるという態度になると状況は一変する。10の欠点や弱点があれば、10の長所や強みがあるのが人間だ。欠点や弱点には眼をつむって見逃してあげよう。それよりも相手の長所や強みを評価して伸ばしてあげよう。今持っていないもので必要なものは、二人で協力して作り上げていこう。今与えられた状況の中で、精一杯人生を楽しもう。容姿なんて歳をとればみんな同じようなものだ。それよりも子供を立派に育てることに取り組みたい。これらは、現実にしっかりと根を張り、事実に立脚して生きていこうとしているのです。決して上から下目線で、悲観、批判、否定している態度ではありません。こういう人生観を持っていると、将来は末広がりで味わいのある豊かな人生が待っています。
2019.05.28
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アメリカのアーロン・ベックは、うつ病の患者が実際以上に物事や出来事を悲観的、ネガティブに考えていることに気づきました。目の前の事だけでなく、過去のことをいつまでも悔やみ、将来のことに対しても否定的に考える癖を持っていることに気づきました。この過度な悲観的、ネガティブな思考の癖がうつ病の患者を苦しめているのではないかと考えたのです。葛藤や苦悩を軽減し、なくするためには、そのような悲観的で一方的な考え方の癖を修正していくことが有効であると考えたのです。これが認知療法として広く普及して、様々な精神療法の現場で使われているのです。神経症で苦しんでいる人も、物事や出来事をマイナス思考で悲観的にとらえる傾向があります。・一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないと決めつける。・他人は自分のことをいつも批判的、否定的に見ていると考える。・付き合いはいつも対立的になり、緊張の連続である。・仕事をすればミスばかりする。叱られるので、仕事に積極的になれない。・テストで80点だったが、できなかったところにとらわれて、自己嫌悪に陥る。・会社の考課表でプラスの面もあるのに、マイナス面の評価ばかりに目が向いて劣等感で苦しむ。・自分の欠点や弱点は過大に取り扱い、他人の欠点や弱点は大したことはないと過小評価する。・自分の長所、才能、能力はとるに足らないものと過小評価して、他人の長所、才能、能力は過大評価する。これらのネガティブな思考パターンは、どうして形成されたのでしょうか。一つには子供のころから、親や周囲の人からそのような思考パターンを植え付けられてきたことが考えられます。認められる、評価される、褒められることよりも、非難、否定、説教、命令、指示、禁止、叱責に偏った育てられ方をしてきた。その結果、自分に自信が持てなくなった。また、生まれてこの方、「かくあるべし」でかんじがらめな社会の中で育ってきた。このことに関して、森田先生は次のように言われている。「教育の弊は、人をして実際を離れて、徒に抽象的ならしむるにあり」観念や思考で現実、現状、事実を否定的、ネガティブ、マイナス思考で考える癖がついてしまった。井の中の蛙のようなもので、多くの人がそのような思考方法で生活しているので、それがあまりにも偏った考えだと気づくことができなくなってしまった。このような態度が多くの人ににどんな状況をもたらすのか。自分に対しては、自己嫌悪、自己否定を招きます。生きづらさを抱えるようになります。他人に対しては、他者否定を繰り返し、次第に人間関係は対立的になります。自分に対しても他人に対しても、息苦しくなり閉塞状態に追い込まれてしまうのです。この方向で生活することは、身体的にも、精神的にも計り知れない悪影響を招いてしまいます。森田理論は、この閉塞状態から脱却する道を教えてくれています。悲観的思考に陥る出来事は一つです。その出来事に対して、よい悪いと価値判断しないで、事実を事実として認める。そして事実を受け入れるという方法があるのです。どんなに受け入れがたい事実であっても、事実と一緒になって喜び悲しむ態度を身に着けることです。この生き方は、自分の本音と建前が乖離することなく一体となります。葛藤や苦悩が生まれる余地がなくなります。自分を自己肯定することができるようになります。自分は自分の最大の味方になることができます。他人に対しては、共感と受容の姿勢で接することができるようになります。他人の話をよく聴くようになります。友好的、協力的で豊かで楽しい人間関係を築くことができるようになります。ネガティブで悲観的な思考パターンに陥ったとき、「ちょっと待て」と言って、事実に立脚した思考方法に立ち返ることができる能力を身につけると、生きることが楽になり、人間に生まれてきてよかったと思えるようになります。ぜひ森田理論でこの能力を獲得してください。
2019.05.23
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私は、森田理論を学習して、「かくあるべし」で現実、現状を否定しているから、精神的な葛藤や苦しみが生まれてくるのだということは理解できました。しかし、理解したからといっても、精神的に楽になったかといわれるとまだまだだと思っています。理解することはまず最初に取り組む課題ですが、そこにとどまっていては苦しみは増大していく。理解することと身に着けるということは別物だと思います。「かくあるべし」という自動思考が改められて、「事実本位」の自動思考に置き換えられることが大切だと思っています。例を上げて説明したいと思います。仕事をしていると、解決の困難な問題に直面することがあります。ミスや失敗をすると上司や同僚達から非難されて、仕事に対する情熱をなくしてしまうこともあります。そんなことがなくても、マンネリ化して、仕事は面白くないと感じることもあります。こんな時、どんな感情が湧いてくるでしょうか。仕事はしたくない。休みをとって、仕事や人間関係のわずらわしさから解放されたい。仕事を辞めてしまいたい。宝くじにでも当たれば、すぐに辞表を出したい。これが偽らざる自分の本音です。でもこのような感情は、「かくあるべし」で否定してしまいます。それは自分のわがままだ。常識外れの子供じみた感情だ。仕事をしたくないなどいう気持ちは気分本位だ。気分本位の考えはダメだ。有給をとって休むと、他の人に自分の仕事を肩代わりしてもらわないといけない。たとえ休んでも罪悪感で苦しむことになる。どれだけ他人に迷惑をかければ気が済むのだ。また退職すれば、どうやって生活するのだ。最悪飢え死にしてしまうぞ。社会からも相手にしてもらえなくなる。家族はどうやって養っていくのだ。だからイヤなことがあっても、つまらないと感じても絶対に会社を辞めてはいけない。これだけは肝に銘じて生きていくことだ。このように本来の自分の気持ちや感情を否定し、抑圧しているのです。すると、自分の気持ちと「かくあるべし」という考え方の間に埋められない溝ができてきます。この埋められない溝が葛藤や苦悩の発生の原因になっているのです。このような場合、主導権を持っているのは「かくあるべし」です。「かくあるべし」が自分の気持ちや感情を、あってはならないもの、邪悪なものとして取り扱うことが当たり前の状態になっているのです。森田理論で「思想の矛盾」と呼んでいるものです。これが神経症の発生、固着の大きな原因となっています。また、生きづらさや全般性不安障害、気分変調性障害、慢性うつ病などの原因となるものです。ここでは自分の気持ちや素直な感情に光を当てていくことが大切になります。そこから出発する態度を養成することが重要です。自分は、「このように感じているのだね。つらい気持ちなんだね」と受け入れることが、真っ先に取り組むべき課題となります。自分の気持ちや素直な感情を打ち出すことによって、「かくあるべし」という考えを抑え込むことです。主導権は自分の気持ちや素直な感情の方にあるとよいのです。この場合は、退職すれば当然路頭に迷うことになりますから、すぐに退職という方向には向かわないと思います。でも、自分の気持ちや素直な感情を楽にする方法をいろいろと考えるようになります。「かくあるべし」との間で、自分の気持ちや感情を優先にして、折り合いをつけるように試行錯誤するようになります。これは「かくあるべし」に翻弄される生き方とは全く違ったものになります。
2019.05.21
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樹木希林さんの「一切なりゆき」(文春新書)という本はすでに100万部を超えている。その中に「いい意味での人間の美しさ」という一文がある。60歳を過ぎたら60歳を過ぎたなりの、何かいい意味での人間の美しさっていうのがあるような気がするのです。そういうふうに年をとっていけたらいいんじゃないかなって、それが実感なんです。普通歳をとると、シワやシミが出てくる。白髪が出てくる。髪が抜けてくる。歯が悪くなる。骨がもろくなる。体力がなくなる。気力がなくなる。足腰が痛くなる。いろんなところに痛みが出てくる。物忘れが激しくなる。生老病死といって、老いることは人間の宿命とはいえ、苦悩の一つにあげられています。これらを40代50代の人と比較して、嘆き悲しむ人もいます。中には肉体改造に取り組んだり、若く保つためのサプリメントを飲む人もいます。できるだけ若返りを図ろうとしているのです。あるいは老化を先送りにしようとしているのです。この涙ぐましい姿は現実を否定して、理想の容姿を手に入れようとしているのです。あまりにもそのことにとらわれすぎるのは考えものです。これは事実や現状を否定して、「かくあるべし」に合わせようとしている態度と同じです。思想の矛盾で精神的に葛藤や苦悩を抱えて苦しくなるばかりだと思います。これに対して樹木希林さんは、そんな涙ぐましい不可能に挑戦することはやめようよといわれているのです。他人と比較しない。隠したり改造することはやめて、一切なりゆきに任せて生きていくんだと宣言されているのです。現状をあるがままに受け入れて、事実のままに生きていこうとしておられたのです。75歳で亡くなられましたが、亡くなる前は全身がんで苦しんでおられました。すべてを受け入れて、今現在自分のできることに懸命に取り組んでおられました。自分に備わっているものを最後まで活かしていくということを、森田理論では「物の性を尽くす」と言っております。樹木希林さんは、自分の心身を最後の最後まで活かしきった人だったのではないでしょうか。
2019.05.19
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自分や他人を悲観、非難、否定する生き方から、いかなる事実や現状であっても素直に認めて受け入れる生き方を身につけるための習慣をいくつか紹介してみたい。1、森田理論の「純な心」を実践する。純な心の眼目は、出来事に対して「初一念」という感情が湧き出るということだ。しかしその感情はすぐに掴まえないとたちまち通り過ぎてしまう。そして「かくあるべし」を含んだ初二念、初三念の感情が湧き出てくる。それに基づいての言動は、言い訳や弁解、自己否定、他人否定を招いて対立関係に陥りやすい。この時、初二念や初三念を横において、「初一念」を思いだして、そこから行動できるようになるとよいのだ。2、私メッセージの発信を心がける。あなたメッセージは、相手を非難、否定、脅迫、強制に追い込んでしまう。私メッセージは、自分の素直な気持ちに焦点を当てているので、相手に自分の「かくあるべし」を押し付けることを避けることができる。3、相手の話をよく聞く。自分の気持ちや意見を述べる前に、相手の立場に立って、相手の言い分をよく聞くようにする。自分の気持ちや意見とは食い違いがないかと謙虚な気持ちで相手の話を聞く。そうすれば、いきなり自分の「かくあるべし」を押し付けることを回避できる。4、「ありがとう」「おかげさまで」などの感謝の言葉を意識して使うようにする。感謝の気持ちがなくても、意識して感謝の言葉を使っているうちに、自然に感謝の穏やかな気持ちになってくるから不思議である。これは森田でいう、形から入るということだ。「玄関の靴がそろうと、心がそろってくる」ということと同じことだ。感謝の態度は、友好的な人間関係を引き寄せる。事実本位の生活に近づいていくのだ。5、身近なことで他人の役に立つことを見つけて実践する。一度会った人の名前を覚えておく。笑顔を絶やさない。道を空けてあげる。心からほめる。本を貸してあげる。ごみを拾う。手伝ってあげる。相手の話し相手になる。温かい言葉をかけてあげる。ちょっとしたものをプレゼントする。これはいくらでもある。すぐに実行することだ。今すぐに実行できなければ、メモしておいて、後日実践する。そういう気持ちを持ち続けることは、「かくあるべし」を押し付けることとは対極になる方法である。6、次のような標語を作って意識付けを行う。「自分は自分がどんなことことになっても見捨てない。自分を守り抜いてみせる」「自分はいつも自分の最大の味方だ」「自分は一生涯自分を愛している」これに類する言葉を自分なりに見つけて「スローガン」にする。机の前に張り出したり、メモするなどして、声を出して読みあげる。こんな習慣を続けると、いつの間にか自己嫌悪、自己否定の気持ちはどこかに逃げだしてしまうのではないかと思います。以上の中から1つでも自分の生活の中に取り入れてものにしてみてください。確実に「かくあるべし」を減らして、事実に立脚した生活態度が身についてくるでしょう。
2019.05.18
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昨日の続きを書いてみたい。「かくあるべし」の弊害が分かったからといっても、その呪縛から解放されることはないだろう。それは大脳の前頭前野が発達した人間の宿命であると思う。また生まれて今まで、「かくあるべし」教育を受け続けてきているので、いかんともしがたい。つい気を抜いた生活をしていると、事実や現状を見て、批判、否定、悲観的になるのである。現在のことに不平不満を抱いたり、過去のことを後悔し、将来のことに取越し苦労してしまうのである。自己信頼感や自己肯定感が持てなくなってしまうのである。他人とは常に対立的となり、専守防衛一辺倒に陥ってしまう。だから、「かくあるべし」のない世界を求めることはとても困難である。ここで肝心なことは、その状態が私たち人間の偽らざる実態なのだと「自覚」しておくことが大切だと思う。自覚していれば、上から下目線で事実や現実を批判、否定、悲観したときに、「ああ、またかくあるべし思考に陥っている」と気づくことができると思う。ネガティブ思考、マイナス思考、現実否定、存在否定、自己嫌悪、自己否定、他人否定に陥っていればすぐに気づくことができる。自覚がないと、「かくあるべし」思考にどんどん流されてしまう。そして、次から次へとネガティブな感情をおびき寄せてしまう。行動も後ろ向きとなる。生きている意味を見出せなくなってしまうのである。残念な人生で終わってしまうのだ。その悪循環に陥っていることに気づくことができる人は、その状態を客観化する作業に進むことが大切である。これは「かくあるべし」で自分や他人をコントロールしようとしている状態を、一歩引いた状態で眺めてみるということだ。ここでは是非善悪の価値判断をするのではない。「かくあるべし」という思考パターンに陥っている状態を、第三者的な視点で価値評価しないで分析するということである。客観化するといってもよいだろう。私はネガティブで否定的、悲観的な考えが湧き起こってきた時は、自分自身に対して次のような言葉をかけている。「今、事実や現実を上から下目線でみていませんか。批判、否定、悲観的になっていませんか」ほとんどの場合、「そうです。あなたのおっしゃるとおりになっています」となります。この段階にくると、やっと「事実に立脚した考え方や行動」の方に注意や意識が向いてくるのです。事実を価値批判なしによく観察しよう。どんなに意に沿わなくても事実を認めてしまおう。最終的には事実を受け入れよう。自分は自分の最大の味方になろう。相手がいれば共感と受容の気持ちを持とう。相手の話をまずはしっかりと聞こう。相手の立場に立って考えてみよう。相手と共存共栄の関係を築いていこう。これは森田理論でいう「あるがまま」「事実本位」の態度ですね。いつも理想通りになることはありませんが、方針がしっかりしていると、横道にそれてもすぐに原点回帰できます。事実に立脚した生き方を目指している方に、このやり方をお勧めしたいと思います。
2019.05.17
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精神科医の藤井英雄さんは、ネガティブ思考が出てきた時は、「ラベル付け」と「実況中継」を勧めておられます。これは「かくあるべし」で、事実、現実、現状、実態を批判し否定している人にとって役に立つことだと思っています。ご存知のように「かくあるべし」は、事実や現実を上から下目線で眺めて否定しているわけです。観念で理想の状態に引き上げようとしています。事実や現実はその存在を拒否、無視、抑圧されているわけです。自然に湧き起こってきた感情に対しても、自分自身に対しても、他人に対しても、そのような態度をとっています。否定から生まれてくるものは、自己否定、他人否定、対立、反発ばかりです。私たちは森田理論学習によって、なんとかその呪縛から解き放そうとしているのですが、なかなか難しいのが現状です。そこで、このような「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」が発生したときに、「ラベル付け」「実況中継」を行うのです。例えば自分自身に対しては、過去のことで後悔する、未来のことで取越し苦労する。現在に不満を感じる。他人に対しては、他人の言動に傷つく。嫉妬、妬み、被害妄想、不満、批判などです。これらの思考はネガティブな感情をおびき寄せて、ますます自分たちを窮地に追いやります。これらは「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」だとみなして、「自己嫌悪」「自分否定」「自分軽視」「劣等感」「嫉妬」「恨み」「怒り」「腹を立てている」「怯え」「後悔」「他人否定」「他人軽視」などとレッテルを貼るというものです。そのことに気づいたとき、古館伊知郎さんのように、「現在私は上司に呼ばれて、叱責されています。その原因は納期を過ぎても仕事が完了していないということです。確かにその通りです。でも問題が発生したのです。私の説明は一切聞いてもらえません。一方的に怒鳴り散らされております。私はやり場のない気持ちでいっぱいになっております」などと実況中継してみるのです。「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」は一旦始まってしまうと、精神交互作用で悪循環を招いてしまいます。それを打ち破るためには、その負の連鎖に陥らないために、意識して客観化してみるということです。あたかも第三者的な視点で、自分の「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」を眺めてみるということです。もしこういうことができれば、自己嫌悪、自己否定、他人否定、他人軽視、対立や反発には陥りにくいだろうと思います。そして私たちが目指している「事実本位思考」「ポジティブ思考」への転換がはかられやすいのではないか。これらは、現状や事実をよく観察する。そしてありのままを認める。受け入れる。相手の立場に立って理解しようとする。考えてみるということです。こうなれば自分や他人を肯定して、友好的で共存共栄の人間関係を築くことができるのではないでしょうか。
2019.05.14
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精神科医藤井英雄さんのお話です。カウンセリングで行われる「傾聴」は次のようなことです。例えば、仕事でつまらないミスをして自己嫌悪に陥りました。本人は「ミスをして私はダメな人間だ」と自己否定します。そんな時、彼に同情する人は、「大丈夫だよ。誰だってミスはするんだから」と慰めます。これに対して「傾聴」できる人は、「ミスをした自分が嫌になったんだね」と言います。別の例です。仕事のミスを批判されて悔しい思いをした。自分に対して、「批判されたぐらいで落ち込んでどうする」と叱咤激励します。彼に同情する人は、「批判されたら悔しいのは当然だよ」と慰める。これに対して「傾聴」できる人は、「批判されて悔しかったんだね」と言います。(自己肯定感が高い人になる 藤井英雄 151ページ要旨引用)ここで大事なことは、目の前の出来事に対して、事実を言葉にして白日のもとに晒すということです。仕事でつまらないミスをしたという事実。自己嫌悪に陥ったという感情の事実。仕事のミスを批判されたという事実。悔しい思いをしたという感情の事実です。ここでは目の前に実際にあった事実とそれに基づいて湧き起こってきた感情の事実の2つがあります。そのためには事実をよく観察することが欠かせません。先入観や決めつけで行動することは、事実本位からどんどんそれてしまいます。次にその事実に対して、よいとか悪いとか価値判断してはいけません。価値判断することは、「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることにつながるからです。私たちがすべきことは、事実を具体的で正確に言葉で表現することです。その2つの事実を認めて受け入れることが肝心です。当の自分もそうですし、周りの人もそういう態度になればよいのです。集談会では盛んに、受容、共感、傾聴ということが言われます。これを心がけるということは、あるがままの自分、あるがままの他人を素直に認めて、受け入れるということにつながります。つまり森田理論が目指している、「かくあるべし」を少なくして、「事実本位」の生き方を身につけるための修養を続けているということにつながります。
2019.05.12
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あるがままの自分、あるがままの他人を認めて受け入れることが森田理論が目指しているところです。これは不安と欲望の調和を図ることと並んで、森田理論の大きな2つの永遠のテーマです。あるがままの自分を認めるということは、揺るがない自己信頼、自己肯定感を高めていくことである。実現できれば、他人に振り回されなくなるので、葛藤や苦悩が激減するでしょう。そのためには、森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害に気づくこと、さらに「事実本位」の生活態度をいかに高めているかということに尽きると思います。今日は、自己信頼感、自己肯定感が揺らいでくるとどうなるのか、その弊害について考えてみたい。1、常に他人と対立関係に陥る。常に勝つか負けるかということに注意や意識が向いてくる。これは自分に対する信頼感、肯定感が持てないので、相手と争って勝つことによって、精神的な優位性を保とうとするのである。しかし喧嘩腰の人間関係のために、精神的に大変疲れる。また、相手に喧嘩を売ったり、いじめを繰り返すことになるので、助けたり助けられたりという共存共栄の人間関係は築くことができない。2、他人の自分に対する承認や賞賛にとらわれるようになる。そのために、自分の気持ち、感情、意志などが後回しになる。抑圧するようになる。相手から存在、容姿、行動、性格、境遇などで批判や否定の対象とならないように、都合の悪い事実を隠す、逃げ回る、ごまかすことに躍起となる。また賞賛を浴びようとして、無鉄砲な行動に走ることも発生する。いづれも理想通りに進展することは少なく、ストレスだらけとなる。最後は心身共に傷だらけになることもある。3、そのイライラを鎮めるため、ストレスを発散するために現実逃避して、快楽追及に走る。アルコール、薬物、ギャンブル、ネットゲーム、買い物、グルメ三昧などである。あまりにも依存しすぎると、身体や精神の不調に陥る。自分だけならまだしも家族を巻き込んでしまう。そして経済的な破綻を招いてしまう人もいる。4、地位、名誉、出世、権力欲、名声、財欲、独占欲、支配欲、自己顕示欲などにとりつかれる人もいる。これらの欲望は、一旦暴走を始めると始末がつかなくなる。坂道を転がる雪だるまのようになり、最後に破滅を迎えて終焉となる。今までの歴史が示している通りである。5、そのようなエネルギーのない人は、観念的な悪循環、行動の悪循環のスパイラルに陥る。考えることは、ネガティブで内向き、行動は引っ込み思案となる。無気力、無関心、無感動、無作法となる。生きている意味を見失い、生きることは苦しいものだと考えるようになる。「かくあるべし」を少なくして、自己信頼感、自己肯定感を育んでいかないと、このような事態に陥ることを理解して、森田道に邁進してもらいたいものである。このブログで紹介しているように、森田理論には、そのためのヒントが宝の山のようにあります。
2019.05.11
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どうしたら「自己肯定」ができるようになりますかと聞かれることがある。自分が嫌いで、自己否定ばかりしている人にとっては、とても魅力的な言葉だ。私は「自己肯定」の定義を次のように考えている。現実のあるがままの自分を認めて受け入れている人である。自分の容姿、性格、能力、境遇、運命などを他人と比較することなく、かけがいのない存在として認めることができる。弱みや欠点のある自分を許してあげることができる人。またミスや失敗をしても、自己嫌悪、自己否定することなく、自分に寄り添って励まし続けることができる人である。これは森田理論でいえば、あるがまま、事実本位の態度で生活している人である。そうなるためには、自分の身体や心は自分の観念や思考で、いかようにもコントロールできるという前提に立つと難しい。私は自分の身体は神様からの預かりものという立場に立っている。その体に自分の魂が宿って、心身が一体となってこの世に存在しているのだと思っている。そういう前提に立つと、自分の身体や精神を自由自在にコントロールしてはならないという気になる。預かりものだから、丁寧に扱わないといけない。傷つけたり、壊さないように細心の注意を払うことが求められる。さらに、預かったときよりも、心身とも少しでもよい状態にして、神様にお返ししたいと思うようになる。そうすれば預けた神様も望外の喜びを感じる。もしかするともっと大きな役割を与えて、再び生き返らせてみたいと思うかもしれない。そのように意識すると、今現在自分がこの世に存在していることは、感謝以外には言葉がない。そこを出発点と考えれば、自己嫌悪、自己否定に陥ることはなくなるのではないか。どんなに問題があろうとも、自分に与えられた条件を素直に受け入れて、目線を一歩上にあげて、できる限りのことに取り組んでいこうという気持ちが生まれてくる。お断りしておくが、これは私が考えていることで、異論がある方もおられると思う。そういう方は読み流していただきたい。ただここでいいたいのは、「自己肯定感」を持ちたいと思われるならば、森田理論でいう「事実本位」「あるがまま」の意味を十分に学習して、それを実際の生活面に応用していかないと、絵にかいた餅になってしまうということである。「かくあるべし」の弊害を理解して、思想の矛盾を少しでも打破できている人が、「自己肯定感」を育みつつある人であると思っている。自己肯定感を手にすると、他人の言動に振り回されることがなくなる。依存体質も脱却できる。現実逃避、所有欲に振り回されなくなり、人間関係の悩みが少なくなり、周りの人たちと和気あいあいで楽しく生活できるようになる。ぜひとも森田理論の学習と実践によって自己肯定感を身につけようではありませんか。
2019.05.09
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今日は森田先生の言葉を紹介します。そもそも平常心と言うものは、作るものではなくて・有るものであります。恐ろしいならば 、恐ろしいままの心、それが平常心であります。よく「なりきる」ということをいいます。ここに掛け軸がかかっています。「平常心」と言う字が面白く書いてあります。純な子供ならば、すぐにこれに見入って、筆勢につれて、身体をくねらせながら見ます。それが成りきった姿であります。ところが神経質ならば、 「自分はこれを見ても一向に感興がわかない。自分には芸術心が乏しい」などと考えます。それは自己と対象と、別々に観察している姿であります。考えつつ見るから、どんな風に書いてあったか、よく覚えていません。心が内側ばかりに向いています。つまり自己批判が強すぎるのです。今、その字に見入っているときには、我を忘れて、その字になりきることです。あるいはまた、自分のことばかりが気になっているときには、字はわからずに、自分自身になりきるのであります。どちらでもよろしい。なりきりさえすれば、そこに比較がなくなるから迷いはなくなります。これを私なりに考えてみました。子供が掛け軸を見ている姿は、意識が外向化して、対象物と一体化している状態です。我を忘れて一心不乱になっているのです。注意や意識が自分に向かうことはありません。迷いがありません。この時、判断力や分析力を司っている前頭前野は休んでいる状態です。運動野などから前頭葉を経由することがなく、手足に指示が出ている状態です。別に前頭前野を経由して、比較検討しなくても、正常な行動ができています。というよりも、前頭前野がおせっかいを焼かないからこそ、適切な行動ができているとみたほうがよいのです。動物は前頭前野は発達していません。ですから、行動するにあたって人間のような迷いはありません。比較検討して、行動を選択できる能力は人間だけに備わった機能です。これが裏目に出ると、不安と欲望との葛藤で意志決定や行動ができなくなってしまいます。もう一つの例は、掛け軸を見ても何の感興も湧き起こらない場合です。こんなことはよくあると思います。美術館に行って絵画を鑑賞しても何の感情も湧かない。あるいはクラッシックコンサートに行って音楽鑑賞をしても感激することがない。こういう状態の時は、素直にその事実を認めて受け入れるとよいのです。それなのに、神経症に陥るような人は、人と比較して、是非善悪の価値判断をしてしまうのです。 森田先生が指摘されているように、「自分はこれを見ても一向に感興がわかない。自分には芸術心が乏しい」などと考えます。それは、事実や現実を否定している態度です。「かくあるべし」を持ちだして、「もっと感性を高めて、人並みに芸術眼を養わなければならない」などと考える必要はありません。しかしついうっかりとこれをやってしまうのです。意に沿わない事実や現状を目の当たりにしても、事実や現実に寄り添う態度の養成が大切なのです。現実を認めることができると、クラッシック音楽でいえば好きな曲と自分には合わない曲があることに気づきます。ベートーベンの第九や田園、モーツアルト、ヘンデル、マーラーの曲には、大きな感動をもらっているわけですから、それを認めて楽しむようにすればよいのだと思います。
2019.05.08
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樹木希林さんは、娘さんによると「恥ずかしいことほど人前に晒す」という生き方を続けてこられたようです。2018年公開の映画「万引き家族」の中で、樹木希林さんは入れ歯を外して演技されました。それに輪をかけて、髪の毛も長くして、手入れもしなかった。是枝監督がびっくりするかもしれないので、事前に見てもらったそうだ。気味が悪いお婆さんでしょ。この映画を見たある人は、「女優がそんなことをするのは、ヌードになることよりも恥ずかしことですよ」といわれた。樹木希林さんは、是枝監督の作品に出るのもこれが最後だと思ったから提案したのです。それに、人間の肉体が老けていく、壊れていく姿というものを見せたかった。高齢者と生活する人も多くなって、今はそういうのをみんな知らないでしょう。この映画の中で、みかんにかぶりつく姿がすごいという人がいるけれども、実を歯ぐきでしごいたの。歯がないって、そういうことなのよ。歳をとると、しわやシミが出てくる。体中の皮膚がたるんでくる。老人顔になってくる。白髪になり、髪が抜け落ちる。自分は大丈夫だという人も、歯がない。体のあちこちが痛い。夕食の1時間後には、どんなおかずだったかも忘れている。昔美男美女で鳴らした人も、程度の差はありますが、歳をとればどんどん老化していくのです。60代で同窓会などに行ってみるとみんな同じようなものです。話題は配偶者が生きているかどうか、同級生ですでに亡くなっている人の話、健康とサプリメント、老人ホームや認知症の話、病院通いの話、いつまでも親に依存している子供の話などです。多くの人は醜く変化していくことに耐えられません。本心かどうか分かりませんが、そんなにしてまで長生きしたいとは思わないという人もいます。現実を受け入れられず、嘆き悲しんでいるのです。それに生きがいがなければ、生きていくことは苦行そのものです。こういう人は、樹木希林さんの生き方や考え方をかみしめてみては如何でしょうか。どんなに恥ずかしいことであっても、事実を認める。包み隠さずに公開することにする。どんなに老いて醜く変化していっても、全力を挙げて自分に寄り添ってあげる。自分は自分の最大の味方なのですから。そして、今の自分ができることに精一杯取り組みながら生きていく。そういう人は、たとえ身体は見る影もなく衰えていっても、眼光は鋭く光り輝き、何ともいえないオーラを醸し出しておられるのではないでしょうか。
2019.05.02
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それでは昨日の続きです。2、「かくあるべし」という思考や観念に振り回されることの弊害を理解する。事実、現実を起点(出発点)として、事実本位、物事本位の生き方ができるようになること。私たちはなぜ「かくあるべし」に振り回されるようになったのでしょうか。それは、動物と違って大脳新皮質が大きく発達したからだと思います。さらに言葉を使って過去や未来のことを自由に話すことができるようになりました。抽象的な思考や論理的な思考もできるようになりました。そのおかげで文化や文明が大きく花開いてきました。そして他の人間や動物や自然を自由にコントロールし、支配するようになってきました。それはまた次第に加速度をつけて、自分が頭で考えたことを肥大化させ、絶対視するようになりました。今や観念や思考が、事実、現実、現状を抑圧・支配し、自由にコントロールすることが当たり前になってきました。みんなが「かくあるべし」を前面に押し出して生きるようになってきました。湧き起こってきた感情の否定、自己否定、他者否定、自然の収奪や破壊が何の疑いもなく横行するようになってきました。理想主義、完全主義、完璧主義、目標達成第一主義、支配欲、征服欲を前面に押し出して、事実や現実を否定的に取り扱うようになってきたのです。あるいは、事実や現実を無理やり「かくあるべし」に引き上げようとしているのです。理想、観念、思考の世界と事実や現実の世界に横たわる深い溝への対応として、理想、観念、思考の世界を前面に押し出して対処しようとしているのです。いくら事実や現状の世界を観念の立場から否定しても、葛藤や苦悩が増すばかりだということに気が付かなくなっているのです。その結果、生きづらさ、他者との対立や紛争、自然破壊による住みにくさを抱えるようになりました。森田理論は、理想、観念、思考を前面に押し出した「かくあるべし」や、現実、現状を抑圧、コントロールしようとする態度は問題だと言っているのです。どんなに心もとなくても、現実、現状を起点にして、そこから出発するという生き方が人間本来の生き方ですよと教えてくれています。事実本位、事実唯真、あるがまま、自然に服従して、境遇に柔順な生き方を勧めているのです。そのような生き方を身に着ければ、葛藤や苦悩はなくなります。自己肯定できるようになり、他者と友好的な人間関係を築くことができます。そのためにはどうすればよいのか。1、森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害を学習する。すぐに「かくあるべし」を振りかざさないように注意する。「かくあるべし」気づいたらすぐに現実や事実に立ち返れる柔軟性を身に着ける。2、事実、現状を自分の目でよく観察する。事実は両面観で見るように心がける。3、事実は個別的、具体的、赤裸々に取り扱う。抽象的、理想的、観念的には取り扱わない。4、「純な心」を理解して、生活の中に取り入れる。「かくあるべし」に振り回されたときには、第一の感情、直感、初一念に立ち戻れる能力を身に着ける。5、「私メッセージ」の手法を身につけて、生活の中で応用していく。他人を「かくあるべし」で批判、否定しないように心がける。私の素直な気持ちを伝えるだけにする。相手がどう対応するかまではコントロールできません。6、相手と意見や意志の食い違いがあるときには、話し合いによって歩み寄りを図る。7、自分の感情、気持ち、意志を最優先させて行動する。決して「かくあるべし」で自分を追いこんだり、非難や否定をしない。五感、身体感覚に意識を集中させる。いきなり全部に取り組む必要はありません。1つでも応用できるようになれば、事実に立脚した楽な生き方に変化してくるものと思っています。
2019.04.20
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せっかく森田理論を学習したのですから、コミュニケーションで取り組んでみたいことがあります。1、事実は具体的・赤裸々に取り扱う。2、事実の一般化をしない。3、事実をごまかさない、隠さない、人のせいにしない、ということです。1ですが、抽象的であいまいな言い方はしない。できるだけその時の状況を具体的にありありと表現するように心がける。いつもいつもは面倒ですが、そのほうが相手には正確に伝わるという言う認識は持っていたほうがよいと思います。例えば、「あそこのスーパーは安い」というよりも、「白菜が別のスーパーよりも50円も安い」と表現するほうが言いたいことがより正確に伝わります。2ですが、「客はみんなわがままなものだ」「みんながそういっています」「いつも失敗する」「自分には一つも長所がない」「あの人はいつも自分のことを馬鹿にする」という言い方は、一つの事象、一人の言動を、軽率にもすべてに拡大して、先入観や決めつけが起きているのです。これはほとんど間違っています。嘘です。事実をごまかそうとしているのです。「みんながそういっている」というのを、誰がそういっているのか確かめてみると、実は一人の人がそういっているだけだったということもあります。一人の人がそう思っているのなら、きっとほかの人もそうに違いないと決めつけているのです。「いつも」「絶対に」「みんな」「すべて」「一度も」という言葉を安易に使うことは要注意です。一般化を止めて、個別案件として取り扱うことが、事実本位に近づいていきます。3ですが、自分が責任を取らされる、自分のことを批判、軽蔑されるようなことが予想されると、事実をごまかしてしまう。隠ぺいしようとすることが起こります。あるいは責任転嫁をします。交通事故が起きたとき自分は交通違反をしていない。落ち度はないと主張する人がいます。ところが相手のドライブレコーダーの画像を見ると、そのように主張していた人が、交通違反をして、人や物を傷つけていたという場合があります。その事実が判明した時点で、その人自身は信頼できない人間だとみなされてしまいます。そしてテレビで一部始終を報道されて、社会から糾弾されてしまいます。髪が薄い人でかつらをつけている人もいます。本人はうまくごまかしているように思っていますが、隠せば隠すほど周囲の人は気づいています。本人も注意や意識がかつらの方にばかり向いて、目の前の事がおろそかになります。周囲の人も腫物を扱うようにとても気を使います。事実をごまかしたり、隠して、どこかにほころびが出てくると、それを正当化するためにまた別の嘘をつくことになります。そうなりますと、その人の人間性や人格に問題ありとみなされるようになります。自分も相手もイヤな思いをすることになります。百害あって一利なしだと思います。正直に事実を認めて、包み隠さないで公表していく方が精神的に楽な生き方ができると思います。そのほうが、かえって周囲の人との人間関係がうまくいくのではないでしょうか。
2019.03.29
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アドラー心理学の中に、 「人間は目標に向かって生きる存在である」というのがあります。この考え方は、森田理論を深めるうえで、一つのヒントを与えてくれています。例えば、犬小屋を作りたいという目標があるとします。そのために、まず、どんな犬小屋にするか構想を練り設計図を書きます。次に材料を買い求めたり、加工するための道具を揃えます。そして実際に制作に入ります。ここで大事な事は、犬小屋を作りたいという気持ちを持っているかどうかです。そういう目標がないと、材料や加工するための道具は何の役にも立ちません。アドラーは、人間がとる行動は、その人が持つ目的や目標に従った結果だと考えているのです。これをアドラー心理学では目的論といいます。これに対して、決定論あるいは原因論という考え方があります。何か問題が起きた場合、その原因を追求する、という考えです。例えば、自分が対人恐怖症に陥り、苦しんでいるのは、幼少期の父親の育て方が間違っていたからだというふうに、原因を特定します。そして対人恐怖症で苦しむ責任を親に取らせようとするのです。一般的にはミスや失敗の原因がわかれば、次回からミスや失敗が起こらないように注意することができるようになります。ところが、ミスや失敗の原因を追求し、ミスや失敗をした人を批判するようなこともおきます。またミスや失敗をごまかしたり隠したりするようなこともおきます。人にその責任を転嫁することも考えられます。このようにミスや失敗の原因を追求することは、現実を否定することにつながりやすいのです。人格否定をするようになれば、自他共に不幸になります。原因論という考え方は、森田療法理論で言えば、ミスや失敗は決してあってはならないという「かくあるべし」 に近い考え方となります。アドラーの目的論という考え方は、現実や事実から出発している態度です。現実や事実をじっと見つめていると、何らかの感情が沸き起こってくる。そして感情が高まってくると気づきや工夫を思いつくようになる。意欲や、やる気が出てきて行動へと発展する。夢や目標が生まれてくるのだ。それが生きる活力となる。「人間はもともと目標に向かって生きる宿命を負っている」というのは、まさにこのことを指摘している。この考え方は、森田療法理論の考え方に非常に近い。つまり、事実にしっかりと根を張り、そこから目線を一歩上に上げて、着実に目標に向かって努力していく。そのたゆまぬ努力の中に、人生の意義はある。努力即幸福とはこのことである。アドラーは、そのことをライフスタイルと呼んでいる。簡単に言えば、その人その人の人生に対する考え方、夢や目標のことである。森田療法理論では、 「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を目指すことをお勧めしている。
2019.02.11
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自己中心と自分中心は、言葉がよく似ていますが、その意味する内容は全く違います。自己中心的な人は、他人に何を言われても平気、身勝手、わがまま、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人のことをいいます。自分さえよければ、他人はどうなっても構わないという態度です。自分の利益のためならどんな悪事を働いても心が痛まない。他人を利用して、自分の利益を増やそうと考えている。自分の地位や名誉を上げるために、平気で他人を蹴落としてしまう。自己愛性人格障害の人はまさにこのような人です。自己中心的な人は、敬遠されて、最後には孤立や破滅への道を突き進むことになります。 自分中心というのは、そういう人とは全く違います。目指している方向性が違うのです。自分中心的な人は、自分の感情を否定しない、無視しない、抑圧しないで、湧き起こった来た感情にしっかり向き合い、正面から受け止めることができる人です。自分の気持ちや意志を大切にできる人です。そして自分のやりたいこと、自分のやりたくないことをしっかりと持って、自分の意志を相手に示せる人です。他人の言動にふりまわされないで、自分を認めて受け入れることができる人です。自分をかけがえのない存在として、自分を守り抜くという強い意志と信念を持っている人です。自己嫌悪や自己否定とは無縁な人です。どこまでも自己肯定感につらぬかれています。こういう自己信頼性の高い人は、少々の社会の荒波に対してもへこたれることはないと思います。森田理論でいえば、「かくあるべし」が少なく、事実本位の生活態度が身についている人です。私たちが森田理論学習によって目指しているのは、そんなところです。自分中心の生き方のできる人は、他人を責めたり、無視したりしません。他人の思惑よりは自分の気持ちや自分の意志の方に注意が向いているからです。他人の気持ち、感情を最大限に尊重します。他人の○○したい。○○したくない、といった欲求を尊重します。他人の「好き嫌い、快、不快、苦楽」といった感情を尊重します。他人の意志を尊重します。他人の「断る、取り組む姿勢」を心から認めます。それは自分も望んでいることであり、他人も当然望んでいることだということがよく分かっているからです。だから自分の「かくあるべし」を相手に押し付けることはありません。相手の気持ち、感情、言動の自由な動きを「あるがまま」に認めて尊重します。相手と自分の立場の違いがあれば、それをはっきりさせて調整を目指すことができます。自己中心的な人は、他人と常に対立関係にありますが、自分の感情や意志を大事に取り扱っている自分中心の人は、相手と友好的で調和しています。
2019.02.08
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私たち人間は動物と違って、大脳の前頭葉が大きく発達している。大脳の前頭葉は思考力、判断力、決断力、創造力の中枢である。この働きのおかげで、人類は文明や文化を大きく花開かせてきた。しかし反対に前頭葉が発達したおかげで、神経症的な葛藤や苦悩を抱えるようにもなった。その原因は、「かくあるべし」を肥大化させてきたことではなかろうか。私たち人間は、生まれてからずっと「かくあるべし」を注入され続けてきた。家庭、学校、社会などから「かくあるべし」を押し付けられて生きてきたのである。それは骨身にしみており、人間や社会はこんなものだと信じて疑わない人がほとんどである。でもそのために、現代人は生きづらさを抱え、あるいは精神疾患で苦しむようになってきたのである。そのことに多くの人が気づくことはとても大切なことだ。それだけで世の中は大きく変わる。そのために森田理論は「かくあるべし」を少なくして、「あるがまま」に生きる生き方をお勧めしてきている。「あるがまま」の生き方は、 「かくあるべし」の生き方の反対の生き方だ。観念、思想、言葉に重きを置いて、現実、現状、事実を批判的・否定的に取り扱うやり方ではない。どんな感情がわき起ころうとも、どんなに理不尽な出来事が起ころうとも、それを素直に受け入れて認めていくことだ。いつもそこを起点にして、一歩目線を上げて生活していく態度のことである。現実肯定、自己肯定、他人肯定、運命肯定の世界なのである。どんな状態になっても自分を見捨てない。最後の最後まで自分の味方になり、自分を守り通す中で生まれてくる世界である。過去にわずらわされることもなく、将来への不安で取り越し苦労をすることもなく、今現在に集中して生きる生き方である。「あるがまま」と言うのは、別の言葉で言えば、「事実本位」、「事実唯真」、「なりきる」、「純な心」などという言葉に置き換えることもできる。私は「かくあるべし」に対する反対語としては、「事実本位」という言葉が一番ぴったりする。これをカウンセラーの石原加受子さんは、「自分中心」の生き方だといわれている。私はあまりにも巨大化した「かくあるべし」を、少しずつ減少させて、事実から出発できる能力を獲得したいと日々取り組んでいるところです。私は、もともと自分のこの身体は、自然界からの預かりものではないのかという気持ちがあります。例えは悪いのですが、市民菜園やレンタカーを一定期間借りているのと同じようなものなのではないのかと思っているのです。その上に自分という魂が乗り移って、一心同体となって80年から100年の間、生命体として活動できているのではないか。そうであるならば、レンタルしているものに、いちいち難癖をつけて否定していても仕方がない。それよりは、借りているものを大切に扱い、磨きをかけて、お返しをするときは、相手から感謝されるぐらいになりたいものだ。その予測が仮に外れていても何ら問題はないと思っている。反対に、そう考えると、生きている間は、「事実本位」の生き方が可能になるのではないかと考えている。事実本位の生き方は、葛藤や苦しみがかなり軽減されるので、 「生きていて楽しい」 「人間に生まれてきてよかった。また生まれかわることができるのならば、もう一度人間に生まれ変わりたい」という気持ちになってくる。
2019.02.03
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対人恐怖症の人の生きづらさについて、石原加受子さんが明快に説明されている。それは自分中心ではなく、他人中心の生き方をしていることに問題がある。「他人中心の生き方」とは、自分の意識の目が相手に向いていて、相手に自分の欲求を満たしてくれるように要求したり、相手の顔色や反応をうかがいながら、相手の言動によって自分の態度や行動を決めていく生き方です。(すべてめんどくさいと思ったとき読む本 中経出版 41頁より引用)他人中心の生き方は、相手の言うことに自動的に反応したり、相手の言う通りにするのが当たり前という感覚になります。相手に振り回されて、相手の一挙手一動ばかりが気になります。他人中心の生き方をしていると、自分の感情や気持ち、自分の意思は後回しになります。最後には今自分にどんな感情が湧き起こっているのかさえも分からなくなってしまいます。我慢して、自分に湧き起こってきた感情を無視したり、抑圧しながら生きていると自分が自分の人生を生きているという感覚がなくなってしまいます。人と交流することが苦痛になってきます。生きづらさばかりが強くなり、人生の中で楽しみや喜びは感じられなくなってしまいます。これに対して、「自分中心の生き方」は、次のような特徴があります。・どんな自分であっても、ありのままの自分を認める。理想は「自分を大好き」になる。・自分のどんな感情、どんな気持ちも受け入れて味わい実感する。・誰よりも自分の意志を尊重し、それを実感する。・自分のために、自分を自由に表現して生きる。(しつこい怒りが消えてなくなるな本 90ページより引用 すばる舎)「自分中心の生き方」は、いつも自分自身に寄り添い、自分を守る。自分の味方になって、自分自身を愛していく生き方です。どんな感情も認めて許してあげる。どんな気持ちになっても受け入れる。五感を大事にする。マイナス感情ばかりでなく、プラスの感情も存分に味わう。気持ちがよい、痛い、暑い、寒いなどの身体感覚も大切にする。自分の意志に焦点を当てて、やりたいこと、やりたくないことを明確にする。これらを第一に打ち出した生き方は、自分の心と行動が一致しているので葛藤や苦悩は生まれてこないのではないと思われます。森田理論でいうと、他人中心の生き方は相手の「かくあるべし」に対応するばかりの生き方となります。その時、自分の感情、気持ち、意志などは蚊帳の外になっています。これに対して自分中心の生き方は、自分の感情を無条件に受け入れ、自分の気持ちを最優先させ、自分の意志を打ち出していく生き方です。「かくあるべし」がありませんので、心の中と行動が一致しているので、矛盾がありません。自然で理に適った生き方となっています。なんとかして他人中心の生き方を改めて、自分中心の生き方に変えてゆきたいものです。
2019.01.30
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電車で4人掛けの椅子に座ると目のやり場に困ることがある。そこで、 4人掛けの椅子が空いていても、そこには座らないという人もいる。これに対して森田先生は次のように話をされている。これは目がスラスラと動かないで、固定し、見つめるために起こるのである。目は自由に動こうとするのを、つい一定のところを見てはならないと、故意に牽制しようとするため、目がかたく、動かなくなるためです。目の動くままに自由に放任すればよい。そのためにどうするか。・この苦しい事柄は、怪我や災難と同じように、防ぐことのできないことである。・怪我は痛く、恥ずかしい事は苦しく悩ましいのは、当然のことである。すなわちそれは、忘れようとしたり気をまぎらわせようとしたりしても、どうすることもできないことである。もっとも正しい事は、従順に、おとなしく、さからわず、これを受忍ことであります。そうすれば、感情の法則により、その苦悩は、最も早く、薄紙をはがすように、次第に消失するものです。・長上の人や、知人と交話するときは、日本の礼法としては、その尊敬の度の強いほど、その人の膝の先、下腹、胸部というように、その近辺を、ぼんやり見ながら(その方向に、見るともなしに、目を向けながら)先方が何か言う時、または自分の意見を確かめる時、先方の顔をちょっとの瞬間、盗み見るのが法で、それがちょうど、人情の自然であります。それをことさら見ないように、あるいは一定のところを見つめよう、人の目を見つめようとかいうふうに考えると、目が凄くなるのであります。また進んでは、むしろ自分のイヤと思う局部を見つめるように、稽古することが得策です。それはかえって、自分の心の自然であるから、むしろ、それに従うという心の態度であります。そうすれば、かえって苦しい、恐ろしい、そのために、ますます執着するような気持ちはするが、私のお勧めする通り、思い切って実行すれば、必ず早く治ります。・ 「顔が上げられなくなる」そのままで、よろしい。強いて勇気を出して、顔を上げようとせず、おどおどして、恥ずかしがっていればよいのです。以上申しあげるとおり、その心持ちだけを、ただ実行しさえすれば、必ず治ります。(対人恐怖の治し方 森田正馬 白揚社 234ページより引用)ここで進んで、自分のイヤと思うことに目をむけるとよいというのがあります。普通は恐怖から逃げようとしているのですが、ここで森田先生がお勧めしておられるのは、恐怖に抵抗しないで、むしろ入り込んでいくという方法です。少し症状が軽くなったときに、意識的にパニック発作などを起こそうとすると、自分の意志とは反対に症状が遠のいていくという現象が起こるのです。不眠障害の場合も、無理に寝ようとしないで、寝られなければ朝まで寝られなくても構わないという心境になれば、不眠障害はたちまち治るといわれています。
2019.01.18
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今日は嫉妬心について考えてみたいと思います。同僚が素敵な人と結婚した。同僚がみんなの前で上司から賞賛された。知り合いの人が豪華な家を新築した。豪華な乗用車を購入した。友達がゴルフコンペで優勝した。自分とあまり能力の差はない人が課長に昇進した。などの出来事があると、嫉妬心がメラメラと湧き起こることがあります。これは無意識のうちに、その人と張り合っているということだと思います。しかし、現実には相手に負けてしまってみじめな気持ちにとらわれているのです。心の中では、相手より自分のほうがすぐれているはずだ。だから自分のことを認めて正当に評価してほしいという強い願望があるのです。ところが、その願いが叶られないので失望して逆恨みしているのです。嫉妬心の強い人は、人間関係において、相手のことを常にライバルとみなしているのです。そして相手に勝つことを意識して、いつも闘いモードになっているのです。常時注意や意識が相手のほうに向けられて、緊張状態にあるのです。それがゆきすぎると、生意気だ、我が強い、強いプライドを持っているなどと言われることもあります。嫉妬心の強い人は、他人から認められることに大きな価値があると思っている人です。自分で自分を認めたり評価しても、それが何の意味があるのだという気持ちなのです。本来自分で自分を認めて励ますことは大切なことですが、自分に自信が持てないので、そこに価値を見出せないのです。対人恐怖症の人は、他人の思惑が気になって苦しくて仕方がないと言います。注意や意識が他人の言動にばかり向いていて、あまり自分の気持ちや意志の方には向いていません。他人に認められたり、ほめられたりすることで自己の存在意義を持ちたいと思っているのです。たまには評価されることがあるでしょうが、いつもそのようなわけにはいきません。むしろ非難されたり、否定されることの方が多いと思われます。この方法で自己の存在価値を満足させることは不可能です。それでは、自分で自分のことを認めるという自己肯定感はどうすれば獲得できるのでしょうか。他人の言動に振り回されるのではなく、自分自身の気持ちや考えを大切にすることだと思います。自分の気持ちはどうなのか、自分はどう考えたのか、何をしたいのかという視点に立って、現実、現状、事実にしっかりと足をついて、そこから出発するという態度が大切なのだと思います。これは森田療法理論の事実本位の生き方につながるものです。相手の言動に振り回される生き方よりも、自分の感情や気持ち、意志を大切にして生きていきたいものです。
2019.01.17
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不安、恐怖、違和感、不快な感情に振り回される。他人と比較して劣等感に振り回される。心配性という自分の神経質性格に振り回される。他人の仕打ちや言動に振り回される。他人の思惑に振り回される。親や子供、配偶者や恋人に振り回される。台風や地震などの自然現象に振り回される。それらに振り回されているときは、精神的にはとてもきつい。そんな時、注意や意識は対象物に向かっており、振り回されないように対応している。しかし、そんな努力が報われることがなく、さらに加速度をつけて振り回されるようになる。このような努力はエネルギーを消費するばかりで、精根尽き果ててしまう。それを解消するカギは、森田療法理論の中にある。「かくあるべし」を少なくして、できるだけ事実に即した生き方を身につけることである。言い換えると、どこまでも自分の心と身体を大切に守っていくという生き方である。心や身体の病を引き起こさないように、自分をいたわり癒していく生き方である。不安や恐怖などの感情は、なくしようと努力するのではなく、自分の体の中で起こった自然現象として捉え、受け入れていくことだ。他人の言動に対しては、たとえ理不尽なことであっても、訂正させる事はとても困難である。他人の言動に対して、すぐに腹を立てて反撃したり、言いたいこと我慢することは人間関係を悪化させたり、ストレスを蓄積させる。そんな時は沸き起こってきた自分の感情のほうに注意や意識を向ける。とりわけ、感情には第一に沸き起こってくる感情と、それに引き続いて「かくあるべし」を含む第二の感情が沸き起こってくる。肝心な事は、第一に沸き起こってくる感情を大切にすることだ。第二の感情が沸き起こってきたときは、第一の感情に立ち戻っていくことが大切だ。感情は自然現象である。それは感情の法則が教えてくれている。自然の変化の流れに身を任せて、目の前のなすべき事に手をつけて生活していく。湧き起こってきた感情を目の敵にするのでもなく、また気分本位で逃げ出すのではない。自分の体の中で起こってきた自然現象として捉え、淡々と慈しみ味わい尽くすことだ。そういう態度で入れば、他人の仕打ちに振り回されることは少なくなるだろう。つぎに他人の言動は他人の自由である。相手はそういう気持ちや意志を持っていると認めることである。そのように認識していると相手と争うことがなくなる。本来相手の言動は、自分に対して強制力はないのだ。ただ相手はそういう気持ちや考えを持っているということだ。そういう意見を述べているに過ぎない。提案を行っているに過ぎない。それに対して、自分がどのように感じ、どのような気持ちになり、自分がどのように行動したいのかは自分の自由なのだ。相手に振り回されるよりも、自分の気持ちを大切にしていくことだ。このように捉えることが自分を楽にしてくれる。それは自分の気持ちや意志を打ち出しているからである。つまり、自分自身に対して優しく寄り添っていることになる。人間関係で振り回されて葛藤や悩みを抱えている人は多い。そういう人は、自分の存在、自分の気持ち、すべの感情、自分の意志、五感、身体感覚に焦点を当てて、自分をいたわり大切にするという態度に立ち返る癖をつけることが大事である。自分を守り、自分の最大の味方になってくれるのは、他でもない自分自身なのですから。
2019.01.16
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相手が自分に対して腹を立てるということを考えてみましょう。相手は自分に対して、 「 〇〇でなければならない」 「 〇〇であるべきだ」 「 〇〇のように行動するべきである」という思いが強いのだと思われます。自分が相手の考えていることとはずいぶんかけ離れた言動をとっているために、必然的に発生している事だと思われます。すぐに腹を立てる人は、森田理論で言えば、 「かくあるべし」的思考態度が強い人です。観念主義、完全主義、完璧主義、理想主義、目標達成第一主義、自己中心的コントロール欲求を前面に出した生き方をしている人です。短気で腹を立てやすい人を見ていると、わがままで柔軟性がなく、世界は自分を中心に回っていると考えているような人です。腹が立ってもそれを自分の胸の内に置いて、不平不満を周囲にぶちまけなければよいのですが、そういう人に限って、すぐに他人を非難したり、攻撃したりします。他人に対してよく腹を立てるという人は、反対に、他人から自分のこと非難、否定、軽蔑、拒否、無視、抑圧されることに耐えられない人です。他人からの評価に神経過敏になり、他人の攻撃から自分自身を防衛することに、多くのエネルギーを使っています。これが昂じると、対人恐怖症へと固着してしまうのです。二重の意味で問題を抱えているのです。対人恐怖症の人は、他人に対して腹をたてたりイライラすることが多い。反対に、他人の思惑に翻弄されて、生きていくことがつらいという状況に陥っているのです。これらの悪循環から抜け出すためにはどのようにしたらよいのでしょうか。森田理論学習では、 「かくあるべし」を少なくして、現実、現状、事実をそのままに認めるという態度になればよいと教えてくれています。これを事実本位の生活態度といいます。これは自分という1人の人間の中で長らく続けられてきた紛争に終止符を打って、お互いに協力し合う関係に改善できたということです。理想と現実のギャップが、森田理論学習と実践によって、折り合いをつけられるような状況になったのです。理想は持ちながらも、事実を中心として考え、行動できる能力を獲得したといえるのです。相手を〇〇主義という視点からではなく、事実という視点で見つめることができるので、腹が立つということは相当数減少してくるものと思われます。そうなれば、他人も自分も穏やかな人間関係を築くことができて、楽な生き方につながるものと思われます。神経質性格の人で、腹が立ちやすい人は、森田理論の「事実本位」の生活態度を身に着けるように学習と実践に取り組んでいけばよいのです。
2018.12.25
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神奈川県足柄上郡山北町で「一心寮」という生活道場を開設しておられた和田重正さんという方がおられた。人里離れた山奥で、和田さんの家族と登校拒否児や自分の生き方を求める若者たちと共同生活をされていた。和田さんは、日本の教育に人間が生きていく基本姿勢を教える教科が欠けていることを心配され、 「人生科」という人生について教える教科の必要性を提唱しておられた。そうかと言って、特別な考え方を教えるような事は一切されていない。「ああしろ」 「こうしろ」 「こう思わなければいけない」などということも一切ない。「こうしてやりましょう」と思ってやった事は、ろくなことにならないことが多いという考えだった。ですから、そんなものはいつでも手放して、本当にめいめいが自分自身を生きていくという事、そういうことができるようになればよいと思ってやっておられた。大体、みんな朝6時ごろに起きて、朝食の準備をする。神社にお参りをする。鶏を飼う。畑を耕す。山で薪をとり、食事は手作り。味噌を作り、玄米食などの自然食である。可能な限り自給自足生活を送っている。掃除をする。大雨で流された道を修理する。時には坐禅をする。大体そういう生活だ。ほとんど規則はない。和田さんは、規則とか枠はない方がよいと言われる。そういうものがなければ、人間同士の争いはなくなるのではないか。そんな風に生活をしていると、花や鶏も自分たちの仲間だという感じになってくる。鶏の考えているようなこともわかるようになり、自然は新鮮で美しいと思えるようになる。 「ああしちゃいけない」「こうしちゃいけない」と言うような事をなしにして、全部を平らにしてしまって、自分は何をしたいのか、という自分の中の欲求をよく見つめて手足を動かし、実際にやってみる。何しろ頭で考えたってダメなんだ。頭でもって「ああか、こうか」と考えたって、それは妄想なんだ。そんな生活をしていると、2、3週間から1ヶ月ぐらい経つとみんな顔つきが変わってくる。穏やかになってくるという。根本的に人間を信頼できるようになる。いろんな規則や抵抗のない所へ来たならば、自然の姿に変わっていくのだと思う。鶏は大脳がないからすごく素直なんですね。だから余計なことを考えない。人間もそういう素直さで生きると、これは本当に楽に楽しく生きていけるということでしょうね。今の学校教育は、 「人間はこうするべきである」 「こうするべきではない」と教えているわけですが、何か役に立っているだろうか。まったく役に立っていないんじゃないかと思うんですね。もしかすると学校教育はマイナスになっているのかもしれない。そういう考え方を180度回転して、自分の内心、心の中の有様を検討していくというような方向に気持ちを向けて言ったら、もう少しましなことになるんじゃないかと思っているんですね。「うそを言っちゃいけない」ということだって、どうしても嘘を言った方が、なんか人情に合っているような場合だってあるじゃないですか。それを「嘘を言っちゃいけない」と、そこのところを強調したら、かえっておかしいものになるんじゃないかと思うんですね。ですから。この嘘を言うというようなことでも、必ずしもその言葉通りじゃないし、もっと自然な形で自分の行動を決めていけるということが必要なんだと思っているわけです。ここでの入寮期間は無制限です。 3ヶ月いたり、半年いたり、 1年いたり、 2年いたりで、どこまでいたらいいと、そういう事はありません。 (昭和61年3月2日 NHK教育テレビの「こころの時代」の放送より)和田重正さんの考え方や実践を見ていると、森田先生の考え方や入院療法にとてもよく似ていることに気づく。
2018.12.22
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会社の中での人間関係がぎくしゃくしている人は、夫婦の間でも、親子の間でも、近隣住民との間でも、友人との間でもぎくしゃくしていることが多い。みんな寄ってたかって、自分のやることなすことを批判していると思っている。それに対して、いつも好戦的な態度で神経をピリピリさせている。相手を対等かあるいは力が劣っているとみなすとすぐに、買い言葉に売り言葉で怒りを爆発させてしまう。そして二度と修復が出来ないほど人間関係を破壊してしまう。それは周囲の人にも波及し、 「あの人はいつ切れるか分からないから、近寄らないほうが安全だ」と思われてしまう。そのうち会社の中では、自分の味方になってくれる人がいなくなり、ついに孤立してしまう。昼ご飯のお誘いもかからなくなる。夜の飲み会も自分だけのけ者にされていることも起きる。こうなると毎日雨降りや土砂降りの天気が続いているようなものだ。精神的には抑うつ状態に陥る。身体的にも胃潰瘍などの症状が出てくる。そうなっては困るので、一般的には相手から自分のことを非難、否定、叱責されても我慢している。耐えている。不快な感情を抑圧している人が多い。表面的には波風が立たなくて問題がないように思われる。しかし心の中では、依然として相手を責め続けているのだ。それが精神交互作用でどんどん増悪している。頭の中で考えていることと行動がちぐはぐになっている。そういうことが繰り返されるとストレスがどんどん蓄積されていく。こうなると人間関係はとても辛いものになる。そして人間関係で疲れ果ててしまい、自ら人との接触を極力避けるようになる。人との接触がない人生は本当に辛いものである。針の筵に座っているようで、生きた心地はしない。これは相手が「かくあるべし」を自分に押し付けてきた時の対応方法が間違っているから、大きな問題に発展したのである。相手の「かくあるべし」に対して、自分も「かくあるべし」で対応しているのだ。そこに気づいてほしいものだと思う。相手だけではなく、自分も相手のことを批判的、否定的に見ているのだ。心の中で相手を責め続けているということはそういうことだ。その結果どうなるのか。 2人の人間関係はいつも平行線をたどり、折り合いをつけたり、妥協点を探るという事はないのだ。理不尽なことを言ってくる相手に対して、絶対に許せない。仕返しをしてやりたい。この不快な感情は相手にぶつけることでしか収まらない。などと、いつも戦いモードで構えているのだ。すぐにスクランブル発車して戦える準備ができているようなものだ。戦いに明け暮れて、自分を守ることばかりに神経をすり減らしているので、生きていくことが辛くなる。こういう人間関係に問題を抱えている人は、森田理論の「かくあるべし」を減らして、事実本位の生き方をめざすことをお勧めしたい。どういうことかというと、相手の理不尽な言動に敏感に反応して、自分の「かくあるべし」を持ち出して好戦的な態度に出ることを少しずつ減少させていくのだ。 「かくあるべし」でがんじがらめになっている人は、茨の道ではあるが、その方向でしか明るい光は見えてこないと思う。では、具体的にはどうしたらよいのか。まず、相手の自分に対する理不尽な言動を、正確に見つめることだ。見つめるだけにして、それが良いとか悪いとか、価値判断に結びつけないことが肝心である。そして、不愉快極まる不快な感情をそのまま味わうことだ。感情は時間の経過とともに薄まったり変化する。そのままに感じておくことが大切だ。感情は否定したり抑圧していると、火に油を注いだように燃え盛る。怒りや腹立たしい感情もそのまま行き着くところまで行きつかせば、収束する運命にあるのだ。次に、「純な心」の応用だ。感情には、第一に感じる感情と「かくあるべし」を含んだ第二の感情がある。第一に感じる感情は、ともすると見失いがちである。これをきちんと捕まえる必要がある。また「かくあるべし」を含む第二の感情は、自然に発生するものであるから、そういう時は第一の感情にすぐに立ち戻るという能力を身につけていく必要がある。そしてその第一の感情を、私メッセージで言葉にして発することが自分を楽にする方法になる。感情は、どこかに解放させていかないと、どんどん蓄積されてしまうのだ。小さな感情のうちに、小川の流れのようにどんどん流していく必要がある。つぎに自分はどういう気持ちなのか。自分はどう考えているのか。自分はどうしたいのか。自分の意志はどうなのか。これらに焦点を当ててみることだ。他人のことではない。自分に焦点を当てることが肝心なのだ。これらは相手の言動に、対症療法的に「かくあるべし」で反応するやり方ではない。それでは自分は楽になるどころか、ますます葛藤をや苦悩を抱えてしまう事は、森田理論学習で何度も学習したことである。相手の言動に対して、自分にどのような感情がわき起こっているのか、自分の身体感覚はどうなっているのかというところに注意や意識を向けて、自分の今の状況から出発するという視点に立っている。不快な状況に陥っている自分をいたわってやるというやり方なのだ。相手の「かくあるべし」を修正させようとしても、多くのエネルギーを使うばかりで、ほとんど効果はないのだ。それよりは自分の感情や身体感覚に重点を置いて、自分をどこまでも大切にして、癒していくのだという方向が楽な生き方につながっていくのだと思う。
2018.12.13
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あるカウンセラーの方が次のような話をされている。20代後半から、髪の毛が毎日のようにたくさん抜け始め、 30代前半には最も恐れていたハゲになってしまったのです。私は悩み、落ち込み、そして軽い鬱状態になり、対人恐怖症もあって、引きこもりがちになってしまいました。私は自毛を取り戻すために様々なことを試みましたが、どれも全く効果がありませんでした。この時、私は、もしかしたら自毛が生えてくるかもしれないという、ほんのわずかな可能性にかけて悩んでいたのです。しかし、世の中にはどうやっても達成できないこともあります。ですから、私はその時、いくら一生懸命やっても無理な事、努力してもどうにもならないことでほ悩んでも仕方がないと思ったのです。そして、バカバカしいと気づいたのです。それをきっかけに、私は見事に発毛の悩みを諦めることができました。すると、不思議なことに絶望ではなく、すごく楽になっていたのです。つまり、ありのままの自分を認めて受け入れたことによって、いい意味で開き直ることができたのです。ハゲという状況に全く変わりがないものの、ハゲという状態の見方を変えたのです。すなわち、いい意味で開き直り、ハゲという状況で役に立つことやハゲのメリットなどを見つけ、そこに自信を持ったのです。そして、ハゲに自信を持つことで、仕事に活かすことができました。特に初めて訪ねてきたクライアントさんにほ私のハゲの話をすると、笑ってくれて、心を開いてくれるのです。これはカウンセリングを有効に進める上で非常に重要だと私は思っています。なぜ重要かというと、ほとんどの方が、初回は緊張しているからです。効果のあるカウンセリングをしようと思ったら、その緊張をほぐすことがまず大切なのですが、クライアントさんも笑うことにより緊張がほぐれ、リラックスし、話しやすくなるのです。そして私との信頼関係も築きやすくなり、カウンセリングは楽しくスムーズに、有効に進んでいくのです。今はかえって「髪の毛が生えてきたらどうしよう」と心配してしまうくらいです。まさに、自分自身がいい意味で開き直り、短所にも自信を持つことによって、長所に変わるということを学びました。ハゲという現状は全く同じなのに、見方を変えることによってこんなにも変わるとは、私自身が1番びっくりしています。あれだけ悩んでいたのがまるで嘘のようです。あなたも自分の短所の中に隠れた長所を探してみてください。すると、あなたの人生は今よりずっと充実したものになり、そしてきっと自分らしさが持てるはずです。(心の相談室へようこそ はまの出版 237頁より引用)この話は私にも当てはまる話でした。自分の弱みだと思っていることがあると、多くの人は人前に出すことをためらい隠してしまいます。さらにその欠点をなくすることのために、精一杯の努力をします。この方は、どうすることもできない弱みや欠点は、隠したり取り繕うたりしないで、むしろ人前で積極的に公開する。そうすることで、精神的にも楽になり、人間関係もうまくいくようになるというわれているのです。これは現実、現状、事実をありのままに認めるという森田理論の考え方そのものです。
2018.12.11
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プロ野球の試合を見ていると、今ピッチャーが投げたボールは明らかにストライクではないのかと思うことがある。投げているピッチャーはよほど精神的にこたえるのだろう。明らかに不満をあらわにする選手もいる。アンパイヤの判定を受け入れることができないのだ。ストライクとボールのリプレイ検証というものはないのにもかかわらず、その事実を認められないのだ。その結果どうなるのか。頭が怒りでいっぱいになる。気持ちが切り替えられなくなる。相手バッターと対戦する前に、頭の中でアンバイヤに勝負を挑むような状態になる。冷静になって勝負を組み立てるというよりは、やぶれかぶれの投球に陥りやすい。そして、相手打者に痛打されて、最後にはピッチャー交代ということになる。メジャーリーグの試合を見ていると、ストライクとボールの判定をめぐって、バッターがアンパイヤにクレームをつけている場面に出くわすことがある。クレームをつける選手は、 「このへたくそなアンパイヤーはなんだ。もっと正確に判定しろ」と言う気持ちなのだろう。あくまでも自分の見立てが正しいと思っているのだ。判定は覆る訳もないのに、怒りを発散させないと苦しくて仕方がないのだ。しかし、怒りを発散させて、次のボールに冷静な気持ちで立ち向かえるかと言うと、それは逆である。頭に血が上っており、相手の配給を読んで、相手ピッチャーと勝負するという気持ちが希薄になっている。どんな球でも飛びついて、三振や凡打に終わってしまうケースがとても多い。イチロー選手は、審判の微妙な判定に抗議しない。イチロー選手は次のように考えている。「審判はジャッジするのが仕事。自分はボールを打つのが仕事。だからボールのジャッジは審判に任せる」その信念がある。だから決してクレームをつけたことはない。イチロー選手でも、今の球はボールと判定してほしいという時はあるだろう。でも、審判も人間だ。人間にはミスがつきものだ。その結果、どちらとも取れるよう球を、ボールと判定したり、ストライクと判定しているのだ。私たちはその事実を受け入れるしかない。そして次の打席で同じようなボールが来た時は、どのようにして撃ち返すのか。イチロー選手の頭の中は、審判に対する不平不満に取り付かれて怒りが増幅することはない。理不尽とも言える判定の事実を受け入れて、次の打席でどうしたら撃ち返すことができるのかという方面に注意や意識が向いているのである。これは、神経症で、不安や恐怖、不快感で格闘している我々にとってとても参考になる話である。理不尽な事実に対して、それに反旗を翻すよりは、素直に事実を受け入れて、次に自分がどのような行動をとるのか。その方面に舵を切り直していくことが、よほど意味のあることだと教えてくれている。
2018.11.14
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私は現在マンションの管理人をしている。掃除のために10階建てのマンションの外階段を上ったり下がったりしている。私は慰問で獅子舞をしているために、仕事をしながら足腰を鍛えているのである。階段の上り下りをしていて気がついたことだが、下っているときはゴミがよく見えていない。反対に階段を上っているときは、ゴミの存在によく気がつく。その差は格段に違うことに気がついた。階段の掃除には上から見ただけではきれいにならない。下から階段を一段づつ上りながら見ることが肝心であることがわかった。それも一番下から1回だけ見るというのではなく、何段階にも分けて見ることが有効であることがわかった。話は変わるが、大学時代、神奈川県の丹沢で沢登りに夢中になったことがある。10メーターから20メーターの崖を登っていくスポーツである。経験を積んだインストラクターが先に見本を見せて登っていく。そのインストラクターが頂上から命綱を投げてくれる。我々素人はその命綱を体に巻き付け、ヘルメットかぶって登っていくのだ。登っているときは、無我夢中だった。気を抜けば落下する。目の前のしっかりした手や足がかけられるような岩を見つけて、慎重に登っていく。その繰り返しに集中しており、ほとんど恐怖は感じなかった。森田理論で言う「努力即幸福」の体験であった。ところがある時、余裕が出てきて、今登ってきたところを見たときに何とも言えない恐怖心が沸き起こってきた。急に死の恐怖がわき起こってきて、手や足の震えが止まらなくなった。もうそれ以上登ることができなくなり、ロープで釣り上げてもらい命拾いした。頂上から下に降りてみると、登り口の近くにたくさんの墓標があることに気がついた。ここでたくさんの人が命を落としているのだと感じると途端に恐怖心に火がついた。ヨーロッパのアイガーの北壁を登る人をテレビで見ることがあるが、これも目の前だけを見つめて、決して下に目を移さないということが肝心だと思う。 話は変わるが、会社などでは、部下は割と正確に上司のことをよく見ている。反対に上司は見ているつもりでも、部下のことがよく見えていないことが多い。親もそうだ。親は子供のことを何でも知っていると思っているが、案外そうでもない。それ以上に、子供は親の事をよく見ていると思う。しぐさや行動パターン、考え方に至るまで全て親に似てくるのは、観察の賜物であると思う。ここで何を言いたいのかというと、物を見る時に上から下目線で見ていては、正確に見ることが難しい。抜け落ちてしまうことがたくさんあるということである。反対に、下から上目線で見るという態度は多くのメリットがある。そのほうが物事がよく見える。問題点や課題がより多く見つかるのだ。物事本位の生活態度に移行しやすい。これは事実に立脚して物事を観察するのと、「かくあるべし」で物事を判断することの違いであると思う。森田理論のキーワードの1つとして、 「上から下目線ではなく、下から上目線で物事を見る」を付け加えたいと思う。
2018.11.01
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老子の「無為自然」という考え方は、森田理論の「自然に服従」の考えに近い。普通「無為」は、 「無為無策」という言葉があるように、目の前の課題や問題点に対して、放置したままにしている。「無為徒食」と言って、仕事をしないでぶらぶらしている人のことを非難する言葉として使われている。老子の「無為」はそのような意味で使われているのではない。エレン・エム・チェン氏は「老子の無為とは、そのものの内なるリズムに逆らわず、それとともになすことである」といっている。人は、ときには自分の命のリズムである「無のパワー」に任せたらいいのだ。すると、かえって事はスムーズにゆくよ、と老子は言うのだ。すなわち、無為とは、なまけるではなくて、余計な手出しや心配をするなということだ。日常の私たちには、絶えず余計なことをしすぎる。観念主導の生活態度である。森田理論では、現実、現状、事実にしっかりと足をついて、そこを基礎として出発することを勧めている。加島祥造氏は、「無為自然」の例として、次のような逸話を紹介されている。天竜川に流れの速いところがあって、ここででカヌーの競技大会が行われている。ある父親と息子が参加していた。父親が先に競技をした。コースの難所にさしかかり、父親は普段の腕前を見せてやろうと思って、あれこれとさおさばきをしてしていた。ところが、意外にも思い通りに操ることができなくて、転覆してしまった。その後、経験の浅い息子が挑戦した。父親はとてもあの難所は乗り越えるられないだろうと思っていた。しかし、実際には、息子のカヌーはすーっと難所の流れを乗り切ってしまった。父親は、息子がどうしてそんな高等テクニックを身につけたのか聞いてみた。すると息子は、 「あそこに来たら恐ろしかったから、何もしないでいた」と言った。海で溺れる人は、足が底につかなくなると慌ててバタバタと手足を動かす。すると顔が沈んで息ができなくなる。すると死の恐怖でいっぱいになり、さらにバタバタと力一杯体を動かす。このままの状態が続けば大変危険だ。こんな時は力を抜いて、顔を上に向けて、波に揺られながら呼吸を確保してじっとしておく。そうすれば決して沈むこともない。人間の身体はじっとしていれば海では浮かぶのだ。鉄の塊である重い舟が浮かぶのと同じことだ。エネルギーの消耗がないので助かる確率が高い。近くに人が来れば、助けを求めればよい。この場合も、自分から動き出さないで、自然の動きに波長を合わせるということが大事なのである。ワンクリック詐欺にかかる人は、驚いてすぐに先方に連絡してしまう。すると自分のメールアドレスが相手に知られてしまう。それが詐欺師にとっては思うつぼなのである。執拗に追っかけまわされる。こんな時は、相手に連絡しないで、警察や消費生活センターに連絡をすればいいのだ。何とかしようと自分一人で慌てふためいてバタバタと動き回るのがよくない。不安や恐怖、不快な感情などは、台風などと同じ自然現象である。それらの対処法は、森田理論学習で学んだ。それらの感情は一山登りきるまでは手出し無用である。普通は登りきるまでに、気になる感情をなくそうとして、様々なやり繰りをする。そのやり繰りが裏目に出て、 不安などの感情は治まるどころかどんどん膨れ上がってくるのである。森田理論を学習している人は、客観的に見ることができる。不快な感情は一山登りきってしまえば、次第に沈静化してくるのが自然の摂理である。だから、不安や恐怖でいっぱいになっても、そんな時は我慢して耐えるのが定石なのだ。この考え方は、老子のいう「無為自然」の考え方と同じだと思う。
2018.10.19
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金子みすゞさんの詩に次のようなものがあります。わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、とべる小鳥はわたしのように、地面をはやく走れない。わたしがからだをゆすってもきれいな音ではないけれど、あの鳴るすずはわたしのようにたくさんなうたは知らないよ。すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。(ほしとたんぽぽ JULA 出版局)金子みすゞさんは、森田理論の考え方をよく理解している人だと思います。人間に生まれるか、小鳥に生まれるか意思の自由はありません。人間は誰でも欠点や弱点があります。ミスや失敗も数多いです。男に生まれるか女に生まれるか。裕福な家に生まれるか、貧しい家に生まれるか。子育てに熱心な家に生まれるか。過保護や子供に無関心な家に生まれるか。文明の発達した国に生まれるか、ジャングルの山奥に生まれるか。戦国時代に生まれるか、江戸時代に生まれるか、太平洋戦争の時代に生まれるか。これらはどうにもならない事ですが、比較して、是非善悪の価値判断をするようになると、現実や現状を認めることができなくなってしまいます。すべてを否定的に見るようになります。自分を否定し、他人を軽蔑するようになると、生きることが苦痛になってしまいます。森田理論では、過去や未来にこだわるのではなく、今現在に足場をしっかりと固めて、そこを出発点として上を目指して生きていく考え方です。ありのままの自分を認めて、事実本位の生き方が一番安楽な生き方です。そんなことを金子みすゞさんは教えてくれました。
2018.10.14
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子供がボール投げをしていて、ガラスを割った。こんな場合、あなたならどんな言い方をするだろうか。「どうしてガラス割ったんだ。そばにいたのは、君だけだというじゃないか。誰かに割れたガラスがあたったら大けがをするだろう。ガラスは高いんだぞ。いったいどうするつもりなんだ」などと怒鳴り散らすのではないだろうか。「普段お前の素行は近所の人から苦情が出ているんだぞ。もう二度としないと約束しろ」などと子供の人格を否定するようなことも言うかもしれない。それは自分の不快な感情を解放しないと、腹立たしい気持ちが収まらないように思うからある。これでは、ショッピングセンターに行って、欲しいものがあって駄々をこねる子供とほとんど変わらない。 こういうときこそ、森田理論を活用したいものである。森田理論は、「ガラスが割れた」という事実に焦点を当てる。すぐにガラスを割った犯人を見つけて、叱責し責任を追及することはしない。言い方としては、 「ガラスを割ったのはお前だろ。親に弁償してもらうからな」とは言わない。「ガラスが割れた。粉々になった。後片付けが大変だ。君もびっくりしたろう。けがはなかったか」「どんな投げ方をしていたんだ。変化球でも練習していたのか。手が滑ったのか。もともとコントロールが悪いのか」これを見ると、子供を叱責していない。ましてや子供の人格を否定していない。ここでの言い方のポイントは、「ガラスが割れた」という事実に注目していることである。「ガラスを割った」ではなく、 「ガラスが割れた」という言い方である。「を」と「が」の違いだが、その後の展開を大きく左右する。「ガラスを割った」と言うのは、子供に罪を認めさせ、罪をつぐなわせるという目的がある。もはやガラスが割れたというところに注意は向いていない。責任を負わせることで、 1件落着に持ち込もうとしているのである。不快感を払しょくして、多額の損害賠償をさせてやろうという魂胆がみえみえである。そんな言い方をすると、子供もつい反発したくなる。 「そんなこと言うのなら、窓ガラスが割れないように防護壁を作ったらいいじゃないか」 「公園の近くに住んでいる人は、植木を植えて被害がないように気を付けているじゃないか」そしてついに喧嘩になり、双方とも後味の悪い思いをする。そんな噂が子供の間に広がり、今度は隠れてゴソゴソと嫌がらせをされるようになる。犯人が見つからないので、大人の方がノイローゼ気味になる。負の連鎖が続くのだ。「ガラスが割れた」という言い方は、その後どういう展開を見せるだろうか。「ガラスが割れた。粉々になった。後片付けが大変だ」と言うと、子供は我に返り、 「ごめんなさい。すみません」と謝るのではなかろう。 「僕にできることならなんでもします」と言って後片付けを手伝おうとするのではないだろうか。「それは、ありがとう。でも、ガラスの破片で手を切ったりするといけないから、おじさんの指示するようにやってね」まず大きな破片を取り除く。次に小さな破片に移る。その時は手袋をはめさせ、新聞紙を濡らして小さく切ってそこら中に撒く。ほうきを使って、ちりとりに入れる。その後は丁寧に掃除機をかける。子供と一緒になって処理をすれば、子供もガラスが割れた時の処理のノウハウを経験できる。そういう子供は家に帰って親に事の顛末を話し、親と一緒にお詫びに来る。こういう展開になるのは、 「ガラスが割れた」という事実に注目しているからである。物事本位になっているのだ。子供は「しまった、どうしよう」と思っているのである。そう思っているのに、すぐに叱責すると、人格否定をされたように思い、反発心が出てくるのである。事実を事実のままに認めると、そこを出発点にして、現状復帰するにはどうしたらよいのかを考えるようになる。決して安易に自己否定や他人否定の方向に向かわないのである。事実を素直な気持ちで受け入れることによって、良い方向に向かうのなら、取り組んでみる価値はあると思いますがいかがでしょうか。
2018.10.08
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先日、読売ジャイアンツに内海投手がいるが、、その人のことを「うちうみ」投手という人がいた。思わず苦笑した。人のことを笑ってはおられない。私も熊本県の「不知火海」のことを「ふちびかい」と思っていたのだ。「兎に角」(とにかく)というのを、長い間「うさぎのつの」だと思っていた。どうも意味不明だと思っていた。分かったときは顔から火が出る思いだった。こういう間違いはよくある。鬼島くんのことを「おにしまくん」、五木村のことを「ごきむら」、お洒落のことを「おさけおとし」、月極のことを「ゲッキョク」、封建的を「ふうけんてき」などである。ドラえもんでは、のび太は「地平線」のことを、 「ちだいらせん」という鉄道の路線名だと思っていた。のび太は、 「チダイラ線というのはどこを走っている電車か」とママに聞きました。それを聞いたのび太のママは、 「情けない。あんた何年生になったの。もう4年生なのよ。ちゃんと勉強してないからこんなことになるのよ」と怒っています。これではのび太は卑屈になるばかりです。それに対してパパは、 「そういえば、どっちを向いても家の屋根ばっかり。この辺で地平線の見えるところはないな」と言いました。パパの言葉に刺激されて、のび太の探究心が目を覚ましました。早速ドラえもんに頼んで魔法の地平線を出してもらいます。「天と地との境目、あれが地平線だ」とドラえもんはのび太に説明します。早速、のび太は、ジャイアンやしずかちゃん、スネ夫まで呼んで、地平線を見るだけでなく、一緒に体験して実感しています。素晴らしい展開です。確かに常識的なことを勘違いしている人を見ると、その人のことを馬鹿にしたり軽蔑するようなことがあります。自分では、穴の中に隠れたいような、恥ずかしい思いをします。これは森田理論で言うと、現実や事実を否定することにつながります。批判や否定をすると、自分自身が惨めになるだけでなく、人からそのような事をされると反発するようになります。自分の存在や人格を否定されるので当然のことです。現実はどうすることもできないのに、それを受け入れないから葛藤や苦しみが出てくるのです。森田理論で言う思想の矛盾に陥っているのです。反対に、失敗やミスの事実をそのままに認めてしまうと、そこを出発点として展望が開けてきます。この場合で言うと、地平線に興味や関心が出てきて、実際に確かめてみようという気持ちになるのです。気持ちは外向きになってどんどん発展してゆくのです。それに比べ、自分の常識のなさを嘆き、自分や自分を育てた親を憎むということになると、すぐに閉塞状況に追い込まれます。そういうことを繰り返していると、雲泥の差となって表面化していくのです。 ここでは、事実にしっかりと足をついて、そこを出発点とする態度がとても大切だということがわかります。
2018.10.07
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事実本位の生き方をするためには、自分なりに分かりやすい自分だけのキャッチフレーズを作るのが有効だと思います。私は次のように自分に言い聞かせています。不安、恐怖、違和感、不快な感情がわき起こったときは、台風が接近したときの柳の木のようになろう。柳の木は、激しい風雨に身を任せて、枝がちぎれんばかりに、荒れまくっている。反対に、松の大木は、どんなに強い風雨でも抵抗して踏ん張っている。これを見ていると、柳の木に勝ち目はないように見える。いずれ跡形もなく吹き飛ばされてしまうだろう。松の大木は、どんなに強い風雨であっても、力強く耐えぬくことだろう。耐えるだけの強靭な体力を持っている。しかし、驚くことに、事実は反対になっているのだ。台風が通り過ぎたあと、柳の木は、何事もなかったかのようにたたずんでいる。ビクともしなかった松の大木は、時として無惨にも倒壊している。弱さになりきった柳の木が生き延びて、松の木に勝ったのだ。最後まで抵抗していた松の大木は、ぽっきりと折れて命を絶たれた。弱さになりきり、抵抗したり逃げたりしなかった柳の木は、私たちに不安などの嫌な感情に対する対応方法を教えてくれている。不快な感情や気分に対して、はからいや逃避は禁物なのだ。荒れ狂うままに受忍して、時間の経過を待つ。台風はいつか必ず通り過ぎるのがまぎれもない事実だ。その事実を信じて、右往左往しないことがことだ。時間の経過は必ず私たちに味方してくれる。一時的な自然現象である不快な感情に素直に従っている人が、予想に反して神経症に陥ることから免れているのだ。よって私は柳の木のようになりたい。
2018.08.30
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森田理論は、西の横綱を「生の欲望の発揮」とすれば、東の横綱は「あるがまま」のような気がする。つまり、この2つのキーワードは森田理論学習では大きな柱となるのである。今日は、 「あるがまま」について投稿してみたい。「ある」は、物、自然、自分、他人が存在するということである。「まま」は、 「そのまま」ということである。続けていえば、そのままに存在するということである。存在するそのままに生きていく。事実そのままに生きるという事である。これが「あるがまま」に生きるということの本質である。自然や動物の世界は、まさにそのままに存在している。人間だけが、それからはずれた生き方をしている。それは人間が、他の動物と比べて、言葉を使い、記憶力が発達し、認識や解釈、判断、内省、思考などができる前頭前野が発達しているためです。そのおかげで高度な文明を築き、文化を発展させてきました。はかり知れない恩恵を人類もたらしてきたのは紛れもない事実です。その半面、事実そのままに生きるという本来の生き方は、軽視されてくるようになりました。観念が重視されて、事実を観察する態度が希薄になりました。事実そのものがいとも簡単に否定されるようになってきました。事実を認めない。事実を隠蔽する。事実をごまかす。事実をねじ曲げるなどが横行するようになりました。そうした態度のことを森田では、「はからい」といっています。それをすると益々事実から離れていってしまいます。常識や観念全盛の時代に変わってきたのです。それが人間の精神分野に多大な悪影響をもたらせていることに早く気が付く必要があります。森田先生は、はからいを止めて、現実、現状、事実に立脚した生き方に転換すること求められています。森田先生が大正から昭和の初期にその弊害を見抜いて喝破されていたことに驚かされます。私は、森田全集第5巻の619ページに載っているイソップ物語のきつねとブドウの話を思い出します。ある時きつねが実がたわわに実ったぶどうの木を見つけます。きつねは早速飛び上がってぶどうを取ろうとしました。ところが、木が高くて自分の力では取ることができません。そのうちエネルギーがなくなり、やる気も気力も失せたきつねは次のように考えました。「あのぶどうはきっと酸っぱくて食べられるような物ではないはずだ」ぶどうが食べたいという自分の気持ちを無理やりこじつけて抑圧しようとしたのです。これが発展すると、自分はもともとぶどうなんか食べたくなかったのだなどと、欲しいという事実をごまかすようになるのです。さらに、ぶどうを取る能力のない自分を、自己嫌悪や自己否定するようになります。このような自分を生んだ親を憎むようなことにもなります。そしてぶどうを欲しがらない人間になるために精神修養しよう。簡単にぶどうが取れるような超能力を身につけたいと空想するようになります。迷いの元は、すべて事実を「あるがまま」にみようとしないことです。 「自分はぶどうを欲しがっている」と「自分の力ではぶどうを取ることができない」の2つの事実を認めようとしないのです。苦しい困難な現実に直面したとき、動物であれば四方八方に力を尽くして、及ばざればそのままその事実に服従します。この点は人間が動物から謙虚に学ばなければなりません。人間は、事実をあるがままに認めようとせず、観念で事実をごまかしたり、自分を欺こうするのです。もしイソップ物語のきつねが、2つの事実を認めたらどうなるのか。自己嫌悪や自己否定に陥る事はなくなるでしょう。どうにもならない事実に対して向き合ううちに、気づきや発見、工夫を思いつくに違いありません。てっとり早いところでは、棒のようなものでぶどうを叩き落とす。あるいははしごや脚立のようなものを探しに行く。また親しい友人に声をかけて、協力を得る。そうすれば、最終的には、最初の目的を達成することができます。その前提としては、どうしてもままならない事実を素直に認めていくことが必要なのです。「かくあるべし」 に自分の立ち位置を決めて、現実、現状、事実を否定するところから何も生まれません。生まれるのは疑心暗鬼と自己否定のみです。現実、現状、事実に自分の立ち位置をしっかりと決めて、そこから上目線で一歩一歩前進していくのが人間本来の生き方です。実際には二歩前進して、また一歩後退というケースが多いでしょう。それでも諦めず粘り強く前を向いて生きていく。これが森田理論でいう「あるがまま」の生き方の本質だと思います。
2018.08.23
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森田理論のキーワードに「なりきる」という言葉がある。これは2つの意味があると思う。1つは「ものそのものになりきる」というような使われ方である。行動するときは、症状を治したいという気持ちは横に置いて、一心不乱に取り組むことである。症状を治したいという気持ちがあると、心は物事や外向きにならず、自己内省的、自己否定的になって、症状はかえって悪化する方向に向かう。もう一つの使われ方は、 「弱くなりきる」というような使われ方である。弱い人は強がったりしないで、弱い人間であると自覚して、弱い人間として生きていくという意味である。ここでは弱い人間であるということを自覚し、それに抵抗しないで素直に受け入れるということである。弱い事実と一体となった状態である。不安と一体化、恐怖と一体化、痛みと一体化、不快感と一体化、苦悩と一体化した状態である。動物はほぼ一体化していますが、人間には大脳が発達して、なかなか一体化できないのです。トイレ掃除や排水溝の掃除は汚いから嫌だと思う人は多いでしょう。嫌だという気持ちはそのままにしておく。その気持ちを持ったまま、いやいや、しぶしぶ掃除にとりかかる。本人の気持ちはともかく、周囲から見ると不快感と一体化した状態です。とりかかってみると、最初の不快感はどんどん変化していきます。少なくとも、ずいぶん薄まってきます。掃除は終わった頃には、きれいになったトイレや排水溝を見て嬉しくなってきます。慢性疼痛も痛みや苦痛になりきってしまうと、それ以上の痛みは感じなくなってきます。苦痛に顔をしかめ、なんとか痛みを取り除こうとしてあがいているうちは、苦痛はいやがうえにも高まってきます。対人恐怖の人は人を恐れています。恐ろしいから人と接触するような場面も避けています。人の思惑ばかりを気にして金縛りに遭ったような状態です。人が恐ろしいという気持ちはそのままにして、やりくりしないで野放しにしておくことが大切です。不安には恐怖を排除しないで行き着くところまでいきつかせるのです。放置することができれば、後は時間が解決してくれます。不安や恐怖が次第に気にならなくなってくるのです。不安や恐怖になりきって一体化している状態です。それを更に促進させるためには、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組むことです。正岡子規は次のように言っています。「悟りという事は、いかなる場合にも、平気で死ぬことかと思っていたのは間違いで、悟りと言う事は、いかなる場合にも平気で生きることであった」これは「弱くなりきる」という言葉を適切に説明しているように思われます。山本五十六は次のように言っています。苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不安なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえていくのが男の修行である。人生には苦しい事、言いたい事、不安なこと、腹の立つ事、泣きたい事などが次から次へと起こってきます。これらに対して、基本的には我慢したり耐えたりしながら、しかもいつも前を向いて生きていくことが大切なのだと言っているように思われます。森田理論で言うところの「弱くなりきる」ということではないでしょうか。
2018.08.16
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森田理論は、基本的に、どんなに承服できない事実であっても、それを受け入れる態度が大切であると言っている。そういう態度を身につけることをお勧めしているのである。では、事実を受け入れない人はどのような態度で周囲の人に対応しているのでしょうか。1 、何か問題が起きると、 「それは私がやったのではありません」 と事実とは異なる嘘をつきます。そして他人が納得するようなアリバイを捏造して、いかにも自分は無関係であるように装います。明らかな証拠がなければ、いくら嘘をついても他人にわかるはずはないという態度が見え見えです。今の法律は、明らかな証拠がないと、その人を罰することはできません。それを逆手に取って、証拠隠滅を図るのです。その証拠隠滅がバレそうになると、また新たな嘘をつきます。嘘が嘘を産んで次第に辻褄が合わなくなってきます。2 、他人に責任転嫁する。 「この問題は上司の指示によってやりました。したがって責任は私にはありません。罰せられるべきは上司です」 「前の担当者がずさんな管理をていたために、このような事件が起こりました。私は被害者なのです」3 、 「この事件はたいしたことではない」などと事態を過小評価することです。 「たかが1時間遅れただけじゃないか」と待ち合わせ時間に遅れたことを軽く取り扱う。主人が大事にしていた花瓶を壊したときでも、 「たかが花瓶ひとつが壊れただけではないか」などと開き直る。学校でイジメで子供が自殺したとき、いじめた側の生徒が「あれはイジメではなくて、遊びでした」と平気で言う。虐待された子供が亡くなり、逮捕された親が、 「あれは虐待ではなく、しつけでした」などとシラを切る。4 、大きな問題が発生したのに、開き直って正当化する場合もあります。原子力発電所の大事故が起きても、 「資源の少ない日本で原子力発電以外に何があるというのだ。今後も積極的に推進していく必要がある」試験で不合格になったとき、 「あんな引っかけ問題を出す教師などペテン師のようなものだ」と自分を擁護しようとする。5 、言い訳の言葉としては次のようなものがあります。「しかし」 「でも」「魔がさしたのです」 「そうせざるを得なかったのです」 「つい他のことを考えていたので」 「無我夢中でついやりました」 「そんなつもりはありませんでした」 「冗談で言っただけです」 「あの時は体調が悪かったのです」 「忙しすぎて、ついうっかりとやってしまいました」いづれも事実から目をそらして、責任を逃れようとする気持ちが見え見えです。帚木蓬生氏は、言い訳と嘘で壁を作ってしまうと、反省や内省が生じません。嘘と言い訳で、失敗は失敗を呼びます。どこまで行っても失敗の連続ですと言われています。私たち森田理論学習を続けているもの者は、どんなに承服しがたい理不尽な事実であってもに素直に認めて、事実に服従して、事実本位に生きることを目指しています。ここでは、事実を無視すると、さまざまな弊害が発生すること理解していただきたいと思います。(生きる力 ~森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 63ページから74ページを参照)
2018.08.13
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森鷗外は小説家としてよく知られているが、本職は陸軍の軍医であった。軍医としても高位に上り詰めた人である。若き日の森鷗外は、軍医の仕事をきちんとこなした上に、睡眠時間を削り、文学活動にあてていた。そうした努力によって、彼は軍医としてより先に文学者として有名になった。しかし、その名声のために、周囲の中傷、ねたみを買い、東京の近衛師団軍医部長という要職にあったが、小倉の第12師団軍医部長に転任させられたという。左遷されたのである。当時、森鷗外は38歳だった。普通の人なら、こんな屈辱的な目にあわされるとやけになって酒でもあおり、周りの人に不平不満をぶちまけるだろう。凡人ならぬエリートならなおさら、これまで築いてきた出世の道は絶たれた。もはや将来はないと絶望の淵に落ちるだろう。しかし、鷗外は周囲のあざけりの目を受けながらも、敢然としていっそう勉学に取り組んだ。挫折をバネにしたのである。この不遇の時代の勉学が、後に大文豪の名声を決定づける傑作を次々に生む基礎となり、原動力となったのである。もし不遇の小倉時代がなかったならば、森鷗外の文学があれほど人間の深奥に迫るものに達し得ていたかどうかわからない。エリート軍医の高級な余技と評されるものに終わっていたかもしれない。ロシアの大作家ドストエフスキーも若い頃、大変な危機に直面した経験を持っている。政治運動に関わり、死刑を宣告されたのだ。処刑の日、あわや銃殺という直前に恩赦が出された。死刑は免れたものの、その後数年、シベリアに流刑された。死の1歩手前に立たされた経験、そして数年に及ぶ流刑は挫折どころか、普通なら精神に異常をきたすか、生きる意志も奪われてしまうほどの強烈な衝撃である。しかしドストエフスキーはそれに耐え抜き、さらに自らの体験を内面で深め、哲学にまで高め、後に世界的名作の数々を生み出していったのです。2人とも自分を襲った過酷な運命に対して、絶望し、すべてをあきらめ、投げ出してしまいたくなる時も当然あったであろう。しかし結果的には、彼らは運命の深刻さにとらわれたままにならず、その中で自分がなすべきこと見出して実行した。挫折や人生の危機を乗り越えるなかで、自分たちを高めていったのです。(心の危機管理術 岡本常男 現代書林 158ページより引用)森田先生は、このことについて次のように述べられている。 「運命は堪え忍ぶにおよばぬ。耐え忍んでも、忍ばなくても結果は同様である。われわれはただ運命を切り開いていくべきである。正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、長い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。苦痛の激しい時は、泣き、叫びながら、それでも、歌や俳句や、随筆を書かずにはいられなかった。その病中に書かれたものは、ずいぶんの大部であり、それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったと言う事は、できないだろうか。これが安心立命であるまいか」(森田全集第5巻 261ページより引用)私たちは神経症に陥ったことを嘆き悲しむのではなく、自分に与えられた運命だと思って受け入れて、それを乗り越えることで、一回りも二回りも大きな人間に成長していくのではないでしょうか。
2018.08.07
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今年9月に開催される第36回日本森田療法学会の大会テーマは、 「やわらかに生きる~森田療法による回復の歩み~」に決まったそうだ。今日はこの「やわらかに生きる」について考えてみたい。やわらかいの反対は固いである。神経症で苦しんでいる人は、固い生き方をしている人が多い。固い生き方は、なんといっても 「かくあるべし」が強くて融通がきかないということではなかろうか。理想主義、完璧主義、コントロール至上主義、目標達成主義の強い人である。自己中心的で、観念的な人である。固い生き方に凝り固まっていると、理想とは程遠い現実や現状に我慢がならなくなる。いつも現実や現状に対して軽蔑の視線を向けて、否定し、拒否している。これが自分自身に向けられれば、神経症へと落ち込んでいく。他人に向けられれば、人間関係が悪化して、孤立してくる。また「かくあるべし」という思考方法をとっている人は、問題の多い現実を一挙に理想の状態に引き上げようとする。現状を踏まえて、時間をかけて一歩一歩目の前の障害を取り除いて階段を上っていくやり方ではない。自分は雲の上のようなところに居座っていて、もたもたしている現実を眺めて叱り付けているようなものである。けっして現実や現状に寄り添って暖かく見守っている態度とは言えない。これに対して、やわらかい生き方をしている人は、いつも現実や現状に寄り添って、暖かく見守っている。苦しくて逃避するようなときは、叱り付けることもある。でもそれはその人のことを考えたうえでのことである。あとから考えると、あのときに厳しく叱ってもらったことを感謝されるような叱り方である。やわらかい生き方をしている人も、問題点や課題、理想や夢や希望や目標を持っている。でも自分の立ち位置は、あくまでも現実や現状のほうにある。自分は常に現実や現状と一緒のところにいる。つまり下のほうにいて、上を見上げているのである。その目標を達成するために、時間をかけて前進している。大きな目標を小さな達成可能な多くの目標に分けているのだ。その小さな達成可能な目標に向かって努力精進しているのである。この状態をを森田理論では努力即幸福という。素晴らしい生き方である。森田理論学習によって、やわらかな生き方を学び、その能力を身につけているのである。「かくあるべし」的思考方法をとる人と努力即幸福の生き方を身につけている人の違いは、自分の立ち位置をどこに置くかによって決まる。今まで私たちは雲の上のようなところに自分の身を置いて、現実や現状を否定していたのである。これは登山に例えるとわかりやすい。自力で登山しないで、富士山山頂にヘリコプターで舞い降りているような人で、上から下目線で途中で苦しくなっている人をみては、能力のない奴だと軽蔑したり馬鹿にしている人が、 「かくあるべし」の強い人である。反対にふもとから登山する人と一緒になって、その人たちをサポートしながら、自らも富士山頂を目指して努力している人がやわらかい生き方をしているといえる。森田理論学習によって、「かくあるべし」を振りかざすことが、神経症を作り出す大きな原因であることがわかった。それが自覚できれば、あとは「かくあるべし」を徐々に少なくして、事実本位の生活態度に切り替えていけばよいのである。この方向は容易ではないが、 1割でも2割でもその方向に切り替えていくことができれば、ずいぶん楽で有意義な人生を歩んでいくことができるのである。
2018.08.04
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ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えて裁判にかけられ、有罪になりました。今、天動説を真顔になって主張する様な人がいると、頭がおかしくなったのではないかと見なされます。現代では当たり前の地動説という世界の常識は、その当時は絶対に認めることのできない非常識であったのです。1616年4月、ガリレオはイタリアのボローニャに24人もの大学教授を集めて自作の望遠鏡を披露しました。その望遠鏡の倍率は約33倍だったそうです。その望遠鏡で地上の様子を見てもらいました。すると、山や森や建築物等、遥か遠くにあるものがドーンと目の前に映し出されます。教授たちは、その迫力に驚きガリレオを賞賛しました。次に、ガリレオは教授たちに望遠鏡で天体を見せたのです。月を見るとクレーターまでがはっきりと見えました。すると、教授たちは、 「こんなのはデタラメだ」と口々に叫んだということです。その教授たちの中には、当代きっての天文学者ケプラーの弟子、ホーキーもいました。「この望遠鏡は、地上においては見事に働くが、天上にあっては我々を欺く」つまり、ガリレオの望遠鏡は地上を見る分には問題なく作動するが、天に向けるとうまく働かない代物だ、と文句をつけているのです。当代きっての天文学者がなぜそのような非常識なことを言ったのでしょうか。当時は天上界と言うのは完全な法則に支配された完璧な世界だと思われていました。つまり、神が棲む世界です。地球がこの世の中心であり、この神聖な地球の周りを太陽や多くの星々が取り囲んでいる。そこでは、すべてのものが規則的に働き、美しく、統一ある姿をしています。ですから、月にクレーターなどあるはずがないのです。あってはならないことなのです。クレーターというのは不完全ということですから、星の表面は、綺麗にのっぺらぼうでないといけなかったわけです。教授達の頭の中には、そのような「かくあるべし」でがんじがらめに支配されているのです。だから、絶対に事実を認めることができない。イライラして態度を豹変させ、 「この望遠鏡はおかしい。デタラメに違いない」と騒ぎ出したわけです。この望遠鏡はなにかおかしな細工をして人々を欺いているに違いないと確信しているのです。望遠鏡の客観的な性能よりも、自分の頭の中にある主観的な思い込みの方が正しいと思っていたのです。ガリレオもはじめのうちはその当時の常識に染まっていました。しかし、その望遠鏡で、天体を詳しく観察するうちに、それまでの常識は間違っているのではないかと気づきました。さらに詳しく観察してみると、太陽の表面にも黒く汚れたシミのようなもの(黒点)があることに気づきました。そして最終的には、太陽を中心として地球を始めとした惑星が回っていることを発見したのです。つまりそれまでの自分の常識を捨てて、真実や事実のほうを信用するようにに態度を変えていったのです。ガリレオは「それでも地球は回っている」といって処刑されました。ガリレオの地動説の発見がなかったならば、天文学はその先の段階に進むことは不可能だったのです。観察や実験によって、真実や事実を知る事はとても大切なことです。そして、次に、真実や事実がどんなに自分の考え方とかけ離れていても、その真実や事実を優先して認めて受け入れるということが大事なことになります。そうしないで、真実や事実を自分勝手に作り上げてしまうと、それから先はどんどん横道へそれていってしまいます。これは森田理論を学習しているものにとっても、とても重要なところです。森田先生は、 「教育の弊は人をして、実際を離れて徒に抽象的ならしむるにあり」と言われています。学校や社会教育は世の中で常識とされているものを教えていきます。それらも大切なことですが、その常識を疑って、実際に現物に当たったり、現地に足を運んで自分の目で確かめてみるという態度を持ち続けることがさらに重要であると言われているのだと思います。そうしないと新しいものや新しい考え方は生まれてくることはないのです。(99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方 竹内薫 光文社新書参照)
2018.07.31
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松下幸之助さんは「人生心得帖」 (PHP文庫)の中で次のように指摘されている。「優れた能力を持っている人が経営者になれば、会社がうまくいきそうなのに、実際はそうならない場合が多い」その理由について、 「優れた知識や手腕を持つ人は、何でも自分でできるし知っていますから、仕事を進めるにあたって、いちいち部下の意見を聞いたり相談を持ちかけたりということをしない傾向があります。それどころか、せっかく部下が提案したような場合でも、 「そんなことはわかっている」と簡単にかたづけてしまうことさえあります。その結果はといえば、部下の人たちが進んで意見を言わなくなり、ただ命令に従うといった姿勢で仕事に当たることになります。それでは各人の自主性も生かされず、衆知も集まりませんから、力強い発展が生まれないのは明らかでしょう」この話は、普通に考えると、マネージメント知識の豊富な人は、経営を任せればうまくいきそうに思うが、実際はそうではないということだ。そういう失敗例はいくらでもある。経営者はマネージメントの知識を持っていることは必要条件ではあるが、 十分条件ではないと言うことです。プロ野球の世界でも、名選手が必ずしも優れた指導者になれるとは限りません。これは、自分はマネージメントにかけては優れているという「自惚れ」が災いしているのだと考えられます。つまり自分の立ち位置が、上から下目線で人や物を見ているということです。仲間や部下からわからないことを教えてもらったり、彼らの持っている潜在能力を見つけだそうという気持ちを持っていないのです。彼らに対して自分の想い描いている行動をとってくれないと、すぐにイライラして、叱責や批判ばかりを繰り返すようになるのです。最終的には自分を助けてくれる人がどんどん離れていってしまいます。その結果、自分も経営者として不適格と判定されるようになるのです。松下幸之助さんの口ぐせは、 「君はどう思う」という言葉だったそうです。つまり、部下はもちろん、新入社員からパートの人、近所の人、料亭の仲居さんまで、とにかく思いつくまま目の前の人に「君はどう思う」と、素直に意見を聞いたということです。松下幸之助さんは、考え方の基本的なところに、自分にはまだまだ欠けているいるところがあると自覚しておられたのです。謙虚な気持ちで、教えを乞うという気持ちを持ち合わせておられたのです。そこに自分の立ち位置を決めて、そこから一歩一歩階段を上っていくという姿勢を堅持されていたのです。これが森田理論で言う「事実唯真」という態度だと思います。ギリシャの哲学者ソクラテスは、 「私が知っているのは、私が何も知らないということだけだ」という言葉を残しています。本当は人生観について卓越した考え方を持っていいるにもかかわらず、自分がまだまだ発展途上の人間であることを自覚していました。そのような謙虚な態度で他人に向き合うことができるからこそ、次から次へと新たな発見をして自分の哲学をさらに深めることができたのです。 (なぜ、仕事ができる人は残業をしないのか 、夏川賀央 ソフトバンク文庫参照)森田先生がよく話されている親鸞聖人は、「自分は悪人である」と言われていたという。これも上から下目線で他人や物を見るのではなく、問題のある自分の考え方や行動の現状をよく自覚して、そこを出発点として生きていく覚悟を持ち続けていたということを評価されているのだと思われる。そういう人が結果として「善人」として認知され、「かくあるべし」を振りかざしている人は、結果として「悪人」になり下がっているのではないでしょうか。
2018.07.28
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神谷美恵子さんは、 「現代に生きる婦人の人生観」の中で次のように述べておられる。人間はいかに外面的条件が良くても、例えば病や老いや死など、あるいは仕事の問題、人間関係の問題など解決できない問題に常に直面している。その力不足を自覚することが大切であると述べ、こう続けている。「人間は自分を超えるものに対しては常に畏れの心を持ち、謙虚であるべきものと思います。また過ちやつまずきを重ねがちな自己を常に反省し、貧しい心のままに、大いなる自然の力に身を委ねて歩んでいくべきものでしょう」なぜなら「いつでも謙虚な貧しい心でいるほうが、あらゆる物や事や人から、絶えず新しく学んで成長していくためにもよいことだと思う」 (神谷美恵子の生きがいの育て方 神谷美恵子東京研究会 PHP文庫 140頁より引用)ここの部分は、森田理論に関係のある指摘だと思います。「自分を超えるもの」というのは、自分や人間の力ではどうすることもできないものと読み替えることができます。台風、大雨、土砂災害、地震、雷、大雪、地震、火山の噴火、隕石の落下などの自然現象は制御できません。大きな経済変動、戦争や紛争なども一般庶民にとっては制御不能です。私たちが問題にしている自然に湧き上がってくる感情も自由自在にコントロールすることができません。自分の容姿、性格、境遇、環境なども思い通りにはなりません。他人の理不尽な仕打ちなども自分の思い通りになりません。他人の容姿、性格、境遇、環境なども自由自在に変える事はできません。神谷美恵子さんは、病や老いや死など、仕事の問題、人間関係の問題など解決できない多くの問題に直面していると言われています。それらは人間が自由自在にコントロールできないものである、ということをよく自覚することが大切だと言われています。次に自由自在にコントロールできない問題は、常に畏れの心を持ち、謙虚であるべきだと言われています。森田理論で言うところの、 「自然に服従し、境遇に柔順になる」という事だと思います。納得はできないかもしれませんが、たとえ理不尽で受け入れがたいことであっても自覚して受け入れるということです。生きていく上には、自分ではコントロールできない問題が数多く存在します。自分の心や感情、自分の容姿や性格、他人の自分に対する仕打ち、他人の容姿や性格、自然現象などキリがありません。将来に向かって明るい展望が開けるものなど、変えられるものに対しては積極的に取り組む。しかし変えられないものに対しては、潔く受け入れるという態度が大切だと思います。その前提として、この2つを明確に区別する知恵を持つことが極めて大事になってきます。
2018.07.20
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自分のことは誰よりもよくわかっていると思っている人が多いが、それは半分ぐらいは合っているが、半分は間違っている。たとえば、体の調子が悪くて医者の診察を受けてみたら末期ガンだったというようなことがある。膵臓ガンなどは手遅れになることが多い。これは自分がガンになっていたという、自覚がないのが原因である。自分の音声は他人にどのように聞こえているのか、自分ではあまりよくわからない。自分の声を録音して、再生してみて始めてわかるのである。自分の考え方や動作について、第三者的に客観的な立場に立って眺めてみるということは、実態を正確に把握し、修正して改善することに役立つ。私はアルトサックスを吹いているが、ある人からビデオで撮影して、自分の演奏技術を客観的に見てみたらどうかと言われた。Yahooオークションで探してみると、機能的は落ちるが、 6,000円のビデオカメラがあった。これで撮影して再生してみた。すると、どんな音色が出ているのかよくわかった。自分で演奏しているときは、実はよくわからなかったのだ。また、 8分休符を無視して演奏している箇所があった。楽譜を無視して、自分勝手に演奏している箇所も分かった。聞いていて違和感がある箇所がある。問題のある事実がよく分かったので、修正して改善につなげることができた。次にこのビデオカメラを利用して、老人ホームで行う一人一芸もビデオ撮影してみた。高知のしば天踊り、安来節のどじょうすくい、江戸寿獅子という獅子舞、浪曲奇術、腹話術、各種手品である。すると、色々と改善点が見つかった。しばてん踊りでは、もっと手足の動きを大きく使う必要があると感じた。どじょうすくいは、歩く時にもっと腰を上下させないと、見栄えが悪い。その他所作の改善点がいくつかあった。獅子舞は、口の動きや耳の動きは意外とよかった。ただ胸噛みという所作と山越えという所作の改善点が見つかった。浪曲奇術は、すべて口パクで行うがつい声を出してしまう癖がでていた。あとコップの芸で改善点が見つかった。腹話術では、改善は難しいかもしれないが、五郎君という人形の声が今一つであることが分かった。また首をすこし上に出さないとおかしいことがよく分かった。続いて、カラオケも撮影してみた。you tubeのカラオケに合わせて歌ってみた。音痴なのがよく分かった。いきなり歌うのはまずい。発声練習が大切なのがよく分かった。高音部がの声が十分に出ない。人に不快感を与えず、自分でも楽しむ程度にはしたいと思う。持ち歌を集中して練習しようと思った。私はこれらのことから、自分の考え方や思考の癖も客観的に見ないと独りよがりになるということがよく分かった。ついネガティブで悲観的になってしまう。事実を確かめないで先入観や決めつけで動いてしまう。小さな問題を、すぐに人生を左右するような大きな問題に拡大してしまう。そういう自己中心的な考え方が自分を苦しめているのだ。では独りよがりな自分の考え方や思考の癖を客観的に見て、事実誤認をなくするにはどうしたらよいのか。それは他人から教えてもらうことが有効である。友達、配偶者、先生、カウンセラー、生活の発見会の集談会という自助グループの仲間などである。それなくして、自分を客観的に第3者的に眺めることは難しいのではないかと思う。
2018.07.12
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自然科学者は事実でないもの事実として公表することは許されません。いったんは間違いのない事実だと確信しても、何回も実験を繰り返して検証する必要があります。そして間違いのない確証を得た段階で、論文を発表するのが建前です。以前STAP細胞問題が大きな社会問題となったことがあります。STAP細胞は、リンパ球を弱酸性の液体に25分間漬けるだけで、いろんな細胞に分化する万能細胞ができるというものです。これを理化学研究所のある研究員が世界的に有名な科学雑誌に発表したのです。もしこれが真実であるとすれば、人間の手でいろんな臓器が作れますので、難病などで苦しんでいる人たちにとってはとても朗報です。ところが後に、この研究内容は真っ赤な嘘であったことが判明しました。この研究員は社会から大きなバッシングを受けて、退職に追い込まれました。また、直属の上司を自殺に追い込こんでしまいました。私たちは森田理論学習で、事実を自分の都合のよいように、勝手に捏造してはならないと学びました。事実をねじ曲げると、自分自身が精神的に窮地に追い込まれます。最悪神経症に陥ります。また、周囲の人たちを巻き込んで不幸な状態に追い込みます。どんなに認めたくない事実であっても、事実に服従するという態度が森田理論が目指しているところです。こういう態度が求められているのは、私たち神経質者だけではありません。自然科学者の場合は、事実を軽視・ねつ造することなどは絶対にあってはならないことです。本来の自然科学者は、あっと思うような発見をした場合、自分の発見が本物かどうか、納得がいくまで検証し、そして間違いなく新発見であることを確信した時点で論文にして公表します。ところが、事実を軽視する科学者はそのような検証作業を丁寧には行ないません。次のように見切り発車して考えるのです。「これはすごいネタだ。これが世間に伝われば、私の評判も高まり、研究費もたくさんもらえる。うまく特許がとれたら、その収入もすごいことになるだろう。それが何より大切なことだ。そのためには、先を越されないよう、ともかく一刻も早く発表しなくては。それもできるだけ華やかに宣伝して、世間の注目を浴びるようにしなくては」などと発想するのです。(出家的人生のすすめ 佐々木閑 集英社新書 一部引用)つまり本来の科学の目的である真実を解明するという態度が希薄になっているのです。確たる事実の確認よりは、世間に注目されることの方が優先されているのです。こんな気持ちになれば、事実の検証作業には手を抜くことが多くなります。その結果、実際には新発見でも何でもないことを、偉大な業績として発表する、などという失態を犯すことになるのです。その原因は言うまでもなく、科学者としての自覚の欠如、もっと言えば、社会的な肩書きや地位や名誉のことばかりにとらわれているエセ科学者の研究態度です。我々神経質者は、この事例から事実の大切さを反面教師として学んでゆきたいものです。
2018.07.11
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お釈迦様が2500年前に始められた正統派の仏教を踏襲しているのは、タイやミャンマーの僧侶たちである。この人達の目的は、出家して、自分自身で人生のあらゆる困難、生老病死などを解決することである。人間とは何か、よりよく生きるとはどういうことか、生きがいとは何か、苦しみや悩みとは何かについて考え続けている人である。その目的達成のため、一途に修行に専念している。生きるための仕事は全くしていない。食べ物は全てお布施によってまかなう。その他生活必需品は他人に依存しているのである。タイやミャンマーの人たちは、お布施をすると回りまわって自分たちに返ってくるという考え方をする人が多いので、お布施をする習慣が根付いている。だから、たくさんの修行僧がいるのである。修行僧たちはサンガと呼ばれる共同体の中で生活をしている。サンガを末永く維持していくために、「律」という何百という規則が定められている。修行僧たちは、この規則を厳密に守る必要がある。この規則を守らなければ、サンガを永久追放されてしまうこともある。例えば、自分で食べ物を作ってはいけない。他の仕事をしてはいけない。結婚してはいけない。財産を持ってはいけない。嘘をついてはいけない。等々である。「自分が悟っていないということを知っていながら、悟ったと嘘をつく」ことは、サンガから永久追放されます。最も重い罪です。なぜこのことが重罪に当たるのでしょうか。在家の信者さん達は、立派な僧侶で、あればあるほど、よりいっそうのお布施をするようになります。もしそのお坊さんが悟りを開いた聖人だとすると、われもわれもと、みんなが競ってお布施をしますから、衣食住のすべてにわたって、膨大な量の物品が集まってきます。ですから、もしもインチキで欲張りな心を持った僧侶がいて、 「信者からたくさんお布施をもらいたい」と考えたなら、 1番手っ取り早い方法は、 「私は悟った」と言いふらすことです。それだけで山ほどの食べ物、飲み物、着物や、豪華な住まいが手に入るでしょう。しかし、その僧侶は本当は悟っていないのですから、それは明らかに詐欺です。嘘で人を騙して、多くの物品、財産をだまし取ったのですから、正真正銘の犯罪行為です。このように、サンガでは、出家者が社会に対して虚偽の成果を申告することで、利得を得ようとする事は厳しく諫められているのです。(出家的人生のすすめ 佐々木閑 集英社新書 165頁より要旨引用)このように考えれば、日本で起こったSTAP細胞問題、日大アメフト問題、日本レスリング協会の問題、森友問題・加計問題などはどう考えたらよいのでしょうか。お釈迦様の正統派仏教では、こういった事実を隠したりねじ曲げたりする行為は重罪になることは明白です。仏教なら出家世界からの永久追放になるのですから、これらは科学の世界、教育の世界、政治の世界から永久追放になることでしょう。それらを許せば、お布施を基本にした僧侶の修行は成り立たなくなるのです。科学の世界、教育の世界、政治の世界でそのようなことを許せば、不正な自己利得を求めて、利権がらみ腐敗まみれになって国民の信頼感を失ってしまうのです。嘘をついて信頼を失った科学、教育、政治の世界がどういう行く末をたどっていくのか明白であります。証拠がなければ何とでも言い逃れがができると考えるのはいかがなものでしょうか。またほとぼりが冷めるのを待つという態度には嫌悪感さえ覚えます。人間はこんなにも愚かな面があるのでしょうか。我々森田理論学習をしている者にとって、事実を隠さない、事実をねじまげないことは大変に重要なことです。どんなにイヤなものであっても、どんなに理不尽な事実であっても事実をありのままに認めていくことは森田理論の根幹にかかわります。これらの事例から、反面教師として学んで、事実に対する自分の立ち位置をしっかりとしたいものです。
2018.07.10
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